楡男
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2022/12/27 (Tue) 01:29:24 陽に当たれば赤くなる

自分が自分らしくいられること、それが人間にとって最も大事なことだ──ということを最近はよく考える。〈自分らしくいられる〉こととは、言い換えると〈自由である〉ことであり、その「自由」は第一に思想の自由である。邪魔されずにものを考えられること。自分が自分としてものを考えるそのプロセスが妨げられないこと。ものを考えるプロセスを妨げるものとは、私の場合はたとえば雑踏の騒音だったり、スマホを覗き込んでくるかもしれない人の目だったりする。だから私にとっては、一人暮らしのアパートの自室こそが第一の〈自由になれる場所〉だ。一方で、人によっては、何でも気兼ねなく話しかけられる他者──友人、恋人、家族など──がいることが、自由になれる条件、つまり自分らしくいられる条件である人もいるかもしれない。思いついたことをその場で話す。言葉が返ってくる。それによってさらに新たな言葉が生まれる。考えるためにそうした契機を必要とする人もいるだろう。(私自身も、そうした契機をあらゆる意味で必要としないということは決してない。)そうした人は、今ここで描写した私のありさまとは反対に、人間がそばにいることで解放されるということになる。いつも誰かと一緒でないと外出しない人がいるが、そういう人は、他人といることによって解放される人なのかもしれない。

2022/11/23 (Wed) 22:37:23 プライベートハムレット

祭日(勤労感謝の日)。今日は〈無理をしない一日〉だったなと思う。無理せず過ごすことには、特有の気持ちよさがあることを発見する。肩肘張らない服装、痛い時に痛いと言うこと、装身具を自発的に外すこと、カップ焼きそばを半分残して夜に仕立て直すこと。寄り道を一件諦めること。駅のベンチに座りマックスコーヒーを呷って心底たまらないという顔をすること。轟音の電車の中で無理して本を読まないこと。(この列挙のそれぞれの中で私が具体的に何をしているかは意図的にぼかしている。)無理をしない選択を重ねることによって、生きることの爽快さが段違いにあがる。

2022/11/06 (Sun) 23:44:09 社会の窓があいた日

Twitterがイーロンマスクに買収されて大変なので日記を書く。Twitter終わるかもしれないからね。いや別に終わる予定があるわけじゃないけど、従業員の半数が解雇というニュースのインパクトは「何が起こってもおかしくない」と思わせるに十分だった。

個人的には140字に縛られずに文章を書きたいからTwitterの利用が制限されるのは歓迎できる面もある。何か思うことがあるときにここに書かずにTwitterに書くのは第一に意志の弱さだ。意志の弱さをカバーするためにTwitterが終わるというのは目的に対して手段が大掛かりすぎるが、まぁしかし私にとってはそういう意味をもつ出来事でもある。

今日は昼に起きてLaTeXの導入に時間を費やしていた。何に使うかは……、読書メモでも作ろうかな。それからPocketに溜め込んでいた情報の整理とか、家計簿の記入とかをしていた。

もうめったに書かないんで何を書いていいかわからなくなる。言葉が止まる。最近、『聞く技術 聞いてもらう技術』という本を、歯磨き時間で読んでいる。なんでも、ひとは人の話を「聞く」ことができなくなっており、その原因は、自分が話を「聞いてもらう」ことが欠乏しているからだそうだ。出版社の紹介ページの請け売りです。なんか私にも当てはまる気がする。私は話を聞いてもらっていない──という自己認識がある。それどころか話を聞いてもらえるとしても、何を話したらいいかわからない。聞いてほしいことがある気がするのにそれを語る言葉をもっていない。聞いてもらわない時間を重ねるうちに、話す言葉が退化したのだ、と考える。自分が話を聞いてもらっていた記憶。小学生から中学生の頃にかけて、テレビを見ながらとか、一緒にやっているゲームのこととか聞いている音楽のこととか、とりとめのないことを思いついては弟に言っていた。弟はそれを聞いてくれた。決して否定することなく。

今思うと何かの力関係が働いていたと振り返らざるを得ない。なにか反対したり口を挟んだりする余地を与えることなく、私は彼に一方的に言葉を浴びせていたんじゃないか。

ただ、そうして話を聞いてもらうことを、私はそのとき切実に欲していたのだと思う。実際にそれと意識することはなかったものの、もしその時間が確保されていなかったら、私の未来は今とは大きく違うものになっていたような気がする。そして、私が弟「には」話すことができた理由は、その一番大きいものは、彼が私の言うことを否定してこないからだった。(もう一つは、一緒に過ごした時間が長いから、おのずと共通の話題が多かったということがある。これも重要な要素だ)

なんだかわからないが私は自分の言うことが他人に否定されることを人一倍忌避している。少なくとも小学生の頃からそうだ。当時、なにか作文にも書いた気がする。否定されることの苦しみ……みたいなことを。「他人に否定される」という言い方には、自分の意見と自分自身との同一視がひそんでいる。「自分が否定される」というのはよくわからない表現だ。「自分」なるもののカテゴリがはっきりしていない以上、それが「否定される」と言われても何のことかわからない。けれど自分がそれを恐れていることはリアルだ。歳をとって、その恐怖と付き合うすべを少しずつ身につけてきた。仕事の打ち合わせや友人との会話の中で自分の考えに否定的な意見をぶつけられることは日常的にある。そのたびに別に落ち込んだりはしない。けれど、〈否定されるかもしれない〉という予期が私を踏みとどまらせることは今もある。

2022/09/12 (Mon) 01:56:32 親知らずは子知らず

人に言われた言葉の意味を考えている。繰り返し立ち戻る。「あれはどういう意味だったんだろう」答えは出ない。考えは進まない。ただ、同じ疑問文に何度も戻ってくる。

「どういう意味だったんだろう」は「どういうつもりだったんだろう」で、つまりそれは自分とその人がどういう関係なのかという問いで、しかもどういう関係を事実として切り結んでいるかというよりはこの関係をどのような関係として相手方が了解しているかを問う問いで、卑近な言葉で言い直すと「私はその人にどう思われているんだろう」という問いだ。

あの人にとって私は何なんだろう、何でありえるだろう。その問いは、同時に、私にとってあの人はどういう存在なんだろう、どうあるべきだろう、という問いへと裏返る。論理的にではないが、必然的に。

でもやっぱり答えは出ない。答えが出ないということ自体が何かを語っている気がする。耳をすます。……(聞かなかったことにする)。

2022/08/23 (Tue) 23:50:42 こめかみ免除

疲れすぎている。なんだか知らんけど疲れ過ぎてる。仕事をしたくないという気持ちが毎秒現れる(誇張法)。死にたいという言葉が口をついて出る。口からは出てこないけど心に浮かんで消える。毎分毎秒。誇張法。でも5月にどんと落ち込んで以来の大きな落ち込みだな。お盆に6連休取ったけどそれで癒えるストレスではなかった。仕事で残業が常態化していて。原因はわかってる。死ぬほど忙しいというわけではないがほどほどそこそこに忙しい期間があまりに続くので削り取られているのだと思う。ぼくにはわかる。何が削り取られているのか? ひとによってはHPとかMPとか言うだろう。そういう曖昧なやつ。でもわりとはっきり見えている。経験上。そんなわけでこの日記を書いている。Twitterは独り言を言うには向いていない。少なくとも言いたいだけ言うには向いていない。気軽に愚痴を言える友達がいない。恋人もそういう家族もいない。これは「いない」のが問題なのではなく親しい人に親しく接することができない私自身の資質か何かの問題でもある。しかしそれはそれとしてそうなので、行き場所がないのでこのホームページに掲載する文章を書く。いま行き場所と書こうとして「息場所」「生き場所」と変換候補が流れていった。意味わかる。息場所も生き場所もない。自室は安全な場所。しかしそこからどこへも行けない。心が沈んでいるときほどそう思う。何にも頼れない。どこへも行けない。解決方法はない。死にたい。その言葉は短絡の産物だ。「死にたい」が降ってくるとき、その言葉は感情と未分のものだ。状況に反応して直接に出てくる。理性は介さない。鳴き声のようなものだ。だから「死にたい」に「何故」と返すよりは、その周囲で何が起こっているのかを見た方がよい。

2022/08/15 (Mon) 18:03:34 塩ビグラム

模様替えしました。実はかれこれ去年の頭ぐらいからリニューアルじたいは考えていて、何度か中断がありながら作業を進めていたんですよね。そのとき企んでいたのは、IT企業に勤めて多少知識もついてきたことだし、自前でブログシステムを作ったら面白いのでは?と考えてPlay Frameworkを導入してあれこれ試していたりしたのですが、開発にかける時間があまりとれなくて(≒作業しようという気持ちになる日がそもそも多くなくて)、去年の9月ぐらいを最後にそのプロジェクトは触っていなかったんですよね。そして最近の気持ちとして、自分の人生におけるITの優先度ってそこまで高くないな、自分のアイデンティティの中核に来るものではITはないなと思うようになり、では当初のプロジェクトであるブログシステム構築は諦めようと決断した次第です。そしてWebアプリケーション部分は放棄されたものの、新しく作ったページデザインはそんなに悪くないなと思えたので、お盆の連休の暇にまかせて模様替えする気を起こしたというわけです。このサイトのシステム化はもうやらないと思う。HTML/CSSと初等的なJavaScriptしか使わない。頻繁にメンテナンスしないという前提のもとで、コンテンツを長期にわたって閲覧可能にするにはそれが一番いいと思いました。

2022/07/07 (Thu) 01:26:18 チュアブルな未来

仕事中は翻弄されている。コントロールするのではなくむしろ流されている。コントロールしていることは快適だ。翻弄されることは苦しみだ。コントロールできている状態を私は夢見ているが、しかし実のところ仕事をしている時間の中でコントロールできている割合の方が多い人のほうが珍しいのだろう。だから、コントロールできて然るべきなのに、なぜ、と考えるべきではないのかもしれない。もしかしてどっかで聞いた比喩をあたかも今思いついたかのように語ってしまうのかもしれないが、仕事の時間は一歩ずつ着実に進む歩行というよりは水泳のようなものであって、水をかかなければ沈んでゆくし体勢を崩しにかかる波も絶えずある。そこでバランスを、バランスを(俺の嫌いな言葉!)……とりながら、うまく息継ぎもしながら進んでゆくのが仕事というもの……生活と同じではないか。外圧が多いところが違うが、しかしこう見てみると仕事とは生活の縮図のようなもので、生活の中に小さな生活が埋め込まれているかのようである。駄文だと感じている。今日はほんとうに何もやる気が出なくて、なおかつやる気のなさに任せて仕事をサボることが許される状況下にあって、サボってる自分も辛いんだよと開き直るまではしなくてもよいがサボっている自分が特段悪人だとは思わないことにした。

2022/06/24 (Fri) 21:21:56 東海道中茎わかめ

仕事を退勤して(……この日記でさえ、言葉が出てきにくくなったのはいつごろからだろう。大学入ったあたりかな。)、(複線的に伸びていく思考を、)今日は    金曜日は、一人でいるという感じが他の曜日より強い。より正確に言えば、他の曜日ではしない感じが、金曜日は主題としてせり出して感じられる。今日は、……しかし人と話す機会はあったんだけどな。仕事の打ち合わせで。それとはおそらく関係なく、金曜日は一人を感じる。それはどちらかというと、快適な空虚感だ。仕事にはあまり身が入らなかった。日本語を書くのに不自由を覚える。仕事にはあまり身が入らなかった、ということは簡単に書けるが、しかし私にはここでは語られていないことがある。それは一日の中でひととき脳裏をよぎる。はっきりと言葉になっている。しかし、仕事を終えた身体をMac Miniの前にもってきてテキストエディタを開いて、あのとき脳裏をよぎった想念を呼び戻そうとすると、釣り糸にかからない獲物のように何の返事もない。

仕事で人と話すとき、いやそれ以外のときも、しかし仕事で人と話すときにとりわけ、すごく言葉が出てきにくい。頭が思うように回転しない、そのこともあるが、それよりも、なにかすごく言いにくいことを言おうとしているときのようなためらいがほとんどいつもある。実際、言いにくいことなのだと思う。なぜ言いにくいのかは私は知らない。いや、知っている。それは多かれ少なかれ一般的な目で見ても言いにくいことだ。解決へ向けて動き出すべき問題がある。真っ直ぐな滑走路に、小石が点々と落ちている。それを一つ一つ取り除いて回るのが、すなわち仕事というものだろう。それも知っている。知ってはいるが、いつも忘れている。小石一つない滑走路を思い描き、現実がそうなっていないことを知ると疲れを覚える。

幼少の頃を思い出す。全能感があれば堂々と語れる。自分以外みんなバカ。合格ラインを軽々と超えている。夏休みの宿題を初日に終えている。そんな状態なら堂々としていられる。体力ゲージが満タン。冒険を始める前に敵は全部倒しておいた。そういうふうにしておきたいという欲求がある。これはたぶん遅くても小学校低学年の頃から抱いていた欲求だと思う。小学校3年生ぐらいまでは大して勉強しなくても定期テストで高得点を取れるような子供だった。でもせいぜいその頃までだ、無敵な気分でいられたのは。

そして私の言うことを無批判に受け止めてくれる聞き手がいれば。それも今はない。

思えば、人をストレートに馬鹿にするということができなくなった。もちろん、する必要のないことだ。しかしなぜか、それと入れ替わる形で、「生きててすいません」という雰囲気が出やすくなった気がする。人々の間で卓越していなければ自尊心が保てない存在なのだろうか。人々の間で卓越している、という仕方でしか、自尊心をチャージするすべをもたない存在なのか。

2022/06/23 (Thu) 21:31:21 連続米/離散米

最近は人と話す機会自体はあるんだけども(仕事で)、振り返ってみるにそれって〈話しながら考えを深めていく〉というよりは、〈すでに別の場所でこしらえておいたものを言葉に変換して出力している〉に近い感触のものであって、それはそれで緊張感ある営みではあるんだけども相変わらずそれだけでは〈自分〉が痩せ細っていって窒息してしまうなとトイレで反省した。……「自分」なんてそんなに大事なものかい、と私自身書いてて思うけれども、実際、一人でじっくり考える時間がもてないと人生に色がなくなってしまうというのは、何年も前に「彼女」がいたときの私の実感だ。

それはそれとして、今日Twitterで見かけた次のつぶやきを基点として今日は考えてみたい。

気候変動にせよ同性婚にせよ、批判したいならまっすぐ批判すればいいのに、わざわざ「意識高い」とひとまとめにレッテルを貼ってキャッキャしてるところではないでしょうか? 引用元

あなたは私が58歳男性だったら「キャッキャしている」とは書かなかったはずだ。そこには「女のくせに騒ぎやがって」という侮蔑の念がある。これをミソジニーと言うのだ。リベラルを自称しつつ、公の場で自らミソジニーを実践し、しかもそれをジェンダーニュートラル云々と開き直るとは恐れ入るな。 引用元

私が考えたいことに関係する最低限の部分だけを引用した。詳しく把握したい方はリンク先からたどってみてください。

何がミソジニーか、差別的な表現か、あるいはこの引用文とは直接関係ないが何がハラスメントかとか、は、実際問題、判断するのが難しい問題だ。いや、判断するのは難しくないが、それがいかにミソジニーであり差別であるかを他人に言葉で納得させるのは難しい。その要因の一つは、差別というものが、かなり複合的な要因を総合して、いわば〈頭で感じる〉ところのものであることだ。差別的と感じた発言について一つや二つのことを指摘するだけではそれを差別的だと万人に納得させるのは難しい。これは例えばポピュラー音楽の素養がない者に対して、今流れている音楽がファンクであると説明するのが難しいことと似ている(ちなみに私もよくわからない)。差別を差別と同定するためには、暗黙知も含めてかなり多くのことを知っていないといけない。ある図形を二等辺三角形であると判断するために1, 2の基準をチェックすれば足りるのとは事情が異なっている。

差別であることを証明するのは難しいので、ひとはやがて「差別かどうかは客観的に判断できない」と思い始め、差別かどうかを判定する簡便な尺度として〈言われた当人が差別と感じたか〉を採用することができないか品定めし始める。しかしその尺度の採用は、差別を「主観の問題」とし、その深刻さを小さく見せかける効果をもつ。

私の見解を書けば、「キャッキャしている」がこの文脈でミソジニーの発露とは思わなかった。ただそう捉える材料もあったと思う。まず、これがミソジニーの発露でないと思う理由。「キャッキャしている」はそれが描写している人間の性別や年齢に関係なく使う慣用表現である。おじいさんたちがキャッキャしているさまというのは違和感なく想像することができる。その一方で、この表現はおそらく女性たちが賑やかに話し合うさまを原風景としてもっているから、女性という概念に根付いた表現だとは言える。(もしかすると女性ではなく子供たちがモデルなのかもしれないが、その可能性は一旦措く。) しかし、〈女性たちが賑やかに話し合うさま〉を提示することがそのまま差別的になるのかと言えば、私はそうでないと感じる。かろうじて、男性と女性の差異を強調することにはなるかもしれないし、それはそれ自体として問題とすることは可能かもしれないが、しかし差異を強調することを通じて女性一般を貶めているわけではないだろう。なぜなら、〈賑やかに話し合う〉という女性のイメージが、なにか悪しき習慣であるという了解のもとで流通しているわけでもないし、またそうしたありさまに女性がなにか閉じ込められることで不利益を被ってきたわけでもないと私は考えるからだ。もちろんその根拠自体に反対する人もいるかもしれないし、そのとき議論といわれるものは始まるのかもしれないが、このサイトは別に誰かと議論する場所ではなかったし私がとりわけそのことを望んでいるというわけでもなかった。

2022/06/20 (Mon) 23:09:37 毛並みフーコー

こんばんは楡です。そう書き始めてみる。高校生の時分、このサイトを始めた頃に、いつもこのようにして名乗りから書き始めていた。それが話の皮切りになる。呼び水になる。そう信じていただけでなく実際にそうだった。

今日はTwitterに書き込むのを控えて日記を書くことにした。ある程度の息の長い言葉を紡ぐ筋力を、鍛えたいと思ったからだ。言葉で過去を引っ張り上げる筋力を。暗闇を手探りで進んでいく体験を重ねようと思った。

今日のニュースでは、全国5箇所で同時に提起された同性婚訴訟の、大阪地裁の判決が出ていた。

同性同士の結婚を認めていない民法や戸籍法の規定が憲法に違反するかが争われた訴訟で、大阪地裁=土井文美(ふみ)裁判長=は20日、規定に憲法違反はないと判断し、原告の同性カップルが求めた国の賠償責任は認めなかった。

婚姻は男女が通常の解釈 「同性婚不受理」合憲の判決要旨 (毎日新聞)

これを少し今読んでみていたんだけど、婚姻は法文上男女間のものとされているのだから同性間の婚姻というものは定義上考えられないという理屈が入っていて、これは夫婦別姓訴訟の最高裁判決でも似たような理屈を見たなあということを思い出した。(関連記事の日付見てて気付いたけど、これもちょうど去年のいまごろでしたね。)

[...] 民法及び戸籍法が法律婚の内容及びその成立の仕組みをこのようなものとした結果,婚姻の成立段階で夫婦同氏とするという要件を課すこととなったものであり,上記の制約は,婚姻の効力から導かれた間接的な制約と評すべきものであって,婚姻をすること自体に直接向けられた制約ではない。

最高裁判例(PDF)

このあたり。すごく要約して言うと、「そういう制度だから」といって違憲の訴えを斥けているんですよね。今回もこれと同じ構えをしていて、婚姻というのは男女のもの〈ということになっている〉から、男女ペア以外の2者が婚姻を結べなくても違法にはならないという理屈。法解釈としては正しいのかもしれないけど、しかし原告側はそれを覆そうとして憲法を持ち出して訴訟をしているわけなので、これは原告の訴えに正面から応答していないように思える。もちろん、そのあとで、現行の婚姻とは異なるが同等の法的効果を持つ制度(パートナーシップみたいなものかな)を創設する可能性には言及していて、結局立法府に水を向けるような結論になっているんだけど。それも含めて夫婦別姓訴訟と同じ形の話になっているなぁ。

2022/06/12 (Sun) 13:55:17 夜霧のベストエフォート

表立って言いにくいことはTwitterに書くのは難しい。ブログサービスに書くのも気兼ねする。〈見られている〉意識が強いからだ。よってここに戻ってくる。

DKC Speedrunsというサイトがある。(これも「気兼ね」で、リンクはしないので、興味のあるかたは検索してみて欲しい。)簡単に紹介すると、『スーパードンキーコング』シリーズのRTAを走ろうとする人に役立つ情報をまとめたサイトのようだ(「ようだ」と言うのは、紹介している私自身がこのサイトをさほど詳しく見ているわけではないからだ──気兼ねする所以である)。

ここまで書いて、自分の、よく知らないものを題材にして何かを語ろうとする厚かましさに嫌気が差してきた。そこまでして語ろうとするべきことなのだろうか。自分のまだしもよく知っている題材を取り上げるべきではないか──とも思うのだが、しかし自分の生活の中で出会った実際の題材が DKC Speedruns なのだから、何か別のダミー題材に差し替えて語ることは嘘になるし、多少ぎこちなくもなるだろうし、そもそもそこまで文字数を費やして悩むほどの問題ではない気がしてきた。

言おうと思っていたこと──自分が「英語を読めてよかった」と思うのは、たとえばこういう情報源にアクセスできることに対してだったりする。まぁ、なんだっていい。英語の小説や漫画が読めることでも、技術文書にアクセスできることでもいい。世界が広がる。それだけのこと。でも英語を勉強していないより勉強した状態の自分の方が、よかった。と思える。

そこでツッコミを入れる自分もいる。「でも、知らなくたって死ぬわけでもない、自分の人生においてどちらかといえば明らかに脇役に位置付けられるはずのWikiに数分滞在して内容を読み取ることができることの、それっぽっちのために、何千時間もの時間的コストを費やして英語を勉強してきたというのは、『英語を勉強してきてよかった!』と胸を張って言えるほどに収支の釣り合う話なんだろうか?」 かれこれ中学時代からの英語学習のコストに対して、リターンが「DKC Speedrunsを読める」ことだけだというならば、確かにこれほどコストパフォーマンスの低い投資はないと言える。

しかし自分の投資が間違っていたとは思わない。(その理由の半分は、それが自分の通過してきた教育課程に英語という科目が組み込まれていたという受動的なもので、要するに自分の選んだことではないから「選択として適切だったか」という問い自体が意味をなさないと言っているわけなのだが、それは一旦置いておく。) 英語を勉強しないより勉強した人生のほうがよい人生だったと言える。それは英語の勉強それ自体が楽しいことだったという理由もある。語学学習は道具を身につけることであるだけでなく、おそらくそれ以上に、世界について具体的な知識を得ることだった。同じ事柄について日本語と英語では表現の仕方が違うこと。文法というしくみ。語源。綴りと音の対応と不対応。つまり純粋な投資ではなくそれ自体がリターンでもあった。なおかつ、そうして得た知識を利用して情報源にアクセスすれば、さらに新たな知識が得られる。しかも、そのテキストを読む中で新しく英単語を覚えたり、英語特有の言い回しに感心したりと言語についての知識も増えていく。ちょうど複利の恩恵として言われるみたいに、雪だるま式に知識が増えていく楽しさもあった。

……このように考えてくると、私は英語を使って何かしてやろうという野望があったわけではなく、単に見える世界が広がることがうれしかったし、同時に言語そのものについての興味もあったから英語学習について前向きな捉え方ができたのだろうと思う。

2022/01/16 (Sun) 20:54:04 親知らずは子知らず

夕食に寄ろうとした店が定休で、時間の流れにぽっかり穴が空いてそこへ入り込む。そんな時間の中で私は日記を書く身体になっていく。夜はさみしい。いまや特殊な精神状態のときでなければ日記を書かない。正確には、日記を書くような特殊な精神状態になる頻度がいまはめっきり下がった。今日の夜はさみしい。ひさしぶりのこの感じ。近所のとある店につとめている人物に、その人の容姿に私は格別の好意を寄せていて、と書くととてもおかしい。好意を寄せているとは言いたくない。ただなにか高評価で、取り扱いに注意が必要な感情なのだ。その人物とすれ違って、すれ違うその瞬間にその人であることがわかって、胸に電気が走ったような心地がする。高校生の頃に初めて体験したその感覚が生き続けている。その人にはどう思われてもいいわけではない、いいかげんではよくない、言葉にならない仕方でそう意識する。そのときの感覚だ。それをとても久しぶりに感じたものだから、何か書かずにはいられない気持ちになったのかもしれない。この話はどこへも行かない。何にも発展しない。ただここで言葉になるだけ。

Mr.Children の「CROSS ROAD」を近頃よく口ずさむ。歌のことばに対する私の接し方は、お経に対するそれと同じだ。そう思った。意味はわからないが口が覚えている。意味はわからないが、それでなければならないものとして承知している。歌のことばの意味に注目し、こだわりを抱いていたのは高校生の頃までだ。あの頃は、あの頃だけは、言葉に自分の大きな部分を託していた。

また別の話。現実は思い描いたことをつねに離れていくということを思う。狙えば狙うほど離れる。Mr.Children の「CROSS ROAD」を口ずさむと気持ちよくなる。頭の中でも流れてリップシンクのようになる。カラオケで歌えばもっと気持ちよくなるだろうと思う。正確には、カラオケで歌うことで〈Mr.Children の「CROSS ROAD」を口ずさむ〉という行為は完成態となる、そう前提している。でも実際歌うと、鼻歌歌ってたときがピークだったんだなと気付く。それは単純に、現実世界のことを私が十分に知悉していないだけだ。現実の本性は狙ったところを離れていくことだ、といったことを言いたいわけではない。現実は私の頭脳では読み切れない程度に十分に複雑だというだけだ。それでも私は死なずに生きているし、それなりの勝率で〈狙った通りに気持ちいい〉を現出させることにも成功している。それは文化の賜物に与ることによってである。人類史の中で行われてきた無数の取り組みの中で成功したものが文化として残る。スパゲティペペロンチーノ。オリーブオイルでにんにくを加熱し、とうがらしを入れる。塩茹でしたパスタをそこに和える。その型を踏襲すればだいたいの場合はそこそこ満足のいくものができる。常勝パターン。同じようにカラオケにもレシピがあるはずで、そこでは鼻歌の上位互換としてカラオケを捉えるのはおそらく正解ではない。ではカラオケをどうすればいいのかを上手に語ることは私にはできない。みんなで言ってワイワイ楽しむ? 私は一人カラオケのことを言っているのです。