あらかじめ明るみの中にあるもの *1
本稿は、俳句短歌We社から二〇二四年に刊行された川柳集『のんびりあん』の句集評である。全六章に構成された川柳と連作五本から本書は成り、著者としてしまもと莱浮、祝 藤七郎、リチャード・テイラー、あでのしんの四名が名を連ねている。
本書には、普段の生活からするとなじみの薄い単語が多く含まれている。章や連作のタイトルからいくつか引けば、「ヘリオトロープ」は紫または白の花をつける香草の名前。「テールベルト」「ジョンブリアン」は顔料の名前で、それぞれ苔のような緑とオレンジがかった黄色を発色する。
川柳を読むときに、辞書を引いてわからない単語を調べることは日常茶飯事だが、本書で使われる語彙は辞書に記載のない雑学やカルチャーにも広く及んでいる。ウェブ検索で手がかりはつかめるものの、それでもすぐにこれと確信できないものは多かった。「ギーベンラート」 (p.51) は映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の登場人物? いや、ヘッセ『車輪の下』の主人公の名前か。「豊後谷」 (p.66) は、人の姓にも存在するが、熊本県上天草市にもこの地名がある。「グジャッペダルケン」 (p.67) にはドイツ語のような匂いを嗅ぎ取りつつ、調べてみると熊本県の民謡「おてもやん」の一節だという。
困るのは(と一旦断言してしまうが)、こうした「元ネタ」が判ったとして、それで個々の川柳が読めるようになるかというと、別にそんなこともないという点だ。普通のテキストは、そこに含まれる単語の意味が分かることで、テキスト全体の意味にも接近することができる。多くの川柳も例外ではない。ところが、本書の川柳はそのアプローチを受け付けない。部分の理解が全体を読み解く鍵にならないのである。
いや、「鍵」という考え方がそもそも間違っているのかもしれない。それぞれの句語が、句に従属するものではなく、それ自体が「書きたいこと」、「答え」だとしたらどうか。答えは解くまでもなくあらかじめ目の前に露出しているのである。
そう思うと、章タイトルの「ダンゴ虫ヨロレイヒ」も、そう書きたかったから書いた、ということに尽きるのかもしれない。あるいは、「有野市外」 (p.22) は、はじめ有野市という自治体が日本のどこかにあるのかと探したが、本書と同時に発行された『『のんびりあん』Aノート』によれば、「ありのしがい」を任意に漢字に置き換えたものだという。一種の韜晦だったわけだ。こうして眺めてみると、謎めいた外見とは裏腹に、茶目っ気のようなものすら感じられてくる。
単語の「わからなさ」に着目すると、晦渋で高踏的な印象を持つかもしれないが、まずは「登場人物の多い、にぎやかな句集」ぐらいに受け止めてみてもいいのではないだろうか。
本稿の残りでは、句集全体の把握から一つ一つの句へと目を移し、川柳単体での鑑賞に紙幅を費やすことにする。直後でも触れるが、川柳の醍醐味はそこにあると私は信じているからである。
ここで、川柳──特に、本書で展開されているような、「一見何を言っているのか分からない」タイプの作品。以下同じ──の「読み」について、本稿の立場を明らかにしておきたい。というのも、現状、川柳の世界においては「読み」についてコンセンサスの取れた見解はないように思われる。したがって個々の論者が自らのスタンスをおのれの手で明確にする責を負う、というのが私の考えである。
川柳には五七五の十七音(七七や自由律などの変則形もあるが、ここでは省略)しかない。しかも季語のような外部貯蔵庫ももたない。この制約により、川柳は致命的に舌足らずな表現形式となる。句は「誤解」の可能性に絶えずさらされる。しかし、この誤解の可能性こそが川柳の独特のおもしろさの条件であると私は思う。言葉が意味すべきものを意味しそこねること、あるいは意味するつもりのなかったことを意味してしまうこと、こうした言葉の意味の〈破れ〉に川柳の独特の詩情は宿る。
したがって、本稿で提示する「読み」は、必ずしも作者の意図と一致しているとは限らない。というより、一致することを重視していない。作者が自分の思いや見解を過不足なく十七音に乗せることは不可能もしくは極めて困難であり、その前提のもとで「読み」を立ち上げるべきだと考えているからである。
前置きが長くなった。以下、特に面白いと思った句に鑑賞をつける。句の後に括弧書きで掲出ページを示す。
悔しさも全部SUGOCAにチャージする(p.19)
SUGOCAは、JR九州による交通系ICカード。よりメジャーな「Suica」としなかったのは、第一に地域性──作者にとってそれが身近、リアルだったということ──が理由なのかもしれないが、その点を措いても、SuicaにもICOCAにもnimocaにもない言葉上の必然性がこの単語選択には備わっている。つまり、「スゴカ」という名前がついているほどだから「悔しさも全部」受け止めてくれるのだろう、という身も蓋もない直観である。名が体を(表すのではなく)つくるということ。ある意味ではくだらないが、こうした〈言葉の表面的な力〉は、句語を解釈するよりも速く読者に届き、納得をもたらす。川柳の最大の武器だと思う。
かといって、《すごさ》にもたれかかり、それですべてを説明しようとするほど力任せな句ではない。「悔しさ」だけでなく、他の感情やその日の記憶もひっくるめて「全部」チャージするのだという言い方には、行為主体の思いがにじむ。有り金を全部つぎ込む、というような言い方にも見えてくるだろう。句が表す世界全体が思いを反射させており、その中でこそ「SUGOCA」という措辞の説得力も生きてくるのだ。
駅の屋根から肩がはみ出す(p.27)
「駅」と(誰かの)「肩」という、物と物同士の物理的関係だけが示されている。「駅」の具体的なすがたや、そこから「肩がはみ出す」存在者とはどんなものかという想像に読者は導かれる。
屋根の大きさと肩のスケール感がおおむね一致しているとすれば、巨大ロボットのような存在が駅の中から立ち上がることで、屋根の一部が破壊されてロボットの肩が露出する、といったダイナミックな景が立つ。一方で「肩がはみ出す」というありさまからは、⼥性が着るような肩あきのトップスを思わせるところもあり、チャーミングさも同時に感じる。両義性が魅力的な句。
啓蟄の耳は出してください(p.29)
「耳は出してください」がまずひとかたまりとして感じられた。したがって、「啓蟄の」の「の」は、「啓蟄において」ぐらいの響きに受け取った。啓蟄という一過性の出来事に備えて「耳は出してください」という声が、なにか注意事項を告げるアナウンスのように響く。それと関係あるかないか、啓蟄という言葉からの連想で、地面から人の片耳だけが出ているさまが目に浮かんでくる。
しかし、それよりも、この句のポエジーの核は「啓蟄の耳」というフレーズのほうだ。初めて聞いた言葉の組み合わせなのに、昔からあった日本語のようななつかしさがある。それが句全体に真実らしさを与え、読者を読みという行為に導く。
藩内の盆踊り派とパラパラ派(p.50)
藩というから舞台は江戸時代であるはずで、一九八〇年代に第一次ブームがあったとされる「パラパラ」との時代的なミスマッチがまずは明白なツッコミどころ、つまり面白がりどころとなる。
しかし、真に奇妙なのは、盆踊りとパラパラの二つのカテゴリで「踊り」をざっくり分類できるという発想、しかも、その二分法でもって「藩内」を分断しうるという(政治的な?)見立てのほうではないだろうか。おかしな世界が描かれていると見せかけて、実は世界の把握のほうに異変があるのだ。複層的なおかしみがある。
呼吸からみる金本位制(p.52)
本稿では七七のリズムの句を多く引いたが、これは評者が句を選択した結果こうなったというだけで、句集全体における分布を反映したものではないことを付言しておく。
掲出句は、「呼吸-みる」の部分からは心肺蘇生法の一手順を想起する。だから「診る」と言っているようにも聞こえる。その一方で「からみる金本位制」の部分に目を向けると「解釈する」という意味の「みる」だとも感じられる(「貨幣思想から見た金本位制」という題の論文が実際にあるそうだ)。見る角度によって全く違う像を見せる絵の、その複数の像が同時に見えているような句。
屈強な雨男どもばかりです(p.59)
撞着語法のような「屈強な」「雨男」という二語のぶつかり合いがまずは読みどころ。「ども」という無礼な接尾辞は「屈強な」のトーンを補強している。 しかし、この二語は見た目よりも近いところにある言葉だ。「雨男」は本人の意志で雨を降らせているわけではなく、だから雨をコントロールしているようでいて実はされるがままになっているという皮肉を含んでいる。また、「屈強な」には、動的というより静的なイメージがないだろうか。たとえば「乱暴な雨男」とすればいまにも暴風雨をもたらしそうだが、「屈強な雨男」は自分の持てる能力を内に滞留させてまだ発揮せずにいるような感じがする。屈という字のせいもあるだろう。このように、相反するもの同士を衝突させているようでいて、実はそれぞれの語は相互に通じ合ってもいるのだ。
「どもばかり」は意味に重複があり、洗練という観点から本稿に掲出するのを迷ったが、音として面白く、捨てがたかった。濁音が多いことも手伝って、言い淀むようなくぐもった手触りを感じた。