ジョギングの帰り。自転車に乗った人とすれ違いざま、カードのようなものを落として行ったのを見た。あまりに軽やかだったので紙製のポイントカードのような取るに足らないものかと思ったが、近寄って見てみるとICカードだった。拾って追いかけた。まず自分がとっさに出せる限りの大声を出した。効果なし。走って追いかけたが自転車との距離は縮まない。そのあいだ走りながら言葉を考え、何度か声を出して呼びかけた。自分はイヤホンをしていたのでどのくらいの声が出ているのかわからなかったが、声が小さいことがコンプレックスでもあったのでさほどのボリュームは出ていなかったのかもしれない。とっさのことだったのでイヤホンを外すことも忘れていた。手に持っていた松屋のテイクアウトの袋をかばうことも忘れた。マスクを外すことは思いもよらなかった。とっさのシーンにおいて、普段は通常サイズの重みをもって現れていることがらがすっと軽くなって背景に消え去る。そんなことも久々に経験した気がする。
100メートルか200メートルほど走ったところで自転車のスピードが落ち、やがて信号待ちのために停車した。そこでICカードをようやく渡すことができた。その人がはじめて振り返ったのもそのタイミングだった。まぁ無理はないのかもしれない。そもそも声が出ていなかったのかもしれないし、出ていたとしても、現代の常識からすれば、路上で大きな声を出して追いかけてくる人物に気付いたそぶりをすることはある種のリスクをとることを意味する。自分自身も立場が逆転したならば同じような行動をとるだろう。ただまあ追いかける側からすれば少しは気付いてくれよという思いは生じるのだった。
私は足も速くないしさきほど書いたように声の大きさにも自信がない。また人を立ち止まらせる適切な声かけの言葉を思いつく瞬発力にも欠けている。拾ったICカードをその人のもとに届けられる勝算は高いとはいえなかったし、届けるのに失敗した場合それを交番に運び預けるという新たなタスクにつながっていく。実際、3回くらい声かけをしてものれんに腕押しで自転車との距離も開いてきたとき、近くにある交番の場所を脳内でサーチし始めていた。それを自分は〈引き受けた〉んだな、と、あとになって思った。それが自分としては少し意外だったのだ。
散歩に出る。外を歩く。そのあいだ何かを感じている。その〈何か〉が何であるのか。言葉になることはない。それを言葉に言い表すことはほとんど絶望的だとも感じる。言い表し得ないけれども確かに感じていること、それはどんなものだろうか。それは感情ではない。それは具体的事実ではない。それは音の聞こえ方やものの見え方、匂いや味などではない。想起された記憶でもない。しかし確かに感じている。地に足のついた実感。それはある種の充足感とともにある。ここに存在することの実感。……さっきから、これを書いている私の頭の中にちらついていること。ハイデガーという人の考えたことは、今私がその周りをぐるぐる回っているところのものに直接の関係があるのではないか。きちんと読んだことないから予感でしかないが。しかし、その正しくないかもしれない予感もまた私の思考の一部をなしている以上、故意に書き漏らすのは難しかった。
個々の存在者の様態というよりも、存在者がそもそも存在するということにまつわる〈感じ〉なのではないかという直感がある。何かがあることへの驚き。日々、散歩に出る。同じコースを歩く。しかし、日々、違う景色を見ている。初めて歩くようにして歩き慣れた道を歩く。存在と出会い直している(ハイデガーの用語法をすでに踏襲していない)。
とにかく、読まなきゃなあと思い直すのである。何千回目か。
午後6時過ぎ。半袖のシャツを買いに、在来線に乗って街へ出た。人に会うということを考えたときに、いま着回している何種類かのシャツは、なんだか子供っぽかったり派手すぎたり悪趣味だったりして、ちょうどよいものがなかったのだ。TPO。TPOというものを考えるようになった。電車の中でスマホでネット記事を読もうとして、近くでおしゃべりする誰かの父親の声に妨げられて失敗した。ちなみに帰りの電車でも読書に失敗している。向かいに座った男性がスマホを見ながら、もう一台のスマホをしきりに腿に叩きつける動作に注意が奪われた。街は、そして街の拡張たる電車内は、注意リソースを奪う要因に満ちている。動くものと話し声にとりわけ私は弱い。これはコロナ禍になって自宅での活動が中心になってから顕著になった傾向ではあるが、もともと抱えているものでもあった。その証拠に、キングジムのデジタル耳せんを初めて導入して効果を実感したのはたしか2019年の冬だ。(あのころ目の周りのアトピーがひどくって辛かったな)
書き始めるといつも余計なことに話が逸れていく。統制しようとはしない。日記を書くときの自分に必要なのは統制ではないと知っているからだ。
帰りに近所のスーパーに寄った。無数に並ぶ蛍光灯の白い光の中で、自分が憂鬱になったことを悟った。週末はよくこうなる。2つ前の日記も憂鬱のことだったっけ。近頃なりやすい。これは恋ではなくてただの痛み(ピチカート・ファイヴ)。「死にたい」と書いた箱がピコーンとポップアップしてくる。虚無。これは心の癖のようなものか。語彙がないから、考える踏ん張りがないから、いつも同じ結論に瞬時にたどり着くのか。スーパーを出て、家までの10分弱、暗闇の中を移動する身体が少し気持ち良くて、写真を何枚か撮った。
もう一つ、書こうとしていたことを思い出した。高校時代好きだった人を街で見た。それは嘘である。同一人物である可能性は極めて低い。要するに似た人を見たということだ。ただ私の意識下では、まさにその人を見たことになっている。後ろ姿とほんの少しのぞく横顔を見ただけで、ごく外形的な特徴が一致したというだけなのだが(そして実際のところ、その特徴が一致する人物は街を小一時間でも歩けば一度や二度は出会っていておかしくないようなありふれたものなのだが)、しかし私は遠い記憶の彼女のことを思い出し、彼女の人物像をその姿に重ねたのだ。
(書いてて自分で我慢できなくなったので言ってしまうが、30過ぎても高校時代の初恋の人に対して格別の思いを抱いているのは本当になんというか、なんだろうなという気がしてしまう。)
それでまた思い出したんだよね。高校生当時の私は彼女を半ば神格化してた。完全無欠な徳を彼女は備えていて、同時に子供のような無邪気さがあって、彼女のことを1秒でも長く見ていたい、ひとえにその願いしかなかった。その先のことは思いもよらなかった。そのときの思いが当時のまま今日の僕の中に蘇ってきて、ああ当時こういう思いだったなということが思い起こされたんでした。
今どうしてるだろう。最後に姿を見たのは成人式のときだったけど、今会っても対等に話せる気がしない。(ふだんは……今ならそれなりに対等な気持ちで話せて、そしたら呪縛も解けて彼女を人間として見られるようになるだろうかと考えてるんだけど、今日は違う気分だ) なお、今でも好きなのかと言われるとよくわからなくて、むしろ救世主みたいに世界のどこにもない特異点として僕の心の中に存在している。同窓会みたいなのにも声がかかったことないし、この話が進展することは生涯ないのかもね。
柴田聡子『がんばれ! メロディー』のアナログ盤を聴いて、映画を見たあとに体験するのと似たぼんやりした時間を埋めるためにこれを書いている。言葉の力。論じる言葉ではなく、指摘する言葉ではなく、指してる対象も分からないのに言葉が心を動かす。言葉に動かされる。そういう言葉をもった人に人生の中でときどき出会う。以前に出会ったのは笹井宏之という歌人だ。
今日は。昼にテイクアウトのハンバーガーを食べた。少し食べて、もういいな、という気になった。まだ8割ぐらい残っている。全部食べることに困難はなかったが、そこから夜8時過ぎまでおなかがすかなかった。ずっと、「もうある」状態。さらに、昼に学会発表をオンラインで視聴しながらコーヒーをすすりカステラサンド (カステラでコーヒークリームを挟んだ菓子) をぱくついた。
それにしても汗が出る。クーラーをつけているのに。上は肌着なのに。
2週間まえからこのかた不調である。 YouTube を見て、 YouTube を見て、 YouTube を見て、見るものがなくなった。本を読み進めた。友達からの LINE に応答した。言葉は伝わらない。いや、 10% は伝わっている。夜になって、気持ち悪くて、歩きに出ることにした。外気にも触れられる。 360° から音も聞こえてくる。空間がある。夜は涼しいが歩けば汗が出てくる。マスクに覆われた下の領域が熱帯になる。セブンイレブンで、消化のいいものを、パスタサラダとひじきの煮物を買う。
なんか、いくつになっても鬱というものからは……
(書き始めてからいつも思い知る。出てくるはずだった言葉とは違うものが出てくる。特段悪いことだとは思わない。ただ、これからしようとしていることが、あのとき思ったままのことを動態的に再現することではない、ということに少しの当惑を覚えながら書き始める、そういういつものスタートを切っている。)
自転車で30分余り。繁華街で、書籍とHDMIケーブルを仕入れるという目的を終えて、駅の北口から南口へとコンコースを横断するとき、不意に襲ってくる。この感じ。すとんと景色が落ちる感じ。いささか歳を食ったいまならわかる。憂鬱というものは、はっきりと、痛みの一種だ。普段の暮らしの中でときどき悩まされる緊張性頭痛や何かと同じ種類の存在者だ。こうして、憂鬱をむやみと神聖視しないで済むようになったのは、つい最近のことだろう。帰りの自転車は路上をすべりながら、私は自分の痛みを観察する。私が空間の中を動いたり、ものを見たり、色々なものを思い出したりするにつれて〈痛み〉がどんな表情を見せるか。それを見ていた。5年ぐらいまえの私は、さみしさを〈味わい尽くす〉ことを企図することがあった。たとえば一人で遠くへ出掛けることを通して。しかしその企図は誤りとともにあって、それは、味わうということを〈ある感覚が定常的に持続すること〉と同一視するという誤りだった。感覚は、それを凝視しようとすれば消えてしまう。5年ぐらいまえの私は、掬えば消えるものを懲りずに掬おうとしていた。
憂鬱は痛みなので解消すべきだ。鎮痛すべきだ。その痛みに耐え抜くことで、べつに何かが生まれるわけではないんだから、それは無いに越したことはない痛みである。
私の憂鬱は、多くの場合、さみしさと混ざっている。憂鬱という感覚がさみしさという感覚と混ざっているのか、さみしさが原因となって憂鬱を生んでいるのか、よくわからないが、さみしさというか孤独感かな。そして不安。依って立つものがはじめから何もなかったかのような感覚。死にたいという文字が早押しクイズのように立ち上がる。けれど「死ぬか?」と考えてみると、それも違う。 (だから、私の憂鬱は (憂鬱と呼ぶことが適切ならば) 少なくとも重篤なものではないのだと思う。) ただ抜け道がない、だからここから逃れるには死ぬしかない、そういう理路なのかもしれない。抜け道はないのだけども、脱出したい気持ちが勝つほど強烈な痛みではないので、大事に至らずに済んでいるとも言えるかもしれない。あくまで推測だ。
しばらく自転車を漕ぎ続けていると、あの感覚も見えなくなる。ただ目がものをやけにはっきりと映していることに気付く。カメラのように客観的に。危険を避けたり欲しいものを探したり……ただ生きるために仕える、選択的にものを見る目が後ろに退いて、私の目はものをただ映すだけのモニターになる。そのとき心は平穏というわけではない。ざわめいてもいない。「絶望も希望もない 空のように透き通っていたい」 (宇多田ヒカル「テイク5」) という一節に思いを馳せる。
一定の割合のひとがするように、誰かとセックスすればこの痛みは紛れるか。おそらく YES 。ただしトリビアルな意味において。強い快感があれば痛みは紛れる。それは待避行動ではあるが、私はこの状況からむしろ回復したい。ここ数日、サプリメントを摂取するように性的なコンテンツを消費する頻度は確かに上がっている。その意味で「一定の割合のひと」と私も変わらない。
あるいは、思いを寄せる人が抱きしめてくれるなら。それは現実的な予想がつかない。あるのは出処不明の古ぼけたビジョンだけだ。それは昔から頭にこびりついているイメージだ。しかし、それは人生の終わりを意味しているのであって、しかし人生を続けていくための手立てを私は求めているのだったのに。一つはっきりしているのは、思いを寄せる人が抱きしめてくれる時間がいつか到来しても、人生はやはり続いていくこと。憂鬱もそのなかのエピソードとして時折顔を出すであろうこと。
ここまで書いて、一通り読み直しながら言葉を継ぎ足したり、修正したりする。書くことがやはり好きだ。いや、救いだ、のほうが正確なのかな。結局のところ、こうした結論のないことがらを僕は語る必要にときどき駆られるし、そうしてその話を聞いてくれるのはまずもって自分自身、そして回線や電波の向こうに存在するかどうかもわからない誰かだ。そしてまた、こうして書くことが自分にとって苦しみに対処する手段である、ということも今回自覚した。書き始めれば、あのとき体験しながら同時に浮かんできた言葉とは違う言葉が出てくる。冒頭でそう書いた。言葉は現実についてのものでありながら、もう一つの現実であるというような、少し突き放した性格をもっている。だから、現実に即しつつも、それと一定の距離をとりながら経験を組み直す、というようなことが可能になる。
午前9時ごろに目覚めたんだけど、そのあと朝ごはん食べてすこし音読と問題集などして……、それから部屋の掃除に取り掛かるまでに計4時間ほどの休憩時間を費した。体が動かなくて……いや動かそうと思えば動くんだけど、やる気が出なくて、取り掛かればやる気もついてくるかなと動こうとすると《ダメだ》という声が奥底から聞こえてきて、起こしかけた身体を戻してスマホでYouTubeを見たりするのだった。
たぶん昨日頑張りすぎたんだろうな。ここで言う頑張るというのは、なんかもう疲れてもういいよという気分になっているのに、やるべきことをあくまでやろうとすることを指す。昼に出掛けて近所まで帰ってきて、そういえば新しい商業施設ができたからと、疲れているのにそれを一回り見ておこうと身体を運んでいって、そしたらオープンしたばかりなものだから人だらけで歩きづらいし店内の呼び込みやら放送やBGMやらの喧騒も自分にとっては注意力を奪うだけの敵弾にしか感じられなくて……、潜水したままなかなか水面に出られないような時間を過ごしていた。
リアルタイムに自覚はできないけどそんなとき、〈気力〉とか〈やる気〉とか〈MP〉とか呼ばれうるものを行使していて、それは意思を伴う行動をすれば減るもので、そしてそいつが底をついた状態で身体を引きずり回したあとは、〈気力〉を回復させるために〈なにもしない時間〉が必要で……、そういう構造がそなわっているんだろう。人間には。
メモ。
性風俗「本質的に不健全」 給付金裁判で国が真っ向反論 (朝日新聞デジタル)
性風俗業者が持続化給付金の対象外となっている件での訴訟だけど、国側の言い分がひどい。私はここには色んな問題が含まれていると思う。
「社会の一員だと認めてほしい」と訴える原告側に、国側は「性風俗業は本質的に不健全。国民の理解が得られない」と真っ向から反論した。
まず「本質的に不健全」という表現。サイアクだなと思うのは、「本質的に」という相当強い断定をともなう修飾句に「不健全」という (マイナスの) 価値判断を含む述語をつなげている点。これはたとえば「クレーの絵画は本質的に退廃的だ」と言うのと何がちがうのか。あるいは「カオマンガイは本質的においしい料理だ」とか。そもそも本質的にってなんだ。性風俗業の本質って、風俗営業をすることとかではないのか。ここでの「本質的」という言葉は、「絶対に」「動かしがたく」といった話者の信念を強く打ち出すはたらきしかもっていないように見える。
……これは私が見出しを読んで感じたファーストインプレッションに近いものだ。国側は実のところ、もうすこし説明している。
この日の第1回口頭弁論で国側は、1984年以降の国会答弁や判例をもとに「性風俗業は性を売り物とする本質的に不健全な営業で、社会一般の道徳観念にも反する」と主張した。
もちろんニュース記事に記述されていることは裁判の一部でしかないわけだけども、かりに国側のこの主張を一つの論証として読み解くならば、次のようになる。 (論証1)
- (前提1) 性を売り物とする営業は不健全な営業だ。
- (前提2) 性風俗業は性を売り物とする。
- (結論) 性風俗業は不健全な営業だ。
ここでは演繹的推論として理解したので「本質的に」という文言は重複表現とみなして除去した。また単純化のため「社会一般の道徳観念にも反する」という文言は「不健全」命題とほぼ同じことを言っていると受け取れるため割愛した。
これに加えて、給付金の対象外としたという事実があり、国側はそれを正当な扱いとして主張しようとしているのだから、以下の論証を補ってもよいだろう。 (論証2)
- (前提1) 不健全な営業は給付対象外としてよい。
- (前提2) 性風俗業は不健全な営業だ。
- (結論) 性風俗業は給付対象外としてよい。
論証1も論証2も、結論を受け入れるに十分なものとは言えない。論証1は「不健全」という言葉の意味がいまいちわからない。「不健全な営業」となるとさらにわからない。健全な営業とは? 不健全な営業とは? こう問うていくと、「性を売り物にする」ということでしか「不健全」という言葉を特徴づけられないというトートロジーに陥るのではないかという気がする。論証2は、不健全だから給付対象外とすると主張しており、それは結論の裏づけとして十分でないというのは多くの人に同意してもらえるだろう。
ここまでの話をまとめる。ニュース記事を読むかぎり、国は不十分な裏付けにもとづいて不給付を正当化しようとしている。それだけでなく、「本質的に」という言葉を使い、国側の認識があたかも動かしがたい事実であるかのように提示している。ここには、十分な根拠なしにある集団に対して価値判断を下す (あるいは暗黙の価値判断に従って行動し発言する) という、偏見の構造が見てとれる。
もう一つ、国側の発言の中で引っかかったのが「国民の理解が得られない」という言葉だ。これに似た言い方でニュースを読んでいてよく目にするのは「理解を求めていく」という表現のほうなのだが、今回は理解を求めるつもりがハナからないようだ。今回なぜ「国民の理解を求めていく」と言わなかったのか。答は明快だ。性風俗業を給付対象とすることが誤りだと国側が認識しているからだ。
「得られない」にせよ「求めていく」にせよ、この表現の背後にあるのは〈国民に理解されることで行政のアクションが正当化される〉といった前提だろう。本邦は民主主義国家を謳っているのでそれはわかる。だけど、日々のニュースでこのタイプの発言を聞くたびに感じるのが、その中に登場する「国民」という言葉の軽さだ。国民の理解を重んじるようなことを口では言うくせに、首相が会見から逃げたり国会議院が答弁で回答拒否したり、都知事が記者の質問をはぐらかしたりといったことが横行している。結局、建前上あんなことを言いながら、「国民」という言葉は政府や行政の意欲を表示するスイッチの役割しか果たしていないように見える——「国民の理解を求めていく」と言えば意欲アリ、「国民の理解が得られない」と言えば意欲ナシ、というように。
そしてこのケースにおいて最も疑問なのが、「国民の理解が得られない」と言うときの「国民」に当の性風俗業従事者は含まれていないのか? ということだ。「みんな賛成してるよ?」と言うときの「みんな」に似ている。言葉を向けられた当人は「みんな」には含まれていない。だからこの場合の「国民」とはすなわちマジョリティを指している。本邦は民主主義国家であり (2回目) 、その中で多数決の原理がはたらくことは無論ある。でもそれがすべてではない。少数者のニーズに耳を傾けることもまた必要なことだ。民主主義が〈すべての人のための〉制度だと言うのなら。「国民の理解が得られない」と国側が言うときの「国民」は、顔のないマジョリティの群れだ。
最後に。冒頭で引用した国側の発言を私は差別的だと思っている。その傍証として、国側はこんなありふれた話法を使うに及んでいる:
「対象外としたのは合理的な根拠に基づく区別で差別とはいえない」とし、憲法違反ではないと反論した。
〈差別ではなく区別〉とは、差別を行う者が口ぐせのように言い継いできた言葉だ。これといったエクスキューズなしにその類型を反復すること自体、国側が自らのなしていることの意味に無自覚であることの証左だと思う。
戸田山和久『思考の教室』に触発されて、日本語の単語ノートをつけはじめた。本を読んでいて知らない単語を見つけたら、辞書で引いて、辞書の語釈と、その単語に出会った文を抜き書きしておくものだ。思えば本を読むさいに国語辞典を引くのは、ほとんど高校生のときぶりだ。大学入って以降は、知らない単語に出会っても、だいたいの意味を文脈から推測して済ませていた。
良くない習慣だったなと思う。語彙が増えていかないからだ。語彙は思考の元手だから、それはつまり考えるのが上手になりにくい環境を放ったらかしにしていたということだ。
語彙以外のことについてもそうである。元手を増やすということを考えていなかった。考えごとはしたし、本は読んでいたが、それを自分の心にとどめおき、のちに使える足がかりとして整備する作業を怠ってきた。読み、考えたはずの多くのものが時間とともに流れ去った。結局のところ、ほとんどが、人生のある時期までに確立した土台を酷使しながらものごとに対処してきたというのがここしばらくの自分のやりかただったのだと思う。
2018年6月30日の日記にこんなふうに書いた。「恋人がいる時代の私は、それまで積み上げてきたものを少しずつ切り崩していくような、消費一辺倒の生き方だった。大して引き出しのあるわけでもない自分を削って削って、やせ細っていくばかりだった。」 気持ちはこれと同じだ。知的資産を増やそう。
日記サイトには余計な色気があった。それはページの配色とかサイト名とか作者のハンドルネームとかに宿っていた。あるいはアバウトページやリンク集に。資源が少なかったからあるゆる要素を〈個性〉と見なす心の余白があったのだとも言える。かもしれない。読み手はときにテキスト本体以上にサイトデザインのようなテキスト外の要素に色々なものを読み込み、また託してきた。たとえば、今日、風呂場で偶然思い出していたこと。「握力」が始まったときに、そのサイトをどうしても気になる存在にした要素の一つはその配色だった。
同時に note のことを思い出していた。今のネットサービスの顔ぶれの中で、日記サイト的なことをやろうとしたら真っ先に候補として挙がるのが note だろう。だけど note には余計な色気がない。真っ白い。そこにはテキストという本質しかない。しかしそれはただの白さではなく、計画された白だ。 note の誰のページを見てもどれも白なのは、見た目をカスタマイズする機能がないからなのだろう。
ちょっと調べてみると、テーマカラーと言ってボタンやリンクの色を変える機能が Pro 版にはあるようだけど、はてなブログみたいに独自スタイルシートを設定して好きなようにデザインを組み立てることはできないようだ。つまり設定をどういじっても少なくとも背景は白のままだ。
言いたいのはつまりこうだ。 note のデザインは何もない白紙であるようでいて、企業の意志によって周到に計画されたデザインなのだと。無印良品がそれ自体ブランドであるのと同じ理屈だ。実際、note の記事を開くとわれわれはページデザインからそれを note だと即座に知る。
わたしゃそれが嫌で HTML タグ打ちサイトを続けてきて、ついには独自ドメインまで取ってしまったわけです。(結局それ)
M1 チップ搭載の Mac Mini を導入した。操作は慣れないけどいままで Windows でやってた作業は遜色なくできそう。導入のきっかけは今まで使っていた Windows 機のいろいろなレスポンスが異様に遅くなっていたので買い替えのタイミングと判断したこと。 Windows から Mac に乗り換えたのは、単純に試してみたかったから。 Mac 自体はじつは7年ぐらいまえに使ってて、いつものように作業してたら急に画面が暗転して再起不能になるという怪奇現象に襲われて以来 Mac は選んでこなかったのだが(ほかにもいろいろ理由はあるけどまとまった話にならないので割愛)、何年か iPhone を使ううちに Apple 製品のプロダクトとしての完成度の高さは認めざるを得ず、このたび戻ってきたという形になる。
デスクトップ環境のつくりとか、色合いとか、どこか Ubuntu っぽい(どちらがオリジナルかという話はあるが)。この地域に引っ越してきた当初は ThinkPad に Ubuntu 入れて使ってたのよね。昨日からのにわかな暖かさも手伝って、一人暮らしを始めた当初の感覚がよみがえる。世界がいやに静かで。
TBSラジオで日曜夜にやっている「井上芳雄 by MYSELF」では、主にヒット曲の井上芳雄によるピアノ弾き語りが流れる。それが毎回よくて、何の気なしに聞き流していたあの歌が、この素朴な編成と芯のあるボーカルとで向き合ってみると、こんなにいい曲だったのかと目を開かさせる思いにさせられる。
あるいは、部屋の隅にあるギターをケースから出してきて、コード進行を調べてスマホを見ながら弾いてみる。その楽曲の設計図を自分の指と声で跡付けてみる。そうするとやはり、こんなにいい曲だったのか!と一人で感動するのである。
弾き語りという形式。コードと主旋律だけの形で演奏することで、楽曲の骨組みがあらわになる。市場に流通する完成品は、そこにハーモニーがつき、打楽器とベースがからみ、たくさんの楽器で厚みを持たせ、飛び道具的な効果音が入ったりもする。それは非常に複雑な構築物だ。
何が言いたいかというと、弾き語りを聞いて初めてその曲の芯となる良さを発見するということは、裏を返せばCDやストリーミングで触れている音源の大半からはそれを読み取れていなかったという単純な事実とそれへの驚きなんだよな。私は音楽を聴いているようで、実のところその周辺でうろうろしているにすぎなかった。何の変哲もないヒット曲も100回聞かないとわからないんだろう。それぐらい現代の録音芸術というものは、少なくともそれぐらいは複雑なモノなんだろう。
「ビジネスをテーマにした番組でバー形式の放談企画というのはいかにもだなー」と私が言うとき、「それはやめるべきだ」と必ずしも言いたいわけではない。
「ビジネスをテーマにした番組でバー形式の放談企画というのは、下戸の人を排除する効果をもつんじゃないかなー」という意識が潜在的にあり、それが「いかにもだなー」という気付きを準備していたのはたぶん事実だが、その意識に忠実に沿って「それはやめるべきだ」と言い切るつもりまではない。
私たちが何かを言うとき、いつも結論が用意されているかのように見る人もいるが、実際のところは、口火を切ったときには結論がまだないことも多い。
同じことを別の角度から言い換えれば、私は、思ったままのことを口に出すことが正義だとは別段考えていないということだ。これは〈本心〉というものを低く見積もっているということではない。ただ、思うことと、表現することとは別のことだというだけだ。