思い立ったらその心があるうちに書かないと忘れる。書かずに終わる。経験上どうもそういうものらしい。何々について書く、とToDoリストに残しておいても実現されることはない。「その気」が生きているうちに成仏させなければならない思い。知識を伝える文章や、なにかの考え方を伝える文章と違って、日記は放っておけば蒸発していなくなってしまうものに形を与える試みらしい。やがて消えてしまうもの、それは「重要でないもの」と言い換えたっていい。でも必要でないかといえば、必要だから書いているのだろうな。少なくとも書くという行為は僕には必要だ。
今日は15時前に起きた。前日の就寝は午前3時ぐらい。むかし大学の後輩で、自堕落な生活を送っていることを表現して、夕方に起きることもしばしばだということを語っていた人がいた。そんな遅くまで眠ることがあるかいな、と当時の僕は内心思った。せいぜい11時ぐらいだろうと。その見解が自らの経験に縛られたものだということを知るのは、またも自らの経験によってだったが。ふとんから身を起こしてあれこれしている間にもう日が暮れ始める、ということは確かにある。日が短い。
目覚めたときから頭痛があった。「寝すぎて頭が痛い」という現象に見舞われるのは高いふとんに替えても変わらないんだなぁ。洗濯機を回したりしてからマクドナルドに食事を調達しに行く。グラコロ。TBSラジオを聞きながら食べる。バーガーを食べ終わり、コーヒーとポテトが半分がた残ったところで「足りないな」と判断してスパゲティをゆでた。市販のジェノベーゼソースをからめ、パルミジャーノレッジャーノをおろし金(ただしプラスチック製)で粉状にして降らせ、ついでにミックスシードを振りかける。スパゲティというものに目覚めたのだ最近。5年ほど前に一人暮らしを始めた当初は、スパゲティをゆでて市販のソースをからめて食べる、時にはレシピを検索してカルボナーラを調理して食べる、そういうこともやっていたが、いつの間にか食卓から姿を消していた。なんでかはわからない。少し変わった料理を好んで作るようになり、スパゲティというのはポピュラーすぎるというか、「とりあえず」以上のものでないというか、「他に食べるものがない者の食べ物」みたいな意識はどこかにあったかもしれない。とにかく魅力的な選択肢として持ち上がってくることが数年間なかった。
それが最近突然目覚めることになるんですが、きっかけはTwitterで少々ピーキーでうまそうなパスタレシピをシェアしている人や自分で作ったりしている人がいて、それで真似して作ってみるうちにスパゲティという料理を理解できた気がしたからだ。たとえばスパゲティをゆでる湯には水の質量に対して1%の塩を入れるというところで、僕は今まで適当に一つまみ程度しか入れていなかったのだが、ハカリでしっかり1%量って入れてみると思ったよりずっと多く入れなければならないということを理解したし、そうしてゆでたスパゲティは素のままでも確かにうまいのだった。そして、スパゲティとは、そうやって正しく整えた土台の上に、適切に計画されたソースを合わせて響きを楽しむ料理ということで、ソースは〈味がついていれば何でもよい〉というものではなく、そこにはそれなりの制限と、制限がもたらす自由があるのだと了解したのだった……。要するに、「無色透明な下地(カロリーだけがある)に味をつけて食べる」的な貧困なスパゲティ観から抜け出すことに成功し、スパゲティというゲーム(言語ゲーム的な意味で)をぼんやりと理解したところで、がぜんそれが面白くなってきたのだ。
スパゲティのことを語りすぎてしまった。話を戻すと、僕はそうして遅い昼飯を済ませ、少しだけビデオゲーム (Nintendo Switch上でスーパーマリオUSAをやっている) で遊び、本を読み進め、灯油の補充をして、部屋の掃除をして、数学の勉強を済ませ――という一連のタスクを叩き、それでだいたい20時ぐらいになっていた。
夜はロッテリアを食べに行くことに決めていた。これはもう先週後半ぐらいから決めていた。決めていたことなので外に出た。もう21時前。夜は静かで、東北か北海道のように寒かった。7年前だったか、年の暮れに北海道&東日本パスという割引乗車券を使って稚内まで鈍行列車の旅をしたことがあって、IGRいわて銀河鉄道線~青い森鉄道線の長い区間を抜けて八戸駅でJRへの乗り換えのために降車したときに感じた寒さと同じものを感じた(そう記憶してるけど、路線図見てみると八戸駅は青い森鉄道の途中にあるから、「JRへの乗り換え」は記憶違いかもしれませんね。Twilogを見ると八戸駅で降車したのは確かなのだが。) そういう個人的経験があって、「東北か北海道のように」なんて表現を使いたくなってしまうのだ。話を続けると、同日に八戸駅から青森駅へとさらに移動し、急行はまなすという夜行列車で海峡をまたぎ翌朝札幌で降車するのだが、そのときに感じた「度を超えた」寒さもまた僕の寒さのよりどころになっている。
回想ばかりしていて今日の話が進まない。最寄駅から電車に乗り、さらに一回乗り換えて、最寄りのロッテリアのある駅にきました。人々はもう帰る時間帯みたいで、出発した電車に並走して別れを惜しむ演出をする青年やら、改札の前で抱擁を交わす二人やらを見ました。街でみる抱擁やら接吻やら(ハグやらキスやら)を見て嫌な気分になったことがなくて、いつも「いいもん見たな」と一人和やかな気持ちになる。そればかりは素直だなと思う。嫉妬も劣情とかもない。こういうことが世の中に増えたらいいと思う。閉店間際のロッテリアでセットを注文し、窓際で食べる。注文のとき、ややこしい名前のメニューをフルネームで読み上げる。確かめるように、はっきりと。いつもは省略して言ってしまう。ロッテリアのバーガーの、つくりの丁寧さを知る。バーガーという構築物の中で、レタスやタマネギがしている仕事を知る。
書いてる分量が重くなるにつれ緊張して、首あたりの筋肉がこわばってきたのでこのへんで終わりにします。横道で書いておきたいことが多くて本題にたどり着く頃には十分な余力が残っていないという、いつものパターンです。本題というのは駅構内でハグとかキスとかしてるのを見かけると穏やかな気持ちになるとかそのあたりだよ。
「映画を見るのが好き」という人は、思うに、人間が備えているべき複雑さを備えた人だ。
なぜなら映画から得られるものは一通りでない。エンターテインメントもあれば芸術性の高いものもある。エンターテインメントに含まれているのは快の感覚だけではなく、悲しみもあるし、もっと複雑な、一口では語れない感覚も含まれている。映画に映っているのは役者だけではない。風景もある。音楽も入っている。見どころは役者の演技だけでなく、脚本も、演出も、カメラワークもある。そして繰り返しになるが、我々はそれらを単に味わい、楽しむだけではない。ある問いかけを作品が突きつけてくることもあるだろうし、不快な思いを残して劇場を後にすることだってあるかもしれない。
そうしたもろもろを受け止めて、ひっくるめて「映画を見るのが好き」と言える人は、一言で言って大人だなあと思うわけである。それはだって、人生が面白いと言っているのにほとんど等しいからだ。
風呂場に入り、熱いシャワーを浴びる。体が温まるとともに、「自分は正しいことをしている」という感じが芯からわいてくる。もろもろの義務を脇においても入浴はすべきだ。
世間ばなし。
Twitterにおける「フェミニズム」なる話題の磁力ってなんなんだろうと思う。標語的に言えば、フェミニズムの話題ではなくそこでは「フェミニスト」の話題がもっぱら幅を利かせているような。でもって、その幅の効かせ方というのは、もっぱら否定的な見方をともなっていて、一方では揚げ足取りとしか言えないような単なる議論の運びや個人的なふるまいに関する批判の目があり、もう一方ではフェミニストに対し完全無欠の倫理性・一貫性を要求する監視の目があり。フェミニズムやジェンダーを標榜するアカウントが少しでもダブスタを演じた片鱗を見せれば、すぐに矢が飛んでくる。そんなふうに見える。フォロー数80の僕の見えてる範囲などごくごく限られたものだけど。
そんな「フェミニスト」って一体何だ? と思うわけです。つーかフェミニズムとかジェンダーの問題ってみんなに関係あるハナシじゃなかったのか? 生物学的な性別をラベルにして人間を識別して、ある人々ばかりが弱い立場に追いやられたり、損な役回りを任せられたり、苦しんでいても「それが普通」みたいな態度を取られたり、そうしたことで苦しみが長い間積み重ねられていて、それに人々がようやく気付き始めたから不平等がなくなるようにみんなで考えていこうという話ではなかったんか? 「フェミニスト」という少数の英雄的な存在に片付けてもらう、そして我々はフェミニストたちを厳しく監視する! そんな話ではなかったはずよ。でも最近はそんな謎の構図が浮き出ているように感じる。おかしいと思うよ。
まぁ我々は我々の仕方でおのおのジェンダーやフェミニズム問題について語る。他の問題についても語る。こじれた受け止め方してる奴らは知らん。まずそういう話ではあるのだと思う。ものを考えるにあたりTwitterという磁場に囚われる必要もないし、変な騒ぎ方してる人たちはごく一部とは言わんけども悪目立ちしているだけで、正しく世の中を見ようとしている人だってたくさんいる。一方で、Twitterにおけるフェミニズム(というかフェミニストというか)に対する謎の風当たりは、この話題を真正面から受け止めるのが困難な人が世の中には少なからずいるということをも示しているんだろうなぁ。ただまぁ、それはとりたてて恐れるべきことではなくて、というのもそれが意味しているのは、ジェンダーやフェミニズムの問題は進みつつあるが道半ばだ、というごく自明なことであったりする。
(注意――食事中にふさわしくない内容です)
トイレに設置したゴキブリホイホイのことを考えてたら鬱になってきた。
紙でできたその装置には家を模したイラストが描かれており、擬人化されたゴキブリが窓から顔を出して晴れやかな表情を見せている。そのイメージの中で、ゴキブリハウスは彼らにとって住みよい場所であり、くつろげる住処であるだろう。でもその実態は彼らを生きたまま捕えて「処分」するための殺害装置なのだ。
さらに悪いことに、ゴキブリハウスがハウスであるのはただ人間にとっての見なしであって、ゴキブリからすれば自らの命をいたずらに狙う罠でしかない。その残酷さに直面せずに穏便に事を済ませるための緩衝材がその想像上のハウスなのである。
というか、人間側からしても、その装置を本当にハウスだと信じている人はいない。それが建前であることは公然の秘密なのである。ほんの少しつつけば崩れてしまうフィクションに私たちは身を委ねている。
のみならず、その脆弱なフィクションが解決しようとするのは人間にとってさほど切実な問題でもない。ゴキブリホイホイがゴキブリの殺戮装置であり、人間の快適な住処を確保するためのツールであることを認めるのが心苦しい人――それを暗黙裡に隠蔽しないと生活に支障を来すような人――は少ないはずである。なのに、我々はその装置を飾るということを選択している。
生きたまま罠に捉えられてゴミ箱に放り込まれ、やがて焼却されるゴキブリの運命と、それをファンシーな装いで覆い隠したまま遂行する人間の営み。
……ということをトイレの中で現物を見ながら考えて、左胸のあたりがザワザワするような締め付けられるような心地がして、気分がどんよりと落ち込む気配を察したのだった。
生き物とかあんまり殺したくないし、殺さないで済むならなるべく殺さないで済ませるようにしてるけど、しょせんは人間の都合で殺すことが多々あることも一応は受け入れてるし、でもその様相をまじまじと凝視したとき――というか不意に「透けて見えた」ときに、ワッとその感情に囚われてしまうことがある。
擬人化・デフォルメというのが僕の中では一つのキーワードで、今の話みたいに「残酷な真実」みたいなのがなくても、動物のエサのパッケージに書いてあるウサギのイラストとか、電子工作の本の表紙に据えられている人型のキャラクターが電子工作に熱中しているさまを見たときなんかも、似たような感情が惹起されることがある。
でもって、その感情はまた、残酷な内容の漫画を読んだり、背徳的なことがらが記録された映像を見るときにも、似たようなものが引き起こされるし、かつまた、その気分を追い詰めていくと、《生きることに価値はない》《生きていても仕方がない》というような声が奥からしてくる。
そいつの起源や実体は、僕にとって謎でありつづけている。ただ、そこに道徳という観念が深く噛んでいることは確かであるように思われる。
ゴキブリホイホイが、ゴキブリに対する殺意をまっすぐに表明する装飾だったなら、こんな気持ちにはならなかっただろう。あるいは、黙って目的を果たす快適な機械のような見た目であったなら、ここまで落ち込むこともなかっただろう。
またまた移転しました。8月の日記で予告してましたが、さくらのVPS上に移転してます。独自ドメインも取りました。在宅勤務で更新頻度増えてるはずのこの状況下でも月1回触るかどうかというコミット度のこのサイトにお金使いすぎなきらいもありますが。まぁいいや。半分以上は技術のお勉強を兼ねてのホームページ制作なので。自分用のメディアが、とか、最後の砦が、的なことを言おうと思いましたが、それが芯にあるかというとないし。あんまお仕着せというか、既存のよく作り込まれたブログサービス (はてなダイアリーとかWordPressとかね) に乗り切れず、使っててもいつかは離れていってしまうのは経験上確信しているので、DIYというか自作というかの場所を確保しておくのは自分にとっては合理的な選択では相変わらずあるのですけどね。
……上の段落書いてから見直してて気付いたが、 Twitter は 10 年以上使ってるんだよな。まぁあれは日記とは違うものなので。
そんなわけで elmman.sakura.ne.jp はサーバの契約更新がある12月初頭までには解約します。もう見てる人なんていない気がしますが気が向いたら雑文など書きつけていく所存です。
思うままにいかない時間が積み重なると自尊心が低下する。これは仕事の出来とは無関係にそうである。
自宅においておける量をゆうに超える分量の書物とかかわりあう必要が人にはある。だから私たちは図書館を使う。
自宅においておける量をゆうに超える分量。桁違いの量ということを言いたいのではない。私たちが生涯のうちで一問一答的な調べものをしたり、面倒ごとと付き合っていく方途を考えたり、あるテーマについて継続的に掘り下げていこうとするにあたり、書物は数冊や数十冊のセットを一括購入するだけでは足りない。かつ、それぞれの書物の隅から隅までが必要なのでもない。さして重要でない本や、一部分だけ読めばいい本を多分に含めて、私たちは暮らしのかたわらそれなりの数の本をさくさく読み飛ばしていく。それには財力も自宅の蔵書スペースも、それらを整理しておく余力も足りない。だからみんなで出したお金(税金)で、本を集めてみんなでシェアする。図書館はそういう仕組みなんだと思う。だから原則論からいって、図書館に求められるのは第一にやはり資料の提供機能なのだ。(図書館法第二条:「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設」)
・・・そんなことが、最近になってようやく実感を伴ってわかるようになった。ので書いた。さくさく読み飛ばしていくというのは、実際のところそれを実践できているとも言いにくいんだけども、しかし本はある程度スピード感をもって波に乗るように読んでいかないと栄養にはならないんじゃないかと思っている。そして、分量をこなすことが本読みの「普通」ならば、図書館が公共施設として必要であることは論を俟たないと思うんだけど、中高生の自習室か老人の溜まり場ぐらいにしか思ってない人が少なくないように見える。本を読まないからなのかな、やっぱ。
新幹線に乗る予定があった
今日中に新幹線の切符を買い
東京から新大阪へと移動する必要があった
部屋の掃除をぞんざいに終えた僕は
昼ごはんのことを考えていた
昼ごろに食べ物を腹に入れておく必要を考えていた
それと、宅配ロッカーに届いている荷物のことを
スーパーに備え付けの電子レンジで
鶏塩ミニラーメンを温める間
700Wで2分30秒の間
蛍光灯で真っ白なホールを眺めていた
生きている実感がそこにあった
香港の周庭さんの YouTube で最近の日本語を学ぶ。あるいは、こないだラジオから聞こえてきた話では、伝統芸能については日本人より外国人のほうが詳しいとか。考えてみればその通りだろうと思う。地理的条件が情報を妨げなくなれば、ただそこに住んでいるだけの人よりも興味のある人のほうがどんどん詳しくなるのは不思議ではない。
作るのが好きではないと言ったけど、整然としたものを作るのは好きなんだな。今回の開発が苦しみだったのは、ひとえに Python (そして GUI 部分を作るのに使った Tkinter)という道具が手になじんでいないものだったからで、たとえば Java で構築することに決めていたならば苦労も少なく、思い通りに作業を進めることができたただろう。(かな? Javaも初心者が一皮剥けた程度だけどね。)
一から作るのには苦労したが、どうにかこうにか拵えた成果物――その場しのぎのロジックがそこかしこに残り、モジュール構成も整理されていない――を、より理にかなった造りに整えていく作業――リファクタリング――は、もっと楽しんで行うことができるだろう。暮らしの中でプログラミングやコンピュータいじりが占める割合が高いわけではないから、いつやるか、そもそもやるかわからんけど。
思ったんだけど、自分は面白いからプログラミングをやってるわけではないんだな。作ってるときはむしろ苦しいときのほうが多い。動いたらそれなりに嬉しいけど、その快が大きいというよりは解放された安心感のほうが強い。勤め人の休日の過ごし方としては、面白い本を読んだり美術館へ行ったり音楽を聴きながらちびちび酒でも飲んだりしてたほうがよほど気持ちがいいだろう。それでも休日にやる理由は、休日にしかできないからだが、休日であろうとなかろうと「やる」理由は、自分としては、不愉快なものから逃れるためにやっている、という面が大きいようだ。いまの場合、いの不愉快なものとは、たとえばブログやツイッターである。遠ざけたいわけではないけど、やはり何か信頼し切れないものがあって、それは結局のところ「中がどうなっているかわからない」という漠然とした不安、そしてよそよそしさに帰着するだろう。結局のところ自分でやりたいのだ。自分のメディアは自分で用意したいのだ。そうやって書いてみると、なにやら子供じみていて、しかも私ごときのメディアなど世間は特に必要としていないという声も聞こえる。
まぁ、そんな卑屈にならずに、他人に迷惑がかからない範囲で好きなようにやればいいんじゃないの、とは自分自身思う。結局「好きにしたい」んだよね。細部に至るまで思い通りにしたい。
かねてからの懸案だったわけでもないが HTML を直接触らずに日記を更新するしくみを作ったのでテストしています。これはテスト投稿です。つかれました。 4 時間ぐらいかかった。でも 4 時間ぐらいでできたのはむしろプログラミングが上達した証なのかもしれないな。数年前なら 3 日ぐらいかけてたかもしれん。
ともかくこれでタグ直打ち日記とはおさらばです(また元に戻るかもしれないけど)。動機としては、ブラウザで Twitter の画面開いてると入力欄が目に入ってついついツイートしてしまうので、ならば日記を投稿する欄を常に開いておけばホームページを更新するハードルが下がるのではないかと考えた次第です。
ちなみにこんな↓画面です。実装は Python 。

これ書いてて気付いたけど、画像の埋め込み(imgタグの挿入)はできても肝心の画像自体のアップロードに対応してないな。画像なんて使うと思ってなかったからな。
Twitter で。ちょっと面白い話題を拾ったので、少し考えてみる。
軟骨の成分であるグルコサミンやコンドロイチンをサプリメントとして経口摂取しても、残念ながら軟骨は再生しません。変形性膝関節症の患者にコンドロイチン単独、グルコサミン単独、両者併用、プラセボのいずれかを6ヶ月使用しても効果に差はなかった(N Engl J Med. 2006 Feb 23;354(8):795-808.)。 (Twitter)
実に当たり前の話なんだけど、なんで美容や健康食品関連になると「手羽先食ったら羽が生える」、「髪の毛食ったら髪が生える」レベルの話がこんなに横行するのか、ほんと謎。 (Twitter)
(A)「手羽先食ったら羽が生える」 (B)「髪の毛食ったら髪が生える」とは誰も信じないのに、 (C)「軟骨の成分であるグルコサミンやコンドロイチンをサプリメントとして経口摂取すれば軟骨は再生する」を信じる人はいるわけですよね。その違いは何に由来しているのか。
まず (A) (B) は生やしたいものをそのまま口にするという方法をとっているのに対して、 (C) は精製された成分を取り入れると言っている。さらに、 (A) (B) は「食ったものがそのまま生える」という理論構成になっているのに対して、 (C) は取り入れた成分がいろいろに化学反応とかをしてやがて軟骨に化ける、というような理論が背後にある。理論の名に値するような明確なものではないけれど、サプリメントがどうして軟骨になるの、と考えてみると、多くの(このサプリメントの効果を信じるような)人は、そんな模様を思い浮かべるのではないかしら。グルコサミンを食べたらグルコサミンが生えてくるという話にはなっていない。肝心なのは、そんなふうな「理解」ができてしまうということです。細かく検討していったときに矛盾が出てきたり、明確じゃない箇所がぼろぼろ出てくるとしても、「いまのところ」は理解できてしまう。その、当座の理解をもたらすかどうかが (A) (B) と (C) の違いなんじゃないですか。手羽先と髪の毛はあまりにも馬鹿げていますよね。その「馬鹿げている」と思える境界線が人によって違うということなのでしょう。
……2個目の引用で言われているのはそんなことではなくて、グルコサミンの例は直感的には理解できてしまうけれど、手羽先や髪の毛の例と実質同レベルでしょ? 目を覚ませ、と言っているわけですよね。そしてその促しは、サプリメントが軟骨に化ける過程を説明する際に使われた「ごまかし」を捨てよ、ということを命じている。「物質がいろいろに化けて……」みたいにお茶を濁している部分を剥ぎ取っていくと、残るのは「物体を口から取り入れることにより、その物体に備わっているよいものを自分の体の中に取り入れる」という、なにやら原始的な考え方だったりする。(たぶん、文学史とか民俗誌を漁れば、そういう考え方を表している事例はたくさん出てくると思うんだけど、無教養なのでさっぱり思いつかない) だからサプリメントの説明を理解するためにそれを信じる人が使っている知識は、手羽先や髪の毛の例がリーズナブルに見える理屈と同じものだよ、馬鹿げているでしょ? ということなのでしょう。ただ、これが馬鹿げていることはおそらく指摘されないと気付かない人が大半なので、「〔…〕レベルの話がこんなに横行するのか、ほんと謎」と呆れずに根気よく指摘していくことが必要なのかもしれません。
本棚の整理してたら写真アルバムが出てきた。一人暮らし始めたころ、めしを作っては写真に撮るということを繰り返していて、それを現像したものだった。デジカメだから現像というよりは印刷か。これやっておいて良かった、と思ったのは、当時どんなものを作っていたか、すっかり印象が薄れてしまって、具体的に思い出すことがすでにできなくなったからだ。その写真は鮮烈な驚きを僕に与えてくれる。作っていたもの自体は大したものではないが、当時の心細さとか、その中でも手を動かして何かを作り続けていた自分のことを想いやり、ほんのすこし涙が出そうになるほどだ。大学(院)を出てからの5年ほど前の自分が、いまノスタルジーの対象となりはじめている。生きて進歩さえしていれば、自分の人生はなんだって思い出になるのだ。
夏休みの課題の一つとして個人的に設定していた、さくらの VPS 導入に取り組んでいる。いまこのサイトは、さくらのレンタルサーバ(スタンダードプラン)上に構築されている。基本的には html ファイルが平積みされてるだけで、その周囲に少数の画像とか CSS とかが散乱しているだけのこのサイトなので、構築というとおおげさだが。その前は同サービスのライトプランを利用していた。このドメインには今年の年初に越してきたんだけど、移転が完了するなり「さくらの VPS にしとけばよかった」と後悔していた。要はよく調べず「 WordPress を使ってみたい」という衝動だけで何も考えずポチったというか 10 ポチぐらいして導入したわけだが、実際サーバに SSH でログインしてみると自ユーザのプライベート領域 ( /home/elmman 配下) を与えられたにすぎないことに気付いて、あ、なんだレンタルサーバってサーバを丸ごと使えるんじゃないのか、と理解したわけです。おめでたいね。
そういう取るに足らない一幕をくぐり抜けて僕はここにいる。レンタルサーバのライトプランの契約更新時期が 8 月なので、満を持してこれを解約しまして、さくらの VPS を契約してごにょごにょやっているわけなのです。せっかくなので仕事で触る機会のなさそうな FreeBSD で、 Web サーバも nginx にしてみた。あ、環境構築中なので常時アクセスできるようにはしてません。ドメインもまだとってない。
それにしても、ぼかぁインターネットで日記というか雑文を公開し始めて 14 年ぐらい経つんだけれど、なんかインターネットで日記を書き続けることってなんなのかなという気になるよね。昔のを時たま読み返したりするとね。僕の日記人生のピークと言えそうなのは、自宅浪人してた前後の頃にはてなダイアリーで書いてた「楡男」(この名前もこのころから使ってるんだな)で、いまやはてなダイアリーもサービス終了して「はてなブログ」にひっそりとアーカイブされた姿を今でも見ることができる。僕の個人史的にも大事な資源だと言っていいと思うんだけどアーカイブを引っこ抜いて補完しようという気までは起きないんだなぁ。
……いや、「なんなのかなぁ」という思いは去来するのだが、なんなのかなぁと思って終わる。僕はこれからも何かを(休み休み)書き続けていくだろう。
でも12年ぐらい前のものを読んでると、当時の自分はしっかりとライフストーリーの上をすべっていたんだなぁみたいな感慨がある。自分の生きた痕跡ひとつひとつに意味があるような。言葉に聞き手がいる。
感じたことを言葉にするというのは、〈うっすらわかっていたことを、はっきりさせること〉だったりする。それは詩を発する場面に顕著なことだ――と僕は思っている。だから、詩的な言葉は、その外見とはうらはらに、この上なく的確なものであるべきだとも言える。詩が必要になるときは、誰にでもあるだろう。読むことではなくむしろ、詩的な言葉をひねり出すことが、生きるために必要になるときがある。最近そう思う。美しいものを「美しい」というだけでなく、何がどう美しいのかを語ること。それも、例えばそれがどういう条件を満たしているからわれわれに「美しい」と感じさせるのかというような、マーケティング的というのか、再利用可能なメカニズムに落とし込むのではなく、むしろ、「それが本当は何であるか」を明らかにすることを通じて。
(……というのを思ったのは、とある風俗店のキャスト紹介文が詩的だという紹介を Twitter で見たのをきっかけにしてだったりする。それにしても、詩という言葉は色んな人の手垢がつきすぎていて、この語を用いるとものごとを語るのが一段階めんどうなことになる。日常的な言葉で語りがたいことを無理くり語ろうとするときに出てくる表現群が「詩的」と形容されるだけだと思うのだが。ここで言いたかったのは、詩はそれがいかにもありそうな場所にばかりあるのではない、詩的なものの種は私たちがいつも歩く地面の下にも埋め込まれている、ということだ。――本当は、「どこにでもある」という代わりに「世俗的なものの中にも」と言うつもりだったが、性は聖俗で言うと聖の側に立たせても遜色ないもののようにも感じる。しかしお金儲けは迷いなく俗に数えられる。聖俗の対立は、いま初めて使ってみたが、めんどくさいね。そういうわけでこの段落は話の流れが少しねじれている。)
カルディにクスクスを買いに行ったらブルグルが目に入ったので買ってきた(半月前ぐらいに)。どちらかというとこちらのほうが好みだ。トルコ料理屋行きたい。なんとなくトルコ贔屓だ。
(追伸) ……ということは、詩はそのテキスト単体で理解できるものではないのかもしれない。目の前に体験しているものがあって、それを言葉にするわけだから。その体験と言葉とをセットにしないと、その詩が結局何をしているのかはわからない。といっても、もちろんこの理屈は、詩にかぎらず、かなり広範囲の言語的実践に当てはまる。およそ言葉でもって何かを描写するということすべてに当てはまるだろう。ただ、詩の特徴は類推が利きにくいことにある。例えば「信号機が青になった」という一文は色々なところで使えるし、そのときの意味も大きくは変わらない。一方で「夜の底が白くなった」という一文は、使うところにより(文脈により)その意味するところの振れ幅は大きいのではないか。列車がトンネルを抜けて雪国へ出たときの風景描写ともとれるし、精神的ににっちもさっちも行かなくなった人物が深夜の苦悩の果てに見た心象風景を言い表すのにも使えそうな気がする。ごく個人的な具体的なことがらを言葉にするのが詩であるとすれば、そのテキストだけが泳ぎ出し書籍の流通ルートに乗り、誰かのもとに届いたとき、そこにあるのは真実の半分である。
(なんて、ひとしきり書いたあと、たとえば放置していた『蜂飼耳詩集』をひらくと、まったく「それだけではない」ことを思い知らされるのである。)
在宅勤務が続いています。最近は昼ご飯にクスクスをいただいています。いや、なんか、昔「アシュタサポテ」で「クスクスを買いました。」という一文があったと記憶していて、なにかしらいいものなのかなと思った思い出がうっすら残っていただけなのですが。新大久保のエスニック食品店(って呼び方でいいのか? 外国の方が経営しているような、物品が所狭しと積み上げられた小さな店です)でカレー用の材料を色々買い込む中に忍び込ませたのでした。耐熱皿に 100g とって、同量の熱湯をかけて 10 分放置してもどす。そんで、インスタントのスープをかけたりして食べていたんだけど、今日はオーセンティックな食べ方というか、基本的な作り方で用意したクスクスを食べておこうと鶏肉、ひよこ豆、トマト缶、パプリカ、アスパラガスを用意して(パッケージの写真をみようみまね)適当に香辛料類と炒め煮にしたソースをかけて食べたのですよ。おいしかったです。なるほど、こうやって食べるとおいしい。
でも調理時間はやっぱり30分ぐらいかかってしまうのですよね。まぁ、近所のコンビニに弁当買いに行ったりしても結局そのくらいはかかってしまうのだから、何か劣るというわけでもないのですが。でもカップ麺にお湯を注いでレトルトごはんを温めるのに比べたら手間はあるよね。それだと栄養偏るけどね。
論理的思考の放棄 - 登 大遊 (Daiyuu Nobori) の個人日記
Twitterで最近シェアされてた記事だけど、2007年のものなんですね。
ざっくり内容としては、プログラミングについて「こういう方法でやると速く質の高いものができるよ」という覚え書きみたいなものでしょうか。この記事を読んでなにか消化しきれないものを感じて、今週いろいろ考えていたんだけど、この文章の中で「論理的」という言葉が連発されているのが結局のところ読みにくさの原因なんだろうと思うに至りました。この言葉はいろんなものを含み込んでいるので、人によって思い浮かべるものも違うだろうし、文脈によって指しているものがいろいろに変わる。言ってしまえば、テーマが「論理的思考の放棄」だったとしても、それを語る言葉は論理的でいてくれないと内容が深く正確には伝わらないよ、というのが正直な感想です。実際、論理的思考の放棄を語るときに話し手が論理的であることを拒否しようと努める必要はないんですよね。そうなんだけど、「論理的思考の放棄」というアイデアに引っ張られて記事の叙述までが論理的であることから距離を置こうとしている。
ここで「論理的な思考」の定義を細かくすることはしない。そもそも、細かく定義しようとすること自体がすなわち「論理的な思考」である (論理的に、厳密に定義しないので、あなたの頭の中で、「論理的な思考」というイメージを自在に思い浮かべれば良い)。
意地悪な言い方をするけれど、こうした語り方自体がすぐれて「論理的」だと思うのですよ。「論理的」という言葉の特徴づけを行い、その特徴づけに対する事例の当てはめを行い、当てはまったものを記述の中から排除する。矛盾していると言い立てたいわけではなくて、文章で何かを伝えようとする以上「論理的」なものはいつもついてくると言いたいです。だから、叙述を進める中で「論理的」なるものが近付いてきたことに気付くたびにそれを遠ざけるような身のこなしは、少しスマートさに欠けるなとは思うわけです。当座の目的と必要に応じて無視すればいい。
強調しておくけど、これは元記事の内容を棄損したり批判したりするものではなく、ただその語り方について、「論理的」という面倒なタームの取り扱いに関して思うところを書いているだけ、ですよ。
はっきりと言えば、この元記事は「論理的」という言葉を使わずに済ませることができたし、そうしたほうが表現が明晰になったのではないかと思う。この文章の中で実践として叙述されているところ(「実際のプログラミング作業を例にして、解説する。」から始まる部分)の内容は、私の受け止めたところでは
- 作りたいもののイメージを事前に頭の中である程度固めておく。
- イメージを実際のコードとしてアウトプットする際には、細部の整合性などはなるべく意識せず、一気に書き上げてしまう。
……こういったところなのではないかと思う。こうしてみると別段常識破りな内容ではないし、文章書くときなんかにもこういうことはしますよね。もちろん、プログラミングという「論理的」と言われがちな作業をするにあたってもこの方法は通用する、というのが一つのポイントにはなってるんだろうと思いますが。
USBの延長ケーブルを買う。そう決めて、スマホのTODOリストに入れる。そこにためらいはない。そのまま何かの拍子に考えが覆ることがなければ、電気用品店に来た折に買ってしまうだろう。数年前はこうはいかなかった。USBの延長ケーブルが必要だ。そう気付いたとき、買うか買わないかで必ず悩んだ。悩みの焦点は、この部屋の中にそのケーブルの位置をどのように占めさせるか、この生活環境の中にそいつを組み込むか——そういうことだった。要は置き場所を決めなきゃならない。そのアイテムにふさわしい場所を。今はそれを悩まずに済む。なぜなら、ケーブル類を収める所定の位置があるからだ。
多くのことが決まってくれば、固まってくれば、生活環境が複雑に組み上がってくれば、多くのことに対処できるようになる。考えなければならないことが減らせる。そうすれば、単位時間あたりに導入できる仕組みもさらに増やせる。処理方式を決めること。そして複数の方式が矛盾しあわないように組み上げること。といっても、ものは空間上に配置される。空間上でものの配置同士が矛盾することはあまりない。処理方式というのは実のところロジックではない。容れ物だ。物理的な容れ物。容れ物を用意して、ある種類のものはその容れ物に入れると決める。それだけで、考えることが減らせる。すばらしいことだ。わたしたちが容れ物に求めることは、容れ物自体を同定できることと、その容れ物の中に何が入っているかを、容れ物から知ることができること、それだけだ。
この連休はアトピーと闘ってましたね。いや、皮膚科から処方されていたステロイド剤が切れかかっていて、かつ皮膚科は GW 休みで薬の追加もできなかったので、薬を温存するつもりで塗るの止めてみたらわりと大変なことになった、という愚かな話でしかないのですが。でもこの日記を読み返してたら4月半ばぐらいからすでに体調はいまいちだったっぽいですね。こうなると、この具合の悪さもアトピーのみに由来するのかはよくわからない。風邪引いたときとかも肌の調子は悪化するので、ひとかたまりの不調はいつでも体全体へと影響しうるということなのかなと思いますが。
昨日、夜の散歩に出てまして、23時ぐらいに近所のジョギングコース (いつもジョギングで通っている道すじ) を1時間弱ぐらいかけて歩いてきました。BGMとかもなしで、歩むうちにとりとめのない思念が心に浮かぶのに任せて。そういうことをしていると、生活に必要なものは「隙間」だな、ということをまた何千回目かで思う。身の周りのことを自分の頭で反芻して、あらためて意味づけする時間。それが必要なんだろうなーと。
それで、「苦しみ」の話なんですが。歩きながらふと思ったことのひとつに、学生の頃はこうした散歩を楽しむことすら容易にはいかなかったな、というのがあった。散歩に出るときはほとんどいつも、部屋の中でこんがらがった思念がどんどん色を濃くしていって、手におえなくなり、やむにやまれず外に出る、そんな仕方だった気がする。記憶の中で補正が入っているかもしれないけど。何に悩んでいたかももういまいち思い出せないのだが。恋愛のこととか将来のこととか、人間が成長過程でぶつかるありふれたテーマではあったんだろうな。あのころはつねに焦燥とともにあった。何かを為さねばならぬ、何かにならねばならぬ、存在証明、いや、そんなものは偽物の御仕着せの悩みで……と思うだけ思ってはいたけれど、結局のところ心はそこに囚われていた。
いまは、サラリーマンの身なので、「とりあえず日々の業務 (と生活) をこなしていればオーケー」という安心感がある。もちろん、それだけで全てがオーケーになるわけではないのだが (たとえば、それだけでは結婚はできない) 、表向き課されたものがそれだけであるということが、心の安定にはとても寄与している。昔は、自分らしくあること、自分でしかできないことをすること、それを強いられていた、むしろそれが当然のこととして前提されていた、そんなような感覚があったんじゃないかな。おそらく誰も明示的にそんなことは言っていないし、半分以上は自分の思い込みだったのかもしれないけれど。
(↓20200614追記)
書きっぱなしで投稿していなかった (このホームページはいまだにタグ直打ちなので submit ボタンなどもほんとうはないのですけど) この日記を世に出すまえに一通り読み直すことにした。タイトルはもともと「苦しみについて」とあったのだが、読んでみると夜の散歩、そこからの回想と振り返り、それらが主題だったように感じたので、改題した。でもなんで「苦しみについて」なんてタイトルつけたんだろう? これを書いた当時のことを思い出してみると、そこには書かれていない一節があることに思い当たった。なのでここに補足する。
もともとこの日記の中心テーマに据えたかったのが、「自分は苦しみという言葉を知らずに苦しんでいたのではないか?」ということでした。むろん、その言葉を辞書的に知らなかったはずがなく、ただ自分の経験しているところに対してこの言葉をあてがうことを知らなかった、あるいは知るまえに拒んでいた。もともと「無理しないで」と言われても「無理してませんけど?」と返しちゃう (言葉にせずとも心に思う) という場面は僕の人生においてはかなり思い当たるところがあって、それはまぁ「無理をする」という言葉の意味を世間一般で言われているところよりもかなり狭く理解したうえでその言葉を運用していたということになる。当時の僕にとっては、死ぬような思いをしていなければ「無理をする」とは言えない、という了解だった。あるいは少なくとも、体調を崩して通学ができなくなったり、入院したりするぐらいでなければ、と。体調崩すのって無理をしたからとは限らないんだけどね。今の僕が「無理をする」を定義するならば、「最良を100%として60%ぐらいのパフォーマンスを発揮できない状態でことにあたること」とか、そんな感じになるだろうか。自分という人間の分際で担当できる範囲、みたいなことをよく意識する。まぁそんなことがあって、昔は「苦しみ」についても、それを認定するハードルをきわめて高く設定していたように思うんですよね。その一隅には「自分は食わせてもらってる身だから」という (今となってはあまり役に立たない) 負い目意識みたいなのもあったのかなぁ。
ついでに。僕がなにか書くとき、「昔の自分と今の自分」の比較、って形になりがちで、それに対して自己評価としてもあまり良いことだとは思ってこなかったんですよね。「今と昔」を比較する言説は世の中にあふれていて、それでいて意味のある比較と思われるようなものはめったにない。この問いの立て方からはほとんどあらゆることが言えるからだと思います。「今」という時代の幅も曖昧だし、その時間的空間的拡がりの中にはほとんどあらゆる物や出来事が収められている。「昔」も同じ。それらの中から恣意的にあるペアを選び出してきて比較するならば、ほとんどどんなことでも引き出せてしまうだろうと。何が変わった、何が変わった、それで結局どうなった? というのも釈然としない。そういう不満もあった。だけども、少なくとも自分の人生について言えば、「いま・ここ」がどういう位置なのかを確かめることは実用的な意味で重要ですよね。あまりいい例が思い付きませんが、自分が電車の改札の前にいるということを知らなければ、ICカードが取り出せず改札を通れないとかそういうことにもなるわけで。そういう意味で自分がいまどういうステージに置かれているのかをそのつど確かめることは必要なことなんだなと思いました。それを他人にも見れる状態で公開することの意義はわからんけども。
なんか体がかゆくて全体的にジンジンするし芯が冷えてる感じもあって体調がよくないので、今日は早く寝るために日記は書かないことに決めてたんですけど、どうにも気持ちの整理がつかなくて Twitter の「糸井重里」の検索結果なんか見ながら悶々としていたので、書いてしまうことにしました。「ほぼ日刊イトイ新聞」の日替わりコラム「今日のダーリン」4月26日付の記事の内容が Twitter で取り上げられて批判を浴びていて、そのことについて。
ちなみに、この「今日のダーリン」はログを残さない方針らしいので、引用するのはやめとく。法的にはたぶん問題ないと思うんだけど、万が一怒られたらやだし。それに、ここに引用しても読者 (いるのかな?) があとで全文を参照できなければあまり意味はないし。
内容を要約するとこんな感じ。スポーツ観戦の自粛が続いているいま、エキサイティングな娯楽が不足している。ならば、この緊急事態下で働いている医療従事者・保育士・インフラ業務従事者・etc. の仕事現場をテレビ撮影してエンターテインメントとしてはどうか。……と。
これに対しては、まず「不謹慎だ」とか「コンテンツとして消費」とか「安全な場所からものを言っている」といった不快感ベースの批判が思いつくが、ただやっぱり不快感ベースでしかないので、ちょっと弱いというか。「なぜ不謹慎だと悪いのか」とか「消費って正確にはどういう意味だろう」とか考え始めたらよくわからなくなる。でも、ここで改めて考えてみても、この話を批判する根拠はそこにしかない気がする。糸井の提言に抵抗を感じるのは、具体的な害をもたらすのが見えているからではなく、それがなんとも気持ち悪いからなのだ。だって、仕事でもうずっと大変な状況で修羅場になってるところにカメラが入ってきて、そこで撮れたコンテンツをビール飲みながら眺める人がいて、いいぞもっとやれとか思っちゃうんでしょ。「スポーツ観戦」をテコにして話を進めるってのはそういうことだよね。
……なんだけど、やっぱり「感覚」を根拠にして話を進めるのはとても心もとない。ある状況に対して「気持ち悪い」と表明することでそれを批判する正当な権利を手にできるというのなら、あらゆる形態の差別をも正当化することになりかねないわけで。そうなんだけど今はそれ以外に説明できないなー。小説や漫画ならこの違和感にもっと明確な形を与えてあげられるんだろうけどね。
最近気になっているのは橋下徹です。 (ここんとこ政治の話ばかりですね。政治というか政治家というか。) そういえば 3 月ぐらいから Emacs を使い始めたんですが、このほど ddskk をインストールしました。前々から uim-skk とか SKK日本語入力FEP とか CorvusSKK とかは使ってきたんですが、本家 SKK (の後継だけど) にようやく辿り着いたって感じ。
さて、橋下徹さんのことを考えます。今週は彼の発言が Twitter でよく取り沙汰されていました。ほとんどは否定的な調子だったので、彼の言説がなにか有害なものだということはわかったのですが、その何がどう悪いのかを自分で説明しようとしてみるとうまく言葉が出てこなさそうなので、ここで一人向き合ってみようというわけです。
彼の Twitter のなかで、ここ一週間ぐらいで「いいね」が多かったものを取り上げてみましょう。
まず、いっこ目。
10万円一律給付金)給料がびた一文減らない国会議員、地方議員、公務員は受け取り禁止!となぜルール化しないのか。その上で、それでも受け取ったら詐欺にあたる、懲戒処分になると宣言すればいいだけなのに、これも各自に任せるといういつもの無責任政治。国会議員でも絶対受け取る奴はいるよ。
Twitter (2020/4/21) ・・・いいね数はこれを書いている時点で 3.7 万。
まず、「びた一文」という強調表現が目につきますね。そして、「詐欺」「懲戒処分」といった、うーん、脅しまがいのというか、罰による統治って感じのアイデア。「絶対受け取る奴はいるよ」という言い方も、語気が強いという以上に「抜け駆けする奴を逃がすな」的な、同調圧力というか村社会というか警棒持って追い掛けてくるような迫力がありますね (警官と村社会は関係ないので、どちらかというと自警団かな) 。言葉だけでなく本当に殴られそうな感じ。
さて、ここまでは上記の発言の言葉尻を拾って僕が感じたことを言葉にしたまでですが、内容的には何を言っているんだろう。箇条書きにすると下のようになると思います。
- 国会議員・地方議員・公務員は給付金を受け取り禁止にすべきだ。
- なぜならば、彼らの給料が減ることはないからだ。
- さらに、受け取ったら詐欺にあたると宣言すべきだ。
- さらに、受け取ったら懲戒処分になると宣言すべきだ。
- 上記の受け取り禁止措置を講じないのは無責任だ。
- なぜならば、実際に受け取る国会議員がいるだろうから。
もう一点。この提言の趣旨からすれば、給料が減らない人はすべて給付金を受け取り禁止にすべきだと主張するのが筋だと思いますが、橋下氏は「国会議員・地方議員・公務員」に対象を限定していますね。この根拠は不明です。合理的に解釈しようとするならば、「新型コロナウィルスに関連して給料が減らないのは国会議員・地方議員・公務員のみだ」という前提を置けば辻褄は合いますが、まさかそんなことを信じている政治家がいるとは思えません。となると、 Twitter で言われているように「公務員叩き」による支持率稼ぎとか、「分断を煽る」ことで自分に都合のいい状況を作り出そうとしている、といった不純な政治的意図をそこに読み込むほうが順当なような気がしてきます。
すでにけっこう長くなっちゃいましたねぇ。書き始めてから 1 時間近く経つし。では 2 個目です。さらっといけるかな。
支援策を列挙して満足している国会議員たちよ!現場に出て現実を確認せよ!雇用調整助成金の窓口も融資の窓口もパンク状態やぞ!数千万円の収入が保障され、事務所家賃も秘書人件費も100%税金で保障される中、家でのゆったりしたライフスタイルを自慢げにツイートしている場合じゃない。現場に出向け!
Twitter (2020/4/21) ・・・いいね数はこれを書いている時点で 4.7 万。
まず、文彩的側面。びっくりマークが多いですね。とにかくこの人は語気が強い。あと、発破をかけるというか、当人の耳が痛くなりそうなことを選んで言っている。んー、冷静に分析すべきところで私情を出しちゃうけど、僕はこういうタイプの人とても嫌いですね……。でもこうした言い方が一定の支持を得るであろうことも想像には難くなくて、「現実を見ろ」みたいな言辞はとにかく人生の色んな場面で聞かれますよね。これ言うと、言ってる本人 (たち) だけが正気であることに形式上なるので、自分 (たち) のことを聡明な人間に見せることができますね。
内容面。
- 支援策を列挙して満足している国会議員は、現場に出て現実を確認すべきだ。
おわり。まとめると、橋下氏の Twitter での発言は、「裏付けはないが激越な調子で何かを提言する」性質のものだなという印象になりました。
書くべきことを風呂の中でなにか思いついた記憶があるのだが肝心の内容が思い出せない。「これをやろう」と思いついたときのその内容ってなんともいえず甘美に感じられますよね。そういえば (関係ないけど) ちかごろ社会問題とか実用的な情報にばかり身をさらしていたので、ひさびさに哲学の本でも読もうかなと思ったけど、本棚を見渡してみたら案外と手頃なものがなかったので、やっぱり今のラインに乗った読書を続けることにしました。哲学が実用的でないとか社会に接続しないとか言いたいわけではないが、現実見るにしても何個かクッション置いて見るやりかたもあるわけでね。
C言語の入門の次はLinuxの知識の穴塞ぎをやります。穴だらけだけど。もぐら叩き。
さて、昨日取り上げた「今日の詭弁」案件に続報が出ていたので、今日も人の言葉によりかかりつつ自ら考える練習をします。
湯崎知事は記者会見で「誤解を与えた。言葉の選び方が悪かった」と述べた。
職員に給付の10万円「活用」案、批判受け撤回…広島知事「誤解与えた」
……なんかいま (23:50ごろ) リロードしたら記事中の文章が変わってて、当該箇所は「湯崎知事は県庁で記者団に「給付金を強制的に供出させるという誤解を与えた。言葉の選び方が悪かった」と謝罪した。」という記述になってるんですけども、また変わるかもしれないし上の引用はそのままにしておきます。
「誤解を与えた」という釈明?の仕方はほんとにやめてほしいなと思うわけです。この一件に限った話ではなく、あちこちで見る言い方なんだけど。どうして自分の誤りを認めることができないの?って思いますよね。
「誤解を与えた」構図が合理的に了解可能なものとなるために必要な要素は4つあると思っていて、すなわち
- 話し手の言いたかったこと
- 話し手の言いたかったことを表現する言葉
- 話し手の言いたかったことに対する誤解
- 話し手の言いたかったことを表現する言葉がいかにして誤解を招いたのかの説明
4の説明を省いていいんだったら、1,2,3にはどんな表現を代入しても差し支えないことになって、無敵論法になってしまうわけですけどね。そこんところ記者会見に臨んでいるマスコミ記者はどういうふうに認識してるんだろう。「なんかわけわからんこと言ってるけど、とりあえず撤回したっぽい言質がとれたからそれでよしとするか」って感じなんでしょうか。わけのわからないものをわけのわからないまま通用させるのはやめてほしいんですけども。発言する側も「マスコミが言いたいこと汲み取って適当にまとめてくれるから気持ちさえ伝わればいっか」ぐらいに考えてませんか。ものごとを正面から理解する態度を毀損するようなふるまいはやめませんか。
湯崎知事は「必要な財源が圧倒的に足りない。捻出する時に今回給付される10万円を活用することで、聖域なく検討したい」との考えを示した。
県職員の10万円でコロナ対策 広島知事、国給付の活用表明
この「活用する」って言い回しはずるいですよね。前向きな響きを帯びていて。事実、後ろ向きではないのだが、だとすれば、であるにもかかわらずこの一件に対して肯定的に受け止める気になれないのは、第一に「前向きであればよいというものではない」からだろう。
この知事の言葉は、まさに前向きな内容を含んでいるという点においてかろうじて説得力をもっているが、それが霞んで消えるぐらい多くの疑問をこの言葉はつれてくる。そもそも、給付金は個々人で使い道を決めるという前提で配られるものなのに、その使途を他人に委ねるのは本来の目的から外れていないか? そしてその「目的変更」をさも当然であるかのように宣言する正当性はどこにあるのか? 職員と話し合いをした上で決めたことなのか? (独断で決めたのか?) もし職員との話し合いが行われていたとしても、「新型コロナへの対策」という大義名分を後ろ盾にしたその話し合いがフェアなものでありうるのか?
というわけで、僕にはこれが「人のものを取り上げて勝手に使いますよ」と宣言しているようにしか見えず、それはいくら「新型コロナ対策」という大義名分をちらつかせても、「活用」という言葉でごまかそうとしてもブレることのない違和感と衝撃を与え続けている。だからこの言葉に説得されてしまう人などまずいないだろう (そのやりかたを飲み込むとすれば、それは言葉ではなく、同調圧力など他の要因によるだろう) と、ほとんど確信している。でもさぁ、こんな無茶なことを一都道府県の首長の職に就くものが思いついて、しかも本当に口にしてしまうというのもなかなかの異常事態だなぁと思うんですよ。そして、それは彼が馬鹿だから、という話では片付かないだろうとも。彼も選挙でその地位についたわけですし。その一方で、この発言を信じれないくらい愚かだと感じる人も多数いるはずで。これはどういう状況なんでしょう。
もう一つだけ。「聖域なく検討したい」というフレーズがありますが、この場合の「聖域」ってなんですかね。「自分のものは自分が使い道を決める」っていう当たり前の権利のことを指してるんですかね。だとしたらこの知事は人の権利をなんだと思ってるんだろう。パターナリズムを超えて神の視点に立ってるんじゃないか。それに、言葉の言い回しひとつやふたつで召し上げることのできる「聖域」なんて、ずいぶん軽んじられたものだなぁと思いますよね。
モバイル版ページをなんとかしようと (PC用ページと自動で同期させて更新できるようにしようと) 手を着けてみたものの、考えてみるとそれなりに面倒な作業であることがわかったので (とりあえず、コンテンツとレイアウトはPC版も含めて分離して管理するようにしないとだめっぽい) 、さらに考えは遡行し (『内省と遡行』 (柄谷行人) という書名はかっこよかったですね) (今日はいちだんと括弧書きが多いですね) 、そもそもろくに更新しないこのサイトのために時間と労力を割くのは不合理ないとなみではないかと "内省" するに至り、モバイル版はモバイル版でほっといて気が向いたときに更新する程度にしようと思い直したのでした。はぁ。他人が読んでもなんら得るところのなさそうな内容の文章ですね。
サイトは更新してないけど日記は書いていて、おとといあたりから Emacs 上で howm をセットアップして各種メモ・兼・日記もそこにぶち込んじゃえという思想で仕組みを整えていた。公開しない日記という構えに傾いているのには第一に「書きたいこと」のうち「公開するに差し支えのあること」の割合がすっかり多くなってしまったことがある。心にうつりゆくよしなしごとが盛んな高校生の頃とか、勉強してるとかしてないとか言ってた自宅浪人生の頃とか、「哲学」という窓口が大きく存在感をもっていた大学生の頃とかならいざしらず、今何かを書こうとすれば住んでいる地域の固有名詞であるとか、勤めている会社のきわめてローカルな事情に触れずには語れないことばかりだ。つまり具体的であるゆえに何の変哲もない日々を僕は生きていて、それを書くには本人特定的な情報に触れずにはおれないということだ。あと、もう一つは普通に公の場に提示するにはそぐわない思念もまた生活の中に一定の重みをもって存在していて、それらについて仮に中立的な立場から云々することができたにせよ、あいかわらず「ふさわしくないもの」「そぐわないもの」と (読み手にとってどうかはともかく) 書き手にとっては少なくとも感じられるであろうことだ。 20 年前のインターネットなら恐れず書いていたかもしれないけれども。いまインターネットに何かを書くにあたって心の隙間が全開でいるわけにはいかないのだ。いや、なにか漠然としたことのみを話しているわけではなく、内容によっちゃ法に触れることもあるかもしれないしね。かりに法に触れないとしても法に触れたかのような処置を被ることだってあるかもしれない、そんな心配もしなきゃいけない今日この頃です (なつかしい言い回し) 。
ということがあるので、このレンタルサーバにいまや何を置いていくというのかという問いが一つ持ち上がってくるわけだが、それは今までどおりに気が向いたときに日記を置いていくことになるのではないかと思う。随想以外のまとまったコンテンツを拵えるにはまだまだ勉強が足りないようだし。
今日は頭痛かったですね。昼過ぎから天気が悪くなり小雨が降ったので、気圧の低下に従ってるのかしらんと思ったりもしたけど、結局のところ分からんですね。一日晴れてても頭痛いときはあるし。むしろ昼過ぎにプレッシャーのかかる事案が降りかかってきたので、それによる緊張のせいもあるかもしれませんね。なんかあまり書くことないですね。在宅勤務だから通勤時間が削れてええわと思ったけど、1〜2時間ぐらい浮いても普段することをゆったりこなしてれば使い果たしちゃうから余暇時間みたいなものはあまり変わらないね。
なんか、書くべきこともっとあるはずなのですが。そういえば高校のころの初恋の人のことをまた思い出している。想像の中で転がして遊んでいる。あの人と結婚したらどんな感じだろうみたいな。あの人のことほとんどなんにも知らないぐらいなのにね。しかし高校卒業以来なんの接点もない人を心に住まわせて、大きな敷地を与えてるのはどうかと思うぞ。大人として。誰か上書きしてくれ。
なんとなく言葉が回り出さないので今日はこのへんにします。あ、あと、在宅勤務だと休憩時間に新聞読めるのがいいですね。職場だと気兼ねするんだよね。ページめくるときバサバサうるさいし。
現在0:08。早く寝たいので今日は省略。朝、寝足りなくて1時間ぐらい余計に寝てたしね。で、始業時刻を10分ぐらいサバ読んだしね。。。あと最近、肌がよくなくて背中とかがざらざらします。
こんばんは。眠いです。在宅勤務なんですけど案外せわしないですね。一日が。結構全力で走り抜けちゃう。ポモドーロテクニックで25分作業して5分休む、を繰り返してるんだけど時間が惜しくて5分休憩のあいだに新聞を読み進めたりする。あと在宅勤務の実現方法がリモート接続用ソフトで会社のPCを遠隔操作するというやつなので操作のレスポンスにいつもタイムラグがあってもどかしいですね。会社のセキュリティポリシー的に、業務に関係するデータを持ち帰ったりとか自宅PCに保存したりとかはできなかったようです。あと大学の友達からのLINEが流れてきて公務員超辛いって言ってました。いろんなこと言ってくる市民がいるから辛いだろうと思います。ねむいので以上です。
なんか気候のせいか体がかゆくて、ざらざらする。今日は雨もひどくて風も強くて、朝刊も届かなかった。朝刊は関係ないね。おとなしく家で一人で仕事してるんだけど、ボルテージがぐっと高まってくるとズボンを脱ぎだして太腿の内側あたりをがりがりとやってしまう。なんか肌も薄くなった感じ。これは酒のせいなのかなぁ。土日とも遅い時間帯に飲んでから寝たから。いや関係あるかわからんのだけど。いまは酒が健康に寄与していると判断できる材料はないのよね。僕の場合はいまは。今日もできれば日付が変わる前に就寝したいという願いはもっていたのですが、8時間働いて最低限の家事もやって、日課の数学と日々の読書 (いまはC言語の入門書) と、たまに寝転がってTwitter見たりしてると日記書く時間もなかなかとれないですね。これ書いてるのは午前0時半です。
日々いろんなニュースが飛び込んできますね。昨日Twitterを見ていてワッと話題になっていたのは、星野源が始めたゆるい連帯みたいなものに首相が空気読まずにただ乗りしてバッシング、みたいな一件でした。こう書いてみるとあらためてすごい話だな。星野源が始めた取り組みに首相がただ乗り。まぁそれはそれなんだけど、このまとめも俺が日曜午前中にTwitterに書き込んだ表現からはいろいろと変わっているんだよね。当時は作品としての質、というか、作品として成り立っていない異質性に焦点を絞った言い方をしたけど、いろいろな人の言葉に触れた結果として今はその政治的ムーブの相に視点がまず定位されている。このように一つの件をとっても状況はめまぐるしく変わるし、また一件一件が矢のように降り注いできて話題として共有され、流れていく。和牛券のことなんてみんな忘れたでしょ、と言っている人がいてはっとした。和牛券のことはいつかこの文章を読み直すあなたのための練習問題としよう。まぁそういう背景もあって、書けるうちは日々書いていこうと思っているわけです。言葉を積み上げていく場所が必要だなって。ある程度の分量のある文章にしないと、自分の考えてることの輪郭もはっきりしてこないしね。
こんにちは楡です。3月初頭あたりから本格化してきた新型コロナウィルス (COVID-19) の被害拡大を受け、僕が所属する会社も、つい先週末にようやく在宅勤務に移行しました (迅速とは言えなかったと思っています。準備を始めてから制度施行までは速かったですが) 。〔これは所属の会社がIT企業のはしくれであり、その業務内容からして在宅勤務がさほどの支障なく可能であるという、多分に偶然的要素を含んだ巡りあわせのために実現していることであって、失業寸前の人も世間には数多くあるという状況をメディア (特に Twitter) を通じて見聞きするにつけ、こうしてのうのうと暮らしていていいのかなという思いが去来することもありますが、ともかく自分のできることをするしかないよねと強制的に考えを打ち切ったりしています。ともあれ、いまのところ僕は元気です。〕家にいる時間が長くなり、自分のコントロール下に置かれた時間が長くなったので、日記をうっかり書いてしまう体勢がここでまた整いつつあると認識しています。「うっかり」と言っても、いまの僕は「今日は日記を書くぞ」と決断し、携帯に入れているスケジューリングツール (たすくま) に「日記を書く」というタスクを登録して1日の中での時間をあらかじめ割くという仕方でこの「日記を書く」という時間に至っているのではあります。家事とは時間と労力のかかるものだということと、真面目に勉強とかもやってるんですよ。Twitterに時間を吸い取られてもいるけど。
いま上の段落の〔〕の部分をあとづけで書いてて、1文が200字ぐらいあってTwitterにはそもそも投稿できないんですよね。HTMLファイルをこうしていじって文章を書いていると、普段よりいっそう輪をかけて言語表現がくどくなるなと毎回のように思いますね。なんか一度に複数のルートを押さえながら話を進めようとする癖があるんだよね。そのくせ頭の中に置いておける情報の量は小さいから、そんなことしてると話の本筋がわからなくなって、それは事前にアウトラインを作らずに書いているからリカバリ不能な状態になるわけなのですが、それで話はわからなくなってきたし字数もある程度は書けたので今日はこれでおしまいと決めてしまうことが多いですね。
一人暮らしなので自由な活動も休息も妨げるものは何もなく、家にいてやることを無尽蔵にもっている人なので退屈もしないんですが、人に会わないというのは (こんな僕にとっても) 心を徐々に蝕んでいくものなので、それでいつまで耐えられるかなというのがなんとなく気にかかっているところです。
在宅勤務ならできること。
- 休憩時にコーヒー道具を使ってレギュラーコーヒーを淹れる。
- いつもより大きいボリュームで独り言を言いながら仕事をする。
- 立った状態でPC作業をする。
- リラックスのためにお香を焚く。あるいはアロマオイルを使う。
- 自分好みのデバイスを使う。HHKBとか。
怒りがどくどくと湧いてくる。自分で言うのもなんだが、私はとても繊細で傷つきやすい人間なので、ささいなことで腹を立てる。電車でおしゃべりしてる人がうるさいとか、ホームに引かれた線に沿って並ばないとか、そういうことに対してだ。だが、今日はとくべつ大いなる怒りに見舞われた。といっても、それも、駅で人とぶつかり、去りぎわに「じゃまだ」とつぶやかれたという程度のことなのだが。後引く怒り。鼓動が激しくなり、思念がめぐる。あいつに、どうやって嫌な思いをさせてやろうか。
仕返しなどくだらないことだ、それどころか、場合によっちゃ身を滅ぼす種となる。そう教わってきたが、であるにもかかわらず、仕返しのやり方や、それをやり遂げたときの感じについて私は考えてやまなかった。彼に、むちゃくちゃに暴力をふるったら、気持ちがいいのだろうか。どんな感じがするだろうか。駅から自宅への道を歩きながら、自分の怒りを観察する。そして、観想に徹することは、感情に流されて仕返しに及ぶことを回避しようとする暗黙の態度のあらわれでもある。しかしその一方で、そうした対処の仕方が「本当の問題から目を背ける」「狡猾な」態度であるという考えが、怒りの中では身をもたげてくる。復讐の機会をみすみす見送り、自分の中に灯った火が消えゆくのを静観するその態度が、むしろ不正義であるように感じられる。
帰宅したあたりで怒りは収まった。ものごとを適切なパースペクティブのもとで見ることがふたたびできるようになり、仕返ししても大した意味はないこと、ぶつかって捨て台詞を吐いていった男を強く責めるほどの理由もなかったことに得心がいくようになる。けれども一方で、あのとき感じた怒りもまた真実だったと言っておかなければならない。それは怒りの告げる通りにせよという意味ではない。ただその怒りが、私を衝き動かすだけの力を持っていたことだけは事実だと、そういう意味である。もちろん、その怒りはリアルだけれどもその言いなりになるのは賢明ではない。それも少し違うな。「私」と「怒り」を切り離して見ているかぎりでは怒りは理解できないのではないだろうか。よくわからなくなったので終わる。
具合悪くて寝込んでました。午前中〜昼ぐらいまではろくに動けなかったね。前日からの喉の違和感と、鼻詰まりと、寝過ぎたときにときどき見舞われる軽い頭痛とがあり、個々の症状はそれほどつらくはないのだが、起きて何か活動しようとすると体がそれを拒否して、着替える途中でふとんに逆戻りしてしまうありさまだった。とにかく何か食べとかないとなぁと近所のセブンイレブンに行き、ビーフカレーとポテトサラダとデザートとウィダーinゼリーとソイジョイとかを買ってきた。目移りして普段よりいろいろ買ってきてしまった。食欲は普通にあった。夜も夜で1700円くらい買い物するんだよ、セブンイレブンで。セブンにどれだけ金入れてるんだろう。しかし活動する元気はなく、立ち机に設置してあるデスクトップPCを使う気も起きなかったので、地べたに腰を下ろして本読んだり外出時用のラップトップを触ったりしてた。CorvusSKK を導入した。2年くらいかな入力使ってたけどまたSKKに戻るんかな。ローマ字入力は打鍵数が多いのが無駄が多い気がして気に入らないけど、かな入力は指を少々無理して伸ばす必要があり、かつ、それは慣れで解決するものでもなかった。というわけでいずれにしても最適な入力方法だとは思ってないんだけどね。かな入力 vs. ローマ字入力で比べても答えは出ないけど、SKKが好きなので結果的にローマ字入力になる、という。
体調がしんどいときとか、疲れてるときとかに、ポルノグラフィックなものを鎮痛剤代わりに使う習慣があって、たぶん快感で気が紛れるのだと思う。そんなことをしてたら夜になり、活動できる体力も戻ってきた。夕食には麺類を2種類、トマトクリームパスタと台湾焼きそばを1人で平らげた。それでいて、食いすぎた苦しみに見舞われることもなかった。食べたら中身の詰まった痰が出た。そこが転機で、あとはほぼ平常運転と言ってよいと思う。すでに20時過ぎだったが。そんなわけで変な時間に元気が出てきてしまったので、これ書いているのは午前3時半ぐらいです。なんか眠いような気もします。このぐらいに寝ると明日も昼前とかに起きるはめになり、悪循環だなあ。
他人が私的生活というものをもつことが受け入れられなかった。いや、自分に対してさえそうだったかもしれない。
今日は、10時ぐらいに起きて支度をし、歯医者へ行った。先週つけてもらった仮のフタを取り除き、詰め物をしてもらった。それから40分くらい歩いて図書館へ行った――いつもなら2、30分で到着するところが、先週からの膝の痛みで、歩行が不自由なのだ。予約していた行動分析学の新書と、書庫から出してもらった疫学の入門書を貸し出し手続きして、早くも帰る決意をした。外にいてもしんどい。昨日、病院で処方してもらった湿布で痛みは軽減していたが、とにかく歩くのが遅い。膝をかばって歩くので、歩幅が小さくなるし、歩いている動作にばかり注意が向く。スピードは、歩きスマホしている人や老人とほぼ同じだ。
――えっと、私的生活というのは、そのことではない。
昼食に、餃子の王将に入り、某界隈で話題となっている生姜餃子と、天津炒飯という日和ったメニューを注文した。日和ったというのは、純粋な天津「飯」を注文してそのポテンシャルに向き合うのが粋だろうと思いつつ、食べやすさにパラメータを振ったメニューでハードルを下げる選択をしたという意味である。後悔はしていない。あんかけチャーハン的なものが食べたかっただけのような気もする。
食べ物の話となると少し饒舌になるみたいだ。ほんの少し。
昼飯を食べて帰宅すると、15時近くになっていたか。まず、ごろりと横になり、押し入れの中にたたんであるふとんに頭をのせる。スマホをいじる。おもむろに、いかがわしいサイトを見始める。数十分。飽き足らず、立ち上がってPCの前に来る。ストーブは焚かず、しかし肌寒くはあるので毛布を肩から掛けている。いかがわしいサイトを開き、やがて行為に及ぶ。・・・終わった後、また押し入れに頭を突っ込んで、毛布にくるまり目を閉じる。そのまま眠りにつく。不自然に曲げた左腕の先がしびれている。血液が正しく流れるように体勢を整え、もう一度眠る。外は曇っていたし、カーテンを閉め切っていたせいで今が何時かわからない。スマホを見ることも今は必要ないと感じる。暗闇の中で一人、時間の中を漂流していた。
――そんなのが、「私的生活」である。いやどんなのだよ。暗い部屋の中でじっと意識を保っているそんな時間が、たとえば私という人間にはある。「そんなときもあるよね」が本当にあることを認めたくなかったのかもしれないな。いや、私の想像力の乏しさはそれどころではない。好きになった女性が、たとえば休日家族と買い物に行く。そんなこともなんだか受け入れがたいこととして自分には映っていたのだ。まぁ、「自分の知らないところで何かをしている」「その様子を自分が具体的に想像できないようなことをしている」ことがすでに受け入れられなかったのだと思う。じゅうぶん危ないヤツだ。
そんなこんなで、今日は歯医者に行くことと次に読む本を調達すること(と生姜餃子を初体験すること)くらいしかしておらず、十分に何かをしているようにも見えるけど、ここ数週間の休日はどれも通してアクティブだったことと比較すると、この土曜は「休養日」というラベルを貼って整理したくなる生きざまだったと言ってよいと思う。1年前のいまごろを振り返れば、あのころ仕事に関して完全にまじりっけなく後ろ向きになるほど多忙だったけれど、そのころは今日みたいな休日がもっと頻繁に訪れていた。今日こんなふうになった要因の一つは、疑いなく、先週来の膝の故障であり、健康状態というものが暮らしぶりの底をいかに支えているかを痛感する。
『ノンデザイナーズ・デザインブック』という本を最近読みました。
ファッションとかデザインに関心をもつと、魅力的なものを人為的に・狙って「つくる」ことが可能である――というかむしろ、世の中の魅力的なものの半分ぐらいはそうして作られている――ということが見えてくる。「ここを、このように操作すると、こう見える」という法則性が確かにあるということを、実例を通じて学ぶことになる。それは、美的なものを技術(テクニック)という文脈のもとで眺める視点を手に入れるということである。
「美」と「テクニック」の取り合わせは、慣れてみると特段不自然なものでも、何か「いかがわしい」ものでもない。概念的な矛盾があるわけでもない(でしょ?)。だから、その態度を学ぶことで、「目の前のものは所詮“作られた”美しさなのだ」とシニカルになると言いたいのではない。
もう一つ言い添えておくと、美的なるものがすべて技術によって再現可能だというわけでもないだろう。この考えに当てはまらない例としては、たとえば、人間の心、偶然の美、自然、そんなものが思い浮かぶ。(漠然とだけどね)
話を戻す。美的なものが再現可能であり、かつ現にそこここで再現を繰り返しているというこの観点に立ってみると、自分が何かに魅力を感じているという事態――自分の欲望――を、一歩引いた視点から眺めることができる。そしてそれは繰り返せばシニシズムではないし、冷めた目で見ることとも違う。見えているものの背景にあるメカニズムを意識することで、欲望というファナティックなものを制御可能なものとして見ることができる。それは、目の前にあるものを絶対的なものとせず、別の可能性をもつものとして眺めることであり、必要とあればそこから身を引ける余地をつくること、逃げ道が確保されていることである。選択肢が複数あるほうが、生きていくうえで有利なのは間違いないだろう。
課題図書。『分析美学入門』。ほんと、いつか読まなきゃなあと思いつつ幾星霜。
移転しております。今も移転って言葉使うんだろうか。ユーザにクリックなどさせずに黙って新ドメインにリダイレクトするのがモダンなマナーなのでしょうか。まぁいいや。
移転した理由なんですけど、昨年 11 月に急に Wordpress が使ってみたくなり、さくらのレンタルサーバのスタンダードプランを衝動的に契約して Wordpress をインストールして記事を 1 本書いてみたはいいものの、なんかいろいろとしっくりこなくて熱が冷め、そのまま放置してたら試用期間が過ぎてクレジットカードから 1 年分の契約料金が引き落とされたのでしばらくは使っていくしかないと腹を決めて、そうなると前のサーバと 2 台持ちしていても意味がないので前代のを捨てることにしたわけです。ほんとに衝動的に決めたので、よくよく検討もせずにこのプランを選択したのですけども、さくらの VPS にしとけばよかった。ファシリティ面でいうと Wordpress くらいしかできることが増えていない(めだつところだと)。
Wordpress しっくりこない件に関してはカワイシンさんという方の以下の言葉に思うところがある。(http://www.quawai.kyoto/memo/?p=about)
このブログはBashで動いています。できるだけ、単純な最小限の機能しかないものを作りたかったからです。実際、多くのブログサービスはあまりに多くの機能を持ちすぎていて、使いにくいと感じていましたし、それゆえ不親切であるとすら思っていました。だから、自分で使いたいと思えるものをフルスクラッチしたのです。
私もまた、自分で作ったものでないと使い続けられないように思う。そのうち/いつか、 HTML と CSS (と、サーバ運用とかその他もろもろ)をきちんと勉強して、今よりはまともなものを作りたいですね。そのときは VPS にふたたび移転しよう。(そのまえにサイトを更新するモチベーションが続くかという大問題があるが)
(2020/2/11 タイトルの年が間違っていたので修正。2019→2020)