夏季休暇中です。今年は帰省もないので本当にやることなくて死んでいます。仕事はサボりたいんだけどいざ自由な時間が与えられてみると死んでしまうという度し難き生き物というか、話し相手を見つける旅に早く出ろよ。
生涯何度目かのGTD導入活動の一環として、Simplenoteに溜め込んでいた大学院生~就職~今に至る、までのメモ書きをとりあえずSimplenoteから追い出す作業をしていました。そこから転載。自分でも何のことを書いてるかわからない。
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楽しみたいという純粋な願いと
(もっとすばらしい世界があるのでは……そこに行けない、というもどかしさ。これこそが第一に来るはずだ。)
一読してすぐにわかるという感覚の鋭敏な人間でありたいという……(何だろ?)と
あるいは、本を1時間くらいで読んでしまう意欲と集中力を備えた人でありたい(あるはずだ)と……
楽しめないのは人生における損失だという(……何かね?)と
が
あり
それらは別々の問題です。
(何だろ?)
焦り? それは、社会の中で、人との関わり合いの中で、たとえば競争にさらされているという共同幻想の中で、「わからない人」の烙印を押されることは恐れるべきこととされていて、その価値観を内面化したためにあらわれる感覚。
(……何かね?)
一言で言えば、経済という概念を人々が身に着けたために、経済という概念が作動して生じる感覚だ。効用の最大化。損失=悪。
酒が弱くなった(論理的には「酒に弱くなった」が正しい気がするが、意味的には「が」が適切に感じる。不思議だね。)と思っていたんだけど、昨年9月ごろから半年余りにわたる過剰なる業務量により、くたびれきって、エチルアルコールを体内で適切に処理する機能が弱くなっていたという説が有力になってきた。言い換えると、暮らしに余裕が出てきた中、また酒が飲めるようになってきた。そう考えると忙しいのは根本的にオレには無理なのではないかと思う。無造作な日本語でそう思う。話は変わりますが暮らしに余裕が生まれると一段階上の欲求として、話し相手が欲しくなりますね。一時期これも、セックスをする相手が欲しい欲求=人肌恋しさだと思ってたんだけど、どうもそれよりも基本的な欲求として人間とのかかわりに飢えているらしいことに思い当たった。
忙しいときはまず「一人の時間が欲しい」と思うのよね。前の恋人といたときも、これが満たされなくなって精神的に不調をきたし、ついに別れを切り出すに至った。自由に使える時間が足りていて、その欲求が満たされていると、はじめて「二人の時間が欲しい」がでてくる。三人以上でもいいけど。てか即物的には、自分の読んでる本とか勉強してる分野とか、普段考えること――人間のことや言葉や論理のこと、世間や政治のこと等々――について誰にも話さず、ただ自分の中で発酵させていくばかりなのはどうも不健康だよね。てな話です。読書会とか勉強会といったものに参加しよう。
もう一つ書くべきことがあった気がするが忘れた。
この土日は憂鬱がちだった。金曜日ぐらいから憂鬱ははじまった。原因は今年度のプロジェクトに対する不安、というよりも絶望だ。答えはもう出ている。私はこの一年、(前の一年と同じように)苦しみ抜いて過ごすのだ。理由は、昨年度と同じお客さん、昨年度と同じメンバーで昨年度のプロジェクトの続きをやるからだ。あーもううまくいかないのが目に見えている。厄介な客先レビューで責め立てられる図を思い浮かべては気を滅入らせていた。
とここまで書いてみて気付いたが、私が恐れている具体的な内容には少なくとも2種類ある。ひとつは昨年度と同じく残業まみれの日々に沈められ、プライベートがないがしろになり健康を損なうこと。もう一つは、厄介な客先と話をしなければならない機会が何度も用意されていることだ。書いてるだけで厭んなってきた・・・。
『いやな気分よ、さようなら』の枠組みに当てはめると、ここには「先読みの誤り」の認知の歪みがある。プロジェクトが大失敗に終わるといまから決めつけるのは早計だし、客先の人たちが少々厄介だからといって、会うたびにめちゃくちゃになじられて帰されるというわけでもなかろう。
また、ここには「感情的決めつけ」も見られる。未来のことを憂鬱に思うあまり、その憂鬱なシナリオこそが現実に起こるのだと思い込んでしまっているふしがある。けれどそれはありうる無数のシナリオのうちの一つ(あるいはその一場面)であって、それが起こることが確実なわけではない(あるいはそうした場面だけで日々が構成されるわけでもない)。
こうして解きほぐしていくと、気持ちがいくぶん楽になってきた――かどうかはいまいち自信が持てないのだが、いまものの見え方にかなりの歪みが生じていることは自覚しておいていいだろう。
……と、書いて、見直している中で「客先レビュー」でググってみたら、こんな記事を見つけた。「今日は客先レビューでした」 10年以上前の誰かの日記なんだけど、一人で客先レビューに行った報告の後、総括として自分をほめている。
比較的平穏な日。寝坊して、朝食と洗濯を省略して身支度だけ済ませて電車に滑り込み、職場最寄り駅で朝食を調達し、会社で食べた。ここ数か月はこれが日常茶飯事。昼はセブンイレブンでレバニラ炒めを買い、梅こんぶおにぎりとともに食べた。夕方、買っておいた生クリームあんぱんをインスタントコーヒーとともに食べた。(インスタント)コーヒーに生クリームがよく合うということを最近知った。9時半ごろまで働く。帰り、米は炊いていなかったので、すき家に寄る。2人連れの男が先客で、アジア人の店員が「つゆ抜き」を理解しないというので、片割れが怒りを露わにしていた。威圧するような感じで、不愉快だった。私ともう一人が視線を向けた(もう一人は、ほどなく退店した)。注文を受けるという基本的な所作がなっていないからだなどと釈明じみたことを大声で話していたが、相手が弱者だから今のような態度に出たということは明らかだと私は思った。ここまで書いたところで気付くことがあって、私は大声で話す人を苦手に思いやすいな。今日の人は好き嫌い以前に不徳だと思うけれど。文字通り、めしがまずくなった。
体調を崩すわけではないが毎日痰が少しずつ出るような日々です。今日は定時少し過ぎに退勤しました。仕事が早く終わったのではなく先延ばしになったのだ。受身の体勢。与えられたものを享受し、奪われたものを未練ありげに見る。課せられたものに不平を言い、免除されればそこに安らう。この秋冬でもう疲れた、もうやめたいと言いすぎて、脅かされることに過敏になっている。影絵の魔物を恐れている。会社に閉じ込められてえいえんに帰れなくなることをいつも恐れているんよ。永遠に帰れなかったことなど今まで一度もなかったのに(同語反復)。まぁでも、会社とかにいると視野が先細りしてきて、ごくかんたんなことが見通せなくなったりするよね。わたしゃ用もないのに手を動かし続けてないと不安なので、無駄な動きばかりして、もともと何をやろうとしてたんだっけ?と混乱がどんどん広がってしまうことがよくありますよ。
昨年夏~冬の長い忙しい時期を経て、箸を持つのが不得手になった気がする。指の筋肉が衰えたのか、神経面の問題が生じているのか、その他の要因によるものかはわからないが。
やればできる定時前退社。ほんとうは、たいがいのばあい、やればできるのだろうと思う。ぼくらがほんとうにしなければならないことなど、そんなにたくさんあるはずがない。不安がなくなるまで全てを片付けようとする及び腰な態度が、できるものをできなくする。「締め切りまでに間に合わせる」ではなく、締め切りが来たら否応なく終わると考えるべきではないか。成果物ではなく時間に対して働きかけていると思うほうが幸せになれるのではないか。
弾丸のように会社を抜け出し、電車で40分くらい移動して秘密の会合に参加し、電車で35分くらいかけて帰ってきた。混んでる電車に、しかも空腹のままで乗るもので、頭がくらくらした。本もほとんどまとめに読めない。
8時前に目覚め、ふとんの中でぐだぐだする。9時半ごろ起き上がる。さいきん起きがけは皮膚がぞわぞわして気持ちがよくないな。掻いてできた細かい傷とかが空気に触れて感じているのだと思う。食事後、昨日発覚したBSが映らない件について不動産屋に問い合わせたところ、そもそも共同アンテナは設置されていないとのこと。何年か前に同じく不動産屋に問い合わせて、「ある」という回答を得ていたはずだったが。何か勘違いしていたか……。そうなるとNHKに対してBSの料金も毎回払っていたのが、不要だったということになる。というわけで今度はNHKに電話して(こういうナビダイヤルってどうして、呼び出しメロディ→「ただいま電話が大変込み合っております……」のメッセージのループを3周くらい聞かないとつながらないんだろうね?)、BSの料金は解除してもらえることになった。後日、契約書が送られてくるとのこと。
掃除して、灯油を補充しにポリタンク抱えてガソリンスタンドに行き、それが済んでからようやく買い物に出かけた。コーヒー道具一式を揃えるつもりだったが、見たら存外に高くて考え直すことにした。ドリップポットが5000円以上する(ものも多い)なんて、想像してなかった。そもそも俺はそこまでお金を出して道具を揃えるほどコーヒーが好きなんだろうか? でもまあ、好きだからではなく、好きになりたいからこういう行動に出ているのだから、この自問は諦めるための方便でしかない。ともかく、コーヒー道具はひとまずアマゾンとかで廉価なものを見てみることにして、食器の水切りかごと落し蓋(小サイズ)とサコッシュを買って帰った。水切りかごは、一人暮らし始めたときにとりあえずドラッグストアで買ったプラスチック製のちゃっちいやつを長らく使っていて、水垢とかカビとかが露骨に出るので精神衛生上よろしくない(定期的に洗えよという話だが)ので今回思い切って買い替えたのだった。ほんとは、水切りかごってテクノロジーとしてどうも中途半端だぞという感じが漠然としていて、洗ったらふきんで拭いて食器棚にすぐしまう形態が今なお最良だと思っているんだけど、今後の生活においてそうした水準の丁寧さを維持してゆける見通しがないので、仕方がなく次善の策として汚れにくい/汚れが目立ちにくいものに差し替えることにした。
帰宅し、疲れたのでエロ音声を聞きながらしばし寝そべって休んだ。スーパーに買い出しに行った帰りに近所の初めて入る喫茶店でハンドドリップコーヒーを飲んだ。酸味が出ててグー。しかしカフェって場所は落ち着かないよ。なにか、つねに見られているようで……。
ふたたび帰宅してひじきの煮物をこしらえた。しかし煮物やってたらまた出遅れて、先週行きそびれたカレー屋にまた行きそびれた。今日は午前中に起きたから時間余裕かと思ったんだけどなぁ……。<考え方のずさんさに気が付いていない
都内に出るのはまたしても諦めて、近場の温泉施設にサウナ入りにいくことにした。ここんとこ季節の変わり目で体調が狂いやすく、気持ち的に遠ざかっていたんだが、この数日こう寒いと外気浴が恋しくなる。温めることで自律神経もととのうカナ?なんて。
帰りに施設近辺のカレー屋で夕食にした(結局カレー)。伝統的なとろみのあるカレー。創業十何年、ワンオペ女性店主の身のこなしが堂に入っており、全てにおいて最適化され切った手さばきの鮮やかさに見惚れた。新体操か何かを見ているようであった。
帰り、本屋に吸い込まれ、瀬尾幸子『みそ汁はおかずです』と出会い、購入。自炊を続けていくためのサバイバルガイドとなろう。土井善晴本とも響き合いますね(『一汁一菜でよいという提案』)。炊事まわりはもっともっと武装したい。
午前4時前に帰宅、眠って眠って14時過ぎにようやく起き出す。起き上がると肌が乾燥していて違和感があり、掻破行動が止まらないのでシャワーを浴びた。何度繰り返しているかわからないが風呂に入らずに寝ると必ずこうなる。上がって体を拭くと上半身がまんべんなく痒い。カーテンを締め切った部屋で保湿クリームを塗る。いろんな場所でかゆみが発動するので、そのたび「あっ」とか「おお」とか声が出る。それでも掻かずには済む。朝食(昼食を摂るのにさえ遅い時刻だけど)としてシリアルとみかんを食べる。寝すぎた日の常として頭が痛いので外に出る。携帯電話に入れたスケジュールアプリが、ケータイ大喜利スペシャルの放送を告げる。よく見てみると地上波ではなくBSプレミアムで放送すると言うので、これを機にBSの電波をテレビに映せるように設備を揃えることに決める。で分波器というものを購入するに至る。地域の家電量販店には、(何と言うか)かっぷくのいい、高くて薄くて細い声の、好みの女性が働いている。さらに、延び延びにしていたメタルラックの購入・導入にも踏み切る。プリンタとテレビを格納するためのものだ。空間を縦に使うということをこのごろようやく覚え始めた。地域のホームセンターには、かっぷくのいい、アニメ声の、顔がカエルに似ている、非常に好みの女性が働いている。既婚者なんだろうな。棚板と柱をばらで買って、ビニール紐でぐるぐるにして手で持ち帰る。歩いて15分程度で、まぁ歩いて持ち帰れない距離ではないんだけど普段体を使わないのもあり、家に着いて荷物を置けば手が震える。「握力が死んだ」という表現が浮かぶ。力が死ぬとは少し奇妙な表現で、握力というはたらきよりはそれを実現する機構のようなものが動かなくなったという事態を表現したいように感じられるけれども。少し休んでから、組み立てたラックにテレビを据えてケータイ大喜利を見るビジョンを描き、そこに何が足りない? 酒とつまみだ、ということでセブンイレブンに行った。でラックを組み立ててテレビを設定してみたんだけども分波器の端子を差し込んでもBSが映ってくれないのね。なんかどうも電波が受信できてないらしいのでこの共同住宅の設備の不具合を疑って、それは明日電話することにして今日はあきらめて、いろいろ散らかしてたものを片付けてたらようやく腹が減ってきたので再びセブンイレブンにカレーを買いに行って食べた。起きたのはかなり遅かったけれど、こういう休日も悪くないなと思えた。というより休日はこうした身の回りを整える活動をしているのが常だから、「こういう休日も」ではなく、遅く起きたにもかかわらず休日を気持ちよく過ごすことはできるのだなという発見があった。その要諦は、「徒歩圏内で済ませること」「あまり欲張らないこと」にまとめることができる。
職場の送別会。宴会のあと2次会でカラオケ。カラオケはやはり一人で行くものだなと思った。周囲が騒がしいとものを考えることができなくなるのは、発達障害的な特性なのだろうか。
午後2時半ごろに先輩社員とともに抜け出す。帰り、タクシー乗り場で40分くらい待たされる。夜になると客引きが少なくない歓楽街で、治安の悪さはもともと感じていたものの、深夜となるといっそうディープで、泥酔して立てなくなってぐずぐずの50代くらいのおやじ(と、それを引っ張ってなんとか立たせようと苦闘する連れの女性)とか、列の前後でなぜか一触即発の小競り合いを始めるお兄さんとか、列がなかなか進まないことに周りに聞こえる声量で文句を言ったり、おっパブで相手をしてもらった女性の容姿に言及し「ハズレ」であるなどといった下品な話を大声で話したりする3人組とかがいた。夜のお仕事って、業務そのものの内容もあるけれど、こういったならず者を相手にしなければいけないから神経がすり減りそうだよな、と思った。
朝ごはんにニューデイズに(遅刻)、昼ごはんにセブンイレブンに食物を調達しに訪れた。最近、菩提心(アトピーを改善したいと本心から願う心)が高まっており、資料を集めたり勤勉にお風呂に入ったりしているんだけど、永田良隆という臨床医によれば植物油と動物性たんぱく質の摂取を控えることでアトピーが改善するというので、そのつもりで陳列棚を眺め、ひとつひとつその構成員を分析してみるとなんかどれもこれも禁忌に抵触するのね。肉か油がきまって中心的な位置を占めている。特に惣菜パンなんかを選ぼうとすると何にでも油というかマヨネーズが含まれていて途方に暮れる。やっぱし自炊する時間を確保できないと食べるものをコントロールするのは難しいです。夜は、ジョナサンで野菜たっぷりタンメンをメニューから探し当てて食べた。この一杯で相当量の野菜を食べた感じがする。あと出社中につくしを見た。関東にもあるのか!(なんか、生活域では長らく見ていなかった気がするので)
朝6時過ぎに目が覚める。さすがに早すぎるなと思いもう一度寝たら次に目覚めたのは12時前だった。体はうまく調整してくれないものだ。
炊いておいた玄米と、買っておいた惣菜のひじきの煮物で朝昼食を摂る。あとは味噌汁が欲しいな。あと焼魚とか……。NHKのど自慢を見る。いつの間にか高校野球に切り替わっている。具合が悪いことに気が付いた。ループするブラスバンドの演奏がかすかに不快。今日は部屋の掃除をしなければならないが、その力が出ない。しばらくうだうだしてから、まず外に出ることにした(ずーっと家にいると頭痛くなってくるんですよね……)。ガス代の振り込みを済ませ、コーヒー屋を覗いて入らず、スーパーに入ってひじきの煮物(今度は自作)の材料を調達しようとしたら人参が3個セットのものしかなく、一人暮らしでそんなに使わない……とやる気が失せてそのまま帰宅した。日向の散歩は気持ちよかったが体調は戻らず、またひとしきりうだうだしてからなんとか掃除を始めた。掃除機をかけるとき必ず歌を歌う。そんなこんなで16時とか。出掛ける前になって、奨学金やクレジットカードの銀行振込を今日すべきであることに思い到り、ブラウザでネットバンキングの画面を開いてこちゃこちゃする。また、先月あたりから空き時間でこつこつ立案を進めていた金銭管理方式の変更も、準備は万端ではないものの始められるところから始めてみようと思い立ち、これもATMに駆け込んでこちゃこちゃやる。そんなこんなで最寄り駅のホームに降り立ってみれば、行こうとしていた店には閉店15分前ぐらいに到着する見込みであることが判明し、頼んでから料理が出てくるまでの時間、食べる時間と考えたら断念せざるを得ないと結論付けた。直前に迫らないと具体的に考え始めない癖がある。そういうことがあり、まあ場所だけでも押さえておこうと予定通りの経路で移動した後、降り立った駅の隣駅エリアまで歩いてゆき、あまり美味くない海鮮丼を食べ(なんだか色々と予想通りだった)、書店に来たもののじっくりと物色する気にもなれず、さらに腹痛が追い打ちをかけてそそくさと退散し、ラストオーダー3分前の喫茶店でコーヒーを飲んだらようやく少し元気になった。カフェイン不足説。私にとってはコーヒーを飲みながら本を読むとかあるいはコードを書くとかいったことは自らのキャパシティをはるかに超えたことで、飲み物が冷めてしまうことが気になって作業に集中できない。けれども実際のところ、私のようにコーヒーを飲むことに専念していてさえ最後は少しぬるいものを口にすることになる、そうした速度でコーヒーは冷めてゆくのだから、コーヒーを傍らに何か仕事をしようとする人は、結局のところそれが冷めてしまうことを一向に意に介していないのだろうと思う。まあ自分の仕方で楽しめていればそれでいいではないか。コーヒーをすすっては虚空を見つめてぼーっとする。そのときの心持ちは、サウナ施設でサウナ→水風呂の後にくる休憩フェーズでの時間の流れ方と同じだな、と気付いた。
10時過ぎに目覚める。内科に行く。『油を絶てばアトピーはここまで治る』を待合室で読む。姿勢が悪いのか、少しすると呼吸が苦しくなってくる。背筋を伸ばす。隣に座る夫婦の匂いが気になる。背筋を伸ばせば呼吸は楽になるが、その姿勢を維持するのが難しい。疲れてくる。姿勢がだれ、呼吸が苦しくなってくる。その繰り返し。 クリーニング屋にスーツを取りに行く。スーパーの休憩スペースで100円のアイスコーヒーを飲む。コーヒーはブラック。ブラックを試してみたい気を起こした。砂糖やミルクにごまかされていない、素の味がわかると思ったから。コーヒーのことを知りたいという気持ちが昨今ある。マンダリン、デミタス、エスプレッソ、コーヒー用語がこれだけ世の中に流通しているのに、その意味するところ――単に材料や製法の違いとして知るという以上に、その違いが世の中にあるということの必然性を納得したい――を知らない。豆の種類とその違いが抽出液の味わいに何をもたらすのか。それは言ってしまえば趣味の領域で、コーヒーというものに格別の関心をもつものだけが知ればよいことなのだけれど、その一方で私たちの生活環境はコーヒーにさらされている。自動販売機で飲み物を買おうとすれば必ず複数種類の缶コーヒーが選択肢として設けられている。コンビニでは淹れたてのコーヒーを提供するための設備が整えられている(単にコンビニで特別の扱いを受けているということで言えば、おでんなども同じカテゴリに入るけれども)。私自身は、仕事中の息抜きとしてインスタントコーヒーを飲む。息抜きと言いつつ、飲みながらメールなど読み始めてしまうので、まぁ息抜き下手だなと思うのだが。
コーヒーの話が長くなりましたがスーパーの100円のアイスコーヒーをブラックで飲んだらまずかったんですよ。1回100円の自動抽出マシンなんぞで淹れたものなど飲むもんじゃない、ひとときそう思ったものの、考えてみると俺ってコーヒーが別に好きなわけではないのかもしれない。というか振り返ってみればコーヒーを飲むことを通じて格別にいい思いをしたという記憶がこの方ない。ただ、コーヒーには何かあるはず・・・、そう信じて、見つけては飲む、見つけては飲むということを繰り返している。うーむ。ここは質の良いコーヒーに触れてみるべきではないのか。たばこも吸っていた時期がいっときあったけど、あれも「わかば」とか安物ばかりに触れていたから「吸っても吸わなくても同じ」みたいな曖昧な結論にしかならなかったのではないか。しかしながら今までの話をひっくり返すようなことを言えば、そもそも私は嗜好品というもの全般に対して折り合いが悪いのではないかと思われるふしもある。一言でいえば、「良さ」を感じることのできる量がきわめて小さい。食べ物でもお酒でも、ひと口ふた口目までは感動があるのだが、その後はもう消化試合のようになってしまう。音楽でもそう。エロでもそう。ほんとうに感じているのは最初の最初だけ。
ところで。2週間前に大学時代の友人たちと国内旅行に行ってきて、帰りに行き着いた羽田空港で一人になり、リムジンバスのチケットを買ってから乗車するまでのひとときに、なぜか高校時代に好きだった人のことを思い出していた。そしてそのことをきっと日記に書こうと思っていたのだが、2週間も経ってしまいました。まぁ言葉にしてみるとそれほど長い期間ではないか。いまだに高校時代の好きな人のことを思い出すなんて、まぁ平たく言って寂しい(&人との出会いがない)のだろうと思う。しかし2週間前の私がどういう熱量をもってこのテーマを想っていたのかをよく思い出せない。高校時代の私は、彼女のことをいわば神として捉えていて、自分にないものをすべて彼女は備えていると思っていて(大して詳しく知りもしないのにね)、だけど調理実習で同じ班で作業したときに、バニラエッセンスってどんな味がするんだろうとぽつり疑問をつぶやいた彼女に僕は、バニラエッセンスって舐めると苦いんだよと教えてあげたかった。その一点においてのみ、人生に関して僕が彼女より一歩先に進んでいると思えた。みたいな話。
慌しい朝。炊飯器をセットして家を出た。13時間後、帰宅する。炊き上がって保温のまま長らく過ごした玄米に、無印良品のレトルト食品をかけていただく。胡麻味噌坦々スープ。うまい。無言。しかし・・・。うまい。無言。しかし・・・。物足りない。行き足りない。坦々ともっと一体になりたい、というわけのわからない不満を感じる。足りないのは、坦々以外のすべてだ。
結局、さば味噌缶も開けた。
でも、ぬか床はハードル高いよ。2、3日おきには手入れしないといけないし。必ずしもぬか漬けを中心に食卓は回っているわけでもないから。てか、その見地からすると、毎日の食卓に漬物を添えること自体が「上質な生活」の範疇に入ってしまいますね。定食屋で出てくるようなセットが僕らのごちそう。いや、本当にそうで、私はここしばらく長らくそういうものにありつけていなかったのですよ。忙しくって。忙しくって、自炊する余裕もなくって、ものの考え方も狭窄的になるばかりで、頼れそうなものも手近になくって、牛丼ばかり食べていました。それと朝は総菜パン。昼はコンビニ弁当。外食にすると、相当意識的に食のコーディネートを意識しない限り揚げ物とか味の濃いものになりますから、健康な食事のためにはまず自炊するのが近道だと思うんですけれどそのハードルが残念ながら高かったんだなぁ(忙しいときとかまじでみんな何食ってるんだろう・・・)。それがここ半月ぐらいでようやく改善し始めて、仕事の負担が減り、睡眠が増えて、時間が増えて心の余裕ができ、部屋の掃除に精を出して、図書館で休日の半分を過ごして、街に買い物に出たら魚定食を食べさせてくれる店を前に見かけたのを思い出して、入った次第なのですが。白ご飯と、ぶりの照り焼きと、味噌汁と、付け合わせに御御御付と切り干し大根の煮付けで、正直言って感動するほどうまかったわけではないんですけど、体が求めているものはこれだったねということが明確にわかった。満腹にならないんですよ。小食になったと思ってたんだが同じものばかり食いすぎて「それはもういいです」と体がシグナル出してただけなんだね。しかしこんなふうに目が覚めたようなこと呑気に書いてるけども、健康を維持するために必要な活動すらままならないようでは、ほんとに働き方考え直したほうがいいよな。
文化的な最低限度の生活の余地が保証されているかどうかを判定する目安の一つとして、「ぬか床を維持できる」があると思う。
今日も調子に乗って遅刻だ。気付いたら8時間睡眠を確保していた。もはやわたしは遅刻癖のある者を「ダメ」と表現してはおれない。その気持ちがわかってしまったから。そして8時間の睡眠は当然確保されるべきものだろうから。人にはそれぞれの事情がある。そういえば、勤めるようになってからその存在に気付いたものとして、午前中の遅い時間帯や昼間に電車に乗っている女子高校生(なぜか女子が多い気がする?)というものがあって、どんな事情で彼女らがこんな時間に電車に乗っているのか、いまだに明確な答えを得たことがない。普通に通院とかかな。私は高校時代は自転車通学で無遅刻皆勤賞だったから(たしか)、想像しがたいんだよね。
休職転職バックレの可能性を連日考えるのですが、結局の所俺の不満は「どうしてこんなにも俺はこの会社という場所に閉じ込められているのか」ということにある。毎日夜遅くまでデスク前に張り付かされ、帰れば風呂に入って寝るだけ、テレビで紹介してる時短料理すら用意することができず、買った本は読めず(これは会社だけのせいではないが)、世の中にはおもしろいことがいろいろあるのにどうして俺はこの場所で悶々としながら過ごすことを強いられているのか、と。とにかく閉塞感が強い。
問題の核心がこういうところにある以上、その不満はこの仕事を辞めることで解消・解決するのか?ということにはぜひとも答えを与えなければ筋が通らない。でも、まさにそこがあやしくて、会社に長時間拘束されるのは何も今いる業界だけの話ではないことぐらいは容易に想像がつくんだよな。では何を選択し、どう行動すればいいのか。腰を落ち着けて、あるいは少しずつ継続的に、調べ考えていくというプロセスをとらないとそれがわからない。もどかしいね。
最近遅刻魔だ。遅刻をして強くとがめられることのない職場環境だからその点は救われていると言えるが、遅刻を繰り返している原因を検めてみれば、勤務時間の増大に由来する数ヶ月来の疲れが蓄積されており、死にたい、会社やめたい等のネガティブな考えが頻繁に脳裏を去来するような状態に落ち込んでいるという自己認識に行き当たる。全体としては早くこの状況から開放されたい気持ちでいっぱいだ。
気持ちの問題もありつつ、しかし現実的に考えても、勉強も自炊もろくにできないこの生活状況じゃ、端的に言って生きてる意味ないなと思う――というのは極端な断定だが、この2つがなければ私の生活は疲れ果てていく一方だと信じる。恋人がいたときのように(自炊はしてたけどね)。……恋人、欲しいのだけども。
きわめて暫定的な結論として、使えるものは全て利用するようなつもりでいなければ、……そうでないと、仕事というものといくぶん快適な関係を結ぶことはできないだろう。遅い朝の準備の中で流し台に立ち、そう思った。
近頃、世間が私に対して冷たいような気がして、そうだな私も30手前だからな、身だしなみに気を遣わない覇気のないおっさんは軽く扱われて当然か。と、やけに納得する。着るものは「着ていて楽なもの」という観点だけで選び、頑固な寝ぐせはお茶目と言うよりはだらしないという表現が適切だろう。おっさんは舐められて当然・・・。そのことを自覚してか知らずか、ようやくコーディネートというものをまじめに考え始め、『メンズファッションの解剖図鑑』でオススメされていた無印良品の洗いざらしブロードシャツとユニクロのテーパードパンツを手にした。(ブロードって何ですかね?)
ここしばらくは自分の暮らしを整える活動に勤しんでいて、まぁ主にアパートの部屋を過ごしやすくカスタマイズすることに血道を上げる、じゃなくて単に少し集中的にそうしたことに手間と労力を注いでいると言いたかっただけ。そしてその活動とは、不要なものを捨てることと、必要かもしれないものを買って部屋に装備することの2点に集約される。当たり前ですね。
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カレーの材料を買おうと近所のスーパーに向かう道すがら、高校時代の同級生、わたしが初めて好きになった人、初恋の相手とすれ違った。たぶん見間違いだけど。よく見間違えるんだよ、似たような人結構いるから。私が今住んでいる場所は高校とは離れた土地だし。でも元気そうで良かった。いや別人だと思うけど。でもそう思うとなんか自分も元気出たんだよね。 (あーあーひょんなタイミングで彼女と改めて出会わねぇかな。)
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仕事が落ち着いてきたので、ようやく暴飲暴食せずに済むようになってきた。暴飲暴食と言っても、どこかにあるであろう閾値をまたいで食べすぎたり飲みすぎたりすることを指しており、何でもかでも人間をコンピュータに例えなくても良いでしょうという向きに配慮して (まぁその向きって私のことですが) 言い換えるなら、食事量としては足りてるにもかかわらず慰めとしてする食事のことをここでは暴飲暴食と称します。それが、近頃抑えられるようになってきて、それには自分のお腹の膨らみがいよいよ堂に入ってきて安らかな腹式呼吸に差し支えるとか、なんか内臓 (胃のあたり?) が何かに触れている感じが時折するのは脂肪の溜め込みすぎに由来してるんじゃないかとか、ってそれは医学的知識も何もない中で私がはぐくんだ妄想に過ぎませんが、書いてる自分でも一文が長すぎて何の話をしてたかわからなくなるんですよね、文が完結する前に。もともとワーキングメモリ少ないのにそういうスタイルでものを考えるから、やめておけばいいのに。話をもとに戻すと、仕事が忙しくって、暮らしがままならなくって、私という一箇の人間がその可能性を実現させられずに苦しんでいると感じるときには、やたらとアイスとかポテチとかチョコとかを買ってきて無心で食ったりするじゃないですか。するんですよ。お腹が空いているというわけでもないのに、味わう余裕もないのにむしゃむしゃ食うんです。これは、そうでもしないとやってられないというのは不正確で、「そうでもしないとやってられなくなるんじゃないか」という不安に抗えなくなることで起こっている現象なのだろうね。