2017年ニレ男

2017.12.02 (金)

お久しぶりですこんにちわ。めっちゃ目が乾燥します。二重に加湿してるのにねぇ。就職して以来、長らくサクラエディタでこの日記も書いてたのですが、等幅フォント & 行間隔が文字間隔と同一という方眼紙のような環境に敷き詰められた文字を読んでいくのは疲れます。ていうか全体的に疲れてますよね最近。仕事が忙しくて。やっぱりシステムエンジニアってのは忙しいですよ。辞めようかなと思うことがないわけでもないが、具体的なビジョンはない。どういう結論になるにせよビジョンが描けるような情報は集めていて損はないかもしれないが。

今日は、午前中に歯医者に行った。それから家に帰って、掃除をした。毎週掃除する俺えらいと思うが、主に掃除機とクイックルワイパー、それとトイレ掃除だけだし、毎週などと誇らしく言ったものの高が週1回なので主婦の足元にも及ばない。でも自分の部屋をメンテナンスするのは気持ちがいいし、するべきことをしているという気がする。部屋が散らかっていると、知らず、心も荒んでくる。そのへんの価値観をわかってくれない彼女なので、関係が今非常に微妙なところにある。(もちろん、要因はそれだけではないが。) 今日も結局、会わなくなってしまった。

部屋の片付けをしていたら、書類が整理されていないことや本の収納場所に困ることなど新たな課題が芽吹いてきたが、一旦置いておくことにしてルーチンの作業を片付けたら12時を過ぎていた。近所のそば屋でにしんそばを食べた。にしんそばは個人的にひいきにしているメニューの一つだ。見つけたら頼むということだ。歯医者で打ってもらった麻酔が残っていて、うまく食べられなかった。唇の筋肉を自由に動かせない(どう力が入っているのか自覚できない)ということは、食べるという行為にこれほど支障を来すのかと。店内は、親子連れが目立った。

ホームセンターに行った。ホームセンターとは、一人で来るべき場所ではないなという感慨をもった。カーテンを吊るすためのフックが破損してから2週間ほど経過しており、その替えの部品と、もろもろの日用品を調達した。家電量販店で洗濯漕の洗浄液を購入した。洗浄液は、Panasonic、日立、SHARPがそれぞれ販売しており、中身はまったく同じでパッケージの絵だけが違うので、無意味に悩まされる。前回と同じく日立を手に取った。

朝から顔を見せてはいた頭痛がはっきりしはじめていて、セブンイレブンでアイスを買って食べた。それとこれとは関係ないのだが、そういう思考回路だ。

荷物を置くために一旦帰宅して、押し入れに頭を突っ込んでケータイをいじった。すこししてまた出発。思い付きで、近くの繁華街まで自転車で向かった。所要時間40分弱。ほんとに最近、運動不足だ。体重も増えてきたし。中年になるということの典型的な兆候か。途中で、道を調べがてらセブンイレブンに立ち寄って、チキンとカフェオレを買った。買い物袋を持ったままコーヒーマシンを操作してカフェオレを完成させるのに難儀して、自分の不器用さを痛感した。確認になるけれどもこれって器用さの要る場面だよね。しかし、こうして振り返ってみて気付かざるを得ないが間食が多いな。このあとさらに、ゴミを捨てに寄ったセブンイレブンでチロルチョコを3つ買っている。

繁華街にはまだ着かないが書くのに飽きてきた。書き始める前にちょっと思ってたのが、さみしくて書き始めるのかも知れないなぁと。さみしさと所在なさは紙一重だから。しかし、思わず日記を書き始めてしまうような時間がもてたのはよいことだと思う。ここ1年くらい、いままで培ってきたものを削り出すような生き方を続けてきたが、自分にはもっといろんなことができるのだってことをアピっていきたい。


2017.11.02 (木)

思うに私が彼女というもの一般を欲している最大の事由は「寂しくならないように」「人生が空しくならないように」であり、それを解決するために必ずしも彼女という手段、あえて手段と言うなら、に訴える必要はないのであった。手段と言うほど自由に選びとれるものではないが。そして悪いことに私は人間がそばにいると自分が自分でいるのが難しいのである。具体的には本を読む、音楽を聞く、文章を書く、そうしたことが人間のかたわらにあっては難しい。自分の中の外向きの部分だけを出しているから、残りの半分はその間は死んでいる。そうした性質は可能なら解消すべき障害ではあるけれど、ただ現状としてそうであることは認めねばならない。つながりは必ずしも明確ではないが、だから、私がまずすべきことは、人間というものとよりよく付き合える接し方や、距離のとり方を学ぶことだろう。毎日べったりだときびしいのだ、少なくとも今は。だから結婚というものにも躊躇する。いずれ感じ方は変わってゆくものかもしれないけれど、しかし、今はこの現状を認めて、そこから出発するしかない。少なくとも、こんなふうに文章を書いて内省したり、メモをとりながら本を読んだりというデスクワークの時間をなくすと非常に精神の具合が悪くなってくるということは、この1年間ほどでわかってきた。


2017.11.01 (水)

もうほんと前回に何を書いたか覚えてない。そのくらい間も空いてるし気まぐれに書くものになっている。この日記は。それはかまわない。恋が終わろうとして死にそうになっています。なっていました。今はなっていません。クールダウンです。恋と書きましたが恋ではなかったというのが今の見解です。というかなんか最初からそうだった気がする。ポジティブな感情が溢れないのよ。考えてみると昔っから人を好きになるときは同じだったように思う。好きなんだけど、恋愛には発展しえない「好き」。基本的に人をどうこうしたいとか、訴えかけて何かを引き出したいという気持ちが起こらない。遠くから見ていられたら幸せなんだ。なんだけど家に帰ると寂しいんだ。寂しくて、空洞で、なんのために生きてるかわからなくなるんだ。彼女がいるとそれがわからなくならなくなるんだ(複雑)。はい。彼女がいたところで生きる意味が「わかる」「見出せる」わけではないのが今の私の限界です。人間に対する態度を変えなければ人間のかたわらに心地良く暮らしてゆくことはなりません。

ここまで書いてラジオを聞いたりネットを見て声出して笑ったりしていたら、すっかり勢いなくなってしまった。ので軽くまとめて今日は終わる。選挙に落ちた政治家が私の不徳の致すところとか努力不足とかと何でもかでも自分のせいにするのはあまりにいいかげんだと思うけれど、しかし俺の問題は俺に起因する問題なのだと思う、それは譲るつもりがない。少なくとも相手を変えたところで解消するものではないと思う。


2017.09.28 (木)

ひとつには、机が狭すぎる。わたしの、下の2ヶ月前の日記をにらみつつ言うならば、知性的活動を許すスペースがわたしの机にはない。私の机には、使わないスピーカーと、使わないペン立てと、マッチと、エアコンのリモコンと、使わない研究社大英和辞典と、テレビのリモコンと、温湿度計と、綿棒と、使わない制汗スプレーと、使いかけのティッシュと、つまようじと、携帯ラジオと、返しそこねた葉書と、コップと、ポテトチップスと、使わないコースターと、非常用クッキーと、デンタルフロスと、セロハンテープと、使わないポケットWi-Fiルータと、情報カードと、ろうそくと、握力を鍛える器具と、プチゲーム機と、使わないポケットティッシュと、ルーペと、コマンドプロンプトの本と、耳かきと、その他雑多な小物の堆積がある。書いてみて気付いたことには机に置いたものの使っていないものが多すぎる。まずそれを片付ける。

片付けた。思うのは、机の上の9割がもので占められていてはいけないということだ。隙間がなければいけない。完全に心理的なものだと思うのだけども、いや、心理的にというだけではなく、げんにタイピングするのがたいそう楽になった。打ちにくいのはキーボードのせいか、ちっ、会社のと同じにしとけばよかったな、とか長らく思っていたのだが、なんのことはない手を置く場所がないというだけのことであった。手をキーボードのホームポジションに置いたときの、あの、腹の部分というのか、机と接する支えの部分の置きどころがなかった。体勢が違うだけで打ちやすさはこうも違うものか。キーボード買い替えずに済んだ。

ところでポテトチップスと合うお酒ないですか。家に溜め込んでいたものからフレーバードジンを試し、甘味の強い日本酒を試し、いずれもしっくり来ずなのですが。考えてみればお酒に合うおつまみを見つける才能が絶望的に欠けているように感じる。私の人生いつもそうだ。食べ物と飲み物を抱き合わせで買う癖があるくせに取り合わせのセンスがない。恋人はそのへん鼻がきく。無理にアレンジして自分の好みに落とし込もうとするきらいはあるけれど、それも含めて快楽という現ナマを手にすることに手抜きをしない。

机の余白は広いほうが、絶対にいい気がしていてそれを表明したいのだけども、特に証拠はない。だけどもいざお勉強しようとノートを広げようにも広げられないようじゃ何もはじまらない。私の眼とディスプレイの間にさまざまなノイズが含まれていれば注意はそらされ拡散してしまう。ものがたくさんあるというのはそれほどタフなことがらなのだ。そして、余白があるというのは使われずに空回りしてる領域があるということではなくて、そこでいろんな仕事をするためのワーキングメモリが確保されてるということだと心得よ。

あとポテチに合うお酒の話ですけど、やっぱ、ビールですかねぇ。。。ビールはたいていのジャンクなものに合う。でも普通の缶サイズは私には多すぎるのでスーパーとかで売っている135mlくらいのちっこいやつがちょうどいい。


2017.07.23 (日)

知性的であろうとしている。サラリーマンになっても僕の人生の目指すところは知性的たることなんだ、ということを書こうと心に思い描いて帰ってきたが、それ以上の言葉が継がれないことを見ると書くほどの内容を備えていない単なるスローガンのようなものとして住みついた言葉だったのかもしれない。ところでスマートホンの狭い画面でぽちぽちTwitterのつぶやきを紡いでいるときの感触と比べて、こうしてデスクトップの画面見つめてテキストエディタ上で「書くべきこと」を探しているときはとても苦しいな。書くべきことはたくさんある気がするのに、言葉が見つからなくて呆然とする。仕事してるときと同じだ。断片をそれなりの密度で整えることはできるけど、全体をまとめるテーマみたいなものを持っていないんだな。

知性的であること、考える人であること。考えるためには、ではなく、考え続けるためには、であるべきだ。いざというときに言葉が出るためには、普段から考え続けている存在でなければならないはずだ。ある人は、臨機応変に言葉が出てくるようでいて、実のところ、一度考えたことのあることを取り出しているというのが事実だったりする。普段の積み重ねが大事。そして考え続けるためには、書くこと。書く材料を供給するために読むこと。書いて、読んで、さらに話して、聞いて。言葉を使うこと。言葉を使うことは思考そのものではないが、言葉を使うことで思考を活性化したり、軌道修正したりできる。言葉とはいわば思考のインターフェースのようなものか。いまはインターフェースに全面的に頼らざるをえない。とりあえず生活を回すこと自体が最大の関心となり続けているいま、思考するためになるべく固定された足がかりをわかりやすい場所に置いておかないと、簡単に踏み外してしまうからね。具体的には、毎日10分だけ本を音読する習慣をつけている。音読すると自分というハードウェアが温まってOSが起動していく心地がする。


2017.07.16 (日)

家のメインPCがデスクトップで、しかもモニター代わりにテレビ画面を使ったりしているもんで立ち上げるのにいくらか心理的障壁があって、仕事から帰ってきて日記書こうかーって腰の動きにならないのですよね。まぁその前に「忙しい」ってのが一番大きいのだと思いますが。

日記を書くのもそうだけど暇って大事だなって近頃は痛感してて、まぁ忙しいのですよね(2回目)。時間がなくて追い詰められてると「とりあえず死なないためにどうするか」って思考に押し込まれがちというか、むしろ思考そっちのけで手が先にどんどん進んでいっちゃう、悪い意味での見る前に跳べになってしまう(意味合ってる?)というか。問題解決の必要に迫られたときに、いつも取ってるお決まりの手段にすぐ飛びついてしまったり、問題の所在をよぉく見極めるということをしなかったり。関係あるかわからないが、1度目の大学受験の時、ある哲学科の2次試験の面接で、「面白かった哲学書はありますか」という問いにウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を挙げて、まぁ目は通したものの中身なんてろくに飲み込めてなかったんで「よくわかんないけどなんか面白かったです」みたいな答えを返したら、あなたが哲学科に学びに来るのは贅沢ではないですかというようなことをある教員に言われ、応答に窮した記憶がある。そのときは、一見無駄に思えることも意外なとこで効いてくるようなものだよというような答えをぼんやり頭の中で泳がせつつ、それ出すのも何か違うなぁと感じて黙っていたのだけれど、いま思うに、その人は、みずからの学ぼうとすることを趣味に閉じ込めるのではなく、それが人間の生――自分だけでなく、人類の――にどのような影響を与えるかを考えよ、というようなことを促していたのかもしれない。やはりトポスのレベルでしか語れないのだけど、学問は役立てるものである以前に、それが人をある深いレベルで変えるものである、ということに、自覚的であれと言っていたのかもしれないと。

また別の話。自分はシステムエンジニアという職種を選んだわけだけど、その動機って言ってしまえば「ITの勉強をしたかったから」になっちゃうんだよな。ぶっちゃけ開発者として何かを作ることに魅力を感じてたわけじゃなくて、まず身の周りの情報機器やインフラストラクチャーの仕組みを知りたくて、そのためにはそれを勉強せざるをえない環境に身を置くのが一番だと思ったんだよね。プログラミングとかって今でさえ敷居高いと思うんですよ。ネットで調べて出てくる情報ってやっぱり「同業者」向けだし。まぁそれって啓蒙活動が手薄というよりは、コンピュータテクノロジというものが他の理工学と同じで今のところ専門的な領域でしかありえないってことの一つのあらわれなのかな、という気もしますけど。どう説明しようと難しいものは難しいんだみたいな。難しいというか、はしょって説明してもあまりうまみがない気がする。概念として理解するだけじゃなく、トラブルシューティングとかで実際に使えなきゃ意味ない知識でもあるし。

飽きてきたのでまた今度――と思ったが、先週あたりから断続的にルータのランプがピコピコ点滅してインターネットに繋げなくなっており、これといってやることがないので(これといってやることがないときにインターネットをするわけだが)、続きを書いておく。J:COMのインターネットアクセスはここ1年ほど問題なかったのだが、ここ十数日ほどきわめて不安定になっており、また、いくつかの非本質的な点から企業としてあまり好きになれなかったこともあり、昨日今日あたりで他のISPへの乗り換えを検討していた――というより、乗り換えを断行するところだったのだが、一度乗り換える理由を書き出してみるとあまり合理的な理由が見つからないというか、他の企業でもそうかもよって点しか出てこなかったので、とりあえず断行はやめて、2chでISPの乗り換えに有用な情報を探しにプロバイダ板を覗いたら(Google検索でトップ数件に躍り出る情報源に対する信頼度の暴落ぶりはひどく、何か漠然とインストラクティブな情報が欲しいときに「とりあえずぐぐる」ということを、忙しさで慢性的に判断力が低下している私でさえ近頃控えるようになった)、「J:COM Narrowband」というスレを見つけてコレがJ:COMの今の本スレらしいのだが(ナローバンドというのは自嘲ぶくみの揶揄なのだろう)、J:COMのサービスに不満を持ちながらもなんやかや使い続けている人たちのゆるいコミュニティがあり、まぁ簡単に言ってそこに居心地の良さを感じてしまったので、当初の予定を変えてJ:COMともうすこし付き合ってみることにしたのだ。問題解決を急がなくてすむという点で暇は大事だ。

仕組みを知りたいというのが僕の興味のあり方で、作る人より見る(診る)人、出来上がっているものを解剖する、そういう関心のあり方なんだけど、そういう気付きを家に持ち帰って手など洗っていると、石鹸が小さくなっていて泡立ちが悪い。石鹸が泡立つ仕組みを私は知らないけれど、しかしそれを知りたいという欲求はさほど湧いてこない。レクチャーしてくれるというなら興味深く聞くけど、自分から本を探したりはしない。この違いはなんだろうか。仕組みを知るということが純粋な知的好奇心に根付いているわけではなく、知識を応用して問題を解きたい――たとえば、ネットに繋がらないときにその原因を解明したい、というねらいがあるからなのかな。いや、むしろ、石鹸が泡立つしくみを原子レベルで説明されたとしても、それが意味しているところを今の自分ではつかみ取れない、それ相応の科学的素養がないから、ということなのかもしれない。ある程度わかりかけてるもののほうがもっと知ろうという気を起こさせるからね。


2017.05.30 (火)

・最近、岡崎体育が好きで、夜な夜なYouTubeで彼のビデオを見ているのですが、彼のよさって批評性がどうというよりもその楽曲がポップスの旨みを湛えていることではないかと思った。湛えているというと大袈裟なのかわからないが。「堪え難い」を連呼すると音楽になってしまうみたいな、原始的な喜びがある。

・今日日記を書こうと思ったのも岡崎体育に刺激されて、という面がないではない。あの不条理スレスレ、というかむしろスレスレ不条理になってしまっている詞を聞いていると、自分も言葉をさわりたくなる。言葉に何かを意味させたり、意味させ損ねたり、言葉を探したり、思わぬ言葉に出会ったりという体験を自らもしたくなる。

・そういう意味でも自分にとって岡崎体育というのはなにか思想的な企図みたいのとは無縁な場所にいる人である。だから彼の作品をめぐって議論が巻き起こるみたいな状況自体、あまりあーだこーだ言わないでというのが本音だったりする。個人的にはね。

・今日は仕事のひと区切りで、なかなか帰れないきつい日々から脱出できる喜びで心は晴ればれのはずだったんだが、退勤直後からなんかみょうな後味の悪さで、その所在もよくわからないんだが「はりあいがなくなった」という感じなのだろうか。勉強とか読書の時間が増えて万々歳のはずだったのだがどうも意欲がわかず、YouTubeを少し見たほかはTwitterを閉じたり開いたりしてばかりいた。中身からっぽでも「働く」ってありかた自体に生きがいを覚えかけているのだろうか。ネットで取り沙汰されるような、用事もないのに職場でだらだらしてるおじさんにはなりたくないものだが、しかしその一方で、それがなぜ悪いのかよくわからなくなってきた。

・一旦1000字ぐらい吐き出してから内容のある部分だけ書き直してみたが、見栄えは悪くないかもしれない。あいかわらず混沌の中でまばたきする日々で、近視眼の傾向は増すばかりで思考はすぐに息切れするのだが、言葉を鍛える機会が減り瞬発力がなくなっただけで、ていねいにつきあってやれば成果は出るものなのかもしれない。


2017.04.27 (木)

例の電子工作の表紙を数秒じっと見てはモンモンとする日々でしたが、結局よくわからないというか、俺はあのカエル君(表紙のキャラクター)を救ってやりたいのだと思った。カエル君には悲しみがある。俺にとってカエル君は悲しみだ。その悲しみは俺という個人に強く結びついているゆえ、カエル君を救うことは自分自身を救うことにもなるのだ。見ていて鬱になる原因は結局明確になっていないが、本の中身を開けて読んでいる分には話題にしてきた鬱や空しさは湧いてこないあたりを見ると、ごく一般論として入口にたたずみ外見だけを眺めてあれこれ恐れたり忌んだりすることは多いんだよなあということを思い起こしたりする。外から見た姿と内から眺めた姿とどちらが正しいということはもちろんないけれども。

Twitterに書く程度のことがらを思いついて、しかしTwitterに帰る気にはいまさらなれなくて、しかししかしTwitterに書く程度のことを日記に書いていけない理由などないという理屈をむしろ積極的な理由に転化してこれを書き始めた。

4月になってお給料がそれほど上がらなかったのを周囲からの自らへの評価に結びつけ、自らへの評価をそのまま自らの価値に結びつけることで、すこし自分を責めていた。ときどきそうして、単純なストーリーが浮かび上がって、よくわかる妥当な対策をとる気を起こしたりする。『いやな気分よ、さようなら』の訳本やはり買うか。原著はもってるけど英語だと本を取るのも置くのも重い感じ。


2017.04.20 (木)

「鬱 対処法」とかで検索したら、うつの初期症状は不眠となんとかとなんとかであると出てきて、なぁんだ自分の鬱は序の口もいってないのだなと拍子抜けしたのだけども、それはそれとして自分の体調や心調(?)の変化に敏感であることはそれ自身美徳であるかな、と思うし、美徳だからといってそれをひけらかす理由もないのだけども、気付いたことを話したいので鬱日記の2。

会社の帰りにiPod nano(2GBモデル)の電源を入れれば、Ponzu islandの「Super Koto」が曲の途中から流れ出した。これはとっても良好な電子音楽で、公平に見て傑作だと思うのだけども、鬱の自分からすると、こんなに色んな音やフレーズを重ねて盛り上げようとしなくてもいいのに、という気持ちが一瞬頭をよぎった。といっても、一瞬だけ一人で興醒めしたあとは、曲のリズムがつんのめるのに合わせて歩調を変えてみたり、「Ponzu Beach」のローファイなイントロが流れ出したときにはニンマリと笑みをこぼしてしまうぐらいで、体は素直に反応する。言い換えれば、鬱は言語や思考といった理性のはたらきに属することがらなのだろうなと思った。「属することがら」とかってもうちょっと特定的なことばで表現しうるところなのだろうとジリジリ思いながら書いた一節ですが、現実をその程度の解像度でしか見ていないのだから把握していないものを書きようもないなとあきらめた格好です。そろそろねなきゃだし。

それにしても、自分が昨日思いつくままに書き散らした鬱フレーズを反芻すると自分ながら胸がしめつけられる。こりゃ毒だな。いま一度反省してみると、「取り返しのつかなさ」がこの感じの背骨にあるみたいだ。取り返しのつかないことをしてしまった、という絶望感。あるいはむしろ、取り返しのつかないことをしてしまった人を見ているときのいたたまれなさ。みたいなのを受信するアンテナが人一倍敏感になるもよう。事態が悪くなっていくのを止められない。ひどい状況を指をくわえて見守ってるしかない。何かが望ましからぬ方向へ進展するが自らはそれに関与しないという構図。「そんなにしないで」


2017.04.19 (水)

図書館で借りておいた本の表紙をなにげなく見て、死にたくなった。あの気持ち。思い出す。まえにもあった。生きててときどきある瞬間。本は、『電子工作のキホン』という本だ。書名を名指しで挙げることには、具体例を示したい以上の意図はない。目の当たりにしているもの以上の具体例がぱっと思い浮かばないだけで、批判したいとかではもとよりない。近頃残業が続いていて、私生活でもちょっと重苦しい天候が続いていて、壊れて声を上げて泣いてしまう瞬間もあるような人生の一節の中を進んでいるのだけども、書いてたらなにを言おうとしたのかわからなくなった。話を戻せば、ある絵、イラストを見て死にたくなる瞬間というのが僕の人生にはときたまあって、そこに直面したときにいつも言葉を失ってしまう。正体はわからないけれども、とてつもない空しさにとらわれてしまう、ことがある。今日それに出会って、言葉にしようと表紙を見つめていたのだけども、ぴったりとは嵌りきらない断片を2,3見つけただけにとどまり、これじゃあいかんと久しぶりにここに書き始めた。もう0時を回っていて、夜のお仕事して寝なきゃいけない時間なのだけども、いやむしろ酒も入ってるし(あからさかに度数の高いものよりも、チューハイや缶入りのハイボールのようなもののほうが酔いが回りやすい気がする)、すぐに寝たっていいのだが、このままじゃらちがあかんので書いている次第なのです。

そもそもアイデアが浮かんでいないものを文章に構成しようもないので、この表紙を見ながら思いつくままに感じたことを拾ってみる。ファンシーで単純化された絵柄、ただ単純化というだけでなく一種人間とかけ離れた特徴へとデフォルメが施されている絵柄を見るとこの感情が喚起されやすいようだ。舌なめずりをしている。作業に没頭している。それが見ていていたたまれない。孤独な作業だ。趣味というものの空しさ。このキャラクターは何かを楽しんでいるがそれは無意味だ。いろんな部品や道具を用意してしまった。それだけのために資源を一箇所に集中させてしまった。楽しさ、熱中、それらがかえって空しい。「初めてでも実例を通してステップアップできる!」とある。「!」がかえって空しい。向かうべき方向はそちらではないのに、張り切ってしまっている。ステップアップしなくていいのに、ステップアップしようとしている。

……俺は鬱なのか。書いてると俺の精神的な状態があまりよろしくないのだろうということは見えてくる。けれどもこうしたイラストや言葉、メッセージの持つ色合いをとりまぜた、一言でまとめればコンポジションの特性についてなにがしかのことを言えた気はしない。せいぜい、鬱なる俺と、ポップでニッチな方角にエネルギーを使おうとするメッセージのコンポジションとの間に生じるある種の関係について一定のことが特定できたに過ぎない。僕自身、電子回路のことについて知るのは今楽しいのだけども、今日は楽しくない。俺は鬱なのか。俺はそれとも寂しいのか。なんかここ数日よりも早く帰れたことと、彼女があまりしつこくしてこなかったことが響いているのはわかる。やはりこの日記の中で、主題化されているのはむしろ俺のほうだ。俺は鬱なのか、という日記だこれは。別に、鬱がなおると良いとか思っているでもないし、この表紙を見つめながら死にたい気分に浸るのも悪くはないというか、それはそれで固有の体験ではあるのだけども、結局なんにも見えやしないというか。なんでこういう絵にとりわけ感染してしまうのか、という点が。

ちょっと別の本開いてみて、料理のレシピ本でエプロンかけた女性が「レシピどおり作るとおいしい!」としみじみ感激している挿絵を見つめてみた。やはりむなしさを見つけた。おいしくなくたっていいじゃないか、という気持ち。また、1点思い出したが、実家で飼っていたうさぎのエサの干し草のパッケージに描かれていたイラストのウサギもまた、この気持ちを喚起させたことがあった。ペットに餌付けして喜ぶ人間のエゴ……。あらゆる文化への嫌悪だ。わかってきたのは、いまみたいな気分のときって、死なないために必要なこと以上のことをむしろ積極的に排除したいような傾向が出てる。生存を維持する以上のことに取り組む元気がないから、最低限以上のものはむしろエネルギーを吸い取る悪魔となりうるということか。うむ。やはり元気がないのだ。早く寝たほうがいいな。でもファンシーな絵だと死にたさ3割増しになるのはなんでだろう。ポジティブな面が増幅されて出てくるから、反発する力も強くなるみたいな。ことかなぁ。いまいちはっきりしないな。

ちなみに書名を出しそびれたレシピ本は『料理のきほん練習帳』です。平熱の姿勢で評価するなら、よく練られたいい本だと思いますよ。実際おいしく作れるし。


2017.02.23 (水)

平日0時なのだが酒を飲んだついでに書いてしまう。

「たとえば哲学者としての僕が「言葉の意味ってなんなの?」「正義なんてないんじゃないの?」と聞かれたら(詳しく問いの所在を聞きつつ)素手で考える前にまずこんな教科書や参考文献を読みましょうねと言うと思うんだよね」(Twitterより)

こんな発言を見た。文脈がいまいちわからないので、発言の真意は実際のところつかめていないのだが……って前提で以下言うと、「素手で考える」という価値観の弊害というか、「自分の頭で考える」ことを標榜する人の生産性の低さみたいな話は確かにうなずける部分はあって、先人の積み上げてきた成果の上に乗ることでしか結局のところ建設的な話はできないのだろうと思う、正しい見識なのだが、でもそれをみんなの前で言おうとするときにそれこそ「素手で考える」とか「自分の頭で考える」みたいな抽象概念を出してきてある種嘲笑する、とまでは言わないがどこか下に見るような響きを帯びてしまうのは、いや、そう見えてしまうのは僕が自分の読書量が少ないことを引け目に感じるあまりゆがんだ景色を見ているのかもしれないし、悪意がないところに悪意を感じてしまう傾向があるのは最近とみに自覚しつつあるところではあるのだが、ともあれ、「理にかなったことをしようぜ」と誘いかけるときにそれがイデオロギー同士の闘争という外見を帯びてしまうのがなんだかいつも皮肉だなあと思っていたのです。まぁ皮肉でもなんでもないのかもしれんけど、目指してるところそれでいいのかなあと。理性的なビジョンを見せつつ実際にやってるのはオルグ活動と違うのかなと。繰り返せば、そこに明白は矛盾はないのだけど。

思うのは、「あいつらが気に入らない」が発言の背景にある人ってけっこういて、そのとき、議論の本体がどれだけ冷静でも、やっぱり背景にある黒い情念が見え隠れしてしまって、全体にくさみを与えてしまうんだなとか。そう、ちょうどこの文章みたいにね。……って言って、実際にそうなってしまっているだろうから興醒めなんだけど。誰かが嫌いだったらはっきり嫌いと言うしかないよね。間違ってるとか非効率だとかじゃなく。


2017.02.19 (日)

休日の朝ごはんを近所のサンドイッチ屋さんに買いに行く。事前には何も考えてこず、すでに何度も見たラインナップを改めて舐めて見ることで品定めをする。コロッケサンドが目に止まる。コロッケサンドはおいしい。バナナオレと一緒に王道の朝食だ。(バナナオレとコロッケサンドの朝食はひょっとしたら試したことがなかったかもしれないが、信頼のおけるもの同士を合わせた食事は、きっと期待通りの結果を保証してくれる。) 心が決まりかけた頃、季節限定の菜の花サンドが目に留まった。菜の花はおいしい。それをサンドイッチに挟むのはやや意外だが、きっとおいしいに違いない。心は揺れる。安定のコロッケサンドにするか、新機軸の菜の花サンドにするか、という「問題」が立ってしまう。それはさらに、親しみのあるものを選ぶか、慣れないものを選ぶかという「対立」へとたちまち化ける。そうなると難問で、店の前で考え込みそうになってしまう。

昨日という休日を一人で過ごしたことにより反省が進み、自ら変化していきたい気持ちが高まっていたので、変化をもたらそうと菜の花サンドを選んだ。ただし、変わったものを選ぶことは必ずしもよい結果をもたらすわけではない。新製品のスナック菓子やらインスタント麺は何かのついでによく買ってしまうが、たいがいは「うーん、、まぁ」というような感想しか残らない。時の試練をかいくぐった伝統的な味のほうが、圧倒的に多くの場合すぐれている。まぁそう言うならば菜の花サンドだってそこそこ伝統的なのではないかという気はするが。脇役だというだけで。話を戻せば、単に新奇なものばかりをとっかえひっかえ取り入れるって方針は、質のよいものに出会う機会をいたずらに減らしていることにもなりかねない、って事情はあって、手放しで勧められるものではない。というか、それは端的にあまりよくないことなのだと思う。

それで結局、コロッケサンドと菜の花サンドとの間で揺れ動くみたいなことは生きてる中でよくあって、そうした時にどっちを選ぶべきなのかを示唆してくれる一般的な方針があれば便利なのだが、、、という話です。直感で決めればいいんだ、直感で、とおっしゃるが、やろうとしてすぐにできるようになるわけじゃないし。ヒントは、菜の花サンドを見たときに、こりゃおいしいだろうという確信がわいていたということだ。確信に従って行動することは人間を強くする。それに従って失敗しても、失敗から学ぶ姿勢ができている。習慣に従って選べば、結果の評価もなあなあになってしまう。


2017.02.18 (土)

なにから書こうかな、そしてまた、すべてを書く体力も時間もない――時間がないというのはまあ、体力がないというのもまあそうだが、もて余した時間も体力もないという意味であり、キリンジを聞いている。木曜日かな、いつもより早めに仕事を上がれたのでツタヤに立ち寄ってキリンジのベスト盤を借りたのね。なにかCDを借りようってときにいまだにベストアルバムばかりになってしまうのがもう業の浅さっていうか。広く浅くっていうか。さほど広くもないし(自己嫌悪)。俺は時間がないのではなく、そんなものに割く時間はないってケチっているのだ。その代わりに何に時間を費やすことができただろう。意味もなく一駅歩くぐらいが関の山ではなかったか。日が暮れてきて、車しか走ってないような田舎だし、川沿いの人気のない歩道を1時間ばかり歩けば運動にもなるし気分も出ただろうけど6時を過ぎれば2月のこの季節には十分に夜だ、慣れない地域の一人歩きには人さらいへの恐れがいつになく顔を出して、文章を書いてると、また人に向けて何かを話してると、ああこの事柄を俺はうまく言葉にすることができないぞって場面にぶち当たって何も語れなくなり押し黙ってしまう数秒・数分があるのですけど、それも2,3文に1度ほどのペースであるのですけど、皆さんはどうなのでしょうね。言葉は使っていないと使えるようになりませんね。最近は仕事に時間がとられていて会社ビルに閉じ込められているのですけども、金曜日だったか、気温が上がって、食堂で昼ごはんを食べて帰るときに窓の外は晴れていて、でもあのビル日光が差し込んでこないんですよ。1箇所しか入ってこないの。で、こんなに天気がいいのに、仕事なんかを言い訳に外に出るのを怠って、こんな日に本当にすべきことは外に出て散歩することなのにねぇ、とため息をついて見せるのでしたが、他人事ではなくこれは自分のことなのにため息をついている場合ではなかったんだよな。しかしそんな気分が忍び込むのは今の仕事(プロジェクト)に面白みをいまいち見出せてないからでもあって、面白いというか、過分な仕事を与えられている気がどうしてもしてしまうのですが、でも僕がやってて楽しかった仕事って学生のときのバイトで書類の枚数がちゃんと揃ってるか数える仕事とかそのくらい単純で決まりきったやつだったし、でもそういうのでも一日8時間週5日とかやったら夕陽に照らされた影を伸ばしてうつむき加減に川辺を歩く日暮れもあるだろうし。何してたって楽しいばかりことではないのはわかりますが今日は彼女とも会わず実家にも帰らず、買い物もせず、一日を浪費することができ、気持ちよかった。有意義なことをしようと心がければ理想と現実のハンバーガーで苦しくなるけど、有意義なことはしなくていいと心がけても読みかけの本を読み進めておこうとするし、たいして享楽的な人間ではないんでね。だらだらするだけで。

あと、すでに1週間以上前のことになってしまうけども、高校のときにとき好きだった女の子のことを思い出す朝があって、あんなに聡明で立派な人は大学でも会わなかったし今自分の周りにもいないなぁと思ったのだけども、まぁバイアスなのかもしれませんね。今会ったらそこそこいそうなオタクに収まってるかもしれないし。でも小学・中学・高校までのほうが色んな人がいた気がするなって洞察はときどきあって、選別が効いてないからね。大学とかも色んな人いたけど、それはバックグラウンドが違うって話であって結構みんな考えてることは同じだったりして、高校では教室という狭い場所だったから違いが際立ってただけなのかな。あの子は授業中に手を上げられる子だったのよね。僕の心のやらかい場所をちくちくいじめる存在だったのですよ。今は授業中に手が挙げられなくてもそこそこなんとかごまかしてやってけますからね。いや、その子のことだけじゃなく、その子とよくつるんでいた小説の好きな少女でこの人もまたものごとをはっきり言える人だったのだがその人が夢に出てきて、当時恋愛対象として意識してたわけじゃないんだがその人と親しげに話す夢を見たのに気付いて、なんかヘンな気分になっていたのだった。高校時代の人たちとは卒業以降一切連絡がないので、その後どうなってるのかなってないのかまったくわからないのだが、どうなってるのかな。Facebookを検索したりはしないが。はい。働きすぎてヘンな夢見たわ。ってな話でした。働きすぎって言うと残業100時間とかをイメージするけどぜんぜんそこまでじゃないから、語弊あるが。


2017.02.05 (日)

文章のサイトを何年もやってきた自分が言うのも何だけど、ものごとを言葉にすることにすごく苦手意識がある。

……てな一文をまず、えっちらおっちら書いた後、机の上のペン立てからおもむろに耳かきを取り出して耳そうじを始めたあたりからも、その苦手さが読み取れるんじゃないかと思う。ついでに言えば、(ここでまた耳そうじ)ここに表れているのは「言葉にする」部分を司るモジュールの問題だけじゃなく、(ここで数十秒止まり頭を掻く)(段落の初めを読み返し、口に手を当ててしばし考える)(ここまで括弧書きをつけた後、キーボードから離した手を合わせてモニターを見る)……副次的な情報がだいぶ挟まってしまったので言い直す。ものごとを言葉にする際に詰まるというだけではなく、そのときに耳かきを始めたりしてしまうあたりを見ると、「言葉にする」というモジュールに問題があるだけでなく、それ以上に、気が散りやすいという性向があるんだろうなと思える。

で、この切り口から何を言おうとしたか忘れた。僕には書かなければならないことが多すぎる。ビジネス的には前提と結論を決めたら枝葉末節は切り捨ててビシッと議論するのが正解なんだろうけど、しかし、結論を忘れた。そんなに有意義で独自の話だったとも思われないしね。思いついた当時の僕にとってはそれは刺激的で新規な観点だったのかもしれないが、それは僕の人生の歩調に合わせたものでしかなく、読者にとってそれが同じように新規で刺激的な話なのかは保証できない、というか、そうでないと考えるほうが賢明でもあるし。あるし……、というか、読者にとって何が有意義なのか、という観点で言えば、じゃあ一つ一つの話を場当たり的に拾いながら中途半端に検討しつつ体力不足で投げて終わるような話を読まされて有意義なのかと考えると、どうなのかなと思うのですけど。思うのですけどね……。ただ、話の途中で無数に生まれる「これはこれでいいのだろうか」という迷いを、この場では掬いあげてやりたいという思いはあって、それを実践しているわけなんだよね。

書き始めると長くなってしまう。きっと、僕がひとつのことを説明しようとするときには、こういう夾雑物が背景にいっぱいあって、そいつが出てこようとするから、言いよどんでしまうのだと思う。

そうそう、で、今日は労働の話をしようとしていた。かつて就職活動したときは、とにかく一人暮らしを始めたいという動機があったから、「労働とは」みたいなことをほとんど考えずに済んだのだけど、働きはじめてからあらためてはじめて考えている。

日が暮れてからのそのそ街へ出て、夕飯にあんかけチャーハンを食べて、帰りにショッピングモールのカルディでスイス産のチョコレートを買って、歩きながら食べてた。甘かった。甘ったるいものが好きだ。さらに、自販機でポッカの微糖コーヒーを買って、チョコレートのお供にしたら甘さとよくあっていて、良かった。良さがあった。生きているとこんなふうに「良さ」と出会うときがある。そしてまた、生きることの目的って(生まれたことの目的じゃないよ)、こうした「良さ」を見つけることにあるとも思う。誰しもそうではないか。ものを食べるにしても本を読むにしても、デートするにしても贈り物するにしても。だけど、働いているときは「良さ」と出会う機会に欠けている。まったくないわけではない。だけど、働いてないときのほうが「良さ」と出会えるのも本当だ。それはある意味あたりまえで、働いてお金を得なければ「良さ」を見つける準備ができない。働くことは「良さ」と無関係なのではなく、その前提、下準備となるものだ。だけど、働いてお金をもらうという制度なんて人間が考えて構築してきたものであるはずで、だとしたら、働くことが「良さ」とかけ離れたものであるのは、あたかも設計ミスのようである。良さを見つけるパートと、そのために淡々と準備しておくパートとに生活を分けることが、この労働という制度の眼目なのだろうか。それによって何が実現されたのかを見るのは、いまや容易ではない。私たちはあらかじめそういう前提の世界に投げ込まれてしまっているからだ。けれど、なんか割に合わないなぁという思いがいつもあって……。われわれにとって快適な世界をみんなで目指してきたはずなのに、意外と息苦しい結果になってるよねみたいな。まぁ身も蓋もないですが。「労働」があたりまえになるにつれて、それがそれ自身として価値をもち始めたのが問題の源泉なのかなとか、手を止めてつらつら考えていたが、長くなってきたのでここまでにする。目的と手段のとり違えはあらゆるところで起こりうるし、それは避けえないことだとも思うが、個人レベルでそれに対抗できることがあるならば。

推敲のために冒頭のとこ読み直してて気付いたんだけど、このサイト(何度も移転はしてるけど)10周年を迎えていたのね。驚いた。


2017.01.16 (月)

病院行ったうえで一日休んでもうた。出勤しようと思えばできたけど、近頃仕事がハードなもんで、中途半端な体調で行くとつらそうだなという判断のもと。まぁ休めるタイミングだったからいいのだ。深く悩むことはない。病院行って、帰って上司に休む連絡して、昼食と買い物に出掛けて、寝て起きて、買い忘れたものを買いに行って、ちょっとだらだらして夕食作って、食べて、まただらだらして、気付いてみれば回復のために寝てたのは2時間半ぐらいだ。生産的なことはなにもしなかったのに一日は短い。別に生産的なことをしない日があってもよいのだけれど、してもしなくても一日は過ぎゆく。今日は時間もあるしごはんを作ろうとノイズレスサーチで探したら大正製薬が風邪を引いたときのレシピを公開していたので、夕飯に「蓮根餃子」と「沖縄風炊き込みご飯」を作った。ひさしぶりに自炊すると色んな具材が入ってておどろく。外食でも品数は増やせるけど、店を選定するというステップがあるし、うまそうと思わせるもの=商品として優秀なもののパターンってきっと決まってるから、食事が偏りがちなのは否めない。もちろん自炊でも手を抜こうとすればいくらでも抜けるし、実際仕事に出てる日に毎日この水準のものを用意するのはやる気の面から言って現実的ではないとは思う(帰ってきてから餃子包むとかさ……)。けれど毎日玄米炊くぐらいはしておいてよいと思った。あと味噌汁と蒸し野菜でも添えとけばそこそこましな食事にはなるだろう。

無駄口が過ぎた。というか、いつしか長い日記を書くようになっていた。まぁいい。特別なことをしなくても一日は過ぎゆく。日々を維持するためにするべきことの多さ、なのだろう。本当はしなくてよいこともその中にはあるだろう。だけどそれを取り上げることは今日はしない。さて、このあとはさらに買い忘れたものを買いに行き(ええかげんにせぇ)、風呂に入ってから軽くお酒を飲み、彼女と連絡を取って、早めに寝る。といっても今からでは12時近くなってしまうだろうな。


2017.01.15 (日)

結局日曜のこの時間(現在23時)まで風邪引いてた。というよりまだ全快していないから、ふたたび悪化して明日会社を休むというシナリオもありうる。と、やや唐突にそんな可能性を持ち出したのは、そのシナリオも悪くないかな……という思いがあるからなのだが。

1日寝てりゃよくなるかなと思って高をくくっていて、確かに今日の朝はだいぶ楽になっていたんだけど、ああよくなったよくなったと寒い中隣駅まで歩いて郵便物を取りに行って、中華料理を食べて、買い物してそれをリュックに詰めてなどして、家に帰ってパソコンで音楽を流しながらぼちぼち作業などしていたらまた頭が痛くなってきた。風邪をぶり返させる要因がありすぎる。良くなってきたし軽くカラオケでも行こうかなと思っていたのは、やや冒険だなという自覚はそのときもあったのだが、明白に愚かだったと言うほかない(結局は行かなかったが)。ほかにも、帰ってきてパソコンで作業(半年ぐらい前から使用不能のままになってたパーティションの削除とか)しながら、ウォッカの染み込んだハリボーをつまんだりしたのもやはり風邪を甘く見てるとしか思えない。

つい反省ムードになってしまった。今回風邪を引いたのは、仕事で忙しく疲れがたまっていた&夕食が粗末になり栄養が偏っていた&急に冷え込んだが十分に暖かくして寝なかった、というコンボが背景にあるのだが、金曜日に仕事を上がってお疲れさまでしたーって立ち上がった瞬間ぐらいに「あっ風邪引いた」ってわかったのは驚きだった。そこまで抑制する機構がはたらいてるんだって驚きもあったが、しかし仕事をする用に体がチューニングされてしまってきているのもなんだかくやしい。仕事をしなくて済むようにできてるほうがイケてるよね、やっぱ。

あと今回はバファリンではなく葛根湯で対処してたんだが、目覚ましい効果はなかったというか(そもそもバファリンも明確に効いたと自覚できたことがないんだけど)、葛根湯飲み忘れたあとに汗が出始めて具合よくなってきたので、処方間違ってたんじゃないかという疑惑がある。2日目なんかすでに「ひきはじめ」じゃないもんな。やっぱお医者さん行くのが一番ということすかね。葛根湯の味好きなもんで、つい飲もうとしてしまう。

全快せずに2日目に食い込むのが自分としては意外で、一旦良くなったものがまた悪くなるのも経験したことがなかった。やはり齢なのか。病気には「頭が痛い」「喉に違和感がある」などの、特定の感覚が生じている系の症状と、「ごはんが入っていかない」「呼吸が楽でない」などの、体の機能に支障がある系の症状と、少なくとも2種類あるんだなと気付いた週末だった。普段こうじっくり病気しないからわからないんだよな。夜はおかゆを作って、ゆっくりゆっくりとしか喉に入っていかず、「あれーおかしいな」とつぶやいていた。

さて、こうしてポチポチキーボード打ってる間にまた悪化してくるかもしれないので、なるべく明日出られるように早く寝よう。ちょっと良くなると調子乗っちゃうという自分の性格がわかった。おやすみなさい。


2017.01.14 (土)

風邪引いて家にいる。掃除だけは済ませた。石油ストーブは暖かい。とめどなく風を排出し続けるエアコンよりもやさしい。インターネットに俺の居場所はもうない。Twitterを、また一月ほど前から覗くようになった。けれども参与はしない。はっきりした理由もない。でもTwitterはやはり俺にとってはSNSで、コミュニケーションの場で、はっきりやりとりしなくても、エアリプを飛ばさなくても、へぇこの人はこういうこと考えてるんだとか、この人がこういうこと言うとはねぇとか、関心を向けるということが、すごく薄いけど、コミュニケーションだったんだなあと、整理する。インターネットを通じて人間に触れる環境というのがいまないのだ。有用な情報とか、「みんなが見てるもの」っていう最大公約数的なものしか入ってこない。パソコンをつけてVBAかコマンドプロンプトの勉強でもして過ごそうか、とパソコンをつけた。Twitterで大学の頃の知り合いのアカウントを覗いた。たまに話してみたいなぁと思った。思った。考えてみれば学生の頃からその体勢はさほど変わっていないのかもしれない。

しばらく寝た。ひどい体調とまでは言わないけど早く治してしまいたいと思う。意識を冷静にして、その中を流れる感覚を俯瞰すれば、大したことが起こっているとは思えないのだが、でもつらいかといえばつらい。

その、冷静に俯瞰したときに眼に映るものを列挙してみればこうだ。頭が痛い。喉に違和感がある。寝ていると、喉がつまって、えづくことがある。体が熱い。こんなとこかな。一つ一つは大したことないけど、合わせ技になると体力を奪うということだろうか。しかし単独でいっても、頭痛は人から活動力を奪う。流れる感覚そのものがつらいというよりも、その中で活動していくことに支障があって、仏教で言うようなままならなさの辛さなのだろうか。でも寝てるだけでもつらいといえばつらいんだよね。理解することとその中を生きることの違い。わかることとやることの違い。わかることがやることに資するためのものだとすれば、わかることはやることの忠実な写しにはなりえない。


2017.01.10 (火)

夜はネギ玉牛丼にした。うちは松屋が近いので松屋なのですが、松屋って「たまに食べるとうまい」ときと「たまに食べるとまずい」ときがあるね。まあー面白みのない食事だことと今日は悪態をついていた。

隣の席には、同僚と思われる女性を相手になにかを得意気にまくしたてる男がいた。食べながらちらちらと気にしてはいたものの、彼が店員に向かってビールのおかわりを告げたのを耳にしてすべてを納得した。アルコールあってのこの饒舌か。しかし牛丼屋でビールを二杯も飲みあまつさえその口で女子に説教(?)を垂れるなど、ろくな男ではあるまい。などと心の中で思って一人で悪人を懲らしめたような気になっていたのだが、そこでちょっと思ったのが、対人攻撃といわれる誤謬/虚偽/詭弁のたぐいがあるが、そうよばれる立論が100パー間違ってるってわけではないんだよね。ある発言をするその人の資格を問い質すのは、それ事態においては問題ない。汚職にまみれた政治家が「賄賂はよくない」と言っていたら、「お前が言うな」とツッコミを入れるのはまぁ不適切ではないはずだ。注意したいのは、こうしてツッコミを入れているときにわれわれが問題としているのは、くだんの政治家がその発言をする資格があるかどうかで、言いかえれば、問題の中心が「賄賂は不正であるか」という命題よりもその政治家のほうに移っているということだ。その政治家のことをまず問題にするのが適切だというんなら、対人攻撃はなにも間違っていない。論点のすり替えってよく言うけど、くだらない話がされているときにもっと大事なことに話を転換させるのは必要なことだ。能書きが長くなってきたが、ここでひとつ発見だな、と思ったのが、対人攻撃ってそれ自身は誤りじゃないけど、対人攻撃に出るとき人は誤りを犯しやすい心境にあるんだろうな、ってこと。松屋で酒に酔って饒舌になったあんちゃんのことを「くだらない」と決めつけたのも、きっと話も聞くに値しないだろうと断じたのも、自分がそれ相当に感情に流されていたからだろう。「なんとなく気に入らない」を暗黙の論拠にすれば、たいていの立論を斥ける――聞かずに済ませることができる。ある種の詭弁はお手軽な逃げ道だ。いや逃げたい気持ちになっているからこそ、詰めの甘い論拠に手が伸びてしまうのだ。早くその話にケリをつけてしまいたい欲求に駆られるとき、詭弁が顔を出す。……なので、虚偽とか詭弁と言われているものを見つけたときの適切な反応は「それは詭弁だ」と騒ぎ立てることではなく、その場に冷静さが失われているのではないか、と慎重になってみることなんだろうな。

関係ないが、レンタルサーバのアクセス解析をオンにしてみてて、リファラなんかを辿っていたら大学生の頃に書いたブログについ最近(去年ごろ)になって匿名の「通りすがり」からコメントがついてるのを発見して、、、なんか赤面した。青臭い思索は青臭い反応を呼ぶものらしい。曰く、それについては私も悩んだことがある、だが今は考えが先に進んでいるから導いてあげよう的な。その気持ちはよくわかるのでよけい赤面する。だけど僕はもっと優しくいきたかったんだよ。いまも。


2017.01.09 (月)

昼寝した。いやあよく寝た。いったん寝出すと2時間や3時間は必要ね。ちゅうとはんぱに昼寝すると、起きても頭に鉛がはいってるみたいにくらくら、ふらふらしてしまうんだ。この3連休の土日は休みだったんだけど、自分が休みで彼女は用事ありの構成で、僕が彼女の家(というか仮住まい)に泊まりに行ってた。ただ、人の家よりも自分の家のほうがどうしてもよく眠れてしまうという環境適応の問題もあり、彼女の用事が朝早いのに合わせて起きていたのでどっぷり眠ることをしなかったという理由もあり、連休最終日になってまぁ昼寝をした。昼寝をする申し開きなんていらないのに、おれはだれに断わっているんだろう。時間を有効に使うことへの、同調圧力じみたこだわり。そしてその「有効」ということへの無反省も含めて、いまでも身体に巣喰っている。

夢の中で、職場の人々とは同じ教室で日々を過ごしていた。ある非常事態が明らかに起こっていて、その中で私は、水がないのにビート板を持つと体が浮くことを発見し、控え目に周囲に知らせてみせた。

それ以降の夢は覚えてない。

2,3時間寝て、ようやく起きようかなという状態に体がなってきたとき、ここで起きるべきか起きないべきなのかの迷いに立たされた。ごく日常的に立たされる、根拠のない問いだ。もっと寝ていたほうがよいのではないか――YesなのかNoなのかは、その場で確信のもてることではない。起きて用事を済ませたり、楽しみになることをしたほうがよいのではないか――それも、寝起きのぼやけた頭にとってはさほど心の踊ることではない。その場で答えなんか出るわけないんだけど、答えが出なきゃ動けない。だけどそう言いつつも、十数分かすると体を起こして日記なんか書いている。ようするにそうして迷っている状態というのは本人にとっても十分に居心地が悪く、いつまでもそのままで耐えられるものではないというのが一つある。そしてまた、日記を書くということ、文章でもって自分の考えや感じたことを記述するのが、いまでも自分にとって魅力あるいとなみ、意義の深い活動なんだという自覚もある。自分がどういうときにくつろぎを感じるかと問うたとき、ものごとをきめこまかく把握することに対して心地の良さを覚える、と答えられる。サラリーマンとして暮らし始めて気付いたのが、目的を果たせれば途中のプロセスは省いてもよい、というルールが「仕事」という場にははたらいていて、ひとつひとつのことをもらさずじっくり考える、という活動はその中で抑制されることがある、ということだ。ただし、間違ったものとしてそのルールをあげつらうわけではない。仕事でなくともいつでも、考えるべきことと考えなくてもよいことをより分ける必要はあるのだが、仕事ではそれを意識的にさせられるため、目立つ。かつ、そのより分けの規則が、個人の気ままな関心とは一致しないことも多い、というだけだ。だから、言いかえれば、気ままに気のゆくままに考える時間というのが僕にとっては「必要」なのだ――そう言い切ってしまってもよいように、近頃は思っている。たまにしか日記を書かなくても。わかりやすい実害がなくても。日記を書くことは、自分の見えてる世界を自分の目で再確認する、という作業ともいえる。裏返せば、自分が見えてる世界がふだんは十分に見えなくなっている、ということだ。自分が暮らしている世界と自分が見えている世界とがいつもいくぶんずれているために、書くということを求めるのかもしれないと思う。


2017.01.04 (水)

正月休みが終わって明日からまた仕事だ。時間をもて余すと人間考えることが志高くなるもので、ものごとを基本的なところから理解するようにしようとか、タスク管理をきちんとしようとか考えて、知らない街を散歩しながらせっせとその構想を深めたりするわけですよね。「ていねいに生きたい」という欲望をいつでも私たちはもっていて、こうして大した目的もなく散歩するような暇が与えられることでそうした欲望はひさしぶりに顔を見せる。……裏返せば、私がこうして、食べたり飲んだりしたものの一口メモをEvernoteに残すことを決めたり、したいこととすべきことをRemember The Milkで管理しはじめたりしても、その習慣が明日以降も続く保証はなんらないわけで、というかむしろ、正月休みに入るというトリガーをもってそうした「ていねい」方針が立ちはじめたわけだから、そのトリガーが解除されれば「ていねい」方針もまた成り立たなくなるのが自然というものなのだ。

悲観的になって終わる。残るのは、僕は引き続き生きているという事実のみだ。


もどん