楡男 2016年

2016.12.29 (木)

年末休暇だけど彼女は学校いっちゃったしやることなくて、さて掃除でもするかと音楽をつけたらなんか具合がよくってパソコンの前でそのままだらだらと昼になっていた。時間に押されて部屋の何箇所かを掃除して、昼ごはんをこしらえて食べて、それからそのままパソコンの前で延々とえっちな映像を漁りどおしで、そのかたわらにときどきツイッターを覗く、というありさまで、ほんと一人で生きているときの所在なさに向き合わされるのだなあと感じるのであった。休みに入ったらPrologとかSmalltalkとか触ってみようとふわふわ甘く思い描いていたけれど、結局なにも取りかかっていない。生きることに対して根本的に意欲がない。したいことはほんとうはない。いや、したいことがないというのはほんとうは嘘で、ただそれを行動に移せないのが問題だという気もする。ただ自分に自信がないのもあいかわらずで、いわば、つまり自己肯定感といわれる概念装置に訴えて今わたしはなにかを納得しようとしているのだけれど、まぁ、いわば、昼に上司から電話がきて、業務的な質問で、聞かれたことを答えられなかったのは心苦しい。わたしの価値とは。とか。

したいことはほんとうはない、とか、自己肯定感、とか、わたしの価値とは、とかは、なにか自分が置かれている状況を他者に伝えるための道具であって、そうした言葉を口にすることでいろいろなことが一挙に聞き手に伝わってくれて便利なのだけども、だからといってその言葉が醸し出す出来合いの事実に縛られる必要もないわけで。いや、縛られがちなのが厄介なんだけど、よくよく反省してみれば、「したいことがない」だけが事実ではないわけだから。「したいことがある」もまた、一つの事実なわけだから。伝えるための言葉だけに囚われるのは悪手だと思う。いままた、自己肯定感が低いのが問題だと定義すれば、「自己肯定感」を高めればいいのか!その方法とは?ってぐぐるとNAVERまとめのページとかが出てきて「方法」が載ってるんだけどそれ試したところでさぁ、「そんなうまい話あるわけがない」ってトポスも私たちは身につけていたはずで、なのにそういう目線も曇ることがあるんですねぇ。要するにものごとを掘り下げて把握しようとすることって大事ですよね、でっそれを実践するのって仕事や生活が忙しかったり年齢を重ねたりしてくると難しくなってくるものですよねっとも思うのだが、ほんとにまっとうにその考えは正しいと思うのだがその一方、「難しい」って言って終止符打っちゃうのもなんだか勿体ないですね。「難しい」って言葉はなにをするための道具なのかな、って考えると、「それは難しい」つって相手の提案をつっぱねるために使われるのが常であり、うー、もっというと「使われる」というよりも「難しい」という言葉を使うことがそういう流れに導いてしまいがちなのであり、だから使うにせよ用心して使わなければならない言葉だなぁ、と思いましたました。「難しい」というのは現状把握が十分にいけてないことの反映でもあるんだろうね。このままじゃとうぶん前に進めない、だから別の道を採ろう、というような。ただ、くだんの事柄を、では宙ぶらりんにしておくべきなのかといえばそれも苦しく、「難しい」としか今のところほかに言いようがないことがら、それでいて「難しい」ととりたてて言っておかねばならぬ、取りあげておくべきことがらというのが存在するのであり、要するに人生はままならぬとまたしても繰り返しているだけなのですけども。しかし、ままならぬのが苦しみならそれを放棄すればよくて、どうして「まま」にしようとするのだろうか。それは他者との関わりがあるからなのだよ。


2016.12.06 (火)

2階立てアパートの2階に住んでるんですけど、帰ってきたら外に干してた洗濯物が物干し竿ごと落ちていたことがわかり大変悲しく、外干しは家にいる土日以外にはすまいと決めた。悲しい。

夜になるにつれ風が強くなることは昨夜のNHKニュースで聞いていた。昼にかけては暖かく秋の気候だが夜になるにつれ気温の低下とともに風も荒れて体感温度は実際よりも5、6度下がるという。そのとおりだった。勤め先を放たれた私は背筋を伸ばして体温の調和をはかり、また感覚をひらき寒さをむしろ能動的に感じることでその攻撃性を矯めようとした。家に近づくにつれ物思いは家のほうへ移り、これだけ風があると洗濯物のひとつやふたつ落ちているかもしれんな、と案じた。そこまでの段階には私の心は実のところ楽天的で、サッカーの試合の結果を予想するかのように当てっこゲームに興じるような心持ちだった。洗濯物を落としたらまた洗濯するはめになる、というようなリアルな想像はなにひとつしなかった。それが、我が部屋のベランダになにも掛かっていない――かといって地面に落ちているわけでもないことを見たとき、ようやく事の重みを悟った。いつか物干し竿ごと落下した洗濯物は顔を知らない誰かによってハンガーや小物干しごと拾い集められ、無造作に紙袋に入れられてわが部屋の前に置かれていたのである。

……だんだん文体がおかしくなってきたのだが、同じことを過去に少なくとも2度したことがあって、だから物干し竿ごと洗濯物を落下させて危険な状況を引き起こしたのも、顔の知らぬ誰かに洗濯物を回収してもらったのも、初めてではなかったのだ。それが悲しかった。洗濯物が落ちる危険があるのは風の強い日だけだが、洗濯物を干すときに毎日そこまで気がまわる自信がないし、その点で対策ができたとしてもまた別の原因で洗濯物を落下させてしまう日が来ないとも限らないと思えた。(これまでも、物干し竿を麻紐で固定するという対策を施していて、それでしばらくは悲劇はなかったのだが。) この件に関しては、試行錯誤を続けるよりもリスクのほうが大きい。そう思って外干しはたまにしかしないことに心を決めた。

洗濯物もおちおち外に干してられない暮らしって貧しい――なんて思ったときがあったのを、いままた思い出した。仕事に行っているうちに雨が降ってしまうかもしれないという事実が私たちの暮らしを限定する。洗濯物に太陽を浴びさせてやるという、ささやかだけどあたりまえの贅沢を、贅沢と呼ばせてしまうこの状況は、どうにもポイズンだ。だけどその代わりに手に入れたものもあるだろうな、と、やはりそのとき同時に思った。あらゆる言説はバランスがとれていなければどこか嘘だ――そんな信条がある。だけど、代わりに手に入れたものってなんだろね。夜のお仕事のおカズに困らないことかな。と、それもそのときの答え。


2016.11.28 (月)

いつまでたってもキーボードを床に置いて書いている日記にようこそ。

仕事で、僕も2年目なんで後輩になにごとかを教える立場に……、立場というとなんだかポジション然(同語反復)としていて、一度そのポジションに据えられればすでにもとの形には還らないかのごときですが、ようは、自分は指示を出して腕組みして、後輩が作業するのをカントクとして横で見ているってな関係性の中に身を置くなどということも入社して1年半を経れば時には生じるのであり、ところでなぜそうして一般的なことがらを、しかしながら多くの有象無象のことがらどもから選び出して語っているのかといえばつまりは今日がそんな日だったから、なのですが、そんなときに初めて気付いたのが、自分が手を動かしてないと人間はこうも不安になるものかと、いや「人間は」というのはその具象レベルに落として言えば「僕は」と言っているのに他ならないわけですが、しかし人間は、その中には僕ももちろん含まれている人間というものは、そう、僕が或る具体的な存在者としてそれを生きてしまっている人間とやらは、自分ががちゃがちゃ手を動かしたという実感がなければ、すなわち働いたという実感ももてないものなのか、それもこれほどまでに、と驚愕さえしたのです。そ、それにしても、文章を書いてみると、いや、とりわけ日記のような、どこまでも自分の思うように書いていい場所で文章をじっくりと書いてみるといつも思うことだけど、一文が長い。これはいつまでたっても直らない。自分の喉をふるわせて話すときに口下手なのもこうしてみると飲み込める。つまり私は考えるのが遅い。そして一つの断定のためにつける留保がとても多い。

まあそれはただ言ってみたくなっただけなんですけど、しかし今日の仕事が終わった直後の、手ごたえのなさ。その、手ごたえのなさには目を開かされた。なんか、やり残したことが無数にあるかのような落ち着かなさ。仕事が終わる直前に上司に電話で報告するとき、別になんも悪いことしてないし、仕事も順調に進んでるのに、いつになく緊張した。むしろ怯えていた。声が震えそうだった。あたかも一日中仕事をさぼり倒して、ひとっつも進んでないのに、「完了しました!順調です」と報告しているかのような気まずさと恐れが、ひとり僕の頭の中を駆け巡っていた。

手を動かしていないと仕事をした気がしないというのは、そうしたザッハリッヒな性格(?)というのは、ものごとに実地に触れることに対する感性のあらわれとして見たとき、或る大事にすべき美徳なのかもしれないが、しかし、まがりなりにも哲学を学んだものが、目先のものしか見ずに、その全体の意味を絶えず把握しようと努めることなしに善悪の判断を下そうとしたり、喜んだり悲しんだりするのは、やはりどうもそれは後退なのではないかという気がした。べつに哲学でなくても、学問というか、一度でも知的であろうと努めた者ならそうあるべきだと思うのだが。。。いや、べつに、時間に追われて視野がぐんぐん狭まっていく生きざまにだって等しく真実はあって、そこを敢えて?生きてやることには知的な意義さえあると言えるのだが、だけど、それはやっぱり狭い知的ゲームにとらわれちゃった考えかなぁという気はつきまとうのよね。それよりは、なにより本人が幸せであるために、そして世界をよりよくしていくために、自分のおかれた位置を絶えず把握しつつ動いていくのが正しいありかただという気はする。まぁ、全体を把握して生きるほうがえらいって言っちゃうと、それもまた、教条主義というか、なんで一方にしか真実はないの?って気がして、それもまた望む結論ではないのだけども。考える集中が切れてきたので今日はおわりにします。


2016.10.23 (日)

むかしむかし、そのブームもほとんど去ってしまった頃にテキストサイトというものを熱心に?ありあまる暇の中で見ていた頃、「彼女ができると日記を書かなくなる」という、なんというか決まり文句のようなものが口ぐちに言われているのを目にし、僕はそれをなんとなく記憶していたものでしたが、今こうして思いを致すと、彼女ができると日記を書かなくなるのはなにもモテるために日記を書いてたから・日記はモテのための手段だったからじゃなくて、単純に忙しくなるからなんだなと実感している昨今なのでございます。LINEの相手しなきゃいけないし(いや、連絡ないならないで寂しいんですが)。デートで行くとこ考えなきゃいけないし。今日はめずらしく夕方に彼女が別用事で帰って行ったので、こうして日記を書いているんでございます。モテるためとうそぶいてテキストを紡ぎ続けたテキストサイトの先人たちは、なんでも正直ベースで語るのを清しとする無邪気なわたしたちから見ると粋だったよね。のろけついでにリアルのことを言えば、最近出張つづきであっちとこっちを行き来する日々で、自炊を再開するに十分な時間的スパンのゆとりがないのがちと悩みですかね。本当はぬか漬けとかやりたいんだけど。彼女との仲のほうは、週1ぐらいで関係存続の危機みたいになって、俺甲斐性ねーって現実を突き付けられたりしてますけど、少しずつでもいろいろなことができるようになりながらなんとか1年ぐらいはもたせたいですよねーとか思ってます。いや今思いました。そのためには読まなきゃいけない本がいろいろある(例:『思いやりの人間関係スキル』)んだけど彼女の相手してると本が読めないという。いや彼女いない時代でもやはり本は読めなかったか。あはは。あと去年の冬ぐらいから性欲がいまいちなんですけど彼女ができてからその問題がいっそう表面化してきた感じです。なんなんだろう。食生活と運動不足は見直してもいいと思う。就職して一人暮らし始めて、一時期食生活がかなり無節操だったからな。いまもそうか。一年ぐらいはもたせたいよねーとか言ってしまったが本当は永遠にもたせたいが、永遠にともに生きるのは不可能なので、だけどもっとたくさん仲良くやっていきたいのはほんとう。


2016.09.28 (水)

おひさしぶりです。最近残業の波が来ていて、昨日は――まぁ、客観的に見て話のネタになるほどではないのですが――10時まで残ったりしていました。出先とかではなく平時でこの時間になるのは初めてだったのもあり、とってもつらかったです。つらい、って不思議なことで、感覚はないんだけど、つらいって言葉がちらちらするというか。言葉とか判断とか、事実とか、そういうソリッドなものだ。つらさというものは。不思議である。肉体的には、いや精神的にさえ、どこも問題はないのに、叫び出したくなったり、泣き出したくなったり、激しく体を掻きたくなったりする。ストレスだ。ストレスとは、体の不調とは位相を異にする――体に表れるものではあれ――ものだ。それを私は、知識としてではなく身体で「知って」いるのだろう、それがブクブクと浮かんでは消える「つらい」には込められているのだろう。

10時前に限界だと感じて、一瞬だけ外に出て彼女とLINEを交わした。すこし楽になった気がして席に戻って、作業を再開したが、やはりつらく、ほどなく体が動かなくなった。わー、人間、無理になると体が動かなくなるのかーと感心しながら、しかしもうすこしだけがんばろうとしてみた。が、やはり、「帰ろう」と突然思い立ち、荒っぽい所作で退勤して、外に停めてある自転車へと走り寄り、大急ぎで帰った。半分ぐらい走れば、落ち着いてはくるのだが。

思ったのが、つらいことを無媒介に「つらい」で受け止めないためにも、経験を文章にして――言葉にしてというより、じっくり反省してみるために――いくのは大事だな、と思った。それは事実をナナメから見ることというより、もっとポジティブに思いたい。むかしむかし、反省を介さずに世界を経験すること、メタではなく徹底的にオブジェクトレベルに生きることに理想をみた時代があった。確かに、そこではつらいものは間違いなくつらい。しかし、別にすがすがしいものではない。泥臭い。文字通りに泥臭い。それはまじりっけなしのつらさではなく、オブジェクトレベルの生には、どろんこの夾雑物がいっぱい含まれているっていう、あたりまえのことだ。見方を工夫して上手に生きる、というほうに、いまは魅力を感じている。結局、今の自分にないものをいつも求めてしまうだけともいえるけど。


2016.07.21 (木)

好きな人とLINEでチャットをしながら、言葉になにかを意味させるって難しいんだなあと実感する今日この頃。言葉には「こう読んでくれよな」っていう発し手の願いが宿っていて、でもその願いは受け手には見えないんだよね。われわれの実情としては、その願いまで見えるように、言葉の中に仕込んどかなきゃならない。「こう読んでくれよな」が見え隠れする発言を、私は人生のある時期にTwitterでよく見かけていたが、そうしたものが、明示的に申し開きをしない言葉が「通じ」たり、少なくとも混乱やいざこざを起こしはしなかったりしたのは、そこでの発し手や受け手が同じコードのもとで話していたから、あらかじめ共有された文脈の中で、ほとんど固定された目的の中で言葉を交わしていたからなのかなと思いあたった。私と彼女はもっと開かれた話をしている、ということになるんだろうか?

自分の哲学に対する向き合い方を、どう自覚すればよいのか、ずいぶん前からわからないんだけど、わたしは、哲学的な問題に関心があるという以前に、哲学について語ったり哲学を踏まえて何かを語ったりするある人々の文章から感じ取れる“知性”にあこがれて、そのへんの世界に入っていったって事情が、ぼんやりとながら確かにあった。だから、いくら哲学的な思考の楽しみなんていったって、僕にはほんとにはピンと来ていないのだから、人に哲学の話をするときにそこから入るのは欺瞞なんではないかという気がした。


2016.07.18 (月)

考えたことや思いついたことを話す相手が欲しかったんだな、って気付く。頭の中に僕の周りの人たちの分身を飼っていて、買い物の帰りや、仕事場への道や、寝る前なんかに、彼・彼女らに対して話している自分に気付く。

プールに泳ぎに行った。運動すると悩みがすべて消える!運動最強!とまでは言わないけど、運動した後って考え方もいくらか前向きになって「好きな人と離れるのが怖い」から「会えるうちにめいっぱい楽しんでおこう」に切り替えられたり…‥、ざっくりとつかんで言えば、心と体のバランスが取れるかのような心地がして、運動大事、遅滞なくしておくべきことなんだなという認識は深められました。散歩やカラオケよりも体を大きく使う、ある程度の「おもいっきりさ」が必要なんだなと思った。体力を消費するだけではなく、体のいろんな部分を「使う」ということ。


2016.07.17 (日)

みなさん連休楽しんでますか。僕は深い深い連休にもがいています。連休がないみなさんもこんにちは。私は日記を書いています。自分の日記を読んでももうなんにも感じないなという精神状態になって(精神状態と書くと悪い状態のほうにスポットが当たるのはなぜでしょうね)、その流れで「もう日記書くしかないな」って判断になるのはとてもへんな感じですが、今日の私はとてもへんな感じなんだ。そしてまた、それは、恋愛の話なんだなぁ。わたし、この日記で恋愛のことばかり書いている気がする。昨日は好きな人と会う日で、はっきりと好きだと告げたことはないんだけど好きな人としか言いようがなくて、しかし「生きる意味」とかをその人にかなりの部分預けてしまっているのが我ながらあやうくて、好きというよりも大事な人と言ったほうがしっくりきてしまうのは否めなくて、あまり健全じゃないんだろうなぁと意識しながらも、僕から見てそんな関係の人です。そんな人がいます。相手から見てどうなのかはよくわかりません。思いは複雑です。たとえば将来一緒に暮らすとなると、と、考えます。好きな人がいるときは、まぁいつもそうなんですが、ちかごろの想像はそれまでよりリアルさが増しており、つまり誰かと暮らすことの難しさについて思いを馳せる回数が増えました。自分の不完全さをある種売りものにできるこの日記のような場では問題になりませんが、その未熟さがたとえば家族を傷つける方向に作用してしまうことが、ないなんて絶対言い切れない。そんなことを考えます。口調切り替えよう。ようするに僕は夫とか父親としてりっぱにやっていく自信があるかと考えると、冷静にみて「怪しいだろう」と答えるべきだと思うんです。人を傷つけるのは嫌だなー。でも好きな人とは離れたくない。なんだかすごくとっ散らかった話になってきた。好きな人とは離れたくないんですが、その人は就職したら地域が離れてしまうかもしれないと聞かされて、単純に行かないでほしいなーと思ったけど、でもそれはその人の人生だからそこに首を突っ込みたくないし、それぞれの人に人生があってその人の人生はその人のものだってどういうことなのかなって改めて考えてみるとよく分からないけれど、でも自分の人生のことは僕よりも本人のほうがよく見えてるはずで、引きとめるのもなんだか違うなと思ってあー、人生だなー、出会いがあれば別れがあるんだなー、そうそうどんなに長く寄り添っていてもいつかは別れる、人間いつかは死ぬ、そうそう人間いつかは死ぬんだよな、と思い出して、私は私で生きられるようにしよう、って結論出して、クーラーのついた明るい部屋で一人で寝そべってました。昨日はその好きな人といつになく近い距離になって(物理的に)、なんかとても不思議な気分、近づき切れないもどかしさもありつつ安心のようなものさえあった、だらだらとして気持ちはよかった不思議な感じだったのですが、昨日すごーく近かったので今日は一人になってその差でくらくらしているのかもしれません。頭がおかしくなりそうです。なにもおかしなことはないのになにも感じないままおかしなことをしでかしそうです。さみしいのかなぁ。自分の気持ちを感じるってこと。自分の気持ちを人に表現すること。


2016.07.08 (金)

会社を出てすぐに缶ビールを開けて、歩きながら飲んでしまった。空きっ腹に酒は毒、と、大学生のはじめの頃に自覚したが、意識せずその教えを守り続けてきたんだなぁと気付いた。缶ビール一本で、気持ち悪さが遠くに見えた。コンビニでチキンとコーヒーを買って、駅のベンチで食べ、そのまま電車に乗った。缶ビール一本だけだが週末気分も手伝ってもうとっくにほろ酔いで、乗り換え駅のホームで「このままふらりと電車に飛び込むのも悪くないかなぁ」と不意に思ったりした。ほんの、ぶらりと立ち寄る具合で思っただけなのだが、今週はすこしだけ疲れがたまっていたので、そこに一片の真実もない完全なる法螺だと強弁する気でもなかった。考えは続く。「でも、このタイミングで死んだら、『仕事を苦にして……』とかって解釈されちゃうんだろうか。それも嫌だなぁ」。大きなミスをしたとか、残業続きとかといったことは別にないのだが、会社でめずらしく最後まで残った日があったりしたので、主観的にはそんなふうに考える余地がないではなかった。それで、問題にしたいのは、これに続けてこう考える余地があったということだ。「でも、死んでしまった後なら自分がどういう評価を受けようが関係なくない?」。自分でも使ったことのある理屈だ。だけどへんな気がする。「それも嫌だなぁ」と思うこと自体が誤りだと言っているわけだ。まぁでも、感情を否定するにせよ、その感情が事実誤認に基づいていることを指摘することを通じてその感情の不当さを主張するのは問題ない。だけど問題はその指摘が妥当かどうかだ。まず確認しておきたいのは、「嫌だなぁ」と思っているのは死んでしまった後の自分ではなく今の自分だ、ということだ。つまり、「死んでしまった後には感情はないから、死後の感情に言及しそれに依拠する主張はナンセンスである」という意味に先の批判を受け取るなら、それは的外れだということになる。なので別の、より正確な解釈を考えてみたい。「自分の死後のことがらについて思いを巡らすことで心を動かすのはナンセンスである」と読めば、私のぼんやりとした物思いに対する正当な批判となりうる。しかしこの解釈は一つ前のものよりは自明でない。その根拠を求めれば、「人はみずからの死後の出来事に一切関与しないのだから、そのことについて悩むのはナンセンスである」といった具合になるだろう。となると、「人はみずからの死後の出来事に関与しない」とはどのようなことか、がまずは問題となる。それにはさまざまな解釈がありうる……(飽きた)。

突如として飽きてしまったのは、ここから自分の話をいったん離れてすごく広い範囲について考察を済ませなきゃいけないんだな、ってことを予感してしまったからです。そして実際のところ、「人はみずからの死後の出来事に関与しない」というここでの主張も、何か特定の解釈のもとでの意味を担っているわけではなく、なんかいろんな「人はみずからの死後の出来事に関与しない」事例がないまぜになって互いに区別がつかないような状態になったものとして使われているように思う。つまり、それってどういう意味?って尋ねたら、たとえば・・・と言いつつ、タイミングによっていろんな事例が出てくると思うんですね。特定の事例を念頭に置いてるわけではない。「手を離したらものは落ちる」という主張(まぁ定義上は)と同類だと思う。個人的に興味深かったのは、「それってどういう意味?」と問うだけでは話が進まない場面がある、ってあたりまえのことで、でも、ではこういう一般的すぎる前提を持ち出されたときに私たちができることって、それを正しいものと見なして受け入れるか、その主張をあらゆる角度から見直して粗を見つけるか、どちらかなんだろうか。概念分析は反例を見つけることに尽きるなんてことはないと思うけど、分析の中である主張の解釈が細分化されてきたとして、そうしたところでいまの「人はみずからの死後の出来事に関与しない」は特定の文脈を念頭に置いて言われたのではないのだから、いずれかの解釈を当てはめることもできず、結局当の主張の妥当性を検める役には立たないんじゃないか、という絶望感がある。いや、実際に分析に取り掛かってみれば違うものも見えてくるのかなあ。

(翌日つづき)正しいように見えるが、どこか引っかかるところもあって、でも一般的すぎるゆえに直接反論を与えるのが難しい論拠が出されたときに私たちがまずできるのは、「Aだとも言えるけど、Aでないとも言えるよね」と続けることだと思う。みずからの死後の出来事に人は関与しえないというのは一理ある。しかし、みずからの死後の出来事に人はげんに関与している、とも言えるよね——こう続けてみるのだ。たとえば遺言というものがあるのはその証拠だ。「死んでからも名を残したい」という考えの表明にある種の説得力を感じるのもその証拠といえる。ここで強調したいのは、ある主張について「正しい」と思えることは、それと反対の主張について「正しい」と思える余地を排除するものではないということだ。つまり「正しい」という言葉の使用は、多くの場面ではそうした弾力性を含んでいる。(あるいは、主張の「反対」ということで指し示されているものが、厳密に論理的な否定になってはいないという事情もあるのかもしれないが、その点について今は追及しない。)……とにかく、ある論拠の妥当性を判断するときに、その論拠そのものに矛盾や事実との相違があるかどうかチェックするという方針とともに、その論拠とは逆のことが言えないかどうかチェックしてみるという方針もあるなということが、私にとって一つの解毒剤になるかなと思いました。納得できないうちに相手の言い分を通してしまう、という事態を起こさないためにそれは大切。


2016.07.03 (日)

暑いですね。仕事にも一人暮らしにもだいぶ慣れてはきて、慣れてきたなということさらな意識を伴わないほど慣れてはきたのですが、言いたいことが言葉にならない日々はいまも変わらず、です。……エアコン点けよう。今は温度計を部屋にぶら下げていて、室温が 30 度を超えたらエアコンを点けてもいい、と取り決めるのは悪くないな、といま思いついた。そこで、こういうときに、「悪くない」以上の中身をもった言葉でその判断を確定したいな、という緊張に襲われるわけです。たとえばね。取り決めるのは効率的だ、とか、みずからを救ってくれる、とか。なんですがそこまで言葉を探しに行くためには 10 秒程度の沈黙が必要で、なので会話の中でそれを実行しようとすればものすごく黙りがちな自分ができてしまうわけですよ。そしてくだけた会話であるほどそれが生じる割合は高まる。自分の考えとか趣味とか、自分のことを聞かれる割合が高まるからだ。もちろん他の要因もあるけどね(店がうるさくて大きな声=自信ありげな声を出さなきゃいけないとか)。

昨日の夜、掃除して夕飯食べて、座イスに掛けて動けなくなってしまって、……積極的にやりたいことがなくなるとこうなる。そんなものがなくても人は動けるんだよという知恵も、かけら程度に縮こまっていて、何かとてもいいものが視界にないと動きたくないという気持ちがあって、そんなものなくても動けるって言われてもそもそも別に動きたくていま考えてるわけではないし、と、理屈をどんどん先回りしてつぶしてしまって、電灯のついた部屋がとても白かった。学生の頃と違って、憂鬱さ、とか、とんとご無沙汰だなあと思っていたが、休日となるとけっこうわりと頻繁にお見掛けしているのかもしれない。昼に買い忘れたものに気付いて、自転車に空気を入れてとりあえずドラッグストアへ向かった。要はすこし寂しかったようで、陽がすっかり落ちて黒い世界の中で人工物だけがくっきり浮かび上がる世界の中ですべっていく私が、ほんのすこし泣きたい気持がふんわりと降りていた。そんな、よくある体験。

生きていく中で私はそれを言葉にするよりずっと豊かに、ずっと正確にそれを体験してしまっている、そんなことを家に還りつく手前で思った。けど、なんらかの仕方でいま私はその体験を言葉にしているのも事実で、しかもいくらかの正確さをもってそれを言葉にできているという自覚まである。いや、もうすこし慎重に言えば、そのとき感じたことを、そのときの体験そのものを、言葉でもってあますところなく記述するのは不可能だ、というように感じる。それは「体験そのもの」を「記述する」という概念同士の矛盾に起因しているかもしれない。言葉はいつも体験そのものからその一部を切り出して、加工して利用するしかない。そんな事情があるのかもしれない。(こうした話題については、『純粋理性批判』なんかきちんと読んでれば、こんな奥歯にものの挟まった語り口にはならずに済んだのにな、と不勉強を悔やむ気持ちがある。)いまこうして頭で考えて、体験をまるごと言葉にするのは不可能だな、と大きな壁を感じているのと表裏一体の関係で、体験しているその場においても、いま感じているこの豊かさを言葉にするのは不可能だろう、という気持ちに襲われてもいた。わからない。いま言った通りのことなのかもしれない。体験そのものを記述し切ることは不可能だ、という理論的判断が、体験のただ中と、体験を振り返る記憶の中で、別個に起こっただけかもしれない。ただ、(いくらかの不正確さをもって、ではあれ)その体験について事後的に何らかのことが書けて、言えてしまった、という事実は直視しておくべきなのだと思われる。実際に、体験のただ中で言葉として出てきた「豊かさ」が何なのかはほとんどまったく自覚できていなかったし、同時に、事後的に思い出す中で、体験をどう記述したら「正確」に「あますところない」ものになるのか、さっぱり見当もついていなかったのだ。なのに、体験を記述することは究極のところで挫折する運命にある、という確信も、両立している。という事実を。

もうすこし個別的な話として、自分が言葉でもって何かを語るのを難しくしている(あるいはひどくのろまなものにしている)要因についてひとつ気付いたので書いておく。自転車用レーンが右側に設置されている道に入って、おや変だなと思ったことがあった。すこし観察してみると、自分が入ったのとは逆側から入れば自転車用レーンは左側に来ることになるわけで、設計者が右と左を間違えたわけではないことが見て取れた。で、とっさにそれを言葉にするときに、「自分が入る側」と「自分が出る側」をどう呼べばいいものか途方に暮れたのだ。その道の両端は、自分が入る側と自分が出る側の対になっていることは確かだった。しかしそれって今の状況に置かれた自分から見てそうだ、というだけであって、つまり客観的な仕方で道の両端を呼び分ける言葉が欲しかったのだが……、それを追求すれば、地図を確認した上で「西側」「東側」とでもするほかはない。けど、そのときは、「こっち側」と「あっち側」をより端的に指示する A と B に当てはまるなんらかの単語がある気がして、そいつを求めて暗闇の中を探してしまったのだ。なるべく特定的な言葉を使おうとする思考上の癖があるみたいだ。だけど多くの場面では、状況依存的な表現で事足りてしまう、ということにも気付き始めている。むしろ、情報伝達に長けている人は、置かれている状況とか、相手がどこまでのことを了解しているかとか、そうした文脈を上手に利用するものだと言えるかもしれない。


2016.06.28 (火)

早くに帰宅できたので日記を書きますよ。気付いたら今月はまだ書いておらず、いや「書く」という行為は生じていたんだけど中断されたのが二回ほどあって、中断されたやつを継続する気はないのであった。帰宅して、時間できたからあーゲームしたいなーと思ったけど、それって自分が遊びのためにすることの選択肢をもってないからなんじゃないかなーと思った。楽しめて、なるべく有意義じゃないやつ。ゲームだってどこかで或る有意義さを帯びてしまう(あるいは見つけてしまう)には違いないんだけど、つまり、その、意義ということから開放されたひとときが欲しいんだろうか。無意義なことは一筋たりともしたくない、生活を進歩で埋め尽くしたいと考えていた時期もあったが、今はそうでもない。生活のビジョンがない。どうやって生きていたいかがなくて、もっともっと場当たり的だ。

特に何も思いつかないので、「暇だから本でも読むか」になっちゃうだろうな。


2016.05.28 (土)

部屋の掃き掃除と、トイレ掃除と、風呂の排水溝掃除をした。休日ふらふらと出て遊んでみても、家でゆっくりと好きなことをして過ごしても、どこか心が休まらないことがあるが、休日に掃除をしている自分は手応えを感じている、充実している。「自分がほんとうにやりたいこと」を未だ見つけられていないから、よけいにそう思うのかもしれないが、確かに掃除は裏切らない。それはひとつには、昨今流行りの語り口で言うならば、成果をその場で実感できるから、でもあるのだろうが、もっと素直に、目で見えてさわれるものっていいもんだな、ということを言っておきたい。また、自分がすべきことをしているという感じも掃除は与えてくれる。人間にはひとりひとり使命があって、社会のなかでそれを果たしていくことが自己実現なんだという思いを、私もまたぼんやりと、しかし強固にいだいている。でもその一方で、自分の身の周りをきちんとすることもまた、人間が「するべきこと」の一環なのだ。掃除はそのことに気付かせてくれる。それは、いくら世の中で活躍していても私生活がだらしなくては魅力も半減するね、というような勘定の話ではなくて、私生活をきちんとすることが世間で活躍できる人間をつくる基礎だ、という戦略の話もあるいはあるかもしれないが、両者を対立させて語ることにポイントはなくて、人間がすべきことってのはそこにもあるし、ここにもあるよって仕方で世界を把握していたい。


2016.05.27 (金)

ハロー。楡です。私もまた LINE というツールを使う機会があって、ときおり数人の知り合いや家族とやりとりするのですけども……、もうすこしはっきりと言えば自分が好意をもっている女の子と言葉を交わす機会があって、そうなってみると自分でも意外なほど軽いノリの会話を演じていることに気付いたりするわけだ(いや、チャラいとかじゃなくて、親しげな感じを出してですね……あ、同じことか?)。それは、相手がその人だから特別にそうだという話ではなくて、職場の一人の同僚相手でも同じように言える話で、つまり、考えてみればいにしえのチャットルームの時代からそうなのだけども、短文で気軽さが是とされていて、情報とは流れていくもので、しかも相手の顔が見えない状態で、というのが、人の言葉を最も気軽にさせるんだなあという、これは単に行きがかり上触れてみたくなっただけですが、そうなると一定のまとまりをもった文章を書くってことの独特さがますます際立ってくるよなあと、そんなことも思うんですよね。と書いてみて、なんだか昔っからそんなことばかり書いてる気がしてきたし、昔っからそんなことばかり書いてきたみたいなことも散々書いてきた気がいたしますが、やっぱり書いていきたいと思うので書かせていただきますが、 LINE を使ってより気軽にコンタクトをとることが可能になったのは、ひとつやはり何かを可能にしたんだなあと認めずにはいられないし私はそれを最大限有効に利用する気持ちがあるのですが、俺の文章ってこんなにまわりくどいやつだったっけ。まわりくどいやつだった。こういうまわりくどいやつを書く機会が失われ続けているのですよ。書くどころか、いや、つまり、まわりくどさとは言葉に宿るものであって、まわりくどいものに触れようと思ったらまわりくどいものを書くか、話すか、聞くか、読むかするしかないわけですよ。そしてまわりくどいことを話すのは嫌がられるので、いや仮に嫌がられていないとしても話してる自分が「ぜーったい嫌がられてるだろうなあ」という思いにとらわれてすぐに話せなくなると思うので、ありえないし、まわりくどい話を聞くのは眠くなってしまうし、いやー自分の意見を消去法で固めるのが上等な語り方でないのはわかってはいますが、続けると、最後まわりくどいことを書いて読ませてくれる人はあまりいないので(だって普通好まれないもんねぇ)、なにか思い立って人間の生につきまとうまわりくどさに触れようと思ったら自分で文章を書くしかねぇのですよ。それに、人間の生になどと言ったが、要するにそれは自分の生であって、ああっ俺ってこんなにまわりくどいんだ!って気づくこと自身が財産でしょ。つまり一般的な話をしているようでいてこの文章は書き手の特殊事情について言ってるんだってことがわかってきましたが、簡潔なコミュニケーションが好まれる昨今、いや、頭のいい人はコミュニケーションが正確ゆえに簡潔でもあり、それに下手に倣おうとすればわたしのコミュゥニィケイションも「簡潔」になってきて、まあそれでなくても口数の少ない男ですが、それが LINE (とか Twitter とかチャット)だとしゃべるから面白いよね。じゃなくて。とにかくいろんな意味で自分のコアな部分を確保していてくれるのが文章という場なのかなーってかんじのことを感じていて、もちろんいろいろな手段は相補的であってわたしは LINE とかもどんどん活用していく所存なのですけども(さっき言った)、相手の言葉に随時反応して流れに加担しつつ乗りこなすような場と、一人でぐつぐつ納得できるまで考えたものを後出しで出せる場とでは出てくるものが違うのがあたりまえで、それはあたりまえですね。ちがうんだよ。対話型で往復スパンの短かいコミュニケーションでは「主題」が場を支配するんだけど、時間や分量においてある程度の自由度がもたせられてる媒体(メールとか……)では、もっとヘンなとこに突っ込む余裕がでてくる。というかそういう「もっとヘンなとこ」、主題としてとりたてられにくい事柄こそが私や私たちにとって重要であったりしない保証はないのだから、表向きな「主題」を信じて取り組んでしまうお人好しな僕なんかはもっと自由度の高い媒体も上手に併用していくべきではないか?って感じのことを思っている。いや、二つのものを比べてどちらかが絶対的に優れているという結論ではないから「併用していく」のは当然なんだけどさぁ、あたりまえじゃん、こう、なので、たまに書く日記がこんなふうにまわりくど過ぎるものにならないためにも、いろいろな形でアウトプットはしていきたいですよね。おわり。


2016.05.07 (土)

昔話、かつ粗雑な話なのですが、僕がネットを通じて分析哲学というものを知った頃は、分析哲学といえばクワインの「信念の網の目」とか、それに対するデイヴィドソンの概念枠という考えそのもの〜とか、もちろん「語りえぬものには〜」もありつつ、ラッセル=ホワイトヘッドの『プリンキピア』(数学は論理学ですべて記述できる!)も含みつつ、まぁそのあたりのものがぱっと思い浮んでいました。そのため、分析哲学は理数系のセンスある人達がやる、破壊的かつ魅力的なアイデアに満ちた分野、というイメージだったんですけど、最近のネット(というかツイッター)見てると分析哲学は破壊的どころか堅実さを売りにしているほどで、まぁなんかイメージって数年のうちにコロっと変わっちゃうよなあと思うのでした。おわり。


2016.05.05 (木)

ゴールデンウィークでドカンと休みがとれたので旅行に出てきたんですけど、旅中で繰り返し感じたのがほんとのよいこととはなんなのです(かせきさいだぁ≡)ということでした。自分がなにをしたいのかわからない。あぁん。旅行、したかったことの一つには間違いないのです。どっか遠いところへ出掛けたいと願いながら、もう半年以上暮らしてきましたから。でもそれって「やりたいこと」が定められてるというよりも、大きな息抜きがしたかったという意味のものに違いなかったのですね。旅行来てやりたいことが特別あったわけじゃ……、なかった。でも旅行に来れば何かをせざるを得なくて、それは旅行に出ずに家でボーっと過ごしてるときもやはり何かをせざるを得ないのと同等の意味でそうなのですが、そうなってくると自分別にやりたいことないなーって事実が重圧となってきたりもするわけです。ふーむ。やりたいことがない人にとってこの世は生きづらい。この世は、というか、都会的な暮らしは、かな。まぁいいんだけど「ほんとのよいこととはなんなのです」で、青空に向けてそう問うてみたときに答えてほしいのは世間の役に立つために僕ができることは……!って話ではなく、そもそも俺という一個の存在は何を為すことを許されているのかみたいなコトですよね。たぶん。そういう、より哲学的(と言ってしまおう)な悩みは、実際のところ、ある意味お手軽に人の役に立つ実践に取り組むことで解消されたりもするのでしょうけど。問題の解消と問題の解決とは異なっていて、前者ができたからといって後者が達成されたと思うのはシンプルに論理的錯誤でしかないですけど、でも理屈の領域にだけとどまっているのが偉いわけでもないしー、みたいなー。つまり、どっちも大事!と言っておけばとりあえずは済む問題なのですが。ともかく仕事とか離れてこうして一人で「やることない」状態になってから浮かびあがってくるしょうもないことがら、というのはあって、それが「しょうもないことがら」であるのは特定の視座を特権的なものと見たときのハナシだよ、というのも承知しておくべきですけど、そう言ってみたときにじゃあ悩みの解消を目指すようなせっかちな態度は低劣で、哲学的に悩みを深める態度のほうが高尚なんだな!?みたいな余韻が響いてしまうのがやっかいなんだな、と思う。余談ですけど「高尚」ってことばは対象を理解していないときに使うくせに対象を貶める効果があってなかなか狡猾ですよね。その価値もしょせんは一つの視座にすぎないと指摘するとき、僕はきっと何かを貶めたいのではないし、かといってすべての視座を取り払ったまっさらな世界こそがほんとうの世界なのだと言いたいわけでも、別にない気がする。ようは青いものを見て青いと言う気持ちに限りなく近いと言いたい気持ちでいっぱいなのですが、それこそがいっさいの視座のないまっさらな世界に身を置いてることをオマエ前提としているよなあ?と問われれば否定しようもない。そうやってごちゃごちゃ考えてきてしまうと、それって哲学の問題だなと気付かざるをえなくて、無理しなくても哲学にかかわってしまうんだなとある種安心したりもする一方、仕事や日々の暮らしに追われていればそんな悩みが発生する余地も小さくなるのもわかっていて、年をとるにつれ哲学からは遠ざかっていくというのはそういう意味なんだろう。


2016.04.25 (月)

帰りに自転車走らせながら、小さな虫がものすごくたくさん顔にぶつかってきて難儀した。1分に1回ぐらい当たってきたぞ。これは何かが起こってるぞと思いました。ある変動が。それともいつもより1時間早く退勤したからか。いつもより1時間早く上がって、まだ暮れ切っていない道を自転車で駆け抜けていたら、知らない家庭の夕飯の匂いがたくさん鼻に入った。


2016.04.24 (日)

10時まで寝てたから条件が整ってるという意味で不思議はないんだけど、1日頭が痛かった。気圧のせい、ということにしているが、別に天気が悪くても平気な日はいくらでもあるし、休日なのが関係しているのかしらん。ほんとは大した根拠などないし、そう説明したところで何か或る恩恵を受けられるわけでもないんだけど、気圧のせいって言ってみたいだけ。


2016.04.23 (土)

休日なのにめずらしく8時前に起きた。前日早く寝たわけでもなく、めずらしくテレビめがけてタモリ倶楽部とぷっすまを見てたのでむしろ遅かったくらいなのだが、まー寝た時刻と起きる時刻ってそれ自身ではあまり関係ないなーって確信は日々深まるばかりなのですが。実際に眠ってるかどうかというより、寝足りないと自分が思ってるかどうかが寝起きには関係しているよね。朝食摂ってちょっとだらだらして、ムーンライダーズとか森高千里とか流して、まただらだらしてから毎週のおつとめとして近所のカラオケ屋に赴いたら開店ちょっと前で、本屋で軽く暇つぶししてトイレ行って漫画を買って、それから2時間歌った。なんか一日の早い段階にカラオケ入れるのって早くも一日を消耗しにかかっているかのようで、どうかなというか帰宅したらだるくてちょっと熱っぽい一幕があった。帰宅する前にここいちばんや(変換できない)でカレーを食べて、この店舗はオタクというかマンガとゲームが好きなひとたちが目立つようだ。そういう人たちを私は少しだけ見下しているようだ。でも見下している場合でもないんじゃ。しかし読書は遅々遅々として遅々進まないのであった。それから自転車の雨避けカバーを買った。ここ何ヶ月か、その自転車屋さんに空気を入れてもらいに立ち寄ろうとするのだが、なんだかいつも忙しそうで手がふさがっている風だったので遠慮していたのだが、今日はカバー買ったついでに作業に割り込みで空気入れてもらった。というかいつも割り込んで入れてもらえばいいのに。割り込むのがこわい。そこにある秩序を壊したくないというかさ。こわいと言えば私は絵を描くのもこわいです。それは時間がかかるからで、そして一度描き始めたらある程度完成させるまで終わりたくないし、そうしたまとまった専念の時間におのれを投げ込むことがこわいという私の文章をかなり読んでる人にはおなじみのテーマです。なにかに専念しているとその間に他のことができなくなるのがこわい。実際はできるんだが、というか、他の重要なことが割り込んできたらそっちに切り替えるし、それまでやってたことがそれで半端になっても実はショックはないし、はぁー、私はすべての見通しが事前についていなければ動きたくないんだよなぁ。でなんで絵の話したかというと夕食の買い物の際にブックオフに寄って『ザ・森高』を入手して家で流したときに、音楽流してるときって勉強するには気が散っちゃうので絵を描いて過ごしたりするんですがたまにしかやらないもんだからそういうときに「絵って……」という内省モードが発動したりもするわけなんですよね。小学生の頃までは絵もすこしは描いてたんだけどねぇ、時間の使い方がどんどん小間切れになっちまってねぇ……。

日記書き終わって水汲みに行ってるときに思い出したんですけど、今日は夕飯の買い物に行ってるときに自分が何を買おうとしてるのか同時に1個しか頭の中に保っておくことができなくてひどくちゃらんぽらんだったことと、料金振込と掃き掃除と風呂掃除と調理場掃除をまとめて実施したことも記しておこう。


2016.04.18 (月)

今日はフードコートで夕食を摂ったんだけども、なんで普通の店ではなくてこういうのを選ぶんだろうと考えたら、私はお客さんになりたくないんだな、って思った。一人ずつの存在として認知されるのがいやで、「あなた」をターゲットにしてもてなされるとなんだか気まずい。むしろ、大きな流れの中の無個性な一粒として処理されていたい。工場みたいに規格化されていて、仕組みの中を動く一粒の素子として、わざわざシステムに反逆しない限りほっといてくれるフードコートは、まぁ、気楽なのだった。でもちょっとトッピングしたカレーを頼んだだけなのに 800 円を超えたのは考えものだ。


2016.04.13 (水)

今日は帰りに牛丼が食べたくなって、でもアパートの近くの松屋はちかごろ盛り方がケチ臭いから、もういやな思いはしたくないし、かといって乗り換え地点の駅前の吉野家は不潔だし、しかしながら牛丼だけのために一駅とか乗り継いでまた戻ってくるのも酔狂な気がして、結局最寄り駅まで来て降りてしまって気がついたら駅前のこじんまりとした洋食屋に入ってメキシカンライスを頼んでいた。スープとサラダがついてくる。ここしばらく外食に対する期待が失われていたんだけど、ここの料理はどこをとっても配慮がゆきとどいていて、派手さこそないんだけどバランスにすぐれた、これこそプロの腕だなと感じられるいい体験をした。バランスっつうと均一にならされたような印象も受けるけど、もちろんそういう意味ではなくて、それぞれの要素がお互いを補いあっているわけだ……私が批評めいたことを書いてもしらじらしいだけだと思うので、このへんで切り上げておく。いい店というのはあるものだ。繰り返しになってしまうけれど、まがりなりにも料理を始めたおかげで、食べ物に対する評価の仕方はだいぶ変わった。もちろん(残酷なことに/安心できることに)そこにも功罪両方あるんだけど、しかし視座がひとつ増えることには変わりないんで、喜んでいいことなのだと思う。


2016.04.12 (火)

そして連絡を取り直すの巻。つーか1日待つのくだりいらない。いらないいらない。結局なにごともなかったがなにごとかがあったかのような痕が残ってしまった。一人で経験値を稼いでしまった。朝、カフェにでも立ち寄るかのような手軽さで、あきらめと未練と妙な無敵感のある時間を手ぶらで過ごした。決着がつく前、つらいなーつらいなーと思っている時間があって、感情とか感覚ではないんだけども、確かにつらみのようなものがあった。Twitterの人がよくいっている(いた?)あれだ。それは言葉が作り出す幻想なのか。怒りとかさみしさとかとは違うし(身体の変化が伴わないから?)、くすぐったさや暑さのような明証性もない。憂鬱と同種のものかもしれん。奴は確かにそこにいるけど、正体をつかもうとすると逃げてしまう。そういうモノを端的に「ある」と称するのは、どこかそぐわない感じもするのだけど、幻想だと切り捨てるのも明らかに語弊があって、まあ、よくわかんないなと。そういうことを考えた。それを日記の糧にする僕。まちがってる。人生の目的は洞察ではない。個人の生き方として、もっぱら解決だけを問題にする態度は疑ってもいいけど、そのときすべきは事態をよく見極めることであって、与えられた状況によってたかって引き出しうるものなんでも吐かせることではない。

今日は2時ごろにもうれつな眠気に襲われ、コンティニューを連打して現実に復帰するのでせいいっぱいだった。ああいうときどうしたらいいかほんにわからん。


2016.04.11 (月)

なんでも一人で感じることに慣れてしまって、さみしささえ。

ほんで、その洞察が無効になってしまう前にと急いでアップロードする私。卑しい。


2016.04.10 (日)

今日はぐずぐずだったな。「何をしたか」だけ取り出せば、植物園に足を運び、電車を乗り継ぎ、コーヒーを飲んで、カラオケをして、ごはん食べて帰ってきたという、それなりに健全な休日を過ごせたように見えるんだけど、いや過ごせたんだけど、その途中途中で携帯を見る頻度が高すぎた。ときどき連絡をとってる人に恒例の連絡を取ろうとしたらPostmasterに突き返されて、調べてみるとその550エラーというのは宛先のメールアドレスが存在しないときのエラーコードらしく、おっと……と思ったわけなんですね。ここで考えられる原因はさしあたり二つあるんだが、二つ目の可能性のほうがつい大きく見えてしまって、いらぬ勘繰りを膨らましてしまう。ほんとは選択肢をひとつに絞る方法がひとつあるんだけども、メールサーバの不具合とかかもしれないからとりあえず明日まで待とう、となんだか早い段階で決めてしまってその方法は試していない。そういうとこがだめなんだと思う。仕事ができないんだと思う。問題を解決することよりも優先してしまうなにごとかが、私には多すぎる。その、言ってしまえば、センチメンタルな気分に浸っていたいだけなのかもしれない。いや必ずしもそうではないのだが、事実上そうとしか言えないのかもしれない。言い訳ができない。

まぁふだんぼんやり構えているわりにはこういうときのあわてぶりは滑稽だなと思うのであった。ところで夜はラーメン二郎を食べました。人生二回目。一度目は、3年近く前か。Twilogって便利ね。そのときは大雨で帰れなくて(電車がのろのろとしか動かないかなにかで)、途中下車でカラオケ屋で森高千里とか歌って、遅くなったしお腹も空いてるから二郎でも食べてみっかーって携帯で場所調べて行ったんだよな。うん、移動経路考えるとエピソードの順序がおかしいので違うかもしれない。当時感じたのは味の強烈な濃さと量の多さ、そして食べた直後の後悔と、すこし経ってから芽生える「また行ってみたい」という意識、だった。今回行ったのはそのときと違う店舗だけども、印象深かったのは、味よりも麺の噛み応えと野菜(キャベツ、モヤシ)の物量感だったな。ジャンクというのとも違う粗野さの趣向を感じた。量は、入る前に携帯で手順調べたにもかかわらず「麺半分で」を言いそびれて、そういう点にも今日のぐずぐずさは映し出されているんだが、結果として普通の「小」になって、つまり通常のラーメンの2倍くらいの量だったんだけど、……話長くなってきたな。とにかく今回は満腹に苦しむことなく食べ切れた。空腹感も満腹感もにぶくなっているかもしれない。リピートしたい気持ちは今回芽生えなくて、外食一般に対する期待度がなんか一人暮らし始めてから低い。味つけの仕組みがある程度わかってしまうからなのか。飽食のせいか。


2016.04.05 (火)

なにかをアイデンティティにすること自体は恥ずかしいことじゃないはずで、だとするとアイデンティティにするのが恥ずかしいことと、堂々とアイデンティティにしていいことの二種類がこの世にはあることになるが、それは正しいのだろうか。そもそも——何かをアイデンティティにすることそのものが、イケてないのだと断じてしまいたい気はする。だけどそう断じてしまったあとでも、アイデンティティにしといて咎められることのないことがらと、それをアイデンティティにするなんて貧しいことだと思われるようなことがらと、その差は残る気がするな。貧しさ。つまり、これは、自分とはなにものかという話ではなく、お前の生きざまが豊かなのか、しみったれているのかという話なのだ。いや正確に言えば、しみったれたことがらをアイデンティティにするそのセンスがどうしようもなく貧しく、そのことがその人の生を救いようのないものに見せてしまう、という話か。マトリョーシカのような。言いかえればセンスとか見た目って結構大事で、だってそれは服とか暮らしだけじゃなく人生とか生きかたに対しても言えることだから、ってことなのかな。人生には見た目と実質の区別はあるのかな。そりゃあるのかもしれないが、ほかのなにごとよりもまして、生きざまにおいてはどっちも大事だという気がする。善く生きたけど醜く生きたとか、なんか矛盾してる気がするもの。ほかのもろもろのことどもにおいても、本当は、見た目と実質どっちも大事なんだろうね。理屈ではわかるけど。どっちかを切り捨てようとするのは、理の必然ではなくて、実際的な理由からなんだろうなあ。


2016.04.03 (日)

なんかこう……、経験を通して学んだことを活かす前に生活が割り込んできちゃうというか、そんな感じがある。そんな感じで生きている。ひとことで言えば忙しいのだが、別様にも言えるだろう。経験してせっかく分かったことがあっても、今の生活をまわすことにあせって、経験の声を右から左に流してしまう。そのとき感じたことをビデオみたいに録画して積んでしまう。なー。と思った。確かなことは、そういうことが息をするようにできるためには、ありあまる暇があれば……。しかし、ここで思い描いているのはもちろん大学生時代のことなんだけど、当時は当時で独特の焦燥があったのも忘れてはならなくて。独特の、というか、わけのわからない、むだな焦燥だったのかもしれないけど、それを止めることはできなかった。し。だから一概に学生の頃を懐かしむというか黄金の時代として振り返るのは美化のしすぎだなとこの頃は思えているのですけども。可能性がいっぱいあるのにつかめない感じというか。やりづらいことやもどかしいこともたくさんあったし。でも考え事したり、それを言葉にしたり、ふとした機会に深めたりする時間はいっぱいあった。そして時間がいっぱいあると人間、自然にそういうことをしだすものだというのも知ってる。自然にできないのなら工夫してそれをやろうというにすぎないのですがね。話の結論としてはね。


2016.03.31 (木)

朝は目覚めたら家を出る時間の10分前で、食事も洗濯もなくただ着替えだけして家を出た。前日疲れていたわけでも酒を飲んでいたわけでもなく、意味もなく寝坊したなと思っていたが、昼ごろから鼻水が止まらなくなり、鼻水が止まらない状態が収まらなくなり、急ぎの仕事もなかったのでしばらくのためらいののち早めの退勤を申し出て4時過ぎに会社を後にした。体調はすぐれなかったが時間には余裕ができたため、通ったことのない道を通って駅まで歩いた。最寄り駅のそば屋でカレーライスを食べて、ドラッグストアで体温計とキットカットを買って帰宅した。ふとんを敷いて熱を計ってみると、自覚してはいたけど平熱で、ただ鼻水ばかりがやたらに出るという症状。時期の重なりからみて花粉症とも違う。とにかく寝て治すことにした。寝れば治る。というか寝て治す以外の対処法を知らないのだなと思った。9時半ごろに目が覚めた。飲み水が切れかけていることに気付いて、スーパーに汲みに出た(うちは水道の水がおいしくないので積極的に飲み水にはしていない)。帰りに思いついてコンビニでゼリーを買った。小さい頃の記憶から、風邪を引いたときは「たらみ」の果物入りゼリーを食べるものと相場が決まっている。ところでたらみって今あるのかな。もうないんじゃないかな……、と夜の道の上で案じていたが、ちゃんとあった。 "Tarami" とローマ字になってちゃんとあった。たらみのグレープフルーツのゼリーは、果実の味を生かした控えめな甘味で、好ましかった。シロップ漬けのようなうんと甘いのも好きだけどこういうものには良心を感じるな。


2016.03.27 (日)

責任を持って仕事をしよう、という視点を獲得しつつある。獲得せんとしている、くらいかな。今までも、目的に対して必要な作業を導き出して実行する、くらいの自主性は発揮してきたものの、結局は受け身で、どこかから降ってきた仕事に対して反応して逐一答えを出す、という仕方で生きているのには変わりなかった。ところで、いや、正直に言えば、その「責任を持って仕事をしよう」というスローガンがどういう折に降ってきたのかとか、それがどういう意味をもって湧いてきた言葉なのかも、日記を書いてる今となっては思いだせないのですけども。あぁそうそう、要するに言われたことを言われたままやればとりあえず仕事としては完了にできるし、そのあとで何か問題が起きても「言われたこと」は忠実に実行したわけだから責任は指示を出す段階でその問題に気付けなかった上司なりに帰属することができるけど、それじゃ責任持って仕事したとは言いがたいですよねって話か。洗い物をしておきなさいよと言われて洗い物を済ませて、排水溝にゴミがたまっているのが気になったけど自分の仕事としては入ってないから放置しといた、そのうち水が流れなくなって面倒なことになって、悪いのは俺じゃないけどそのトラブル防げたなぁみたいな。その話と、責任を持つという言葉とがどう関わるかは明確でないが、自らの責任範囲が最小になるように動くんじゃなくて、むしろ、責任というのがひとつの範囲とかブロックを指す言葉として感じられているような。洗い物をするだけじゃなく、排水溝にゴミがたまってきたらネットを取り替えるとか、洗剤がなくなってきたら注文するとか、そうしたことができてはじめて「洗い物を任されている」と言える。そういう、関連しあう一連の行動範囲をまとめて責任と呼んでいる、言葉の側面もあるかもしれない。だから責任者とは複数のものをまとめる役だったりする。

関連する(かもしれない)話としてなのだが、仕事にはお金が発生している。お金が発生していることを自覚して仕事しろよ(お金が発生しているから、ふまじめにやることは許されない)という言い方もあるし、責任というものもお金の発生があるから生じたり、重くなったりするのかもしれない。しかしそれが端的に言ってわからないのであって、お金が出なくても責任をもって洗い物をすることはできるし、お金が出るからといって要求が高くなるのも変な話だ。これはお金が媒介者、価値をもつものそのものではなく価値をもつものと交換できるかぎりにおいて価値をもつもの(ややこしい書き方)であるというその身分の抽象的さがさまたげになっているのではなく、もっと直接の価値あるものに置き換えても同じことが言えると思う。朝昼晩の食事と直接ひきかえに私たちが仕事をしているとする。私たちが仕事をするかわりに雇い主からごはんが出るわけだ。って書くと別に普通のことのように受け取れちゃうな。中間項を省略してるだけだもんな。ともかく、雇い主は言う。ごはんを出しているんだから、まじめに働いてもらわないと困るよ。言い方としてこれが通るのはわかるんだけど、なぜ通るのかがわからない。私たちは雇い主に対して、労働とごはんを交換している。仕事がいいかげんだということは、この交換が不成立だということだ。ただ、ここでいう「交換が不成立」とは自然学的な事実ではない。だいいち、労働とごはんを交換する、という事柄は「いつ」起こったかを指定することはできない。永遠的に生起しているわけでもない。むしろ時間の中で起きているのは、労働とごはんを交換するという「契約」を結ぶという行為のほうだ。つまり交換という事柄は実体としては存在しなくて、むしろ交換する契約だけがある……? よくわからないが、しかし、契約が守られないのならさっさとめしを取り下げにするのが理という気がする(自然学的思考)。だけど、人間はたまにミスしたり疲れてパフォーマンスが下がったりするものだから、そのたびにごはんを取り上げられていてはもたない。だから仕組みとしてはもうすこし弾力的になっていて、雇い主はワンミスでごはんの供給をストップする代わりに注意したり、嫌味を言ったり、脅したりするわけだ。でもそれってもともとの交換という話となんの関係があるんだろう……とかって考えてくると、その、お金というもののもつ強制力を説明するためにずいぶんとたくさんのステップを踏まなきゃならないものだなあと訝しく思えてくる。つまり、構造があまりにも多層的すぎやしないかって。私が不勉強なだけで世の中にはそういうものいっぱいあるのかもしれませんね。


2016.03.20 (日)

卒業した人はおめでとうございます。私は今日は一日断食を敢行しておりました。最近飽食なもんでね。より直接的で切実な動機を言えば、太ってきたもんでね。だが一日めし抜くと痩せるみたいな非常識なほどイージーな考えを抱くまでに私とて間が抜けてしまったわけではなくて、ここしばらくの食事の仕方をいったんリセットしておきたかった、というのが公式の理由。大食いのほうではないんですけど、一人暮らしが始まってから、食べたいものを食べたいだけ食べる、というのが可能になってしまって、ポテトチップスとかももともとは家族で分け合って食べてたのが今では一人で一袋消費するのがデフォルトになってくるじゃないですか、それどころか味比べとかいって一人で二袋いっぺんに食べたりするのではないですか。それに世間にはおいしいものが無限に用意されているので(アイスとか)(ハンバーガーとか)、そういうのをいちいち味見できる財力が確保されているとなると歯止めがきかなくなって……、安いものばかり食べてるからこんな生活が続いてしまうわけですけど、「食べたいものを、食べたいだけ」を影のスローガンにして生きていたら気付いてみればおなかが減りにくくなったしおなかも出てきたので(結局そこ)、一旦この食事ペースを見直そうということで今日は朝のサンドイッチ以外は食べ物を口にしないことに決めているのです。で午後8時。

飢え感はなくって、一日くらい食べ物が供給されなくても溜め込んだ脂肪で全然補えるよと体が主張しているかのごとくだ。仕事するとなると能率は落ちそうだしミスも増えるだろうけど、休日ゆっくり過ごすぶんには何も問題ない。買い物に出ようと玄関で靴を履こうとしたときにちょっとふらっとした気配はあったけど。少なくともカロリーは十分足りてるようだ。カロリー過多なんだな。今度からたくさん食べたいときは野菜とかをゆでてむしゃむしゃ食べればいいのか。で済まないのが厄介なところで……。

思ったのが私は食べたいから食べているというかむしろ「食べておきたい」ものを食べているフシがあって、それは読みたい本とか聴きたい音楽があるとかと同じ種類の欲望で、つまり或る体験をもちたいというよりは、その体験を頭におさめておきたいというような自己肥大的な?欲望であって、コレクター心理に近いものがあるのかなと思いました。食べたいというのが原初的な欲求なのだとしたら、むしろ知りたいとか知っておきたいとかこれを知ってる俺かっこいい寄りの意識で食べ物にも向かっているようなのでありました。しばらく前にエピクロスという人の書き物を読んでいたんですけどそこにはお腹をすかせて食べるときこそまことの快楽だというようなことが書いてあって(読み取って)、そこへくると私の追い求めている快楽はその逆を行っているなぁと反省する一ページもありました。世の中にはおいしいものが山ほどある。しかし私の胃は有限だ。さてどうするか。本や音楽の場合は問題にならないのに、食べ物の場合は問題になるのは……、ほんとは、本や音楽にも、許容量というのはあると思うんだけどね。

書きたいこともっとたくさんあったはずなんだけど、こう文章の流れに乗っていくと用意していた話の半分以上はすっと背景に退いてしまうわけで、そうね、だから毎日書くことには意味があるんだけど、その気持ちをいつも忘れてしまうんだよね。


2016.03.01 (火)

一日の中で自動ドアに4度も拒まれたのは、でもどうしても関係ある気がして、自分はもう死ぬのかなという気がした。仕事で今日はつらいめに遭って、自分が引き起こした問題に周りを巻き込んでしまったという意味でも、それについて有効な復帰策をとれずに周りに甘えっぱなしになってしまったという意味でも、とにかく何も言えなくなってしまってそれがつらかった。問題を起こすと自分が死ぬしかないという思考にどこかでなってしまうようだ。つらくて涙が出たりはしないんだけど、ずっと泣きそうだったけれど、涙は出ない。ただむだに責任ばかり感じていて、頭が回らなくなって、脳細胞がたくさん死んだ気がする。脳細胞がたくさん死んだ気がする。痛みはなくて、いたずらに死へと向かってずれ込んで行くような。だから、自動ドアに4度も拒まれたのは、何も関係はないが、俺って死ぬんじゃないかなと思ったのだ。


2016.02.19 (金)

自分の思考の基調には、「なぜそうでなければならないのか」があって、だけど同時にそれって「そうでなければならない」を前提としてるよなぁと。


2016.02.15 (月)

今日もまた、帰ってから明日の作業のレイアウトを検討するの巻。紙を広げてあーでもないこーでもないと思いつくままに書きつけてみる。眺める。気持ちが固まってくる。向き合う時間が必要なのかも。かりに、お仕事を手堅く完結させるために考えておくべきことはおそらくもっと限られてて、考えるのが上手な人はそれを単線的にたどってみせるかもしれない。僕が2時間かかるところを10分でまとめてみせるかもしれない。ありていに言えば頭があまりよくない。いろんな角度から検討しておきたいんだよね。とにかくいまは目の前の得体の知れないそいつと取り組むために、心の準備が必要。心の準備なんて、ひとたび飛び込んでしまえば話は早いのに。いや入口をくぐるための準備ではなくて、入った先でそいつともうすこし仲良くやるための準備だ、と言いたい。


2016.02.14 (日)

月に一度くらい会うことを繰り返してる人がいるんですけど、その人が環境が変わり忙しくなると聞かされ、これからも今までのように会えるかどうか……、という雰囲気が立ちこめた中で今回は別れたので、なんだかとても不安で寂しくて切なくて何も手につかない気持ちで朝を迎えた。その気分には、昨日から急激に上がった気温もきっと関係していた。あったかくて春が訪れて頭がおかしくなりそうだよ。ただ気温が上がれば草履の出番だってことにも気付いて、玄関に立てかけていたやつをつっかけていつものカラオケに出かけた。外に出ると、靴ばかり履きどおしだった足の甲は白かった。久しぶりの草履は、あらかじめ予想していた以上に開放感があって、それが快適で、少し意外だった。楽だと感じた。寒いということはそれほどに自分を縛っていたのだと知らされた。帰りに梅の花を見た。かすかに匂う。自分でその匂いを取りに行くことはできなくて、ふと風の具合で運ばれてくるのを偶然つかまえる。これ、気付く、と言われることがらだ。梅の匂いとおんなじで、気付いたことを頭のなかにありありととどめておくことはできない。のだ。……。家で、明日から仕事で実施する作業のレイアウトを検討した。今週はハードだとあらかじめ知らされていたので、準備をしておく必要があったのだ。家で仕事のことを考えることはなるべくならしたくなかった。でも今しなかったら明日仕事場にいる時間が延びるだけだし。そ、そう言って、家で仕事まがいのことをする時間がこれから増えてしまうのだろうか。なるべくなら、ああなるべくなら。明日からの作業、どうも定時ベースで終わりそうにない(そう予告はされていたが)ので、作業レイアウトを考える中でそれを思いやって気持ちが沈んだ。未来のことを思いやることで削がれる気力と、実際に仕事に取り組んで目の当たりにする苦痛とは、量も質も特に相関関係はなくて、うーん、今この作業やっとくの失敗だったかなぁ。心の負担を増やすのは体や時間の負担を増やすよりもダメージが大きいからなぁ。

月に一度と言わず、いまここに、そばにいて欲しいんだって、たまに気付いてしまう。言い換えれば、気まぐれでそんなふうに思ってしまうときがある。それがなにかの理由になるかはわからないけど、その、つまり、理由になんてならなくていいんだけど、そんなこと思うときだって僕にもあるよ。


2016.02.01 (月)

気付くと、生きてしまっているなーと。日曜日寝る前にふと。

ふとんから出られないタチだ。ふとんから起き上がってストーブをつけても、腰から下は抜け出せない。支度をしても家から出られない。もっとも、平日は支度が済む前に時間に押されてあわてて飛び出すのだが。

いや、事実に即して考えるのもいまはよそうか。要するに怖いんだよね。人生って何があるかわからないじゃない。いや、そうじゃない。道を歩いてたらナイフを持った男に襲われるかもしれない。それもあるけど、その一日に何が起こるか、根本的に予想ができないところが怖いじゃない。いやいや、何を言っているかよくわからないが、少なくとも「明日は会社に行く」それぐらいはわかるんじゃないの。明日は会社に行く、さもなくば風邪を引いて寝込んでいる。さもなくば、二度と目覚めないかもしれないけど。いやいや、そういう可能性の低いことがらをもって「予想できない」と言っているわけではなくて、一日の中には予想しがたいことが無数にあるんだよ。電車は遅れるかもしれないし(遅れないかもしれないし)、誰かが休むかもしれないし(誰も休まないかもしれない)、昼休みに読んだ本が面白くて頭を離れなくなるかもしれない(特になんとも感じないかもしれない)。そのひとつひとつについて僕はなんらかの仕方で反応し、なんらかの形でその事実を反映するわけだけど、なにが起こるかあらかじめ知ることができないのなら(できるわけがないのだから)、そのつどアドリブで応えるしかなくなるわけ。それが怖いのだ。人生は本質的にぶっつけ本番だって言うんだから。これが最も顕著なのは会話という場においてだ。誰と話すときにどんな話が出るのかなんて予想できるか。コミュニケーションに長けた人ならできるのかもしれないが。ここで「予想」できる、というのは、相手が言うことを5W1Hが揃っているレベルで、しかも会話を始める前の段階で知ることができる、というぐらいの意味で言っているのだが、だから、それが可能か現実的かという議論をしたいんじゃなくて、そんなのできないよねって言っているわけだ。かりにこの先AとBの選択肢があるとしよう。Aが起こるとしたら、つぎはA-1とA-2に分かれる。A-1はA-1-1からA-1-3まで分かれ、A-2はA-2-1からA-2-4まで分かれる。もちろんその先もある。実際どれが起こるかはわからないから、全部のパターンを網羅しておきたい。けど数が多すぎるからそんなことできない。だから準備できない。人生は根源的に準備できないから怖いよね、動けないよね、と言っているんだ。準備できる領域も点々とあって、そこらへんを押さえておくことでとりあえず死なずにはすむけど、死なないだけでは不十分だと思うでしょ?

なので僕は人生を(こういってよければ)積極的に生きたくはないのですが、しかし気付くと生きちゃってるな、と。向こう岸まで流されてるなぁと気付くわけなのです。だからそうやって思い悩まなくとも全体的にみれば勝手になんとかなっちゃってるものなのかもしれないなぁと教訓を得るのもいいですが、生きるの怖い、ムリ、とか口では言いながら本人は道路の真ん中を歩いちゃってるみたいなありさま(思い悩まなくともなんとかなるが、思い悩んでいてもなんとかなる?)が何かしら示唆的な気がして、このこと書いとこうと思って夜中に数行のメモを残した次第なのです。寝る間際に携帯の光は刺さるくらいまぶしい。昨夜はみょうに眠れなくて色んなことがつぎつぎに思い出されて、大学の頃好きだったある人をなんで好きになったのか今まったく思い出せなくていっときの気の迷いだったんじゃないかという気がして暗い気持ちになったり、とにかくいろんな記憶が暗闇で噴出してきて手の甲を掻いてしまったほどなのですけども、その中でも学生のときの研究ザ未完のプロジェクトが完全に未完のプロジェクトだったことに思い当たりましてアイツ(研究対象)のことが頭から離れなくなってホント眠れなかったんですけど、しかし今更研究するっつったって自分が筋が悪いのはわかったし今更時間もないし深夜のいっときの迷いだろーって安心して寝たら翌日バッチリ覚えているんだもんな。あんまりイケてるテーマじゃないってワカったはずなのに、割り切れてないのはなんでなんだろ。興味があるというより忘れられない。


2016.01.27 (水)

昨日の日記を書いてて思ったんだけど、自分が日記書くときに目指してるものってなにか新しい事実やことがらの連関をつかまえたいというわけじゃなく、ただ自分が何を考えてるか知りたいってことなんだと。また言い訳じみていてアレだけど、大学入るときに哲学を選んだのも、ものごとを掘り下げることに喜びを感じるとかでなく——喜びは感じるのは確かだけど、それがなにかの動機にはならなかった——自分の考えを明確にするための考える道具が欲しかった、ってのが一番大きいかもしれない。その史観でいけば、高校生のときの自分の進路を決めたのは、ウェブで日記を書いてたことの影響がいちばん大きかったのかもしれないな、と突然思ってみたりした。あのときこのとき自分が何を感じたか。どういう違和感を覚えたのか。結局何を発見したのか。そういうことを言葉でもって執拗に再現しようとするというのが、自分が日記でやってきたことなんだなと。


2016.01.26 (火)

電車に乗って隣でガムを噛んでいる人がいると気が散るのでちらちら横目で見つつ、やがてシートを立ってしまうんだけど、それが正義のためにしているのか自分のためにしているのか、このごろわからない。つまり。もともと、隣でガムを噛む人がいれば気が散るのは事実で、だから心の平安を確保するためにその場を離れるというのはこれといって他人を傷つけない意味での純粋に利己的な動機によっていて、その限りで席を立とうが立つまいが俺の勝手だしガムを噛み続けるのもお前の勝手で、私が起こした出来事はお互いがちょっと快適な間柄になれるようにものごとの配置が調整された、というだけだった。ところが私のようなちっちゃい人間はそれでは済まなくて、席を立つことでおまえは迷惑なことをしているぞと言外にアピールして、それで電車の中でガムを噛む人が減ってくれることを期待してしまう。席を立つときに、「世界はこうあるべき」という願いがちょっとだけ込められてしまうのだ。つまり自分は、その行動によって相手の思想を変えさせようと企んでいることになる。そうすると意識はずっとグローバルな方へ向かっていく。つまり「自分が不愉快だから」という理由を超えて、そうするのが世のため人のためだから、つまりそれが正義だから、席を立つようになってくるわけだ。これはめんどくさい。なぜめんどくさいかというと、まずそれが本当に世のため人のためなのかよくわからない。隣でガムを噛まれると我慢ならない人が多数派かというとちょっと断言はできない。正義は多数派のためだけのものかというと必ずしもそうではないかもしれないが、それは置いても個人的な感情を無断で大義名分に置きかえちゃってる妄想的誤謬を犯している、においはする。しかしそんな反省をよそに何度電車に乗っても隣でガムを噛んでる人に出会えばいらいらするし、むしろそうした経験を重ねるごとに〈電車,隣,ガム〉と〈いらいら〉との自動的結び付きは強まっていく。それが正義なのかどうかに関して無反省になっていく、ように人間はできているらしい。そしてそれがめんどくさいんだ。めんどくさくなっていくんだ。「自分のため」と「正義のため」を切り分けるのが、むずかしくなっていく。自分がいまイライラしてるのが、自分のためなのか正義のためなのかわからなくなる。そしてそれは、自分が守ろうとしている「正義」が、自分の利害と一致している「自分の正義」という中間的な存在だからだ。かりにそれが自分の利益に反しているとしても為さねばならぬのが正義だとしたら、自分の正義はいつも自分の利益となる。自分の正義に見合わない事柄は不愉快さを呼ぶし、自分の正義に見合ったことをすれば心は満足する。(ここまでで習慣の話と正義の話と少なくとも二つは切り分けて考えたほうがためになると気づいたが、書き直すという選択肢はないのでこのまま続けます) 要するに自分はもっと利己的に生きたいのだ。つまりもっと素直に動きたいんだ。「そういうの嫌われますよ」とか嫌味を言うのではなく、「俺はお前が嫌いだ」と面と向かって告げる自分を夢見ている。自分の正義ってのは、ようするに一種の習慣だ。こういうパターンのときはこう動いておくっていうルール。それが常に——もしくは大半の場合において——よい結果に導くのか、今となってはそのへんもよくわからない。つまり自分がいま感じるいらだちが、隣りでガムを噛む(ついでにヘッドホンから音漏れもしてる)男との出会いに触発されてこの世に生み落とされたとれたてピチピチの新鮮なヤツなのか、それとも目の前の光景が特定の識別パターンに合致したために脳から自動的に投影された幻なのかが、どんどん不分明になっていく。それが僕の戸惑いだ。本物のいらだちとか偽物のいらだちとか区別しようとするのがナンセンスなのかもしれないが。でも言いたいことはそういうこと。正義を守るなら、自分の利害にはむしろ見合わないところで実践するほうが後腐れないだろうねえ。でシメようと思ったけど、「正義だ」って思った時点でそれが自分の利益に組み込まれはじめちゃうのが厄介だって話だったっけ。


2016.01.24 (日)

遅くまで寝過ごして、昼ごろにカラオケに行って、買い物に出て、帰ってきて料理して食べて、風呂入って酒飲んで寝るときには、ああいい休日だったと思える。休日が来ればいつもそれが継続できている。ありがたいことだ。ただそのためには一人でいる時間がなければならないこともわかってきた。先週の土日はいずれも人と会う用事があり、それ中心で回っていたので、奥底のところでは心が休まらなかったみたいだ。うん、人に会う用事があるとそれ中心で一日を回しちゃうのが問題なんだろうけど。一日に果たすべきことがそれだけのように思えてきて、他の時間がぜんぶ休止状態になってしまう。バイトの面接に行くみたいに緊張しちゃうんだなあ。しかしそうなると、仮に結婚するとなったら僕の生活はなかなか苦戦を強いられてしまうのではないだろうかと、要らぬ心配をしてみる。誰かと顔を合わせない日がないし、料理する機会も減るだろう。いや苦戦するっつうなら結婚なぞしなきゃいいんだけど、したくないわけでもないし。したくないわけでもないけどしないほうがいいのかもしれない。うん。暗い話んなってきた。見ての通り深刻に悩んじゃいないんだけどね。


2016.01.23 (土)

この1週間は自炊をまったくしない生活を続けてて、朝は洗濯機を回してる隙にコンビニに行って惣菜パンとコーヒーを買って来て食う、昼は職場の仕出し弁当(これはいつも通り)、夜はどこか店に入る(チャーハン、カレー、牛丼)といったぐあいでした。分かったのは人間そんなに食べたいものがぽんぽん出てくるわけじゃないというか、食べたいものが常に頭にあるなんて状態が自然なわけがなくて、だから味噌汁を作るとか魚焼いて食うとか、つけものを常備するとか、とりあえず米を炊いておくとか、そういう習慣を人類は発達させてきたわけなんですよね。

新しいパソコンにもSKKを導入したのですが、これが良いのは、チマチマしたキーボードでもカタカナやローマ字への切り替えが快適だということなんだな。いま言った新しいパソコンというのは買い替えたのではなく、実家での暇つぶしと出張先での最低限のインフラの確保(スマートホンで調べ物するの苦手)を兼ねて、Windows XPが入ってるような旧型モデルのLet's noteを8000円くらいで買ってlubuntuを入れて運用してるんですけども、このレッツノートって奴はキーボードがチマチマしてて半角/全角ボタンやファンクションキーが押しづらいんですねー。そこでSKKは半角英数への切り替えがL、日本語入力への切り替えがCtrl+J、カタカナ変換がQなので指を遠くまで伸ばさなくても済み、ミスタイプが減って快適、ということを発見したわけなのだ。

まぁ正直なところ言えば、今言ったキー配置の話を除けば一般的な入力メソッドに比べて快適だとか頭の働き方が違うとかいったことはないな、というのが実感なんですけども。ああ、自分って漢字の送りがなに案外無頓着だなーという気づきはあるかな。細かく切って変換しながら書いてくのはMS-IMEとか使ってても同じだしそれで不都合もない。SKKのよさを説明する文脈で、一般的な入力メソッドは機械で構文解析するのでトンチンカンな変換をするとかよく言われるけれど、職場でメモ書き程度で使ってるぶんには第一変換候補で9割方当たってるし。そんなわけで点数としてはトントンだと思う、が、それでもSKKが選べる限り使ってしまうだろうし、愛着が湧くという意味では優れたソフトだと思う。強いて言うなら構文解析とか大変なことしなくても日本語で快適に書けるよ、ってことを証してるのがSKKで、そうゆう思想的な心地のよさがあるな。鉛筆で十分だよっていう。

今日は買い物をして帰ってきたんだけど、帰りの電車でツイッターを見てたら頭がくらくら気分が悪くなってきて、じっくり見るどころではなくなってしまった。ここしばらくの不摂生な食生活が祟っているんだろうなと直感するわけなんだけど、では具体的には何が不足してたんだろうと考えると、野菜とか魚は(少量だけど)お昼の仕出し弁当に含まれてたし、そもそも電車の中でくらくらするのって食生活のバランスは取れてたはずの実家暮らしの時代からあったんだよな。研修受けてた頃も自炊はしてたが疲れが激しかったのもあって毎日くらくらだった。そう思って選択肢を絞っていくと、玄米を食べていないのが案外原因だったりするのかもしれない。自分でごはんを作ってるかどうかというより、玄米食べてる期間は体の不調を感じることが少ない気がしないでもない。ちょっと帰り遅くなったし牛丼で済ませるかーというときも、米は炊いてるので牛皿だけ買って玄米に載せて、という食事にはなっていたし。わからん。玄米食を勧める文脈だと日本軍が白米ばっか食べてたせいで集団で脚気になり……という話が出てくるけども裏返せばその話しか(寡聞にして)聞いたことないのも、なんか、あやしいよねぇ。でもやっぱり玄米よく噛まないと食べれないし、洋風なおかずに合わせるなら白米のほうが合うのは間違いないのは認めるけど、それでも玄米食を続けたい愛着が湧くという点では、要するになんか俺ってひねくれてるなーと思う。とりあえず来週からはさっさと魚焼いて味噌汁で玄米食う生活に戻りたいです。


2016.01.21 (木)

米は炊いてないし、かといって外食先を選ぶ気分でもないとき、決まって牛丼か、そば屋でカレーになるんだけど、そうしたものを食べた後って物足りなくなってしまうんだよね。味わうという経験への飢えが満たされないというような。それでコンビニに寄ってポテトチップスとか買うはめになる。もっと言えばポテトチップスを2種類買って味比べなんかしてしまう羽目になる。健康的じゃないいよね。あかんよなと思ってはいるんだが「あかんよな」という声はよく知られているように抑止力にはならないので、ただふわふわっとした欲求に背中を押されて今日も傍らにはわさビーフの「わさびが効いた濃厚ビーフ味」と「梅が効いてるわさビーフ」味が。この、「わさびが効いた濃厚ビーフ味」ってのがかつてのノーマルわさビーフだと思われるけど、すると今って無印わさビーフはないってことか。端的なわさビーフなどというものはなく、わさビーフ味のわさビーフがある。冷やすのが特徴の冷蔵庫とか、人間であることが生業の人間とか、目的を探すのが目的とかそんな感じ。(違う)

悲報!同人活動してたOL、マイナンバーで夜の街に沈められる!! - ゴールデンタイムズというまとめ記事を読んで、マイナンバー恐ろしい、SQLひとつで私の日記のURLが取得できる時代が来るのかもしれないと妄想してしまった。数々の悪行がバレるのも時間の問題だ。法に触れることはしてないハズだけど時々気持ち悪いこと書いてるから「誰でも見られる」状態だと具合が悪い。特に家族には見られたくない。好きな人にもちょっと隠しておきたい。しかしプライベートだったあらゆるものがパブリックになる時代が来たら、むしろ自分は自分だぜと堂々としていられる心をもつことが必要になるのかもしれない。悪いことしてないなら公開されても困らないでしょ? ありのままの自分を出してるだけだから恥ずかしくないでしょ? そういう風潮だってないではない。バカを言え、なのだが、自分はそういう正論には弱いんだよな。もし自分のサイトが晒されたらあっさりここを畳んで紙の日記に引きこもるか、もしくはそんな正論に背面打ちにされて、借りたものを返していないような後ろめたさをどこかで感じながらも従来通りサイトを公開し続けるかもしれないよ。


2016.01.19 (火)

年を間違えてたことに気付いたと思ったら今度は曜日を間違えていた。前回の曜日は正しくは月曜です。笑えるので直さないでおく。

残った雪が氷と固まり通行者を悩ませる頃、朝から晴れていたので昨日からためこんでいた衣類を洗濯して外に干した。帰ってきたら、思いがけないことだが洗濯物は凍りついていた。気温のせい(だけ)じゃなくて途中で軽く雨が降ったらしい。干してたふとんがびしょ濡れになってたあの日よりはましだが、ともあれ驚いた。


2016.01.18 (金)

2016年なのにずっと2015年と書き続けてきたことに気付きましたよ。OSをKubuntuに変えてみたのはいいものの執筆環境を整えるためにいろいろ走り回らなきゃいけないようで今から気が重いです。いやおおげさに言いましたが。フォントは仕方ないかなと思えるけどEmacsやVimのデフォルト設定の見た目が信じられないセンスなのは、まあ、それもそういうものなのでしょうかね(素直に文章用エディタ入れれば……)。SKKを早く導入したい。しよう。

日曜は大学院のひさしぶりな人たちと飲みに出て、案の定飲みすぎてしまい帰宅するなり畳(「ござ」ですけど)にバタンキューしてほどなく意識を失い、3時ぐらいに目覚めてふと窓の外を見たら雪が積もっていて……、一人暮らししてるとそんな流れにも遭遇するんだね。いままでなら、話がうますぎると思っていただろう。窓を開けてしんしんと降る雪の音を聴いた。

手先がどんどん器用じゃなくなってきてる気がして、今日なども中華料理屋で夕食を摂ってお金を払うときに1枚のお札が財布から抜けなくて苦労した。でもキーボードは問題なく打てるんだよな。キーボード打つのに指先の繊細さは実はいらないということかもしれない。ただ、指を動かすことに支障があるのではなく指先が乾燥して摩擦が著しく小さくなっていることが悪影響をもたらしているようにも思える。こないだも仕事中にオロナミンCを買ってデスクで飲もうと思ったら、するりと手をすべらせ職場の入口スペースに瓶ごとぶちまけてひどい目にあった(片付けた)。


2015.01.14 (木)

せっけんと間違えてシャンプーで体を洗うようなドジは世間一般的にはよくあるが自分の経験には不思議となくて、したくてもできないと思うくらいだったのだが、近頃(就職する前後ぐらいからかな)そうしたことが増えてきた。今日も何回目かで間違えたのだ。シャンプーは体につけてもよく泡立ち、身体と世界の境目で踊るうねりが偶然あるパターンを描いて運良く記憶の扉に手をかけない限りは自分が塗りたくっているものが石鹸だと思い込んで疑わないのだが、(表現に凝りすぎて何を言おうとしたかしばし忘れたが)、ああっこれシャンプーだと気付いて流した後に残るぬめりはいつも使っている石鹸とは明らかに異なるもの、と同時にこの流しても流した感じがしない不快感には覚えがあって、銭湯とか温泉宿でお風呂浴びるときってこういうボディソープだったりしませんか。お湯で流してもぬるぬると残る……、もしかしてあれってシャンプーだったのか。気付かず間違って使ってたりして。

自分は、おかしいなと思うことがあっても「そういうこともあるかな」で納得ずくで飲み込んじゃう癖があって、端的に頭が悪いのだと思っている。おかしいなという感覚をたよりに推理をすすめて真実を突き止める習慣をもつ人を尊敬する。尊敬するってなんだか今でもよくわからないけども、何かおかしいという直感を信じられる人、それを根拠にして自分が見たものを否定できる人は、頭がいいのだと思う。

話は戻って。せっけんとシャンプーを間違うようなドジを「できない」と感じていた私は、もちろん「できる」ようになりたかったんだけど、そしてなってみた今、悪くない感覚なんだけど、同時にそういう特殊な「できなさ」を抱えていた(まぁそんなに珍しいことではなかっただろうとは思うけど)自分のただならぬ存在、という感触とも一緒にサヨナラした感じがあって、(さっきから感じの話しかしていませんが)早い話がある種の中二病だった/であるのだろうけど、こうして普通になってゆくのだろうなあと思った。最近よく思う。普通の、勉強の好きなおじさんになるんだろうなぁって。大人になるとはわたしの、あなたの平凡さを自覚していく過程なのか。


2015.01.11 (月)

成人の日でした。そういえば夕食にありつける場所を求めて街をさまよっていたら新成人組とおぼしき若者集団がただならぬ声量でがやがやホテルの前でたむろしていたので、自分がこのまま入って行ったらリンチされるんじゃないかなと思いながら中を通り抜けました。誰にもそれと知られないあてつけ。さて土曜日からの私はどちらかといえば不調でした。金曜日の夜に仕事を1時間早く切り上げて実家方面へすっ飛び、家族で焼き肉を囲む。焼肉を食べた上にクッパを食べ、さらにシュークリームも食べて満腹が度を超し、翌日までお腹が空かなくなる。次の日、ホコリが舞ってるせいのアレルギーなのか鼻水が止まらなくなり、最低のテンションで実家から這い出てくる。その足で秋葉原へ出て中古ラップトップを物色しようとするが、くしゃみが止まらない上に対策として着用したマスクが熱をこもらせ大変不快適に、とてもゆっくり見られる状態ではなくそそくさと退散。帰って部屋掃除して石油ストーブを焚いてぬくぬくしてたら翌日には調子が戻っていた。実家で上手に過ごせず、年末年始とあわせて自分の時間がもてていないことに不満が高まっていた私はとりあえずカラオケに行くことでその埋め合わせを図る。カラオケは悪くなかった。悪くなかったがカラオケしてて「最高!」って思うことはあまりない。対症療法としてやってる感じなんだな。その日の残りは次の日に行くえっちなお店の選定にほぼまるまる費やした。ああいうのに限らず食べ物とかでもそうだけども、選び始めるとあれもいいしこれもいい、けどあっちはあれが足りないしこっちはこれが足りないってなって永遠に決まらない。あと酒を飲もうと思って380円750mlのPET容器入りの醤油みたいなワインを飲んだ。プラコップになみなみ入れて飲んだ。半分は消費してあったので2杯飲んだら消えた。しかし酔うための飲酒は家でしても特にうまみがないことが明白になってきた。ふらふら散歩しながら飲むとか、他の人と話しながら飲むとかならいいが、家で一人で冒険してもスリルもないし具合が悪くなっていくだけで、味わう飲酒というスタイルをおぼえなきゃなあ。と、このくだりを書くのにすこし考えすぎたようで、流れがよくわからなくなった。昼前ぐらいに朝ごはんを食べて、昼になってから酒とともにお菓子をばくばく食べて、そして前日には実家での食べ物攻めという流れがあったため、おなかがすかなくて23時ごろにようやく松屋でおろしポン酢牛めしを体に取り込んだ。牛丼というジャンクフードでありながら大根おろし+ポン酢というわびしさを備えていてこのメニューは好きだ、というようなことを食べながら思ったことを思い出した。それからまっすぐ帰るはずが軽く近所の散歩に出て、夜だからよせばいいのに入ったことのない道に入り、方角なんかすぐに見失っていつのまにか狭い路地に入り込み、静まり返った夜の上で誰か出てこないかとビビり続けながら、でもあくまで地図は見ないで突き進んだ。誰か出てこないかって殺人鬼とかヤンキーでもない限り恐くはないはずなんだけど、こう夜が深くなってくると自分の所業が誰かにバレること自体が恐ろしくなってくるんだよな。そうしてひとしきり冒険して帰ってきた興奮が覚めきらないのもあり、夜中に牛丼なんぞ食べて胃が活動してるのもあり、突発的に缶コーヒーの味は違うのかどうか(好きでもないのに)確かめようとして2本も飲んだのもあり、4時ぐらいまでぜんぜん眠れなかった。眠れないときって、ふとんの中で呼吸が自然にできないなって自覚する。ラジオをつけたらくるりが小沢健二の「天使たちのシーン」をカバー…ではなく似たメロディの曲を作っていた。次にザゼンボーイズが流れた。番組表が終わった後の時間に流れる試験電波は特定のスタッフの趣味丸出しでそれもまた楽しい。そして話は今日なのですがお昼どきにえっちなお店でえっちなサービスにありつきました。何度目かでやはりまたしても思うのだけど私が求めてるのは結局これとは微妙に違うところにあるんだなってことで。おしいけど違う。そして正解がどこにあるのかも今ははっきり見えてしまっている。遅い昼食をやよい軒で摂り(結局チェーン店)、あとはぐったりと疲れていたのでまっすぐ帰った。ただし隣駅まで歩いたあとだけど。歩くことに関しては、この休み中で満足いくだけ歩けたかな。それで……何が言いたいかといえば、思う存分休暇を満喫するぞと意気込みつつ、結果として得られているのが「なんか違う」という結論だったり、恐怖まじりの興奮だったり、酒を無理に飲んで苦しくなったり、辛いものを食べて汗が吹き出して外出たら気化熱でむしろ寒かったり、まぁいろいろ体験できたけどおのれが「最高!」と思うことこそを実行していないのが気になる。ただ散歩するためになーんもない地域に出掛けるとか。だいたい散歩は裏切らないのでそれで安心してしまい、自分としては経験の幅を広げるほうについつい金を払ってしまうんだけど、目的があるというよりただの行動様式としてヘンに染み付いてしまっていないかと。思わんでもないのでした。


2015.01.10 (日)

みなさんあけましておめでとうございました。楡です。日記を書きはじめると名乗ってしまいますね。Twitterみるのが最近めんどくさくて、楽しくないとかそんなんではないのですが必須ではないな、ということが適切に自覚されてきて、Twitter必須でない自分を素直に生きることができるようになってきています。カラオケ行ってきて帰りにマクドナルドでチキチーを買って、チキチーとかって略称のはずなのに正式名称として出してて注文のときに有無を言わさずCHIKICHI-って言わされるの恥ずかしいなとかそんなことをいつかは考えていたものですがいざとなれば普通に地声でチキチーって注文しましたよね。帰って食べたらおいしかったです。ここ数日くらいか何を食べてもまずくはないがうまくもないといった壁があって好くないなと思っていたのですけどもあれストレスだったのかもしれません。たかがマクドナルドのハンバーガーがおいしかった。ストレスだったのかもしれません。カラオケ行ってないストレス。実家でソファに埋もれてテレビ見るしかなかったストレス。自分の部屋を妹に空けわたした今実家に帰ったときにどういうふうに生きるかが課題です。軽量なラップトップを買ってリナックスを入れて持ち込もう。


MOdoru。