2014.08.17 - 2015.03.06 (Serene Bach で書いていたもの)

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2015.03.06 (Fri) 影のわかめスープ

初めての海外旅行の準備をしている。日本とどれだけ勝手が違うのかはわからないけど、まったく勝手が違うかのような気持ちでいる。とにかく知らなきゃ(調べなきゃ)いけないことが山盛りでつかれる。こわいことに巻き込まれないためにしておく用心がたくさんあり、それを網羅しようとしてつかれる。日本とどれだけ勝手が違うのかというと、話しかければ話を聞いてくれたり、品物を持って行ってお金を出せばものが買えたりする点は同じなのだろうから、日本でおぼえた暮らしの知識の多くは実際は使えるのだろうけども、しかしまったく知らないところへ行くというのはそれだけですべてが謎に包まれている感じがして不安をあおる。でも基本は同じなのだろう。日本で暮らしててこりゃまずいなと感じるところをつぶしていくのが先決だと思われる。方向音痴みたいな身近な欠点が響いて致命傷に導いてしまう、という形の危険がいちばんある気がする。


2015.03.03 (Tue) とか

私のことを好きな人に対してはできるだけサービスしてあげたいと所信をもっているんだけど、そういう人ほど、意識してると思われたくないとか一人でへんな気を遣って、結果そっけなく接してしまって嫌われているという印象をもたれてしまうようだ。これはほんと、ただに難しいこと。


2015.03.03 (Tue) 詰め襟連呼

人とやりとりしてるときに、不意に相手の意図が顔をのぞかせるときがあって、別に不快になるわけではないんだけど、それまであった透明な流れがせき止められた心地がすることがある。さらに落ち着いて反省する中で、その意図を表出させざるをえなかった相手の心理を想像してやさしい気持ちになる」、ことを思考する。カギカッコはわざと閉じ部分だけを置いていて、実際にやさしい気持ちになるわけではないが「やさしい気持ち」をそこで意味的に了解する。ほんとうは、そのときその場で現実べったりにやさしい気持ちになれれば、ものごとをよりよい方向に導いていく通路が開けるのだろう。だけれどその場でそうあるのは難しい。難しいという問題なのか不可能というべきなのか「やればできる」というのがどういう意味かはわからないが、ともかくそういう越えがたい壁みたいのがあって、ある人が「人類の限界」という言葉でそれを言い表していた(と読んだ)。

高校生とかに「いじめをなくそう!」みたいなスピーチさせたりするの、どれだけ意味あるんだろうか。 根本的な改善策はいくらでもありそうな気がするのに、なんでそういう方向にいかないんだろう。人類の限界なの? https://twitter.com/gotshu/status/572315047793336320

人々は自分が望んでいるほど合理的ではあれない。でも「やろうと思ってもできないよね」という自然法則的な了解のあり方が一方でありつつ、他方では、たとえば、できると信じこむことで現実を変えていくやり方があって、その2つがどうかかわるのかはわからないけど、そういえばどうかかわるのかわからない。というか、知ることにはそういう2つのあり方があるってことを言いたかった。2つだけではないとも予想する。


2015.03.03 (Tue) 軍手睡蓮

体調が悪い。というより体力が落ちた。運動をしていないからだ。朝ごはんを食べていないから。昼に起きる。夕方に、ふた月ぶりに走ってきたら、すぐに苦しくなってしまって、半分ぐらいであとは歩いてきた。続けていけば調子が戻るのは知っている。おなかが減らない。二食しか食べていないのに。体力をもどさなくてもいつもの生活は続けていけるし、すぐにおなかいっぱいになるけどご飯もいつもの量食べられる。でもそれで足りないものがあるとしたら、成果を出すことが重要なのではなくて、成果を出す中で経験するような一つ一つのことがらを楽しめているかを試されているのだと思う。「のだと思う」で文を締めるとなにか中身や暖かみがあるような響きを帯びる。まったくなんなんだろうか。


2015.02.25 (Wed) 横這い冷や麦

わたしが好きな人たちの多くはわたしに嫌われていると思っているようだ。


2015.02.21 (Sat) 菖蒲湯ロンダリング

おひさしぶりですね。

暇はあるのに気ままに生きてる感じがしない。って昨日つぶやきました。ふとんの上で。心の中で。「人生は選択の連続だということをもろにまともに受け取ってしまっている」のではないか。理由を探してそんなところに行き着きました。この道を選んだらこういう結果になる。それは自分の人生にとっていいことなのだろうか。今散歩に出るか、もうすこし作業を続けるか、そんなことを決めるのに、いちいち、そんなことを考えています。考えてもわからないのだが。そして、わからないから動けないのだが。ほんとうはわからなくても動けて、動けると考えなくてもわかるようになる。気ままさは理由が抜け落ちたところに存する。「だって、なんとなく」。人に動機を聞かれたときはいつでも「なんとなく」と答えようと思ってきた。でも自分に自分のことを説明するときはいつでも「なんとなく」じゃ済まないような重圧を感じてきたようだ。気ままさには実はいつも理由がある。晴れてて気持ちよさそうだったから外へ出た。疲れたから休憩した。買わなきゃいけないものがあるのを思い出したから。でもそれと、今してることを中断することの……リスク?を天秤にかけ始めると、なんだか問題はひどく錯綜してくる。ふとんの中でぐずぐずしている僕は起きるべきなんだろうか。起きるべきって何? 人はどういうとき体を起こして動き始めるべきなのだろうか。済まさなきゃいけない用事があるとき。でも今日はそんな用事もない。じゃあ「起きるべき」ではないのだ。でも「起きるべきではない」なんてこともない。どっちなんだ? ものごとは何々するべきか、何々すべきではないか、どちらかに決まっているってわけではないのか? 「何々するべき」と「何々すべきではない」とがどちらも休んで眠っているとき、気ままに生きる余地がじつはある。でもそれに気づかない。数学の問題に悩んでるときのように、隙間のない論証で、目の前で考慮してることがらをすべきかそうでないかが修正の余地なく決まるかのように、待っていてしまう。

そうやって書いてみると基本的なところは変わってないね。高校生の頃から。最近はなにかとやることがあって、やることをやろうと取り組んでいると日記を書く時間をいくらでも削れるというありさまで、そんな具合に暮らしていたらほんとにぜんぜん書かなくなってしまいました。ついでに言えば他人の日記も最近は読んでないのです。Twitterはあいかわらずちらちらと見ているのですけども。


2015.02.09 (Mon) 生きているのが楽しいか

暮らしてて死にたいなと思うことはよくあって、コップに水を注ぎながらああ、生きていくのがいやだとか近頃はよく思っていたのですが、これの逆でふとした瞬間にしあわせだなあと思うことはないなと気づいて、そのことをまえにTwitterで書いた。そこで今日、ふとしたときに幸せだなあと思えたのでそのことを付け足しておく。外でごはんを食べて、あんがいお腹いっぱいになって、電車に乗って、疲れの蓄積のせいか頭くらくらしながら最寄り駅まで来て、降りて歩き始めたら、食べてからけっこう時間立ってたのにまだお腹いっぱいで、満ち足りたままだって気づいて、幸せだなあと思った。幸せには理由があるのか? 幸せは、客観的な条件にもとづいて誰々が幸せだと言えたり言えなかったりするものなのか? そんな考えが浮かんだ。幸せには理由があり、不幸には理由がない。ああどっかで聞いた言葉だな。でも、理由なき幸せも全然可能だろうと思える。それはまあ、生きることに対する態度というか心理的な構えを通して実現されると言われるだろうけれど。考え方の癖が違うという。


2015.01.20 (Tue) なりふりかまわない

カラオケに行った。ここんとこ体調が悪い時期が続いたので、体力が落ちてて、保守モードで暮らしてたので、しばらく行ってなかったのもあり、2,3曲で喉が破綻してしまった。ちょっとしたはずみで調子っぱずれになる症状が発症、大小の工場。安全帯の低い声でちまちま歌うのがまどろっこしいので、開き直って最後の方は叫び倒した。聞き苦しいので腕では口をふさぎながら。痰がよく出た。歌はこの上なく不自由だったけど、限界に近づくって体験はわるくないね。限界というか、無理するというか。生命が輝く感じはなかったけど、肩の荷が下りるというか。


2015.01.18 (Sun) テレビゲームと内省

今日はゲームをやったんです。『スーパーマリオブラザーズ3』。家にあったWiiをしばらくぶりに起動したら、本体は問題なかったもののコントローラーがいかれていて、ボタンの反応が弱くなってました。使い込んではなかったはずだけど、経年劣化ということでしょうかね。そうして多少不自由なまま遊んでいて気づいたんだけど、私って冷静さを失いやすいのね。しくじってマリオを死なせてしまうと簡単に冷静さを失ってしまって、矢継ぎ早に次のマリオを出発させてしまう。息をつかずに再出発すれば、冷静じゃないから勢いまかせの操縦をしてまた死んでしまう。そうした悪循環に何度も出くわした。失敗したときに私が欲しいのはその失敗をおぎなう成功体験(ステージクリア)で、一刻も早くその失敗を挽回しようともがくんだけど、それが新たな失敗を産んでしまうわけね。そういう心理的なしくみが、ゲームをしているとくっきりと浮き出てくる。自分の心理面でのこじれというか未成熟な点が、マリオの死という明白な失敗として結実するからだ。実生活だとこうわかりやすく「失敗」することが少ない。人間のことがらにはいろいろな解釈のしようがあるから。寝坊してしまったのは自堕落のせいじゃなくて最近睡眠が足りてないという体からのメッセージかもしれない。あの人のあの態度は嫌われてる証拠かもしれないし、表現が上手じゃなかっただけかもしれないし、好意の裏返しかもしれないし、自分の考えすぎかもしれない。でもマリオの死を偶然のせいにするのは筋がよくないし、そこにかかわっているのは自分しかない。ゲームは自己との対話なのか。


2015.01.16 (Fri) ギャラリーの煮込み

気を抜くとすでに一週間以上空けていた。こちらではおひさしぶりです(ツイッター見てるかたは)。論文が出せて一段落で、気づけば手が尋常じゃなく乾燥していました。手の甲とかも亀裂の走った大地と化しています。それがまずイヤなのとひび割れが多くて半端にしか曲げられない指があるのがわずらわしいです。これは文献を読んだり原稿を書いたりという作業の中で夜更かしが連日続いていたことがおそらくひとつの原因で、午後一時以降に就寝する日が一ヶ月くらいは続いていたし、遅いときには四時に寝ることもあった。わたし肌が弱いのでだめなんですよ。たぶん。確証はないが生活の大きな変化といえばそれなので、夜更かしが続いて体調崩しちゃいましたって話をもう三人ぐらいにした。しかし就寝が遅いのは、じつのところ論文とあまり関係なしに自分の生活リズムが後ろ倒しになっているという事情もあるだろう。思い出してみると、バイトもしてなかったのに大学の授業と予習で毎日忙しかった学部一年と二年のときはアトピーとか健康面で苦労した形跡がないんだよな。あと浪人の一年間も。この三年間に共通してるのは生活が規則的だったってことだな。いまは毎日起きる時刻が違う、ごはんたべる時刻も違う。もうひとつ付け加えるとしたらストレスかな。高校生の頃にいっときひどくなったから。暇だからストレスがないってのはまちがいですね。

とにかく主に手の調子が悪いのでおくすりに頼ることを決心して、たびたび頼っているユースキンIにしようと思ってドラッグストアを三件ほど回ったんですけどメンソレータムADがまずまず手頃な価格で売ってたのでそっちにしてしまいました。結果の確実さよりも新しいものを試してみたくなっちゃう。いろいろ吟味したくなっちゃう。知ることを優先しちゃう。ロート製薬のリップクリームはXDと書いてある安売りしてるやつが中国製のグレードの低いやつで効果なかったのでうらみがあるのですが、「メンソレータムAD」みたら箱には第二種医薬品とあり、ぱりぱりの紙の説明書も入ってたのでまず信用できそうな感じはしました。「5,6日つけてみて何も改善しなかったら考えなおした方がいい」みたいな賢明なことも書いてあったし。いや個人的なことばかりでしたね。とりあえずつけてみた心地は悪くないです。


2015.01.06 (Tue) お湯を飲み一日が過ぎる

終点が見えてきた気がしたので年末頃から放置していた LaTeX の習得作業をすこしばかり再開してた。論文は MS Word ではなくこれで組版して出そうというわけです。ただ趣味の領域という気がしないでもないというか、いや審美性ってどんな場面でも重要だと思うし見やすい紙面を追求することは自己満足以上の意味があるのだから推奨していきたい気持ちは変わらないけども、中身の水準を高めることにもっと時間を割けよというお叱りが聞こえてきそうというか、でも本当はみんなが Word を使ってる(理工学系じゃないもので)ところで一人だけ LaTeX なのが不安という話なのであった。べつに技術を使って難しいことしようとしてるわけではないので、LaTeXの習得に多大な時間をかけてるわけじゃあない。たぶん。ちょっとした論文を1本2本読むぐらいではないか。けっこうかかってるじゃないか。

今日は歯医者のため朝に起きたので一日が長いです。重要な事だが朝に起きると一日が長い。というか昼まで寝てると一日が短い。それはもう。カップラーメンが出来上がるあいだに終わってしまうのです。


2015.01.03 (Sat) 備えと憂い

余裕できたら何しようかなと考えつつ、「あとで役立つから」ってのはやめようと思っている。経験的に続かないからね。それに未来への想像力が乏しいので毎日が灰色がかってしまいがち。あとになって何か大きなものを動かすときに基礎となるもの、ってたしかに大事なのだけど暮らす上で予行練習ばかりで実践がないのは生き物としてはね。この動機けっこう強いのだけどね。昔っからそういう観点で本を買ってきましたわ。今考えてるのは具体的にはフランス語なのだけども。フランス語で詩が読めたらきっと面白いけどフランス語の詩を読んだことがないので面白いフランスの詩を知らない。物理をやるには数学が必要だけど、といって『解析入門』からはじめたらそこでつまづいてしまったこともある。われわれの知識は斑点状に成長し(ジェイムズ『プラグマティズム』第5講)・・・。ほんとはどっからはじめてもよくて、これがないとこの先大幅にわからなくなるな・・・と思ったときに必要な物を取りに行けばいいんだけど、ついつい、ステップ1からステップ100までまっすぐ順序立てて進んでいける道を歩きたくなってしまう。最短ルート。寄り道だらけの散歩とは逆だねえ。へんだね。

ただそう思ったときに難しいのは、「あとで役立つから」という動機もまた、「やりたい」という気持ちを確かに生むということで、そうしてこの「やりたい」という気持ちは、将来への備えを動機としないいわば純粋な「やりたい」という気持ちと区別するのが難しいってことだ。よくよく注意すると違う気がするけど、いつでも判断基準として使えるような実用的なレベルではないと思う。「やりたい」という気持ちを内観するより、思考の流れに注意を向けるほうがより判然としているようだ。「フランス語・・・」の前をたどると、「フランスの詩が読みたい」という思いが先行してくっついているはず。そっちがほんとうの動機だ。まずフランスの詩の翻訳書を探しましょう。


2015.01.03 (Sat) みんなも日記書こうぜ!

そういえば明けてましたね。おめでとうございます。論文の提出期限が迫ってるんで、年末から年明けにかけても作業を絶やしてはならないなという意識もあり2015年が口を開けて迫ってきてもつとめて平静でいようと思っていたのですが、ちょこちょこ紅白見たりして、テレビで除夜の鐘のSEが鳴ればなにがしかの感慨を持って、なにかが過ぎなにかが訪れたようないくらかすがすがしい気になってしまうのでした。年が明けてもこれといって年が明けた気がしないと小学生の頃友達に宛てた年賀状の中で書いたことがありますが(何書いてんだ)、今思えば年越し感ってまあそこそこ感じられるものではないでしょうか。雷に打たれたような鮮烈な印象こそないものの。その年賀状をしたためた時は、そういう鮮烈な印象が年越しの際には生じるべきだと信じていたし、またかつてはそのような真新しい気持ちで信念を迎えていたものだという評価を持っていたようです。「俺も変わったなあ」と振り返ることは小学生の頃からしていたという。

元旦は隣駅の商店街まで散歩に出ました。雪がちらちら降っててうれしかった。歩きながらラジオ聴いてたら(初期の)ボアダムスが流れてきてうれしくなった。近所の小さな神社は小さいくせにお参りに長蛇の列ができていた。本を一冊買って帰りました。

去年は165件の日記を書いたようです。数そのものはあまり気にしないんですが日記書くのを習慣づけたいとは思ってます。


2014.12.29 (Mon) どうこうする幕

胸を痛めていると言うべきなのだとわかった。10年前の僕らは胸を痛めて森高千里なんて聴いてた。男もつらいけど女もつらいのよ、友達になれたらいいのに。そういうあれか。「つらい」と言葉にして感じてたのも事実だし、そして「つらい」という言葉が多義的なまま感じていた。ある現実があって、でも自分にはどうにもできない。どうすればいいのかわからない。自分がどうこうする幕じゃない。日課のテキストを読み始めると胸が痛む。こんなことしてる場合なのかと目を覚まされながら、自分にはどうにもできない。この部屋の中から、どうすればいいのかわからない。日記に書いたことだけじゃない。日記に書いたことじゃなくても。日記に影すら見せなかった話題についても。一人で胸を痛めた。朝も昼も夜もせつなさに酔って胸痛めてる自分もいい。そういうべきなのか。

参照:
小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」
矢野顕子「ラーメンたべたい」
斉藤和義「君の顔が好きだ」


2014.12.29 (Mon) ダッセェ

Twitterを閉じて日記に逃げ込む。Twitterの流れが遅いと、しばらく閉じておいて開いても新しい発言がなかったりするとしだいに追い詰められていく。われながら。われながら。新しいものを常に摂取してなきゃ死んじゃうの回遊魚かっつうの。もちろん、新しいだけでいいわけがなくてプラスアルファをほんとは待ってるのですが、でももういいの。大丈夫なのって頭では言いつつ手を伸ばしやすいのが青い鳥が飛んでる距離だったりするので結局この関係からは逃れられないのだろう。えすえねーすの怖さってつまり小さな差異に意識的になってしまうってことだよね。きめこまかさは善だと信じているけどそれはいやおうなしに微視的になってしまうのとは違うのやで。逃れられないけれど見きわめよう。

時間ないからって日記書かないでいるのダッセーって気がしたので書いています。時間があるから日記を書くのではなく、日記を書くために時間を作るのでもなく、日記を書いていると時間ができてしまうのだ。そうか。ほっといても空白は埋められてしまう。ならば先んじて埋めればそれが日記になるのだ! ところでおとといあたりから当ブログにスパムコメントがどんどこ届くようになりまして、とても不愉快なんですけど、ぼちぼち消しててもつぎつぎIPを変えて出てくるのできつめの対策として「コメントを受け付けない」設定にしたのに相変わらず届くので唖然とするばかりなんですけどって流れがあり、またMovable Typeとかに移行しようかなあと品定めをする目でコーヒーをすすっています。そんで湯気の中から未来がにじみ出てきて、それが目に染みてうんざり店を出るのだ。同じブログツールなんだけど現在も開発が継続されていてサポートが効いてるだろうって算段です。

まあでも日記の手に収まる感じっていいわよね。Twitterはこぼれ落ちていく感じ。(Twitterへの呪詛を吐く場として日記を使うのはやめろ)


2014.12.25 (Thu) いーらーつー

なにかとつらい。休みに入って学校は開いてないし人には会わないので家にいるか家の周りをぐるぐるすることになる。高校生の頃はそれで平気だったけど(ほんとは平気じゃなかったんだな)今はダイレクトにやられてしまう。ほんとは平気じゃなかった。昨日取り上げた記事の余韻がまだ残っている。こないだした人とのやりとり、しなかったやりとりを反芻して意味をずるずる引き出す。すべては遠い。隔たりにじたばたする。誰かの、今年面白かったマンガのランキングをみる。そこにも人生みたいな何かが表現されているらしい、で、それを読んだらまたぐるぐるぐちゃぐちゃ考えてしまうのだろうか。それも快適ではない。でもそれをわかってて読まないのも嘘だという気がする。その嘘だという気がするその気は、たんなる嘘つきの嘘とはちがう。ただ真実ならぬことを言うという、人をだます嘘ではなくて、じゃあ自分をだます嘘なのか。自分をだますことは人をだますのとは本質的に違った重さの罪を与えるのだろうか。いや、罪というよりはまず、それは自己欺瞞のもつ特殊な構造が引き起こしている違いだろう。Aだと知っていて誰かにAではないと告げるのは(良心の呵責とかは別として)動作としては簡単だ。でも自分に同じことをするのは難しい。あと3週間足らずで論文を提出しなければいけないと知っていながら、提出までにはまだ1ヶ月あると自分に思い込ませるのはきわめて難しい。あることを知っていながら同時に知っていないという矛盾した状態に自らを持ち込まなければならないからだ。実際は、こんなはっきりとしたコントラストを見せることは少ない。自己欺瞞が生じるときには、だいたいいつも、Aなのかどうか知ってるような知ってないようなあいまいな状態があり、それを何らかの動機から「Aじゃないよ」と自分に言い聞かせる自分がいるのだ。かたい確信が打ち立てられていないときには自己欺瞞はむずかしくない。ところで、自己欺瞞に気づいたとき、「それは嘘だ」と見破ったとき、それは何か自分の外にある力に与っているという気がする。自分だけでなく誰にでも気づける、良心のようなものがある。良心は誰もが共有するものだ。それに対してひとを自己欺瞞に陥れるのは個人的事情だ。……それで何が言いたかったのかといえば、ものごとを体験したり能動的に動いたりする機会が薄れると、回線を通じて与えられてくる無数の「意味」にさらされて、それを都合のいいように――「生きるのはつらい」というような結論を強化するように――手早く解釈を施していって、すっかり自分の思った通りの人間になってしまうのだ。

「つらい」というのは自分で使うのを禁じていた言葉で、それはこの言葉が現状肯定以上のはたらきをもたないと判断したからだ。現状肯定のために使わなければ――具体的には、Twitterでちょくちょく無批判に使うことをしなければ――特に、結論として使うのは危険だ――その禍は避けられると思って、まあそろそろいいだろうと思って、ちょっと出してみた。


2014.12.24 (Wed) 完結しない

コンテンツだと割り切れば、もっと自由にものが書ける。自分のことをコンテンツにすることは、自分を切り売りすることだが、自分を空しくすることではない。書くことよりも書かれたものを通じて何かを成そうとすることが、自由にものを書くことから自分を遠ざけている。

こんな記事を読んだ。Twitterで紹介されてた、俳人である佐藤文香さんのインタビュー記事。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20141222/E1419182685337.html

セックスなんて言葉に反応してしまう。言葉に反応する。日中にかあ。そんな事柄は自分からあまりにも遠すぎる。DVも、泣き崩れてしまうことも、どれもこれも遠すぎる。人生経験、すこしちがうけどそんなキーワードで自分の感じたものの正体を見定めようとしてみる。でも、この気持ちは嫉妬ではない。ひどい目にあいたいとか、セックスをしたいと思って僕はここで沈静した心持ちで座っているのだろうか。そうではない。ひどい目にあったりあわせたり、セックスをしたりすると人生経験が積み重なって人間が深みのあるものになるのだろうか。たしかにそうだと考えている。でもそれを求める気持ちが跳ね返ってここで考えこんでしまっているのではない。






なのだろうと思った。遠慮のなさ。自らの体験を語ることに遠慮がない。(文章に打ち出して編集する中で、実際の話の中にはあったかもしれないためらいなどが削ぎ落とされただけなのかもしれないけど) ただ、語るべきことがあるのは率直にうらやましい。僕には語るべきことがない。のだろうか。なんだか僕の人生は語っても仕方のない、起伏のないつまらないものなんじゃないか。人生をアクセサリーみたいに身につけるために、派手で意義深い出来事でその中を飾っていくという考えには賛成できない。それに誰もそんなことをしようとはしていない。ただ語るべきことがある、ということがうらやましい。正確に言えば、語るべきことを、語るべきこととして記憶にとどめておけることがうらやましいのだろうか。体験したそばから忘れてしまう。語る言葉も、なんだかひどく陳腐で単色的な表現しかもたない。少なくとも人前で話すときには。

はぁー(ため息)

繰り返すけれど、どういう奴になりたい、という意識がはたらいて、それでこんな日記を書くような気持ちになっているのでは、ない。少なくとも直接に感じられているのはそのことではない。ただなんだか動かされてしまうんだな。特殊な種類の、ではあるが、ある種の感動なのかもしれない。

とても変な話、僕がこの人と【わたりあえる】くらいいろいろな経験をしてきていたとしたら、この記事を読んでどう感じただろうか。……想像もつかないな。読みながら、「大変だなあ」と、何度か言葉にして思った。そのことで自分のなかの何かが露呈した気がした。何を隠し通そうとしているのかが。

うーん、書いてたらわかんなくなってきた。言葉がどんどん薄味になっていくかのような気にとらわれる。僕はなんか言いたいことがあったのかな。結局うらやましいってことだったのかな。そういううらやましさから【身を守る】ことが僕の大きなテーマの一つだった。でも、むずむずする。文章から読み取れる経験の厚みにむずむずする。そこで、語るために使われるべき言葉は「幸せ」とかではなくて。人間の目的は幸せではないって、思っている。幸せは結果。いくつもある結果のうちのひとつ。

まあ、こういうの読んで動揺したからって、目の前にはそれなりの過去を背負って続いてきた、これからもそれなりの安定性をたもって続いていく、いわゆる日常みたいなものがあって、そこにこの動揺がどんな結果をもつかといえば、ほんのささやかなものなんだろうけど、往々にして自らのインナーワールドに比べて客観的世界って冷ややかですよね。あーあ、もっと話し好きで話上手な人間になりたいな。

ごちゃごちゃ書いても、この記事を改めて読んだらなんだかおんなじこと感じてしまいそうだ。思索の書きものとしてはこの日記は失格だ。


2014.12.23 (Tue) この歳になっても

学校もバイトも今年の分は終わったので、やっと自分のことができる。というわけで日記を書くよ。おとといはサークルの忘年会で、食事も酒も(特に酒)いまひとつ物足りなかったので二次会へ流れ込み、ワインなどを調子に乗って飲みいい具合に酔っ払い、羽目を外した写真を撮られたりしながらとなり駅まで歩いてカラオケになだれ込み、0時前から5時まで5人で歌い続けましたとさ。酒が入ってたのがあってカラオケの大音量を浴びていると鼓動が激しく・速くなる。あとで反省して気付くのは、歌の手を抜き始めているなということだ。自分の持てるものを最大限出してる自分を人に見せるのが恥ずかしい。そのことの肯定が進んできて、恥ずかしがってる自分こそが自分らしいと開き直るようになったみたいだ。そのほうが楽でもある。でも恥ずかしがってることをことさらに開示するわけではなく、むしろわかりやすく恥ずかしがること自体も恥ずかしいのでなんだか「見る人が見ればわかる」ような仕方で恥ずかしがってしまっている。結局のところわかりづらい。思いっきり歌ったあとで思いっきり恥ずかしがれればいいわけだけど。

終わったあとファミレスで朝食を摂って、寝てないのとこの先の予定がなにもないのとでしばしぐだぐだした後、自分の「出ようか」という合図で外に出た。駅でお別れして、自分は御徒町駅へと向かった。昼に人と会う約束があったから、体を洗うぐらいはしておこうと、朝でも開いてる銭湯を探したのだ。燕湯という名前で、入ると昼間のようににぎわっていた。ボディソープが洗い落としてもぬるぬるするタイプで苦手だったけど、一通り風呂を浴びて出るとやはり新しい気持ちで朝の中を歩き始めることができた。それから大学に戻ってコンビニでひげ用カミソリと歯ブラシを買って顔の身支度もした。服を替えられなかったのと、それにともなって靴が前日の長靴のままなのが惜しかったけど。昨日の夜に、このままだと帰れなくなるかもと思ったときにそこまで予想していたかどうかは覚えていない。午前中もちょっと別の用事があり、後輩と二人であるイベントを見に行っていた。昼までいて、途中で抜けた。後輩君の述べる感想が長く伸びていくのに話の筋をつかむ手がかりをつかみそこね続けて、寝てないとだめだなと思った。寝てないせいだったのかどうか。

それから電車で移動。イベント中も不思議と眠くならなかったのだが、電車で座るとどうしても眠くなる。というか寝てしまう。そういうつもりで座ったのだからそれでいい。用事とはネットで知り合ったある人と会う約束で、自分にとっていくつか記しておくべきことがあるんだけどここに書くつもりはない。あるレストランに行くのが目的だった。入り口まで来て、覗いてみると混んでいた。席が空いたら連絡するからと店員に電話番号を控えてもらい、とりあえず周囲をぶらぶらすることにした。あるとき、その人が不意に「楡さんって《本名》って言うんですね」と口にして、本名を明かした覚えがなかったので驚いて、はてTwitterがFacebookかGoogleかなんかと繋がっていて情報が漏れたのかとかいまどきのインターネットは恐ろしいよなとか考えていたのだが、あとで気づいたことにはさっきの店頭で電話番号と一緒に自分の名字も告げてたのだった。ネットの人に自分の本名がばれるというのには別に不都合はない(リアルの知り合いに自分のネット活動がばれるのを避けるためにハンドルネームを使ってるだけなので、その逆は問題ない)んだけど、とにかく不意打ちだったので必要以上に動揺してしまった。必要以上に動揺して、そのつもりはないのに、本名を明かすのは不本意だったみたいな雰囲気を出してしまったかもしれない。

帰るなり保湿をして寝て、夜は外食にするというので親の車に乗って寝て、また帰ってくるなり寝たので具合悪いのかと親に心配された。眠いだけなんだよ。もっと正確に言うと睡眠不足を補いたいだけなんだよ。体の具合に関係なく、欠けてしまった分だけ埋めなければならないという発想。でも翌朝遅刻しそうで早歩きしたらすねの筋肉が痛かったので、まだ十分寝てなかったらしい。というか調子乗っていつもどおり2時前まで起きてたので、ふとんで寝る時間が短かったせいか。


2014.12.14 (Sun) 我に鼻セレブを

一日中鼻水に悩まされる。さらさらの鼻水。油断してるとたらりと忍び出て落ちてゆく。無限に鼻かんでると鼻の下が腫れてくるし、鼻の周りの皮膚もがさがさでささくれるのであまりかみたくない。くしゃみも出る。くしゃみは出だすととまらない。あんまりくしゃみが出るので自分の部屋がほこりっぽいせいなのかと思ったが、外へ出てもくしゃみは出るのだった。ただ自転車こいだりジョギングしたり要するに運動してるときに限っては平気なのだった。あと風呂入ってるときか。体が内側から温まってる時はいいのかな。

昼から街へ出て本屋の散策をしたり、欲しい本を思い切って買ったりしようと思っていたのだが、起きたら11時で、食事して日課の文献読みしてパソコンにLaTeX入れなおして山下達郎のラジオも聞いたりしてたら日が暮れてきたのであきらめた。最近週末はそんな感じ。風邪っぽいのもそんな感じ。山下達郎のサンデーソングブックで「クリスマス・イブ」が流れて、ちょうどおとといあたりにCDで聴いたんだけどもそこで気付かなかった音がラジオ音源では鳴っていたので「最高の音質」と謳っているのは承知してたけどどういうからくりなのかと驚いた。CDを聴く設備も、少なくとも劣悪なものではないのだが。ラジオって案外繊細な出力ができるってことか。と思ってCD用のヘッドホンに差し替えたら低音が効きすぎて音像がくぐもり気味になったので、まあまあ高いやつでも向き不向きあるんだなあという結論でした。もしくはラジオについてきたイヤホンが意外と高性能。

あとは選挙行って、自転車で酒買いに行って。中国の華北で飲まれている二鍋頭酒というのがラベルの装飾がかっこよくて安かったのでこれを選んだ。しかし56度。未知の領域だ。論文はすこしずつしか進まない。むりやりでも毎日やろう。


2014.12.13 (Sat) 否定する、否定される

論文を書かなきゃいけないので、書けていないので、書く時間を作らなければいけないので、ようやく休日になって日記を書く時間をみつけている。といいつつ11時まで今日は寝たんだけど。2時から11時。

何か書こうと思っていた。なんだか最近生きていて気づくのは、あいかわらず会話が下手ということであり、それは話題を見つけるのが下手ということがその半分くらいを占めている。それから話題を見つけてもそれを振れないとか、コメントを思いついても口に出さないとか、よく考えると無用だとわかるような遠慮がもう半分くらいを占めている。ようするにだいたいの人に対して僕は緊張している。一問一答のようなやりとりならまあ支障なくできるようになったと思っているけど、それって会話のスタート地点にすぎないし。入り口で足踏みだ。緊張していると声の出し方に制限がかかる。まず声が小さくなる。もともと小さいけど、大きくはっきりとした声で話すように自らをコントロールすることができなくなる。ほんとうは自分の声なんて聞こえないでいて欲しいのだろうか。よくはわからない。そうかもしれないという気もする。聞こえなければ反対されることもない。でも反対されることや、考えが食い違うことは、否定されることなのだろうか。そんなことはない。らしい。まったく逆方向のことを言いつつ、しつつ、自然な仕方でその場にともにあるということは可能だ、ということを、ある映像の中で見た。そこがわかってないんだなあ。極端な話、つぶあんが好き、と自分が言って、私はこしあんが好き、と相手が言ったら、自分が否定されたように思う、そんなふしがある。こしあんが好きと言っている人に対して自分はつぶあんが好きだと言うことは、相手の価値観を否定することだ、と、そのようなスイッチが頭の回路のどこかにある。……要するに、「(価値観を/意見を)否定する」という概念が僕の中でとてもきめの粗いままで存在し続けているんだろう。否定する/されることに敏感なのじゃなくて、否定したかされたかどうかを、ものすごく大ざっぱな仕方で判定してしまっているのだ。

否定(ここでは、「相手を否定する」の意味での否定にかぎる;以下同様)概念で難しいのは、それが相手の思っていることに矛盾する(両立しない)ことを言うことでもないし、あるいは相手の思っていることとは別のことを言うことでも必ずしもない、ということだ。「今度の選挙は自民党が圧勝だね」に対して、「いや、また民主党政権に戻るんじゃないか」と返しても、相手を否定してることにはならない。価値観に根ざした発言である必要があるのだろうか。SEKAI NO OWARIが好きな人に「こないだスーパーでSEKAI NO OWARIが流れてて腹立ったよ」というのは、相手のことを知ってて言っているのであれば侮辱だろう。でもそのときのいやな感じは、価値観が否定されたこと自体に由来するというよりも、相手の価値観を否定してやろうという意図がその人をいやな気持ちにさせている、というほうが正確だ。もし相手のことを知らないでSEKAI NO OWARIに対してなにか否定的なことを言ったとしたら、まあその人は不注意だったかもしれないけど、「そう思う人もいるか」くらいの感想でとどまったかもしれない。つまりただ否定的なことを言うだけでは、相手を否定したことには必ずしもならない。もっとややこしく、かつ、重要なのは、相手のことを知っていて、かつ、相手を傷つける意図からではなく、SEKAI NO OWARIに対して否定的なことを言う場合だ。「SEKAI NO OWARIって音は面白いけど歌詞が青臭くて好きじゃないんだよなあ」というようなことを言ったときに典型的に、僕は、相手を否定したと感じる。さっきとどこが違うんだろうか。ひとつは、語られてる内容がより具体的・客観的であるということ。ということは、その語られた内容を聞き手が受け入れなければならない可能性が高まるということだ。「おれSEKAI NO OWARIきらい」だったら、そういう人もいるという了解ですませることができる、つまり「世界の中にどのような人が存在するか」という観点から了解すればそれで済むので、SEKAI NO OWARI自身の評価には影響しない(…直接的には)。これに対して「歌詞が青臭くて…」ということに対しては、確かに青臭いかもと気付かされるかもしれないし、その場合はSEKAI NO OWARIに対する自分の評価がゆさぶられることにもなりかねない。青臭いという評価に違和感を覚えるとしても、では自分はなぜSEKAI NO OWARIが青臭くないと思っているのかを自分にあらためて納得させなきゃならなくなるし、そのさいにSEKAI NO OWARIに対して仮の形ではあれ疑いを向けなければならなくなる。「お前はほんとうに青臭くないのか?」と。そこまで考えるかどうかは個人差があると思いますが。もうひとつ問題になるのが、価値観は人それぞれと言いつつ、価値の分野においてもより正しい判断はどうやらあるらしいということで、端的に言えばSEKAI NO OWARIの歌詞は青臭いか青臭くないか、2つに1つであるということだ。そして、もし実際は青臭いとしたら、青臭くないと思っている人はものを見る目が一段劣っているということになる。別の言い方をすると、SEKAI NO OWARI(これ何度も打つのめんどくさい)って青臭いよねと言うとき、相手よりも一段上に立ってものを言ってることになりかねないんじゃ?という懸念がある。それは相手の知らないことを教えている、という構図で、しかも、価値に関する事実だから、それを知らないということはなにか人間的に遅れていることを示しているように思える。単に知識が欠けているというよりある種の頭の悪さという意味を帯びるのではないかと。そうだとしたら、自分の所見を述べることで、人に対して「お前頭悪いよ!」と間接的に言ってしまうことが僕はいやなのか。そして同時に、人になにか言われることで、「お前頭悪いよ!」と言われている気になるからいやなのか。

自分には自分なりに積み上げてきた行動の、判断の様式がある。そいつを変えるには馬力がいる。習慣は時間によって固められるほど同じ方向へと加速する。そいつを受け止めて別の方向へ逃してやるには馬力が必要だ。それに、自分がその様式をとっているのは、それなりのメリットもあってのことだ。それを否定されてしまうと……、否定の分析の中に否定が出てきて、循環してしまう。でも、話は変わるけど、たいがいの人は、相手のことを否定する「意図」をもって何かをすることはないんじゃないかな。それを知っていながら傷ついた気になってしまう…いつも、そのことを、忘れてしまう。なぜなのか。


2014.12.08 (Mon) 生きたり死んだり生きたり死んだり

息を吸うことと吐くことについて書きます。われわれは吸うことと吐くことという二極の状態を絶えず行き来している。僕は静電気が苦手です。いつからか静電気に過敏に反応するようになりました。静電気を恐れるあまり、帯電していそうな手すりにおそるおそる手を触れて、バチッ!という感触がなかったのにびっくりして手をひっこめたりします。1度や2度ではなくこれがしょっちゅうあるのです。頭のなかをすっかり静電気に支配されているわけですね。なんで静電気こわいのに手すりにさわるかといえば、その恐怖を克服したいからです。手すりをさわって静電気がこなければ手すりはこわくないという信念が強化されるし、静電気を受けてもその感覚を注視して、べつにバチッ!となるだけで怪我をするわけではないことを確かめれば、静電気がさして有害なものではないという納得が深まり、結果的に静電気を恐れなくなるはずだ。そう考えて、銀色の手すりとか見つけたら極力触ってみることにしているんですけど、これがいっこうに改善されんのです。わたしの静電気恐怖が。少なくとも3年間くらいはそんなことをしてるので、この方法で静電気に強くなるのは絶望的なんじゃないかと思います。そうだそれで吸うことと吐くことについて書くんだった。それで先日も本屋のあるビルの階段で手すりチャレンジしてたのですが、ふと思いついて呼吸を意識しながらしてみることにしたのです。それで気づいたことには、吸いながら触れようとすると恐怖ばかりが増大するのが、吐きながら触れるときには能動性が活性化するというか、こちらからはたらきかけて反応を見てやろうという心が勝つ感じがありました。どういうあれなのかは知らんけど、確かに筋トレとかストレッチの時も吐きながらすると効果があるって言いますし、実際に腹筋なんかだと吐きながらのほうが力を入れやすい。この差は言葉で語る以上にくっきりしていて、これに気づいたその場では吸うことを死、吐くことを生におきかえて、われわれは呼吸においてつねに生と死が共存した状態を生きている、と受け止めてみたりもしました。それを結論に置いてよかったのか俺よ。


2014.12.05 (Fri) マルメロショック

論文のおしごとを焚きつけられたり別の課題が降ってきたり懸案が予想しなかった経路をたどり始めたり、謎の電話が掛かってきたりして、じっくりとものを考える暇がない。うそ。もうあまり考える必要もないのかもしれないな。それでブログのカウンターが一日1こか2こ回るのをながめていた。あと早く寝ようという機運が高まっていて、わりに早く寝てしまう。と思ってここ数日の就寝時刻を確認したら(おやすみツイートを毎日しているのでTwilogでわかる)、早い日もあるけど2時とか3時とかふだんより思い切って夜更かししてる日も多いな。はみ出している。ちょっと最近目つきが鋭いかもしれません。一人で歩いてる時は。あと最近朝ごはんを食べるのが無性に楽しみで、昨日など夕飯を食べる前に朝食を食べたくなりました。


2014.12.03 (Wed) 鼻の頭がつめたい

昨日の心持ちが持続している。天気や体温に左右されてきまぐれに上下する気分だけじゃなくて、一度具体的に思考したものはそれ以降のもの思いの各所に影を落とす、ということだった。それにしても今日はまぬけだった。歯医者を予約していた日を勘違いしていて行きそびれた。(今日はと書いたが、実は前にも、予約してない日に来てしまったことがある)また、風呂で、体を洗ったかどうか不安になって二度洗ってしまった。(と書いているということは、どうやら洗ったと自覚しつつもう一度洗っていたということだが) 昼に図書館で翌日の予習をした。じっくりと踏みしめるようにテキストを読むのがなんだか久しぶりで、ひとつずつていねいに作業を遂行しているときの、あるべき場所にあるという感じをもてた。  学校から駅のあいだ、そして電車の中ではある文面の推敲をしたがまとまらない。たとえば文章を書くのに目的があって、どんな乱暴に書いたって果たせる目的なのかもしれないけど、うまい言い方を見つけるまでは出来上がりにしたくない。うまい言い方を見つけることは、ことがらに向ける自身の態度を調整することでもあるからだ。


2014.12.01 (Mon) ダウナーで無頼

昨夜は遅かった。ふとんに入ったの2時半くらいかな。ある映像作品を見ていた。ある大人向けのいわゆるなたぐいの映像作品だ。うんざりするような内容だった。自分の嗜好と合わなかったのだ。パッケージを見て、ある程度の内容も承知して、選んだのは自分、それを視聴する入り口のところまで足を運んだのは自分だけれど、振り返って整理すればあんなものを2時間も「見せられた」という感想が浮かぶ。まぁその作品のことはいい。ともかく視聴体験としてそれは上等なものでなかったので、いろいろと追加で後処理じみたことに勤しんだりして、それで1時くらいでコンパクトに締めくくるつもりだったのが2時半になった。

手がかゆくて目が覚めた。正確には掻いていて目が覚めた。より正確には爪を使わず両手の肉どうしをごりごりとこすり合わせていた。これが前回言及した、夜中のふとんの中での手の格闘である。かゆいところを掻くと快楽がたくさん生まれるので意識しなくてもこすってしまう。皮膚が耐えられなくなるまでこすってしまう。しかし今日はきわめてめずらしく、意識が目覚めて肉体の運動を静止した。深呼吸でもしてしのいだのか、しばらくして落ち着いたらかゆみはひいていて、朝起きて確認したら被害は最小限に食い止められていた。勝利。この、かゆみで起きたときが3時。時刻を確認がてら、Twiccaのタイムラインをリロードした。botしかいなかった。

朝7時前。戸のむこうで両親の声。両親は長いこと妹の寝起きの悪さ(など)で悩まされていて、彼女を奮い立たせるためなのか、反省を促すためなのか、失望したというような言葉を今日も投げかけていた。今日はひとまわり大きい失望だったらしく、それを耳に入れながら私は気が滅入った。ふとんから出るのがいやになる。でも睡眠時間が短かったので目覚めはよく、いつものぎりぎりの時刻(朝にすべきことを何点か省略しなければならないくらい差し迫った時刻)まで待たずに余裕を持って起きることができた。朝に曇っているとひどく寝坊してしまうことがあるけど、それもなく。

しかし気が滅入る出来事はもうひとつあり、自分の着ているシャツが勝手に母親によって捨てられていた。袖が擦り切れていたからというのが理由なのだが、私はまだまだ着るつもりでいたし、それが世間通俗的な価値観にあわないということは理解するけど、でも断りもなしに当然のごとくそうされてしまうことは到底承服できないのだった。それで機嫌を悪くして冷たい対応をとってしまった。自分のなかでマイナスの感情が増幅してぴっちりはりつめた気持ちになり、白い顔のまま家を出た。

行きの電車が遅れた。計24分の遅延。のろのろ運転が続き、はじめはのんきに文庫本を読んでいたが、時間が差し迫ってくるにつれやきもきとしたざわめきが濃くなる。余裕を持って家は出られたものの、結局は間に合わないことを確信し、乗り換えの地点から遅れる旨バイト先に電話を入れた。いままでどの職場でもぎりぎり間に合うというケースで済んでいたので、実はこれが初めて。こう並べてみると、午前中はほんとについてなかったなあ。バイトの勤務についてはつつがなく済んだ。いつもどおりおしっこに行きたくなるのと、ときおり鼻水が出るくらい。

退勤後はふたたびダウナーなテンションに走った。懸案となっているある待機事項が、気長にゆるく構えているつもりでいて、実際に無理なくそうできていたのだけども、何かの拍子でその姿勢が崩れて、逆方向にスイッチが入った。ありうる結末のつけ方を考えて、自分ながらセンチメンタルになってしまったり、そこに人生らしきものの匂いをかぎとってしまったり。くだらない。こんな気分になるのは睡眠不足のせいかもしれないと思い、電車の中で眠った。帰りにコンビニの前で3本めのたばこを吸った。今度はなんともなかった。無頼な気分になって、家族も知り合いも恋人もあてにできないと感じたとき、こんどは「自由」を頼りにしはじめている自分に気づいた。暗い川辺の土手の上で、でもこの気分が消えてしまう前に日記に書いておこうと、なぜかそれはいつもつきまとう。


2014.11.30 (Sun) しめりけ

今日も前半は鼻水に苦しめられていた。先週と同じく、週末になって体調を崩している。平日べつにハードな毎日を過ごしてるってわけじゃないんだがな。10時過ぎまで寝てたのに、昼食後にもかるく昼寝してしまった。自分の部屋は寒いので、ついにひざ掛けを導入した。ひざ掛けと言ってもふだんあぐらをかいてざぶとんの上に座っているので、どちらかというと靴下をつけていない素足を保温するためであったりする。靴下は一日中つけていると蒸れて臭ってくるのでだめなのだ。年をとるにつれて、過ごすスタイルをせまく選ぶようになって、基本的になにを選ぶかで自分らしさを出すよりは環境に左右されないしたたかさを持ちたいと願っていたものですが事実として今選択しているそれを選択する理由があるのだから仕方ないね。しかしひざ掛けって女子みたいだね。基本的に女子みたいなの好きなので構わないんですが女子みたいなのが好きな自分は、ちょっと警戒して眺めたほうがいいような。

しかしこのように保温に努めていたかいがあって、夕食後にジョギングに出たときにすみやかに体温が上がってくれた。ゆるゆると走っていたんだけどこの時期にはめずらしいほど汗が流れ出た。首がかゆくなった。汗がでるのは保湿の意味でも新陳代謝の意味でもいいんだけど、かゆいのはたまらん。掻くのはだめだからなるべく掻かないように努力すると力が入ってごりごりする。けどやっぱり少しは掻いてしまう。うがー。掻くとき、理性を圧倒するなにものかに衝き動かされている。夜中にふとんの中で手だけが格闘する。頭はそれを見ているだけ。そんな観察もあってひとが首のうしろなどを掻いてるようすを見ると興奮します。単純な生き物のような自立した指の動き。意志と関係なくうごく機械仕掛けの運動。ただ、目をいつまでもこすってるとかだと感情移入してやめろォって悶える。

ジョギング後に、余ったたばこをコンビニの前で一本吸った。白いけむりに、息まで白かった。汗だくでもくもくと煙をまとわせた。吸うくちびるの奥が過剰にうるおっている。においがつくのが嫌なので体からなるべく離していた。たばこの味はあいかわらずわからないが、でもなんかちょっとよかった。しかし走るために外へ出て、目的を果たしたらさっさと帰るのが合理的であり快適で美しくもあるはずなんだけど、走ったあとに喫煙というクッションをはさむ方が上手という感じはするのだ。しかし吸ったあと痰が出るのでやはり常習はしないと思う。


2014.11.28 (Fri) 同族嫌悪

数日前にカラオケに行って、ひさしぶりだったので自分の歌の調子でもみておくかと思って最後の30分間はスマートホンのアプリで録音したのだった。あとで聞いてみると歌の出来がどうだったかは忘れたけど声が、あいかわらず弱っちい声で、これが自分ではあまり好きではないのだった。エレカシの「やさしさ」を歌ってもパワー不足で、まぁだからもっと弱っちい繊細なふうな歌のほうがはまるのだろうけど、ちまたで流れてる弱っちい感じの歌ってキライなんだよね。狡いかんじがして。

と考えたのを翌日になって思い返して、これって同族嫌悪じゃんと気づいたのだった。話はそこで終わった。しかし考えてみると、「これって同族嫌悪じゃん」という気づきは、いかにして話を打ち切る力をもつのだろうか。同族嫌悪じゃーんって気づいた時に私たちはなにを知ったのだろう。嫌いなものを嫌いだと言っているお前の視線の先には実は自分自身がいるのだ……という指摘にはいかなる洞察が含まれているのか。さっきから同じ質問文を繰り返しているが、その質問にじょうずに答える言葉がでてこないのである。

「それって同族嫌悪だよ」という指摘がスキャンダルになりうる理由が、たんにその意外性とか、ブーメラン構造にしかないのだとしたら、おもしろくないな。つまり他人を通じてみずからの嫌いな場所を自覚して、でも自分の嫌いな場所があるのはべつに驚くべきことではないんで、うーん。ただまあ、自分の嫌いなところを自分が知っているとしても、それを他人に向けてするように批判したり糾弾したりすることはあまりないもので、そうして容赦なく否定してたものが実は自分にも矛先が向いてたと知ったときに、いつもよりあざやかな形で自分のキライなとこが浮かび上がってくる効果がある、とはいえるかな。

しかし同族嫌悪、同属嫌悪とも書くようですが、文字にしてみると日本語として熟してない感じがするね。こういうときに昔はなんて言ってたんだろ、ぱっと出てこないのが、「今」に閉ざされているようでくやしい。


2014.11.26 (Wed) 僕の興奮は誰かの興奮

通ってる歯医者で、いつもは中学校の先生みたいなおじさんに治療してもらってるんだけども、今日は若いおねえさんが出てきて口の中をいろいろいじくってくれた。ここで何を取り上げたいかというと、そのおねえさんの手が冷たくて興奮したんですけど、「興奮するー」って心のなかで言葉にしながら興奮したんですけど、こういう、人にも通じやすいフェチというのか、その正体が自明でないところがありつつ5人に一人くらいは共感してくれそうな距離感のこれ、要するになんか俺のほんとうの興奮じゃないんじゃないかという疑いがある。長い時間をかけて価値観を刷り込まれることで獲得した興奮スイッチなんじゃないかと。ビールが美味しいと感じるようになるのと同じ仕組みなのかな。べつに、おのれの価値観が純粋なものなのか混じりけのあるものなのかって二分法でもって問うことにはすでに興味がないのですけども(だってどんな価値観だって何らかの意味で人からもらったものに決まっているから)、ただこの「フェチ」が占めている中間的な位置に興味がある。いってみれば、一方で、甘いものはうまいとか風呂にはいると気持ちいいといった原始的な?、大多数の多数派が同意するような「よさ」があり、もう一方では「マグカップの取っ手部分を集めてます」みたいな、自分と同じレベルで共感してくれる人を見つけるのが困難な趣味嗜好があったりして、そこで歯科医のお姉さんの手が冷たいので興奮するのは中間レベルだと思うんですよ。でも僕は最も普遍的なところと最も特殊なところの両極の部分をいままで重視してきていて、なぜかって考えたときに中間レベルの趣味嗜好って、それをきっかけにしてコミュニティを作りやすいんですよね。どんなアニメが好きとかと同じように。でも自分の抱えてる傾きみたいのを、他人とつながるために利用することへの警戒のようなものが内にあって、倫理的に違うというよりは警戒と言いたい気がするんですけど、まぁなんかそんなことがあって、ちまたでおこなわれる「○○いいよねー」「わかるー」みたいなやりとりを訝しい思いでながめていたりする。なんだろ。自分が実際のところなにを感じているのかが十分に問われる前に、その「よさ」がコミュニケーションの網の上に載せられて流通し始めてしまい、いつのまにか、感じているものの内実があたかも明確になったかのような了解が出来上がってしまっていることへの警戒、って感じかな。


2014.11.26 (Wed) リンク集

リンク集を作って、現在ローカルで試運転中という段階だけど、これ、なかなかいい。時代錯誤なんじゃないかと自分を疑っていないでもなかったんだけど、単に普遍的なものだということがわかった。RSSリーダーはなんだか肌に合わなくてろくに使わずにやめてしまったのでコメントしようがないが、はてなアンテナと較べてもリンク集を採る理由がある。考えてみればアンテナを使っていてうれしいのって、1年くらい書いてなかった人がふらっと現れて更新したのをその日にキャッチできるって点で、でもそれくらいなんじゃないかという気がする。言い換えればそれって、新しい情報をいち早くキャッチするって価値観を刺激するけど、それ以上のものではないような。いや読んでるサイトが100とか200とかある場合はアンテナが有効だしRSSリーダーはもっと効率的なのかもしれないけど、僕なんかせいぜい20とかだし。その中でも一週間に一度は更新するようなアクティブなとこだと10個ぐらいだし。だからなんちゅうかこの話は関係する人が限られている話なんですけど、リンク集にして毎日巡回すると決めれば、どのサイトを選ぶかという選択の場面でもていねいになる。そうそう、アンテナと較べてよいのは、更新頻度によってサイトの序列がつかないということだね。純粋に自分の関心だけを反映させることができる。今じゃめったに更新しないけどリンク集に入れておきたい(そしてたまに覗きたい)サイトというのはある。もちろん更新がない日に訪問することが増えるわけだけど、動きがない時間も含めてその人のたたずまいだと思うし。そして更新がなかったら手持ち無沙汰で過去ログ見に行っちゃったりね。毎日顔を合わすということが重要らしい。それでようやく気づくものもある。スローライフみたいな理念で流行ると思うんですがね。リンク集。どうですか。


2014.11.23 (Sun) 10分で日記

10分で日記だ。寝るまでに時間がないから。今日はゆっくり起きてゆっくり朝食を食べました。最近ゆっくり朝の支度をするのが楽しみ。昼から街へ出てCDを借りたり本屋で本を見たりしました。電車で移動するときに立ってることにしたら、確かに疲れるけどこれは生命を燃やすのに適度な負担なのかもしれません。生命を燃やすとかたまにわたし言うけど腕立て伏せとかしてて必死になってくると体から熱が出るとか、急いで作業をしてるときに動きが端的で美しくなってくるとか、まぁなんかそういう事例を考えて言っています。余裕があるときに活性化する部位と、追い詰められてるときに発動する機関があるということ。 / また、ある構想が形をなしてきていて、しかも具体的に組み立ててしまったので、それを外へ向けて問うてしまうのも時間の問題なんじゃないかという雰囲気が出ている。もやもやっとした願いのような幻影のようなものがいつもあり、しかしそれに具体的な形を与えてしまうと、実現させるというか成就させなければならなくなってくる。成就というか成仏というか。


2014.11.22 (Sat) 私は鼻から

風邪ひいたよ。こんばんは。朝は歯医者に起きました。余裕をもって7時に起きてゆっくり朝食をとってのんびりしてから出るつもりが、8時10分までふとんの中にいた。まあ普段の寝起きの様子から考えても、これは予想されていたことだ。でも家から近いからって遅刻するのはよくない。いつも5分から10分遅刻する。いつもすいてるところだからむこうのスケジュールを狂わせたりはしてないと思うけど、なんだか今年度入ってから遅刻癖みたいのがついてしまった。全体的に図太くなったな。自分を責めることなく、これが今の自分、と受け入れるようになった。もちろん良くも悪しくも、であるけど、それにしても良いと悪いの軸で語ることはいまやエレガントな行き方ではないのだろうとは思えてくる。

歯医者で受け答えがいつもより弱々しかったのが予兆だった。だいたい寝たり座ったりしていると声が出にくいものですが、最低限その場が流れていけばいいという感じで、会計をする時なども、適度な声量であいづちを打つサービス心がひいていた。アトピーの具合が悪くてひび割れが増えていたので、帰りにドラッグストアに立ち寄って応急処置用のユースキンIを仕入れることにした。10時前で開いていなかったのですこし時間つぶしのために、朝の町を歩いたとき、「平和だ」と言葉にして思った。月から金まで平日休まずに活動していると、休日の朝ってものにこんなふうにのどかさを感じるものだった。開店になったドラッグストアでいろいろと品物を見ていたら、家にグリセリンが余ってることを思い出して、ユースキンを買う前にそっちを試してみようと思いつき、グリセリン塗るための脱脂綿だけ買って帰った。

脱脂綿はだめでした。手がアトピーで皮膚が乾燥してところどころささくれ立っていて、これに脱脂綿がいちいち引っかかってちぎれて小片が残ってしまう。ガーゼにします。ガーゼなら首回りの保護用に4月ごろに買ったやつが少し残っている。なんとかかんとかグリセリンを塗布した手はなんだか粘土のような感触で、快適でないので手袋をはめてごまかした。手袋をつけるとスマートホンの操作が困難になるものの、キーボードを打つときの感じはなかなか独特の連続感があって気持ちいい。ここんとこ週末の外泊が続いていて、楽しかったけど自分のことする時間がとれなかったので、今日はゆっくり勉強とかもしようと思ってまず論文に取り掛かった……しかしながら鼻水が出始めてとても不快適なので詩を読んでしのぐ方向へとやがて転換した。『室生犀星詩集』(新潮文庫)を数ページ読んでから『現代詩の鑑賞101』に移り、当時の印象よりも鮮明におもしろく、目を開いた。やっぱり現代詩のほうがとっつきやすいのだわ。現代のほうが表現法は複雑になってるのだろうけど、時代が離れた古典は、その作品を書く動機だとか、個々の表現の機敏がよくわからない。哲学と同じ。歴史を学べということなのかな。いや、単に語彙がわからなくて辞書をたくさん引かなきゃいけないから核心が遠のいてるだけかもしれない。そういう、ことばを身につけること含めての「歴史を学ぶ」だけど。昼ごはんはぺヤング。あと朝急いでて食べそこねたヨーグルトとか。

昼食後には論文の作成に再度取り掛かったが、実質的なことはあまり進まず、Dynamic Drawというソフトを落としてフローチャートを書いたりしていた。そして鼻水がさらにひどくなる。中身の空しいさらさらの鼻水なのでいくら出しても甲斐がない。こんだけ出してると体中の水分が奪われそうだけどこういうときってよだれもやたら出やすいんだよな。口の中がうるおっている。病人気分が出てきて、仕事の意欲が引っ込んでファミコンとかスーファミのゲームのタイムアタック動画とかつらつら見てた。それから今日は家族で焼き肉に行った。しかし鼻水でまくりの私は焼き肉を味わう余裕もなく、家族の注文にかぶせてビビンバを頼む元気もなく、焼けた肉をかたっぱしから食っていたのだった。元気ないと人の話してるとこに割って入るってのが困難になるのでとても人間としてのレベルが低い感じになる。来るときはバスだったけど帰りは歩くことにした。歩くことが体調を整えてくれると感じてる。歩いていれば細い路地に入り込みたくなる。車の通ってない、たくさんの誰かが住んでるが音も立てない、無数にある路地。白黒の迷路の中をさまよっていると、いつまでもこの時間が続けばいいのに、と思う。すべてが肯定されるひとときだ。ところでこんなセリフが出てくるのは、類型としては、恋人と過ごしているときだろう。一人でいる時に快適にする方法は知ってるけど、二人でいるときにそう思えるときって、どういう感じがするのかな、と思ってみたり。

帰って、ちょっと寝たら寝たぶんだけ回復したかんじ。それから風呂に入って、今日は(やはり論文は進まずだけど)早く寝ようと思いつつ、日記は書いときたいなと思って今に至る。


2014.11.21 (Fri) 電車

最近電車の座席が狭いと感じるので、いっそ立ってることにした。太ったわけじゃない……と思う。3年か5年位前からはいてるきついズボンをはくのがやになってきたのは、趣味思考価値観我慢強さが変わっただけだと思う。ゆったりしたのがいい。自分の体をわざわざ自分でしめつけるなんてどうかしてる。同じように、きゅうくつな座席できゅうくつに本を読んだり携帯でTwitterを見たりするのががまんならなくなったのだと思う。快適さを積極的に求めるようになったんだよ。それに座っていると眠くなって本も読めないし、かといって眠ると隣の人に向かって倒れこんでしまうので眠気との戦いになり一つもいいことがない。なので立っていることにした。一日のうち立ってる時間ってもっとあってもいいんだよね本来。とか思いながら。

帰りの電車で中学生男子2人が、クラスだか部活の女子の中で誰がブスだとか性格がどうだとかいう話で盛り上がってたので、そういう話で友達と盛り上がるお前らの心のほうが醜いと知れって思いました。知れって言い回しが面白かったのであとで書こうと思って覚えてました。仏教で言う不悪口ってこういうやつかなと突然思い出した。単にわるぐちというよりは、人に伝染して不愉快にするような攻撃性。


2014.11.20 (Thu) 2段落以上書かないと気がすまないシリーズ

しめっぽいシリーズまだいくよ。わたしふだんあまり(かなり?)しゃべらない人間で、特に自分からはしゃべらなくて誰かの話にコメントを入れたりする係で、話が起きなければどこまでも沈黙したままにしておく人間で、べつに話すべきことがなければ無理に作る必要もあるまいと思って平気でいるんですが、でも話してみたい人というか気になる人と一言も交わすことなく別れたりすると「ああ、行ってしまわれた」という心境になるのも事実で、そもそも自分がそういう心境になるものだということに今日ふと気づいたんですよね。考えてみると高校生のころなんか(具体的に言えば、好きな人に対して)このことにはかなり意識的だったし、あきらめみたいなものが身についてきたのはここ1年ぐらいの話だね。

周りに人がいなくなって落ち着くと、「何か話せればよかったな」と落ち着きなりに後悔する。近づいてみたい人というのはいますよね。いろいろに。近づく窓口は必ずしも会話でなくてもいいんだけど、会話がいちばん応用が利いて使い勝手のいい方途らしい。その人のほうずっと見て観察するわけにもいかないし。観察してたら聞きたいこともでてくるだろうから、いつまでも見つめつづけることになるわけじゃないんだろうけど。そう、聞きたいことがあるんですよね。僕は長らく、どんなに興味があっても好意を持ってても、ひとに聞きたいことなんてそうそう見つかるもんじゃないと思ってたんですが、そしてそれはいまでも正しいと思っているんですが、でも、言葉は見つからないけどその人を知りたいと思っているってことが、確かにあるらしいのだ。隣で何か本を読んでたらどんな本か聞いてみたいし。人に質問をするのも、質問を思いつくのも苦手なんですが、その大半は人前で緊張して頭が自由に働いてないからなんだろうなあと。

しかし、人にその人自身のことを尋ねるコツってどこにあるんだろう。どうでもいいことばかり、どうでもいいなと思いながら聞いてしまう。


2014.11.19 (Wed) 書き割り綿棒

今日も今日とて日記。書きたいことがないから日記を書く。書きたいことが先行すればTwitterに書くかもしれない。ただ書きたいという気持ちがあって、何を吐き出したいのかわからないけど、いや、何を吐き出したいのかはだいたい見当がつくけども、うまい形で吐き出せそうだとは思わないので、なにかここでごちゃごちゃっとしたことを残していく。Twitterってえのは無造作なコミュニケーションを実現するようでいてこれがなかなか洗練されたものしか流通しない世界ですよね。洗練されてない世界へ僕と行きましょうよう。書きながら気持ちが高まってしまう瞬間があるんですよね。季節に一度くらい。目がぐぐっと開かれるというか。

そういえば人生経験、ということを帰り道に思いました。何ヶ月か中身を更新していないiPodをひさしぶりに充電して、工藤静香を聴いておったのです。「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」が流れて、なんか気持ちとしてはわかる気がしたというか、かすかに触れ合うレベルではあるけれど「共感」してしまったのがなんか高校生ぶりって感じでした。歌を聴くときにいまだと歌詞はぜんぜんヒトゴトというか、他者としてしか向き合えなかったし、そもそもメロディとか歌いまわしに気をとられてことばは入ってこないってのが常態なんですけど、今日は「わかるなぁ」と思ってしまったのですよね。っていうかあれか、「わかる」と思えるときって、自分が「わかる」何ものかを探しているとき、つまり何かを「わかりたい」と思ってるときで、もうすこし言えば、「わかる」ってのはすでに自分の内にある何かを他者の中にも見つけるってことであるから、まず自分の中に注目すべき何事かが存在してるんですよね。新しい何事かを発見するのではなくて。最近センチメンタルですからね。コンチネンタル。

「めちゃくちゃに泣いてしまいたい」ではなくて中島みゆきが詩を提供しているのは「慟哭」であった。無機的できらびやかなアレンジが冗談じみていて、中島みゆきヴァージョンよりもこちらのほうがお気に入り(というかみゆきバージョンを聴いたことがない(けどマジ度が高くて恐そう))。人生経験ねぇ。人生経験を積んでおくことは将来苦労しないために有益である。でもいつまでたっても人生が完成するわけじゃないものなあ。


2014.11.18 (Tue) このままでいよう

昨日の不穏なのにかぶせて、冴えない自分の夢を4つ連続で見た。4つだという覚えがあるから4つだと言っているが、あいだにはさまれた2つの内容はいっさい覚えていない。どれも、なにか昨日からの、おおざっぱにいって「俺ダメだなー」という意識が反映されたかのような内容で、自分がしようとしている作業がうまくいかなかったり、自分がすべき仕事を他の人が適任だとされていたり、準備が行き届かず中途半端な状態で過ごすことを覚悟したり。ところどころ不条理で恣意的なところがあるのはいつもの夢どおりだけど。

朝は憂鬱だ。特に火曜日は、家族はみな出掛けていて、自分だけ寝坊して時間をむだにする。時間をむだにしたことを思ってゆううつになる。でも外へ出ると動き出してしまう。いろいろな用事と目的意識に染まって世界を見る目が透き通ってしまう。もっと、この、さみしい、むなしい気持ちが一週間ぐらい続けば、それを原動力にして何かが変わるだろうけど、今の環境ではそれを利用できない。さみしいはごく短時間しか持続しない。芯からさみしい人間にはなれない。少なくとも今の環境では。

朝のゆううつでは、死にたいなっと言葉にして思う。でもそうと言って、これから着替えて街へ出て、ビルの屋上から身投げしたいというわけではなかった。「ここからここまで」で、区切られた時間のようすで、人生全体に対する態度を決めてしまう。そういう機構のあらわれなんだと思った。僕の死にたいっていうのは。そのことを認識してみると、目の前で朝食を用意して食べている自分の様子も、別にこれはこのようにあるというだけで、死にたいことの一要素ではないこともわかった。

※タイトルは The ピーズの曲名から(『グレイテスト・ヒッツ Vol.2』(1989)収録)


2014.11.17 (Mon) 不穏

不穏だった。一日のはじまりはさわやかで、今日はなにが起こるか楽しみという気持ちさえあった。いつもは朝家を出るまでは憂鬱で悲観的な気持ちでいるので、めずらしい。バランスをとるように日中や夜の暮らしは不穏だった。不調ではなく不穏。気をつかって好意的にしてくれていた周りの人が、今日はもっとフラットにそっけない対応を見せた。でもそのほうがいいことだと思うから――僕も受動的にならなくてすむし。

悩みの深い人たちのあいだで過ごす時間が増えてきたら、自分まで悩みはじめていた。そばで悩んでる人がいてもその悩みはその人だけのものだし、たいして関係ない自分がどうこうできる問題でなし、本人が解決するしかない。自分は自分がやらなきゃいけないことに向き合うべきだ。そう思ったり、ことさらに思わなくても暗黙にそう心得ていたりして、心を動かさずにすむ日々が続いていたんだけど、近頃なにやら駅までの道をラジオや音楽を聞かずに歩く日が増えていて、そのあいだじゅう何か考えごとをしている。いろいろなことを考えるけどとりとめがなくて、具体的にどんなことを、と聞かれても即座にはなにも思い出せない。わけではないか。見る、聞く、言う、またひとつ能動的になるべきだという声を聞いているんだろう。高校生ぐらいからこのかた、僕の成長とは能動的になる旅だ。

そんなポジティブなことを書いているのは風呂に入ったからで、湯船に浸かって温まると気持ちが安らいで大きくなるのがわかる。さむいとネガティブになってしまう。さみしくなってしまって、でもそのままでいいやと丸まってしまう。「しまう」と、そんなにナチュラルに書いてしまっていいのかわからない。周りに人がいなくなっても、一人で論文を書いているよ。そんな、自覚されないすね方をしてしまう。すねてるんでしょ、と、見破ったふうな顔して書いてみたが、ポジティブな自分がみずからを絶対化しようとして強引に話を通してるだけかもしれない。わからない。でもお風呂に入るのは気持ちいい。


2014.11.16 (Sun) 家は眠い

大学の人たちと小旅行に行ってきました。その全貌について語ろうというわけじゃないんですが、ひとつどうしても言っておきたいことがあって、でもその場で居合わせた人に話すのもなんか違うしTwitterに流すのもちょっと違う感じがしたので、ここに書いてしまいます。

水族館に来たんですけど、周りのお客さんが魚を見ながら、これはうまいだの食べたいだのという話をくちぐちにしていて、なんだか腹立たしかったのですよね。一つは水族館という趣旨を無視しているということへの怒りで、水族館って博物館の仲間で、(広い意味での)学びを旨とするのに、俺たちは品定めに市場に来てるんじゃないんだぞ、ってこと。もうひとつは、一般的な話として、うまいものを知ってるということが、一定の年齢層を超えるとなにか強力な価値となっていて、食に通じていることが人間的に成熟していることの印とまではいわないけど人生の妙味を知っているみたいな、そんなアイコンとして扱われているきらいがあって、それ自身には怒りをもつわけではないけどそれを博物館(の一種である水族館)という場に持ち込むなよな!といういらだちがありました。強い価値でなんでも押し切ろうという戦略をその中に見たんだ。エイが頭上を通ってすげーみたいな反応でいいじゃない。なんでも自分のフィールドに持ち込もうとすんなよって、憤ったのでした。おわり。

家に帰ってから、そういえば最近めっきり音楽から遠ざかっていたので、井上陽水『LION&PELICAN』を通しで聞きました。陽水、気になる存在であり続けながら、聞く対象としては長らく一定の距離を保っていたアーティストなのですけどね。1曲目の「とまどうペリカン」は、2年ぐらい前にギターでコードを鳴らしてみたときにすごくいい曲だということがわかったんだけど、今日音大きめで聞き直してみたらさらにベースの音を追うことができて、なおよい聴音体験となりました。最初聞いたのって中学生のときなんだけど、時間を重ねるにつれて折に触れて同じ楽曲の描画が精密になっていく過程は、たのしい。ビートルズの曲でも同じことが起こる。アルバムの中で一番好きな曲は「チャイニーズ フード」で、ベスト盤に入りそうにない曲、だけどなんのたくらみもなく好きな曲で、自分の感性に合って好きな曲というのを見つけられるのはしあわせなことだとまた感じたりした。


2014.11.13 (Thu) 扁桃腺毛布

唾液で溶けたキャラメルの汁がのどに張り付いて、水への渇望を加速させる!こんばんは楡です。昔に倣って日記の書き出しに名乗ることにしたです。そのほうが自分にとってやりやすいらしい。甘い物ってのどかわきますよね。甘いものと水の組み合わせは最高! 苦しみと解放の自傷的なよろこびです。

今日はバイトでした。冷淡じゃないけど僕の仕事のしぐあいを気にかけている同シフトの女の人に、どう接すれば最適かなと思いながらふつうに接していたら、さっさと均衡点に達しそうだった。? この文うまい言い回しを探りながら3箇所ぐらいで立ち止まりながら書いたら、つかみどころのない文章になりましたね。女性は風邪を引いてるとか風邪予防のためにでなくマスクをつけてることがありますがそういう光景にもすっかり慣れました。その人含めて、いっぺんに3人、マスクをつけた女の人が目に入った。僕はマスク苦手なので特にそう思うのですが、マスクしてると息がマスクの中で滞留してそこだけ異常に湿度が高くなって気持ち悪くないですか。でもその不快適さがあってもマスクをつけたい理由があるのかもしれませんね。

ゆるめな職場なので時間が空いてぼけっとする時もあります。そんなときに本も読めます。退屈な物思いの中で、放っておこうと思ったのぞみが不意に活性化して、心の準備はオッケーになってしまったので、放っておこうと思っていたのに、と思いました。いつかどうにかしなきゃいけないのだから、決着をつけなきゃいけないのだから、と知ることで、いつも動いてきたけど、それが繰り返し同じように訪れてくるものだと知ってはいなかった。

(昔っからそうだけど)ぼかした書き方が多くてすみません。読者の方。でもこれ以上具体的に書こうとは思わないし、ならいっそ口を慎もうとも思っていません。


2014.11.12 (Wed) 厭世的で自由

こんにちは楡です。日記を書こう、日記を書かねばならぬと思って、これは社会の中の自分の位置づけとかキャラ設定とかではなくて自分が自分であるために、って前回も言ったけど生きるだけでなくよりよく生きるためにという切実な動機のもとそう思っているのですが切実な動機のもと何かをしたからといってそれが尊くなるわけではないけれど、ハチミツ漬けにしたショウガはうまいです。うまいというほどではないかもしれません。一週間ぐらい漬けおくと食べごろになるけど食べるためではなくて入浴のさいに体温を上げて汗を出すことの補助として生姜湯を摂取しているわけです。生姜湯と、浴槽に浸かって10分まで数えるのと、体に塩をつけるので今年はまだ手の甲に水分が感じられます。何って、アトピーの話よ。元に戻ると、べつに動機の切実さをアピールすることで行いまでも尊く見せようとしているわけではなくて、でも誰に見られることを意識するでもなくただ自分が自分のために日記を書かなきゃ!って気になることが人間にはあるのですよ。

昼間の授業から解放された後、ふいに厭世的な気分になって、そうして同時に自由にふるまえるような気分に解放されて、キャンパス内を歩きながら心が軽かったのですけど、あれはなんだったのだろう。厭世的な気分でありながら、「つらい」はどこにもなくて、「馬鹿空を飛翔する」というフレーズを書きながら突如として思い出した。「馬鹿空と腐れ大地の間を飛翔する」だっけ。筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』だ。たんに理屈で言うならば、期待しなければ裏切りもないというやつで、僕は不健康な形でばかり期待しすぎていたようだ。携帯の画面をつけるときや、郵便受けを開いたりするときに、毎回、お便りを予想していた。郵便受けというのは就職先から今後の展開についてお知らせが来るはずなので、いつくるのかなと思って意識してるってことです。こうして小さな期待と小さな期待外れが繰り返され、必要以上に消耗が重ねられる。でも幸福やたのしさにかかわる話をこのように点数が増えたり減ったりという量的計算のメタファーで語るのはどこかミスリーディングだと感じる。むしろたとえば習慣の話なのだ。自分がどんな構えで世界に対している存在なのかという。

このように1000字ほど書くと、ふーってなってしまい、集中が途切れて、書こうと思ったことの半分も書けずに終わる。書こうと思ったことの一部は明日や来週や来年に書かれるかもしれないが、結局いつになっても書かれずじまいのもののほうが多いことを経験上知っている。

厭世的で自由な気分になって、それは事実なんだけども、それが何かの答えになったかといえばそんなことはなくて。友人と話すときはいつもより自分が自分に根ざして話せている感触があったけど(それは同時に、自分にこだわらずに、という意味でもある)、微妙な仕方で意識している相手の近くでは意識して目をそらしてしまうし、要するに、なにかを意識してしまうこと、意識したままそのままに置いてしまうことが、自分を自由から遠ざけている。厭世的であるのもカンタンではない。それが、「答えにはならない」と言ったことの意味だ。もともと答えは求めていないし。それに、自分のしたことになんの手ごたえもなければさびしい。一人でいることがさびしい人恋しさのさびしさ以前に、心理的なせつなさをともなわない、なにもないことのさびしさ、というものもある。そんなこと感じて思ったけど何を題材にしてそう思ったのかは忘れた。学校から帰ってくるまでにある考えがまとまった気がしていたけど、考えではなくて、でも、ある態度はまとまってきたような気がする。でもそんなのも簡単に瓦解したり、また同じような態度が姿を変えてまとまってきたりするのだろう。


2014.11.11 (Tue) 逆プラトニズムみたいな

かわいい女の子のアニメみてるとこに「やっぱり女の子に興味あるんじゃない。現実でも彼女つくりなよ。結婚したいでしょ?」みたいに言ってくるのって、将棋してるところに「やっぱり兵を動かすのに興味あるんじゃない。現実でも大隊指揮官めざしなよ、戦争したいでしょ?」ってくるのと同じだから

— 青木潤太朗 (@aokijuntarou) November 2, 2014

というツイートを1週間ぐらい前に目にして、もやもやっと考えたことがあったので再生してみる。最初に思ったのは、かわいい女の子のアニメ見てたら「やっぱり女の子に興味あるんじゃない。」と僕も思うだろうなあということであり、同時に、将棋してても「やっぱり兵を動かすのに興味あるんじゃない。」とは思わないだろうなあということであり、それゆえこのツイートの類比は失敗しているのではということであり、さらにこれをリツイートした人の見識に不審を抱くとともに、こういうオタクというのか野党的なサブ勢力の価値観を擁護する言説が好きな人ってけっこういるよなあと思いをめぐらせ、でも世界はメインとサブの2種類だけでできてるわけではなくてそのプロパガンダじみた二分法に乗っかったふるまい方がピンと来ないのでもありました。円グラフで書くと3番手以降とか「その他」で一緒くたにされる領域に入る人であると思っている。自分が。それはそれにしても、考え直してみるとこの発言の力点は「やっぱり女の子に興味あるんじゃない」という気づきが「現実でも彼女つくりなよ」という圧力に化けること、というか純粋な気づきであってよさそうなものが、人にかけたい圧力を正当化する手段として現われていることが不愉快みたいな、要するに思うことと実行することとは違うやろっていう、正論の暴力性も含みつつ、「女の子に興味ある」という関心を現実にもたらす仕方はなにも彼女をつくることに限定されるのではなくて、でもあたかも彼女をつくることのみが真なる関心の成就の仕方だと暗黙裏に天下り式に規定してしまっている気味の悪さというのか、まあ別にここで引用したツイートにうなずいてるわけではないですが共有できる心地の悪さみたいなものはもっていて、べつに普段暮らしていてそうしたものを常々感じているとかそういうのではないですが要するに言いたいことの一部は分かるといった状態です。現実と二次元っていう二分法もたいがいだよね。ほんとうの世界とうその世界みたいな。でもリアルとネットが相互浸透しつつある地点にツイッターがあるのなら、べつに二分されていたものが溶け合うこと自体はこれといって爽快ではないんだなって。ぜんぶリアルでぜんぶネットでぜんぶ二次元だって感じになるだけさ。うーん。最初に何言おうとして書き始めたのか忘れた。このブログでツイートの引用ができるのか試してみたかっただけかもしれない。


2014.11.06 (Thu) 脚立養生

なんかぜんぜん書いてませんでした。論文を本格的に書き始めたのでそいつに時間を割くのがせいいっぱいで日記を書く余裕が……なくても書かなきゃいけないと思うので、時間オーバーしてるけど書き始めちゃいました。書かなきゃいけないと思ったのは義務感からではなく、詩を読まなきゃとかフランス語を勉強しなきゃみたいな意味です。僕が僕であるために何をしなきゃいけないかっていう。

今日は家族が出掛けてて夜ごはんは出ないと踏んでいたので帰りにラーメン屋に寄りました。凝ったラーメンが食べたかったのよ、たまに濃厚なやつを。二年前に入っておいしかった店で食べた。でも感動のしどころが変わったなって思ったよ、おいしいけど、さんまの塩焼きを食べたときの方が最近は感動してた。

でも「おいしいラーメンを食べる」という建前もありつつ、本音としては「ラーメンを腹一杯食って帰る」というロールプレイングがしたかったと白状すべきなのかもしれません。くるしい。あーこれ満腹になってきたなと感じつつ淡々と箸を進めたり、スープ飲んで急激にお腹いっぱいになる波を見極めながら飲み水で拒絶感を中和して、隣のごはんものとのバランスのとれた戦略を立てたりとか、そういうこと自体は生命が躍動してしまう事柄であるので惹かれてはしまうのだよね。


2014.10.23 (Thu) 内定

数日書いてなかったのは書くネタがなかったからというか、正確に言えば、書こうという気がなかったからなんだろう。書かなきゃとか書きたいという気持ちはあった。けど、事前に適当なネタが思いつかなければ、実際に書いてみる気にならなかったのだろう。何もないけど書き始めてしまう、という選択肢が考えられなかった。

内定が出ました。出るもんですね。メールで通知を受けたんだけど平常心でした。行きたいと思ってたとこなのでうれしいけど、まあ受けるにあたって別に大きな力を傾けたわけではないし、単に相手とマッチするかしないかという話なので、感動すべきことでもないと思う。いや何かと何かがマッチするということ自体は尊いことで、そこに感動する心はあってもいいのかな。まあ人は多くの場合事象そのものではなくドラマに感動するものなので、就職活動の中で辛い思いをしたり、先輩に相談したり、酒飲みながら友人に愚痴って思い出を作ったりしていれば終局での感動も高まるわけなんでしょうが、僕はそれをしてこなかったってだけだ。なんとなく皮肉っぽくなってきた。何かを説明しようとすると皮肉っぽくなるのはなぜなのだ。

ほんと寒いです。昨日から雨が続いていて。寒いのはあったかくすれば気持ちがいいのでその分は好きなんだけど今そうしてないので寒いです。さびしいに近い気持ちがあるんだけど目の前に新しいものがどんどん出てきて(TeXとか)気が紛れてるってのがあります。でももっと温まりたいです。(酒を飲んでいます) ホフディランの「一緒に暮らそう」を心で口ずさむ。

自分のことを人に語ることをあまりしない、戦略的にも、性格的にも、なので内定をGETしても、なにか個人的な買い物のように一人でニヤリとして終わるつもりは状況が許せばそうしていたのですが、言わないわけにもいかないので一番早い段階でツイッターで言った。僕が一番饒舌になるのがネットであることがわかる。それから、あいさつがわりの冗談に忍び込ませてサークルの人達に言った。帰ってから母親に軽く報告した。家族内には母親が広めてくれるので僕はそれ以上言わずに済むという……。あとは大学のゼミの方々(特に先生)である。どういうタイミングで言おう(言える)かなあ。


2014.10.17 (Fri) あいかわらず愛はわからない

口をついて出てみたいあんな言葉やこんな言葉。「愛してるよ」という言葉。言葉、言葉。口をついて出てみたいと言ったのは、熟慮した上で口にすることはないだろう言葉だから。だって、愛ってなんだかわからない。愛してるってどういう動作のことを言うのかわからない。ちがうちがう動作のことじゃない。愛してるってどういう感じのことなのかわからない。ちがうちがう感じのことじゃない。もっと総称的な何か。背景となるものがごちゃごちゃとあって、いろいろひっくるめて、口をついて「愛してるよ」が出てくる。でもひっくるめすぎててなにがなにやらわからない。

愛してるという言葉は大人になってから学ぶ。幼稚園児は愛してるなんて言わない。言ってるとしても、テレビで見て大人のまねしてるだけだ。意味なんかわかってない。僕も意味なんかわかってない。でも口をついて出てみたいと思う。妄想の中で口にする。

いとおしいという感情はわかる。でもそこに「愛してる」をあてがうのはふさわしくない。愛するとは、もっと能動的な何かなのか。ていうかこれって英語の love を他動詞っぽく訳した翻訳語なのかな。

「近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「Love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。」(Wikipedia「愛」)へー。

最初に、言葉、言葉と繰り返したのは、それが言葉であって概念ではない気がしたから。空虚なということではない。「暑いね」と言うことで人に窓を開けさせたり、「許す」と言うことが、事実の記述ではなく実際に「許す」という事実を作り出したり、そういう、内容ではなくむしろ「はたらき」をもつ言葉の仲間だという直観がはたらいたのだ。

数年前にある角度から愛について書いたことがあって、これを書くのに念頭に置いてたんだけど、今見直したら隠したくなったのでリンクはしないでおく。


2014.10.16 (Thu) 日記は論文でもエッセイでも批評でもないよっていう

山手線一周をまたしようと思っていて、そういえば前回実施したときの日記があったなと思ってはてなダイアリー(id:misunderstanding)の「楡男」をぱらぱらと見ていたんですけど、この頃は記事のタイトルを(一応)内容に即したものにしてたんですね。〔というか、日付のタイトルと記事のタイトルを別々に設定できたので両方利用していたのか〕 意外と悪くないというか、魅力的なタイトルであることはめったにないものの、見出しとしての最低限の機能は果たしてると思うし、自分らしさというか、確かに自分が考えたタイトルだなという匂いはかぎ取れる出来映えになってると、改めて並べて見るとそう思えたので、今後の日記もまた内容に即したタイトルをつけてみようかなと思い直しました。というかその案自体はもともとここ数ヶ月ぐらい浮んだり消えたりしていて、内容に即したタイトルをつけたい時とそうでない時があるんですよね。身も蓋もない言い方だけど。べつに日記って一つの記事を通じて何か一つのことを主張する媒体ではないと、どちらかといえば思っていて、その意味では日記に主題があること自体が何か不純なものに思える日があって、そういうときは内容とまったく関係ないタイトルを置いて、一記事一主題説に反逆を加えようという意識がはたらくことはある。でもそれはあくまでパブリックオピニオンに対する態度を示すということであって、そのこと自体は日記を書くために必須というわけではない。つまり一記事一主題というスタイルと、日記サイト全体を通じて何かをなす、という二つのことは両立するわけで。とまあ反対する意見をあらかじめ封じておくという狙いのもとでこんな文章を書いてしまいましたが、気分としては「そうしたいからそうする」以上のものではありません。無意味タイトルを続けてたのは、タイトル以外にあの無意味フレーズを考える〔貴重な〕機会がないから、でもあるけど。まあものはためしです。

昨日は三度ほど感動してふるえる瞬間があって、そのうち二つは忘れた。一つは雨が傘にぼつぼつと当たる音が不意に耳に入り、頭の中にひろがって、ふるえた。そういう瞬間は多いほどいい気がする。でもそういう瞬間をいちいち報告したり、貴重がっているようじゃまだまだだとも思う。


2014.10.15 (Wed) ヘモグロビン留置

佐々木健一『論文ゼミナール』読んでたら日付が変わりかけてた。集中して読めるとスピードも出てるはずなんだけど、時間経ってる。自分が読むべき本の中では読みやすい部類に入るはずなんだけどな。本を読むのが遅い。遅いのは仕方ないので集中して読めればいい。

今日はなんだか調子が悪くて……、前日夜にズブロッカを舐めていたのが原因で、10時くらいまで寝ていたか。酒飲むと朝起きれないのが近頃確実である。起きたら頭が痛かった。でも今はたくさん寝ても頭が痛くならないのが通常なので(いいやら悪いやら)、きっと台風による気圧の低下のせいなのだと思う。気圧で体調が変わるって、たとえば高校生の頃の自分なら迷信だと断定して信じなかったけど、今はそれが自分の身で分かる。予習のために英語のテキストを広げてもさっぱり意味が入ってこなくて、構文がつかめなくて、2,3回繰り替えしたあとあきらめて帰ることにした。今日学校でちょっとした事務的な仕事と文献のコピーしかしてないわ。コピー機開けたら誰かの大事そうな書類が出てきたので、学生課の落とし物係に届けた。でもどうなんだろう。もしその忘れ主が大事な書類をコピー機に忘れてきたことに気づいて急いで確認しに戻ったとして、目当てのものがその場所から消えていることを見たときに、それが学生課に届けられているかもしれない可能性に思い当たるだろうか。落とし物係の場所って意外と認知されてない気がする。

帰って食事して風呂入ったら頭痛はすこしずつひいてきて、今はなんともない。しかし今日は日課さえもろくに取り組めなかったな。やる気でなくって絵を描き始めて、模写の素材として棚から取り出したムーンライダーズ『Le café de la plage』を聞いた。ちょっとしたベスト盤的な選曲でありながら、レゲエ風のアレンジがどこか抜けてて気楽に聞ける。


2014.10.13 (Mon) うずら省庁

気になったことをSimplenoteにメモしてて、日記を書く時間が取れたときに掘り下げようと思ってそうしてたんですが、実際書こうという時になるとそううまくもいかないのでして。関心の賞味期限みたいなものがありますね。いや期限というか、波みたいなものが。今興味あるものしか書きたくない。でも「今興味あるもの」をパッと言える日は多くないので、たいがいは今日あったことを起点にして何かを思い出そうとすることになる。

今日は8時に目覚ましを掛けて8時半に起きました。いついつになったら起きるって決めるのが戦略としてむなしいのは知ってるんだけどね。その時刻になったら「起きたくなる」のだったら話は違ってくるけど、そんなわけないし。ふとんの中は気持ちよくてそのままでいたい。家にいると外に出たくない。今日は面接だったんだけど家にいると外に出たくなくて、社会で暮らしていくのは無理かと自分を疑う。でもスーツに着替えると能動的な気分になってきて外で活動する体を手に入れるので、服装ってばかにできないなと思いました。家にいる自分と外にいる自分をクッションするものとしての着替え。でもスーツでなくても同じ効果は得られるのでスーツはおおげさである。ネクタイいらなーい。

面接の中で、緊張してないねということを指摘された。確かにそうかと思う。ある程度しゃべることや聞かれることの範囲が決まってて、そのあたりの内容についてあらかじめ考えてある場合は、むしろフリートークより気軽に臨めるという面がある。自由研究が難しいのと同じ理屈。ただそれを差し引いても、プレッシャーの高い場面で冷静だという部分はあるようだ。さっきから面もある、部分もある。いや一人で机に向かってたり散歩してたりするときのように冷静なわけはないんだけど、要するに振れ幅が小さいのでしょうね。あたふたしないかわりに人前でくつろぐこともめったにないし。くつろぐほうがかわいいよね。


2014.10.11 (Sat) 飛び出す清廉

昨日から、外を歩くときに鼻をきかせるように意識している。家で飼ってるウサギはなにかというと辺りの匂いをかぎまわっている、それを見習おうと思ったのだ。われわれ人間は視覚情報に大幅に頼っているとたまに言われるが、生物として暮らす上で重要な情報はむしろ嗅覚が与えてくれるものね。たとえば食べ物が腐っていることを最も端的に教えてくれるのは匂いだ。いや、まあ、大風呂敷を広げたけどそれくらいだったかもしれない。でも、視覚が与えてくれない情報を嗅覚が与えてくれるのは事実だ。  匂いに意識を向けながら外を歩いていると、じつにさまざまな匂いが入ってくるのが分かる。コンビニの匂いと、昔ながらの商店の匂いと、工場の匂いと。匂いって輪郭がなくてあいまいな対象だというイメージもあるけど、むしろその種類を細かく区別できるものだ。ある匂いを嗅いで、ずっと昔の一場面を思い起こすことがある。それは、匂いというものがかなり狭く特定化されていることを意味している。ただ一つの記憶に結びついたただ一つの匂いがあるということなのだから。むしろ匂いをあいまいだと思うことは、それを一箇所にとどめておくことの難しさに起因しているのではないか。視覚的像は同じところにとどまっていたり、一定の形を保っていることが常だ(たとえば目の前のコップは放っておいても溶けたり蒸発したりはしない)けど、匂いはしばらくすると消えてしまう。でもその点からいえば音のほうがシビアだ。音は鳴っている瞬間しか持続しない。うんぬん。五感を比較しようとするといろんなことが考えられる。  匂いを通じて対象に接近するとき、その対象の存在をより“じかに”感じられる気がする。無機的な人工物はきちんと冷めた匂いがする。自分の手の匂いには、有機物のあたたかみがある気がする。いや。ことさらに温かい人間だと言いたいのではなく、有機物だってことね。まあ、いずれにせよ「気がする」の域を出ない。でもそれでいい。言葉で述べようとすればそうなる。裏付けはない。それでも匂っている。


2014.10.06 (Mon) 愚かな地図記号

ネクタイを結ぶときって、男性でスーツを着たことのある人は分かると思いますが(←男性でスーツを着たことのある人)、ネクタイを首に引っかけて、広い方の端を狭い方の端よりもだいぶ下になるように調整した上で巻きますよね。そうすると最終的に結んだときに、重なった両端がだいたい同じくらいの位置にきてくれる。

こういうのです。→ネクタイの結び方 これの中段。ネクタイを最初に垂らしてるコマがある説明が意外と少なかった。

でも最初の状態でこのくらい両端に差をつけて垂らしておけば最適だっていう垂らし具合がわからないんですよね。ちょっと差をつけすぎじゃ?と思われるくらいがちょうどいいことは経験上わかっているんだけど、でも「ちょっと差をつけすぎじゃ?」ぐらいの規定だと幅があって、結局ちょっと惜しいぐらいの出来上がりになって、まあいいやとそのまま着てしまったりする。

なんだろうなと思うのは、ネクタイを垂らしたときにこの垂らし具合で最適の出来になるかわからないのに、ということは同時に、この垂らし具合がかりに最適でないとしてこれをどう調整したら最適になるかもわからないのに、こうした不安が生じたときに、わからなくても右や左にキュキュッと調整して、それで結んでしまう、ってことをする。キュキュッと「調整して」と書いたけど、基準が分からないのだから調整しようもないわけで、たんにネクタイを動かして調整しているふうな顔をしているにすぎない。顔をしているといっても誰も見てないのでたんに自分に対して「自分はネクタイを調整してるぞ」という顔をしてるわけだ。でもそうすると安心というか、格好がつくというか。ネクタイをきちんと結べるという実質的には何の意味もないんだけど、そういう調整をしたふうなポーズを取ることが、「これが最適の垂らし具合じゃないかもしれない」という迷いを越えて僕にネクタイを結ばしめるんだよね。何の意味もないって知ってるんだけど、決断するために、条件が整ったかのように装ってみる。もちろんネクタイをきれいに結べるのが大事なんだけど、きれいにできるかわからないときに、それでもやってしまう、というのもまた大事だよなあと。


2014.10.05 (Sun) 鉢植に虎

昨日の日記ではこの話にけりがついていないと言って続きがあることを示唆したけども、自分の中でこの話に対してどういう態度を取るべきかってレベルでの心の整理はついたのでそれ以上しつこく考える気がなくなってしまいました。というわけで新しい今日のおたよりです(ズブロッカを舐めながら)。

半月ぐらい前のある日の朝、普段使ってるのとは違う駅へ向かう途中、泣いてる人を見たのです。女の人で、男の人が付き添っていて。彼女に、あるいは彼らの間に何が起こってどうしたのかって想像するだけの人生経験や居酒屋談義の蓄積が僕にはないので、まあなにかあって泣いてるというレイヤーでしか了解できなかったのですが、しかし大人が泣くときはこんな顔をするのかと珍しいものを見る目つきで見てもいました。しかしそのときに特別ななにかを感じたかっていうと、感じたんだろうけど、言葉になる以前の、一番薄い掛けぶとんみたいな、とてもあいまいななにかだよね。ただあの顔の動きの印象ばかり残っている。1,2度しゃくり上げて、そのあとだらりとあごが垂れる。詩人ならその印象について何かを語れるんだろうか。なにか一般的な話でなく、何かが言えんのかな。詩人ならと言うべきか、成功した詩は、そうしたことを実現しているものだと思っている。

うーん。そんなこと言ってないで直接に詩作に挑戦すべきなのかもしれない。(今日はもう寝るが)

大人が泣くのは不思議と後を引く印象を与えるが、赤ん坊の泣き声は、あまりに遠慮なく泣くので、聞いてるこちらも感染して泣きそうになってしまう。より正確に言うと、泣きそうになりそうな徴候を、悲しさの片鱗を見てしまう。泣くときはいつも悲しいのだろうか。赤ん坊はしょっちゅう悲しいのだろうか。でも、なんか自分が出す泣き声に陶酔してやたらめったら泣いてる奴とかもいる。ように見える。


2014.10.04 (Sat) 手すさびコンクール

日記を書くタイミングといったら家にいて暇なときじゃないですか。ところが最近の私は家にいても手持ち無沙汰になるということがないんで、なぜかというと「すべきこと」のストックをいくつももっていて、それらをくるくる回してるだけで一日が足りなくなってしまうんで日記を書く隙間なんかないワってことなんですが、シームレスに動こうとするのってむしろ危険で、自分の暮らしぶりに対する反省が入り込まないとけっこう簡単に無意味なネットサーフィンとか5分おきにTwitterをチェックするとかそういうことになりがちですので家にいるときこそタスクとタスクの間に5分間のなにもしない休息の時間を設けるべきだと思いました。5分間なにもしないのですよ。歩いたり飲み物を飲んだりはOK。とにかく「動き続けなければいけない」という焦りを鎮めてやるのがだいじです。 日記のネタになりそうな、考えてみたいことがらってのは暮らしの中でいくつか見つけて、Simplenoteに放り込んであるんですけど、それを落ち着いて考える、考えるために腰を落ち着ける時間を作らなかったっていうね。ヒマにならないと日記を書かないってのは歴史的事実なのですけど、今や日記を書くために意識的に時間を割くという(個人史における意味での)時代が来ているわけですよ。つまり随想的なことをするのって人生の中でも優先度高めなんだってこったね。大事にすべきことなんだぁね。

そこで今日のおたより(Simplenoteから)。

ワインの味わかんないから安いのでいいや、って発想があり。あるいは音質とかわかんないからiPodについてきたイヤホンで十分だわ、って態度のとりかたがあり。逆スノビズムとでもいうのか。こうした考えを表明したくなる動機としては、ひとつにはそれこそスノビズムへの反動。ワインは良いものじゃなきゃ飲む価値がないとか、ヘッドホンは何万以上のものじゃなきゃ本当の音は聞こえないとかそんな鼻につくこともある態度を反転したらイケてるだろうという発想で、大事なのは良いものを享受することではなく楽しむことだ。あいつが子供っぽいと遠ざけてる音楽を楽しんで聞いてる俺がむしろ勝ち組。車の騒音でもゲップの音でも聞きようによっちゃすばらしい音楽になる。いくら良いものを聞いてても楽しむ心がなければそれはただのBGMだ。そこまで実践する人はあまりいないけど、そういう考え方には一種の魅力がある。なんでも楽しめたら無敵だものね。でもまあ理想は理想でしかないとも思う。

ワインもそうで、安いやつで楽しめてるんなら安いのでいい。でも一生安いやつでいいんだ、と決めてかかることが問題なんだ。一生安いやつで満足できるかどうかは定かではないし、一生安いやつで満足できることがいいことかどうかは微妙ではないか? 確かに一生安いやつで満足できるなら、お金は節約できるけど、でもどうなのか。安いワインで一生満足し続けて、生涯で10万円使うのと、満足しながらワインがだんだん高くなって、生涯で100万円使うのとは、前者のほうが賢くて強いのだろうか。言い換えれば、満足できることだけがワインを飲む目的なのか? まず、満足するというのは単一な感覚ではない。満足することは、お腹いっぱいになったり疲れ切ったり眠くなったりするのとはちょっと属性が違うようだ。いわば実体性の薄い様態というのか。たとえば満足とは「物足りなくない」という二重否定の契機が組み込まれているかもしれない。満足は、音楽やワインを楽しむ中で、その楽しみの質に対して「これでいい」と是認する、メタ認識かもしれない。満足には適合性、パズルのピースがはまるようなぴったりくる感じ、今楽しんでいるこれでよいのであって、さしあたり他のものを必要としない、という意味がある。つまり満足してるってのは、音楽やワインをある仕方で鑑賞し、楽しんでいる、という事態のさらに上にかぶせてパッケージングする言葉だ。

満足するということは、これ以上をさしあたって必要としない、という意味だけど、だとしたらワインや音楽鑑賞の目的が満足だというのは奇妙なことだ。満足は結果であって目的ではないと言うべきではなかろうか。だって「これ以上をさしあたって必要としない」という心境になるために私たちはワインを飲んだり山に登ったりするわけではないはずだ。そうではなく、おいしいと感じたり、さわやかな気分になるためにそうするんだ。いやそれも違う。正確に言えば、おいしいワインを飲んだり、さわやかな山登りをしたいという、端的にそう言うべきではないか。なんで私たちは出来事をバラバラにして述べたがるのか。出来事をバラバラにして述べることで、ワインを飲まずに「ワインを飲んだときの満足感」を与える装置があれば、われわれはワインを飲まずに済ませられるか、とかそういう思考実験に巻き込まれてしまう。それはそれで面白いけど、多くの場合かかわらずに済ませられるスポットだと思う。

でもここまで考えたところで、「私は一生安いやつでいい」に対する違和感が取り出せたわけではない。つまり、この考え方は、以上のことを踏まえてなお次のように言い換えられる。「おいしいワインを飲む」という同じ主観的体験ができるなら、かかるお金は安い方がお得であろう、と。これはバラバラにするのをできるだけがまんした言い方だけど、ぎりぎりのところでそれが残っている。つまり「主観的体験」という類概念を使って、比較機能をONにして語っている。むしろ比較機能をONにしないとこの主張は言葉にして表現できないんだと思う。そうなると、「一生安いワイン」の是非とは、こういう秩序づけた(=事実のある面を省略した)把握の生み出した問題で、もっと突っ込んで言えば疑似問題だったりしないのだろうか? そんな気がする。でもそれを断定するにはあまりに証拠不十分だ。

これでこの違和感を整理するための知見が出そろった気がするが、整理する時間がない。ぼくはこれから映画を見るのだ。ひさしぶりにこういう問題考えたら、「うまく言えない」って事態をひさしぶりに経験できてよかった。なんかよかった。だがこの話は完結していないのだ。


2014.10.01 (Wed) 横這いあぜ道

喉に違和感を覚えた翌日は痛みが本格化していて、あーこれは風邪ですわ風邪気味ですわと思って起きてごはん食べたあとも家のソファでスマホをいじったり誰もいないのをいいことに弟のギターを弾いたりしていた。今日は本日発売の『プラグマティズム古典集成』という本を買うことに決めていて、決めていたのですけどもこう体調が悪くちゃね、と裏で思ったりしながらソファに寝そべって貝でできた窓辺の吊し飾りが揺れる音を聞いていたのですが、ふと更新したツイッターにその本の目次が上げられててそれがリツイートされてて、この本関心もたれてるのか、早く買わなきゃ売れてしまうかもしれんと、すわと思って飛び起きて勇猛に支度を済ませて家を出ました。そんなものが自分を動かす。


2014.09.28 (Sun) おしどり野党

野球中継を楽しんで見れる人って知性的だなあと思う。だって野球ってけっこう複雑で抽象的でしょ。とにかく速く走れば勝ちとか、相手をダウンさせれば勝ちとかそういうのがない。まあ速く走ったり相手を圧倒するために選手はさまざまな工夫をし、見る目のある人はそれだけ深く観賞できるのだろうけど、ぱっと見なにをやってるのかわからないという、そもそも野球を最低限のレベルで「観れる」ためには一定の学習が必要になる。まあ多くの人は遊びの中で自然に身につけるわけだけど、そういう意味での「学習」も含めて。ボールを投げて速いほうが勝ちでもないし、球をたくさん打った方が勝ちってわけでもない。一人あたりが球を打つチャンスは回数が限られてて、そのチャンスは漸次減っていくけど、条件に応じて減らないこともあったり。投げられた球を正しい範囲に打ち返して、定められた線の上をすごろくのように進んでいくことが勝利のために必要なのは確かだけど、進んだら進んだだけポイントになるわけじゃなくて、所定の期間の中で計4コマ進めることができてようやく得点になる。そしてその「所定の期間」は9回も繰り返される。しかも攻守交代があるからそれが2倍ある。こうした規則が重層的にからみあい野球のルールをなしていて、そのため投げたり打ったり走ったりという動作は、たえず全体との関係においてとらえなければ意味をつかめない。「投げた」「打った」「走った」ばらばらにとらえては野球にならない。つまり野球を観戦できることは、野球の本質を心得ていることと背中合わせなのです。野球って何ってのがざっくりとわかってることが求められるという。でも全体像をつかむのって難しいですよね。歴史とか。時代の流れがおおざっぱにどういうものなのかがつかめなくて、世界史はドヴァーラヴァティとか完顔阿骨打とかそういうへんな名前ばかり覚えてました。そういう次第があるので全体像を把握してることが必要な野球観戦ができる人は尊敬します。仕事ができる人はつねに全体像を見てるともいうし。それに野球は個々の規則が抽象的なんだ。一つ一つの規則はそれ自身で試合に直接影響するわけではない。アウトになったら試合終了というわけではなく、そのうちまた打順が回ってくる。じゃあアウトってなんなんだ? そういうようなこと。簿記の勉強のような見通しの悪さがあるね。ルールに従って表の右か左に単語と数字が記入されていって、なんか最終的に右と左の合計額が一致しちゃう。でも一致してれば万事OKというわけでもない。なにこれ。個々のルールの論理的連関が頭に入ってないとそもそも個別のルールが何を意味してるのかがわからない。それが、野球を観れてるって事は、それを理解してるって事なので、知的にけっこう高度なすごいことなのですよ、ってことを言いたかった。


2014.09.26 (Fri) 絶望ニョッキ

昼のワイドショーで(新聞記事を紹介しつつ)新しい言葉遣いが話題になってて、「パニクる」「ディスる」みたいな「~る」言葉、「1000円からお預かりします」「ご注文の方(ほう)」のようなマニュアル敬語、「コンプライアンス」といった外来語の濫用なんかが取り上げられつつ、番組に出てる人たち年齢層高めなのでどちらかというと否定的な空気になりつつ、まあ僕自身もいろいろと肯定否定織り交ぜ言いたいことはあるわけなんだけど新しい言葉遣いを話題にするとつい正しい/間違ってる、自然/不自然、平気/不愉快、みたいな価値観がどよーんと周囲を覆ってなんとなく重苦しい雰囲気になるのが嫌だ。誰もが正しいことを見極めようと目を光らせるというか。といって「言葉は変化するもの」を全面適用してぜんぶ正しいよ!って認めてしまう気もないけど、というか正しいという評価軸でものを考えるべきではないと思っている。伝わりやすい/伝わりにくいでいいでしょう。でも正しいってなんだろう。規範に則っている=伝統に乗っかっている、共有範囲が最大限広いような、要するにほぼ誰にでも通じる表現ということかな。そうすると正しさの価値も伝わりやすさの価値に還元されることになる。伝わりやすいから「正しい」(規範的な)表現を使うべきなんだ、って。まあ伝わりやすさだけを重んじるべきだとすれば言語体系がなるべく変化しないよう保守するのが正しい態度だということになるけど、もちろんそれだけでもない。

新しい言葉が不愉快だってのは単に理解できないとか、規範から外れてるとかという要因のほかに、言葉遣いは所属(クラスタ)を表し、そして人間は自分の属してないクラスタの文化を遠ざけようとする習性がある(いや僕がそうだというだけですが)ので、という事情もあるだろう。でもその立場から何かを云々したところで、自分の属してる集団の保守に役立つだけで、言語の全体観には関わりないような。

いや、単に、言葉遣いを話題にするときにもっと朗らかにできないものかなと言いたかっただけなんだけど。つい書いてしまう。わたしもにわか言語論をかます人の一人だ。はあ。

あと一つだけ。「1000円からお預かりします」「ご注文の方」といった所謂マニュアル敬語がへんだと思うのは、この「から」のどこが from なの?とか、「の方」って何?単に「ご注文」でいいでしょ?という、なにやら英文解釈的な反省からおそらく出発している。意図しているところは通じているはずなのに、考えてみるとおかしいと思ってしまう。つまりマニュアル敬語に疑問を持つとき、私たちは日本語学習者の気持ちになっているのだ。だからこの違和感は、理解できないとか新しいものに対する違和感ともすこし異なっている。とどのつまりのとどって何みたいな。でもだからといって「とどのつまり」を使うな!とはならないわけで、使うな!と言いたくなるためにはそれが定着していない、新しい流れであることが必要なのかもしれない。いや、とどのつまりのとどって何、という疑問には必ず答えがあるはずだと信じられていて、確かに国語辞典を引くと「ボラは成長につれ別名で呼ばれるが、その最終段階を「とど」と言うことから」(『岩波国語辞典』第七版)と由来が載っている。ひとは由来を知ると安心して、ああ、由緒ある言葉遣いなんだなと納得する。これに対して1000円「から」やご注文の「方」は正体不明で、いや頑張れば言葉にできそうな気もするけどとにかくそれはずっと漠然とした意味を担っているのだ(婉曲にして丁寧さを出してるんだろうぐらいは言えるけど)。そうした正体不明さが、そんな言葉どっからでてきたの?って不安を呼ぶのかもしれない。

でもそういう違和感って、つまり言葉を文字通りに・逐語訳的に受け取ること、そしてそうした受け取り方が正しい受け取り方であると考えることから出てくるもので、でも実際はそうではないよな。今書きながら見つけたマニュアル敬語の多用は相手に不快感を与えることもという記事では「お名前頂戴できますか?」は、名前は頂戴する=もらうものではないからおかしいと書かれているけど、むしろ、こういう場面ではある意味で名前を「もらっている」のではないかと思える。その頂戴した名前を何かに利用するわけだし。こういう見方って私見では英語のお勉強の経験に原因があると思っていて、 He has educated his children at the best schools. の一語一語がそれぞれ日本語の適当な概念に相当するという(おそらく誤った)思い込みとか、辞書の一番上に出てきた意味がその単語の意味であるという(これは明白に誤った)思い込みが、要するに試験問題で得点するために最低限必要なスキルを集積するとそんな言語観ができてしまうのかとも思う。一語が一概念に対応し、それをどう組み立てるかで言語間の違いが出るにすぎないみたいな。いや、もちろん個人的な経験にのみ基づいた話です。かなり不用意に踏み込んだ断定をしました。


2014.09.25 (Thu) 寸法ナイン

ちょっとだけ、家が静かになったタイミングでラジオをつけて勉強した。ゴダイゴの銀河鉄道999が流れてきた。小さなポータブルラジオから発せられるAMラジオの音質がわびしくていい。間違いなくいいんだけど、「AMラジオの音質がわびしくていい」だなんて典型的なスノッブ趣味というか、風流なものをことさら風流だとありがたがる態度がダサいな、と思う部分もあって、そういうこと思ったり言葉にしたりするときにふと立ち止まる。ただテレビもパソコンもついてない時間ってなにか研ぎ澄まされた感じがあってそれは好き。でもやっぱり、研ぎ澄まされた感じを味わいたくてラジオをつけるのはなんか違うのよ。違うのか? 違う違うって言ってる自分は、スノッブ趣味の一段上を行くまた別のスノッブ趣味を志向してるだけにも見えるぞ。

whatよりもhow、いいものを特定するだけでなく、そのよさの質とか内実に踏み込まなきゃいけないんだよね。たぶん。


2014.09.24 (Wed) 逆ミトコンドリア

論文のほうの書きものをすべきだという気もするけど、書くよ。お金の話の続き。たとえば2000円の食べ放題でカレーを3杯食ったら、まあカレーでもレストランで食べれば7, 800円はするものと思うので個別に3杯食ったら単純計算で2100~2400円だから、得したことになるわけですね。もとをとったというか。でもこの得ってなんだったのかという話であって、元を取るのに必死になって無理して3杯も詰め込んだなら後ろのほうあまりおいしいと感じなかったかも知れないし、おなかが苦しくて帰りがつらいかもしれないし。そう考えるとお金は得したけどなんかほんとうの意味で得したとは言えないんじゃないか……というよくある話。

この話のポイントは、100~400円の得はべつに何もしないで得られたわけじゃないってことかな。おおざっぱに言えば大食いにチャレンジしてお腹をふくらますことで金銭的な得を確保している。もうすこし理屈っぽくやると、異なる金額を投資して全く同じ効果を得たときに、投資額が低いほうが得、高い方が損となる。つまり金額を比べるときに他の条件がぜんぶ同じでないといけないんだよね。このケースはその点を満たしてない。つまり。

なるべく条件を同じにしようとするなら、食べ放題で3杯食ったときと、同じ店にふつうに来て立て続けにカレーを3杯頼んで食ったときとで比べなきゃならない。食べ放題で「得した」というのは、そういう場合に対して「得した」のであって、行きつけの店で毎週土曜の昼に食べるカレー3回分とかに匹敵するわけではないし、家で食べるレトルトカレー3食分とももちろん違う。

……これって考え方としては妥当だと思うんだけど、いかんせん適用範囲が狭すぎる。っつうか比較できるための条件をそこまで狭くすると(ってこれも厳密に規定しているわけではないので、個人個人で設定してほしい狭さなんですけど)、だいたいのばあいお金を媒介にして損した得したを考えることができなくなるよね。でもこれはこれで否定できないと思うんだよなあ。

前にラジオ聞いてて、女子高校生とデートできるお店が話題になってて、話し手の一人がこんなもの要りますか?って調子で「(デートの料金)4000円あったら牛丼10杯食えますよ」ってなことを言ってて違和感覚えたんですが、この違和感のもとはひとつは今言及したような事情にあると思う。このセリフって言い換えれば「4000円を女子高校生とのデートに使うよりも牛丼10杯に使った方が得だ」となるけど、デートと牛丼を比較できますか?という話だ。

ちなみにこのラジオの話については前にも言及した。

とはいえ、お金にはよい使い道と無駄遣いとがあるってのも確かに言えなきゃいけない。特に目的もなく小麦粉を20袋買うよりも、同じお金で欲しい本でも買った方が有意義だとは言える――本、買っても読まないかもしれないけど。でも同じ金額だけ減るときに、それとひきかえに何を得ても得なくても同じことだ、と結論するわけにはいかない。だとするとむしろ第二の比較方法があると考えるべきか。同じ金額を使って異なるものを得たとき、より価値の高いもの(こと)を得たほうが得である、と。一個目のカレーの比較方法と対になってて、まああたりまえのことですが。だからさっきのはデートと牛丼を比較しないといけないのだ。まあでも客観的にするのは難しいので、さっきのラジオの発言は、話し手の価値観の表明に過ぎないことになる。

そうなると得した損したというのは、第二の比較方法の次元では、主観的なものに過ぎないんだろうか。何が価値が高いか低いかというのが主観的要素に左右されるものなのだから。第一の比較方法では条件がきつすぎて比較できなくなったが、第二の比較方法ではなんでもありすぎてふわっとした比較しかできない。(なんか二つの系列を対立させたり対応をとってみたり、俺、本質的でないところで理屈っぽくなったというか、理屈というかなにか世界が必要以上に整理されてるように見せたがってるというか……)

うーん。第二の比較方法には実は興味がなかったりする。というか価値観って明瞭な仕方でどこまで云々できる話なのか、そのあたりに明るくない私としては疑問ですわ。第一の方法――同じものを安く/高く手に入れる――がむしろ気になっていて、この立場にこだわっていくとお金の価値について何か見えるかな、という予感がしている。だがどう見えるかの見通しは立っていません。気が向いたら考えてみるか。


2014.09.22 (Mon) 職質分母

お金の価値をどう考えるかってのは難しい。前々から思っている。晩酌に400円のワインをコップ一杯飲むとする。750ml入りだから、4日で消費してしまう(一般的なコップは200ml)。つまり1日につき100円か。そう考えると現実的な額。でも1ヶ月換算だと3000円か。そう思うとばかにならない額だ。携帯電話のサービスでも月額300円とかだし。僕は1ヶ月の予算を20000円に設定しているので、3000円はけっして小さくない。ハードカバーの本1冊分かあ……。

ある金額の値打ちを考えるとき私たちがするのは、(1)それで手に入るものをよりどころにするか、(2)あるスケールをよりどころにする、ということ。つまり3000円で何が買えるかを考える。必要なら、それと1ヶ月分のワインとを天秤にかけてみる。あるいは、1ヶ月の予算の中で3000円がどのくらいの割合を占めるかを考える。そんなことだ。でもそれで何が明らかになるのかは実はわかっていない。比較対象によって見え方は変わってくるからだ。1日100円といえば無理のない額に見えるが、月に3000円というと存在感が強くなる。

要するに世の中にはお得なものも割高なものもある。ひとつのものがお得なものの中では割高に見えるし、逆も言える。じゃあ平均的なものと比べれば妥当な評価が出せるんじゃない?となるわけだが・・・、平均的なものとは何か。すべてのものの中で平均的な価格を持つもの、なんていっても、すべてのものの価格の分布がどうなってるかなんて予測できないし。平均って意外と5万円とかかもしれないし、1000円かもしれないし、まあわからない。あるいはワインの中で平均的って言ってもしょうがない。これが安いワインだって分かることが目的じゃないし。

お金の価値を考えるときに比較なしでやるわけにはおそらくいかないので、結局何を目的にして、何と比較するか、ということに焦点がくる。ワインを飲むことを食事や入浴のような習慣としてとらえたとき、月の予算のうちどのくらいを占めるかという観点は有効だ。また割合という数字よりも、毎月に3000円割くのが現実的かどうかは、その3000円というのを割けるだけの余裕があるかで決まる。暮らしていくのにぎりぎりの家計ならワインを断念しなければならないし、余裕があるなら飲めばいい。毎月本を買いすぎてるのを抑えればワインが手に入る、という場合もある。

こうして、ワインの400円が僕の生活に対して占める位置づけについて、実のある仕方で考えられるようになってくる。(少なくとも、実のある感じがする) でもそれってワインのために毎月3000円を割くのが合理的かどうかって問いであって、400円のワインが高いかどうかではないし、ワインのために毎日100円つぎ込むのが妥当かどうかという話とも違う。ふむ。この疑問を煮詰めると、3000円や100円や400円そのものの価値とは何かという、答えのない問題になってしまうのかな。お金の価値はそれぞれの文脈に応じてしか考えられないという。

それにしても1日100円だといい感じなのに月に3000円となると存在感あるのはなんでだろ。20000円の予算を日数で割るとだいたい1日の予算は660円なんですけど、その中で毎日100円と考えてもそんなに無理な出費じゃない気がする。でもそう考えてるとけっこう簡単に予算オーバーする(たまには1000円以上する本を買う)。どういうスケールでお金を値踏みすると最適なのかがよくわからない。さらにいえばその最適ってなんなのかもよくわからないし。


2014.09.20 (Sat) アイデアロリータ

まだまだ就職活動継続中。朝7時に起きて余裕だなーとのんびりしてたら遅刻しそうになった。いや遅刻した。開始時刻30秒前ぐらいに着いたけど説明会始まってた。来ないからもう始めちゃいましょうってなってたのだろう。俺社会人としてだめかもしれない。朝起きる前にふとんの中でだらだらしてる時間が20分くらいあるのでそれ込みで目覚める時間を調整する案を通過させた。駅探で40分ちょいってあったからそれにあわせて予定立てたんだけど、あれ快速で行った場合で、しかも快速は朝の間走ってないことを駅について時刻表を見ながら知る。これで10分くらいロス。電車の中ではまあこれが最速なのだから諦めようと思って(タクシーという手は考えもしなかった、というか今書きながら気づいてそんな手をそもそも自分が思いついたことに驚いた。でもそのとき思いついたとしても使わなかっただろうな、お金掛かるから)、腰がドンと据わるわけじゃないんだけどでもふつうに本は読めた。駅に着いたらどういうルートで走って行くかを確認して、普段どおりに本を読んだ。目的地の駅に着く2駅前からどぎまぎした。駅に着いたら即ダッシュでばびょーんって飛んでいくつもりでいたんだけど周りの人の動きがのろいです。前に横浜に降り立ったときみんな歩くのが速くてびっくりしたけど、どまんなかの都会を外れると今度は動きがのんびりするのか。利用客をかいくぐりつつ、一列タイプのエスカレーターやいちいち赤になる信号に翻弄されながら、30秒ごとぐらいに時計をみながらダッシュ。ダッシュ?いやむしろ競歩みたいな地面をあまり蹴らないタイプの不思議な走りをしていた。革靴は走りにくい。息は上がりにくいかも……、朝で涼しかったので不思議と汗はかかなかった。電車の中で十分に予習をしたのでスムーズに目的地のビルに辿り着き、エレベーターで上がって、手慣れた案内を受けて会場入りした。へんな走り方をしたせいで肺かな?がたまに痛んだ。危険。あかん走り方やで。

昼前に解散。帰りにご当地ブックオフに立ち寄り、主に岩波文庫とかを物色した。108円のやつ。『タゴール詩集』が目にとまって開いてみて、試しに読んでみた詩がなんか良いのであった。「己をわが頭に 荷うまじ」というリフレインがビーンときた。詩集を買うときってだいたいそうである。適当に開いて出てきた詩がよくって、これはよい詩だと判断して買う。真相は、本の品定めの中で、しかも立って読んでいることで、頭がよくはたらいて、詩を味わう機能もはたらいているから、よく感じる……言い換えれば、ふだん半分寝ながら読んでるから詩がわからないのだよ。あと『考え方の論理』(講談社学術文庫)『植物のこころ』(岩波新書)をあわせて買う。植物について語った本って新書に集中してるような。

帰りの電車はおだやかに。駅前で托鉢僧を見つけたので、もうかってまっかとつい覗いてみた。500円玉が一番大きかった。街で托鉢僧を見つけてはあいつ偽物なんじゃねえのと思うのが趣味です。いやしいね。今日の人は顔を隠してなかったし鉢を自分で持ってなかったのであやしい。正式なスタイルがどんなのかは知らないけど。ちなみに渋谷の托鉢僧の鉢にはお札が入ってました。

昼飯をどうしようかと考えて、降りた駅でなにか探してみる。改札出てすぐにうどん屋を見つけた。讃岐うどん。うどんおいしそうだったけど混んでたのでやめた。そば屋も見つけた。駅に入ってる手頃なやつ。食べたかったけど家でも作れそうなのでやめた。吉野家を覗き込むとここも混んでいた。結局コンビニで何か買ってどこかのベンチで食べることに。何かつってもだいたいおにぎり一択なんですが……しかしおにぎりだって家で作れるし、店でしか手に入らないわけではないものに金を出すのが……とか悩み込みそうになりながら、青唐辛子味噌のおにぎりと赤飯のおにぎりと、あと400円のワインを買った。ワインって安価で手に入るの知らなかった。体を温める用。

夜にかなりひさしぶりに走りに出た。といっても10分くらい。3ヶ月ぶりか。汗が出ました。涼しくなってくるとめしもうまいし体は動くしいいんですが乾燥してアトピーの状態が悪くなってくるんですよね。ですよねというか今年になって気づきを新たにしたんですが。夏の間はほぼ常時汗でうるおっていたので、状態はよかったのよね。涼しくなったとたんに、いままですべすべしていた手の甲もざらざらしてきててきめんに変化が出たので、ちょっと焦って積極的に汗をかいたりしてみています。塩をつけるのがいいと言ってる人がいるんで、まぁ自分の美意識にもかなうので風呂場で手足に塩を擦りつけてみました。こないだ海水浴して一瞬よくなったのもあるし。やはりひりひりする。傷口に塩って言いますからね。普通に見て苦行だわ。修行には多少心得があるんで明日もやる気があるけど。3回くらいつけて流してを繰り返したら、多少水分がたくわえられたような。そんな急によくなるわけじゃないんで寝て様子見て、気が向いたらまた明日塗って様子見てみます。この段落に入ってなぜか突然「~んで」体になった。ワイン飲みながら書いてたら深夜になってたし眠い。まぶたがはんぺんみたい。


2014.09.16 (Tue) きびす農法

Twitterにはfavorite機能がありますけど、マイナス方向のfavorite――hateのようなものを通知する機能があってもいいんじゃないか。そっと好意を伝える機能があるなら、そっと反感を伝える機能があってもいいんじゃないか。ツイッターのふぁぼとかフェイスブックのいいね!のような機能のはしりって自分の認識でははてなスターがはしりで、ああいうのってコメントとして書けるほど明確な形をもたない好評価を可視化するツールだったわけですよね。そしてまた明確な形をまだなしていないけれど表明されるのを待っている好意というものがネットの世の中には高濃度で存在していて、それがはてなスターによってかなり可視化された。うーん、何が言いたいかっていうと、ネットのサービスって従来隠れていたものを白日の下に曝すってはたらきをずっと担ってきていて、2ちゃんねるとかニッチなエロコンテンツとか当然ありつつ、日記サイトはみんな普段どういうこと考えてるのかってことを見せてくれたし、Twitterはみんな同じようなこと考えてんだなってことを明らかにしたし、全文検索だってすべての情報を平等に把握できるようにしようって思想を含んでるし、最近では気になる企業の内部事情が覗ける転職会議なんてサービスもあったりして、……その延長線上にhateボタンがあっても不自然ではないんじゃないの、と。いやあ、使う側も抵抗あるし用意する側も良心を問われそうだからきっと実装はされないだろうけど。ただ、場合によっちゃ好意を示すより反感を示すほうが難しいのだ。より正確に言えば、一人の人に対してはどっちかに偏りがちなんだな。親しい人に文句言うのは難しいけど、ふだん見くびってる相手をほめるのも難しい。一人の人につき一つきりの役割/属性を振って把握してしまいがち。関係が固定化していって同じ人に同じような対応しかとれなくなるのもおもしろくない。

ちなみに僕はfavoriteを必ずしも好意の意味で使ってるわけではない。鋭いなと感心したやつとか、内容を理解した上で共感してるのとか、お役立ち情報とか、いまいちピンとこないけど気になる考え方なのであとで見返すためとか。実は最後のが一番多いかも。自分のもそうだけどひとがfavoriteをつける理由はさまざまで一定しないので、他人のfavorite欄覗いてもあまりピンと来ないことが多いのはそのせいもあるかもしれない。


2014.09.14 (Sun) 虫ゴム詐称

サークルの合宿に行ってきた。泳いだり、波に揺られたり、深海魚を食べたり、買い物に走ったり、風呂に入ったり、寝転がったり、ジュースのラベルのへんなフレーズを探したり、乗りづらい自転車に乗ったり、そんな事してた。もうこんな機会も最後かな。酒を飲む量もはっきりと減った(正確には、ビールを飲むとすぐお腹いっぱいになるので、もういいやって思ってしまう)。気づいたこと。海と川の境目あたりは独特の甘い匂いがする。

ひとつ納得できない事があって、でもその場で違和感を表明することができなくて、帰ってきてからいまさらにそれが噴出して別のありえたシナリオを思い描いていた。あのとき自分が文句を言い始めて口論になったら、どんなことを言っていただろうかということ。あーうるさい。現実は先へ過ぎてしまうのにひとりよがりな闘いを続けている。文句は本人に言うしかない。それがハードル高いなら、ぼそっとつぶやくぐらいはしたほうがいい。


2014.09.12 (Fri) 薫陶めぐり

クリームコロッケを3個ほど買い込んで喰って、カラオケに行って、ここ数日手を掛けられずにいたグルジア語の勉強を進めた。気分がいい。やり残していたことをやるのはよいことだ。できるうちに。

カラオケから帰ってきて、自分の歌ってるのを携帯のアプリで録った音声を聞いてみる。自分が思ってるよりも細い声。たまに聞こえる地声のつぶやきに生気がなくて、むろん生気に自信があるわけではないけれど、すこし落胆する。関連した話で、自分の話し方は語尾の音量が消える、発話の後ろのほうがどんどん音量下がっていって聞こえなくなってしまう話し方なんだけども近頃これが悩みとして主題化しているので、修正するために今日は語頭と語尾を強調して歌ってみた。わざとらしく強めたつもりだけど、録音したのを聞いてみるとそれほど違和感がない。そんなものか。


2014.09.10 (Wed) あかすり週末

ここ三日ぐらい集中してやってた論文の作業が一段落して、明日はカラオケに行こう、確実に息抜きしようと決めたところ。一段落っていいサイズ感の言葉ですよね。一章でも一節でもなくて一段落。かならず次がある。やってもやっても仕事があるのが好ましいと言いたいんじゃなくて、どんな大仕事を終えたって人生が完結するわけじゃなくて、いつも次にすべきことが見えてくるんだから、なにを済ませても一段落というのは正しい把握だと思う。

しかし仕事をしているときの自分はほかのことがあまり考えられなくて、いや「ほかのこと」ってのはうそで、もっと特定のことで、いつも一日中心の隅にあるようなことが仕事に追われているときだけは関心が向かなくて、いいよ、って思ってしまう。もっと散発的なあっちこっちに向く関心、今読みたい本はとか、今度出掛けるところにどんなルートで行くかとか、そういうのは簡単に割り込んでくるんだけど。そのことが、自分としてはちょっと傷つく感じ。仕事をしてるときとしてないときをきちんと区別できればいいんだろうか。二つの世界を生きる人。仕事――お金を得るためのものだけでなく、社会の中で自分が与えられてる/選び取ってる役割を果たすための活動一般――ってそんな大事なものなんだろうか……(意識のメモリを食うものであるのは間違いないけども)。


2014.09.09 (Tue) 呑んべえペンダント

カウンターの数字が着々と増えてるけど、カウンター回してるのたぶん主に僕だし一日5hitとかそこらで喜んでるのってわれながらのどかだなあと思いました。日記サイト8年ぐらい続けてるのにアクセス伸びないもんだね。今のインターネットの構造からして見つけづらい場所にあることが一番の要因なんだろうけど。……たぶん。

今日も一日論文の内容を考えたりすこし書いたり調べものしてみたりツイッター見たり薬師丸ひろ子のディスコグラフィ確認してみたりツイッター見たり。夜、書いてたら手が止まって悶としたので積んであるふとんをまくらにして老いぼれiPod nanoで音楽を流し、しばし休憩。nanoというだけあって小さい、比較以前の端的な小ささ。手のひらに収まる手ごろさ。窓を背にしていても外の暗闇が感じられて、その黒さとひんやりした感じがわたしを小学生の頃に戻す。通っていた水泳教室の、冬の帰りの冷たさと、家に帰ってテレビでメダロットとかドンキーコングのアニメ見ながら夕食を食べた、暖かい寒々しさの記憶。今のすごく重複表現が多い気がする。ちなみにメダロットは一回しか見たことなくて内容も覚えていない。


2014.09.09 (Tue) ろれつ作戦

家にいる日はいつもするように、5時頃に散歩に出た。かれこれ浪人時代からの習慣だ。もっとも当時は決まったコースを音楽流しながら30分以内にまわるというストイックぶりで(今は平均1時間くらい)、それでいて勉強時間もまずまず確保できていたのだからえらい。世界が狭かったからこそできたことだと思う。当時は出掛ける場所といっても自転車で行ける近所のブックオフか、たまにバスで街まで出て大きい本屋に行くぐらいだった。電車の乗り方もよく知らなかった……、思い出話おわり。散歩に出た5時頃とはもちろん午後5時です。もちろんということもないが(弱気)。あっそろそろ5時か、散歩に行こう、と思い立ったものの、近頃はどうしてか散歩に出るのに目的地を決めないと外に踏み出せない気がして、つまり果たすべき用事がないと外に出るべきでない、出る理由がない!と信じてる自分がどこかにいて、きっと世間ずれしたんだろう。「散歩に目的地はいらない」が、なにか意義深い格言に聞こえる日がくるなんて。用事を済ませることがえらいのか?用事を済ませる人は済ませたい用事があるから済ませるだけじゃないのか。反省おわり。そして今日は小雨が降っていたので、スニーカーもぬれそうだし、気が進まなかったんだけど、気が進まないなりに体を動かしていって外に出た。窓から窺い知るよりも雨ははっきりと降っていた。傘をとってマンションの階段を降りていき玄関口を出ると、近所の川辺を一回りするというコースに簡単に心は決まった。川辺には流れる水があり立つ草木があり、引っ越して一人暮らしをするなら次も川のそばにしようといつか決めた。ことを思い出した。最近、『写真で見る植物用語』(全国農村教育協会)という本を入手した。植物用語。まだ読んでいる途中でもあり、一読して頭に入るのはごく一部で、見方が変わるなんてまだまだだけど、それでも植物への興味の注ぎ方が違ってくる感触があった。気になる草を見つけては立ち止まり、しゃがんだりして眺める。川辺には10や20じゃきかない種類が生息していて、じっくりと見ていればいくらでも時間がつぶせそうだった。いくらでも時間がつぶせるものがあるというのはうれしい。なんとなしに眺めていると、ときおりコガネムシやカメムシが葉の上に乗っているのに気づいておどろいたりする。そんなふうにしてゆっくりと見て回ったので、20分ぐらいで歩けるところを倍かかったかな。帰りにもう一つ発見をして、電柱と電柱の間を電線がわたっている。わたされた電線はつぎの電柱へ。ではこの電線をたどっていくと最終的にどこへ行き着くのか。行き止まりはあるのか。端的に言って……電線がそれぞれの建物へとじかに繋がっている、つまり外にいて見上げるといつもあるあの電線を直接通じて私たちの家庭に電力その他が供給されているとは考えたことがなくて、いや考えてみればあたりまえすぎるんだけど、なんとなく電柱たちが閉じたネットワークをいくつも形成しているような気でいたものだった。


2014.09.07 (Sun) むかご道楽

爪の形がふぞろいである。特に親指と小指、かな。親指に関しては高校生か中学生ぐらいの頃かな、爪の面が波打っていて、細胞組織?が突然変異を起こしたような趣で白くしわ寄せを受けたように盛り上がりざらざらして、爪切りで取り除くという対処もできないような、その様子を読み手にはっきりと了解させる表現をつくるのが困難な奇妙な状態にしばらくなっていたことがあり、ある時期に達すると爪が伸びるのにあわせてかさぶたみたいにカバー部分が取れてきれいな爪になったんですが、その時代の名残なのか親指の爪に関しては今でもゆるやかに波打ってるんですよね。って誰が僕のへんな形の爪の話を読みたいのかという話ですが、俺は爪の形が変だという意識が暮らしててよく湧いて出てくるので、一度は言葉にしたいなと思って書いてみた次第です。小指は波打っているわけではないが、右手の小指は真正面から見ると逆「への字」形をしており、先端の白い部分(切ることができる部分)にも偏りがある。

先週購入を見送った『死んでしまう系のぼくらに』買った。表紙がぴかぴかしてきれい。まずはざっと一読。だいいち僕は感性が低いので、まあ感性とは読書経験が乏しいという意味でも養われていない感性であるわけですけど、二度三度と読み返しながら味わっていくつもり。こんな腰の据わった読み方を、そもそも通常の読み方として実施すべきものだという構えが、まだ自分の中で固まっていなかった。音楽でも何回か繰り返し聞いて、曲展開とかが頭に入ってからおもしろくなってくるもんな。はっきりした問題意識も目的意識もなく、たまに眠いと思ったり別のこと考えたりしながらでも、一度目を通しただけでその本の真価が見抜けてしまうなんて、言葉にはしないけど思っていた。人生の時間は有限だから何が有意義な情報で何がそうでないかって選り分けることも大切だけど、きちんと咀嚼すれば有意義になるタネがあったときにそれに気づけないことも多い。それに気づくには、自分のからだが受け入れ体勢になっていなければならない。受け入れ体勢をつくる方法には人それぞれあるだろうけど、今の僕の場合なら「時間をかける」ってことなんだ。勉強や作業と同じで、きちんと環境を作って、こつこつ続けてるうちに入り込んで楽しくなってくる。

それにしても世の中に詩を書く人がいるのは勇気づけられる、元気の出る事実だ。自分だけの問題について考えることができるということ。それは結果的には多くの人に共有できる問題であるのかもしれないが、はぁ、何かを考えて発信する主な場がTwitterだということになると、タイムラインという、多くの人に見られている「かのような」場で(注:機械的な仕組みの上から言えば、タイムラインとは自分「が」見ている多くの人、でしかないわけだから)いつも書いていると、たんなる俗っぽい萎縮にすぎないけど、公共性の高い話題を、公共性の高い論法を、公共性の高い裏切り方を、なんてそんな方向に引き寄せられてしまうようだ。


2014.09.04 (Thu) 奥歯空港

欲が出てしまうよなあ、とか考えていた。ポテトチップスを袋から半分だけ出して食べたらもう半分も食べたくなってしまうみたいな。途中まで見て中断したアニメの続きが気になるみたいな。人間の暮らしに広範に見られる現象の一つに過ぎないのだけども……なんか持って回った芝居がかったような言い方をしているが、あからさまに書くのはなんだかおそろしい。具体性がわれわれに力を与えてくれることには気づいているけど。ただまあ考えてみると、長いことポテトチップスの袋にクリップつけて戸棚にしまっていたんだなあと気づいたりはする。まぁ、なんにでも言える切り口の話なんですけど。具体性を抜き去るとこうなる。


2014.09.04 (Thu) ブラーフミーモノラル

今日は日中晴れてて暖かかった――いや、午前中出掛けてて昼間に帰宅してスーツ脱いだら全身しっとりしてたので「暑かった」と言うのが適当なのかもしれないけど、でも真夏はもう過ぎたといえる手の緩めようで、日が暮れてくるともうはっきりと涼しいですね。秋や冬になって気温が下がると心細くなる。今年に至って初めてかな、秋や冬にならないで欲しいとすこしだけ願った。例年なら夏は動きがにぶくなるわ汗は噴き出すわでとにかくだましだまし過ぎ去るのを待つのが夏だったんですけど風呂にきちんと浸かるようにしたら熱にも強くなり、夏が苦でなくなったのと(でも夏にネクタイ締めて歩き回るのは苦なのだわ)、それで相対的に評価が変動したのか、とにかく今は秋や冬になったらきっと常にさむくてさみしいので秋や冬にならないでほしいなって気持ちです。

午前中は企業の面接に出てて……、そろそろ決めたい。決めるのは自分ではなく企業なのだが決まりたい。ひとつ面接や説明会行くとひとつ疲れてひとつ寝てしまう。お昼はチキンラーメン食べました。卵とネギを投入して、麺を食べてから冷やごはんを入れましたよね。午後からテキスト読解に入りました。NHK-FMをずっとかけていた。演歌と歌謡曲が流れ、クラシックの時間が訪れ、やがてJ-POPがかかりはじめ、ウルフルズが演奏しているときに突然音が途絶えて「あれれ?」とか呑気な間投詞を漏らした。地震速報でした。ラジオ聞きながら勉強は結果的に言うと集中が削がれてあまりよくないんだけど、魔が差してよけいなソリューションしたくなってしまいました。


2014.09.03 (Wed) ねんごろ午前

昼前に起きた。1時前というまあまあ健全な時刻に眠りについたし、すっと寝付けたはずなのに何だろう……と思いながら身を起こすと、机の上のチューハイ缶が目に入り、これかと納得する。お酒を飲んだ翌日って5時半とか早く目覚めすぎるときと今日みたいに頭痛くなるくらい眠りすぎる日とありますけど、今日のはたぶん寝る間際まで飲み続けていたせいだ。大量の酒を飲んだのではなく、すこしずつ飲みながらひみつのノートに備忘録を書き付けてたら少ししか減らなくて、電気消してからも携帯でツイッターとか見ながら残り分の消化を続けていた。ちょうどいい量を用意するようにしないとなあ。

今日はおとなしく家で本を読んでいることに。いいかげん論文を進めなきゃいけない。本を読んでいてもたよりないので、家の人がみな出掛けているのをいいことに音読してみる。読んでてところどころつっかえるのが目につく。自分の知性の容貌を目の当たりにしているようで、たしかに書いているときやしゃべっているときも、言おうとしていることの所在を見失ってつっかえてしまうことが多い。逆にとらえれば、音読の練習をしてつっかえずに読み続けられるようになれば、流れるように(別に速さは問わない)考えたり書いたりしゃべったりできるようになるのかもしれない。いまどき読書とはイコール黙読というふうに思われてますけど、音読という選択肢がもっと市民権得てもいい気がする。つまりもっと音読しやすい雰囲気ができてほしい。外国語学習でも口に出すの大事だし、人と話す機会が多くはない自分なんかは音読の中にことばを使う訓練を見いだせるとなにかとよさそう。もちろん人と話す機会を持つというのも踏まえた上で、そのときに使われる基礎体力を養うという意味でも。

線香花火がしたくなって、吉田拓郎「せんこう花火」を聴いた。曲があともどりせずに展開していってみじかく完結してしまう、好きな曲。短いので歌詞をすっかり覚えて、散歩中にずっと歌っていた。


2014.08.31 (Sun) 融通塗り場

今日何してたんだっけ。昼前に起きて、残っていたカレーを温めて食べて、お昼は昨日その存在を知った「マカロニ・アンド・チーズ」を作ってみようと考えながらグルジア語のお勉強を進めて、すぐに昼過ぎになったので近所のスーパーにマカロニとチェダーチーズを買い出しに行き、作った。

マカロニをゆでながらソースを煮立てていると様子がおかしく、箸を入れてみると片栗粉を入れすぎて(溶かなかったせいか?)牛乳の中で餅みたいになっていて、しかも塩の分量を間違えて規格外にからくなってしまった。マカロニをレシピの3倍の量にしたので他のも3倍にしたのがまずかったのだろうか。きちんと計らずに目分量で入れたのが失敗だったのか。塩に関してはこのくらい入れたらヤバいってのを経験で気づいてたんだけど、レシピの方を(いいかげんな目分量で)信じてしまった。ソースは作り直して、一度目のは捨てるわけにもいかないので気合いで消化した。マカロニ&チーズ自体は狙いどおりにできたけど、これでもまだ塩気が強すぎる気がする。マカロニはゆでるとふくらむということを考慮しなかったため皿一杯にできてしまい、食事としては結構ヘビーだった。これが本日のハイライト。ラジオから山下達郎と竹内まりやのおしゃべりを流しつつ、冷たい飲み物を適宜おかわりしつつ。

これで消耗したので休憩ということで昨日半分聴いて残していた工藤静香のベスト盤を聴き切り、そのあとグルジア語を再開して今日の分を終わらせ、親に頼まれて近くのコンビニに写真を印刷しに行き、このへんから何をしてたか覚えてない。ごはん前はインターネットしてたらしい。覚えてないっていうか実際に時間的なスキマはなかったのかも知れない。一日にできることは案外少ないから。

夕食、風呂、ちょっとした調べもの。あと人のブログを読んだりしてたらもう10時。一番やんなきゃいけないの論文なんだけど全然やってない。就活が一段落すれば……なんて思ってればいつまでも始まらないよなぁ。


2014.08.31 (Sun) オクラホマ手術

お昼から街へ買い出しに。本屋で最果タヒの新刊『死んでしまう系のぼくらに』を確認。予想してたよりも問題関心が主体になって突き進んでる詩となっていて、自分がひとに扱って欲しいなと思っている問題関心とは種類が異なっていたので買わなかった……けど、買えばよかったかなとすぐに思い始めた。まだ思っている。なにしろこの人の詩を僕は読める気がするのだ。

バッグを買いに入った東急ハンズがものすごく混雑していて、落ち着いて見るどころではなかった。人混みというものがとても苦手なので、人の密集が近づいてくるとスターを取って無敵状態になって蹴散らしたい思いがよぎる。人間が障害物となると、押しのけるにもめんどくさい。

ツタヤでCDを借りた。5枚で1130円(税込)と少し安くなるのでそれ目指して組み合わせを考える。何と何を借りるかっての、最後の方で決断がむずかしくなって滞在時間がびょーんと延びるのが通例だった気がするけど、近頃はそれほど苦労なく決断できているかもしれない。

いや、選択肢が複数ある中で、早く決めなきゃいけない、でも何を決め手にしたらいいのか分からない、僕は物を買うときはそれがありうる選択肢の中で最善であることを立証してから買うべきだとか思ってるふしがあるので、決定的な論拠が出ないとレジに向かえなくなったりする。していた。あせると視野が狭まるので、論拠はますます出なくて、滞在時間が延びる主な原因はそれだ。

今日はむしろ、欲しいものを探すという作業に集中できたようだ。


2014.08.28 (Thu) メソポタミア秋波

履歴書をノーミスで書き上げたぞっ。うれしい。しかし考えてみると誤字せず最後まで書き通すというのはおそるべきことだ。たとえば確率――1字につき誤字をする確率が1/100だとしてみよう――という考えを取り入れたとき、誤字がないというのは奇跡的なことだ。だけど生物である人間には集中力という武器があって、状況次第で確率をちぢめたりのばしたりする。

また、「確率的に考えて」一年に一度は足を踏み外して階段を転げ落ちる日があってもよさそうなものだが、人間には習慣という機能もあって、それと意図しないかぎりはむやみな足の振り出し方はしないように調整されている。もちろん足を振り出す範囲は固定的なものというよりは柔軟性もあって、ときに前に出しすぎて踏み外すこともあるが、そのときもとっさに落ちないように手すりにつかまったり、バランスを取ったりして自己修正する機能までわれわれ生物には備わっている。

奇跡も、ある特定の理論的(あるいは常識的)背景からそう評価されているものであって、べつに普遍的な視点から奇跡だと言えるものがあるわけじゃない。・・・まとまりのある文章を書いてたせいか、小論文みたいにまとめてしまった。


2014.08.27 (Wed) 球根球児

(遅くまで寝てるせいもあるんだけど)人生におけるテーマをみっつくらい並行して進めてるため日記が書けない日が増えているので、簡易版の日記、題材を絞って記述する日記もすこしずつ試みていく。

それで何を書こうとしたか忘れたや。最近、同じ考えを意識に保持しておける時間が困るくらいみじかくて、みじかいのです。実務をしないからなのか。こうして原因を特定することで思考が落ち着いてことばが安心するのも人間の生態。

この日記、歯を磨きながらぱぁっと最初の断り書きの着想が浮んで、片手間で書き始めたんですけど、この先書くことあったっけ~とか思いながら DPZ を見たりしているうちに歯を磨き終わり、ほんとにもう何を書こうとして、なんの確信で書き始めたのかすっかり忘れた。リフレッシュしちゃった。今日あわせてここ三日間は面接&説明会が連続してるんですよね。うん。なんかいろいろ書き出したら書けるけどあれですね、涼しくなりましたね。いや一時的なものでまた暑くなるんだろうけど、いっときでも涼しいともう夏が終わりこれから寒くなるって気分にひゃくパーなってしまうもので、こう、寒々しさって寒々しくて好きです。考えて書く気がない。ではまた。


2014.08.25 (Mon) シャチハタ長者

携帯変えました。電池の減りが激しくなってて、すこしツイッターとかさわってると一日もたなかったり、多少負荷になるアプリ(録音とか)を動かしてるといきなり電池切れ直前まで状況が落ち込んだりで、(就職活動とかもあるしぃ…)支障が出るとまずいなと、水位がそこまで上がってきていたので機種変更した。

電池だけが関心であれば電池パックを替えるほうが安上がりで無駄のない動きだったわけですが、前に使ってたやつは Android のバージョンが古くて入れられないアプリがちらほらとあったりして、 OS をアップデートする意味もあったわけです。

それなので新しい機種を手にして最初に感動したのは Wikipedia の「別の言語で閲覧」のとこでアムハラ語が表示できたのがまず感動でしたね。アムハラ語ひとつも読めないけど。表示もくっきりきれい。

そして前の機種と比べて格段にさくさくストレスなく動作するのが驚きだった。処理の速さってのは単なる量的な尺度ではなく、快適さという体験の違いをもたらすし、待たなくてよいということは時間の短縮という以上に動き回れる範囲を広げてくれる。ってことも知った。たいくつさに耐えられるのもひとつの能力だが、それとは異なる次元で効率というものは求められる理由があるんだなと。まあさくさくすぎて際限なく手が広がって結果的に時間食ってるってこともありそうですが。

機種はソニー社が作ってるエクスペリアで、プロバイダ?は au 社で、 OS が Google 社製の Android 、という関係で、この3社がおのおの作ったアプリが搭載されていて、それぞれ入れて欲しいアプリがあるものだから最初からかなりの数のものが入っててごちゃごちゃするし、そのうえ機能的にカブってるものもあったりして、各社思い思いに入れたため調和を欠いていて、ああ会社ってめんどくさいなと思ったりした。『方法序説』の一節をいつも思い出す。各自勝手に建物を建ててできた街より、一人でデザインした街のほうが圧倒的に調和がとれている。各社をまとめる製作総指揮たるデザイナーが存在することは、難しいのだろうな。


2014.08.23 (Sat) 夜遊びの燻製

昼下がりに新聞読みに近所の図書館へ出向いた。帰りに涼しい風が流れて、空を見て世界がなんだか美しかった。でもたいしたことじゃないんだ。「美しい」っていう言葉はなにか崇高とか、自然の雄大さとか、おおげさなことを言おうとしているように聞こえるかもしれないけど、それは意図しているところではなく。あるいはむしろ、崇高さも自然の雄大さも大したことではないとも言いたいし。なんだかんだで2,3年思い続けているのは、「美しい」って言葉をちゃんと使おうってことで、美しいという響きのおおげささにひるまずに、暮らしていれば美しいものには実際に出会うのだから。おいしいものとかムカつくものとか疲れるものとか気持ちのいいものとかこんがらがるものと同じように、あるのだから。

帰ってきたら、マンションの部屋の入口に宅配便の人が来てて(家の中には家族がいる)、あーっと思って用事を思い出したようなふりをしてUターン、さらに迂回して、宅配便の人が帰ってから部屋に入った。こいつぁ大人の対応なのだろうか! そうではなくて、なんか嘘をついた感じというか、要するにどう対処したらいいかわからん状況が訪れきってしまうまえにそれを回避した、その対応は、快適さをもたらしたけど、やっぱりなんというか、「どう対処したらいいかわからん状況」というのはこうした場合のほかにもたくさんあって、その中には簡単に迂回するわけにはいかないものもたくさんあって、そんな中で「避けれるものは避けていこう」という判断が賢明でない可能性にすでに気づいているのかもしれない。ただ同時に、郵便屋さんが荷物の受け渡しをしてるときに隣に来て終わるのを見届けるのもへんだし、先に入るにしても何と声をかけたらいいかわからんし……。わかんなかったので、わかるほうで対応しようと思って、そうした。冷静になっておもえば、こうしたこんがらがる状況って、未知そのものが目の前に姿を見せてるようなもので、飛びついて取り組みたくなるものであるはずなんだけどな。


2014.08.21 (Thu) チョビ髭モスク

ひさしぶりに渋谷に降り立ったのだけども、途上、いろいろな匂いが入ってきて気持ち悪くなった。入り交じったでは済まされない深く融合した匂い。

前から滑り込んできた男の人にアンケートのお願いですと誘われたときに直感的に怖くなって、首を振りながら通り過ぎてしまった。別に危険なことはなかったけど。

帰りには、前から滑り込んできた八百屋の男の人がその場で果物のセールスを繰り広げてきたのですこし付き合ってみたが、どうも質のいい果物で高級で手が出なかったので、そもそもお金持ってなさそうな身なりの自分なんかにセールスかけてくるのが不思議なんだけど、最終的に断った。断るまでの流れ方がいつもよくないなと思う。最初の方は「うーん、ちょっと高いかな…」というセリフが素直に出てきて、意図も通じるんだけど、これは買わないだろうなという確信が自分の中で固まってくると、相手を傷つけずにどう断ろうかという意識が前に前に来てしまって、一人でぎくしゃくする。というか、勝手に感想を言うのはいいんだけど、自分の意向が相手の形勢に影響を与えてしまうのがいやというか。自分の都合で相手の失敗を増やしてしまうのがいやなんだろう。できればなにもなかったことにしたい。

……という考えには行き届いてない点がある、そのことは自覚してるけど、なかなかなくせない。感じたことをしっかり表に出せてれば気に病むことはないと思うんだけどな。あと別立ての問題として、話の切り方が分からない。


2014.08.20 (Wed) アンチョビ・キャリアアップ

一部のツイッターで「~し」を順接のように使う慣行があるではありませんか。
「今日は仕事は休みだし、本屋にでも行こうかな」これはわかる。
「野菜は栄養もあるし、おいしいし、好き」これもわかる。
順接といったのは、「~し」を「だから」に書き換えても成り立つという意味。ことばの意味合いの面から言い直せば、判断の理由を与えている「~し」。

これが判断の理由から拡張されて、ものごとの原因を与えるときに使われると違和感が出てくるのか。
「昨日は飲みすぎたし、頭が痛い」
ここでは「飲みすぎた」ことが「頭が痛い」ことの原因であることが示唆されているが、書いた人は「いや並列してるだけですけど」と言い逃れることができる。だって「~し」に原因を与える用法は(現在の標準的な解釈としては)ないのだ。でもなんで言い逃れする必要があるのか。それは原因帰属という、事実にかんする一箇の意見をここで形成することを厭うてのことではないか。ある事実についてその原因はこれこれだと述べることは、自分が間違うリスクを冒しているということでもある。まあ、実際問題このくらい明白な例については「~し」を使うことは少ないと思うけど。

いい例文が思いつかなくて資料集めようとしたけど思いのほか集まらなかったのであきらめました。でもなんか、はっきりと何かを言明する、事実について断定する、ということを避けたがる傾向がわれわれの(若い)世代にはあるなってのは前から思っています。「と思う」「気がする」を多用するとか。これは、あくまで自分がこれこれという意見を抱いてると言ってるにすぎない、つまり事実について何かを述べてるんじゃなくて、私の心的状態について記述してるだけだ、って逃げることができますからね。あるいはそこまで穿った見方でなくても、「思う」とか「気がする」ってのは「これは間違っているかもしれませんよ」という前もってのお断りなので、そう言っておいた以上その発言が徹頭徹尾間違ってるということだけは免れられるわけだ。……で、こうしたことってのは自己反省から言わせてもらえば「絶対的に正しいことなんてない」とか「科学もひとつの仮説にすぎない」みたいな見方が浸透した結果、断定するのは知的に誠実でない態度だという認識が広まってこうなってんじゃないかなぁ、と。あいまいにしときゃ明白に偽なる主張をするという危険はとりあえず避けられるわけだから。

でも、絶対的に正しいことがないから、何かを絶対的に正しいこととして主張するのは誤った態度だってのはそうだけど、だからって何も確かなことは主張できないのだ……ってのは極端な対応だし。絶対的に正しいことがないなら、絶対的に間違ってることもないんだし。相対主義が正しいとしても、そっから汲みとった教訓としてはピントがずれてるよな。そもそも「主張する」ってのは「間違ってるかもしれない」ってことを含み込んだ概念なんだから、主張の中で誤りを恐れる必要はないのだ。


2014.08.19 (Tue) かぶりつき領地

説明会のため12時半に家を出る。1時間半で着くと見積もって出たら、案の定1時間半ほどで着いたが、それってつまり数分の遅刻である。ああ、今までなかったのにな。1時間半で着くところにきっかり1時間半前に出発するということは、1分の遅れも許されないということだし、順当についてもギリギリ滑り込みになるということなのだけど……、そういうのをたまに忘れる。

帰りに図書館に寄った。ひさしぶりの公共図書館。本がずらっと並び、図書館の意義ってひとつにはその品揃えにあるんじゃないかなと思った。新刊書店は軸足が商売にあるから、それに従って品揃えも商業がかる。売れる本、人目を引く本。その点で図書館は資料としての価値を第一に蔵書を選択できる……と、必ずしも実情はそうはいってないのかもしれない(話題の小説とかを複本で用意してたりするし:市民のリクエストに応えるという使命が……)けど、そうか。うーん。そのときは、図書館とは良心的であることを使命にできる施設だと考えた。古本屋についても比較できるだろうけどそこまでの用意もない。

しっかり朝昼食べてなかったし日も暮れてきてお腹がすいたので、そういえばカバンに忍ばせておいたバウムクーヘンを取り出してベンチに腰掛けて食べた。通り過ぎる人々を見た。

今日は電車の中で本が人並みに読めた、その点では調子のよい日だった。集中力。


2014.08.18 (Mon) 夢の立つ瀬

起床した。昨日眼をひらいた頭痛がまだ残っている。目覚めてから、頭痛がまだ残っている・・・と思いながら、窓の開いた汗のにじむ部屋でふとんの上で時間をかせいでいた。やがて、これからしなきゃいけないことどもが意識に忍び込んで、それを頭の中で転がしているとあるポイントで化学反応が起こって体を起こす。

ここ一週間ぐらい親の実家に帰省していて、そこではまとまって勉強する時間はやはりなく(また、団欒の中をいちいちくぐり抜けていく気にもならなかった)、合間合間に語学のテキストを読み進めるのがせいぜいのところだった。自分の住処に戻ってきた昨日は、このブログツール(Serene Bach)を導入してみたり、古本屋に行ってみたり、企業説明会の予約をしてみたりですっかり費やしてしまった。

ふとんの上で意識に忍び込んできた「これからしなきゃいけないことども」とは、学期末ごろに提出する論文のことである。論文を書くために、資料を読み込まなきゃいけない。ところがこの作業には終わりがない。ゆっくりとしか進まない上に、読まなきゃいけないものはいくらでもある。

こりゃ趣味の領域でも同じだろう。本を読むのは遅いほうだが、読みたい本はいくらでもある。一生費やしても読み切れないだろう。また、これから読みたくなる本だってもちろんある。終わりがない。きっと、ここまで進めたらステージクリアで、あとは義務から解放されてどこでも自由に遊べる、って地点が僕の人生には用意されてないのか。

用意されたものに取り組んでればいい、って思想がそこにはある。指示待ちだ。やることが与えられていれば、それに取り組んでいるだけで自分の本分が果たせるのはとても楽。

いやいやそういう素直な反省の話ではない。

しかし、帰省から戻ってきて、何かの精算もすこしずつ終えて、そうして見えてくるのは、この先もやることがたくさんあるなあということで。一つのテーマが完結すれば、また新しいテーマが間断なく見えてくる。論文を書き上げて提出すれば、その論文の至らなかったところが、書いてる最中よりもよくわかってくる。提出してあーこれでこの題材については究め尽くしたとはならず、かえって自分の成した仕事の小ささの前に立たされたりして。

べつにその小ささを嘆いたり、はかながったりというのが今回の趣旨ではないが。

一仕事終えれば、また次の一仕事が目に入ってくる。むしろ一仕事終えることは、次の一仕事に取り組む準備ができるということか。要するに人生の一区切りはあくまでAとBとの区切りであって、Aが区切れるとその先は荒涼たる平和が広がってるとかいうことはないわけで。書いてみると陳腐だけど、仕事してる最中は「これが終われば一区切りだ(=しばらくヒマになる)」と思ってることも多い。

そういう考えを踏まえると、「やることはいくらでもある」という認識は妥当なものなんだけど、それで真実の全部ではないよな、というのをさきほど思って。やるべきことは尽きなくても、私たちはどっかでそれを完結させることができるのだ。論文だったら、論文が書けるために最低限必要な読書量というものがある。言ってしまえばそこに達すればあとは切り捨ててもいいのだ。それ以上は、完成度を90%からすこしずつ高めていくかもしれないが、なにやらポケモンの「個体値」のような求道的な……まあ、もちろんそれはそれでなんだけど、その枠でやらなくてもいいのかもしれない。次の論文に取りかかったときに読むべきなのかもしれないし。

「やることはいくらでもある」ってのは確かに事実で、ただそれを受け止めるときに2パターンあるのだろう。ひとつは人生全体を通じてやることはいくらでもあるというので、これは生きてて退屈になることなんてないよってくらいの意味だ。もうひとつは、人生をいくつもの細かいパートに分けることができて、論文を書くという大きなパートから、今日の昼ごはんを作るという小さなパートもあって、その個々のパートの中でもやることがいくらでもあるって事実。昼ごはんだって最良の献立を用意しようとしたらリサーチが大変だ。例えるなら、実数の直線全体の中には無限個の点が含まれているけど、同様に実数直線の中の0から1までの区間の中にも無限個の点が埋め込まれていて、どちらの「無限個」も同じ濃度をもつ――つまり同じくらい大きい「無限」だ(非加算無限)、というイメージ。でも0から1までの間に無限個の仕事をこなそうとすれば1から先には進めないし、またそれ自身無数にあるパートのあいだを時機をみて移行していくことが生きる上で必要なんだろうと、これは前からなんとなく実感していることで。

それに「いつまでも終わらない仕事」にばかり取り組んでいると、それが行き着くところって原理上「時間切れ」でしかないので、心の健康にもよくないよな。ぼくも日本人なので、休むってことの意義を、存在感を忘れがち。一週間ぐらい海外旅行して、なんもやることないなって状態を作るのは確かに意味あることなんだろうな。


2014.08.17 (Sun) test

てすとだよ


Monde Toppe