楡男 2015年末(12月)

2015.12.30 (水)

手のうちを明かす、ということをかつてはテーマにしてきたふしがある。特に浪人してた頃の前後かな。大人たちは手の内を隠して結果だけを見せる。何が狙いだとか、どういう後ろめたさがあるとかは言わない。不自然にならない程度にデフォルメして語る。実際以上によく見えてる部分があるんじゃないか。その「見え」で自分は苦しんできた。世間にはすごい人がたくさんいる。有能な人優秀な人であふれているこの世界は苦しい。その魔法を解くために「からくり」や「しくみ」を暴き、そして一方では自分の正義として自分の手の内はさらすようにしてきた。さて今は自分がその大人になりつつある。ごまかしが習性の大人。今は、どうだろうか。手のうちを隠しているという心地はない。むしろ、手のうちがない、というのが実感じゃないだろうか。何かたくらむ以前の問題で、そもそも手の内がない。世界はつるつるだ。それは単に自分で気付かなくなっただけなのか。認識は積み上げ式に進展し、踏み台に使われた旧い認識はやがて意識されなくなる。学問よりも生活の面でそれは顕著だ。昔の自分が何を考え、何を指針にしてたかなんて、思い出そうとして思い出せるものじゃない。偶然にあずかって手に入れた、いくつかのカードは手元にある。せめてそれらは大事に持っていなければならないが。

実家滞在中に読むという名目で、本を買い込んできた。『数学ビギナーズマニュアル』『論理と集合から始める数学の基礎』『エピクロス 教説と手紙』『連続性の哲学』。まえ2冊は、最近読み始めた『代数学1』(雪江明彦)の副読本として。ああ、この流れ覚えがあるぞ。3、4年前、山本義隆『新・物理入門』を読もうとして微積分の知識が必要なことに気付き、杉浦光夫『解析入門』にあたって挫折するという(※)、いや本人としては挫折したつもりはなくて、なかなか進まないから飽きちゃったんですけど、世間的にはそういうのを挫折というのだな。人聞きの悪い(ぷんぷん)。とにかく A を学ぶのに A' の知識が必要になるよとくれば A を忘れて A' にすっかり遡行してしまう勉強上の癖があって、結局身につかないのですけども、かといってそういうのに意識的に逆行して大学の勉強ではつまみ食いばかりしてたらそれもまた結局ものにならずじまいでした。要するにあんまり勉強してないということか。してたんだけど、大学でやってたことは自分の興味あることからいつも微妙にズレていて、それはそれで有意義だったんだけど、興味がもうひとつなのをメインにやってるのと興味があるのをメインにできない(そしてメインにする度胸もない)のとで消化不良に終わってしまったのよね。ともかく今純粋に趣味として勉強ができるようになって、いい方向に転ぶかなあとぼんやり期待している次第なのでありました。

※『新・物理入門』は(高校の範囲をやや出ていると言われるが)高校物理の参考書。『解析入門』は大学の解析学(微積分はこの中で扱われる)の教科書で、ハードスタイルで読みやすくはないといった評判です。


2015.12.27 (日)

朝からとにかく眠い。8時過ぎぐらいに目が覚めて、9時前ぐらいに起きたんだ。前日は友人と一緒に酒を飲みすぎて、アルコールがまわって3時前ぐらいまで眠れなかった。眠れないのでヘッドホンでCDを聞いたりラジオをかけたりテレビでNHKの知的好奇心っぽい番組(時間とは何か?って話に科学の立場からアプローチするやつ)を眺めたりした。哲学科行った結果として、こういうの見てもすなおに降伏してしまわなくなったというか、番組を通じて与えられてるものだけじゃ判断材料が足りないなということはわかるようになった。哲学科じゃなくてもそうかもしれないが。ただ、「確定的なことは言えない」というだけなら穏当なのだが「この人ほんとに時間の問題わかってんのかな」とか、テレビでしゃべってる人の知的資質を疑うような言葉を思って、最近流行りの言葉で言えばマウンティングを心の中ですぐにはじめてしまうのが私のケチ臭く残念なところだと思う。目の前のものを価値がないと判断して、「考えなくていいこと」の箱にはやく入れたがる。しかし、こうして自分で自分のこと残念って言うのはいいけど人に言われたらまた別の意味で残念に感じて長いこと引きずっちゃうだろうな。そして実際に、他人に対しては残念などと言うべきではないと考える。お前の期待に添えなかったから何なんだと。要するに偉そうというか自分が世界の司会者であるかのような態度は大変腹立たしいですよね。「クソリプ」という言い方とかさ。俺はお前の世界を賑わすために生きてるんじゃないんだが。また否定的なことを吐き出してしまいました。眠くって朝と夕の一日2食カップ焼きそばを食べてしまった。特別うまくもまずくもないな。ほんとうは代数学の本の続きをやりたいんだが、エネルギーがみなぎっていないのでツイッターを見たりしてゆるやかな消耗を続けている。「やりたいこと」を二の次にするのが得意だ。んーなんか目的を達することではなく、目的を最もきれいな仕方で達することだけが重要だと思ってしまっている。最良のコンディションで取り組めないんだったらやる気がない。なんか、切実な意味でやりたいことって観念が希薄なんだよな。自分の人生が他人に邪魔されても怒れないというような。家族が邪魔してきたら怒るんだけど。


2015.12.23 (水)

髪を切りました。散髪のオーダーするのって難しくないですか。「こんな感じにしてください!」って雑誌の切り抜き出すのも(今はスマホの画面か)気恥ずかしいし、べつになりたい髪型とかないし(なりたい髪型が自分にあると考えるのがすでに気恥ずかしいし)、でも髪切りチェアに腰掛けた以上どんなふうにしてほしいって要求を伝えなきゃならないですからね。要求なんて簡単だ、髪を、切って欲しいんだよ! そして瞬時に返ってくる「So What?」。そういうことだ。エビデンスもないのにアイデアを話しにきたのか。コンサル業界とかに勤めてるわけじゃないですが或るアイデア「髪を切りたい」に至るまでには何かしらの“気づき”や“きっかけ”があったハズで、そこを美容師は知りたいわけですよね。そうしないと仕事にならないし、適当に切って「違うじゃないか!」ってキレられても美容師としては注文は特にないっすって言ったじゃん!と涙を流すしかなくなる。「違う」って言うからにはバクゼンとであれ、どんな仕上がりが望ましいのかが頭の中にあるはずなんだよな。それをあらかじめ確認し明確にしておく準備が必要だ。でもそれが結構負担なんだよね……。僕が人と話すの苦手なのは、頭のなかにあるイメージをその場で具体的に展開させながら話すのが苦手ということにあって、だからアイデアとか考えを人に話すときはまず机の前で整理して……ってことになっちゃうんだよな。それも実際に話す段になると飛んじゃいそうになるし。

話が逸れかけてきましたが、まあとにかく床屋で注文するのって難しいですよねってことが言いたかった。明文化されたレシピが示されておらず、髪型を整えるときのポイントを美容師の断片的な発言から読み取らなければいけない分(もみあげの「自然な感じ」って何!?)、それは料理よりもずっと奥ゆかしい技術だと思うのですが、そういう趣旨のことを「理系の料理」という書名を出しつつツイッターに書いたらその本の編集者と思われる人にふぁぼられました(お気に入りに入れられました)。こういうとき、その書名を出した発言だけがふぁぼられて前後は無視されるのが常ですが、それが可笑しいというか、非難する意味合いはないんですが、奴ら俺たちをビッグデータか何かだと思っていやがる……という言いまわしを風呂上がりに思いついて服を着ながら一人で反芻しました。発言の中身が読まれてる(と期待してよい)ぶんビッグデータというのは誤りだけど、文脈をもたない子たちとして扱われているのだろうなとは思う。関係ないけど私のTL(タイムライン:購読してるすべてのユーザーの発言が流れてくる場で、ツイッターのトップページ)が……なんか50年後の未来へ向けてツイッター用語に注を入れてたら読みづらいんですけど、私のTLが云々と発言主が見てるTLに言及して一般的なこと言うのってこれもまた滑稽というか、そのTLあなたしか見えてないんだけどって思うよなあ。私たちは自分の見えてる世界しか見えていない、そしてその世界は他の誰からも覗き込めるものではない、でも私たちは「同じ」世界について語りなにごとかを共有する……みたいな、哲学の本でよく出てくる構図とパラレルになっててちょっとおもしろいなとは思うけど。でも(少なくとも)ツイッターの場合、その見えてる世界は自分自身がコーディネートして構成したものという側面があるから、あらあら奥さん!って気持ちになってしまうのかもな。

一回をあまり長くしない方が続けやすい気がするので今日はこれで終わり。どかっと仕事するより小出しに処理していくほうが全体として負担は軽いらしいのだ。洗濯とかも。そして、それは楽なだけでなく上等でもあると信じて。


2015.12.20 (日)

昨日書いていたやつを破棄してリライトだ。身辺雑記のようなやつがいい。継続可能なやつがいい。何かを説明しようとすると……、何かを説明しようとすると何がどうなってよろしくないんだという説明をしようとして言葉に詰まっているのがこの図ですよ。そこで昨日はカレーを作りました。辛いカレーができた。おいしいカレー、作っちゃったと思った。鷹の爪1つ、ししとう12個ぐらい、それとカレー粉を多めに。辛さに寄与しているのは大部分鷹の爪で、ししとうは5個に1個ぐらい当たりがあってそいつは辛いのだけども、あくまでスパイスの一種として。この話を通じてなにを言いたいのかといえば、今までの僕なら「カレーを辛くする」という目的をもったとすれば、それを実現するために思いつく手立てをすべて並列で実行してしまっていただろうと。唐辛子を2、3本入れる。辛い。ししとうを入れてみる。ちょっと辛い。カレー粉を多めに入れる。多少辛い。3つの方法を思いついたので、全部やってみましょう→→大変辛い!!そういう失敗の仕方でした。実際は「全部やってみましょう」なんて議決せずに、カレーを辛くする3つの方法を思いつくところで考えは止めてしまい、あとは手が動くのを見るだけって感じでしたよね。身辺雑記的なものをと言いつつ、書いてると自然と考えはじめてしまうので、考えるのを恐れないことなのでしょうか。だいじなのは。書くために。あと短いスパンで結論が出ると思ってはならないということ。それで結果としては絶妙に辛い、鼻の頭から汗が吹き出るけど刺激が強すぎて味がわからない苦痛の門にもならず、バランスの取れた俺の好きなカレーができました。俺のカレーの話はここまでです。とにかく料理するうえで必要なバランス感覚というか、部分の組み合わせは全体に影響を及ぼすんだぞ、要素の単なる足し算じゃないんだぞってことが体得できてきたのでそれが嬉しいんですが、それが嬉しくてそれを報告するために日記を書いてます。事物の性質が実際にどうであるかではなく事物に対して俺がどうなってほしいかを法則にして次の一手を決めていたみたいなさ。そういう生きざまだったわけじゃないですか。そうやって眺めていくと単に「俺、成長したな」って言いたかっただけなのかね。まあそうだよね。それでその成長のためにはいまの仕事をしてることが関わってはいるだろうなあということも申し添えたくなる。事物の性質にそって事を進めていないとそいつは実に素直に破綻してしまう。まぁ仕事であってもなくても実相はそうなのかもしれませんが、その破綻してることのとばっちりがこれもまた実に素直に返ってきてしまうというね。ことだからね(息切れ)。要するに教室で訳語の選定をミスっても自分が襟元を正すしかなかったけど、それは結局は自分がよりよいものを提示するためにする意欲的なことがらで、そうした場所に差し迫った価値を見出せなかったんだろうなあ。他人に怒られるとか拘束時間が増えるとかそういうのがないと深刻だと思わないっていう。


2015.12.06 (日)

休みの日にひとりで出かけて電車に乗っていると、美しい人に目を奪われてしまうことがある。目を奪われてどきどきしてしまう。というかなにか今日は人の顔を見ることが格別の意味を、どうやら持っていた日和だったらしいが、しかし休みの日に電車の中で美しい人の顔などを見てどきどきしてしまうことがあるのは確からしい。学生の頃は毎日のように、そうだったわけだが。美しいというのはどういうタイプかというとまぁひらたく言えば美人というやつで、顔立ちがはっきりしていて姿形もすらりとして聡明そうな人なのですが、それと同時に、見てああ確かに美人と言われるタイプの容姿だわと認識できるだけでなく実際に美しいと感じてもいて、その点を強調するために美しい人と自分の価値的評価を込めた表現を使ったわけなのですが、何だっけ。その美しさというのはきっと自分の欲求とあいまって現われているものだとは確かに言えて、ただそれを認めた上でそのときの感情は美しいという意外に表現するつもりはなく、つまりそういう仕方である美しさもあるってだけの話じゃないすかね。でまあそれはいいんだけど、そういう意味で美しいと言える人を見つけるとその姿をじいっと見ていたい気持ちになるわけですが当然そんなことをするわけにはいかず、本とか携帯とか窓の外とかに視線を固定することになるわけですが、そういう“ずっと見てたい”欲求の埋め合わせとしてわたしはアダルトな映像を見たりもするんじゃないかって思ったよ。裸はいいから顔を映してほしい。いいってこともないが、顔がよく映るビデオが好ましいとは思う。この話終わり。


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