楡男 2015年11月

2015.11.23 (月)

享楽的であるから悪いのではない。時間を無駄に使うこと自身が悪いのではない。「勉強でもしてたほうがまし」という認識では何も進まない。勉強することの意味をもっと深いところでつかまなければいけない。ぼんやりと目的地を意識しているだけではダメだ。よりよく生きるために、満足とか充実感とかそういうものを指針にしたらいいと感じる。享楽的な生活にはそれがないから。だけど満足とか充実感といったものもまたひとつの欲求充足だとしたら、それを求めて生きるのも結局は享楽的なそれと同型の、なんだかむなしい生のひとつとして映ってくる、のは図式におおざっぱに当てはめてしまうゆえの杞憂なのか。別の話。年末調整の書類(ほんのささやかなものだが)を前にして「めんどくさい」がわいてきて、今すぐふとんをしいて寝たい気分に駆られた。めんどくさいのには昔から弱い。(だから勉強もいつも中途半端だ。)めんどくさいを恐れる心は、享楽的な心と根っこは同じだ。そして享楽的な心は、時間と向き合うのを避けたい心とも隣りあっている。不確定なものに賭けるのがこわい。空いている時間があれば、結果がほとんどわかっている過ごし方でそれを埋めようとする。それで、何時間はつぶせるだろうとか、夜まではそれでもつとか考える。そうそう。選びたくない。責任を引き受けたくないそういうことか。でもよくわからない。自分が選ぶことで迷惑を被るのは自分で、自分の人生の中で自分がしたことの責任はすべて自分にふりかかってくる。自分しかいない世界。それなら選ぶことの重圧とか、ましてや責任なんて考えは成立しないように思えてくる。なら自由を恐れる理由もない。よくわかってないからむやみに恐れているのだろうか。それならたとえば自分が自分を幸せにするとかも、人間が言語——他者というものをあらかじめ織り込んだ枠組み——を使うゆえに見てしまう仮象で、よいとかわるいとかべきとかいったものはすべて行為の中にのみ存する。そう考えたい気がする。「何をすべきか」と考えているときの自分の、芯のなさ。それが何を意味しているか。


2015.11.22 (日)

まだぎりぎり11月。いや、あと1週間はあるな。前回、11月に入っていきなり日記を書いてしまったので、今月が長く感じる。で、そんなこともいちいち拾って書いていかないとまわらないな、と最近よく思う。

東京外国語大学の学祭を覗いてきた。昨日の夜から実家に帰っていて、でも実家だとお菓子食べながらテレビ見るくらいしかすることがなくて(自分の部屋ももうないし、あったとしてもせっかく帰ってきたのに部屋にこもってるのはどうかなと思うので)、いつも午前中には発ってしまう。それで駅前で1時間カラオケして電車に乗って帰宅して、曇り空の外薄暗い部屋でやることないなーと気持ちが沈んでくる。沈んでいることに気づかず、正しい判断のような錯覚をもちながら誤った判断をする。数日前から、来るはずの連絡がこなくて、何度目かでまた女性にふられているという状態できている。ふられるという一回性の出来事というより、確定的な証拠がないままなんとなくじわじわとふられてしまう。女性とちょっと近い関係になりかけたり、なろうとするときはいつもこんな調子だ。いや、いつもではないけれど、はっきり決着をつけられるときはあっても、でもその前にはこの“ゆるやかにふられる”状態が続いていたりして。ただ、こういった話をここで掘り下げるつもりはあまりない。とにかくそんな状況があって、そういうのがあると結構堪えるタイプなので、愛情とか認められている状態がなければ活動的に生きていかれないというような、書きながらなんか自分は典型的な……自己評価の低いタイプの人間だとわかりすぎてしまっていやになってくるのですが、家にいても落ち着いてなにか(勉強とか)をできるとは思えなかったし、とりあえず昨日から干しっぱなしの洗濯物を立ったまま片付けて、携帯が鳴るかどうかを気にしながら、地図を出して、天気予報で雨が降らないかどうかを確かめて、部屋を出て降りてきて自転車に乗った。なんかこう遊びに出たからといって自分の人生を変える体験なんてないだろうと諦観してしまって、だから出ることにも積極的な理由はなかったのですが、出てみると外は思っていたより明るかったりして、季節が下り冷えてきた匂いの中を自転車ですべっていくのも嫌いではないし、そういうことはあるんですけど、結局のところ家にいたほうがいいのか外に出たほうがいいのかは突き詰めていえばわからないよなあ、とも。むしろ、家にいようが外に出ようが沈みかけた気分は晴れるわけじゃないので、自分がどうするかという次元じゃなく一刻も早く携帯が鳴って欲しいというのが僕の願いですが、読者としてはいろいろ突っ込みたくてイライラするような文章だと思うのでもうそろそろやめにしようかなと思います。ところで今日は昼ごろから半日断食にしてるのですよねー。思い付きで。正確に言えば、くだんの学祭に来て、各国の料理とかやってて、ベンガル語専攻の店でやってる魚カレーというのを食べてみたかったのですけど、売り切れになってて、他の店を見てみてもこれは!と思うようなものが……これを食べておかなきゃ自分の人生は進まないなと思えるようなものは見当たらなかったので、食べ物を買うのはやめて帰ってきたのですが、自分人生のこと考えすぎだし自分の人生を所有しているがごとき書きぶりですね。とにかくものを選ぶときに基準を恣意的に狭めすぎだし、結果として何も選べないということは多い。そんで外語大の門を出たら「なさけないな」とつぶやいていたりするんだ。結局「なにも食べない」ことを選んだのか、それともむしろ端的に選べなかったのか、どっちなのか、後者なんだろうなと感じて、今日は寝るまで何も口にすまいと決めたんでした。とにかく選ぶこと。ちょっとトリッキーだけど、禁欲もひとつの選択だ。

あーあと外大の学祭は、結局15分くらいしか居なかったけどいい雰囲気でした。お酒もたくさんあったし。料理、音楽、静かなキャンパス、文化が高くてよい。もし子供が生まれたら外大に入れたいなと思いました。入れたいっちゅう言い方がまた、自身を補完するものとして子供を捉えるようで、それが害悪になったりするのかもしれないなと反省の芽をまたひとつ見つけたりはしましたが、それはともかくフラれたとか言いつつ子供ができたらなんて妄想してるのがいかにも不徹底でふわふわしてる自分だなと思いました。


2015.11.3 (火)

書くというとなにか人生を包括するようなものを書こうと意気込んでしまって、その課題のささやかな大きさを前にして気力は続かずしぼんでしまう。2、3行書くのでも本来構わないはずで、内容がすぐれているよりも続けることが大事と、意識するようになった。とはいえ一本書いてしまえば、いっぺんくらいは見直して推敲するという作業が必要になるので、ツイッターと同じレベルで気軽に、とはいかないのも事実。

今回4連休になったんですけど休み中は暴食気味で、夕食のあとにカップ焼きそば買ってきて食べたり、夜にスーパーで洗剤とか買ったついでにカレーパンと缶ビールもかごに入れてみたり、昼食と夕食のあいだにマクドナルドでてりやきマックバーガーセット一式を仕入れてきて食べたり、とにかく一食多いといった具合で、そうして量が多いと同時にジャンクフードでもあるという具合だったわけなんですね。でそういう間食摂ってるときってほんとうにお腹が空いてるわけではないんで、カップ焼きそばが出来上がって箸を入れるころには「やめときゃよかったな」という心持ちになっているものなのですが、でも食べ物は難なく胃に入っちゃうんですよね。健康に悪く味の濃いジャンクフードとはそういうものかもしれない。今日は夕食に鮭のあら汁を作って、それは最高だった(特にごぼうが)のですけども、でもその最高さとうらはらに量はあまり入らないのですよね。満足してしまう。栄養のあるものは少量でも満足しちゃうって丸本淑生が。暴食の裏には心のすきまが、何かが足りない、好きな人にメールでも送ってみるのがどうせ正解なのだろうが、みたいな話をしようと思ったが、お腹が空いたらジャンクフードを缶ビールとともにかきこむのではなく滋養のある料理でも作って食べるのもまた正解なのだろうか。

それでも低劣な欲望は消えることがないから映画を借りてきた。家にいると、やることがなくてその所在なさを下半身にぶつけてしまう。それでなにが解決するわけでもないことを知りながら……と書くとまるで紋切り型で恐縮だが、書いてみるとまさにその通りでしかない。別に何かを解決させたくてぶつけてるわけじゃないと強がることもできるが、実際は私がふだんそのへんの事情に都合よく鈍感なだけだろう。今日は一日も残り数時間となって、読みさしの『コンピュータシステムの理論と実装』の続きに取り組むつもりでいたのだが、明日から仕事が始まると思うとそわそわ落ち着かなくて、仕事が憂鬱とかではなくカウントダウンに俺は弱いんだよ。何かが差し迫ってると思えば思うほど手が止まってしまい、永遠の時間が俺に与えられていればいいのに。刻々と迫ってくる時間から開放されるから散歩は好きなんだ。とにかくともかく勉強が手につかないので映画を流して時間を縛りつけ、自動的に寝る時間が来るように仕組むことにした。映画見るのとかってふだんの生活じゃ優先度低いんですけど、それは私にとって必要な唯一の重要なことが映画の中には書かれていないだろうという直観、というよりは偏見のおかげなのですが、でも外に出掛ければ何かしら新しいことに気付くのと同じように、映画を一本見れば何かしらのものを拾って帰ってくることができている。そしてそういう経験を重ねることの重要さを、大学入る前後あたりの僕は気にして強調していたはずだった。今は今、昔は昔だけど。しかしなんにつけ極端に走りがちで、「生涯の一本」になりそうなやつしか見る気はない、みたいな態度で臨んでしまうのは、まあ、ありていにいえば「よくない」よな。でもその「よくない」という診断って、「ゆるくいったほうが成功する」みたいなナンパな人生哲学が背景にあるようでそれはいやだ。かといって硬派なのもそれはそれで好きにはなりきれないのだが。どんなのが正解であれ、特定の立場を称揚するというしぐさになじめないんだよな。


2015.11.2 (月)

出身校の学園祭にちょろっと足を伸ばしたのですけども予想とはうらはらに特に何も、焦がれるような焚きつけられるようななにかは感じなかった。これは私の出身校の校風にもよるのかもしれないけど、あんがい私の青春は私の上に乗ってきちんと運ばれているのかもしれない。


2015.11.1 (日)

学生の頃のような、自分のことばかり考える時間をもちたいというか、学生の頃のような、暇をもて余して散歩に出て、そこでまたひとつ大事なことに気づいてしまうとか、日々新しいことに気付いてそれをメモ帳に書きとめて、メモ帳のページがどんどん進んでいくような、生活はとても豊かだったなあと思うようになって、半分は懐古趣味なんだろうけど、それが懐古趣味であるかどうかを検証するつもりはなくて、なんかそういうのよかったなあと漠然と思っているのですけども、同時にそういうのって単なる学生らしさというか、学生という人生の特定のステージに局限化されたローカルなありようでしかないんじゃないかって思って、わたしが自由とか豊かさと思っていたものって単に「それっぽさ」で片付けられてしまうものなんじゃないかって思うような、思ったことがあったのですよ。つまり、自由とか創造的であること自体はさほど重要ではなく、学生っぽさに俺はあこがれているのだろうか。だけど自由とか創造的であることが学生らしさに必然的に含まれているとすれば、ただ「それっぽさ」という像だけで学生らしさを求めている(かもしれない)俺は、自由とか創造的であることを抜きにして学生らしさを考えるという矛盾をここで犯していることになるんじゃないだろうか。矛盾したことを僕は考えていて、そんな考えは維持しえないのだからさっさと捨ててしまうべきということになるんだろうか。なにが疑問だったのかはなから忘れている。自由であること、創造的であること——幸運なことに、知性的であることは少なくとも手放さずに(あきらめずに)済みそうだが。


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