近頃しゃっくりがよく出るなあ。しゃっくりは胎児の時期に羊水を飲み込まないようにある機能で、大人になるにつれてなくなっていくんだって先日NHKの「ドクターG」でやってましたけど、そういう意味で(どういう意味だ)私はまだまだ子供なのかもしれません。のどぼとけもないしね。
和菓子がちょうどいいことに気付いたんですよ。食事が、だいたい夜に食事していると物足りなくなって、目の前に食べ物があるのに次何食べようかなと思案しているぜいたくの権化みたいな生きざまをさらしているのですが、……そこで買いに行くものってふらふらとコンビニに出てアイスとか、カップラーメンとか、フライドチキンとか、スナック菓子とか、あるいは本格的に牛丼を食べに来てしまうとか、そんな調子なんですけど、まあアイスに関してはすべての人類にはアイスを必要とする夜があると思うので別として、カップラーメンやまたは惣菜パンのようなインスタントで大量生産なものは、ましてや毎日のように摂取するのは美意識的に踏み切れないし、牛丼を選択するといっぺんに2食いただく形になり、それはいかにも粗暴で気が進まないので、近頃だとコンビニまで来てぐるぐる迷っては帰ってくるなんてケースもあるのですが、そこで和菓子をチョイスしておくとうまく購入に至れるということがわかってきた。ここで和菓子というのはうさぎを形取ったりした、食べ物としての輪郭があいまいで抽象的な、美的鑑賞をも視野に入れて作られたようなものではなくて、おまんじゅうとか、団子とか大福とかそういうやつである。なにが良いのかというと、存在に意味がありそうなところでしょうか(整理がついてない)。自分がなぜカップラーメンやスナック菓子を選ばないかということを並べたてているときに、そうか自分はものを理念で選んでいるんだなということに気づいた。というか露呈した。べつにジャンクフードが不幸を運んでくるわけじゃなくて、コントラストをつけて言うならばジャンクフードそのものが不幸なのだ。効用よりも思想が大事。今私の目の前にある、なにやらうぐいす色のソースをまとった串だんごだって、機械で自動生産なのかもしれないが、生っぽいのがいいんだよね(整理がついていない)。あともっちりしていて食べごたえがあるのもいい。けど場当たり的で言ってることに説得力がないね。つづきはまた考えよう。数日後にはまた違う「真実」を見つけてるかもしれないし……。
思いがけないときに思いがけないものを思い出すもので、こないだの資格試験で、机について午後の部がはじまるころに、高校の頃好きだった人のことを思い出していた。今思い出してもほんとうに非の打ちどころのない完璧に魅力的な人だったなあと思う。いや何回思い出したってその頃見たことしか思い出せないんだから、自分のものの見方が劇的に変らないかぎりは印象だってそうそう変わるわけがないんですが。私のその人に対する印象は、うますぎる話には裏があるだろうってぐらいにメタメタに手放しの評価で、だからまあいい部分しか見えてなかったんだろうなあと、冷静になればというかなるべく妥当な結論に辿り着こうと推論を重ねればそういう気持ちの落ち着け方になるんですけど、それにしてもそのあと好きになった何人かの人(に対する僕の見方)を思い返すと、まあそれでも同じ人間だなと思えるので、それに比べても(比べちゃいけないんだけど(どういう意味でかな))彼女はいわば天使のような存在だったなと、……いま、酒を飲んでいるのかといえばそうだと答えるが、この話をするのは風呂に入るまえから決めていたので、読んでる人は読んでください。とにかく初恋という言葉は存在するんだなと、そんな感慨をもった試験開始前なのでした。だけど世界をクリアに理解するという理念のもとには、この初恋というやつは厄介者なんだよな。同じことをしてもなぜ1回目だけ違う結果になるのか。へんだな、と考えて、初恋をバイアスとして理解するのも、なんだか確かにそれがすべてでもない。1回目だけ違う結果が、なぜか出てしまうのだ。でも今好きな人に、初恋の人は天使だったけど君はそうではない、と言ったら、怒るだろうし、怒らないまでもふさわしくない。ふさわしくないけれども事実だ、けどそれが事実であることはふさわしくない場面にそれを口にすることを正当化するものでもない。世の中には事実だけども言ってはならないことがある、のではなくて、それは端的に間違っているのではないか。とらえかたが片手落ちだから、口にするのがはばかられるんだ。ところで一方で、初恋の人は天使だけども今自分が好きな人はそうではない、と認めるとしたら、これは自分にとってもよろしくない事実なのではないだろうか……、書いてたらわからなくなってきた。今好きな人も天使なのかもしれない。というか天使と称することがなんかこう気持ちを盛り上げてくれるんだな(しょうもな……)。
継続的に書ける状態になるまで待ちつづけようと思っていたんだけど、ストリチナヤを飲みはじめたら他にすることがないので書くことにした。ハロー。楡です。(あいかわらず名乗ってしまう) 「他にすることがない」と言っているときはたいがい探せば「ある」んだけど、でも頭の中を見回して他におべんきょくらいしかすることないな、と思わせた暮らしぶりの勝ちですわ。そしておべんきょは酒を飲んでるとできないので必然的に日記を書くぐらいしかなくなる。必然的にとはね。うーん、そういうわけでツイッターへの書き込みもそこそこに資格試験のお勉強を中心とした日曜月曜を過ごしておりました。うーんなんか目標を立ててがんばる!みたいのが性に合うのか合わないのかはよくわかりませんが問題を解く、というのは健康にいいなっと気付きました。正解のある問題に取り組むのは。なぜなら正答できなかったときは自分の考えの筋道のどっかが間違っていたことが保証されているからであり、その間違いを乗り越えるかさもなくば逃げるか、という二択を通じて自分を鍛えられるからです。いや「成長」できるからイイと言いたいというわけでもなくて、こう、なんつうの、「成長」したいわけじゃないんですけど、鍛えないとどんどん衰えていくよね体とか頭脳とか、そういうことです。その試験というのが経産省がやってる情報処理のあれ(不必要に言葉を濁す癖)なんですけど、わたしの人生のここ数年は論理的な部位を鍛えてこなかったねってコトを、やってて痛感しました。一つの答えに詰めていくことより違和感を感じることを重視しつづけて、「確実に言えることなんてほとんどなにもないな」という空間にかなり振れていましたね。いや、ないんですけどね実際にねぇ。でもそのなかで、たとえば 128 という数を 2 進数に直すとどういうふうになるみたいなのは人によって異ならない答えがあって、そういうのが私の中にも“是”なるものとしてあるってのは、なにか、「これこれの仮定を置けば」とか「なになにというふうに言葉遣いを定義したうえで」みたいな留保をつけて受け入れられるような、つまり数学は人間の頭の中で構築されたフィクションの一種だよみたいな納得の仕方で受け入れているんだろうかといえば、そこまで割り切れてるわけでもなく、やっぱまだ釈然としない心境のまま勉強してたりします。自然科学が切り開いてきたおどろきの事実の数々に僕はしかしおどろきたくないという意地悪のようなものも含みつつ。まったく個人的な好みでいえば、たとえば哲学は常識的なものごとの検討からはじめてまったく意外な結論に辿り着くところにその精髄があるみたいなラッセルの発言が(確か……)ありますけど、そういう言いかたよりも、驚くべき事実があって、でもよくよく検討してみると不思議なことではないんだねって納得して終わるみたいなイメージで、知的なことがらを捉えていたいですけどねえ。まあ一つの探求のどこの部分にスポットライトを当てて語るかの違いだけなんでしょうけど。勉強するのに年がら年じゅうわくわくしてなくてもいいじゃないよ、なんて思ってしまう。やっぱり意地悪ですね。あと書くこと忘れたというか書くことはいくらでもあるというか一つのトーピックを掘り下げるのにもこのくらい字数と時間を費してしまうわけだから、書くべきことの総量は置いといても書くスピードがネタの投入に追い付くことは決してないんだろうなあとは思うわけなんですが、ウォッカはイクラとかつまみにして飲むといいんですかね(思いつき)、ロシアだし。でも高いもんな。でも一回外食したつもりで試してみたいな。ウォッカ飲む用にショットグラス買ってきたんだけど、けっこう酒が進むので危険かもね。容器というものもまた力をもって……、話がダレてきたのでそろそろ終わりにしますけど、毎週のように行ってるカラオケ屋で清算のときに「いつもありがとうございます」と言われたのがとてもうれしかったというか、後をひいている。店員さんかわいいから。なにかの店の常連になるというのが初めてだ。