楡男

2015.08.31 (月)

私は何を得たのだろう、と振り返りながらプリングルスを平らげる。忘れていたのが不思議なくらいいまさらなのだが、行為する体勢にあるときと反省する心がはたらいている時とが別べつに立ちあがる性質にあるのがいつでも問題だ。お菓子は幸せを与えてはくれない。ちがう。過大な期待をお菓子に投げかけただけだった。ただ少くともお菓子の楽しみは朝昼晩の食事の楽しみに代わることのできないものであり、それを無理やり代えようとしたとき話は冒頭に戻る。夕飯の足りない分をプリングルスで補おうとしたのだが、それが無理くりなやり口であったことを真っ当にも知らされたという形だ。反省しているときの自分が通時的に存在している自分を助けてくれないのなら、反省とはただ楽しみのためにするものなのか。反省って思索の一種に過ぎないわけか。そして思索は人と話をしてるときに気の利いた一言を発するために浪費されるだけの、その、そこまで言うとちょっと違うけど。あるいは一度の反省によってスイッチを切ったようにその人の行動が変わってしまうことの不条理を思うのも考えの助けにはなる。つまり行為するときの私は反省してる余裕なんかなくて、そこではいつも参照できるのはちょっとキツめの反省の残り香のごとき結論部だけなんですけど、その骨だけの状態みたいなヤツからそのときのそれなりのリアルな痛みをいかに再生できるかにかかっているわけじゃないですか。われわれが正しい行動をとれるかっていうのは。過去の自分が感じたことってのを、それもまた一つの自分が感じたこととして尊重できること、これからの自分が体験するかもしれないこととして想像できること、じゃないですか。じゃないですかって言葉使ってくると、まぁおよそ文体と呼びうるものはなんでもそうだけど、なんだかその文体がひき連れている文脈を巻き込んでオチをつけなきゃいけない気になってくる。文章を終わらせるすべをそれしか知らないからだね。


2015.08.23 (日)

また500字制限で日記を書いてみようと思う。書こう書こうとは思っているんだけど、日記を書きはじめると際限なく長くなっていきそうで、といってもせいぜい2000字とかそこらなんだけど、それで時間を使ってしまうのが少しこわくて、あとまわしあとまわしにし続けていた。日記に時間を使うことがもったいないなんてことは思わないんだけども、ほかにもやりたいことややらなくちゃいけないことがいろいろあって(自炊とか、FreeBSDのセットアップとか……)、ようするに、うっかり日記を書いてしまうような暇がなかったのだ。だけども今や暇にまかせて日記が動きだすのを待つのではなく、時間を捻出して能動的に日記を書く時期に来ているのだということも知っている。今日はアトピーが絶不調で、ござに腰を下ろして作業していると内腿を掻いて掻いて仕方がなかったのだ。11時に起きて軽く朝食を摂ってから、今週のお弁当に入れる身欠きにしんの煮つけと昆布の煮しめ(『システム自炊法』参照)を作りはじめて、1時すぎには松屋にお昼を食べに行こうと思っていたら煮しめがなかなか仕上がらなくて、またストレスで呼吸が浅くなったりしていた。こうしてる今も……っていうか、かたくなにならずに椅子を導入したほうがいいのかもしれない。座椅子ではなくって、腰掛けられるやつ。

今日はやたらと酒を飲んでいて、あるから飲むんですけども、昼にウィスキーとラムのそれぞれコーラ割り、夜に中華料理屋で二鍋頭酒(ちいちゃいグラス一杯だけど)、帰ってからウィスキーとラムのそれぞれマウンテンデュー割りで、酔っ払ってるの自分でもなかなか気付かないんであれなんだけど客観的に見てもなかなかの量のアルコールが取り込まれてるといえる。ラムは試しに買ってみたやつで楽しみかたがよくわからなかった。ウィスキーは帰省したときにいとこの家でもらったので、実はこれも楽しみかたがよくわからないので好きじゃないんですけど、あるのでちびちび消費している。あるやつから消費しなきゃいけないなってのは暮らしの知恵初級編としてあるわけですけど、酒だってただアルコールのため、酔うためだけに摂取してるわけじゃないって最近ようやく蒙が啓けたので、食事と同じで自分がそのときおいしいと思うものを手に入れるべきだな。でもあると優先的に消費してしまうので消費に時間のかかるものとか消費してもなくならないものとかはもらうのに慎重になってしまう。基本的に。これは関係ない話なんですがある日ふと思ったのが、今はさいわい土日も休めててまるまる療養のために使えるけど、結婚して子供が生まれたりすると休みの日もドライブとかで子供や家族の相手をしなきゃならなくて、つまりこれもまたある種の「仕事」になってしまうんだなあということで、別にそうした「仕事」がまた癒しになっていたりするのかもしれないけど夜になってから一人でぶらぶら出掛けていったりということができなくなるというのは、いいのかなというか、いずれ必要なくなることなんだろうか、と軽い不安を覚えたりもする。ところで夜は中華料理屋で……という話をしたけど私は外食というのが苦手で、その苦手さというのはつまり勝手のわからない空間に入っていくのが苦手という趣旨のものなんですが、特にやっぱり店員さんに声をかけるのが苦手で、今日のところは店内に音楽もかかってて話し声も活力があって、「すいません!」って声がどうしても出なかった。店員が前を通るまで待たなければならなかった。でも外食するときにはする。療養のためにはやりたいことだけをするのが一番いいけど、抵抗を感じるってことを「やりたくないこと」と同一視するのはよくないな。より正確に言えば、興味のあることだけをやろうってことなんだろう。でも、自分の頭のなかで思いめぐらせるだけで検知できる興味なんて高が知れていて、ゲームセンターなんて興味ないよと自分で定義していても、ふらりと入ってみれば中にあるのはゲームだけではなくてゲームしている人もいるし、高速道路のサービスエリアによくある焼きおにぎりとかの自動販売機を見つけたりする。概念化して考えるからゲームセンターにはゲームだけ、ゲームには興味ない、はいさようなら、とやってしまうんだよな。現代に生きるわれわれは目にする情報を自分で制限しなければならないけど、それってコンフィグをいじるみたいにすべてを見渡して、意のままに、とはいかないことなんだろう。


2015.08.08 (土)

前月の分を過去ログに移行するということをせずに3ヶ月が経ちました。

思いつきでシャツとパンツを着けたままシャワーを浴びてみた。どきどきするのは始める前だけで、飛び込んでしまえば特に違和感もないし、体洗うときに邪魔なだけだ(途中で脱いでしぼってわきに置いた)。始める前に抵抗があったのは、「これでは十分に体を洗えないのではないか」ということで、当たり前なのだが、しかし後で脱いでちゃんと洗えるにしてもシャツとパンツを着けていることで体が十分に洗えないのはちょっとした恐怖なのだった。言ってることが一文の中でほとんど矛盾しているのだが「首尾よくいく」ことへの無意識の信仰じみたものがあるんだな。ノーダメージでクリアじゃないとダメみたいな。ワンミスで世界は滅びるわけじゃないし、多少曲折あってもゴールはできる。変態ちっくで興奮するのも最初だけ。お湯をびっしょり吸った下着を脱ぐ感触は水泳を終えたあとと同じもので、そういう発見はあった。

好きな人と会った。この種のイベントの中ではなんだか今まででいちばん穏やかだった。あとで悩んだりもしなかった。言おうと考えていたことはほとんど言わなかった。でもそれでいいんだよな。言おうと思ってた言葉がそっくりそのまま出てくるなんて、デジャヴのようなものだ。


もんろー