今日は暑かったな。電車の切符を買いながら、「暑っ」と声が出た。押さえつけられるような暑さだなと思った。もともと暑さを認知する能力が低くて、夜とかもまぁ汗は出ないしと思って上の小窓だけ開けていたんですが眠れないのでエアコンつけるようにした。あぁこれが暑いってことか。「暑い」という範疇には目立って熱を感じるという段階も含まれるけどそれだけではなくて、感覚がまいってしまうより先に体が変調を来すってことも往々にしてあるんだなと学んだ。外出には草履を履いていく。草履というか雪駄というかね。草履は4年ぐらい前からコンスタントに履いてるので、ちかごろ履いてる人をちょくちょく見かけるようになったけど、こちとら4年ぐらい前から履いてんだ、なめんな、って気持ちがなくはない。もちろん10年履いてる人も20年履いてる人もいるわけだけど。草履もそうだけど下駄も、浴衣に合わせる用(ってわけでもないだろうが)の、底が浅くてウレタンかなにかのクッションが張りつけてあるものが普及していて、そういうの見るたびにハッハーその下駄歯がないでやんの、なんてほとんど負け惜しみを思ってしまう。歯があるオリジナルの下駄は毛羽立ってるとこ歩くとぼろぼろと木くずを残してしまうのよね。だからいまのは合理的なんだけど。だけどね。履く場所を選んだり、バランスがとりにくかったり、そういう不自由さ含めての下駄だと思うんだ。歯のすり減り具合に体のゆがみが反映されてたりね。そうした「〜道」的な意識に立つと、彼らがあまりにかるがると下駄のうまみを吸ってるさまが許せないの。そんなのは趣味とは呼べないと思うの。だからあっちにとっても趣味ではないんだけどね。
どうも楡です。長いこと名乗っていなかったにもかかわらずこのあいさつは無造作に出てきた。日記の書き出しに迷って、そういえば日記の書き出しっていつも難しいよねって思って、でもそこに粗暴でリアルな自由があっていいのかもな、と思いました。今日は6時前に早々に晩ご飯を食べに行ってきて、あとは日記を書いて趣味の勉強をしてエッチなもの見て寝るだけ、というところで、つまり僕は日記を書くために準備万端なのですよ。ズブロッカを割るための炭酸水とリンゴジュースも買ってきたし。ズブロッカってなにがどう流れてこういう表記になったのかわかりませんが、つまりポーランド語ではジュブルフカのような音になるはずだよね、ということを知っているのでズブロッカを見るたびに「ジュブルフカ……」とつぶやいています。2こまえの日記はVimで書いてます、って書いたけど、1行が長くなるとスクロールの中で "@" に化けちゃうし(うまく説明できない。バグじゃないよ)、ウィンドウ右端での折り返しとエンターキー押して改行するのとを区別するために右端になんかへんな記号が出てきたりでどうにも美しくないので、まぁ要するにプログラムのコード編集するのと日記みたいなだらだらした文章書くのとはやっぱりなんというか心がまえからして違うので、いつでもどこでもVim使いみたいなアナクロニズム(?)に陥ることもないかな、と思いましたよ。さてここまで書いて、なんの話だったかな、と思ったけど、いまのところこれといってなんの話もしていなかった。
今日はビデオを返すために外に出なければならなかったのです。ビデオ返すといっても内実はCD4枚DVD1枚でほとんど映像ではないしVHSではなおのことないんだけど、ゲームをいっしょくたにファミコンと呼ぶようなものですな。メディア媒体(重言)の総称とでも思ってください。それでビデオ返すために外に出た。外に出なければならない理由がなくても外には出るけど、ちかごろ外に出るたびに外に出るための目的がついてきて言ってみればきゅうくつだよね。そう感じてはいないけど。筆が進まない。ズブロッカのソーダ割りを飲みはじめました。お酒を飲んで Twitter でくだを巻くのは楽しい。そう思いながら、次には、酒を飲まないと文章のひとつも書けないのか、というあわれみもわいてくる。まあ、書けてさえいれば今はいいよ、という気分。文章を書くために酒を使っているようでもあるし、酒を飲むために文章を書く口実を設けているようでもある。確かになにかにかこつけて酒を飲もうとする存在なのだ、俺は。あればあるだけ。飲んで特別に楽しいということもないんだけどね、ほんとは。何かしら気づくことはあるからいーんだけど。ひらたく言えば。昨日は『サタデー・ナイト・フィーバー』という映画を見ました。1977年作品らしい。映画からはあいかわらず何かを学びとったりするんだけど、アメリカ人は乱暴かつ粗雑で困るね。遠慮とか限度というものがないね……みたいな感想を持ちました。それで何を話そうとしたのか忘れた。ズブロッカのりんごジュース割りを飲みはじめました。リンゴジュース割りをはじめて飲んだとき、すごくうまくて2杯でてきめんにふらふらに酔ってしまったことがある。家で、一人で。まぁたいへんおいしいですよね。なんかさっきからすごくつまらない話ばかりしていないか。俺はいまさら言いたいことなどないのではないか、と思ったが、言いたいことなんて言ってるうちに出てくるものだし、それは一つの日記を書いてるうちでも一つの場面で人と話をしているあいだでもいいし、またはたくさん書いているなかで批評眼は目覚めてくるものであったりするな。余談ですが(すべて余談ですが)「わく」という動詞を漢字にできずにいて、明らかに「湧く」なんだけど虫が湧くみたいな意味がちらついちゃってあまりできないのですよ。観念的な世界が好きだから。なんだか最近とみにそうで、回転寿司でみょうになぜか気持ち悪くなってしまったのを思いだして気持ち悪くなったり、会社の人の生脚を見てうっ気持ち悪いみたいな瞬間がちょいちょいあります。べつにその人が悪いわけではないが。うっ気持ち悪いみたいな感覚は自分には無縁のものと思っていて、なにか目の当たりにしたものについて吐き気がするみたいな感想を吐いてる人を見てもポーズだろとしか思わなかったんだけど、なにか意味的なところで気持ち悪くなることってありますわね。そんなこと言うのは線の細い奴だけだろと思っていたけど、私、線の細い奴なので。会社には入りたてで仕事らしい仕事もまだもらえてなかったのですが、自分が必要とされてないと態度も縮こまってしまいますよね。ますよねって書いたけど俺がね。必要とされていると嬉しいし元気が出るよね。俺がね。いまフォントサイズを20ポイントに設定してこの文章を書いているので壮観というか、まぁそれなりに書いたなーって感じですね。それにしても思うに洗練されたものなど僕は求めていなくって、それこそ僕は日記の中でくだを巻いているんだと思う。誰にも話せないこと、誰かに話すような理由もないことを、ここに叩きつけている。力まかせではないけどぽんぽんと叩きつけている。まぁ人に何を話すかってのはたいへん個人差のあることではあろうけど、ズブロッカって本国ではジュブルフカっていうんだよなんて話を僕は会社の上司とか同期に話そうとはあまり思わないのだ。いいことではないのかもしれないな。大学の知り合いでも、語学の好きなあいつとかあいつには話すかもしれないけど、でも大半の人には話さないだろう。そういう人です私は。でも聞いてほしいので日記を書くときはここに書いてしまうのだ。書いてしまうのです、と書きかけて、なんだかしつこいしはっぴいえんどみたいだ、と思ったので、YouTubeではっぴいえんどの曲を聞いてみよう。いま。
といって聞きはじめたらムーンライダーズの特集番組のビデオとか見始めてしまってすっかりクールダウンしたので今日はここまで。
自分のタイミングというものにこだわりすぎて、相手が先取りしてきたときに思わずタイミングを捏造してしまうときがある。
ゴルゴンゾーラなるチーズを食べてみたらこれ納豆ですね。納豆。あと塩っからすぎてワインが進みすぎる。あまりハマれなかった。やはり庶民には缶ビールがお似合いなのかな。あとウォッカ。いや庶民を突き詰めるとビールではなく発泡酒なのかもしれないけども。
最近アトピーさんの調子がよくないのでとてもよくない。とてもかゆい。とても掻いている。
休みの日はひまなのであの人に連絡をとれないかどうかということばかり考える。
休みでなくても考えるが。あと学生のころと同じく休みの日に午前中に起きれんくなった。あとたばこを買い足してしまった。echoである。この日記今日はvimで書いてるんだけどターミナル上でechoってかくとふつうにコマンドみたいだね。うん。たばこはなにがいいのか分からないまま2箱目に入ってしまった。人生通算ではなん箱目かな、6箱目ぐらいかな。特にうまいとか落ち着くとかもないんだけど、火をつけて一吸い目のときだけ涼しい風が吹くときがある。まぁそれだけなんだけど。我ながらというか我らしく不合理だと思う。ある種のあこがれだけで行動している。詩を読むのもコンピュータの勉強するのも統計学をやってみたいのも、すべてあこがれだ。別に好きでやってるわけじゃない。詩を読めるとなんか世界が違って見えるんじゃないかって予感のもとに、よさそうな詩集を見つけたら買ってる。わかんないなーって思いながらたまにながめてる。詩のよさおもしろさなんてわかってない。詩にハマってない。そのうちなんか見えるかなって思いながら、だらだらと付き合っている。まぁたまに一人で朗読すると気持ちよかったりするんだけど。とにかく僕はなにごとにおいても理解者なのではなく理解してみたい者なのだ。まがりなりにも続けてれば何かがすこしずつでも身についてくるってのは半面正しいだろうけど、意欲がなきゃ上達しないからな。そこんとこの動機が欠けてるんだよな。
ということを普段考えて生きてるわけではなく、あの人から連絡こないかなーとか、もう愛想を尽かされてしまったかなとか、そんなことばかり考えている……。あと普段話したことない人を相手にすると緊張して何話していいかわかんないね。ひとと何話していいのかわかんないや。
あの人に会えなかったのが心残りで、一日デスクワークをこなしつつ心の中でうじうじしていた。帰ってごはん食べて、風呂入ってまたカップ焼きそば(台湾まぜそば)にお湯を入れた。オリオンビールとともにむしゃむしゃ摂取した。ごはん食べたあとにかぶせてカップ焼きそば(台湾まぜそばだが)だなんてすごい自信、と自分でも思ったけれど案外食べられた。食べられたからいいってものでもないが。最近食生活がちと乱暴だ。ストレスのせいではない。ストレスからは開放されたのだ。お肌のぐあいも良くなってくれるといいな。そのためには日付が変わるまでに寝ることだが。ついにお弁当も作った。だが取り掛かってみると一人暮らしで3食用意するのはなんだか割に合わない。凝ったもの作らなくても。
ただそういう話するのは愉しくて、いままでの自分の望みは「生活」がしたかったんだな、って思う。就職して一人暮らしすることの目的って、口には出さなかったけど実は明確にそこにあった。炊事洗濯ゴミ出しに追われたかったんだ。自分には生活があれば満足で、勉強とか研究とか知的なものには、だから最後のほうはあまり興味もてなかったんだな。正当化したいわけじゃないが。知らず知らずに正当化になってしまっているかもしれないが。
また、ひさしぶりになってしまった。それはそれで構わないんだけども、久しぶりに書こうとしてみると言葉が出てこないんだな。言葉が出てこなくて、話がひとつにつながらなくて、書きかけては消しということを繰り返していた。話なんてひとつにつながらなくていいんだけど、かっこつけてしまうんだな。
書いてるうちに思い出してきたけど、土曜日は好きな人に会えるかもしれない場所に立ち寄った。そこにたどり着く手前で、その人らしき顔を不意に目にして、打ち抜かれたように立ちすくんでしまった。人違いだったんだけど。このへんの挙動は高校生の頃から変わらないなぁと思った。と同時に、このドキッとする感じは何年か感じていなかったものだなとも、はっきりと言葉にしては思わなかったけど、そうだった。
日記を書いていなかったのは生活が慌しかったからで、ごはんを作ることもままならなかったのだけども、そういう環境の中にいると投げやりになって雑になって、妥協を許してしまう。息抜きにYouTubeで動画を見てるときも、このへんでいいやってくるくる切り替えてしまう。一口で言えば即効性のあるものを求める?というか、一見してイイと思えるものしか見えなくなる。で、その「一見してイイと思えるもの」ってのは、自分がそれまで築いてきた判定機構にかけてるだけだから、成長がないんだよね。ある時点の自分を固定してずっと運用するという。それには、忙しさを言いわけにしてるところもあって、この慌しい状況を作ったのは自分じゃない誰かのせいなんだけど、だからすねちゃってもう知らんぞって気分で、自分が破滅するのは俺のせいじゃないっていって破滅してみせる、みたいな考え方があるよなあと思ったのでした。いまは余裕があるから、YouTubeみはじめたらとことんまで見る。ていねいに生きるってそういうことだ。「死なないために最低限のことをする」の反対。