楡男_1506

2015.06.15 (月)

おなかをすかせるように疑問をもたずに人を恋しがるようになったな。付き合うってなんだろうとか、自己愛の一形態なんじゃないかとか、どういう状態が「好き」の必要十分条件なんだろうとか、そういうことを気にせずに、この夜風をあの人と共有したいなとか、この涼しい時期に一緒に散歩したら気持ちいいだろうとか、思うようになった。どうしておなかがすくのか人は問わない、と言いたいわけではないけれど、今の僕はおなかがすけば疑問がわく前に食べ物を求める。ちょうどそれと同じ水準に、恋とか愛とかいったものがあがってきたわけだ。それと同時に、自分の抱えているそれが恋や愛であることにも、開き直りに近い自信が生まれてきた。ここでいう自信とは、叩かれてもゆるがない強固な確信というよりも、その場に置いておいて心配がないようなさま。その足元はあやういかもしれないが、案じないため恐れも生じないさま。自分の好きってようするに、そばで見てたいって感じだわね。はたらきかけて何かを引き出したいというよりは。高校生の自分に聞いたらまた違うことを言いそうだが。


2015.06.13 (土)

風呂に入っては水を飲み、クリームを塗っては水を飲み、歯を磨いては水を飲む。

ところでこないだ電車が遅延してて、いつも込んでるんですがその2割増しで込んでいてまじめに帰る気なくしたので途中で降りて、しばらく時間つぶすべえと牛丼を食べてからビールと惣菜を買って駅前の公園で腰掛けたのですわ。そうしたら3、4匹の猫が草むらの中から姿を現わして、私のほうに近づいてきてじっと見ている。餌を求めていたんだろうけどソーセージと春巻が猫にとってよい食べ物かどうか疑わしかったし、自分のために買ったものはあくまで自分で使う人間なので無視して食べていた。猫たちは立ち去る様子もなく根気よく私を見つめ続ける。ホント暇だなぁ、そんな暇あったら本でも読んでればいいのにと思ったが、猫にとっていちばん重要なのは食べものを手に入れることで、それと同時に猫にとって食べものを手に入れることは私の無神経な想像よりも骨の折れることなのだと思いあたった。食べものが貯蔵され容易に手に入る保証があるから本を読む余裕が生まれ、本を読むことに価値が生まれる。余暇時間の増大が文化をつくった、と歴史の教科書に書いてあった気がするが、それがようやく納得できた。納得できたけどそれが教科書に書いてあるのってどうなのかなって感じはまだする。高校生のときも、そんなの確かめようがないじゃんと思っていた。いや、まあ、教科書が主観的であってもいいと思うんだけど、いかにも公式見解って顔をしてる日本の教科書にそういう内容が書いてあると、ちょっとおかしくねというか、答えを覚える式の教育ってこういうとこで限界が出ているよねって感想は抱く。限界があることが悪いことだと直ちには言えないけど。答えをみんなで考える式の教育にだって限界はあるだろうし。


もどん