楡男_1505

2015.05.31 (日)

プライベート日記書いてたら「愛」という語彙が初出した。また新たなステージに入ったという感じだ。しかし「好意」との違いはあいかわらずわからない。入れ替えて意味は通るように見えるけど、しかし響きはどこか違う。違うとわかるけれどその所在はわからないというところだ。「愛」のほうがどこか客観的に突き放した響きはあるかな。具体的には「迷惑な愛」という句のなかで使用した。愛着、執着、そのあたりの仏教語としてのネガティヴな響きが反映されてるのかな。そんなわけで「愛とは何だ」と「好きとは何だ」とは異なる問題として扱いうるし扱うべきだという意識のほうはいまでも変っていない。いや別に強く言いたいわけじゃないですけど。当然分けるべきじゃないですか?っていう。


2015.05.24 (日)

昨日のうちにすべきことをことごとく済ませてしまって、というのはウソだけど、かなりたくさんのTODOをこなしてしまい、かなり休日を満喫してしまったので、なんか気が抜けてしまって朝は途方に暮れていた。とりあえず残りの用事(クレジットカードの引き落としにそなえるとか、髪を切るとか)を済ませにいくかぁと外に出た。

うどんとかスパゲティの湯切りにつかう取っ手付きのザル(ストレーナーというらしい)を探しに、ほんとうは東京合羽橋に行くつもりだったんだけど、出る直前になって携帯で調べたら日曜はすべての店の3割ほどしか営業してないらしく、あぁと思って隣駅まで移っていちばん近所の街に出た。けっきょくストレーナーは高くて買わなかったんだけど、立ち寄ったカルディコーヒーファームで女性の店員がかがんだときに露出した胸元を見てしまって鼻血が出た。鼻血が出たのはまぁ比喩的な言い方なんだけど、こういうときってどうすればいいのかわからなくなる。

どうすればいいか、だって? いまさら、「何かしなきゃ」なんて心境にいとも簡単になってしまうその性質を生き物としての脆弱性と心得て、襟元を正すぐらいではないか。


2015.05.23 (土)

テレビにノートパソコンを接続してモニター代わりに使うべくVGAケーブルを買ったり(VGA=D-Sub15=アナログRGB、らしい)、UbuntuのuimにT-Codeを入れるだけ入れてみたり、TSUTAYAでアダルトビデオを選んでみたり、玄米を買ってきたり、半額で売ってた時鮭を焼いて食べたり(上品な味!)、そんな高揚の中でたばこをひさしぶりに買って吸ってみたら、ついにおいしいと感じてしまった。たばこって今まで吸ってもいいことも悪いこともべつになくて、ただ調子悪いときに吸うと風邪引いたりするのでデメリットのほうが若干勝るといった感じで生活の中には定着しなかったんだけど、まあ今後も定着するかどうかはそんなつもりがあるわけじゃないが、たばこがうまいってことの意味がほんとに素でわからない、謎、だった私としては認識がひとつ開けてしまったのか、狭まってしまったのか、判断はつかないし結局のところ何かが進んだり戻ったりしたときそれがどちらなのかは決着のつけられない問題なのだろうけど、しかしなにかが別のステージへと移行してしまったのだな、という感慨はある。

しかしたばこってあんなに種類あって選べるのに、パッケージ見てもどこがどううまいのか、売りがなんなのか一切書いてないのがすごいな。パッケージの醸すイメージだけで売ってるよな。ソフトドリンクもけっこう抽象的なの多いけど、もっと業が深い。マウンテンデューとかセブンアップだって、柑橘系の味ってことは書いてあるもんな。


2015.05.22 (金)

ここんとこ毎晩NACK5を聞いている。帰ってごはん(作って)食べて、風呂入って上がって、パソコンつけて立ち上がるあいだに手にクリーム塗りながら聞くのがNACK5である。あと首にも足にも。いま、加藤和彦のヨーロッパ三部作?の特集がやってて、音楽がなかなか好みなので歯を磨くのがまだもったいなくて、手持ちぶさたで日記を書きはじめた。手ぶらで聞いてていいんだけどね。今日牛丼屋で隣に座った人が、席について注文するとすぐに携帯でゲームを始め、料理が届いてからも食べながらちょこちょこ操作してゲームを止められないようであったのが、ああ物に使われているな、視界が浅くなっているなと思ったものだったが、それは自戒を込めて心で思ったことだったわけだ。大人しくしていられず、常に何かをいじっていずにはいられないわたしたちの性分。何もしていないのが苦痛なわけではないけど、ただむずむずしてしまう。明日は髪を切って、ガス代と電気代を払って、カラオケに行って、玄米と酢を仕入れて、夜はチンジャオロースーを作りたい。小さいまとまりでタケノコを買うのが難しそうだな。


2015.05.17 (日)

午前中にカラオケに行って、終わって外へ出て歩いてたら日差しがあたたかくて気持ちよく、週に一度でもこういう瞬間があればやっていけるな、と思った。続けて、週に一度でもこういう瞬間があればやっていける、とはどういう意味なのかという疑問をみつけた。「こういう瞬間」が週にたとえば一度あることは、週の残りの時間にとってどういう意味があるんだろう。どういうつながりがあるんだろう。お金がたまったら Lewis & Short のラテン語辞書を買って読書をはじめたいけど、そういう日がくるかどうかは、リアルに想像はできない。したいことと「したい」と思いたいこと、その中間にたくさんのものがはさまっている。話が飛んだ。私の疑問は、「週に一度でも」というささやかさ、けち臭さに対する違和感を反映したものだったのかもしれない。「こういう瞬間」はいつでもほしい。週に一度でも・・・と限定することは、ほかの瞬間をあきらめてしまうことではないか。今日の夜なに作ろうか。なんも決まっていない。また関係ないことを書いた。話を戻す。頭の中で考えていると、とにかくそんな疑念、自分への疑いが、考えるそばからわいてくる。いや、自分への疑いではない。ちまたで流通してる、思考の型への疑いなのだ。思考の型はもちろん自分がものを考える際にも使う。使ってるというより、型に使われている? とにかく、そうしてみずからの思考に疑いを向けるとき、それは同時に、そのように考えるすべての人の思考に向けられてもいる。ところで、ひるがえって「こういう瞬間」があることはありがたい。それは実際に、ハードな一週間を救ってくれもする。ただ、それと同時に、そういう瞬間が「週に一度あれば」と語ることで、無意識にスケールを縮めてしまい、その言葉が「週に一度で十分だ」という意味にどこかで化けてしまうなら、それはつまらないことだとも思う。だけどはじめはそんなつもりで言ったのではない。それさえあればと思うことと、それ以外はいらないと思うこととは同時に起こらなくてもいい事柄だ。だけど頭の中で考えているとそのへんがごっちゃになる。「そのように言うってことは、あなたはこう思っているのではないですか、こう言っているのと同じですよね」とつっこみを入れてくる人がいるのだ。自分の中にも。あなたの中にも。これもまた思考の型か。


2015.05.14 (木)

不条理でしんどいことが続くのでタバコでも吸ってみようか、ひさしぶりに、とおもふここ数日なのですが、そう思ってるのって俺という個人ではないんだろうな。俺ではないなにかが、思っている。


2015.05.12 (火)

自分を奮い立たせるものは怒りなんだろうな。それ自身がきゅうくつなわけじゃないけれど、もし選べるなら、好きが原動力になる人間でありたい……ありたい気がした。書いてみるとそれほどでもなかった。しかし嫌いなものをめぐってぐるぐる考えるのはいらない。


2015.05.11 (月)

最近ITづいていてパソコンにLinuxいれてコマンドラインからここのサーバにアップロードしてみたり、帰宅してSKKをさわるのを楽しみにしていたりするのですが、なんだっけ。あと毎日帰るときにくらくらしますね。腰かけてるとだめで立ってるとやわらぎますね。貧血なのかと思ってレバニラ炒めなんか作って食べてみたけど、じつは一日のうち立ってる時間が少ないために血の巡りとかがなんかあれして具合が悪くなっているのかもしれません。大学のころデスクワークのバイトから帰るときに多かったしな。くらくらするの。


2015.05.08 (金)

Javaとかもう飽きたなーと思ったが、この飽きたなーって、未知で新奇だったものの姿が見えてきたことである種のあこがれが失せて出てきた「飽きたなー」なんだな、と気づく。それに気づけば、べつに対象がつまらなくなったわけではなく、むしろ新しいおもしろさの段階に入ったんだな、と思える。


2015.05.05 (火)

あの人とうまい具合いかないかなぁとぼんやり考える。シャンプーしてるときとか、買い物から帰るときとか、寝る前とか、思いがけないきれいな展開が映像みたいに流れて、そのなかを泳いでいる自分に気づく。相手は移り変わるけど、振り返ってみれば年中そんなことばかり考えて暮らしてるみたいだ。あまり自覚していなかったが、けっこう四六時中だな。考えてるばかりだから結局はたいがいうまい具合いかないんだけど。

ここで、願ってばかりで実践しない自分、その戦略としての欠陥を、なにか規範的な調子であげつらうこともできる。自分どうすべきなの?って問いを突きつけるのが適切な流れのように見える。ただ、ここ数年の自覚で言うと、自分がやりたいのって必ずしもそうではなくて、たとえば「ダメだよねー」って言って、そこから必ずしも「変えなきゃ」に移行しないような文章を書きたいと感じるところがある。書きたいというか、そういう仕方で、自分の中で日記の、文章を書くことの居場所を確保できそうだなって思った。あいかわらず「書くこと」先行の考え方であれだけど。そういう文章なら書く意欲が出るし、自分の中での世間への不満ってそういうところにある。

まあ内容としてはいまさらな話ではある。「ダメだよねー」から「変えなきゃ」に移行するのも、「ほんとダメだよねえ」と受けるのも、同様に嘘をついている気がするね。仕方なく話をそう継いでいるように見える。何かを見ないように目をそらしてるんじゃないの?という予感がある。そうおもうので、文章の中ではせめて冷静に考えてみたい。それだけだね。冷静に考えるべきことって、自分の人生にもまだあるね。そんな感慨だね。


2015.05.03 (日)

気づいたら一ヶ月以上日記を更新していなかった。前回が三月六日だから、二ヶ月近く空けていたことになるな。はじめての海外旅行にいったり、大学院を出て働き始めたり(とはいえまだ研修中)、同時に一人暮らしが始まったり、大学の人達と再会したり、していた。そのひとつひとつに感慨はあるのだろうけど、総体として枠組みとしての転換が大きすぎて、違いとして個別的に認知するのがむずかしい。日記は感慨を書くためにあるのではない、と、開き直ってみる。ところで今日は何も予定がなくて、いっちょ漫画を買ってきて読むか、Movable Typeでも導入してみるか、なんて思っていたのですが、街まで出たものの買ったものは朱肉と昼ごはんのカップヌードルライトとコロッケパンで、こういう出来合いのもの食べてるとお腹減りますよね。栄養がないから? わからないがごはん一合は一人の一食分にしてはすこし多すぎる。しかし半合では心もとない。そういや料理のレシピもその大半は二人前とか三、四人前だ。一人暮らしは料理をしない前提で社会は構えているのか。だからいつも作りすぎてしまう。でもそれは帳尻合わせができるからいいのだ。

それでMovable Typeを導入しようと思っていたら気づいたらSerene Bachを破棄してHTMLタグ直打ちに戻っていた。このほうが安心感あるもんな。私がやりたいのって結局テキスト書いてアップロードしたいだけなので、記事別にURLがついて参照できるとかってできないならできないで一向に構わないし、やってみたい、おもしろそうって気持ちはあるけどたいがい一時的な興味なので……みたいなことを、ブログツールから離れるたび繰り返し書いてきたんだっけか。まあそんなわけでまた元に戻りました。どのくらいの頻度で書いていくのか行けるのかは知らないが、書きたいことはたまにある。それを書いておくためのスペースが確保されていれば十分だし、それ以上のものは、書きたいという欲望を優先させたいなら妨げにさえなる。


もど