2014年の3月なんすわ 2014/3/31(Mon) もちつき要塞 就寝中、手指のかゆみ。特に付け根あたり。ふとんの中で格闘する。格闘というのは、掻くんだけど、爪は使わずに人差し指の第二関節で押すようにこする。爪で引っかくよりは被害が少ないのでいつのまにか発明したらしい。それも刺激にはかわりないので触れないのがいちばんいいんだけども、掻くのは自動化してしまっているので、まどろんでいる中で意識的に制御するのはむずかしく、掻きながら「掻いちゃダメだ掻いちゃダメだ」と頭では葛藤する、それが格闘。2時に寝て6時前に一度目の目覚め。闘いの痕を確認すると、ワセリンとかユースキン使用時のような傷レベルの被害は出ていないようだった。先日の大阪旅行で夜行バスに乗ってて夢うつつでやはり指を掻いてたときに気づいたんだけど、寝てる間に爪で掻いてるときもあって、そうすると傷になってしまうようだ。冒頭から生理的ないやな感じの話を失礼しました。睡眠4時間足らずという選択肢が自分の辞書になかったので有無を言わさず二度寝、8時か9時くらいに目覚めてツイッターのタイムラインを遡って、三度寝して11時頃にようやく起床。人生のうちの午前中が失われている自覚があるので、それを取り戻すというほどではないがラジオを聴きながらトーストにブラックコーヒーで遅い朝食をおしゃれにいくことにした。今さらそれもおしゃれと本気では思わないけど。2年くらい前の僕はそういうことしてるヤツを「信じらんな〜い」と思ってましたけどね。でも「信じらんな〜い」と思ってたのは、それをオシャレと思い、かつその自分がオシャレと考えるところを実行してオッシャレ〜と思っていて、そのうえそれを人に報告したりする人たちに向けてでしたので、今の自分のような存在に対してではないと思ったけど、今の自分もそんなに変わりはしないのかもしれなかった。ケッ。ブラックコーヒーは酸っぱかった。 食べ終わる頃に「笑っていいとも」の最終回(昼の部)がはじまり、見てたらおもしろかったので最後まで見てしまった。いいともは企画がないのがよさだったな。ひとつひとつコーナーがあってルールがあるんだけど、出演者がその枠に忠実に乗らず、無視したりときに利用したりして、ルールがゆるくても出演者がみな業が深くておもしろいので、要するにおもしろい人たちがしゃべったりじゃれたりしてるのが見れるのがよい番組でしたって、つい最近思った。そのあと「ごきげんよう」をちらちら見つつベジタリアン風炒めご飯を作成し、「ごきげんよう」からロスタイムに突入し「徹子の部屋」あたりに避難しつつ食べた。ベジタリアンなんちゃらってつまり玉ねぎとピーマンだけ入れた卵抜きチャーハン的な。塩を入れすぎてしょっぱい。そのあと出かける決心を固めて、グルジア語の単語カードを見つつスパゲティのゆで方を妹に伝授して、でき上がったところで妹から自転車の鍵を借りて外へ。 目的地に向かう前に、あるところでもらった松葉牡丹の種が気がかりであって、9月にもらったんだけど種をまくのに適した時期が2月から7月で、それまで待とうとしまっておいたのを昨日の掃除で見つけた。家で植えるのがよいのだろうけど、ぼんやりと考慮した結果、河原の土をスニーカーで削って、ぞんざいにまいてしまった。まいてから少し後悔。種を蒔くって行為のなんかとても象徴的な部分に触れた気がした。「新世紀エヴァンゲリオン」で、加持さんがスイカを育てていたのをも想起する。 近所のブックオフに来た。増税前だけど人がたくさんいるわけではない。安く買う場所だから。1000円買って30円得する世界だものな。ただ漫画が読みたかったので、漫画を読もうという気持ちを抱えたまま長い時間が経ってしまったので、思い立って漫画を買うことにしてここに来た。100円の棚をはじから見始めたが、すぐに疲れてくる。疲れではないな、疲れ感というか。すわりたい。お昼にしょっぱいチャーハン食べたからか。いや、朝の(ぎりぎり朝の)コーヒーが強くて、カフェインで胸が苦しいんだろう。長居する体調じゃないと思ったので、100円の棚だけ見て、あと欲しい新書がないかどうかと岩波文庫のとこだけ確認して帰った。買ったもの:あずまきよひこ『あずまんが日和』、黒田硫黄『大王』、しりあがり寿『流星課長』、中川いさみ『南海の学生』、上野顕太噤wさよならもいわずに』。あとピンポイントで思いついて探したらあったので森高千里『見て』。森高は1曲目に「おもしろい」という曲が収録されてるんですよ。「おもしろい」なんて曲名を曲名としてつけるっていいですよね。それだけ。 そういえば、来るとき、アイスたべながら自転車乗ってるおかーさんがいて、平和と文化があってとてもよかった。 帰宅してから、夕食と風呂をはさみつつ『さよならもいわずに』『流星課長』『南海の学生』読む。1冊につき1時間強かな。『さよならもいわずに』は、なにかを書こうとする人すべてに関係ある作品か。特に、日記サイトを標榜してたころの問題意識を呼び覚まされた。『流星課長』は流星課長の顔が好きなので買いました。ギャグ漫画を読んでふつうに笑うようになったなあ。お笑いに批評的なはたらきがあってってのはわかってて、立ち止まって考えてみたくなる瞬間が何度もあるんだけど、ただ読み流してしまう。通勤電車にすこしおだやかな心で乗れるようになるかな。『南海の学生』は、今回の中ではいちばんしっくりくる本だった。この人絵がすごくうまい。ピンク色が印象的な祖父江慎の装幀もいい。ところで、いちいちエログロが多いというか、90年代のギャグマンガはこのくらいの過激さがふつうだったんだろうか。読んでる量が少ないから予断も予断だが。あからさま、あっけらかんとしている。風通しはいいよ。 このくらいで疲れてきて、時刻も10時を回ったので読書はおしまい。勉強してないのもあるし、それはあきらめてもこの長い日記は書くつもりでいたので、でも寝る時間が迫っていて、宿題が終わっていない小学生のような心持ちになる。いや、勉強が日記がじゃないのよ。もっととりかえしのつかないなにかが迫っているような心持ちなのよね。ほら体育があるのに体育着を忘れてきたら世界が終わったような気がするみたいなね。ありませんでしたか。ぼくそういう子供でした。だから子供のぼくはまだこんなところで生き続けているんですね。ところでこの日記にとりかかろうというときからすでに眠いんです。3月も終わるし4月になったらまた大学がはじまる。だからなにってこともない、いやなにかしらあるんだろうけど、時節の区切れ目だからといって校長先生みたいなことはべつに言いたくないし。 2014/3/30(Sun) 援護夾雑物 お昼に図書館へ行き、アトピー関係の書籍をみる。ここしばらく手足や首の荒れが低空飛行を続けているので。アトピーという文字列をタイトルに含んだ資料はおそらく山ほどあるが、なんだかんだで『世界大百科事典』(平凡社)の記述がまずは参考になるような。アトピーという病気の発見から書いてある。ダニがアレルゲンとなっている場合が多いらしいので、とりあえず帰って部屋の掃除をすることを決心した。前回の部屋の整理で、これまでのプリントやノート類とか中高の修学旅行のメモリアル品とかいろいろ出して出しっぱなしで床に放置してたし、使わなくなった机を移動したはいいがそれもジャージとかかけぶとんとか物置きになっててほこりがたまって不潔なので、そこをどうにかすることに決めた。基本的に掃除は「捨てる」、「グループ化してまとめる」、「ほこりをとる」の3つのオペレータの組み合わせによって成るので、特におもしろいあれもなく粛々とこなしていきましたが。とてもたくさんの量のほこりを払ったので、だいぶきれいになった心地はする。これがアトピーの改善に効いてくれるといいが。 2014/3/28(Fri) タミル人形 横載せの旅 どこから書いたものか。バイトの日で、7時に起きれば6時間睡眠だから1時までに寝ればいーやという頭でいつもいるんですが、同時に1時に寝るとちょうどいいということは1時を多少過ぎてもだいたい大丈夫だろうという判断が平行して下されるので、結局5時間ちょいしか寝れない。寝るとき頭がうるさかったので Cluster『sowiesoso』を老いぼれアイポッドで流したら快適だった。頭が考えてもそれが邪魔にならない。 バイトは昼で終わり。昼食をどこか店でとろうという気にならなかったので――というのは、店で食べるほど多くのお金を出す意欲がなかったというだけだが――、家の近所のスーパーでキャンベルのクラムチャウダー缶を買ってスパゲティにからめて食べた。缶詰は260円だけど牛丼を頼むよりも安いと考えると自分の中では合理的。自分のために自分で食事を用意したりというのは心の健康にもよいしね。まあ料理のレパートリーがないので、ゆでたり加熱するだけとかイージーに走ってしまうのですが。 昼食後は、糧にならない調べものをしたりとか。具体的にはオックスフォード大学出版局が出してる英語辞書の収録項目数をまとめて表にする作業。とくに必要というわけではない知識を求めてるので糧にならないというわけですが、久々にやってみると、これが自分の趣味というか性癖というか生活形式というか、そういうなにげない位置にあるんだなと感じた。これが自分なんだなと。この習慣に対して無意味だとか言うのはやめよう。あとは本業のテキストを読んだり、読みかけの本を読み切ったり、『ニューエクスプレス グルジア語』の再開をなんとなく進めたり。本を読みたいとか勉強したいという気分がどこか高まっている。それがうまく続いてくれるといいが。 2014/3/27(Thu) 大阪に行ってきました。少し長いのでこちらの別ページに。4000字弱。 2014/3/23(Sun) 冤罪には夜がない しなきゃいけない、かつ期日が迫っている仕事が複数あったので9時に起きる。8時に目覚めて、眠気があったので1時間だけ追加しよう、いつもと比べれば9時でも早いくらいだとかたわけたことを思いながら目覚ましを一時間先へ送った。ところがそう決めるとかえって眠りには落ちないんだな。30分くらいごろごろして、寝つかないどころか眠気も引いてしまったので『中尾太一詩集』のつづきをべとべとと読んで(つまり詩を読めるくらい意識が覚醒してたってことだ)、でも時計が9時を回ってみるとここにきて迷いの心が生じてきた。起きようかどうしようかという。時計とか決め事とか、なければいいのにな。あればあるだけ裏切ってしまう。今日はなんとか起きれたが。 テレビがついていた。中尾彬たちが東京の「谷根千」地域を歩きながらグルメを楽しむという企画で、なんか見ていていつになくあこがれてしまった。かの地域を歩いたことは何度かあって、確かにいい場所だとは思ったけど、テレビを通じて見たときのような胸を焦がすような感じはなかった。それだけ番組の編集が巧みだとか、魅力的なところだけを切り出してるとか、そもそも編集された映像はオリジナルから独立して存在しはじめるとか、まぁあるんだけど、ただその前にこの胸の「人生損してる」=「取り戻さなきゃ」の感じはなんだ。そういう話だった。基本スタンスとして、人生を損してるだなんだという話はまやかしだと思うことにしてるので、自分がなんか敗北者だとか思う必要はなくて、自分がしたいと正しく思えていることができればよいんだけど、でもこうして自分の生きざまを否定してくるような動揺が心に生じるというのは、なにかしらのことを告げてはいるんだろうなと思った。それがなんなのかは知らん。いろんなものが魅力的に見える季節、春、それもひとつのありうる原因帰属だ。 スーツ着て証明写真撮りに行った。季節がまわり日差しが暖かく、歩いているだけで汗ばんできた。黒い上着を脱いで白いシャツになるとちょうどいいくらい。 散歩がてら道端の植物を見ながら帰ってきた。植物の名前に通じたい、と長らく思っている。機会がない縁がないといえばそれまでだが、思いが続くことをひとつの縁と見てもいいんじゃないだろうか。だいぶ昔に買った『日本の野草・雑草』(成美堂出版)を開いた。印象に残った花の名前はわからなかったが、なにかひとつずつ知識を増やしていこうと思って、今日は「シバ」を覚えた。勉強が進むようにふせんをつけておいた。 午後は履歴書書いたり明日からの小旅行の準備をするほかに、大学に出す書類の準備をしていた。ひらたく言うとこれからこういう研究をやるつもりですっていう内容の書類。大学院に来てからというもの自分には研究向いてなかったなぁと思いを重ねる日々ですが(まぁ本当は進学する前からわかってたんですが)、こうして研究対象のテーマに関していろいろ読みつつ思いをめぐらせていると、腰を落ち着けてひとつのまとまりあるテーマを考える機会がもてるのだなあと思ってうれしくなる瞬間もあった。なんか最近生きていても考えが散発的でまとまりがないし、自由な発想の散歩もないとふとんの中で嘆いていたのであった。あ、それで、日記のタイトルのところに無意味なフレーズをつけるのを再開しようと思う。 2014/3/21(Fri) その2 来月中にボート漕ぎにいこーってツイッターに書いた。何々がしたいと発言することを特にツイッターでは避けてたんだよね。その動機となってる教訓は普遍的なもので今も効いているから、「〜したい」という形は避けて「〜しよう」という、より確定的な書き方をしたわけなんですが。教訓といったのはつまり、何々したいなーしたいなーと書いてばかりいて実際にやらない自分がいることに当時(2年か3年くらいまえ)気づいて、そして実行しない理由は自分がめんどくさがりであるのに加えて自分の欲望・欲求を口にすることでそれが何らかの形で解消・昇華されてしまっているからなんじゃないかと思ったのでした。吐き出してすっきりして、そんで寝ちゃう。また、それだけでなく、自分らしい欲望を表明することでキャラクターを形作るという、欲望を着飾る人々、なんか奇矯な欲望をもってるほうがクールみたいな空気を発する人たちをツイッターなんかで見かけるようになって、なんかそれって違う、欲望をナメてる、生の怠慢だとかそういうことを思って、自分は決してそういうことをしないようにしようと肝に銘じたのでした。たしかに、人間は欲望のドレイなのかもしれません。おのれの欲望を飼い慣らすことが、知性をもつ動物としての人間の勝利、そう見ることもできましょう。しかし、だとしても、欲望が自由に付け外しできるものだと思い込むのは欲望の本性を見抜けてない誤りだし、その思い込みに気づかずに、単に自分が抗いようもなくそうあってしまっているところのものを自分で選び取ったと称しているのは、そうだとしたら愚かなことですよ(今さらどこに向けて怒れば・・・)。奇妙なのは、奇矯な欲望がクールに映るとしたら、それはその欲望が演じられたものではない真正の欲望であること、言い換えればその人が本物の既知外であることがそのクールネスの源泉であるはずなのに、でも見てると彼らの発言の裏にはいつもメタ視点が隠れていて、・・ 酒をひと口ふた口なめて過去の恨みを思い出していたら不必要に筆が乗ってしまいましたが、僕は自分のことを考えたいのだった。整理すると、自分の欲望に言及するのを僕が避けるようになったのは、@それによって自分の欲望が達成されることが妨げられてるんじゃないか?という疑いがあったこと、Aある人たちの言動を見ていて、自らの欲望に言及することじしんが愚かで汚らわしいものに思われたこと、の2点がトリガーになっていた。さきほどから言葉が過激ですみません。刺激がほしいのかい。まずAについて。今は、そういう人たちから自分が足を遠ざけていったので、不満は引いてしまった。そして今振り返ると、欲望に言及すること自体を悪しきものと見なしたのは、敵を不必要にでかくしてるだけだった。戦いがいがほしかったのかしらねぇ。僕がじっさいに不快に感じていたのは、狂っていることをかっこいいものイカしたものと見なす態度で、より正確に言えば実際は狂っていないくせに狂っているふりをして、それを「狂っている」と狂ってない人たちがもてはやすみたいな、空気だ。「キチガイ」ということばがカジュアルに使われるようになったのは今でもなんか、やですね。ショーケースの中の商品を指差すように、一歩離れたところから口にされる「キチガイ」。結局ほんとうの狂気には興味ないんだ。過去の愚痴がまた蘇生してしまった。ともかく自分の欲望に言及すること自体は今思えば価値中立的なことがらだ。では@はどうか。たぶんこれも錯覚で、それってデフォルメするなら、欲望を言葉にするとそれが魂みたいに口から抜けて弾けちゃうみたいな呪術的なことじゃないか。要するに欲望に言及することと、その達成可能性が低くなることとは因果的に無関係だと思われる。じゃあなんでそんな因果関係を気づかずに仮定したのかといえば、まず昔は行動力もいまよりなかったので、抱かれる欲望のうち成就されるものの割合が少なかったこと。そして、抱かれる欲望の多くは言葉にされつぶやかれていたこと。この二点が事態として近接しているので、誤った原因帰属で「つぶやく→成就しない」という図式ができてしまったと。あ、というよりは、「欲望を抱いている & のに実現されない」というセットが耐えがたかったので、一方を落とすことで心の負担の軽減を図ったというか。実行もせずに何々がしたい何々がしたいとばかり言ってる存在が、当時の自分の閉塞材料からしてかっこわるかったのでしょうね。事実で語るということをよく思ってた時期だ。今でもそれはわかる。だから、欲望をどうやって提示するかより、それをどうやって叶えるか、あるいは実現可能な形にどうやって変換するか、そういうことに気を配るべきだと思う。火宅ですよ火宅。大事なものがなにかを見きわめなきゃいけない。それが、今は有害にならない形で提示できるだろうって思ってるんですね。 2014/3/21(Fri) 目覚ましを設定した時刻よりも早く目が覚めて、眠くもなかったのでそのまま起きることにした。「眠くもなかったので」と理由を示したが、いつもは眠気がなくたって眠り続けている。目覚めの直後に眠気がなくても、ふとんの中にとどまっているといつのまにか眠ってしまう。眠りには限度が必要だ。眠りに限度がないといつまでも眠ってしまう。そうしてトートロジーにまで薄切りにされた危機感の中で、僕は目覚ましを設定する。早くに出なくてもいい日は、余裕を持って朝に勉強でもできるように、予定に間に合うよりも早めに設定する(といっても8時とかだが)。でもその通りに起きられることは本当は少ない。というかまずない。体が予定に合わせてしまう。“まだ寝れる”、“もう少し寝とこう”そう考えてしまう。眠りが足りなくなることがこわいのだ。万全の状態で一日を暮らせないのが。体力の温存ばかり気にしてレベル上げをおろそかにする。そんなまぬけさもある。それで寝れるだけ寝て、予定にぎりぎり間に合う時刻に起きる。いつもはそうだ。こんな習慣にはメリットらしいメリットがないことに気づいているし、近頃は読書の時間を確保したい心に駆られてもいたので、今日は6時に目覚めて6時半に起きた。30分ほど迷っているわけだが二度寝はしていないので大目に見てほしい。むしろ30分間眠りに抵抗しつづけた努力を評価して……それはわるい道徳だな。 それで、いま(9時になった)なぜ日記を書いているのかといえば、本を読んだりする気が起きなかったのである。なんだかねむくて。しかも家にいるので気も抜けがちだし、家族もそれぞれいたりいなかったりして自分のことをやっているので、その中で自分だけ本を読んでいるのは、なんか、似つかわしくないというか。全然わからない理屈だな。でもそう思ってしまったので。かといって他にすることも大してなく、今日の行き先の地図を調べたり、昨日から耳に残っている小沢健二「さよならなんて云えないよ」を改めて聞いたりしているうちに、元々やろうと思っていたことには手をつけないままこんな時間になった。やることなくて仕方なくて日記書いちゃうってこの感じはどうなんだろ、共有されがたいものなんだろうか。やることなくてしょうがないとき何をしますか。 ところでこの日記は手で書いたものをキーボードで打ち込んである。頭はたらかんくて、言葉が出てこなかったの。手で書いてやるとすこしよくなる。たぶん速度なのだと思う。キーボードは入力が速すぎて、考えてる間が長くなる。入力が先に行きすぎて、思考が置き去りにされた気がしてすねちゃうんだな。よくない癖だとは思う。いや、ほんとに、ちょっとうまくいかないとだめだと思っちゃうので。おれはだめなんだと思ってだめなほうに自ら赴いちゃうから。 2014/3/20(Thu) 本が読めねえ! 読みたい本は増えていくばかりなのに読む時間がない。読む時間がないから読みたい本のリストと読みたい気持ちが重なっていく。こんなに暇なのに、どうして時間がないのだろう。時間術。けっこうバカにしてたんだけど、年をとると必要になってくるものなのかもしれないぞ。なぜか。 2014/3/18(Tue) 一週間を終えたかのような気分でいた火曜日。なぜなのかは知らない。今日も会社説明会(といっても五日ぶり二回目で、行ってる人は毎日行ってるのでしょうけど、という以前に、そのくらい意欲ある人はもう面接とかしてるか)。文庫本サイズの地図帳を持って目的地にアプローチすると、少なくとも道のり周辺の地理は頭に入るし近くのおもしろスポットに気づいたりして楽しくためになる。存在を最近知ってそんなものあるのかと思っていた渋谷川を見に立ち寄った。橋からずっと見下ろしてコンクリートの隙間を狭そうに流れていた。 説明会自体は、なんだか蛍光灯のついた部屋に2時間もいて話を聞いていると、頭痛くなるなとか。でも外を1時間くらい歩き続けてても頭痛くなることがあるので、少なくともこの2つの事例を統一的に扱える、射程の広いソリューションが求められている。 最後に紙を書いて出すときに「ありがとうございました」の声がうまく出なかったのが心残り。 昨日から、家から駅まで駅から家までの間は、自分の呼吸を観察する、ってのをやってる。坐禅の修行法の一部ね。ただ呼吸を意識するだけ。でもこれが簡単というわけではなくて、強い風が吹いてくれば(今日は風が強かったのです)そちらに意識が向かうし、人とすれ違えばその顔が印象に残るかもしれないし、そして何も起こらなくても雑念・妄想・煩悩のたぐい要するに何かをとりとめなく考えるということが生じてくるので、「呼吸を意識する」という状態を維持し通すのは不可能に近い。でもまあそれは修行が修行たるゆえんというか。ただ自分の呼吸を意識できてるあいだは、事物に揺らされることなく動ける、なにもないただの空間の中の自分が出てるような気がするような書いてみるとなんか違うような気がするけどまあなんか覚えておくとよさそうな感覚だと思うのでまたしばらくやっているかと。 暖かくなったので食欲が漆黒の意志を発現していて、ひさしぶりにポテトチップスなんか買って帰ってぼりぼり食ってしまった。食ってしまったのはいいけど一人で隠れて食ってしまったのが、家族とシェアしとくと心情的にやはりよかったなと思われた。今度からそうする。 2014/3/17(Mon) 10ヶ月ぶりとかでひみつノートに記入した。中学生のときに日記帳をもらって、当然のごとく三日坊主で終わったんだけど、だんだん人間のじつぞん的な悩みのようなものを叩きつける場所をその日記帳に見出して、主に鬱々としたことがらを集積していった。ウェブでつけていた「日記」とは別のところで、あるいは相補的に(ここでCAUTIONですが今日も自分にしかためにならない自分語りをしますよ)自分にとって必要な装置ではそれはあった。吐き出す場所が必要だったんだよ。今も必要だし。それで、日記帳をすっかり使い切ってしまったので、浪人の時期からキャンパスノートに移行して、鬱々とした事柄よりは異性にまつわることがらを中心に書くようになったそれを最近ひみつノートと呼んでる。今ぱらぱらと見返すと、二年前とかでもすでにどろどろとした青春で、当時の自分との連続性が薄くなってきていることを実感する。 そんで、何が言いたかったかというと、誰しもひみつノートをかかえてはときどき夜に書き込んだりするのは必要なことだし、素敵な気分になれたりもする。鉛筆を削って、字の形をすこし気にして、先の展開が見えたりしながら、それを裏切ったり忘れたりしながら、キーボードでするよりゆっくり、書き換えのきかないしかたで考えをつなげていくこと、それが近頃の意識の散漫さにいい薬になった。それに、なんだか今やキーボードは速すぎるんだ。考える速さが入力する速さに追いつかない。考える道具として書くのなら、今の自分には手書きがちょうどいいパートナーなのかもしれない。考えながらノートに文字を書き付けてると、もとから音はしてなくても不思議と周りが静かになる。まだ、ひとつのテーマでも書けてないことたくさんあるんで、ひとつずつ書いていきたい。 2014/3/16(Sun) ふと振り返ると、高校時代は暇だったよなあと。自由時間なら今のほうが多い。大学は休みが長いし、授業に出る拘束も少ない(それでも授業には欠かさず出るほうだったけど)。でも高校時代にはあり余る暇があった。考えることが少なくて済んだ。好きな子のことと、自分の怠惰のこと、その2点だけだった、今振り返ると。当時にしてみればもっといろいろあったかもしれないけど、学校はわりと平和だったし、悩ましい時間(体育の剣道とか・・・)はあっても一部分にすぎなかった。朝起きれば選ぶ余地もなく学校へ行き、眠気に耐えたりしながら授業を受け、部活には入らなかったので終われば自転車で、どこにも寄り道せずに帰った。まじめだったという以前に、寄り道する場所もお金もなかったし、バイトをする動機になるだけの世間に対する知識もなかった。そういうわけで家でインターネットに繋いでは、テキストサイトとか日記サイトと言われていたコンテンツをひたすら見ていた。 Internet Archive を駆使して、閉鎖したサイトのログとか、移転前の様子とかを見ていた。掘り下げる、ということをする余裕が欠けているなと思う。なんで今は暇じゃないんだろう。就職とか、研究のこととか、恋愛のようなものとか、なるほど世間的なものに自分の人生がからんできているのはわかる。ずいぶんといろんなものが見えるようになったのは確かだ。そん中で、当時のような暇な時間をもつこと、それが大人としての腕の見せ所なのだと自分で気合いを入れてみる。 というか単にやることが多いな。ブログの巡回は高校時代からやっているが、それに加えてメールチェックにニュースサイト閲覧、Twitterのタイムラインを定期的に覗きつつノルマのテキスト読み、それとは別に趣味の読書、気が向けばギターをいじり、日曜は山下達郎のラジオを聞いて夜にジョギングに出て、音楽を聞いたり日記は昔から書いてるけども、ひげは毎日剃ってなかった。とかく一日の中で習慣としてやってることがだいぶ増えた。そういうことなんだろうか。そうなのかもしれないな。いろんなことを知ってる人になりたかったからその点では望んだ方向性なのかもしれない。まあ、どっちの方向性がいいとか口出す根拠もないんだけど、ゆっくりものを考える時間をもちたいというのはいまの一つの願い。 2014/3/14(Fri) 最近、過去からよく訪問を受けている。遠恋中に書いていた手紙の中身(デイリーポータルZ) なんて記事を読んだ。人と手紙のやりとりをしたいというのは昔っから(3年くらい前から)思ってるんだけど実現したためしはない。手紙で思い出すのは高校生のとき好きだった人に手紙を渡して告白したってことでしたね。みんなには内緒だよ。春づいている。それは別に関係なかったんですが、手紙のやりとりっていいよね。言いたいことを考えてから言えるし、しかも面と向かって言えるんですよ。考えてたらどきどきしてきた。 本日は、午前中バイト →図書館で訳読 →頼まれてる調べもの →カラオケ →帰宅。お昼は、昨日に続けてそば屋で……カレーライスを食べた。量があっておいしい。帰って夕食を食べてからすこし走りに出た。春とか言ったけど今日は寒かったんすよ、未来の俺よ。もちろん体力を使うことを目的としてるんだけど、眠くなったりその後のパフォーマンスが落ちるというわけではないようだ。健康的。 2014/3/13(Thu) 今日はとある会社説明会へ行くのがメーンイベントだった。お昼に安価なそば屋さんへ。駅前にあるようなやつ。そばというのはいい。理念的にいい。健康的にも見せられるしね。外のショーケースの前で何を頼もうか思案するふりをしつつ中をうかがい、サラリーマン風の男の後ろについて入店。420円の肉そばを注文した。繰り返しになるがそばというのはいい。麺からはそばの味が、かすかに、しかし確かに感じ取れる。目を開くようなおいしさではないが、風味というものなのか、安心できるとも言えるし、大きな快楽を与えるではなくても「好ましいもの」というのはあるな。 説明会は、特別行きたい会社ではなかったがとにかくいろんな説明会を積極的に見に行くつもりでいたので来た。それなので受けるつもりもなかったが向こうが受ける前提でことを進めるので、そのまま作文とかして帰ってきた。まあ説明も懇切丁寧だし雰囲気もやりやすそうだったから、このままいってみてもいいかもしれん。説明会ってけっこう有意義なものなのではなかろうか。翻って2年前に就活に指先だけ触れて手を引っ込めた季節を思い返すと、説明会の感想もなにも残っていないので、当時の僕がいかに無意欲だったかわかる。説明会は虚無だ企業は虚無だ社会は虚無だと決めてかかっていたから。 建物を出ると雨が強くなっていた。今日は横殴りの雨になるとラジオで朝言っていたのはこれか。電車に乗り、最寄り駅に降り立つと雨がさらに強くなっていた。風も激しくなっていた。片手はかばんでふさがっており、もう一方の手だけで傘をもちこたえるのはとてもきびしい。なあに握力が鍛えられるさと居直るくらいしか逃げ道がない。傘がもってかれて髪まで濡れたりした。大人になっても文明が進んでも、日本人はこうしたフィジカルな戦いを強いられるのである。ともかく手提げカバンというのはとても不便な装備だと思いました、改めて。 2014/3/12(Wed) 昨夜、詩を書こうと思って詩を書いていたら、はっきり自覚していなかったことが自覚されてきて、そうなのか、と思いました。それまで自覚していなかったというよりは、自覚はしていたけどもっぱら因果的に説明していたのが、別の角度から光を当てられたというところ。人はさびしい、さびしさを埋めるものを人は求める、そうやって人は人を求める。ぼくの感情も打算でできている。……のような説明がなされている事象に対して、より情念的な次元から接近できたというか。たとえばね。因果的に説明するだけが語り方じゃないし、それがものごとに意味を与えるような中心的な語り方でもないと信ずる。生命は性行為の結果であり、性行為は性欲の結果である、そういう因果連鎖を受け入れたからといって生命の価値が貶められたりということには、たぶんならない。というかそんな羽目に陥らないように、さまざまな語り方の存在に気づくべきだと思う。 2014/3/11(Tue) ◆嘘をつくようになった。嘘をついてもいいかなと思うようになっていた。嘘をつくとは何か。それは、自分に嘘をつくということだ。確信という心的状態がある。何々と思っている、ということだ。自分は男だと思っている。そのとき「自分は女だ」と言えば嘘をついたことになる。この場合は明快だ。僕は外から見ても一目で男と分かるようなかっこうをしているし、自分でも男だと思って疑ったことはない。だけどそんなに明快じゃない場合もある。「日曜に海に行ってきたんだ」「そう。楽しかった?」「まあ楽しかったよ」楽しかったんだろうか。自分なりに収穫もあったし普段できない体験ができた(トンビに寿司をとられたりとか)。でもそれを楽しかったと総括していいものか。しみじみとよい時間ではあったが、笑みがこぼれるような弾むような瞬間はほとんどなかった。「楽しかった」というと嘘になる。でも「楽しくなかった」というと自分の体験をすっかり否定してしまう気がして、それも違う。結局わからなくて、ただ肯定的に評価しているという点を最低限確保しようとして「楽しかったよ」と返してしまう。 要するにことばのはたらきがいけない。「楽しかった」と「楽しくなかった」のほかにも無数の評価がある。だけど「楽しかった?」という問いは、「楽しかった」「楽しくなかった」のいずれかの答えを強いるように見えてしまう〔これは「複問の虚偽」の一種と言えるかも:自分用メモ〕。でも、ほんとうはそうではない。「いや、しみじみといい時間だったよ」と答えることができる。自分に嘘をつかない答えだ。決定疑問文の形をしていても、必ずしもそこに乗らなきゃいけないってわけではない。形式上 YES か NO かを聞いている質問でも、それに形式どおりに答えないことが“はぐらかし”にならない場合はたくさんある(残念ながらすべてではないが)。そのことを自分は知っている。……だけど「しみじみといい時間だった」というこの答えは、この文章を書きながらいろいろさぐった先に出てきた表現で、何行目かに「楽しかった?」と尋ねられた時点で答えられたものではなかった。そしてきわめて支配的に多くの場合、質問にはその場で答えることが求められる。あたりまえ。誰かに何かを尋ねられて、「ちょっと待ってね答えを作ってきますから・・・」なんて言って立ち去ったりしたら話が進まないし、それに“その場で問い、その場で答える”というリアルタイムさが対面のコミュニケーションのよさではないか……って、ふだん人とあまり話さないのまる出しな書き方になってる気がしますが。それはそれとして。要するに、その場で答えを考えるのが苦手だって話になりますね。あるいは、質問に対してただちに決定的な答えを出さなきゃいけないという思い込み。 なんか人と話すのいちいち緊張しちゃうのよね。それで不必要にソリッドにやりとりを進めようとしちゃうというか。 それで、自分の実感をことばに込められるほど熟考する時間もないので、それっぽくあたりさわりのない表現ですませているときがあって、これが高じて今度は嘘をつくようになってきた気がするって話。「これは違うな」と思いつつもよどみなく口に出してしまう感じ。きっと人に迷惑がかからなければ、事実と異なることを言っても構わないんだろうとは思うんだけど、そうだとしても、嘘をつくというのは自分が思ってることを不正確に述べてるということでもあり、それは自分にすこしずつ跳ね返ってくるだろうと思う。真実をなるべく追っていきたい。 ◆昼ごはんに、お米がなかったのでじゃがいもをゆでた。ふだんお料理しないのでそう思うんだろうけど、じゃがいもや卵をゆでたりするというのは何か大事な感覚を思い出させてくれることだと思われた。なんで水って沸騰するようにできてるんだろう。なんで気体に変わるときに、ぼこぼこと泡をつくるんだろう。自然に触れるということなのだと思う。 ◆就職の準備だとか論文の準備だとか、やらねばならないこと・生きるために必須っぽいことが出てくると、一日の中ですることを減らすという方向に僕はまず行っちゃうことに気づいた。就職なり論文にかかわることに時間を費やすために、やろうと思ってた他のことをあきらめる。それ自体は適当で素直な戦略なんだけど、どんどん減らすほうへいって、しかも切り捨てるのにあまりためらいがないのが、どうかな、と感じる。楽しみなことをあまり簡単に断念してしまう。断念するというほどの意識もなしに捨てる。どうにか捨てずに済まないだろうかって考えることをしない。そういうことを思いながら、ツタヤでビデオを借りた。 2014/3/9(Sun) 今日なしたこと。一、海に行った。勤めていなくても学校がなくても、週に一度は休暇を取ろうと決めた。オンとオフのさかいがあいまいで、そりゃ好きなことをして暮らしてるのだから望むところだったのかもしれないけど、僕としては読書やお勉強も、日々を費やすためのお仕事に違いなかった。ようするに一日の間にこまめに息抜きをしたからって、きっちりお休みをとった気にはならないのであった。だからお出かけ。世の中のおもしろい施設とかイベント情報に疎いので、山か湖か海みたいなロケーション指定か、さもなくば「八王子」みたいなランダムに浮かんだ地名で足を運ぶことになる。 駅に降りると桜が咲いていた。人が集まって、縁日のようなにぎわい。桜の前でツーショットを撮るかっぷる。海岸もやはり人だかっていた。ビーチバレーを楽しむ人たちさえある。人気のないさびしい海を、というか、邪魔されずにじっくりと海を楽しみたかったので、あてがはずれた気がした。でも地形が開けているためか話し声がほとんど耳に入ってこなかったので、杞憂ではあった。 電車での移動中からお腹が減っていたのでスーパーで買ったエビカツロール寿司を、海岸前の欄干にのせて付属の醤油をたらしていたら、すごい物理量がとんできて奪っていった。とんびに不意を突かれた。いるの分かっていたのに、なんと油断したことか。 それから1時間半くらい海沿いの、海水で砂がまとまってる部分を歩いた。鳥や、みかんや、傘に出会った。海の何を求めてきたんだろう。問いかけても答えない。海に水を見いだせない。あまりにも背景となってしまっている。海を対象化できない。ただ波の打ち方の不規則さをながめるばかり。 根気よく、というよりは何も考えずに景色に引っ張られるように進んでいくと、岩の多い場所に出た。海岸には岩の多い場所とそうでない場所がある。岩は、均等にランダムに散らばっているわけではない。そんな当たり前のことを確認しにくる。 二、スーパーファミコンで遊んだ。家でまだ起動できることに気づいたので、使われずに放置されてたテレビを自室に持ち込んで起動した。もうずいぶん古いので、不安だったがなんとか。前まえから死にかけだったACアダプタが最初に安定し、次に音声入出力端子が通じた。音だけが出る状態のまま試行錯誤した結果、映像入出力端子の先をティッシュで拭ったら復活して使えるようになった。『スーパーマリオワールド』(1990)。かなり遊んだゲームなので勝手も覚えていて、とりあえず近道なしでエンディングまでプレイしといた。それにしてもせんべい山を越えたあたりで「俺何やってるんだろう・・・」と空しく感じ、いったん風呂を浴びながら軌道修正して、酒を飲みながら続きを進めた。つまりゲームをしながらポジティブになりきれなかったのが惜しい。義務を果たしてるほうが安心だから、義務を果たしてないと不安になる。義務に依存することを覚えたのは、いがいと大学以降のことではないか。それ以前は、ただひたすら退屈だったか、ただひたすら自分ともみ合っていたか。いずれにせよ義務を果たすなんてちゃっちい価値にとどまってるのは客観的にみてしょうもないことだと思われたので、ゲームをやり通すという態度表明を行ったのだった。疲れが残ってしまったが。 まあでも大きくなってから出会う楽しみのほとんどすべては、ゲームの中に埋め込まれてたという気もする。埋め込まれてたってだけで体験してたわけではないが。 今日しなかったこと。タコライスを作る。お出かけした関係で夕食供給されないと思って今日はタコライスにしようと思ってたら夕食供給されたので。近いうちに作る。 2014/3/8(Sat) 「いい日だった」は「いい日だ」を単純に過去形にしたものではなくて、つまり、「いい日だった」と言うことは、その日に「いい日だ」と思ったこととを含意しない。夕方くらいの僕は「今日はいい日だな」と思っていた。電車の中で小さな女の子が母親と乗っていて、とてもかわいかった。電車でもかまわず横になって寝るときの顔とか、立ち上がって路線図を見る母親に駆け寄って頭を押しつけるしぐさとか。人をかわいいと思えるのはいいきざしだ。 女の子かわいいって、年頃の女の子かわいいって1年前や2年前はさかんに思っていて、自分女の子のことしか考えてないなって時期があったんですけど、最近それほど無敵状態でもないし「女の子」という呼び方もあまりしっくりこなくなっている。かといって「女の人」とか「女」とかでもないんですけど。そもそも類的に捉えることをかつてほどはしてない。要するにあれは性欲と、性欲と不可分になっている美的感性のアンテナが高くなってたんでしょうけど、それが往年のほどではないのは良い悪いという以前に時間の経過は感じる。 起床は昼前。顔と手を洗って軽く食事して、ノルマ読書の残りを片付ける。気づけば、起きて身支度するなり読書に入る生活なんてかつて理想としてたものではないか。ひとさじの感慨。昼を食べてから大学に向かい、人通りのないキャンパス内を通って図書館へ行き、次に読む本を書庫から出してもらって借りた。なんて書くと優雅だ。特別何と思っていたわけではないけど。 一日を上手に思い出せなくてもどかしい。 Twitter に、書けるターンと書けないターンとがある。順調穏当にいっててイイヒダナーと思ってた時分は書けないターン。書けないではなくて書かなくてもいいかと思ってるターン。夕食後の楡は鬱になる。夕食して、おなかをふくらまして、活動性がうしなわれるからか、夕食のあとはあー死にたいとかたいがい思っている。思考にことばがついてこないと先日書いたけど、これに関していえば言葉が先にくる。「死にたい」がダイレクトに出てくる。だから意味のまとまりもよくわかんない。それに、死にたいと文字通りで思ってるわけじゃないし。だからなんなのかわかんない。詩なのかもしれない違うかもしれない。ただそうした事態は常態なので慣れてはいるので「はいはい」とベビーカーを押しながら本を読み始めたりするんだけど、今日は落差があったからかうまく運びを運べずに初期のエレカシを聞き始めたりした。そっからが書けるターンだ。ダウナーな気分と書くこととが条件的につながってるなどと言うつもりはないが、確かに僕がなにかを書く場合自己反省的な気分になってることが前提ともいえるので、それは明るい意味でも暗い意味でも同様だけど、そうすると生活を新しいほうへと進めてるときには書く気にならないのはわかる。そして書く気がないときに無理やり書こうとする必要はべつにない。ただ、書く動機が、自分の内的な生理状態とかより外にあった場合もあり、そんなときは求めるようなはたらきを自分のシステムはしてくれない。書きたいけど書くものが生まれない。書くなら書く書かないなら何も痕跡は残さないってデジタルな世界で何かをやりとりしよーってのはその点難しい。言いかけてやめた、ってそぶりが生じえない。何も表明しないでつまり存在しないか、さもなくばぜんぶ意識的な「ふり」として出ちゃう。 2014/3/7(Fri) なんだかんだで用事や自主的お仕事があったりして、具体的には送別会とか文献読みとかアルバイトなんだけども、そういうまとまった時間を要することがらに取り組んだり取り込まれたりしてると、一日の中でパソコンつけて巡回してさあ日記書くかーってなった時にはすでに日付が変わりそうとか変わってるとかそういうクロニクルの中に生きていまして、寝る時間とかもあるし(とかもあるしぃ)腰を落ち着けて日記を書けないのですよね。これは悩みですよ。心的葛藤は伴わないけど、確かに悩み。 本を読むとき、歩きながら考え事をするとき、人の話を聞いてるとき、言語モジュールがミュートされている。意味が、左から右へと流れたり、納得して飲み込まれたり、心の中に広がったりはするものの、それをことばでつかまえないので、それっきりになる。なっちゃう。言語は道具、道具っていうとそんなに大事なものではないという印象が横はいりするけど、言葉にして言葉の空間にことがらを保存することで、新しいことがらが呼び込まれる土台にもなる。それよりもなによりも、輪郭のある世界。気づいたことや納得したことを言葉として焼くことで、世界に輪郭が設けられる。恣意性はまぬがれない。でもそれ以上に、それなしで生きるのはむずかしい。恥ずかしいことじゃないさ。言い訳をしなくてもいいの。僕は僕のことばでふちどった世界に生きたいと思っている。世界に、自分の思い入れを積極的に投影すること。 2014/3/5(Wed) 9時半起床。図書館行くって決めてたし、朝ごはんを食べる気持ちが高まっていたので起きる。 honto から本が届いていた。佐藤坦『はじめての確率論』。 500 円のクーポン券が得られるというので選んで注文してた。一週間くらい前か。統計学か確率論を勉強しとこうと思っていた。自分のやってるテーマと哲学的に手を触れそうだからってことで。電車ですこし読み進めると、数学書っていいかげんなとこあるなって感触が以前より生々しく……。断りなしの省略表現も多い。この本、「本書を読むための予備知識としては、足し算と引き算ができれば十分です」と序文にあり驚愕なんですけど、ページをめくると積分記号とか出てくるのでさすがにさすがだろうとは思う。でも本文8ページの時点ではまだ(初歩の初歩だからか)なんとかなっている。 大学の図書館に出向いて、12時からノルマの読書。なんかねむだるい。午後起床1日2食の生活習慣がつづいたせいか、外歩いてても寒くて弱ったし(雨も降ってたから・・)、快活ではない。あと椅子があまり得意じゃないとかで家でやるよりも時間がかかった。お昼に牛丼並盛を食べたが、いつものような満腹感がない。ひきこもってると運動しないわりにご飯はよく入るようになるのは、浪人時代と同じか。読書は背すじを伸ばしたら頭に入るようになった。結局それか。家でもざぶとんの上で背すじ伸ばして読んでますし。あとパヴロフの論文を読むつもりで来たんで『世界の名著』の当該巻があるだろと思って探したら、書庫送りになっててめんどくさくてやめた。代わりに事典の項目読んでたら、何点か気になることが。条件反射とただの反射の違いって何よというのと、彼が例の実験で「高次神経系」なるものを発見したという記述があるけどこれは何かっていうの。ふとんの中とかで考えてるとこういう好奇心の広がりも予測できない。どうもふとんの中で考えて判断してしまう悪癖がある。そりゃ、自分が知ってることをそっくり確認するだけの文章なんてこの世にはほとんど存在しませんわな。 2014/3/4(Tue) 二年前にしたときと相変わらず会社説明会の予約はすでに満員のものばかり。しゅうかつには第一にすばやさが求められるってことだ。まあ、遅れるのわかってて遅れたわけだけど、だからどうなるってわけでもない。この先の展開に期待したい。(情報も集めよう) 13時前に起床。気がするじゃなくて、明らかに起床時間が遅れている。それはとってもあきらかなことなんだなあ。ふとんの中で、見た夢を覚えていたので気紛らわせに Evernote にメモした。エヴァーノートに夢の内容メモが何点か残ってるのですけど、それ見るとどの夢にもリアル知人が出てくる。 洗面所で手と顔を洗いながら、研究のプランがふくらんできたので、紙にざくざくと書きつける。ボールペンのすべりのよさが好きさ。ボールペンを使ってるときにだけあらわれる字体がある。 弟手製のスパゲティをいただき、ぼちぼちと本を読み始める。作業に向かう気がだんだんと楽になっているのは、要領がわかって慣れたのと、課題量そのものが減ったから。章分けに従って課題を分配してるので毎日すこしずつ違うページ数を読んでいる。 途中、本棚にスペースを作るための整理。学術雑誌が目にとまって、知り合いの論文なんか眺めていたら楽しくなってきて、「馬鹿で良かった」というセリフを吐いた。でも反省した。「馬鹿で良かった」と自称する者は、自分がすんでのところで真性の馬鹿たることを免れていると思ってもいる。なぜなら本当の馬鹿はみずからの馬鹿さかげんを俯瞰したりはしないはずだと考えられるから。そのうえ、馬鹿という低い価値を、かえって幸福をもたらすものとして、高い価値へと寓話的に転回しようとしている。でもそれってのが安楽椅子の上でやろうとしてることだから、格好悪いな、ということを考えた。 そんな調子で夕方までして、ほんとうは陽を浴びて散歩したかったんだけど時間が惜しくて、日が暮れてからジョギングに出た。いままでなかったほどのスロージョギング。歩きよりは速いが速歩きよりは遅かった。スローにすると息が上がりにくくもなり、長めに走ったら右足の関節が疲労ですこし痛くなった。 とにかく、運動したおかげで夜はおだやかな気持ちでいくぶん過ごせたかもしれない。 ってなんかほんとのただの日記だな。出来事のひとつひとつに対するつきあいが浅くならざるを得なくて、それは不本意。30分とかで書こうとしちゃだめだわな。 2014/3/3(Mon) 自分のために何かをする、ということが大事なのだと思う。自分を美しくしたり、自分の能力を高めたり、自分においしいものを食べさせたり、自分の部屋を快適にしたり、そういうことのために何かをするということが、やはり今日も心の健康のためにはいい。と、脇毛を剃っていて思った。昨日に引き続き、メンテナンスのために風呂上がりにT字カミソリを当てたわけですが、よく見るとそり残しというかあからさまに剃っていない部分があり、ほこりがついて濁った自室の鏡を思った。実例があれでまことにあれなんですが、ともかく自分のためにとりはからうということ。自分が最低限死なないように配慮するというレベルを転じて、自分をよりよくするようにはたらきかけることが大事なんだな、って思ったでした。脇毛剃りながら。脇毛を剃るのが自分をよりよくするのかはともかく、それで得する人がいるとしたら自分だけなので、たぶんそういうグループに入る。 週末は山登りに行きたい。こう言ってて実現したことのほうが少ない。それは私が寝坊する体質だからさ。体質じゃなくて、なんでもいいけど、起きられさえすれば山登りにいける。起きられなかったらプールに泳ぎにでも行こう。レクリエーションを求めている。 ていねいに生きたい、って、また Twitter のプロフィールに掲げててややせせこましいわけですが、ていねいに生きるためには心的な努力が必要なんじゃなくて、意識に暗示をかけることが必要なんじゃなくて、端的に何をなすかという what の部分でそれは決まるのだと思った。本を読み始めるときに机をきれいに片付けたり、お茶が薄いと思ったら横着せずに新しいものに替えたりする、そういう追加によって、動作にもていねいさが出てくる。なんか主婦向けの雑誌かなんかに書いてそうだな。 2014/3/2(Sun) 1時半には寝るつもりだったが現在1時46分。どうする。でも日記を書く。それしかできない。うそ。でも日記を書くことはできる。うそ。べつに、日記を書くことはオプションじゃない。今日も昼まで寝ていました。起きてごはん食べてからノルマの本を読み始めました。時間を測ったらだいたい1ページあたり2分弱かけてる計算になり、今日の分を読み切るには4時間半ちょいかかる計算になりましたので覚悟を決めました。今日はそれに集中することにして、結局23時00分にすべて読み終わりました。まあともかく時間を計って、どれくらいで終わるか見当をつけておくのは健康に良い。トライアンド試行錯誤のきっかけをつくれるし。終わってから20分くらいだけ就活しました。なんとなく脇毛を切り落として剃りました。変態ちっくだね。わりとストレス解消的な意味があるのかもしれない。ぜんぜん書き足りない。10分ていどで日記を書こうなどという甘い考えをもつべきではなかった。おやすみなさい。 2014/3/1(Sat) しまった3月か。日付を記して気づく。でももうすでに3回ほど気づきなおしている。昨日からある本をマラソン的に読んでて、一日百何十ページ読み進めることをノルマにしてるんですけど、本を読むのはいまだに得意ではないし、すらすら読めるたぐいの本というほどでもないので、結構難儀する。難儀するだけならいいけど文字だけ追ってて内容がぜんぜん入ってこないということがある。長期休暇に入るとそういう努力を重ねたりするんですが、たいがいむなしい努力で終わっている。「あの本は苦労して目にさらしたなあ」という感想のみが残る。読書メモ――読みながら気づいたことや、目にとまったフレーズ、本とは関係ない思いつき、書けない漢字、といったことをA4くらいの紙に書き出していく――をとると、頭がただしく働いてくれることがわかったので、今後これで対処したい。本との対話。そうやって読み終わったら1時過ぎになってたので、白くなった心持ちでこの日記を書いてる。 最近また憂鬱ぎみで、それはこないだの憂鬱とは別の原因によるもので、ようするに長期休暇でやることなくて生活にハリが……てな事だと思うんですけど、それと就活を先延ばしにしてることも効いてると思われる。やんなきゃいけないことを無視して、でも心の奥ではいつもあって、やってないだろーやってないだろーって枕元に化けて出てくる。やりますともさ。そういえばテスト前にならないと勉強しない生徒が、就職に対してはきちんとステップを踏むように石を打ってくのはどういう差の表れなのでしょうね。 |