2014ねん 02がつ くみ なまえ 2014/2/27(Thu) 国立新美術館でやってる「東京五美術大学連合卒業・修了制作展」に行ってきたよ。3月2日まで、入場無料。とにかくたくさんの人の作品が見れたのでよかった。芸術とはなんなのかよくわからないし芸術を通して強烈な体験を持ったこともないけど、きっとなにかあるのだろうと思いながら美術館には年に3回くらいいく。とにかくいろんなのを見るのが重要なのだと思う。その点ではほかの諸芸とも同じだ。実物に触れているうちに、語彙とか作法とかが身についてきて、自分でもできるようになる。セオリーは全体を捉えることを目指すけど、その世界に参入するためには補助具であるにとどまっていて、実践を繰り返してなじんでいくしかない。簿記の勉強しててそれは感じた。テキストはやさしく書かれてはいるんだけど、基本的な重要なこころには触れられていなくて、仕訳ってのが何の役に立つものなのか、なんで勘定の左と右が同じ金額にならなきゃいけないのか、そういうことが、書かれてはいたはずなんだけどさらりと流されてしまう。でも過去問とかに取り組んでるうちに自力で理解し始めて、試算表の読み方とか何を意味しているのかというのもなんとなくつかんでしまう。しまいには仕訳とかそういう専門用語を日常生活の比喩に使い始めてしまう。多くの諸芸ってそうだよ。哲学は入門書の最も書かれている分野の一つかもしれない、それぐらい、哲学のこころを説く本は多いけど、それでも哲学するコツというか心構えは、自分で哲学して考えるなかでものにしていくしかない。それぞれの本は断片的なヒントを与えるにすぎない。諸芸ってはじめに出しちゃったけど、たぶんスポーツがもっともわかりやすい例だろう。幅跳びのフォームを図解したり、お手本の体の動きをスロー再生で観察したりはできても、それだけで幅跳びができるようになるわけじゃない。頭で考えるのと実際に体を動かすのとが違うというよりは、そうした視覚資料だけでは幅跳びのやり方を十分に理解すらできていないということだろう。 ところで、ほんとうにたくさんの作品が展示されていて、つぎつぎと見ているうちに、泣きそうになる瞬間が一度か二度あり、それは僕の中で新しい出来事だった。作品を見て、確かになにかを感じてしまった、了解してしまったのよね。作品と私のコミュニケーションが通じてしまったの(作品の意図した事柄が伝わったのかはわからないけど)。まず大学生(および大学院生)の作品ということで、近づきやすいということはあった。プロの作品は、芸術が art である、つまり技術を含むことの宿命なのかもしれないけど、つまりしっかり洗練されてて、かえって作者のしたいことが見えにくいということがあると思う。思うに、芸術にはもともと善し悪しなんかなかった。質の高い低いの前に、作者が前にしたなにかを表現できていることのみが必要要件だったのだろうけど、やっぱり芸術が技術に拠っているということで、しだいに高級と低級との別が生じるようになり、ひとびとは高級と低級とのスコープを通して芸術を見ることを好むようになったんだろう。そのほうが処理しやすいからだ。わからないと言ったくせにいろいろ書いてしまう。「芸術とはなにか」みたいな御託を並べるのをやめようとまずは思ったはずなのに。べつにいいや。自分で書いたそいつが、はっきりとダサいと思えるようになるまで置いておこう。……さて、それが技術をともなうものである限り、高級と低級の評価の野原はどんな分野にも忍びよる。音楽も、学問も、事務仕事も。べつに悪いことではないが、でもそれだけじゃないとは思っていていい。 昔から芸術系の人には劣等感があって、それは僕よりもずっと真剣に生きているように見えたから。劣等感は僕の場合体力を奪うほうにはたらいたから、こうした展覧会は避けるか、行くとしてもぼろぼろになる覚悟で行くところだった。前はね。「僕よりもずっと」なんて書けば、僕は僕なりに真剣に生きていると言いたいようにも見えるかもしれないが、その逆で、真剣に生きていない(そしてそれが耐えがたい)という自覚が強かったために、真剣に生きている人を見るのは苦痛だった。そういう苦痛をうまく扱うために頭を使ってきたといっても間違いではない。芸術系の学生が生に対して真摯かどうかという事柄自体にはいまはさほど興味を引かれないんだけど、今回見てみて思ったのは、作品を作るということは一つのことに集中することであり、集中するというのは心のモードとかではなくて見るものや関心を向けるものつまり見える世界を限定することでもあって、つまり他の可能性を切り捨てて、どうなるかわからないものに賭けるということであって、そうした時間をくぐっていることに感慨のようなものを覚える。ひとつのものを、なにかを直視しようとしている、すっかり見定めようとしている、その態度自体が貴重なものに見えた。 2014/2/26(Wed) 今日はあたまわるい。ものごとに注意を集中することができないのよね。この文章も進まないし。起きたら昼前でした。いつもよりも1時間くらい遅い。にんじん・たまねぎ・しいたけ・長ネギを入れたチャーハンを作った。家で自分でお昼作るときは伝統的にラーメンかチャーハンかスパゲティ(NEW!)になる。それしかレパートリがない。ついでに、肉を扱う気概がないのでベジタリアンメニューみたいになる。ならないならない。ただ肉を抜かしただけ。ベジタリアン向けのメニューってもっと独特の文化があるものじゃないかしら。食べたことはないが。しかしチャーハンに卵を入れるようになったのだってたぶんここ1年くらいのことだと思うので、大進歩なのであってほめなくていいけど自分で肩をポンポンと叩いてやりたい。卵はようするになんかめんどうだっただけです。入れなくてもこれはこれでって思ってた。今もそう思う。肉を入れなかったのも要するに横着してただけなのだ。しっかり火を通さないと食べられないようなものに責任を持てないとか生肉の感触とか脂気が好きではないとかぼんやり思ってた気がするけど、それら含めて横着でしかない。横着って最近いうのがマイブームなのだ。人間は横着する動物だ。世間で前提されているほど人間は合理的じゃないって感情を持ち続けてきたが、これが「人間は横着する」と言い換えられることに気づいた。歩きながらたばこに火をつけようとしてライターをカチカチやる人。歩きながらやるのでライターの火がうまく出ない。でもやろうとする。すこししてあきらめて、立ち止まってつける。そんな場面、その人の人生で何度も出会ってきたはずで、でも合理的に学ばずに、その場面に出会い直せばまた横着する――歩きながら火をつけようとする――ことを繰り返すだろう。……でも人間の非合理さを強調する楡に対して、次のような批判が寄せられるかもしれない。「横着する」ということは、楽をしようとする、手間を節約しようとするという、むしろ、合理性の追求のあらわれと見るべきではないのか。そうともいえる。でも、横着して失敗するのにそこから学ばずにまだ横着し続けるのは、遠くが見えていない、人間の合理性はある程度で満足してしまうってことなんじゃないか。そしてその満足する程度は、ちまたで前提されているよりも低い、って(だからちまたってどこよ)。ところで、書いてみて気づいたのですけど、僕が今日ここで言及したあたまのわるさとは、頭と体がうまくリンクしてないことなのかもしれないって。頭じゃいろいろ考える。でも考えたものを手で書くまえに、それが死んじゃうんだ(それで数日後に復活するんだ)。考える速さに書く速さが追いついてないんじゃなくて、書くために考えてるのに手が動いてくれない。人の話を聞いてる時みたいな体勢になってる。僕が人の話を聞いてるときの体勢にも、ひとつ罪はある。思って口に出さないことってのは、特殊例にとどめておきたいな。 2014/2/25(Tue) ヘッドホンを買おうと思ってて某大型家電量販店で自前のiPodつないで試聴して回ってたんですけど、ヘッドホン選びって難しい。どれがよいのかわかんない。どれがよいのかわかんないのならそれは聞き分ける耳がないってことだからなるたけ安いの買っておけば間違いないのでわと言われるわけですが、もう少しそうではなくて、違いはわかるんですけど、目で見るようにあきらかに見えるわけじゃないので考えが安定しないのですよね。一般に値段が上がるほど音質がよくなることは確かなようですが、正比例ではないし、例外も少なからずあるふう。低音を強調していい音にみせてる?機種もあるし。難しい。足踏みしようとすればいくらでもできる場面ですわな。 飲み会行ってきたんですけど、今日はあまり酔わなかったな。飲んだ量がというよりは、あまりリラックスして楽しんでなかったので。実際、帰ってきて水飲んでもふだんとあまり変わらないので、アルコールも大して吸収されてないらしい。僕酒強いほうに入るようですけど、こうなると酒が強いとはなにごとかがわからなくなる。つまり、リラックスしてなかったら酒飲んでも酔わないわけでしょう。逆にリラックスしていれば酒の回りは早い。なんならビールの匂いだけでスイッチが入ることもありましょう。酒に強かろうと弱かろうとこれは変わらないはず。要するに、酔いやすい酔いにくいという基準で酒の強さを評価するなら、酒が強いとは単に酒に鈍感だということを意味するにすぎなくなってしまう。でもそうじゃないよね。「酒が強い」の意味を提供する第二の候補は、飲める量の大小に訴えるもので、これは確かに適当な規定だと言える。強い人はたくさん飲める人だ。けど、やっぱり、酒がたくさん飲めようと少ししか飲めなかろうと、気持ちよく酔えるかどうかがポイントなのであって、強いからどうなのか、という気はする。たぶん、酒に強いかどうかは、本人にとって有益な特性であるとかではなくて、その人のある面での性格付けにかかわる語彙なんだろうな。どういう人かってのを描写するときに、「お酒が強くて・・・」と言うことがある。 2014/2/24(Mon) 時間が惜しくなるのって暇のたまものなんだろうなあと。(ところで「たまもの」って、「たま」という音が入っているので、積み重ねられて形をなしたもの:玉という意味から了解していました、人生のある時期まで。努力のたまもの、ほら、そんな感じするでしょ。「ナイルのたまもの」の解釈もこれでまあまあ差し支えなかったので、賜るの賜物だと気づくのはだいぶ先のことになる) なぜこんなことを思ったかというと、この日は通してだらだらしていたから(この日記は翌日に書いています)。時間が余っていれば日記を書く。時間があり余っていると日記を書かない。標語にするならそんなこと。こなすべき仕事が目の前にいくつもあるときは、日記を書く時間がとれないけど、仕事が目の前にすこしもないときも、日記を書く時間がとれなくなってしまう。なぜだろうか。することがないと人はインターネット検索に走ってしまうからだ。インターネット検索には終わりがない、隙間がない。買おうと思っている本の評判を調べるために、書名でぐぐってみる。検索結果1ページ目に出てきたものをざっとタブで開いてみる。開いた順に読んでいくと、amazon.co.jp が「この商品をチェックした人は……」とティッシュを配ってくる、それに乗せられて「そういえばこの本はどうなったかな」(どうもなってないのだが)と開いていく。ところで太田裕美のデビューって何年だっけ。 Wikipedia で確認も済まないまま、ヘッドホンを買うために下調べをしなきゃいけない気になって、 2ch のログとか見だして、どんなのが欲しいのかもはっきりしないのに、しだいにレビューもまじめに読まなくなってキーワードだけ追いながら手だけ動かしてる形になって、……。こんなことをしていると、逆説的に「時間がいくらあっても足りない」状態になる。足りないっつうかいくらあっても使えるというか。インターネット検索してなくても、やることは確かに無限にある(読みたい本を数えはじめた時点でそれは無限にある)けど、インターネット検索の特性は、タスクがパッチワーク状に重なり合いながら連続していることで、隙間がないんだよな。息継ぎがないから日記を書くのも忘れる。 ひとつひとつを完結させることが重要なんだよな。それから、借りていた『シャイニング』を見て寝ました。2時くらいまでねばるとかえって目覚める時間は早くなる。起きる時間は…… 2014/2/23(Sun) 簿記の試験は、思ったよりうまくいった感触。少なくとも収支のつじつまがあわないで白目をむくようなことはなかった。家でやったどの予行練習よりも確実にできたかと。家でやると、すぐ教科書見ちゃって、課題を乗り越える覚悟が足りないのかもしれない。まったり気ままにお勉強モードになっているのだよね。試験場でやるとお仕事モードになれる。バイトで事務仕事を粛々と片付けるように、落ち着いて対処したら、家でやったどの予行練習よりも時間が余った。感触としては悪くないので(所々つまらないミスを重ねてる匂いがしなくもないが)、受かってても驚きはしないと思う。 試験が午前中で終わってから、ブックオフに足を運んだ。途中、かき氷機でおろしたような雪が降った。岩波文庫の旧い『宮澤賢治詩集』を見つけて、(旧字旧仮名遣いなので)買おうかと思案した。でも、新潮文庫版と同じく「小岩井農場」が抄録なのと(こういうのやなの)、だったら全集版を入手すれば間違いないかと思ったので買わなかった。あとで確かめたら全集は詩篇が6巻くらいにわたっており(うち『春と修羅』だけでも3分巻!)、しかも1巻につき10000円とかするので、岩波文庫のやつを確保しておくべきだったとこの男は悔やむことになる。しっかし旧字旧仮名遣いを現代のものに直したらどうというのは、シビアな問題よねー。それがテキストの変更と呼べるほど大きな(本質的な)変更なのかどうか。「体」を「體」に変えても、意味が変わるわけじゃない。いや、部首とか見るから変わる気がするけど、実際文脈の中にまぎれてしまえば機能としてはほとんどまったく同じなんじゃないか? それに、「體」を使ってた人は「体」を使うことはできなかったはずなのだ。当時の人から見て(見ることができたとしたら)、両者は等価物だというべきではないか。……そうすると、むしろ、「体」を使うことができる私たちが「體」も使うことができるという事実が、ことがらを複雑にしているようだ。両者が異なるものだと見ることができるのは、新字体が導入されてからの私たちだけではないか。(この話は時代考証もあやしいのでここらへんで切る) あとは基本的にだらっとしていた。これまでもテレビ等で幾度も耳にしていたあの曲、グリコのCMソングになっていたので検索したら、カーペンターズの close to you という曲だと判明したので、家にあった CD から参照した。ネットで歌詞を見ると、ロマンチックで泣ける。海の向こうの人たちはロマンチックな言葉を書くのが上手だな。事物や空想を語ることで心を表現すること。わたくしなど、地面を這うような近眼視的な記述しかできない。 2014/2/22(Sat) 朝一番で中身の濃い鼻水が出、こりゃ幸先いいなと思ったが、夕方ぐらいまではここ3日間で最も風邪らしい風邪というか、体内の刺激に敏感になって腰などにいやな痛みを抱えたり、外的な刺激に敏感になってコップを置く音が攻撃的に感じられたりという体調でした。鼻水はほとんど収まった。そのかわり空咳が出るようになった。風呂に入る前、トイレの便器に座ってTMネットワークを心で口ずさんでいたら、その時間がふしぎと長く感じられて、そのあとは楽になった。たぶん明日にはほぼ平常時まで回復してる。回復しといてくれ。 というのは明日は日商簿記3級の試験なのであり、今日はそのために最後の詰めをやっておりました。最後の詰めといってもかなり付け焼き刃(準備期間実質1ヶ月弱)なので、テキストの復習してて「こんなのあったっけ?」ってなったり、問題を解いてみたら基本的なとこを見落としてて点数ごっそり落としたりしていましたけど。しょうがない。浪人生の頃から結局変わってない。周到に準備して試験に臨むことなんて僕の人生にはないのだ。(最近開き直りすぎじゃないか) 勉強のあいまに開いた本のリスト。『典座教訓・赴粥飯法』、『会計学入門』、『六十億本の回転する曲がつた棒』、Language, Truth and Logic、『お経の話』、『ニューエクスプレス グルジア語』、『檸檬』。だいたい1ページも読んでなくて、目次だけ見たりぱらぱらっと目にさらしただけなのがほとんど。最近、本を、取り出した順にどんどん並べていくことにした。この発想は、『「超」整理法』に、読んだことないけど書いてあるらしいよ。本にはふだんから気になる本とまるで意識にのぼらない本とがあり、本棚をブラウジングするときには、両者は分けておくのがいい気がする。なぜなら、両者を混ぜておくと、ふだんから気になる本ばかり目についてしまい、意識にのぼらない本がいつまでも意識にのぼらないままになりそうだから。意識にのぼらない本は、それだけでまとめておいたほうが、ポテンシャルを発揮できるはず。 2014/2/21(Fri) なんのために Twitter への書き込みを控えているのかよくわからなくなってきた。書きたいネタはある、というか、完成形 tweet の形でぽつぽつと思い浮かぶものはある。自分側の条件は整っているのに、十分自覚されていない意地の悪さのようなものから、ツイッター絶ちを続けている気配もある。でもその意地の悪さも、その意地の悪さの背景になってることどもも、きちんと引き受けてるわけではない。結局はわからない。自覚してもわからない。自分がほんとうのところ何を欲してるかなんて、自分に聞いても自分が言いよどむだけだ。自分がほんとうのところ何を欲してるかなんて、自分がほんとうに何かを欲してるときにのみわかる。あとはべつに、ふつうだ。未来の自分を楽させようという打算と、目先の楽しみへの嗅覚と、あとは混乱があるばかり。 Twitter を一時的に書かないことにしたのは、月曜の日記によれば、当初は健康のためだった。わかりやすい。いまでも健康のためだろう。だから、自分で刹那的に判断せずに、一週間ぐらい様子を見ようと思っている。 Twitter の使い方なんか昔からわからないし今もわかってないのだ。そのむかし Twitter に参入したときは、 Twitter に参入することへのためらいをブログで繰り返し書いたあげく、参入したのだ(なぜ参入した:おもしろそうだったから)。参入してからも肯定しきれずにいろいろ書いている(※1)。というか今でもよく言及してるし。ただ当時のものをざっと見返してて気づくのは、色々書いてるけど結局は日記に愛着があって、 Twitter やってると発信欲が満たされちゃって日記を書かなくなるから抵抗してたもようだ。これは今考えても正しい。僕なんかがんばってツイッターも日記も両立してるが(誰も得しない)、 Twitter に移行して日記を書かなくなった人なんて枚挙のために暇を割くのを思いとどまるくらいありふれてますし、僕の日記もインターネット文芸というよりはむしろ辞書的な意味での日記に落ち込みかけたまま歩いているし。 それを思うと、今 Twitter に書くのを絶って、心に移りゆくよしなしごとをもっぱら日記にぺちぺち叩きつけていてぐあいがいいのは、まったく必然的なことなんだよな。ふたつは両立しないのである。日記を書くための栄養が Twitter に吸われるか、 Twitter に書くネタを日記の餌にするか、どちらかだ。それに、 Twitter と日記とは、どちらも自分のことを自分のために書くという点で似ているが、やっぱり違ったことをするための場所なんだよね。ゆうか平たくいえば Twitter は煎じ詰めればえすえねーす(SNS)なのであって、キャラクターを演じたり、キャラクターを破棄してみせてメタ的に楽しんだりする場所なのだ。だってそこには人の目があるのだから。タイムラインという形でヴァーチャル化された人の目が。僕がえすえねーすより日記を好むのは必然である(開き直った)。 文章を書いていると、いろんな「言いたかったこと」を思い出す。それすべてを詰め込むわけにはいかない。僕の日記は(そして多くの人の日記は)、いつも不完全のまま終わる。今日の僕が書き損ねたことは、明日の僕が書いてくれる。それは正しい。いや正しくない。今日の僕が書き損ねたことを明日の僕が書いてくれるなんて期待しちゃあいけない。明日の僕はまた新しい課題を見つけるだろう。そうしたら今日書き損ねたことに付き合うひまはない。だから今日の僕が書き損ねれば、やはり永遠に書き損ねたままだと腹をくくるか、永久に日記を書き続けるかするしかない。なんのためにこんなことを言うかといえば、かつての僕が懸念していたとおり、 Twitter ではすべてを書き尽くしてしまうのだ。でもそれは僕が望んでいた「書き尽くし」ではなかった。僕の世界があますとこなく記述されてしまうのではなくて、僕の世界を記述するための材料を使い切ってしまうという意味だったわけだ。だから、今は、書かれていないことあってこその書かれるものだという思いを強めている。比喩を探すなら、書かれていないことは、意識しないけど必要不可欠な空気のような、消化吸収の過程のような、つまり、ばくぜんとした位置づけはわかるのだが、そのはたらきをつぶさに観察することができていないから、なんだか切れのわるい比喩になってしまう。 ◇ ※1: 興味のある向きは、当時のはてなダイアリーから「Twitter」で抽出してご覧下さい:■。 2014/2/20(Thu) 目覚めると喉がやられていた。喉の肉を前方にせり出させる(※)と痛み系の不快感。喉の奥にいがらっぽい残るもの。少量の痰が断続的に出る。色も粘度も頼りない鼻水が出続ける。かすかな吐き気。ごはんは入るけど空腹感はあまりない。「ごはんは入るけど」、と書いたのは、お昼になりゆきで大盛りチャーハン(玉ねぎ)を作って食べたから。NHKを見ながら食べたから。 病状を記述するのに必要なだけの兆候を記述しおえると、そこから漏れ出ていくものがあることに気づく。喉が痛くて鼻水が出るだけなら、なんでこんな「調子悪い」意識がミルフィーユ状に今日に覆い被さっていたのだろうか。身体的な兆候よりむしろ、「調子悪い」意識そのものが、今日を調子悪いものにしているのだ、と、そこまで書いてみて気づく。意識を改革せよと言いたいのではない。事実よりも強く残るのが、事実に対する把握の仕方だってこと。 ※注:具体的なコツとしては、喉の上部の肉を舌先で触れるように、力を入れて変形させること。痰を出すときの動きに近い。というか痰を出すときの動きのほうが痛いな、いまやってみたら。これは喉の肉と舌を密着させて、真空状態で舌の動きによって喉の肉を絞りつつ、痰を前方へ運ぶ動きだろうか(あやしい推測)。 2014/2/19(Wed) 今『YOSUI TRIBUTE』聞きながら書いてるんだけども、陽水の曲を料理するのってほんとに難しいんだろうなっと思う。陽水本人の音源でもなかなかうまくいってない例は多い。ポップミュージック的な爆発力のあるアレンジはできないものか。そのポテンシャルがあると思うのだけど。でもこれだけみんなで束になってかかっても正体を暴けないのは、やっぱり本体そのものがぼやけてるんだろうか。輪郭のなさは(中期以降の)歌詞において顕著だけど、作曲ではどうだろう。 やはり昼前に起床。手にワセリン塗って寝るだけ寝てたらあかぎれがだいぶ改善してたのでちょっとハッピー。この「あかぎれ」という語彙は最近になって他人から仕入れたもので、アトピーで主に悩まされる要因であるところの指のひびわれを、あ、でも今辞書引いてみると、寒さによるものじゃないから厳密にはあかぎれじゃないんだな。厳密野郎。 昼まで簿記の勉強やって、昼になりゆきで三流なスープスパゲティ作って、「ごきげんよう」見ながら食べて、家を出た。ローカルな話題になってしまいますが東急多摩川駅の近くにかかる丸子橋の一部を塗装し直す工事がいま進んでおりまして、その工程途上で面白い施しがされていたので写真を撮りに行ってきました。 クリックででかい画像がでます。ファミコンみたいでいいでしょう。 天井部分を見上げるとさらにサイバー近未来っぽくて素敵。 ちなみに、1m2の塗装におよそ8275円かかっているそうです。8275円かけてどっか1メートル四方に色を塗るだけだったらコストすぎる気がするけどそんな話じゃないよな。でもじゃあどんな話なのかはわからない。スケール感覚がゆらぐ。 あとは周辺をふらふらして帰りました。見ること、聞くこと、を、ここしばらくおそろかにしていたなと気づいた。もちろん触れることや匂うことも。鬱入るとそれすらもめんどいく思われてくるからどこ出口にしたらいいか結局わからんね。落ちていた金属の部品を蹴って音を確かめてみたり、遠くからカラスを観察したりした。そういうのがしっかり療養になる。ていねいに生きたい、2年くらい前にTwitterのプロフィールにそう掲げていたけど、その教訓はこれからも有効なものであり続けるだろう。 誰かといなくても充実した時間を過ごすことはできる、 Feeling Good が指摘するその当たり前の事実を私も認める。じっさい、僕は他人からなにかを引き出したり他人に向けて何かを提示したりということがとても不得手なので、人の話を聞いたり人と人とがじゃれあってるのを見てすごい楽しいということはあるけど、充実してるときというのは多くの場合それって solitude の中にあるときだよね、ということになる。でもその一方で生きてる意味みたいのを他人の中に求めていたりして、要するに依存的で、そっかそれがまさに Feeling Good がフォーカスしている認知の歪みってやつなのだろうけど、べつに寂しいと感じること自体を止める必要はないだろう。寂しいというのはポジティブな様態さ。寂しいために僕は能動的に人と関わろうという気になる。寂しくなってはじめて、自分を捨てた気になる。 2014/2/18(Tue) 今日も臨時バイトであった。間違えて一時間ほど早く着いたので、喫茶店に入ってアイスティーとともに読書するなど。Burns の Feeling Good をふたたび訪ねている。読みやすいながら練られた英語で(わかんないけど)、読み物としてまず楽しめる品物であることを意識した。いわゆる認知の歪みに抗して reasonable に考えようって趣旨で、人間は理性的に考えることができるし自由で自立することができるって考え方は、西洋哲学の訓練を受けた自分などにはなんだかんだなじみやすい背景なんだろうなって思った。べつに西洋哲学のすべてがかかる前提のもとに存立してるとか言うつもりはないけど。 あとなにかあったっけ。ここで書くようなことがあまりないように感じられるのは、特定の誰かじゃなく自分の周りの人について考えたり気づいたりすることが増えたからなんだろうか。夢に他人が出てくるようになったのもまだそんなに昔の話ではない。それだけ、それでも、なんか人の中で暮らしてる部分もあるってことか。 2014/2/17(Mon) ツイッター書いてもわるいほうにしかいかないので、読むのはともかく書くのは今後しばらくひかえめにしようと考えているところ。あそこで書くのに充分な栄養が貯蔵されてないんだよね。読書量とか、生活の仕方とか、いろいろな意味で。拾った材料を生煮えのままつぎつぎ出してるようで、自分をけずってちっちゃくするだけだな。いわゆる身を削って文章を書くとかとは違う削り方だ。鉛筆の削りかす。 なんだかいろいろ書ける気がしていたが思想的な面でこれ以上書くことがあったのかどうか忘れた。今日は臨時のバイトで、朝に起きた。気分がすっきりしていて、寝過ぎないことか朝に起きることのいずれかがこの気分のよさをもたらしていただろう。仕事はいつもどおり地味にこなした。午後までと思って出勤してきたのが、長期休暇中は午前中で完結するシフトになっていることが判明し、退勤してからぽっかり時間が空いてしまった。この時間の空きにはとても弱い。メンタル弱ってる時節なのでなおさらまいった。とりあえず、そのまま帰宅するのが想像だに恐ろしかったので、買い物と散歩して帰ろうということで、街に立ち寄った。買い物のために店に入るということは、要するにお金を出して品物を手にして店を出ることを目標にしているわけだが、そういう意味でいえば今日の買い物は4戦2勝だった。戦果は携帯のストラップとキングジムのドッチファイル。言いたいのは向かった先で目的を果たせてないことがどうやら多いということで、この話は買い物だけでなくてその後に向かった某公園も図書館も定休で入口まで足を運んだだけ、ということを言い添えておきたい。いや別にそれ自体が苦ではないんだけど、僕の人生に目下の不幸をもたらしているある性向は深いところでこういう場所につながってはいないかと。思うわけです。 そういう書き方はあまりにもどうなんじゃないか。日記に書くことに関してはとことんひとりよがりでいいことにしてるけど、それを他人が読んだ結果傷つけてしまったりするという事例がたぶん何回かあるので、そろそろ足がすくむ。そんな事情もあって、自分の姿を客観的に見れないのがもどかしい。より正確に言えば、自分の文章を、他人が読むように読むことができないのが、安全確認の意味でも、ナルシスティックな意味でも、形而上学的な意味でも、とてももどかしい。そういう時節が年に何度かある。10度くらい。 2014/2/16(Sun) なんだかどっさりとつかれてしまったので絵はお休み。明日も早く寝ときたいのでたぶんお休み。あいかわらず一人で納得して一人でつかれてしまう、この自己完結癖を解消すればひととよりよいつきあいをすることができるだろう。って昔からもちろん考えているよね。方針は変わらないよね。 2014/2/15(Sat) 休みで一日家にいたにもかかわらず勤勉だった。午前中から昼まで論文を一本読み、時間を埋めるためのギターも区切りをつけてそこそこに、簿記の勉強を進め、夕方に買い物という名前の実質散歩に出、帰って夕食して風呂入ってから、図書館から借りている『確率の出現』をわからないながら一章分読み、簿記の勉強を続けてひとくぎりして、ここにアップする絵を描いてスマートホンのカメラで撮影してDropbox経由でパソコンにダウンロードして、縮小したり明るさいじったり拡張子変えたりして画像を完成し、日記の本文を書き始めて今に至る。一つ一つの作業に区切りをつけてるのが、いいんだろうな。ギターの練習は一曲はじめたら最後まで弾くとか、本は一章分とにかく読み切るとか、そうして単位を積み重ねることで、「何かした」という意識が残って健康を維持する糧となる。私は天才肌ではないので、「できるとこまで」だと疲れちゃうんだろう。しかし睡眠はとことんやる。制御できないので飛び起きるまでふとんの中でもぞもぞするままにしてやる。そういや起きるまでにいろいろぐるぐる考えていたような。ゆううつだった。 午後に出た買い物は、コピーしたテキストやら論文をまとめておくためのファイルがほしくて、文房具屋に出向いたんだけど、リングファイルとドッチファイルのさしあたり二種類から選択できることがわかり、この課題は持ち帰って検討せねばなるまいと判断して買わずに帰りました。僕の生活の中ではこういうことがよくある。よい買い物をするという観点からいえば賢明な態度だと思うんだけど、ファイルなんてどれ選んでも大して川欄でしょと言われればそうなのでいたずらに物事の進展をゆるめているようで、ものごとの効率化ということに自分はきっと心の底では関心がないのだろうなと思いました。そりゃ、ネット上の発言からしても、僕が効率化とかに興味あるようには見えてなかったと思いますが。というわけで結果的に散歩になった。濡れ雪で濡れ放題な地面の上を、ゴム長がなかったら僕はどう渡っていただろうか。歩く中でもやっぱりいろいろ考えた。考えたのは頭が勝手に考えるのでほっといて、肌で感じて気づいたのは、世界は期待されるほど不自由じゃないってことだな。ふとんの中で考えてると、人が見てるとこではあれもできないこれもできないって気がするけど、そこまで風通し悪くない。 頬杖ついてる図が難しいって話。平面的に手が載ってるだけになりがちで、デフォルメするなら頬の肉が持ち上げられて皺になってる記号を書き入れるところか。 2014/2/14(Fri) 今年三度目?の雪。出勤途中、バイト先から「今日休んでもいいけどどうする?」という旨の電話。これは休めと遠回しに言っているのだろうかと意識の片隅で疑いつつ、「(出勤してもしなくても)どちらでもいいということですか?」と確認したのち、出勤する旨を伝える。や、もし、遠回しの欠勤勧告なのだとしたら、僕のしたことは、メッセージを読み違えたうえで、自分の誤った読みを正当化する質問でそれを上書きした形になる。……要するに「どちらでもいいということですか?」という二択を迫る問いは、曖昧なままで処理してほしいメッセージに対してぶつけるとき、事態を明確化するようでいて、かえって質問者の都合のいいように事柄を変形させてしまうのだよね。暴力的だよね。ということを思いつつ。 都心近辺では雪が降ると簡単に電車が止まったりするので、(あとお客もなかったので)バイトは結局午前中で早上がりになった。 私はおめでたいのでバレンタインデーのチョコレートが降ってくることを期待していましたし携帯のメール着信にいちいちどきっとしては通販サイトの販促メールだったりして怒り、ときに自らのちっちゃさにあきれたりもしていました。そして今なにも音沙汰がないこと、酒を飲んだこと、夜が深まり無意味に、なんだかいろいろまざって2パーセントだけ泣きそうな気分です。それは何となく気持ちがいいのです。怒りや悲しみが人間をあるべき生活へと整え上げてくれる。そんなことを信じている。でもそんなのドグマさ。笑ったり泣いたりしてる人たちと一緒なのが、ちょっとだけうれしいのかもしれない。でも冷静になってみると結局自己完結している。欠如から意味を読み取って、なにかを知った気になっている。それがリアリティの一部になる。はあ、なぜ、人に対して知りたいことがない気がしてしまうのだろう。 ところで、『クラムチャウダー』、さっそく買ってきました。数々の楽曲が、ポップで耳あたりのいいアレンジになってる。期待以上に自分の狙いにあったアルバムだ。帰宅したばかりで疲れていたので半分くらい眠ってしまったので、また冷静に聞いてみたいと思います。 死んでしまった鳥羽水族館のダイオウグソクムシ(Yahoo,MSN産経)。MSN産経の記事の「解剖の結果、胃の中は空だったが、死因は不明。」という文言が印象的。 2014/2/13(Thu) 井上陽水の曲って、自分でギター持ってコードをなぞってみるとすごくいい曲だと感じられるんだけど、本人の音源を聴いてみるとその「いい曲感」を掘り当てられないのね(念頭に置いているのは、「とまどうペリカン」)。それが不思議だなと思っている。ほんとうは感動的な曲なのに、そう思わせないかのような組み立て方をする。名曲を名曲らしく演出することに長けた人が陽水の曲をリプロダクトすれば、感動するような名曲が生まれるんじゃないか、と、理論上そうなる。また、それを確認する材料が『YOSUI TRIBUTE』だということになる。それは今手許にないので、陽水が自分の曲をジャズ演奏をバックに歌い直した『Blue Selection』を出がけに流してみた。結果、ますますわからなくなった。ジャズってポップスの感動を湛えたジャンルではないものねえ(よくしらない)。つかまえようとしてもするすると手を逃れていく陽水の音楽。ただわかるのは、陽水は歌を通して言いたいことなどないということと、言いたいことなどなくても歌は歌えるということ。それにしてもこのアルバムはエコーが濃い……。1990年代に入ったあたりから陽水の楽曲には霧のようにエコーがかかるようになりました(もうちょっと前から?)が、これが陽水の歌い方さえぼかしてしまうようで、もはや彼が歌がうまいのかどうかさえよくわからなくなった。歌のうまさとは。技術が高いタイプではないが、容易にまねできるようなものでないこともわかる。パターン化しづらい母音の使い分けをしている……ように見える。ここまで書いてから、エコーがひどくないライブ盤『弾き語りパッション』を流してみた。これはいい。やっぱりいい曲書いてるじゃない陽水。ほぼ初期のものだから素直な曲が集まってることもあるけど、「なぜか上海」のもそもそもそっとしてるBメロも情緒があふれていてポテンシャル発揮したなって感じだ。彼の曲は、こういうシンプルなアレンジが最も映えるんじゃないか。その一方で川島裕二 a.k.a. BANANAによるシンセサイザー全開ギミック満載のアレンジが施された諸楽曲もまたどれもよいのだから、やっぱりわからない。ライブ盤である『クラムチャウダー』を手にすることに決めた。 というわけで『弾き語りパッション』のジャケットから。 2014/2/12(Wed) 先月のログを整理して、メンテナンスしにくい仕様にしちゃったなーなどと思っていたら、日記がけっこうおひさしぶりであることに気づいた。今月前半は、旅行について行ったり、集中的にバイトをしたりしていた。それでつぶれてしまった。同じ人たちと集中して同じ時間をすごせば、ふだんよりすこしは打ち解けられるし、それが仕事という共同の作業に向かっているばあい、なおさら打ち解けられるだろうということがある。お酒を頼んでコミュ力を発揮する必要もないから、経済的だ。いろいろなことも思った。とりあえず今はいつもより声がはっきりしていて、早口だ。 でも何かを語るなら、抽象的なことがらを語る。もちろん、感じたことは言葉にしたい。熱いうちに、頭の中で形をつけてみる。でも一晩たてば忘れてしまう。そのときの経験の網の目を写真を撮るように切り取って保存しておくのには不得手だ。言葉で語られたものはいつも再構成されている。まあ、でも、誰だってそうなのかもしれないな。正確さにこだわりすぎていることは自覚している。 2014/2/2(Sun) 先輩に誘われて就活を始めるの巻。=合同説明会に参加してきました。通路をゆけば各企業のひとたちがアピールしてきて、大学のサークルの新歓と同じ状況になってました。ここまで読んで察していただけるとうれしいですが俺はそうしたものが苦手なのだ。ていうかあれですね、スーツと手提げカバンという条件は肉体的に疲れますわ。仕事する前に疲れちゃうよ。社会の不条理にすねたのでツタヤで『戦艦ポチョムキン』を借りて見ました。サイレント映画って快適でいいね。途中から本格的に眠り始めたので中断した。 これ以後言い訳はしません。きゃりーぱみゅぱみゅ。まあ自分の絵に不満が出てくるということはひとつ進歩する時期に来てるのかな。「いい部屋ぱぱっと見つけなサイト」の動きの鋭さを、風呂場でまねていたら、胸あたりの関節?骨?が鳴りました。 2014/2/1(Sat) 臨時のバイトでござった。普段は個人プレーだけど、こうして集まって、それなりに長い時間、お祭りみたいにわっしょいわっしょいやってると、いつも会っている人のふだん見れない一面が出てくる。自分の一面もすこしは出せたかな。 影がじょうずに描けないですね。立体を描く練習をするといいね。中原中也。まゆげ上がりすぎた。 |