永久培養なんだよもん201401


2014/1/31(Fri) コーヒーのカフェインにやられて胸騒ぎがする日だった。言葉を発することが政治性を帯びざるをえないなら、そこに乗っかってしっかり意図を持って何かを言うか、まるで政治なんかには無関心でありたい。

詩という形式には無理があるんじゃないか?と機会あるごとに思っていて、それはむしろ詩に形式がないからなんじゃないか?と思った。俳句や短歌や小説のようなルールがない。論文やエッセイのような明確な(通俗的な?)目的がない。詩はなにがしたいのかわからない。いや、それは詩によって違うんだよ、と言うのかも知れない。詩はそのつど新しく企てられる。詩はつまり「その他」分類である、諸学が独立していってなお残っているものが現代の哲学だ、というふうに。そうやって納得したくなるかもしれない。俳句や短歌と比べると詩は長すぎる。集中がもたない。覚えられない。俳句とか、ふだん読まないにもかかわらず、一発で覚えちゃうものとかありますからね。恐ろしい。いや恐ろしいですよ。ちょっと覗いただけのものに覗き返されて、ずっと脅かされるんだから。それに比べると詩はなんだかだらだらしているという印象がいつもある。自分では書かないくせに、こたつの中で冷静になってみるとそう結論したくなる。書かないからなんだろうな。制作者になることで――そこまでしなくとも、制作にかかわる道具に親しんだり、知識を積んだりすることで――見えてくるものはほんとうに広い。そして詩は論文や会話のように何かを伝えるのにも口べたすぎる。詩は情報のやりとりを目的としないのか。じゃあなんなのか。それがなんだかわからない。わからないのです。だからここまで書いたことはぜんぶ言いがかりです。

人なつこさ20%減の宮沢賢治。時間ないのでちょと雑にやってしまった。ていねいにやろう、ていねいに生きよう。


2014/1/30(Thu) 昼頃みょうにおかしくって、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」をもじって「シャンプー・ロックス・ユー」というのを考えてなんかすごいおかしかったので外歩きながらにやにやしてた。いや。笑みがこぼれるというかわりと満面の笑みで。Shampoo Rocks Youか、へんにおかしくって、何が面白いのか一向にわからないのにおかしいのがメタにおかしくって、それでまたにやついてしまう。一人で笑顔で歩いてる僕は不審だっただろう。そばに誰もいないのに笑ってる人というのは不気味で、その不気味さを埋めるために「あの人には見えないものが見えている」と仮説を立てる人がいるほどだ。電車の中で2chのまとめ読んでにやにやしてる人とか、ハンズフリー?で電話しながら歩いてる人とか見て「ん?んん」という感想を持つのと同根だと思う。ごめん。不気味だね。ちょっとだけ病的だと思う。

大学の卒論をラテン語で書いたという西脇順三郎。現代詩文庫の裏表紙から。もとの写真はもっと顔くしゃってなって、笑ってるんだけど。


2014/1/29(Wed) 昨日は、お勉強を兼ねて東京都北区の紙の博物館と、文京区の印刷博物館を見てきました。ハシゴですぞ、ハシゴ。どちらも入館料300円。百万塔陀羅尼とかパピルスとか見れて満足でした。紙の博物館の小さな休憩室には生きたパピルスが植えてあるんすわ。印刷博物館は活字(活版印刷)がいっぱい見れて幸せでした。どちらも情報量多いし、夕方で閉まっちゃうのでハシゴするには酷でしたね。博物館そのものとは関係ないけど印刷博物館は凸版印刷の付属施設?で、本社のB1にあるのですけど、って調べてみたら本社は別のとこにあるみたいですが、本社としか思えないほどでかい建物でどっひゃーと思いました。周りのビル群からも頭一つ出てる。個人的な感想ですが印刷屋さんがあんなに大きいのって、なんかショッピングモール級の八百屋さんがあるみたいな不思議な感じがします。しました。

今日は午前中試験で、午後はなにもなかったので時間があるということでカラオケを久しぶりに2時間してきました。2時間くらいやると調子あがる。

描くものに困って自分を描くの巻。先週あたりに自分で散髪を行ったのですが、慣れないもんでへんですね。変さ伝わりますでしょうか。鏡を見つけるたびに睨んでいたら、何がへんなのかはだんだんわかってきたが、どう直せばいいのかはわからない。


2014/1/27(Mon) 8時に起きるつもりが寝坊、そういえばへんな夢を見た。1週間くらい前にここで言及した人が出てきて。人を好きになるって心地のいいものだなと思い出しました。ただ好意を抱いても、やり場がわからないのよ。いまでも。それからのろのろと大学へ向かい、図書館で授業ノートのまとめをえんえんと。パソコンで長時間作業するのはきつい。そうしない仕事になるべくつきたいです。

芦田愛菜さん。かわいく描けない。そしてデフォルメから遠ざかっているかのよう。


2014/1/26(Sun) 寝過ごした朝のむなしさ、これからやるべきことを列挙してみてもそこに価値が感じられなくて、体が動き出さない。気づいてみるとここ1ヶ月か2ヶ月くらいは、それを感じることがなかったようだ。1ヶ月くらいかな。あきらめのせいもある。自分はこのくらい寝てしまうんだ、そういうものなんだと。もう一つは、それがつい昨日始まったことだから、ああ、あの人は僕の生活においてある種の目的になっていたんだな、と納得した。その人の存在が、行動ひとつひとつに意味を与える。そんなたいそうなものじゃない。べつになにかが輝き出すわけじゃない。ただ、意味があるかないかっていう、0か0より大きいかというレベルで揺れ動いているらしい。僕の生活は。というのもなにか違う。最近だったら絵を描いているのも楽しいし、料理を作れば充実感をもつし、外を歩いていればいまでもいろんなことに気づく。それでも、起き抜けには虚無感に沈んでしまう。でも起きてしまえば大半なんともない。ふとした折に思い出してうーんとうなることはあるが。最近読んだ『方舟さくら丸』の主人公も、生活の中でひとつだけ、部屋の鍵を開けるときだけ、強烈な孤独を感じると言っていた。その瞬間以外は快適なんだって。

そうした事態には、さしあたり二通りの解釈の仕方があって、ひとつは生活のほとんどが問題なく転がっているんだからほとんど問題ないとする解釈で、もうひとつはその一瞬の孤独がじつは人生の全局面を染めているんだとする見方で、ですけど今は考えないでおく。まずは自分を大事にしようと思いました。自分を大事にすることで他人のこともわかるようになる。保湿に気を遣うことで、電車で隣に座った人の手が乾燥してるな、と気づくようになる。確かに、わたしたちは(僕のような人たちは)、自分と他人を平等に扱っていないことのほうが圧倒的に多い。他人には気を遣おうとするけど、自分は酷使してもいいと思っている。そして、自分に対するその態度がときに他人に接する態度に乗り移ることがある。他人を酷使しても平気だと、ときには思ってしまう。なにが本当なのかは知らない。でも、自分を他人のごとく扱うというアイデアは新鮮だし、試してみたい気になった。いわば自分のマネージャー、上司、監督を自分の中にもつのだ。勉強するときや、外出するときは相談して仕事を振ってもらうし、自由時間を与えられたら好きなことをする。マネージャーは仕事をする自分を評価し、つかれすぎたり、徒労を食ったりしていれば、仕事の振り方を考え直す。

自分が何をしたいのか、自分がなにをしたらしあわせなのか。わかっていない。予想はしばしば外れる。でも他人に対しては、他人がどういうときにいい気分でいるのか、何を楽しんでいるのか、まったくわからないという人もいない。それを自分に対して施せばいいわけだ。おいしいものを食べる、質のよい睡眠をとる、楽しみにしてることをやらせる(今だったら絵を描くとか)。しあわせとは目的の先にあるものなのに、行動を決めるのに幸せを介して考える、行動を決める関数として幸せを扱うという錯誤が起こっているのではないかしら。しあわせの必要十分条件がすでに与えられていると思ってしまう。しあわせとは能動的につかむものじゃなくて、向こうから現われてくるものなのだ。ただ口を開けて待っていよう、ってのではなくて、能動的につかめるものを地道につかんでいこうぜって話。

デイリーポータルZの藤原浩一さん。まだまだ感じは出せないなー。


2014/1/25(Sat) 絵を描こうと思う。

「漫画を書けるようになりたい」と前々から思っていて、まあ何度目かの決心ですよね。(ですよねって最近多いですね) 写実的なのよりは、デフォルメされたもので、要するにものごとを適切に伝えるための形式を習得したいのですよね。漫画とかイラストという形式にはその点強力なものがある。表現したいものを見つけたとき、漫画の一コマとして思いつくことが多いんですよ。

漫画をたくさん読んできたわけじゃありませんが、吾妻ひでおとかとり・みきの絵は理想的だと思う。でもあれはデフォルメが強すぎてちょっと達人の域かもしれんですね(とり・みきの登場人物には、人の顔じゃないやつさえいる)、いきなりマネするのは難しい。しょうがないので自分が唯一やりかたを知っている模写からはじめることにしました。まあ地道にやる。書いたモノを、どうせ誰も見ていないことにしてここに逐次上げていくかもしれませんし、すぐに折れてしまうかもしれません。いまは折れ気味です。拙いものを出すのは気恥ずかしいし、サイトの趣旨が(表面上とはいえ)変わることで、それまでの読者が離れていってしまう危険性もあるのですよ。

今日のイラストは半沢直樹ですね。よく見ると今田耕司かもしれません。ちなみに鉛筆で下書きしてから水性ペンでなぞってます。


2014/1/24(Fri) ふられちまったよね。やだね。なんか習い性になってる。ふられるのが。予言の自己成就というか、もうダメかなーと思うのが常態になっていたので、あまりショックもなかった。べつにいいこっちゃない。悪いことでもない。いいとか悪いとかちょっと待て。

とはいえ思うことは増える。考える考える、答えもない問いもない森の中を。考えることの機能ってなにかといえば、自分にとって快適な解釈をものごとに与えることだと思うです。それは自分のしたことしなかったことの正当化であったり、反省を踏まえてこれからどう生きたらよいかという方向づけであったりする。もちろん、あんま恣意的な解釈だと心から信じられないように人間はできていますので、適度に合理的な解釈を、ね。だ。そういうはたらきを頭がしていた。胃がたべものを消化するように、だ。仏教は特に禅仏教は、頭ん中でごちゃごちゃ考えるはたらきを敵とみなしました。うん。わかる。考えることには、頭の蠕動には、妄想も含まれる。しかし自分の妄想を冷たい目で眺めてみると、端的に言って中身がなくて、おもしろくない。泥臭い願望がビデオみたいに繰り返してるだけだよ。いわば。いわばな。違うの。よく生きるのに必要なのは考えることじゃなくて感じることなの。そう思ったに違いありません。確かに瞑想の呼吸法をマネしてやってみると、周囲の物音や動きによく気づくようになるのです。それは悪くない感触だ。ゆっくり吐く、吐ききったら吸う。

なんかまあ思うのは、あなたとわたしはクリティカルな点で似てしまっていたということじゃなくて(目をそらして)、互いがいつもより自由になれるような関係であったらよかったよねなんかよね。なんだか相手にあわせて自分を削って出してるようで、相手と自分との積集合としてしか存在していないようで、いいコになんかなるなよ、いいコになんかなるな、きずついたってウソだよ、がんばったって無理だというお説教が聞こえてきました。きずついたってウソなのになんで傷つこうとするのか。

以上ダイジェスト版でしたー。なんだか、文章にする段になると、実際に考えていたよりはるかに雑な内容になってしまいますね。上澄みだ。しかし、こうして書いてきたことは、べつに特定個人との関わりだけでなく、他人と接するときにいつでも効いてることがらなんよね。だから、やっぱり何年も前から進歩しないことを書いてるし(いや進歩はしてるんですよ)、(進歩がただ遅いのが問題なんで)、(腰も重いし)、ネガティブだな。ネガティヴなこと書いてると安心だから、そうそうそういえば、当たり前だけど考えを言葉にするときそこには多かれ少なかれイメージ操作の意図が含まれてて、きっとこうして書かれてる自分もある意味ではこう見せたい自分に違いないわけですし、文章がうまくいかないってのは言いたいことが言えないという以上に自分を魅力的に整えられないって契機がいくらかはあるわけで、あるわけですが、文章になにか結びをつけるってのはそれ自体ひとつのかっこつけなわけですよ、きれいに落ち着かせるにせよ「まとまらない」って終わらせるにせよ。われわれはかっこつけて生きていくしかないんでしょうか。言葉を使うことがつねに政治的意図とともにあるならば、せめてそのことを意識するのが賢明だよね。


2014/1/23(Thu) ふとんの中で気づいたら6:40で、家を出る限界が7:20なので、やばいなと思いつつ頭ではぎりぎり間にあうと冷静で、しかしこの「ぎりぎり間に合う」というのが急行に乗れたときの話なのか各駅停車でも間に合うのか記憶がいい加減だったので、ちょうど出ていくところの急行に乗った。めっちゃ込んだ。朝に急行乗ると必ず後悔して、社会の歪みだの引っ越したいだの将来は自家用車をもとうだの一通り思うのだが、今日も果たしてひととおりの後悔を並べるはめになった。込んでるというレベルではなくて自動車だったら絶対こういう乗り方しないであろうに。液体になってやりすごしたい。簡単に気も立ってしまう。

小沢健二みたいな雰囲気(第一印象のまま)の先生の授業を終えて、籍を置いてるほうの大学に向かう。自分の自然治癒力を過信して保湿を怠ったために手の乾燥が具合悪くなってて、快適じゃないしなんだか喉の奥にも違和感を覚えて、こないだ学んだばかりなのに、学習を強化する結果になった。なんか、この方針だと、自然治癒力とか免疫できてくるまでに肌(というか表皮?)をいくらかいじめないといけないんだけど、その代償が思ったよりもでかいという話なんだろう。完全に気分が変わってドラッグストアでアトリックス買った。わたしの記憶だとアトリックスはけっこう調子いいんだよな。調子よかったのに、保湿クリームをいろいろ試してみたいという好奇心というか名誉欲込みの知識欲が優先されて、買い換えるときにニベアを選んでしまったのだった。ニベアはあわなかった、というか、いまいち効果があるのかどうか。

そんな状況だったので今日は早く帰って保湿しよう……早く帰って保湿しようという声が聞こえて、昼以降は用事もなかったので早々に退散した。電車ですぐに座れるしあわせ。帰宅して、パソコンつけてすこし作業して(私は「すこし」が多い)、不必要ともいえない調べものに気をとられながらも切り上げて、山下達郎のベスト流しながら寝た。1時間くらい。寝たら体調もどる。そして睡眠に入ること以上に、地面に水平な体勢でいわゆる寝てることが重要らしい。重要かもしれない。気がする。起きて、ごはん食べて、髪切って、メール作成して、風呂入って、送信して、日記書き始めて、いまここ。


2014/1/22(Wed) 本業は日記書きです。たぶん。

一週間足らずだけどしばらく日記を書いていなくて、書いていないあいだは「書いていないなー」と何度か思って、俺日記のこと考えてんだなと妙なプライドを覚えたりして、そんな文句が出てきた。日記には、実際は、べつだん深い思い入れもない、と言ったら嘘になるだろうか。自分の気持ちがわからない風な顔をしているけど、自ら意図せずして嘘をつくということは可能なんだろうか。でもまあ、思い入れがあるないの次元は大したことではなくて、そこそこ長い間続けてるというだけなのである。日記を書くことに思い入れがあるとは、自分の人生に思い入れがあると宣言するのに等しくアピールポイントがない。ない。ない。ない。髪が伸びてきました。

レポートをやっていたんです。年甲斐もなくレポートを書いていました。それで毎日なにかしら書いていたので、日記書こうかなという気を起こさなかったのでしょう。言葉の体操だよ日記はよ。出すものはほぼすべて出したので、まだ試験なんか多少ありますが、生活は次のフレームに入りつつあります。ね。二月前半にアルバイトがしばらく続くターンがあるのと、卒業した後の行き先を確保するための習慣と、研究の方向を定めなきゃいけないのと、簿記の勉強をたぶんする。のと。


2014/1/16(Fri) 昨日(さくじつと読んでみてください)は、授業の打ち上げでイタリア料理をごちそうになる。出てくるものどれも本格的で、家でスパゲッティゆでたりファミレスでたまに食べたりするのとは質というか存在の様式レベルで明らかに違っていて驚いた。一工夫どころではない。ワインってあいかわらずわからないけど、いいワインってなんか……深みというか……(赤面) カルボナーラをいただきました。チーズが濃厚で……(ふたたび赤面)。確かにこれを語るにはひとつ教養と芸が必要だと思われる。世の中にソムリエのような仕事の人がいることも納得しました。

懐かしい人の書いたものを見てた。学部時代はその人はじめ周囲の人の考えへの違和感や反動でものを考えていたよーな。思い返すと。 その人の文章、あいかわらずであり、内容も表現法も結局はステレオタイプなんだけど、「どこにでもある」と言い切れずにタブを閉じずにちらちら確認してしまうのは、知り合いだからというだけではなくて、その人の生きざまがその人の書くものにべったり反映されてるからなんだろうな。ていうか、文章よりも生きざまが雄弁。なるほどね。それは魅力的なことなんだよね。その人は文章において雄弁でありたかったみたいだけど。


2014/1/15(Wed) 昼におやつとしてマウンテンデュー味コーンスナックを食べた。君は知っているか「マウンテンデュー味コーンスナック」を。公式ページが見つからないので各自「マウンテンデュー fritolay」などでぐぐってほしい。Fritolayはメーカーの名前。変わったものが好きなので一度口にするつもりでいた。それが、こないだの旅行先の札幌のコンビニか何かで一度見かけたっきり、どこ行ってもないので、見つけたその時に買うべきだったと陳腐な反省をむなしく深めていたのですが、大学内のセブンイレブンでひょっこり見つけました。さっすが……。それで味のほうは、まあ基本的に変わったものだーって思えれば満足なんですけど、マウンテンデューの味ではないと思うこれは。なんかひんやりするパウダーもついてるし。コーンとの相性も、単に空間的に同居している以上のものがない。いいやわかってるこうしたものをまじめに評しようとするのが愚かなのかもしれないけど、なんだか食べ物としてむなしくて、俺の生き方こんなんでいいのかな…と我が身までむやみと思いやられてくるような一品でした。

それがないことに意味があるよりも、それがあることに意味がある方がいい。いないことに意味があるよりも、いることに意味がある方がいい。そんなフレーズを思いついて、心の中で口ずさんだ。口ずさんだと冗談めかして書けてるうちはいいけど、そういうのを本気で大事にしはじめたら、いよいよ自分は変わったなと思うだろう。大づかみな真理、と、むかし表現した。もう一年以上前のことか。すべきことは、反論を受け付けない条理を見つけることではなくて、ものごとの具体的な面を、なるべくきめこまやかに「見る」ことだ、そんなふうに自らに唱えていた。いまも基本的には変わらない。でも男って全称命題が好きなのね、そして、こうした「男は〜」「女は〜」という主語の取り方もまた、ドええかげんなものだと思わねばならないし、要するに何を自分で確かめたでもないのに世界のすべてを把握したと思って息を止めちゃうのはカッコわるい。そういうこと。いないことに意味があるよりも、いることに意味がある方がいい。僕は繰り返す。まあ確かにそうだよな。でも意味なんて感じようと思って感じられるものでもないし。主題は戻って、とにかく「見る」こと、それを通じて、意味があると思えてきたら、いいんだろうし、それしかないだろうし。


2014/1/13(Mon) 三連休はずっと家にいました。でもなんか充実していた。充実していたというと言い過ぎかもしれない。けど、なんだか足りていた。引きこもってたわけではなくて、夕方頃に2時間くらい散歩に出たりするんだけど、だいたいは家にいた。家にいて冬のレポートを書いたり、ドイツ語の予習をしたりしていた。本はあいかわらず大して読まない。でも今朝は目覚めがけに『イギリス名詩選』をがばっと手にとって読んでいた。起きる前に本を読むなんてこと今までなくて、それもいくつも起こっている変化の中のひとつだ。とりあえず新しい言葉を目にさらしとけというノリはある。ニュースでもなんでも、わかろうとするつもりでつきあってみれば楽しめるし、残る。そうした事情がわかってきたからだ。三連休はずっと家にいました。わたしの通う大学は祝日開講の多い大学で、三連休という概念が希薄になるくらいなんだけど、今日はめずらしく休講だったのです。単純に、生徒が学校休む明確な理由がある(成人式)からだろうけど。わたしの成人式は、まあ、いまより心が孤独だったし知的環境としても閉ざされていたので……べつにいいよね。一応行ったけど。三連休はずっと家にいて、よかったのは、好きに文章書いたり音楽聞いたり、寝転がったりできるってことで、学校行ってるとそれだけで疲れちゃってあまりできないのよね。贅沢な話だけど。体力もないので仕方がない。今後の人生においてそうした回復スペースをいかに作るか、作れるかということはまだこんど考えよう。とにかく、たまに叫ばれる「きちんと休む」って技能なり習慣なりが僕の中に根付いてないんだろうなあと思った次第です。他律的ストイシズムというか。「やること」があると、それに取り組んでいさえすれば人生の目的が果たされるとか思っている面があるな。いまでも。一日目にかるく風邪を引きました。ほんとにかるく。鼻水が出ました。いや鼻水とか年中出てるんだけど、粘度の低いやつが無駄にでてくる。くしゃみもバカスカ出る。そしてだるかった。でも風邪というより、ほっといたアトピーが悪化して、肌の具合が悪くなって、乾燥もしてたし、それで体全体に影響が来たのだと思う。そういう因果関係は、あると思うよ。心と体がつながってるのと同じように。それなので心を入れ替えて医薬(部外)品に頼りつつスキンケアに励んだら翌日にはよくなってました。風邪が。アトピーはいままでと同じ水準に戻った。二日目に、しばらく気になってたことをある人に問い合わせました。しばらく気になってたというが気になったそのときに問い合わせるべきだったの……ともかく決断するのに時間がかかった。わたくし人に相談せずに一人で悩むタイプですが、これがよくないのは、答えの出ない悩み/あるいは答えがはっきりしてることをなおも悩む悩みは、端的に健康に悪いのですよね。視野が狭くなり、ものごとのかんたんな構造も見抜けなくなっていく。べつに問い合わせてすべてが解決して世界が平和になったわけではなくて、謎が新たな謎に着替えただけにも見えますが、自分の生活としては笑いとか体のよけいな動きも増えて、楽しいものの楽しさが見えるようになったのでまあこっちとしては助かった。袋小路なんかよう作るもんでない。


2014/1/10(Fri) 意向と、現前する世界のあいだを埋める流れが流れているちょうどいい場所を見つけられなくて、流れがないところにむりに流れることはないという体系が一方ではささやき、それでも流れを探してしまうのはきっとその意向を支えている骨組みがただの気分じゃなくてもっと自分の手を離れた何ものかによって支えられてもいるから、そう信じてしまっているからでもあるんだろうと思う。流れという受動的なありようと、意向を実現させるという能動的なありよう、ことばを使って記述すれば、いくぶんかは言語に染みついた習慣のしわざもありつつ、能動的であることがよろしいことであり、受動的にあるのはなさけない自分だという印象を与えるし自分でもそんな価値観にのせられる。でも今日の朝や昼間や夕暮れを生きた僕の意識には、受動能動という観念は機能していたけれども、もっとなんか価値中立的ななにかであって、ただ自分の生活のしかたに根付いて気づかないほどになっているからそう見えるだけかもしれないが、しかし流れを見つけて流れてゆくことは、自分の中でひとつ筋が通ったやり方だと思ってもいる。大筋において誤っていたのではない。ひとつの流れを見損なったのだ。見損なった流れに気づいて、見損なったなーとこだわっている。問題はかつてと変わらない、意志ではなくて、知ることだ。目をこらしたり尋ねたりして、見えるものを増やしていくことだ。そうして冷静になって反省するより前の段階にあって、片手を入れては引っ込めつつ、願うような成果が出ないこと自体予想の範囲に収めながら、うまくいかない気持ちを塗り重ねて、ひとりで、さりげなく、うまくいかながっている、でもそれだって進行しつつある事実であり、そうしてしょうもない状態をさらしてるのもいつものことだという気もするし、なんもならなかった、と言うことによって、なんもならなかったという事実とは独立に、なんもならなかったと唱えている私、それを誰かが見る、なにごとかとして、という、まことにコタツで茶飲み的な事実がいつのまにか現われていたんじゃないか。と、とつぜん納得して、今日の総括がついたような気がして、日記を書き始めた。ばか。

ぜんぶ取り消し線引いた上でアップロードしたいお年頃さ。取り消し線引いた上でならアップロードしてもいいと思っちゃってるお年頃さー。年頃の性にするな。せいにするな。


2014/1/9(Thu) 今日の分のドイツ語予習も終わった。簡易な筋トレも済ませた。汗で首を湿らせた。お酒も用意した。どうやら久しぶりのお酒。一人で飲んでしまうお酒。体重は順調に減少傾向にある。ピークはやはり帰省から戻った直後であり、ソファに掛けてるか車に揺られてるかおやつ食ってるかの不摂生が素直に表れたものと見るべきなのだろう。ここ二日ぐらい、休み明けで調子が軌道に乗らず何点かまずい思いもしてきたので、それを取り戻すというわけではない、カラオケを投与した。投与したと書くつもりでいた。でも、これをすれば人生の遅れが取り戻せるとか、そんなものにこそ僕らは冷たい目を投げかける孤独な活動をしてきたわけで、欲望を埋めるピースの形はいつでも見えてるようで見えていないのだ。人生経験の。そして孤独な活動に従事していたかつての僕はまた、人生という言葉にも要警戒のラベルをつけて見ていたはずだった。それは第一に言葉の響き、趣味の問題だっただろう。代わりに生活という言葉を用いていた。しかしいま人生という言葉を無造作に、当時よりはずっと無造作に使いながら、生活と人生とははっきりと異なる概念であることに気づく。生活はただ続いていくものだ。生活はただいま作られつつある。そして人生は終わりをあらかじめ備えているものだ。生まれて育って死ぬという一連のストーリーが組み込まれているものだ。だから人生という言葉を使って語ることは、生きることにあらかじめ何らかの、論理的にははっきりした根拠のない、前提を設けて語ることにもなる。

話を戻す。カラオケを投与した。20代も半ばにさしかかり、なんてもうそんな定型句がどーしよーもなく「年をとった」ことを思わせるのでもあり、そして「年をとったというセリフが年をとった証拠だ」という、見かけ倒しの入れ子構造も、やはり陳腐だ。自分が20何歳なのかとっさには思い出せない。今年は2013年だとまだ思っている。ともかく声が出にくくなってるような、兆候はしばらく前から見られる。無邪気に楽しいというよりは、なにか老いと戦うために歌いに来てるようなフシもなくはないのであり、歌うことよりその場で踊るほうが楽しいこともある。もちろん一人ですよ。そしてたぶん人前では歌わないであろう「命果てるまで」(ユニコーン)が私の隠れ十八番で、なにか自分しか知らない自分の一面、心理的でない、があるのは楽しみでもあるらしい。


2014/1/7(Tue) 新しいことは日々起こっている。依然として起こり続けるし起こし続けている。でもそれをひとつひとつ記録したい気は、いまはそんなに強くない。そのほうが生きる上で効率がいいのかな。わからないけど、ことばとはうらはらに、記録する。新年になって新しく買ったものといえば、家計簿と、万年筆と、食品成分表です。そういえばその前に、どうも右手親指を中心に皮が厚くなってきたようで、ユースキンAを使いすぎたかしら。わからないけど、同じスキンケアを使い続けていると、慣れて効果が出なくなったり、やや不自然な状態に流れていったりする。いったん離れて、焼き畑農業みたいにいくつかの方法をためしつつ、いつかローテーションで戻ってくる。というわけで今度は何もつけないのに戻してみる。べつにこれで治るわけではないので気休めの一時しのぎだけど。

家計簿は家計をもってるわけではないのでおこづかい帳程度ですが、お金の使い方が場当たり的なので直したいのと、なんでもデータとって把握するの好き。家計簿記入したいがために買い物してしまいそうで出費がむしろ増えてしまいそうに揺らぎそうなマイウェイ。万年筆は100円ショップで手に入ることを知ったので、ものはためしとダイソーで仕入れてみた。意外と十分ばつぐんに使える。ペン先がよく見えて作業の精密さではシャープペンよりもすぐれ、紙にペン先を押しつける必要がないからかストレスも小さい。確かに高性能だ。短所は字が消せないということと裏にうつるということだけだ。最後に食品成分表は具体的には『新食品成分表 FOODS』(東京法令出版)なんだけど、自分のもってなかった情報がてんこもりで楽しい。もとは自分が太ってきたのがショックで栄養管理しようと思って主にカロリー計算の目的で入手したんだけど、それどころじゃない、普段の生活の中で不問で済ませていたけど確実に何度も出会っているような区別(たとえば豚肉の各部位の違いとか)が明快に提示されていて、いや、もともと明快な区別なのだから当然なんだけど、確かにこうして並べて見るとよくわかる。


2014/1/5(Sun) 太った。ああ太ったよ。浪人してた頃と同じ水準に戻っちまった。それはちょうどいいズボンのサイズで測られるのです。73から76、76から79へ。こないだまで76でちょうどよかったのに、帰省してろくに外にも出ず食べてばかりいたからか。きっとそうだ。体重も増えたし、79がちょうどよくなってしまった。まだ履けてたはずの73センチに、けさ足を入れてみると、これは明らかに無理があるといった感触に、腹も出ていて、昔履けたスカートが今は履けないなんてよくある通販のコマーシャルみたいな気分を味わい、いきおい「痩せよう」じみた季節を決心したりもするのであった。女子かっ。しかし痩せたい女子や男子の気持ちはわかったものの、周りの女子や男子が「痩せたい」と口にしているのを見れば「べつにそのままでよくねー」と心の中でつっこんでしまうのもまた変わらないだろう。それどころか、実のところ、「べつにそのままでよくねー」というセリフには、ダイエットをむしろするなという反動的な力が込められてさえいる。どうぞご勝手にというのではなく、やらなくていいことはするなという、ちょっと高級な倫理にまで訴えた制止。たぶん、私たちは、自分の周囲には変わってほしくないのだ。自分をめぐる環境は、いつも変わらない安定したものであってほしい。そのほうが対処しやすいからだ。新しい戦略を立てずにすむからだ。私たちは本性的に保守的なのだ。太っている彼/彼女から、太っていない未知の彼/彼女への移行は、第三者的には歓迎されない事態だ。こんな自分を変えたい、変わるのは難しい、ポップソングはそう歌う。変わるのが難しいのは、自分に勇気がない以上に、周囲が保守的だからなのではないか。これと性質としては同じ圧力が、「痩せたい」という自発的な思いにも隠れている。痩せたいというのも反動なのだ。今度はこれは、太っていない今の自分から太っている未知の自分への移行を制止せんとする力だ。おっと、ここで、反動的な力が、第三者的にはたらくときと、一人称的にはたらくときとで、何から何へと変化する、という点がちょうど逆になっていることに気づく。他人のダイエットをやんわり制止するときには、すでに太ってしまったものに手を加えることに対して否定が向かうが、自分がダイエットを思い立つときには、いま太りつつあるこの変化に対して否定の手が伸びる。どちらも変化を否定している点では違いがないが、始点が異なる。他人が太ったのは「太った」という完了態だが、自分が太るのは「太ってきている」という進行態でとらえるわけだ。(話の雲行きがあやしくなってきた) それだけ私たちは他人の動的変化には鈍感で、自分のことは動的にとらえがちだということなのだろうか。太っていることが客観的にいやなのではない、痩せてることが特別に高い価値なのでもない。ただ、“あるべき姿”をどこかに置くから、そこからの変化を嫌うという結果が出てくる。そして“あるべき姿”は、特別の指定がなければ、暗黙裏のうちに、現状を指している。


2014/1/4(Sat) そういえば2014年になりましたね。この日記を2013/...と書き始めることはもう二度とないのかと考えると、それはおそるべきことのような気もしてきます。べつに、時間が不可逆的であることを誰もが知っているし、暦というのはそれを区切ってひとつひとつ名前をつけただけのものなのですが、それだけのものに驚いているのは、私たちが時間の不可逆性、リプレイできない生を生きている、ということをまだ真っ正面から受け取っていないあかしなのかもしれません。


もどう