THE 201312


2013/12/26(Thu) 楽しみにしてた遠足が、前日になって憂鬱になり、行きたくなくなる、という話がよくありますが、明日から行く北海道旅行はといえば、楽しみに感じている。初めての試みだからか。

予定に動かされている。予定に導かれる。北海道に向かう予定を立てると、自分の体がしかるべき時空を通じて北海道へ運ばれやすくなるよう、世界が造形されなおす感じがする。北海道への存在論的なトンネルが通じる。もちろん、それは、自分の意識の方向が固定され集中していくことを裏面から記述したものにほかならないわけだけど、とにかく何らかの意味で世界は私の世界であり、私は私の世界のほんの一契機にすぎないわけだから、「世界が」と世界を主語にして語ったほうがしっくりくる。……要するに、何をするかって目標がはっきり決まれば、暮らしていく中で何をすべきかも明確に見えてくるし、明確に見えていれば行動を決めるのにいたずらに思い悩む必要もない。目の前ににんじんがいきなり置かれれば困惑するが、ひとたびカレーライスを作るという文脈の中に置かれれば迷いはない、手が勝手に動き出す。同じように、北海道旅行へ行くという文脈を用意すれば、アンテナに引っかかる情報も変わるし、近況を聞かれれば旅行の予定について言及するかもしれないし、こうして、北海道に行かんとしている私、というキャラクターが内からも外からも形作られていく。

だから、たいくつしないためには、みずからに文脈を与えるということが必要なのだろう。たいくつしないためにはなんて言うとうしろむきだが、ようするに人間が人間として生きることには、文脈が本質的なのだと思う。もちろん、文脈の中におかれることは、いきおい、可能性が限定されることでもある。一方で、限定されることで形作られるものもある。なんて、話が抽象的になるのにあわせて説教臭くもなってくる気がする。


2013/12/24(Tue) クリスマス・イブだというのに街を歩く人は特に浮かれたようすもなく普段どおり「今日も仕事」といった顔で、いや大きな繁華街に行けばそれらしいものも見れたのかもわかりませんが、今日は夕暮れまでに家に帰ることに決めていたし、街行く人のあきれるほどいつも通りの顔のなかにいたらそんな気もさめて、図書館でひとしきり作業した後はまっすぐ帰路についた。ラジオだけはクリスマス・ソングを流していた。

乗り換えた後の電車の中から、暮れかけた空を見やって、思いついて川沿いの某駅で降りた。暮れゆく空と川をあの大きな橋の上から眺めつつ、からあげクンを食べる――取り合わせは頭の中ですでに出来上がっていた。サンタ帽をかぶったローソンの店員から210円のからあげクンを受け取り、日が沈みきる前にとすこし足早に川のほうへ向かった。

橋の上から見る空と川は、ほぼ期待したとおりの景色だった。ただ事前にイメージしていた場所は、正確には、道路を挟んで橋の逆サイドだったので、もとのイメージにこだわる必要はないんだけど、子供の頑固さで逆サイドに渡ろうとして、橋の下に降りる階段を見つけて、降りてみると景色がよくて、視界を一文字に横切る川を前にからあげクンをあけた。メリークリスマス。

川沿いにかるく歩いて行くと、石造りの階段になっていて、水面のぎりぎりまで降りられた。反射してぐずぐずになってる夕焼けがうつくしい。水は大きくて重いのに音もなく流れる。小さな点々になった鳥たちがときたま声を立てる。しばらく環境にひたって満足し、目的が果たせた気がして、駅のほうへ帰った。


2013/12/22(Sun) 最近日記をさぼり気味ですねえ。どれを漢字にしてどの漢字をひらくかっていつも迷いますけども、「さぼりぎみ」「サボり気味」とか試行錯誤しますけど、そういえば副詞であるところの「超」を「ちょう」と開くのは欺瞞的だと過去に何度か述べてきましたが、やっぱり欺瞞的だと確信を強めました最近。「ちょう」と言うときの超は自分の言葉になってないんですよ。ある界隈で使われる表現を借りてきて誰かの口で「ちょう」と言う。「確定申告をしなきゃ」「カクテーシンコク?」という引き継ぎ方と似たところがある。言葉の意味がわからなくても、音を知っていれば、最低限その言葉を使うことはできる。そのカクテーシンコクってやつは時間がかかるのかい、と尋ねることができるし、彼はカクテーシンコクで忙しいみたい、と誰かに伝えることだってできる。でもその内実を詳しく知らないものを、あたかも知っているかのように用いるのは気が引ける。その気の引けが、「確定申告」と漢字で書くことをためらわせる。漢字は意味を担う。表音文字。べつに、ひらがなだって意味を担うし、漢字との違いは、意味の単位が一文字か、複数あわさってできるかという、程度の問題かもしれない。でも漢字には意味が満ちてる感じがする。一文字だけ意味をもつゆえに、字と意味が本質的なつながりをもつという確信は強まる。ボールペンの試し書きをするとき、「あ」と書けばただの線の集まりだが、「阿」と書くと何かある気がする。……そうした事情が、漢字をひらく際に一部効いている。もちろんそれだけではないだろうが。昼は山下達郎のラジオを聞いていた。「山下達郎」と書くと、山下達郎なる公共的な概念を所有した気がする。その一方でときたま僕は彼のことを「やましたたつろー」とも思う。やましたたつろーのラジオを聞いていた。こっちのほうが主観的な感じがする。僕の視点が入ってる感じがする。単に正式な書き方の約束事を外してプライベートな味を出すってだけかな。言語表現のテクニック。でもまあそれならそれでもいいんだ。正式にはひらがなでないものをひらがなに開くとき、それは他人の口を通して語られた言葉である、ときがある。もちろんすべてがそうではないが。ぼくらはーじーゆーうをー、ぼくらはーせーいーしゅんをー。歌の引用?をするときもそうだ。カクテーシンコクほどよそよそしくはないが。

こうして否定的に書いてきた一方で、「ちょう」を使いたくなる気持ちも実はわかる。というか副詞とか接続詞はひらきたいよね。一方は「いっぽう、」だし、事実は「じじつ、」だ。実はは「じつは」だし。今のは接続詞だけど、副詞も、「おそろしく」「まさに」「たびたび」「ただちに」。でも超は「超」と一文字で書いたほうがスピードが出る。「畢竟」をひっきょうと開くとまぬけなのと同じだ。そういうやつなのだ超は。超をちょうと開く人は素材を活かしてない。そういうことにする。「が、」という接続のしかたは唐突できらいだが、「画、」と漢字を当てれば鋭利になって、いけるかもしれない。妄想が広がってきたところで終わる。


2013/12/20(Fri) 朝。虹が見えた。駅の建物の上に大きくかかった虹。はじめて虹らしい虹を見たかもしれない。階段を降りると角度のせいか、すぐ見えなくなった。ともあれあんなカラフルで揃いのいいものが自然の中に出てくるのは不思議。不思議だけど事実だ。私(たち)の自然観は偏っているんだろうな。

かしぶち哲郎死去。好きなバンドはと聞かれたらムーンライダーズと答えるだろうが、聞いてない作品もたくさんあるし、メンバーの顔も鈴木慶一しかわからない。今日初めて顔と名前を一致させた次第。

有名人の死とかあっても反応しないようにしてきたんだよね。何を書いても軽いから。今回だって結局僕はムーンライダーズの熱心なファンとは言いがたい。知ってるミュージシャンが死んだという、他人事としてそれを知っただけだ。特に悲しいわけでもない。でも一方で、そのニュースが目にとまって、何か書きたい気になったのも確か。そして何かを書くための心の動きなんていつもそんなものだ、僕の場合。それでいいんじゃないかと思うようになった。相手の重さと自分の重さをつりあわせる必要なんてない。

こうやってひとには言及する一方で、もし自分が死んだらそっとしておいてほしいと思う。はじめからいなかったかのように、すみやかにこの世から姿を消したい。それとも、死んだ後のことなんて俺は知らんと言うだろうか。


2013/12/19(Thu) 猪瀬直樹知事が辞任するというニュースでけさは持ちきりでしたね。主に僕の頭の中が。報道の経過なんかまじめに追ってなくて、たまにニュース映像を目にしてぎょうさん追及されてるなあと思うぐらいだったのですが、今回こういうかたちで結果が出てしまうと、結局のところみんなでよってたかって猪瀬を責めて辞任に追い込もうという動きにしか見えなくて、それは繰り返せば報道の経過なんかまじめに追ってなかったからそうした単純化された像を見るんですけど、なんか単純に彼がかわいそうに見えた。ニュースを見ながらかわいそうかわいそうと口にした。それこそコントみたいなことに付き合わされて、自分のしたいことができないでやめさせられていくのだから、やっぱりかわいそうだし、ヤジを飛ばして猪瀬を責め立てる人達はそれなりの考えや深い意味が(本人たちも気づいていないかもしれない意味が)あってそうしているのだろうけども、でもやっぱり勢いよく人を責め立てるというのは当人にとって気持ちのいいものであって、単なる正義感だけからやってるとは言えないというか。むしろ正義感からやるからよけい気持ちいいんだろうな。とか考えつつ、情に流されて僕は猪瀬かわいそうと朝はしきりに思っていました。どうせ背景にある問題も理解してないし、責められてるからかわいそうという以上の意味はないんですけど、猪瀬を責め立てる人びとも結局のところ情に流されてそうしていたように見える。そしたらこれはひとつの祭りだ。みんなでわっしょいわっしょいして最後に猪瀬が「辞任します」っつっておひらきになる。ところでこの件に関して多少なりとも知識を持とうと思って東京都議会のページなんか見たりして、結局目当ての情報は得られなかったんですけど、定例会の会議録が公開されてたので覗いてみました。はてしなくて卒倒しそうですね。長くて。人が出てきて長い長い長い長い「質問」を述べて、担当の人がそれぞれ出てきて何点かずつその質問に答えては消えていく。これが何回も繰り返される。実際の議会の模様がここから想像されるとおりなのかはわかりませんが、異様な感じを受ける。面白いけど当事者にはなりたくないなあ。


2013/12/18(Wed) 水が水が水がうまいです。楡です。ひさしぶりに名乗ってみました。あの頃の自分にはもどれません。もどるなどという表現を使ってしまう時点で、すでにもう、もどるという仕方でしかもどれないのでしょう、仮にもどれるとしても。過去に戻れるとしてもそれは過去の自分を「もう一度」という仕方で生きるしかないのです。初めて生きるときのように生きなおすことはもはやできないのです。水を飲みすぎてお腹がいっぱいです。それでもわれわれが過去にあこがれるのは、過去にあって、今にはない、ある美徳を求めてのことでしょうか。あの、恥知らずながむしゃらさ。それと引きかえに僕らは逃げ腰な配慮を手に入れた。フィクションです。フィクション。しかし当時からすりゃそいつは美徳でもなんでもなかった。ただのひとつの様式だった。それが当時の自分にとって手に馴染むやりかただったって、それだけ。その道がなんらかの事情で閉ざされたことに僕たちは気づく。そうして新しく手に馴染むやりかたを見つける。書かないのもやりかただったかもしれない。書かないという書き方? 今日は寒かったですね。寒かったです。空気が冷え冷えでした。雪が降ると言われていましたが降りませんでした。


2013/12/16(Mon) 2個入ったつぶあんぱん \100 を 一つ残して持ち帰った   風呂に入り歯を磨き 薬を塗り 腕立て・スクワット・腹筋 筋トレを済ませ 夜の準備を終えつつある今 パソコンの前で しばっていた袋を開ける 傍らにはコップに注いだコーラ   ゴマの乗ったあんぱん 黒く密度高く 噛みつぶせば香りのする あんぱんの本体は餡か、このゴマか 大きめに一口かじる 空いた穴から ドーム状の大きな空洞を見た ヤマザキパンの大きな空洞 底にたまった餡 浮き島のような生地のもりあがり


2013/12/15(Sun) 旅程立ててるといくらでも時間がつぶせるね。それを口実にこの一週間は勉強をさぼったさぼった。旅程立ててリサーチしてリサーチして実行しないってのが僕は得意だったんですが、今回は行くよ。行くと人にも言ってしまったし。起こすためにいろいろ準備が必要な行動って、準備してるうちにもともとの目的を忘れてしまうことが多いって言うか、行かないなら行かないで済ませられるものじゃないですかあ。学校の卒業に必要なわけでもないし。でもそうした刹那的な判断がすこしずつ身をむしばむことにも気づいてるから、そういえばなんだっけ、ラジオで日本の古典を読むみたいのをやってて、平家物語だったか、登場人物に悲しいことがあって出家する出家すると騒いでいる場面だったので、昔の物語の人はたいそう刹那的だなあと思ったりもしました。高校時代とか、授業に力入れてなかったのも当然あるけど、古典とかなんの興味もなかったけど、それなりに時間をかけてつきあえる対象だということに気づきはじめて、高校のときに古典に親しんでおもしろさがわかってた人ってなんなんだろうと行き場のない嫉妬を暖めたりもしました。そういえば一昨日は生涯初めて流れ星を見たかもしれない。あれは考えてみるとそうだったかもしれない。意外と遅かったし尾も引いてなかった。やっぱり飛行機か何かか?


2013/12/14(Sat) 10時過ぎまで寝ていた。しょーもない。体力ないのか。しかし、おかげで家を出る頃にはみなぎるエネルギーが体に滞留していて、結局滞留したまま流れ出してしまったのだが。『室生犀星詩集』(新潮社)をよみおわった。晩年に近づくにつれて人生観が深まりすぎて手が付けられん感じになっている。哲学科的にはそのほうが、さみしいかなしい言うてる初期の詩よりも興味深いのだけども。いずれにせよわからない。興味深くないみたいな書き方したけど初期の詩は明らかに出来がいいし、詩において出来がいいってのは単によくできましたってことのみを意味しないわけで……。晩年のものは唐突な展開が多くてはっきりした詩型?をなしておらず売り物にしていいのかなこれって気も、すこしする。その荒々しさがむしろ、年をとるにつれ作風が若くなってく人っているよね。若い頃に妙に達観したふうでいるとさ。あと室生犀星は女性のおしり(お臀)がフェティッシュに好きなようです(「君子の悲しみ」「野をうしろにいろどつて」)。あと肉付きのいい顔(「救へない人人」)。しかし、尻について語る詩が成立して胸について語る詩が成立しないのだとしたら、その違いは何か不純なものに由来している気がする。いや。成立するか。室生犀星先生ならやってくれる。「野をうしろにいろどつて」なんか、「君のおっぱいは世界一」(スピッツ)の世界ですよ。

室生犀星の視線はまっすぐすぎて、彼が語るのを制止したくなることがたまにある。「逢ひたきひとのあれども/逢ひたきひとは四十路すぎ」(「四十路」)。ずこーっ。


2013/12/13(Fri) バイト。いっしょに働いてる人にいつのまにか慰められていた。ありゃ。慰められる要素がない気がするんだが。何か身の上話をしたわけでもないし実際そんな事情もないし、うーん、仕事がうまくいかないと気まずそうな顔してるからだろうか。あるいは何もすることがないときに何もしないで黙ってるのが元気なさそうでしょげてるように見えるのだろうか。「ありうる……!」 善処します。というかなにか、その人も(僕のあずかり知らぬ文脈において)言っているように、楽にやるのがいちばんなので、楽にやっていればもっともっと楽になるだろう。


2013/12/12(Thu) おとといは急激な冷え込みにより体調を崩し――という原因帰属を複数箇所で行ったものの、実際のとこ履いていった長靴から発せられるゴムの匂いを鼻に通し続けたことが頭痛の原因だったかもしれない。渦を巻くような頭痛に、軽い吐き気まで加わって、はあ年のせいか、なんて思いながら、それ以上起き続けても何も増えないと思われたので、いつもより一時間早めに寝た。

翌日は時間通りに起きられたものの、まだ頭痛が残っていて、それが前日から引き継がれたものなのか寝たことにより新たに生じてバトンタッチされた頭痛なのか判断に迷ったけれど、朝食を取りながらやはり吐き気のようなものを覚えたので、ああ学校行きたくないなーと思われた。かどうかは定かではない。しかし朝の準備をするにつれ曖昧ながら具合がいい気がしてきたので、栄養つけるために多めに食べて家を出た。結局具合悪かったのは朝だけで、あとはつつがなく進んだ。

今日はさまざま要因が重なってひとつも用事がなかったので、昼前まで寝てしまった。ゴミを出しそびれた。12時になったら出かけようと思い描いていたものの、いいともが始まって、テレフォンショッキングにエレカシが出るというので見てしまい、さらにごきげんようが始まってゲストが清水ミチコ、森山直太朗、千秋とたいへん面白そうなメンツだったので見てしまい、いいとももごきげんようも久しぶりでたくさん笑った。いいとものおもしろさをうまく説明できない。仕組まれたおもしろさじゃなくて、出てる人がおもしろくて、おもしろい人同士がぶつかるとやっぱりおもしろい。おもしろい人たちが、仕組まれたプログラムのうえにいながらも、それをほとんど無視しつつおかず程度に利用しつつ、たわむれているさまが面白い。

それから久しぶりのカラオケに行って、もうほとんど休日気分だな。火曜日に体調崩してお休みモードを発揮してから、最低限行くべきところには行ってるけど、あとは休んでるか遊んでる。なんで高音部だと鼻声になるんだろ。あと吉田拓郎の「旅の宿」を唐突に入れたら歌いやすくて、ことばをはっきり発音できる歌だといいらしい。J-POPのたぐいだと音程とるのがたいへんだからそっちで必死になるんだよね。などと色々と気づくところがあり、その余裕をつくるのは、完結した時間の中で何かを得ようとか、元を取ろうとか考えないで楽しむようになったからか。

もう夕方だったが大学へ。夕方といっても冬の夕方なので5時を過ぎれば空が黒くなって、銀杏が黄色くなる。冬だと遅くに外出てても平気な気がする。夏であまり遅くまで外いると心細くなる気がする。すこしだけお仕事進めて、USBメモリに引き継いでブックオフに寄って帰った。


2013/12/09(Mon) たとえば、人工妊娠中絶の是非について議論する際に、中絶支持派がこう論じたとする。「生まれる前の胎児はまだ人間ではない(≒人権をもたない)ので、人間が自由に扱うことができる」。これに真正面から反対するなら、「いや、胎児はすでに人間なのだ」と論じることになる。かくして「どこからが人間か」という、境界設定の問題が持ち上がることになる。

境界があるかどうかは自明ではない。というかたぶん境界はない。境界があるとしたら、人間でないものが突然人間になる瞬間があることになる。それは奇妙だ。こうした0から1への飛躍は私たちの生活においてみられない。私たちの自然は連続している。でも境界がない一方で、区別はある。大人と子供、平地と山、イカとタコ、連続しているものでありながら、その差ははっきりしている。常識的な意味で「イカとタコが見分けられない」と言うことはできない。

元に戻ると、「胎児はまだ人間ではない」と主張する人は、人間と人間でないものの連続体があって、その非人間側に胎児を位置づけようとするものといえる。私たちの概念的な地図のあるものを改訂し、あるものを維持することで、それらを規範づけようとしている。

ところで、これと反対に、「胎児だって人間だ」と論じることもできる。私たちはその主張を了解することができる。Aと言うこともできるし、Aでないと言うこともできる。これは何を意味しているのだろうか。この問題には客観的な答えなどないということだろうか。いや。客観的な答えがあると前提することはできないが、ないと前提することもできない。「答えなどない」というのは、多くの場合「探したけどなかった」ということであって、「ないことがわかった」ことではない。

主張するとは提案することだ。押しつけることではない。「こう考えたらどうか」、こう考えたら、他の事実がうまく説明できたり、ある閉塞状態を打開するきっかけになったり、夕飯がうまく作れたりするのではないか。主張には裏付け、理由、根拠があることが望ましい。でも必須ではない。主張に根拠があれば、その主張を受け入れやすくなる。でもそれだけだ。主張自体に魅力があればいい。「胎児は人間か」という問いに対する両方の答えは、そうした次元に位置している。それらは説得力ある根拠を欠いている、にもかかわらず、いずれかを選択して支持したい気になる、かもしれない。

では重要なのは相手を言いくるめて自分の陣営に引き込むこと、自分の採用している概念的な地図を広めて、自分の要求を通しやすくすること、なのだろうか。じつはそうだという気がする。根拠を述べたりして主張をより客観的なものに近づける作業は、その主張をより広く受け入れやすくするための一手段にほかならない。しかし、そうした論理的作業の中で、みずからの主張が客観的に成り立ちがたいことが判明することがある。論理は確かに私たちの思うままにはならない、独立した機構である。

これは何を意味するのだろうか。論理は私たちの武器だったはずが、私たちの主張に対する脅威にもなりうる。みずからの主張が論理にどうしてもあわないとき、選択肢は二つに一つ、論理を巧妙に無視するか、論理に合わせて主張を曲げるかである。しかし前者は支持しがたい。巧妙な無視はやがて見破られ指摘される。そのときその主張は説得力を失う。ではみずからの主張を曲げて、道具に屈服せねばならないのか。

こう言いたい。論理的であること、適切な裏付けがあることは、より確かな意見であるということだ。論理的である程度に応じて、その考えが「うまくいく」度合いが高まる。逆に、論理的でない意見は、不確かなものであり、期待に反する結果を招きやすい。それゆえに、論理にぶつかる主張を人はさっさと取り下げるべきなのであって、論理にあう主張を確立してそれを推進していくべきなのだ。

でも、論理に則ってると、つまり裏付けがあるとその主張が確かなモノになり、思ったような結果を出す可能性が高まるというのは、(それが本当だとすれば)なぜなんでしょうね。これを説明するには、裏付けの多さは、その主張が世界の構造を正確に反映してる度合いに相関的であるという、対応説的な枠組みを持ち出すしかないように今は思える。


2013/12/08(Sun) 余裕があることがだいじだなと思う今日この頃。「今日この頃」だなんてステレオタイプだな。紋切り型とは、散文で普通に使われるような原子的表現と、詩に見られるような新奇な表現とのあいだに位置するものだろうか。原子的表現は使い古され切って意味がほぼ確定したような表現。原子的といったのは、それをパズルのピースとして、新しい表現を組み立てる役割をもってるから。そしてこれに対して、今まで表現されたことのないような、微妙な事態を表現しようとするとき、詩人は言葉を新しく発明せざるをえない。使い古された言葉VS使われたことのない言葉、ありふれた事柄VS新しい事柄、この軸に紋切り型を乗っけるならば、紋切り型はちょっと新しい(昔は先鋭的だった)事柄を表現することばだと言える。そして言葉が新しさをもつとき、表現の使用者が意図していなくても、その表現は芸術の市場に参入してしまう。芸術の市場は新しさが評価される市場だ。もちろん評価の視点はそれだけではないが、新しくないものはそもそも評価の対象にならない。「それはビートルズが50年前にやったことなんだが」と言われたら返す言葉もない。芸術の評価の場はきびしい。いや、つーか俺は芸術として、新しい表現の提出として「今日この頃」と口にしたわけではないんだが!翻って、我に返ってそう思う。でも、それならなぜ「今日この頃」なのか。「この頃、〜〜と思う」という、より定着した無色な表現ではだめなのか。そこで表現されようとしているものはごく平凡な風景のくせに、それを言葉の配置だけで風情あるっぽく見せようとしてる、背伸びだ。たいした感性もないのに誰かの言葉借りて人と違った風に見せようとするんじゃねえ! このように、紋切り型への反感はなかなか倫理的に要求が高いとこがある。背伸びくらいいいじゃない。でも、芸術が発展するためには、しょうがないんだよ。しかし繰り返せば、紋切り型を利用する人たちはむしろ芸術の未来なんて考えていなくて、その目的はただ、人と違ったふうに見せたいということなんだとしたら、それが通用する社会にいて通用してるならそれで目的は果たせているのだろうし、それを一気に世界基準で考えたり芸術史に照らしたりするのは脅しじみていてあんまよくないかなあと思いました。

はあ、なんでこんなに長くなってしまうだろう。読者も減ってしまう。実のところ、今日の日記はまだ僕は目覚めてさえいないのである。つまり僕の行動についての記述がはじまっていない。さて、冒頭で余裕があることが大事だと思ったのは、このようにゆっくりものを考える時間がとれるということで、ゆっくりものを考える時間がないと、僕は著しく質の低いパフォーマンスしかできないし、時間を気にせず歩き回れる時間を確保しないと、楽しい散歩も色あせてしまう。これも紋切り型か。あまりよく考えずに言ってしまった。だいたいのニュアンスは伝わる。けど、ニュアンスで伝わる以上の細部にあくまでしがみつくのがおれたちのスタンスだろうが。ともかく今日の昼は散歩に出ました。やましたたつろーのラジオが2時から3時まであって、それを聞きながら最寄り駅の隣の駅まで歩いた。まっすぐいくと35分かかるのが、ラジオ番組は55分あるので、心の向かうままに遠回りしたら、川沿いに出た。年月の積み重なった、資材も積み重なった僕好みの場所で(ほっといてくれ)、二十何年この土地に住んでるけど歩いたことのない道がまだある。すっかり上機嫌になった。時間稼ぎがてら初めての道をさらに分け入って、かっこいい看板とかたくさん見つけたので今度写真撮りに来なきゃ。

それで、今日散歩に出たのはただ散歩するだけじゃなくて用事があって出たんだった。ズボンを買って髪を切ってDVDを返して借りるつもりで出た。 / 結果から言えばこの中で果たせた用事はDVDを返しただけだ。借りるほうはなんとなく暖まらなかった。 / ズボンも、衣類に無頓着なので――というか、ふだん買わないくせに買うときは多少こだわるので、でも高いものは買えないので、おのずと選択肢が狭まってるということだろう。 / 床屋はどこも人が入っているか高くつくかだったので、別の選択肢としてつねに横目で見ていたセルフカットを、帰宅してから実践した。前髪は悪くないけど後ろが失敗して、お母さんに直してもらった。最初だからそんなもんでしょー。/ お金下ろそうと思ってATMコーナーに入ったら子供が居ついていて、のろまっぽく自動ドアとたわむれたり、暗証番号押すときにのぞき込んだりしてきた。 / お金下ろして通帳を見ると、すっかり忘れていたクレジットカード利用分が差し引かれていて、計画してる北海道旅行は行けるんだろうかと頭の中で計算機が悩んだ。 / 後ろから歩いてくる親子?男二人が、一人が仕事の愚痴で同僚の無能さについて述べていて、愚痴を吐くことは必要なのかもしれないけど関係ない人の愚痴って不愉快だなーと思ったりした。何故なんかね。


2013/12/06(Fri) 薬師丸ひろ子のベスト盤を、近頃聞いてる。音楽を聞く時間が、徒歩の移動時間だけになって、移動時間のうち朝の駅までの道では詩を読むようにしていて、帰りはラジオもたまに聞いて、ってやってると、音楽を聞く時間は相対的に少なくなる。それは惜しいけれど、不本意なものを増やしてるわけじゃないから、かまわない。このベスト盤には、後ろから何番目かのトラックに、ある曲が収録されている。マイナー調というよりは自分用語でネガティヴ調と言いたくなる曲調、歌詞も、突き放したような、冷たいような、じつはよく覚えてないんだけど、サビのオチで「瞳で さよならと言ってね」と言う。覚えていたふうに書いたが、僕の中に形成された音源は「瞳で」ではなく「心で さよならと言ってね」と告げていた。そういうずさんな聴き方をしている。というか僕の頭がずさんなので、ストーリーを頭に入れながら音楽を聞くのがむずかしいのだ。それはともかく、「さよならと言ってね」の、終助詞の「ね」をつけてる点がすてきだと思う。薬師丸ひろ子の歌う一連の歌たちから形成される像である薬師丸ひろ子は、この場面でやはり「ね」をつけるだろうと思う。対象に近づきすぎず、同時に離れることもできない距離感。それでここで書こうとしていたのは、この曲がとても気に入ったってことで、美点はいくつもあるけれども、聞いていて曲名を確認しようという気を起こさない、むしろ名前の知らない一曲のままにしておきたい気がしたってことなんだ。月曜日の日記で、赤い花を見て、名前を知りたいと思ったことを書いた、その逆のことが起きてる。概念の存在論的な挙動からいっても当然だが、名前を知らないでいることは、何も起こさない、そのままでいようという意向だ。名前を知ることは、先へ進めたいという意向だ。名前を知ることは、対象に名前を付けて、そいつを自分の頭の中に格納することだ。そのとき、そいつはある意味で、直ちにアクセス可能なもの、自分の掌中にあるものになる。もちろんほんとうは、手の中にあるのは、そいつではなく、そいつの写し姿なんだけど。でも人間、実物と実物の写し姿をいつも画然と区別しておくことができがたい。手の中に納めたように語ってしまうし、そのようにふるまう。センチメンタルに書きすぎたかもしれない。ともかく僕は、花の名前を知ることで、その花とある種の関係を結びたかった。その関係がどの種なのかはわからない。そもそも、怠慢のせいで花の名前もまだつきとめていない。

名前を知らずにいたいのほうはどうか。自分のものにしたくない、自由に泳がせておきたい。そしてその前に、名前を知る必要がない。流れる音楽に身をゆだねるだけでいい。またもロマンティックな表現が出てきてしまった。でも「身をゆだねる」なんて、ロマンティックでもなんでもないと思ってほしい。ロマンティックなものがロマンティックだと指差されなくなるまで、言い訳を言い続けるよ。

実のところ、うねるこの論述からおわかりかと思うが、名前を知ることがなんであって、名前を知りたかったり知りたくなかったりするのが(僕にとってさえ)何を意味するのか、それについてはっきりした見解をもっていない。そして核心が見えないのに、こんな余計なことを長々と書かなければ、ものも考えられないらしい。もちろん、作文の常識として、いろいろ書いたり考えたり、人に話したりしながら、言いたいことが固まってきて、そうしてはじめてきれいにまとまった論述が利用可能になる。だけどその前に、とにかく細かく、本筋に関係ないものまで含めて、こうしたメタ考察もはさみながら、思い出して掘り下げていかないと、進めないみたいだ。曲がりくねった一本道を歩いているよう。それは楽しいから、苦痛ではない。でも、こうして本筋と関係ないことがあふれるのは、むしろ、本筋がなんなのかわかっていないということだ。いや、本筋が何かは決めてきた。それが「名前を知らずにいたい」という事態の提示だった。でも、主題にしたいことはわかっているけど、主題について何を述べたいのかがわかってないのかな。わかってないから書くんだが。でも書いてもわからないまま、どんどんわからないまま突き進んでいく。詩を書くのは自分には無理だなと思う。たいして試みもしないけど。詩文学は選択と集中の結果ではないか。肉を削いで削ぎ落として、そうでないとあの短さには収まらない。もちろん詩人も、詩を書く前に膨大な、公開されない書きものをするのかもしれないけど、書くときには、仮にうそでも、「これ」を選んで切り出さなければならない。それができない。

自分語りはここまでにして、名前についての考察に戻ろうー―と思ったが、ひとつトンネルを抜けるとまた気が変わってしまった。飽きっぽいんだよな。ぐるぐるまわりつつ、あ、これは前に来た道、とか思いながら、考えていく。ほんとに、微視的なとこにこだわるわりに、求心力はないんだよね。芸術を生むには求心力が必要なんだよ。


2013/12/05(Thu) 今週前半は勤勉だったのが、失速した。どのくらい勤勉だったかというと学校から帰ってくるなり張り切ってドイツ語を読み始めるくらい勤勉だったわけです。失速するのは別にいいというか、ただ家にいるときに手持ち無沙汰になり・やることなくて気が塞いでくるルートに落ち込まなければいいので、自分なりに勉強が続けられるペースを作れればよいです。とりあえず。自分ができる以上のことはできないから。

大学でやってた展示で、武者小路実篤の書いた手紙の実物があったので見てみたら、なんか字が下手なのね。ところどころ判読できない。でも達筆ということではない(達筆だとむしろほとんど判読できない)。横長の紙に筆でばばばばーっと書いて、くるくる丸めて投函したという感じ。こんなふうにカジュアルに手紙を書いていいんだ!という驚きがあった。なにか時候のあいさつとか、小さな絵を添えるとか、それこそ達筆でとか、そんなでないと手紙を書いてはいけないかのような気さえしていたけど、こういうふうにカジュアルに手紙を送り合うというのはいいなと思った。TwitterやLINEがある今だとメディアとして遅いし(電子メールでさえもたつく印象があると思う)、大学のレポートのようなもので、適当に出してへんなこと書いてたら困るから直しがきかないからっつって何べんも推敲してから送りたくなるけど、しかし何べん推敲したって不安なときはぬぐえないんだから決断するしかないよな。それは結局変わってない。誰かと文通したいってのは数年来思ってるけど実現しそうにない。

手持ち無沙汰といえば。映画『かぐや姫の物語』見てきました。午後にある勉強会が休みになったので、少しだけ作業したあと、投げ出された気分で電車に乗り、映画館へゆきました。さしせまってやらねばならないことがないと、手持ち無沙汰で景色からいきいきとした意味があせてしまうかのような気になる体質に近頃なってきた。いや仕事があるからといって景色にいきいきとした意味とまで呼べるものがあるわけじゃないけど。とにかく投げ出された時間の中で、しかも今日あたりは自分で迷路を作って迷い込んでいた時節だったのもあり、映画を見たからどうだという気にもなりつつ、券売機でチケットを買った。上映まで1時間ほどあったので、となり駅まで歩いて牛丼で腹ごしらえして、戻ってきて映画を見た。内容については書きません。映画を見るのって今の僕にとってはいろいろ考える素材を提供する意味があるのかもしれない。なんでもそうか。ただ特に、人間の挙動を見ることだったり、関係性のありかたを見ることだったり、哲学や詩にはない部分を担ってるのは確かだ(小説を読めるようになるのはまだ先のことかもしれない)。いや。作品についてはまとまりないことしか語れないけど、いまはそこからいろいろな考える種を受け取ってることがよい兆候だと思う。なんて、わかりやすい意味を強調してみたけど、映画の内容にものすごく感銘を受けたとかいうわけではないにもかかわらず、映画館を出た後は入る前より世界の映り方が変わってたのも事実で、何かトンネルをくぐり抜けるのに似たことなんだろうな。ちなみに、自分で映画見に行くのは、去年のエヴァンゲリオンに続いて2回目。エヴァはその年にTVアニメ版を初めて見て気に入ったので映画も見ることを決めていたが、今回のは前評判は聞いてて土日に見に行こうかと考えてはいたものの、突発的だな。急に時間ができてもカラオケとか行くのが関の山だったから。人の影響ですよね。意外と影響受ける。好きな人(広い意味で)の癖とかもうつる。


2013/12/04(Wed) FNS歌謡祭を(途中から)見るなどの理由により時間切れ。また明日。月曜カラオケいったけどまた行きたい。


2013/12/03(Tue) 日記に書きたいことがあってもするする忘れていくってんで、近頃はネタをつかんだときにメモ帳に書き付けてて、今日も何点か気になるネタを得たんですけど、近頃帰ってからも稼働状態で、今日はなんだかんだで寝る前さっきまで稼働状態が続いていたんですけど、それ自体は楽しいんですけど、けたたましく歯を磨き、どうとでもなることをふるえる手でツイートして、数時間かけて上がったテンションのまま早くふとんに入らなければならない規範意識から脳裏が黄金に膨れあがり、心臓が残像を残してトイレが近くなります。ようするにゆっくり書いてる時間がないのでもろもろのことは明日以降に先延ばし。


2013/12/02(Mon) 駅までの道で、木に花々が咲いていて、ピンクがかった赤であざやかな印象を受けて、なんという植物なのか名前を知りたいと思った。名前を呼びたい。対象を自分の世界に招き入れるとは、名前を知る/つけることに他ならないのだろうか。けちくさい気もする。ラベルを付けて自分の世界というせまっくるしい容れ物に収納する。そういうけちくさい機構なのだろうか名前は。では、名前なしならどうか。毎朝通る道で見かけるアイツ。それでもいいのではないか。思わないでもない。それでも、そのときには、アイツの面影が、鮮烈なピンク色のイメージが、よりどころになる。それをよりどころにしてアイツを探すんだ。しかしそうしたとき、名前を覚えてそれを呼ぶ、という関係性とは、これは異なるものだと区別がわかれてくる。そこにいるものを呼ぶことと、そこにいないものを探しもとめること。

……いや。なんか含みがあるというわけではない。連想はするけど。

電車で隣に座った女性がお化粧してたのを横目で見た。なんかあの、刷毛みたいなやつ(よく見てない)で顔になにか塗るのは気持ちよさそうで、自分でもやってみたくなった。顔はそうだよね。床屋行ってひげ剃ってもらったり、その準備として顔に蒸しタオル当てられたりするのは妙にくすぐったい気持ちよさがあった。また、関係あるかわからんが、駅前の通りにある美容室をたまに覗くと、女性が美容師に長い髪を手入れしてもらってるのが目に入って、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気になる。つまり性行為をのぞき見たかのような。それと類比してよいなら、化粧という行為には生理的な快感があるのだろう。


2013/12/01(Sun) 朝、ふとんの中で考えてた。文学に詳しくないのが悔しいとか。自分の知らないおもしろいものがあるのが許せないと、 murashit さんが昔言ってた(元の発言を見つけられない――たぶん、2009年春に、Twitterで)。当時はわからなかったけど今はわかる。ほんとは当時も知っていたんだろう。もっと正確に言えば、自分の知らないおもしろいものを他の人が知ってるのが許せない、とかなる。「あーあーそれ知ってるよ、面白いよね」って言いたいんだろう。まあ見栄である。数年前までこうした見栄に突き動かされていたが、それが薄れた今はかえって本を読まなすぎて……まあそれはそれとしても、見栄で生きつつも、目の前にあるものをしっかり消化することができるように、なりつつはある。わかるものとわからないものがきちんと区別される。なりつつあるだけで、この先のタイムリミットに間に合うかはわからないけど。それにしても目覚めた直後はよくわからんこと考えるな。小説とかほとんど読まないのに。読まないからこそかねえ。

午前中は当サイトの、主にログのメニューを table で書くのに時間を費やした。その結果がこれである(もちろん下部メニューからもいける)。ブログと HTML 直打ちで行ったり来たりしてる様子がわかる。そこまで冴えてないわりにわりとえらい時間かかったかもしれないな。2時間とか。でも苦ではなかった。日曜大工みたいなノリで日曜SE。 / これと一緒に、 Tumblr の登録をやっていた。これも下からいけるようにしといた。こちらは人が言ったことについてぐじぐじ考えるスペースなので、あまりおおっぴらにはしない方針で。いや俺が心地よい何かを作ったためしがあるんだろうか。そう考えると地味にへこむなあ。

4時に散歩兼買い物に出た。時刻表、厚紙、書類入れ。結局どれも買うに至らず、ツタヤで映画DVDをひとつ借りて帰った。帰ってから本棚の中身の配列替えをやった。動いて動いて汗をかく。図書館でバイトしてたころにこれと似た仕事をしてたけど、(夏でなければ)汗はかかなかったような。自室で狭かったり、動きが組織化されてなかったりして余計なエネルギーを使うのだろうか。 / 時間と労力をかけたわりに、この仕事の徒労感というか、何かを成し遂げた感じがしないのはなんだ。なんだろう。完成形がないから、ひとつの未完成からもうひとつの未完成へと並べ替えただけになっているのだろうか。使いやすさのためにやってるはずなんだけど、なんだか実質的な進歩がない気がする。なんじゃろ……。やっぱり NDC に従って分類して、請求番号シールつけて、自前の OPAC を作って……くらいやらないと、心理的満足のためにも足りないのだろうか。そこまでやればりっぱなマニアだ。多くの人はマニアにならないから本を床に積んだりする。でも俺は下手するとそっち系なのかもしれない……。来週は仕切り板を導入してみるか。

冬なので外歩いてたりするとさみしくなる。帰り道はどんどん遠回りするほうへ向かおうとする。帰宅したくない。冬なのでね。もう、それはそういうものだから、その都度その都度解決しようとするべきものではないと思うようになった。その都度その都度というのがポイントで、ここぞというときがあるとも思ってる。ここぞというときが来ない限りは、さみしさはさみしさで泳がせて楽しめる。


もどど