201311


2013/11/30(Sat) エスカレーターの(関東では)右側を歩行して速く上ろうとするとき、前にいる人が降りるときとかに立ち止まると後ろの人がつまる、そのときのやきもきする感じが、僕が道徳とか倫理について考えるときに拠り所にすべき体験なんだろう。今日も下りのエスカレーターで右側に乗ったら、かなり前の人が右側で立ち止まっていて、僕含む後ろの人がことごとく足止めを食った。後ろのおにーさん二人が「これはやばくない?」とか話していた。やばいのだ。エスカレーターの右側で立ち止まり、渋滞を起こすことは、ルールからの離反であって、つまり不道徳なことなのだ。不道徳だとはっきり意識はしないけど(そりゃ、道徳は、われわれがなしていることを反省するときに使う、メタな語彙だから)、僕だって、おいおいと思って先を覗いてみたりはする。どちらかというとこういうのに敏感なほうだとも思う、不必要なくらいに。

午前中は大学で来週の予習、それから東洋大学に向かった。巣鴨駅から地下鉄2駅分歩いたけど、だいぶ近い。近いと言ってしまったが20分くらいかかっている。気温が下がってくると歩くのが苦でないんだな。ここの学食でナンカレーを食べた。ふつうの学食(少なくともうちの大学の)よりも本格的なものが食べられる。そして全品500円で統一されているのに感心した。学食にしては思い切った価格設定だけど、学生のお昼ご飯の選択肢を「セブンイレブンか、学食か、外で食べるか」の3択に集約することに成功してる、んじゃないかと思った。何かというと、 (1) 学食内で品物に価格の差を付けると、そこで欲求とお財布の2つの次元でごちゃごちゃ考える余地が生じる。このプロセスを取り払ったのと、 (2) お金がないときは、そもそも学食を使わないという可能性にすぐたどり着けるし、お金があるなら外で食べる可能性が目に入る――つまり、昼食に500円出す用意があるかないかを考えるだけでよくなっている。要するに、設定をシンプルにすることで、合理的に考えた上で消費者として判断できるしくみになってると思う。これ以上価格体系を複雑にすると、実際のとこ、きちんと考えた上で結論を下すのはきわめて難しいはず。判断ではなくて決断になってしまう。べつに、ふだんの生活で決断を(明示的に、あるいは暗黙裏に)迫られることはいくらでもあって、それが悪いこととも思われないのですけど、世界って不必要に複雑にさせられてるよなーって感傷的に考えたとき、このシステムが審美的に好ましいひとつに思えてはくるのですよね。

……のようなことを考えつつ、ナンカレーを食べて、時間が余ったので建物内のくぼみにあるベンチで読書してた。すみっこに収まると落ち着く。壁になった気持ちで、誰に見られても気にならない。

とあるシンポジウムを見にここまで来たんだけど、当のイベントは期待外れだったので途中で抜けちゃった。

不完全燃焼だったので某ディスクユニオンとか行ってみるが、人が多すぎて落ち着いて見れたものではなくて、某紀伊國屋書店とかも行ってみるが、これも人が多くて同じところにとどまっておれない感じで、検索機はどれもいつも誰かが使ってるし、そういやこれは公共図書館の OPAC でも起こってる。わからないことがあったらとりあえずググるという習慣が人々に根付いてますけど、たぶん「とりあえずググる」という習慣だけでは解決しない問題を抱えてるから検索機がなかなか空かないんだろうな。元々コンピューターは石頭なので、そして図書館とか本屋の検索システムってその石頭な部分が色濃く残ってるので、説明書読んで初めて使いこなせるものなのよね。「用紙が入っていません」「はい」「用紙が入っていません」「はい」「用紙が入っていません」「はい」「用紙が入っていません」「はい」を選択し続けることで何度も同じエラーを切り抜けようとしている人がいて、コンピューターにはこれが通じないんだよね。いっそ、何回も同じの選んだら「いいかげんにしろ!」って怒るコンピューターのほうがユーザーフレンドリーなのかもしれんね(まあ、怒るといっても、n回同じコマンドを受けたら「いいかげんにしろ!」とメッセージを表示せよ、みたいにコンピューターにいちいち教えるわけだけど)。ただ僕はといえばこうして検索機がぜんぜん使えず探してる本もどこにあるのか見つからず2階と3階を行ったり来たり繰り返したあげく、消耗して「帰ろう…」とひとりつぶやきました。とさ。あと献血を趣味にする可能性について検討した。


2013/11/29(Fri) 最近、電車に乗っていても眠い。座席に深く腰掛けると姿勢が安定するからそうするんだけど、眠い。電車に乗っていて眠くなかった時期のほうがめずらしい。最近にはじまったことではない。でも本は読めない。わたくし本を読むメインの場面が通学の電車の中なので、本がますます読めない。いまも眠い。今日あったこと思い出せない。お酒を飲んで頭が濁っている。 / 大したことをしていないというのが本音かな。いや。なにか、あったことを重要がれないと理解すべきだ。大したことはしてないんだけど。新しいことは日々注ぎ足されていく。でもその新しいを新しいと認めようとしないんだ。大局的に見て有利な戦略なのかなそれが。


2013/11/28(Thu) 今日も休講に気づかずに朝一で登校。せっかく来たのだからと図書館で作業していたら、メールが来て、こんどは午後の予定が取り消しになった。半日ほど暇ができた。 / 口ごもるのは、やめようと思う。情報量の著しく低い返答をするのも。言葉を口にすることで生じるマイナス部分を気にしているのだけど、そこでそのマイナスは打ち消せないものだと暗黙裏に信じているらしい。語り続けることで理解は塗り替えられる。はず。 / おもしろいダジャレとか替え歌を思いついて、歩きながら自分で面白くてにやにやしてることがあって、不審だろうと思いつつも面白いのだからしょうがないと開き直っているのですが、こういうのってメモしたものをあとで見返すとなにも面白くないんですよね。それはそのダジャレが本性的に面白くないのではなくて、 TPO が大事で、あの日あの時あの場所で言わなきゃだめなんですよね。でも誰に。その日その時その場所だったら、自分に、しかないのか。結局一人でにやにやしてる自分にもどる。 / 芸術とは提示の仕方の学問だと思った。意味はしらない。 / 薬師丸ひろ子のベストアルバムを聴く。なんか、「青春歌年鑑」で断片的に耳にしたときより、いいですね。楽曲のマイナー調かげんが好き。歌は、雄弁ではないけど確かに何かを語っているような。


2013/11/27(Wed) ふとんの敷き方を改善したら――頭部がもり上がらないようにしたら――ぱったり、悪夢を見なくなった。正確に言えば夢が記憶に残らなくなったから、見たか見てないかさえわからんのだけど。あはは。こんな明確な因果関係の認識はひさしぶりだ。はじめてかもしれん。 / 「お土産」を「おみやげ」と読むには、いまだに、いったん頭を回転させないと読めない。 / 演習で自分の考えを――というか、テキストのひとつの解釈を披露するが、理解してもらえず。というのが2週連続で起こっている。ひとつには、ひとは自分の意見に固執するので、それをあとから他人の手で修正するのは難しい、という事情があろうが。それはお互い様。そして自分の説明がへたなのも知ってる。しかしまあ、今までにない手ごたえ。世界の手ごたえ、反作用。いや、手ごたえがない手ごたえというべきか、ともかく、なんかこのままではアカン気になってきた。


2013/11/26(Tue) 歩きながら歌を口ずさむかなにかして、何かのひょうしで巻き舌にしたら、目の前の横断歩道が視界とともにぶるぶる震えて、面白いので、信号待ちしながら巻き舌をなんども試していたのですが、巻き舌ってけっこう強く息を吐かなきゃできないじゃないですか、いやおうもなく巻き舌してるやつがここにいるって気づかれざるを得ず、信号待ちをしてるのに一人だけ巻き舌の練習してる奴がいるって、なんだか気まずくって、思う存分巻き舌できなかったのですが、それってなんかおかしくない?で、大人らしいふるまいがなんなのかはしらないが、信号待ちをしながら巻き舌を楽しんではいけないのが紳士な社会ならそんな社会はマザファッキンだとおもいました。一人で勝手におもっていました。元々ほんとうはそれをしていけないのではなくて、きっと、大人になるにつれて巻き舌して遊ぶ動機がそもそもなくなってくるのだと思いますが、しかし、逆に言えば愚かな人間どもは、大人になるにつれて自然におさまってくるものを、規範に見立てて、それを敢えてなすものを秩序の攪乱者として排除しようと目を光らせているにちがいないのです。まあそれはあれだけど電車の中で人々は過敏になりすぎてるなあとは思います、しかも僕もそれに荷担してる。よく考えればどうでもいいことにいらいらしてる。そのくせ視線をやるだけで思いが伝わって相手が自らの行動を改めると思っている。


2013/11/25(Mon) 不安定な土日を経て、アクティブな月曜日が来た。休日を犠牲にすると、たまったものが平日にばくはつする。その爆発は仕事(つまり学業)に向けられる。特に帰宅してからのはたらきがよかった。しかし俺は遅筆すぎる。昔よりも翻訳に難儀するようになった。難儀ポイントが多くなった。目に入るものが増えたってことかなあ。 / 不安定なのはあんまし変わらない。というか世界には不安定材料がたくさんあるらしい。思い出してきた。情報環境をすこしずつコーディネートする(……つまり、ツイッターでフォローとアンフォローを繰り返す)ことで、心に波を立たせるものを見ずに済むようにしてきた。まだ時期じゃないからって、将来のことをリアルに考えなくてよかったから、具体的な事実に目を向ける機会もなかった。「翻訳者」とかるくググってみたら、予想はしていたがとてもたいへんな仕事ということで……TOEIC900……僕は遅筆だから、仕事より趣味でやった方がいいかなあ、とひとりごちて心を落ち着けた。風で散りまくる木の葉を図書館の窓から眺めやりながら、遠い国を想像した。自分はここにいるべきじゃないんじゃないか。乗り移られたように、そう思ってしまう。


2013/11/24(Sun) まずは昨日の話。ふだんはさとったような顔をして暮らしてる僕ですが、それなりに動揺することもあるわけでして、そんなことは実際はばればれだと思うけど。ある媒体を通して知ったある人についての Wikipedia 記事を読んでいて、その人今はその業界の人として活躍していて、その人が高校生のときに残した成果について書いてあって、はあ、それだけで動揺した。高校の頃帰宅部だったから? 原因としてはそうかもしれない。青春がなかった? そんなことはなかった、比較的うしろむきなものだったけど、じぶんなりに10代後半らしい心の動揺を経ていまのぼくがあります。むしろ、その動揺の背景にあるのは、結局、有名になりたい、自分の存在を世界に知らしめたい、ぺらい意味での「自己実現」ってやつだ。それは陳腐であると同時に、重要なものなのかもしれないね。ともかく俺も、有名になりたい、万人に向かって語りかけたい、なんかそういう欲求があるらしい。ちょっと前までは、隠れて地味ーに生きようとか思い描いてたんだが。

次は今日の話。あいかわらず大事なものがなくなるとき/失われてしまうとき/なくなりそうなとき/なくなる気配を感じたとき、に、そのときにいちばんその存在を、大事さを感じるタチであるようで。しかもなんかそういう方向に考えたがる傾向すらある。今回もそれだ。与えられた情報を過剰に読み解いてしまう。非標準的なほうへ解釈の触手を伸ばして、一人でさみしがったり走り出したりする。ここで書いていて思う。その存在者の存在を、欠如態においてしか捉えられないのは、それを実現されていない可能性としてばかり見ているから、そうとしか見ていないから、じゃないのか。可能性とはあるないの問題で、その存在様態は二極しかない。でも、その可能性をはらんでいる、あるいはその可能性たちに結びついている現物の存在者は、さまざまな強弱と色合いの様態を持っているはずで。

そんなふうにして近頃の私は不安定なのだといえます、そうしてブックオフで『狭き門』を偶然見つけて買ったりしました。105円だったので。それで1日か2日で読んでしまおうと思ってたけどまださっぱり手をつけてない。土日は辞書引いてたら終わってしまった。必要な作業なんだ。でも休みの日はどっか出かけないとちかれちゃうなあ。


2013/11/22(Fri) バイト。いつも、店番+事務ちょい仕事的な内容で、今日は雑用のオファーがほとんどなかったのでヒマだった。眠かった。ずっと眠かったし眠りに何度も落ちかけた。一緒に仕事してる人が敬語でなく話してくるようになった。ちょっと打ち解けたかな。あまり騒がしくしてはいけない環境なので声は抑えめにするんだけど、もとが声が小さいのでなんかほんと聞こえてるのかって声量になってると思う、振り返ると。声帯が震えるか震えないかってせとぎわで葛藤している。さすがにもっとヴォリューム上げてもいいだろう。しかし眠かった……二日間続けて睡眠時間が6時間以下だったから仕方はない。 / 誕生日ということで、家族でお肉を食べに行った。お肉が出てくる前にサラダバイキングでお腹をふくらませる罠である。罠と知っていながらもくもくとポテトサラダなど食べてしまう。肉を食べた後もカレーだのデザートだの食べてしまう。満腹だと思っても追加してしまう。そういうスポーツだと思い込んでいる。以前にやってたバイトの打ち上げで焼き肉を無茶な量食べさせられた記憶がこんなところに影響を残している。食べ過ぎても不快になったりはしないからいいんだけど。 / あと、数学をやりたくなっていたので、朝の電車の中で Munkres の Topology を読んでた。読んだといっても 2 ページくらい。


2013/11/21(Thu) 駅までは『室生犀星詩集』。三日目にして詩集「青き魚を釣る人」まで読み終わる。「さびしい」とか「かなしい」という語彙が頻出して、なんだか中原中也とか石川啄木の印象が重なってきて「またか」という感想を抱かずにはいないが、室生犀星の場合はこれに「うれしい」が同じくらいよく出てくる。さびしい、かなしい、うれしい、並べてみるとずいぶんあからさまだ。でもそんなあからさまな表現の連発がある効果を生み出しているとは思う。「うれしい」を総括の言葉ではなく、モノのように配置することで、むしろ起爆剤としているかのような。いまのところの感想。 / 昼、すこし時間が空いたので、マクドナルドでてりやきバーガーを食べた。昨日の帰り、お腹がすいて、てりやきバーガーが食べたくなったので、その欲求を翌日になってから回収した形になる。最近、何かを食べたいときに、自分が食べ物をうまそうにほおばっているイメージが自然に浮かぶので、マンガみたいに典型的だなあと思っている。あまりややこしいこと考えないようにはなったので、欲求の事後回収の形になっていてもてりやきバーガーはためらいなくおいしい。 / 一緒にコーヒーを頼んだ。飲みながら携帯でインターネット見ていたら、意外とすぐ時間が来てしまって、半分ほど残っていたコーヒーを一気に流し込んだ。抵抗あるのわかっていながら貧乏性というか、もったいないというか、昔からそうしてるという理由で。特別支障はなかったけど、3時間くらいしてカフェインが切れた頃に眠くなった。あとお腹がすいて電車に乗ったらすこし気持ち悪かった。 / 帰ってから行きがかり的に、スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』を聴いた。買い入れた当時よりも楽しめてる。トラックがもっさりしてるとか思っていたが、落ち着いてるということだった。ラップのネタもそう。老成してるので、「トリオ ザ キャップス改」とか「Little Bird Strut」のような曲でハジけようとするとかえってすべってしまうのか。


2013/11/20(Wed) ちっちゃいバッグつけた人が前を歩いていて、「この人生きてゆけるのかしら」ととっさに思った。何が入れられるというのだろう。僕は毎日カバンが重いので不必要に心配してしまう。自分の状態が標準で最適であると知らずの内に前提してしまう。 / 駅までは『THE VERY BEST OF PUFFY』。1「これが私の生きる道」から4「サーキットの娘」まで全速力で疾走する感じがすばらしい。3「アジアの純真」の歌詞は陽水のキャリアの中でも最大級に意味分からん部類に属するのではなかろうか。この歌詞をそれらしい(?)アレンジに乗せおおせた奥田民生はえらい。

昨日のことだけど、帰りの電車に乗り込んで、座ったらぼろぼろのホームレスの人が乗っていた。向かいの座席にいても異臭がきつい。こうした異臭に耐えられることが今後何かの役に立つかもしれない、とか考えて、席を動かずにいた。ああ、俺、人を修行の道具にしてるわ……。 / 人を道具として用いることが美徳ではなく悪徳とされるのは、利己性が余裕なくてかっこわるいからなのだろうか。いや、道具として扱われたと知ったときに人が見せる落胆や怒りは、その理由におさまりそうにない。目的として扱われることのかけがえのなさの裏返しか。 / 人を目的として行為するということの意味はわかりにくい。その人の利益や快の増大を目的として、ということ……にはとどまらなそう。 / 青年二人組が入ってきて、シートに座りかけたところで、気づいて一人が身を翻した。もう一人はきょとんとして辺りを見回したが、すぐに事情を察して、二人は顔を見合わせて笑いながら場所を移した。その場では適切なふるまいだったんだろう、少なくとも二人の間では。でもこうしたときに発動するのが「笑い」というふるまいであるのを、なんだか残念に思う。繰り返すが、それは適切なのではあると思う。笑いは事態をもっともよく互いに了解させるサインだっただろう。有意味なリアクションとしては、少なくとも妥当な手だったといっていい。でも人間のコミュニケーションの様式として、こういうときに作動するのが、笑いという装置であるしかなかったのが、なんとも息苦しいというか。笑いは適用範囲が広くって、ときに暴力的だ。暴力的ゆえに適用範囲が広いともいえる。ほんとは、笑いはその本性からして暴力的――破壊的なのかもしれない。ただふだんは安全な場所でそれを用いているだけなのだ。実験用のグラウンドで兵器を爆発させるみたいに。


2013/11/19(Tue) 休講なの忘れてて学校来てしまうのまたやった(よくやる)。こんくらいバカなほうが、いつも通りに起きて活動始めて、時間ができるからいいや。予定がない日に自分の意志で早起きするという道はあきらめた。願ってても何年経ってもできないんだもん。基本的に願ってるだけだからだが。 / 朝のニュース番組で耳にした「走り続ける」が「はしょり続ける」に聞こえて、それを Twitter に投稿しようと思いながら一日が過ぎた。結局してない。 / 12月に旅行したい。ほっかいどーに行こう。宗谷岬を見に行こう。と欲求がとんとん拍子に固まったので、旅程とか調べていた。 Twitter にもなんか表明した。しかし大事な要素が抜けている。


2013/11/18(Mon) 戻ってきちゃった。はてなブログでTwitterの引用機能を使って、書いて書いて投稿したらひとすじの操作ミスで本文がまるまる消えてしまって、これだから高機能なものは信用できない!とスネて戻ってきてしまいました。とはいえこの年になって煮えたぎる書きたいこともないし、HTMLがいまだにきちんと書けない見よう見まねで覚えただけの深みしかないのが恥ずかしいし、そういえば今日ラジオでイタリア人のコンテンポラリーなポップスが流れてたのですが自分の「洋楽」概念の狭さを恥じたね。イギリスとアメリカ、あとせいぜいドイツぐらいのスケールでしかとらえてなかった。メロディーの雰囲気がちがうよね。とかそういう生煮えなこと書くのもそろそろ恥ずかしいお年頃なのです。なのですよ。誕生日近いしね。


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