1306nolog


はてなブログに

ぼちぼちこっちで書くかも。

20130615Sat2252

LP濃度

スパイラルグレープ(リンク先flash)

この広告を、帰りの電車の中で見ていた。あー、これ、朝見たやつだ。朝、登校に歩く道の中で、小雨にぬれて打ち捨てられたこいつのボトルを見た。中身がまだ入っていた。見たことないジュースだなーと思いながら通りすぎかけて、戻ってきて名前を確認した。それから数十歩進むうちに名前は忘れて、パッケージのデザインと、アサヒが販売していることだけが頭の中に残った。そして今広告を見ている。スパイラルグレープっていったわ。確かに。なにより、広告を目にしているのが、現物を見たより後であることが清々しい。現代は何々のような時代で、つっても下手な評論みたいでうさんくさいだけですが、「これからはこいつが世に出回るぞ」とあらかじめ知らされた上でそのモノに出会う、ということが少なくない。多い。大半かもしれない。モノについての情報を手に入れて、それに向き合う構えを作ったうえで対象に出会う。アマゾンのレビューを熟読してから本を買う。公式サイトを確認して、建物の写真を見て、ストリートビューで実際の道のりをきちんと詰めてから現地に出向く。いやそこまでこと細かにやることは、今はあまりないけど。先入観なしに対象に向かい合うことの重要さ、という話では一面ある。余計な情報に惑わされずに、自分の目でものを吟味できるかもしれない。しかしそれだけでなく、いきなり現物が出てくるときは、そもそも身構えるひまがないのがいい。そこでは身構える/身構えないの対立から自由だ。 あれが出てくるからどうしよう/出てきたらどうしよう、と思うことに無縁だ。事実だけが飛び込んでくる。環境の中を生きる主体、とか、世界を知覚し解釈する主体、が現れない、といってもいい。いってもいいけど必要以上に言いすぎかもしれない。まったく、主体的であろうとするほどに主体性は遠ざかるのだ(さらに余計なことを言った)。まあ僕なんか主体性から極力逃げようとしてますし、〈主体性から逃げようとしている〉なる主体性からも逃げようとしている。自己欺瞞の構図だ。「ほんとうの自分」とはようするに「こうありたい自分」でしかなく、他人から見たいろんな角度がいろいろに自分を照らしだしてもいて、自分というやつの性格を総体的に包括的に理解できたとしてそれがなにか有用な情報を提供するとも思えないんだけど、じゃあなんで自分を知ろうとするんだろうか。きっと自分というものにいつになく関心が集まってる時代だって気がするけど、自分を知ることがさまざまな問題を解決する糸口になる――というより、自分という障碍があるゆえに、さまざまの有用な知見が無効化されている――のもまた正しい判断だろうけど、多くの人が「自分」の罠にからめ取られて、うまく考えきれずにいるのは、そいつがトップクラスにブラックボックスな存在だからで、そしたらもう「自分とか複雑すぎる」って分析を投げちゃうのが最も賢明な態度なんじゃないか、少なくとも問題解決のためには、って思わなくもない。観察・分析・統合を繰り返して「自分とはこれこれという性格の人間である」とすぱっと言い切れるならいいけど、そんなわけがない。自分というのは理解するものじゃなくてそれを生きるところのものでしかないんじゃ!(投げた)

20130612Wed2220

滅相サンシャイン

<文字通り>
泉から湧き出るは狼
水素を吸い込みながら
夜に生えるタンポポを摘み取って
旅行の準備をする
自生地帯
靴に入り込む砂利
野暮な腫れ物
自動変換に蒸されて転ぶ
安寧の世帯
往生にたわし
カラコルムのこぼれ話をひっかいて
痕に縄を巻きつけて
醤油の瓶が静かになるまで
山頂でおにぎりを食べて過ごす
天秤座に敵はいない
牡羊座は
乾いたキュウリのはんぺんだ
つがいになって在庫を探す
進む経済
しゃがんでる警笛
絶え間なく澄まし顔のバロメーター
音楽の荷が降りてひとりぼっちになる
過酸化水素水にたのみごとをする
落花生に決闘を挑む
それが高速道路だった
約束だった
どんぶりにごはんを盛って祈っていた
サンマを焼いては届かぬ銃声に耳を貸して
のど飴の反復横跳び
算数のオケラに油売りの壷
スローモーションのカワウソに
山肌とコインランドリー
虫取り網をよく干して赤い芋とともに身を粉にする
偏西風が癲癇を用意すれば
車のナンバーがニヤリと笑う
エルボーが凹凸になる
半分になった遠慮半分になった優しさ半分になった砂山を
武器に
フレミングに会いに行こう
ジャーマンポテトをほおばりながら休憩する亀みたいに
根性を水にさらそう
駅弁を許してやまない刑罰の乱気流が
点数制の焼け野原で屈伸するとき
僕は墓場のカタツムリだ
体育館の匂いを全身にまとって
ボールペンの書き心地を試す
延髄がピアノを弾く
ペン回しに耐え切れなくなったら
ダイヤルを回して
点字を空に打ち上げよう
ペン先からよだれが垂れて
コンビニが会話の中に入り込んでくる
ゴミの分別に迷う人に
心遣いを
帽子のつばを上げたい人に
ナスの天ぷらを
口実をリンゴに埋め込む人に
針葉樹の種はスパムメールだ
押しても押されるたんこぶだ
流れに片足を突っ込むと
冷たかった
あひるの産卵

20130611Tue2350

麺つゆ避難場所

面白いのは何しろ事実をありのままに書くことであって、ともすればテレて隠蔽されがちな真実をあっけらかんと開示してしまうのがオールドスタイルなインターネットの楽しみでしたし今もそういう部分はあり、ソーシャルな中にも「私は真実を語るよー」なスタンスで発言を続けてる人もいて、まあそれはひとつの「キャラ」であってソーシャルな中に取り込まれてるのには変わりはないのだけども、ソーシャルの中に取り込まれてるかどうかなんてぼくらには関係ないのであって、しかしまあアンタ結局枠の中で、それが許される特定の「場」の中でやってんでしょと意地悪な嫉妬を向けたりもしたけど私は元気だし、なにしろ世界に真実を殖やしていきたいなと思う。でも、一方で、「だって本当のことじゃん」という自己正当化が聞き苦しいのはなぜだ。確かに正しいことを指摘しただけで人が変わってくれるなら苦労はしませんよな。ああ、だから、正しいことはゴールなのであって、それを手段にするべきではないんだ。

今日は暑い。外に出てないのに暑い。昨日までは涼しかったけどこれから夏になって、暑くなるのを夏というわけですがお金がなかったりして短期バイトに挑戦するかーってインターネットで検索検索して申し込み申し込みコピペコピペとかやってるとちまなこになってきて、この胸の重みはきっと健康にはよくないのだろうな自営業的なものってたいへんだなーすでに構築されたシステムの傘下に入るのは楽であろうと思うのだけど自分で選んだことだからこれを選んでいるし、なんであれ前には進んでいるのでいいかな、と思う。前に進むってのはなにも大げさな意味ではなくて、サルサソースを買ってきてパンに塗ってみるのもやっぱり「前に進む」ことの一つなのですよ。自分の世界が新しくなりながら転がり続ければたぶんエコロジカルになんとかなる。

20130609Sun1425

キャラメル・バリア

いろいろ考えている。しかし何を考えたいかもよくわかっていない。ただ休日に勉強しようとするとうまくできなくて、いやっ、家で勉強できないのは昔っからではないか。結局そういうことなのかもしれない。いきなり答えが出てしまった。ともかく、ものごとが思うように進まないマイナスな心が続く中でうだうだ思考だけはたらかせていると、自分の人生設計がどうのとか、人間としての経験がとか、自分探しとか、長らく内に持ち歩いているまだ言ってない言葉とか、その他関係ないものどもが関係ある顔をしてあの閉塞的な気分にくっついてくる。謎はからだだけ大きくなり、謎っぽさを増し、こんがらがって到底解けないように見えてくる。でも、じつはそんな深くて迷宮な問題なんじゃなくて、たんに必要なだけ勉強がちゃんとできていればこの気分は解消するんじゃないか。あとお金の問題。まあ私の人生につきまとう問題はそれだけではない。だけどここしばらく週末につきまとうミョーなウックツさの原因は、やっぱりそこにあんじゃないかなー。と思う。古典語なんかとるんじゃなかった……、でも、単位数ギリギリだからあれ落とすと来年修論書けないんだよね。ぎゃふん。

20130607Fri2059

彫刻の耳たぶ

それでアレなんですけど、まっくぶっくえあーのキーボードが快適でないので別の外部キーボードを用意したいんですがUSBポートが2個しかないんで、しかも片方はマウスで使ってるしもう片方は外部HDDとかCD/DVDドライブ用に空けときたいしで新しいキーボード導入した暁にはUSBを挿したり抜いたり抜いたり挿したりするさまが見られるのではないかと思いますそれだったらデスクトップパソコンでよかったよな! それで一週間ほど更新が空いていたわけですがその間僕はテレビを見たりファミコンしたり本を読んだり時間について考えたりしながら僕は僕のヒマを過ごしていたって書こうと思って「ヒマの過ごし方」(スチャダラパー, 1993)の歌詞を検索したら半分以上間違ったり抜けてたりしました。最近静かに風邪が流行っているらしくいろんな人が風邪を引いたりしていたので前回書いたようなことはやはり風邪について記述したことになる。でもタバコが引き金を引いたというのも正しい見方に思える。痰だけまだ出ます。とにかくその日は熱は出たのか出てないのか、からだのふしぶしが痛んだり痛まなかったりして、ただ頭のてっぺんやや左寄りに抱えた頭痛――痛という字を伴うがそれは外的刺激による痛みとは質が異なる――が悪さをして、お腹は減るけど食べ物の味はわかるけど咀嚼して飲み込むのがどうもできなくて、きわめて緩慢に食事を続けたあと半分残してひたすら寝ました。寝れば良くなる。寝れば良くなるけど寝過ぎると風邪とは別の要因で頭が痛くなるので頭痛を取るか、風邪を取るか、天秤にかける余地はもとよりなかったけど見えているひとつの望ましからざる帰結を横目にそれでも寝ようとする僕はまるで暗いトンネルに突入する勇敢な騎士のようだとは全然思いませんでした。あるいは強制スクロール。そんな苦しみも今は思い出で思い出とはただ利用されるためのものなので遠慮はいらないし、思い出と過去そのものとは違うので思い出を軽やかに話すことは過去の自分に不誠実であることとは違うんですか? 過去の自分に不誠実である<べきでない>と感じる人が世間にはいますが、なんでそんなこと思うのだろう。その前に他人に対して誠実であるべきなんじゃないだろうか。過去の自分を裏切ることがなぜ悪いこと後ろめたいことと感じられるのだろうか。それにそもそも過去の自分への裏切りとは何だ? たとえば研究者になるためにずっと勉強してきて、あるときその目標を変えて漫画家を目指すことにしたら、それは過去への裏切りなのか? だとしたら、それは他人への裏切りとは少し違うものだ。過去の自分への裏切りは時間軸を中心として展開される。他人への裏切りは空間軸?が中心だ。でもいずれにせよ、ある“期待”があって、その期待にそむく行動が裏切りと記述される。そして誠実とは期待を守り続けること、「期待を裏切る」が可能な限り少ないことだ。そうか? 人の期待をいつでも叶えてくれるのは、たんなる都合のいいドラえもんだ。ドラえもーん。誠実さには、スタンスの一貫ということが含まれているように思う。ドラえもんは、のび太くんの要求に簡単にノッてくれることもあるが、ときによって「自分で解決しろ」とそっぽを向いたりして、でも結局は助けてくれたりして、結果はいつも一定だけど態度が一貫しない。だからドラえもんが誠実さの鑑だとは言えない。じゃあ、ドラえもんがのび太くんに対して誠実であるとはどのようなことか。誠実さの分析は難しい。裏切りの分析はどうだろうか。のび太くんに対するドラえもんの裏切りとはどのようなことだろうか。それは、ひみつ道具を出して助けることをすっかり放棄してしまうことだ。これはのび太くんの「ドラえもんはいつも助けてくれる」という期待への裏切りである。しかしドラえもんがのび太くんに対して愛想をつかしたとして、そのことについて「ドラえもんは不誠実だ」とわれわれは責めるべきだろうか。もしかしたらそうかもしれないが、そうではない気がする。それはのび太くんが誠実さを受けるに値するような人格を持たないからだろうか。あるいは、のび太のママが料理をつくることをやめたら、それは不誠実として責められるべきなのか、それも違う。それはドラえもんがのび太くんを助けるのものび太ママが料理をつくるのも、どちらも誠実さの表れではないからだ。飽きてきた。ともかく誠実さとは、たんに期待に応え続けることではない。それにさらに条件が加わったプラスアルファだ。風邪ひくちょっと前辺りから勉強への意欲をなくしていて、るーちんな生活に無気力になりかけていたのだけども、また盛り返してきた。好きなことを見つけて実行すること。(それがいつも学業とは限らないのが曲者だけど、それでもいい。)で、予定がひとつもない金・土・日をどうするかが問題なわけですが。とりあえず外に出るようにする。

20130606Thu1217