2013年5月のろぐ



照り焼きロンド

ひさしぶりにタバコ吸ったら喉が痛くなった。喉が痛くなり痰が出るようになった。今はのど飴なめてる。そういやこれの前に吸ったときも喉痛くなったじゃないか。で風邪っぽくなったじゃないか。あれはタバコのせいだったのか。それとも体調が悪くなるときにタバコを吸いたくなるのか。そういえばなんか眠くてだるかったのでタバコ吸ったらよくなるかなと思ったんだ。ドラッグじゃないかまるっきり。そのあと図書館で勉強しようとして半分寝てましたけどね。なんなのか。半袖から長袖に戻したのが悪かったのか。それともすでに体調を崩しかけていて長袖を着たくなったのはそのサインだったのか。なんなのか。午前中お腹が空いてみぞおちのあたりが痛くなりましたがそれは空腹のせいなのかそうでなかったのか。よくわからんがタバコ吸うと痰が出るのはどうやら確実であり不健康を招く要素はできるだけ排除したいのでもうやめる。半年かけて一箱くらいのペースで消費してきたので依存もそれほどなかろう。思い出したけどふだん吸わないわりに吸うときはすぱーすぱーとアグレッシブに深呼吸的に吸い込むのでよくないのかもしれない。だけど俺の決断は止められない! というか似合わないので今持ってるぶんでやめにしようとはかつてから思っていた。タバコは肉体労働者のものだ。

20130530Thu2252

太巻きレベル

さいきん遊んでなかったなーと思って、遊ぶことにした。へんな文章だ。遊ぶとは自然にそこに引き込まれていくものであって、……と思うかもしれない。でも動機がどうあれ、適切に遊べてさえすればそれでいい。「なんでもいいから遊ばなきゃ不健康になってしまう」という脅迫的意識のもとに遊ぼうとすることには、落とし穴がいかにも潜んでいそうである。でも、ほっといたら僕は、遊び未満の形式的息抜きをはじめて、しかもそれで満足しようとする。遊びは息抜きとは違う。息抜きには、集中力を回復したり、活動に必要ななにかを養ったりという明確な目的がある。なんの目的もなくただ漫然と息抜きしているという状況を考えることができない。しかし遊びは目的がないことがその本質だ。遊びをなにかの役に立たせようとしてはいかん。テレビゲームをしている人に「それ何の役に立つんですか」と質問することは侮辱以上のものではない。だからといって、「目的があってはならぬ」と血眼になって〈目的〉から逃走するのもまた、別の罠にかかっている。「目的から逃れる」という態度において、目的構造の中に住まわっているから。ようは作為的になればなるほど蟻地獄にはまっていくわけで、上記のような能書きも配慮も忘れてやりたいと思ったことをやる、というのが答えとしてはそれだ。もちろん、こうして取り上げるからには遊びにはなにか取り上げるに値するポイントがあることを意味しているわけだが、それを明示的に取り上げ始めると「遊びの効用」「みんな積極的に遊びましょう!」「オススメの遊び15選!」とか考え始めて本末転倒なので遊びのことはそっとしといてあげてください。何が言いたかったかというと、それでも「よーし遊ぼう!」と宣言するくらいのことは個人的には必要で、必要でっていうとまた目的構造ですけど、ほっとくと本当にインターネット見てギター弾くくらいしかしないので人生には気合が必要!

p. s. さいきんまたぽつりぽつりと嘘をつきはじめたので、書くつもりのないことを書いたり書くつもりのことを書かなかったりということが気になるので、ほんとうの自由に向けていっそう修練を重ねたい次第。

20130528Tue1931;2258

八幡テーブルテニス

ねむい。ねむいねむいと考えて、ねむいと書こうと考えて、気づいたが、眠くなるタイミングが従来から変わった。電車で座ってても眠らなくなったぶん、家で勉強してるときに眠くなるようになった。しかしなんでこう「ねむい」とアピールしたがるのか。昨日ぜんぜん寝てないわーつれーわー的アピールの変種なのか。確かに昨日の睡眠時間は6時間弱なので眠いのも無理ないことなのかもしれません。それに、この記事によれば人間は日に7時間は眠るべきであるようですから、ある程度体を酷使していることにもなりましょう。ぜんぜん寝てないわーつれーわー。つらいという感情もまやかし的ななにかだと考えますが眠いときは眠るにかぎる。眠りとは一日の終わりですし冴えない一日を送った夜には一発逆転をかっとばしてスカッと薔薇色の一日にすっかり塗り替えてしまってから閉店のシャッターを下ろしたいと思うものですが一般論です。一般論。こうして文脈を無視して一般論を連結することで僕が冴えない一日を送ってきてつらいという像が築かれている恐れがありますがふつうの一日でした。外で iPod を使ってイヤホンから音を漏らすより家でおとなしく CD 聞いてたほうが豊かな体験だと気付いたので外を歩くときは単語でも覚えてようと思いました。たんたん。

20130527Mon2309

横綱による救済

今日はいちにち引きこもってラテン語の読解……というより、単語を調べて、訳本と照合するということをやっていた。古典語は辞書を引くだけでもそれなりに頭を働かせなければならない。動詞や名詞の変化が激しいので論理的に幾通りもの読み方が可能でありそこから文脈的に妥当な解釈を見ぬくのが……まあラテン語が難しいのはかまわないのですけども、日曜日をそうした無味乾燥な作業に充てるのは……というか、ちょっと予定がさしせまっていて、心に余裕をもてず奴隷的作業に従事してしまった。もっとゆったりとして読めればおもしろいのですけどね。その後、ふつうの哲学の邦訳本(についてる解説)を読んで、やはり自分で考えるということをやんねえと〜〜と思っていた。

というわけで、メインはラテン語で、あいまにマットと靴を干したりネットで収集作業したり酒を飲んだり兄弟で音楽番組見て論評したり未来についての思念が頭に入り込んだり妄想したりしていましたが、なんとつなげようとしたか忘れた、そんなふうにしていました。今日は散歩も出なかった。あっそうそう、それで一日中家で一定の作業に従事していたわけですが、それでもなんか時が推移するにつれて気分も変化するもので、時の推移とはそれ自体についていえば形式的なものにほかならないわけでつまりその中で何かが変化しないかぎりは、何も変化していない。つまり、時を容れ物と考えると、わたしがここで(どこででしょうね?)キーボードを打ってるこの時の状態を維持したまま、時刻が明日の午後11時とかにぱっと変わったとしても、時間が変わっただけで何も変わってないというか何を言おうとしたのかまたも忘れましたが、あっそうそう要するに時の推移とはそれ自体についていえば空虚な推移であって、そりゃ日が照ったり風が強くなったり気温が下がったりバイクが走ったり居間のテレビから聞こえてくる音がつぎつぎに移り変わるわけですけど、そういうのを一旦ノイズとして捨象したときに、人間はとくべつ外的刺激がなくても勝手に気分が変わったりするんだなあと思いました。内的な律動というか。夜8時くらいから調子がよくなってくる。

20130526Sun2314

大脳いわし雲

バイトの応募お電話などした。担当者お出かけ中ということで折り返しお電話くれるといった。それから5時間。返ってこない。またせるぜ。今はもうお酒飲んじゃったしギターも弾いちゃったしなんともないんだけどご連絡まってまーすと電話を切ってしばらくは緊張で胸がつまる思いだった。いましぜんに緊張とでた。そして胸がつまる思いとはおおげさだがコーヒーを飲みすぎたようなありさまだ。胸がざわつくのは不安のせいなのか、恋心のせいなのか、カフェインのせいなのか、どれでもざわつきの質は同じだ。高校時代から知っている。好きな人に出くわした時もちょっと怖い先生に出くわした時もどきっとする。だからってその先生に恋してることにはならない(同性だし……)けど一歩間違えると混同してしまいそうで人間の認知とはあやういな。共通項はつまりその相手を激しく意識しているということでありその相手に自分がどう思われるかを深刻に気にしてるってことなんだろう。

通常運転に戻したら性欲が戻ってきてよかったけど、健全な量というより飽和状態みたいなとこがあって困っちゃう、どっちかに振れるしかないんだろうかと思う。使わなければそれですむように適応するし使ってれば活性化する。でも使い過ぎると疲弊する。

20130524Fri2215;2412

虚無の鼻

うーん。書けないー。テーマはあるけど頭がはたらかなかったり心が防御的になってたりたんに眠かったり、理由はどうあれ140字以上ものを云々する状況に恵まれない。あー、否定辞が多い。喉が渇いたからといってチューハイをがぶ飲みしたせいともいう。一回休み。

20130523Thu2413

今日の内税

5時間しか寝てなくて、過酷な環境ってわけではないがパフォーマンスは落ちる。本が読めなくなる。だから提出課題の書式を整えたり資料のコピー取ったりという手を動かす作業それに伴なっていろいろ歩いたりした。頭が動かないだけで身体は動くので、むしろ普段より活動的に、突き進むように歩き、そのスピードで女子たちの横を通り過ぎたら「速っ」と奇異の目で見られた。そんなに速かったんか。そっか。なお、瑣末な点なのだが「女子」という言葉を使ったのはたぶん昨日が初めてで、でも隠喩としてでなく指示詞として使ったのは今日が初めてだ。原因となる特に何があったわけでもないが、すこしずつ進展していく。

20130522Wed1821

無人のティーカップ

朝は雨が降っていて、夕方まで降っていたんだけど、湿度が高くてまいった。私は湿気が苦手ですし。電車の中の空気がもわもわぬめぬめとくもっていて、しかも人がいっぱい乗るのでわるい環境だと思った。帰りも、気温は低いほうだったけど傘の柄をもつ手に霧雨が吹きつけズボンを湿らせカバンと接触する背中を汗がべったりぬらし。陰湿とはこのことを言うのだろう。ただ今日の天気を報告するというようなつもりだったのに価値判断ぬきで述べるのはむずかしいね。僕が湿度の高い今日の環境を、いやだな、苦手だなと思ったりもしたのが事実であれ、そしてその事実をわざわざ選び出して描写したというのもこれまた事実であれ、べつに愚痴をこぼしたいわけじゃないんだよ、きっと。ただ書くに値すると思っただけ。

20130520Mon2315

甘酒コブラ

なかなか幸せだった。とはいえ休日の常としてお昼前にふとんを出、ラジオを聞きながらコロッケ挟みトーストを食べた。そのあとひとしきりギターを弾いて遊び、しばらくほったらかしていたフランス語の勉強を再開した。ふとんを出るときにそう思った。そこが勝負の分かれ目だった気がしている。辞書を引きながら慣れないことばを解析していく作業は心のはたらきを活発にし、つまりテンション高くそれは進められていった。熱心に見えるらしく、テスト前なのかと親に思われた。でもね、テキスト読んでるとすごくアガるときがあるんですよね。今日みたいにね。それでほぼ一日中家の中の机の前にいたし、ツイッターもだいたい見てたんだけど、そうした状況が続くと起こりやすいように〈別様の可能性〉にさいなまれることもなく、はぁ、しかし、哲学の本を読みたい。でも細いサインペンで写した例文に赤の油性ペンで情報を詰めていく過程には充実があったし、言葉の回転がよくなって昨日の閉塞・見通しの悪さ・不自由さとは隔絶があるなというところ。しかし家族で夕飯に出かけて帰りに寄ったデパートの渡り廊下を歩いてるときなんかに〈別様の可能性〉は忍び込んでくるので、そのときは風景が遠のいてしまう。まあ、べつに忍び込んでくるのを防ごうとかいう気はない。シグナルはシグナルだ、バイトをしようと思った。

20130519Sun2356

マスコミの煮込み

夕食後、ちょっとだけ鬱々とした。この生活をこれからも続けていかなきゃならないのか、とか考えた。夕食後は鬱々となりやすいタイミングなんだよな。おなかがふくれて不活性になり、一日が終わりへ向かって過去と未来に思いをいたしやすくなる。つまり、思索的な時間帯が、同時にうしろむきな結論を出しやすい時間帯でもある。思索を手なづけないまま好きにさせておくとろくなことがない。すべては主観だとか、人生に意味はないとか、なんとか。しかしまあ、じじつ、今日は特別楽しく貴重な経験があったわけでもなし、昼には散歩がてら近所の小学校の運動会を見に行き、しかしそれはほとんど初めての経験であって、貴重なといって差し支えないように思うが、それでも夕食後にはそれが取るに足らないことにおもえてしまウのであった。その経験が貴重であるかどうかはようするにそのときの気分による、いや、というより、踏み切った言い方すればおよそ貴重な経験などというものはこの世にはないし、同時にくだらない経験などということもない。だから理性はスッコンデロということになる。しかしすると言葉を行使して何かを語るという所作に何を求めればいいのということになり、つまり人と話をするのなんて無意味じゃないか、って意味/無意味の対立が有効である前提で語るのがすでにあっちの土俵に入れられてる感じがしますが。

まあ、「今日一日俺は何してたんだろう」と、狭い意味で「我に返る」ときってありますしそれでなにか気持ちが沈んだりパズルのピースが欠けてる的な気がすることもありますけど、けど! 言葉でもってこの問題をときほぐすのは実にむずかしい、つうかこうした問題に関しては言葉がからむといたずらに問題をこんがらがらしてしまうという見方もあります。パズルのピースがはまればどうなりますか。気持ちが沈んでない、焦りに揺らいでない私はパズルのピースがはまってる状態なのですか。だとしたらぼくはピースをどこかでなくしてしまったのでしょうか? などと連想を重ねていくとなんだかそれっぽい気がしてきておそろしい。お腹が減った、だからめしを食う、というのはシンプルで正しい。性欲・睡眠欲も用法用量はあるけどだいたいそれでイケる。お勉強やお散歩もその図式に入れることができる。ピースの形がわりあいはっきりしてるから。だが僕が探していたのはもっと輪郭のぼやけたピースだ。探してるものがなんなのかわからないのに探してるってどういう騒ぎなんだろう? 少なくとも、それが見つかったときどうなるだろうか、ということに関して、了解がなければならない。そしてそれを僕は知っている。ピースがうまくはまったときの感じを予想できている。しかし、すると、ピースはひとつだけではなかったり、そのはめ方が一通りじゃなかったりする、ということに気付く。

20130518Sat2139;2332

パートタイム弁護

なにか書いてみようかな。なにか書いてみようという気を起こさない限り、日々はするすると流れていく。さて、「日々」という表現になにか気恥ずかしさを感じる。「日々」だけではない。「日常」も気恥ずかしいし、「生活」さえ気恥ずかしい。「暮らし」と言うとなぜか炊事洗濯インテリア的なものが思い浮かぶ。「人生」は大げさすぎる。でも、うーん、一周回って「人生」が最もニュートラルな表現に思えてきた。でも一周回ったのは自分の中でだけなのでそれはあいかわらず大げさな表現だ。われわれの周りを流れていくところの、あるいはわれわれがその中を流れていくところの、“これ”を適切に表現することは難しい。いや、“これ”を適切に表現しようという意図がなにか根本的な誤りを含んでいる気がする。私をとりまいている個々の「これ」をとりまいている何かを対象化すること自体が虚構のわざではないか。「世界」ということばも同じだ。私の世界はあなたの世界と違う。それで何かが言えた気になる。じっさい何かを言えたつもりでいる。でももっと地に足のついた表現で満足すべきだという気もする。ぜいたくを恐れているのかもしれない。一言ですべてをまるごと掴まえようなんて傲慢だ。でも、それを言葉にしただけでそれを掴まえたことになると思えてしまうことのほうが思い上がりではないか。目の前のものを指さして「これはギターだ」と口にする。それは、「これは俺のものだ」と口にするに等しいのではないか……そういう考え方が。言葉にして理解したものは自分のものとなる。でも言うまでもないが、ものごとを手に入れるとはそれだけを言うのではない。いや、そもそも、ものごとに対してもっぱらそれを〈手に入れよう〉という態度でのぞむこと自体が余裕がなくてけちくさい。しかもそれを〈言葉にする〉という最も手軽な形でもって実現しようという魂胆がさらにけちくさい。でも、言葉にするなんてそんな簡単じゃないとも思う。「これは世界だ」と言ってすべてが手に入るわけではない。言葉によって取りこぼされたものを意識すること。

20130517Fri1533

3歳からの蝉しぐれ

ここしばらくはいつになく性欲があって(今日は尾籠な話です)、ほぼ毎日抜いたりしてたんだけど、それを続けていたら疲弊のためか性的能力が落ちてきてちょっとまずいぞと思って控えるんだけど、欲求はあいかわらずあるので控え切れずに事に及ぶもポテンツが平時なみにまだ回復していないことを目の当たりにし、しばらく安静にしようと改めて決心はするが欲求のほうがほんとうにお変わりなく好みの女性の顔などを見るだけで気持ちがよいのでもはや事に及ぶ必要はなくてこの内に閉じた快楽に浸っていればわたしのQ.O.L.は上がったまま保たれるのではないかなどとも考えるほどでした。つまりQOLってそういうマユツバな概念だと思います。

20130513Mon2339

駅弁サンキュロット

二度も散歩に出てしまった。昼食後に一度、夕食後に一度。一度目は、日光を浴びに出た。わたしはラテン語を読もうとしていたが、あまりに外が晴れていたので。いや、べつに、あまりな晴れ方をしていたわけではない。だが、快晴だったし、その快晴がわたしに「あまりだ」と思わせるに足るものだったので。そうして私は今コーラを飲んでいる。ともあれ、晴れている休日に家にこもっているのがなにか罪だというような気がしたので、外に出た、日光を浴びるという口実をつけて。昨日までの雨が通り過ぎて気温が上がって背中にうっすら汗をかいた。二度目の散歩は、夕食後、コーラを買いに行った。先週あたり手に入れたミント焼酎を割る素材としてのコーラ。スーパーに行く前に迂回して、河原を歩いた。日は暮れかかっていた、空に薄っぺらな月が浮かんでいて、下に向かうにつれて青からオレンジのグラデーションになっていた。青とオレンジのグラデーション、という二項関係でしか、私たちはその様子をとらえられない。虫がうるさかった。小さいくせに人間よりも大きい音を出す。歩き続けていると日が落ちきって、あたりが暗くなって、視界が悪くなった私は昼間の散歩では考えないようなことを考えていた。……。

20130512Sun2223

ちゃんこ鍋ドライ

数日さぼっていたけどなにか書いてみよう。日記など書こうと思わなければいくらでも書かないでいられる。高校生のころは他にすることなかったから書いてた。いま、「他にすることなかったから書いてた“だけ”」と言いそうになった。だけどそうじゃない。高校生の自分にとって、日記はありあまる暇をつぶすためにランダムに取り出された1ピースではない。暇つぶしは暇をつぶすという目的に仕えるだけのものではない、暇つぶしは暇の奴隷ではない! だから当時の僕が日記を書いていたのにもそれなりにのっぴきならぬ理由があるべきなのですが、それについて語り始めるとこんどは当時の自分を正当化したり、ことによっては美化したり、というこれまた不本意な流れが溢出する。「ただそれだけのこと」と切り捨てる気もなければ、「どうしても必要だった」「意義あることだった」と持ち上げるつもりもない。僕が日記を書いていたのにはたいした動機もなかったけど、ただ無為に三年間を過ごしたということをそれは意味しない。日記を書いている間は僕の人生がストップモーションしていたのだということを、それは意味しない。日記を書いている間は日記を書いていたのだ。そうゆう業を積み重ねてきたのだ。ひとまずはそれ以上でも以下でもない。だけど言葉でもってそれを語ろうとするときには、目的とか意義とか、そういう機制でもって記述したくなるのだ。言葉は人間がそれを役に立てるために開発されたものだから、だろう。つまりそれは言葉が一つの道具であることに由来する内的な制約だ。

日常には書くべきことがあふれる。そしてそれらをひとつひとつ心の中にとどめる。しかし、ひとたび「なにか面白いことなぁい」と尋ねられたら僕は語る言葉をなくす。語るべきだったことがさらさらと体の外へ逃げてしまう。あまりよいことではない。語る言葉を持たないということは、戦えないということだ。あー、まあ、でも今日はそれはいい。問題は、書くべきことはどっさりあるのに、一日に書けることは限られているってことだ。寝る前の一時間弱をこの作文活動にあててみる。そこで書けることは、生きていて書くべきと感じたことのごく一部だ。全部を書こうとすれば、半日暮らして、半日書いて、とかそういう分担になる。でも僕は書くために生きてるわけじゃない。じゃあなんのために書くんだ? ここでも目的の機制が流れ込んでくる。でも目的も今日はべつにいいんだわ。今日はもっとニュートラルな事実に触れたい。昨日は、「自転車が僕を自由にしてくれる」の日だった。おとといは、おとといまでは、でもこれを正確に書ける自信がない。いや、正確にじゃなくって、自分に都合のよい仕方で、書ける自信がないというべきかもしれない。はー、知らない方がいい事実なんてないって信念、そろそろ限界が来てるかな。すべてを余すことなく知ることができる者にとっては、感情の動きはまやかしかもしれない。だけど人間一人が認知できる範囲は有限だ。それに、言葉はいつも事実の一面を切り出すだけだからな。いかに上手に事実を切り出すかという手腕にかかってるわけよ。

ま、なんであれ、今後とも極力風通しよく、は意識していこうとおもう。風通し悪くなるとどんどんだめんなっていくからな俺は。「なんであれ」ってなんだ。

20130511Sat2442;2518

高騰酒場

望むと望まざるとにかかわらず何かを言葉にするとそれなりの含意がついて回り、しかもそれに無頓着でいることはできない。それは自分のする発言が不可避的に含んでしまうものに自ら気づかざるをえないということであり、その含まれたものが現実に重大な帰結をもたらしうるということでもある。事実わたしたちは明示的に示してやるよりも含みによって思いや考えを伝えようとするし、ほのめかされた事柄のほうがむしろ人にインパクトを与える。それとは関係ないのだが、今日は自分の悪いところが出てしまった。そもそもあまり愉快ならぬことだし、今日は自分に向き合うつもりもないし、普段もどれだけ向き合えているかいよいよ疑問だから、詳しくは書かない。ここでレジャーシート広げるよりも、具体的な対処対処だな。

と書いたとき、「それとは関係ない」という僕の言葉を読者のあなた(推定5名くらい)は文字通り受け取ってくれるだろうか。ほんとうに関係ないんだよ。根底でつながってるかもしれないけど。しかし、「本当に関係ないんだ」と念を押しても、その裏になにか意図を読み込まれうる、むしろ、こうして念を押すのは、「関係ない」という発言に注意して欲しいというメッセージではないか――という推測を呼び込む。なるほど、一見関係のない二つの話題を続けて、しかも同じ段落の中で書くというのには何らかの理由が求められてしかるべきだし、しかも「関係ない」とあからさまに言うことで、その裏にある意味を読み取って欲しいと暗黙裏に述べていることにさえなる。つまり上の段落で僕は誤った仕方でものを伝えようとした。オースティンの批判からまだ逃れられていない。

こうしてある程度の分量ある文章では紙幅を自由に使えるし、適当な文脈を設けるのが容易なので上記のような誤りを犯すのはひとえに作者の責任ということになる。だけど、ツイッターのように少ない文字数でなにかをなそうとするときは、使える文脈が限られているので誤解を招きやすいし、誤解を招かないためには自身のキャラクターという文脈に依存するのが手っ取り早く、でもそうすると書けることが狭まっていくのかなあって、最後のは今思いついて書きました。ようするに言いたいのは、たとえば僕がツイッターに「女の子のくしゃみを浴びたい」と書いたところで、それがどのくらいの本気度でされた発言なのか、まったくのネタなのか、それともマジで言ってるのか、ちょっとした思いつきなのか、判断つきかねるってことで、そうすると虚構のつもりで言ったことが本人の魂の叫びと取られたりする可能性もありなかなか容易ならぬことだわってことでありました。ネタだと示したい時は発言全体を鍵括弧でくくったりというテクニックはあるがな。つまり僕の理想は何言っても本人の人格と切り離されて読まれる空間だったりするのかもしれないが、そうもいかないので小賢しく対処していくしかなさそうですナ。

20130507Tue2219

今日のトゥデイ

休みだと知らず学校に来てしまったの巻。しょうがない本だけ返して帰ろうと思ったら返却窓口もお休みだったの巻。しょうがないしょうがないので返すのは明日にして秘密の小部屋ですこし勉強して、一時半に外に出た。晴れていたおまけに学内でマラソンか何かやっていて、缶の発泡酒を飲んでる人達がいて、親子連れが遊びに来てて、今日は祝日で、祝日なのになにやってんだろうなにもできず死にたいと焦燥に駆られたのでそうだ水泳しよう水泳、プール、とスマートホンでプールなど探してみるが水泳帽も持参してなかったし云々だらだらとした逡巡が続いて結局ソバ屋でカレーライス食べて家に帰ってきた。家に帰るまでに某公共図書館に立ち寄ったり噴水を見たりとか単独で取り出して語るべき事柄はあるけれども今日はしない。噴水をじっと眺めてると面白いですよ。人間の知覚のあり方が、ものごとを複数のモードを切り替えつつ見てることがわかる。それでなんか日が出ててあったかかったし本当なんなんだろうと思いながら古本屋のアダルトコーナーでエロ・ライトノベルを立ち読みして表現の工夫に感心していた。同じモノを指すのにも同じ言葉を使わないってゆう、英語みたいだ。局部の名前を地の文で連呼するのでは情緒もへったくれもないってことでしょうか。あとは帰ってからラテン語の予習をやって、訳本も Perseus も用意してフル装備なのもあり、すこし読めるようになってうれしかった。外国語を読むコツはただひとつ、辞書をよく読むこと。結局この点に回帰する。読んでる最中の私はブツブツ唱えてるというよりはテキストとほんとにおしゃべりするくらいの音量で「対話」してたので、たぶんかなり怪しい奴になっている。怪しい奴なのはぜんぜんいいのだ。怪しいのをはっきり出せないのがやっかいなのだ。

20130507Tue0017

ん?

気づけば最近の僕は似たようなことを繰り返し書いているではないか。感情がどうの、鈍感さがどうの。そりゃ、それなりに自分の中でタイムリーかつ深刻な話題ということはある。けど、僕はがんらい、同じ事を繰り返し言うのをきらってきた。理由はいろいろある。飽きっぽいから一回言ったら満足するとか。一度のアウトプットで内容に十分な形式を与えられたと錯覚してしまうとか。まあ理由はなんでもいいけど、同じことを何度も言うのはめんどうだと考えてきたのに、この点については、何度も同じことを、しかも同じ仕方で、語ってしまっている。いや、でも考えてみると、昔の高校生ぐらいの自分の日記のほうが同じことの繰り返しだった。自分の怠惰との対決。たいけつ? どう向き合うか? とにかく勉強するべきなのに勉強しない、ついついインターネットしてしまう、その点にばかり目が行って、お決まりの問題提起お決まりの正論の解決法つまり「とにかく動くしかない」「でもどうやって動くのか」「動きながら見つけるしかない」ってことが繰り返されて、このループに直面する日々は長かった。勉強が義務として課されていた浪人時代までそれは続いた。そのことを思うと、自分の生活において大事だと思うことに関しては何度も何度も書いているのかもしれない。一度書いて満足したものは、一度書いて解決したと思われるものだけなのかもしれない。でも、仮にそれが自分にとって重要な未解決問題だったとしても、同じことを同じ仕方で書きつづけるのには芸がない。いや、同じことを同じ仕方で書き続ける芸だってあるかもしれない、が、自分が同じ問題に同じように悩まされていると表明し続けることは、自分はこの問題に関して進歩がないということをいきおいほのめかすことにもなり、かっこうがわるい。もちろんすこしずつ変化はしている。だけど、問題を述べるその仕方、問題の捉え方そのものに変化が生じないまでは、実質的な進歩とそれを呼ぶにはよわい。要するに、変わらないものではなく、なにが変化したかにかんして敏感であるべきだ。

20130505Sun1524

ニョクマム運河

某坐禅会にかなりひさしぶりに参加。しばらく空けていたのは、朝早く起きるモチベーションがもてなくなっていたので。最も積極的に坐禅をしていたのは大学三年のときだが、それくらいしか取り組むことがなかったので。動機がやや消極的だが、それでも業を積み重ねたには違いないので、あの頃に今のいろいろが方向づけられたと言っても大げさでないかもしれん。苦痛に対して強くなったかわりに、鈍くもなった。いや、それは半可通の述べることで、そこにとどまらないために大乗仏教は智慧とか慈悲を説くのだと思うけど。――とか、お腹をさわりながら書いている。ぜー肉。できるなら落としたい。女性の脚を手に入れることができないなら、男性の肉体美を目指すそういう理屈。とはいえずっと文化部ないし帰宅部であり運動をやっていた土台がほとんどないので、すこしずつすこしずつ積み重ねる。

あの坐禅会に出ると、がんばるせいか線香の煙のせいなのか顔がてかてか脂が浮き出てくる。アトピー乾燥肌なので皮脂が出てきてもうけもんだと考える。今日は暑かった。暑かったけど電車賃を惜しんで3駅分(都心の3駅なので近いですが)歩いたり、大学の図書館が閉まってたり、公共図書館に向かって歩いたらすごい人混みでぜんぜん前に進めなくていらいらしたり、そんな調子でいまいち達成感ないまま目的を遂行していたら夕方になっていた。いろんなとこ寄ってるとすぐ時間が過ぎてしまうな。

20130505Sun0009

疫学の予備学のケチャップマスタードのために

昼ごろもぞもぞと起きて、トーストを二枚だけ食べて、パソコンにべったり張り付いて下品インターネットしていた。親が帰ってきて掃除機をかけ始めて、それに流されて外に出た。電車でひたすら一時間半ほど揺られる。昼まで飽き足るほど眠ったはずなのに、うとうとしてしまう。少量の昼食しか摂っていなかったので、いいかげんお腹はだいぶ減ってきて、終点で降りて売店でカツサンドを買って食べた。でも日々は繰り返すので電車を折り返して、揺られて帰った。窓から夕焼けが見えた。夕焼けなんて久しぶりに見た、と思った。なんで夕焼け見てなかったんだろう。駅からは早歩きで帰宅した。夕食を食べてる間じゅう水を飲んで、空腹だけでなく喉もかなり渇いていたことを知った。そして、食べたところで朝から感じていた頭の静かなくらくらは残り、栄養に即効性はないと再発見する。

20130503Fri2024;2302

グラスを傾けご満悦のゲーテ

アクセス解析を見ようと思ってパソコンを起動したのに、いつもの順序で――アクセス解析チェックが四番目にくる順序で――巡回を始めてしまう。ひたすら、自分のしてることの意図が読まれたくないんだろう。あるいは、読まれないようにふるまう訓練をしてしまった。あー。

20130503Fri昼

ちなみに、

各文章の末尾右側に出てる日付・時刻表示は、文章を書き終えた&書き足した時刻であって、アップロードの時刻とは異なりますのでご注意を。

20130503Fri0000

エゴの予習

ふられてしまった。悲しい。こういうときばかりは「悲しい」という感情がでてくる。悲しかったけれども、ふられて当然なふるまいを繰り返していたので、仕方ない、とも思った。今だったらもっとうまくできる部分もあるかなーと思うけど、あくまで部分的にという話。基本的に人と顔を合わせたときに何を口にすればいいのかわからないので、その点が改善するようでなければねえ。しかし、自分で「仕方ない」と納得するのはかまわないが、ここに到るまでに自分がしてきたことを、それがどのような意味をもつか知っていながら(帰結までは見通せてなかったけど)繰り返してきたのを今更ながら悪いことをしたと思う。でもいまさらだ。人との関係の中にいるとそれも麻痺してしまう。人がどう思うかを気にして、見えてても動かない。相手に任せてしまう。頼っているということは相手を試すという態度にもつながっている。外に出て、歩きながらつらつらと思い巡らせる中で、「別にいいんだ」という言葉をこぼしそうになる。よかないわ。でも心から「よかないわ!」と突き返す気概もない。カステラの「太陽テカテカ」を思い出す。「仕方ないけど/あーあ つまらない」。つまらない、それが俺の基調なのだろうか。そう思うべきなのか。冷血だからね。悲しいとは感じたけどね。でも、人生が終わるわけじゃないし。勉強もするし。そうやって対処することで、感情を平らにしていったんだ、かつての僕は。いまの鈍さは、その結果だと思っている。だから感情を回復するためにあれこれ考えてもいる。だけど、感情感情とそれを対象化して語ることの、欺瞞の匂い。それでも他の仕方が思いつかないかぎり使ってゆくけど。とにかく事後的になんでも生じるようじゃ、こうして事が終わった場所でようやくものを語り始める、こんな文章ばかり書いている男だし、昔からの癖がねぇ残ってるんだよねぇって、ただ先月はいつになく日記を書いたのも事実です。まあ関係ないか。

この状況に対処するためにカラオケに向かった。いや、それはたぶん嘘だ。先週先々週あたりから少しずつ、カラオケ行きたいポイントがたまっていた。それが、2時間歌って、歌い終えたら、「こんなこともう二度とするものか」という気がした。わかんない。カラオケくらいしかすることがない貧しさに嫌気が差したのか、まあ、新しいものを探したほうがいいとは前々から感じている。こんなの、業を積み重ねたことによるたんなる執着ですよ。

なんか足りない感じ。欠如しているのがその人なのか、単に人恋しさなのか、両者を画然と区別することはできないけど、無茶な救いの手を望んでしまう。まあ無茶だってのはよく知ってるし、仮にどんでん返しが降ってきたとしてもそれが冷静に見てよい展開だとも思えない。だからあまりこだわりもしない。足りないからといってスーパーで買ってくるわけにもいかないし、気分転換したってそこから帰ってきたときに同じものに直面するだけだ。きっとなんかそれっぽいものに出会っても、心の中に住まう「根本的な解決」とやらははっきりした像を結ぶことはない。あーなんか「人生に意味はない」みたいな諦観論のようだな。人生に意味があるかどうかじゃなくて人生の意味とやらを問うてしまう心の状態に注目すべきなのだけどね。私がどう対処しようとしまいと、これまでと少し違う現実がこれからも進んでいくんだしそのはずみに乗って自分もすこしずつ変化しながら進んでいければいい。うわーなんか月並みー。でも、今日だって、エレベーター乗るときとか、ちょっとコツつかんだよ。エレベーター来るの待ってるときにボタン押すシミュレーションしなくていいって。

20130502Thu1841;2153

虹色オンス

降水確率20%で夕暮れ頃から雨が降って、窓から灰色の空中を見た。雨たちははまっすぐ線になって落ちてた。気温が下がって、息がちょっと白くなるくらい寒くなった。あ、気温だけで決まるというより、気温と私たちの体温との落差が息を白くさせるんだろうか?

朝はゆっくり起きて準備をし、学校へ来て授業を受けて、途中60分間だけばたばたしたけど、総じてゆるい一日だった気がする。どれだけリラックスしてことを進められるかってことなのかな。それにしても、ゴールデンウィークだっていうのにふつうに学校に来てて、それ自体はかまわないんだけど。頭の中の僕はちょっと遠出してみたりとかしてるわけです。

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