2013年4月のログなんです
エクレア予報 目が覚めて、ふとんの中でツイッターのタイムラインを遡って、遅い朝ごはんを食べながら考える。事態を事実をうまくおさまりのよい位置におさめようと、頭のなかでいろいろとさぐる。わずらわしいプロセスだと思う。それに、おさめようとしている事態や事実は、ちょっとしたことだ。ちょっとしたことが、しかし過剰に気にかかってしまう領分というものは、確かにある。その領分の存在に気づいて僕ははじめて、自分の感情に気付く。僕にとって感情とは主観の内側で感じられるものではなくて、客観世界のありようを観察してそこから推論によって取り出してくる仮構なのかもしれない。さすがに言いすぎ。でも、「人間は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という言葉は真実の一面をついているように見える。感情が勝手に降ってくるわけではない。思考は勝手に湧いてくるけど。まあ、だが、電車の中でいらいらしたり、これからビールを飲もうと思って冷蔵庫から出してうきうきしたりということはあっても、それぐらいっちゃあそれぐらいだ。心よりも身体が反応する部分だってある。 20130430Tue1245 エクストラめんたいこ スミノフアイスって、話の流れ上昨日は書きそこねたけど、最もかっこわるいアルコール系飲料だと思ってるですよ。ソフト系なくせに気取ってるじゃないですか。チューハイのほうが潔いわっ。でもまともに飲んだことなかったし、イメージだけから否定するのは愚かだとも思うので飲んでみたらまんまと酔わされてたのしくあんな文章を書いてしまいました。あれが特別ひどいと言いたいわけではないし、往時の楡はあのような文章ばかり書いていたのも事実ですから気分の問題です。気分の? ようするに事実が出てくるか、ことばが出てくるか。ところで、ふとしたやりとりを反芻しながら思ったのは、ひとは何かを批判するときにその知性が先鋭化した形で表出するということで、否、その先鋭化した知性を効果的にデモンストレートしたいときに何かを批判するという形でそれが現れるというべきかもしれません。するどくほめることよりはするどくけなすことのほうがまだ簡単だということなのかもしれません。ただ人間がかかわる場面で評論家であることはものごとの自然な道筋を妨げるのでなるべく避けたいと私は思っています。誰に言っているんだ? それにしても僕はふとしたやりとりを反芻する男で、話し終えた後はしばらく自分の発した声とか相手の発した声が私の中で何度も反響します。ふとしたやりとりが全然ふとしてない。健康的でないとは思いますがしばらくはやみそうにありません。 20130430Tue0036 打撲に提携 ああくそ。スミノフアイス飲んだら、書くこと用意してたのに、書くに値しない気がしてきた。酒に酔っていると、すべてがひとしく書くに値しない、いや、端的に「値しない」。大事なことなどなにもない。譲れないことも伝えたいこともなひ。だからルバイヤートではやたら酒を飲むんです。読んだことないけどな。アラビア語ー。それにしてもあきらかに酔っていて、こいつ(5%)より度数高い日本酒とか焼酎とかふだん飲むのですけどもそういうのよりあきらかに酔ってしまう、酔ってしまって軽口叩いてるのは悪いことではないですがアルコール度数ってより楽しく飲めるかどうか、アルコールがきちんとまわるかが大事なのだろうね。なんとなく酒飲むっていうと酔うために飲むっていう目標を設定しちゃうんだけどたいへん可笑しいですね。もちろん酔うために飲むんだけどこの「ために」が「200メートル泳ぎきる」みたいなストイックな目標みたくなってて酒は楽しみのために飲むんじゃないのだろうかと気の毒がられるわけですが誰か僕を気の毒がれよ!さあ!!ってどんな顔して書いたらいいかわからないそういう自分が自分の中に潜んでるかもわからない私です。私ですか? たいへんえげつない目的のために python を習得しようと決心を固めつつある私ですが「カレー食べたひ」とは「食べたい」の舊假名遣ひではなくユニコーンの「ロック幸せ」にみえるインチキ旧仮名遣いの影響であって僕の言葉はすべて誰かへのオマージュだよ。そう考えるけれども「食べたひ」が歴史的に使われていなかったかは知らないし、でも「食べたし」を目にした記憶もないし、昔の人は欲求をストレートに表現しなかったのかしらと根拠薄弱意味不鮮明な推測を広げてみたくもなりますがテレビでAKBがシャキッとしーてちょーうだいと歌っていてキリンビールを飲みます。今日は一日限定のバイトに行ってきたんですが今までで一番楽なバイトでした。ほとんど待機時間だったので本を読んでいました。待機しすぎて疲れた。「休憩時間多くてたいへんでしょう」って職員のかたに言われた。うー、ビールうめえ。日記というインターフェースを通して一方的に展開される飲みですよ、これは。わたしからあなたに酒が飲まれる。そしてチョコレートをつまむ。太宰治『斜陽』に出てくるお姉さんがビールはコップで飲むものですわねって言ってたけどチョコレートは食べなかった気がします。おれはいつ小説をふたたび読み始めるのか。ひー。そんな用事があったので朝は早起きで、5時間弱しか眠れない計算だったので体が安心しなくて意識が死んだまますけべな計画を立てながらふとんにくるまっておったのですが眠気に襲われないかわりに朝になっても眠くなくて、眠くないまま起きてタオルで顔を洗ったタオルに「Minnie」って書いてあったんだけどMの字が筆記体っぽくくるっとなってて「c Minnie」みたいに見えて「ミニーとともに、か」ってロシア語として解釈してたのがあきらかに寝ぼけてました(「с」は英語のwithにあたる。「ス」とよみます)。だけどロシア語が印刷されたタオルとかあったら愛用するなー。それでこのサイトにはアクセス解析なる装置が設置されていてどういう人が見に来てるかとかある程度のことがわかるのですが作者である僕よりもここを訪れてる人がいて何者なのだろうとよく思ってます。僕自身は更新したときに確認しに来るだけだからそれほどアクセスしてなくて、だから一日一度でも見てればそのうち超えちゃうんですが、こんなところを一日一回も見にきちゃうのは実際どうかしてると思うし最近毎日のように更新してるのは僕の手がそうしてるわけですがどうかしてると思いながらどうかしてるテキストを入力してアップロードしようとしている僕は病気です!断罪してください!って本気で言える日が来るのかわかりませんが断罪とかは大事だと思います。断罪とかなー。いやー、言っておくがビールにチョコレートはよいコンビだと思うよ。ともあれもしも僕の入力するテキストになにか見に来るだけの価値を感じる人がいるとしたらそれはとても勇気づけられる事実ではありますがこんな思いついたこと書き散らしたあれが「ブログ」と称するには洗練されてなさすぎだし「詩」というには推敲されてなさすぎだし「日記」というのは昔日記サイトというホームページのジャンルがあったようななかったような気がするんですがそれを引きずっていて、それはともあれ日々の記録というよりは特殊な術語としての「日記」、つまり新しい言葉を作って任意の中身を詰め込めば世話ないねって話でみなさまゴールデンウィークはいかがお過ごしでしょうか。私はいろいろ妄想しながら過ごしています。現実に変化をつけて同じ妄想の繰り返しを減らしてゆくのが今年の目標です。 20130428Sun2317;41 役満控除 〈経過 四日目〉三日目から惰性のような咳。鼻水は二日目のような放恣さは顔をひっこめたが、まだ出る。粘度が高く出にくい鼻水をがんばってかむ時、僕はトランペット奏者の気持ちになる。この、緩慢に風邪を引いた状態が、一週間から二週間続くのだ。ハデに寝込まないぶん。 夜、寝る前に、山下達郎のベスト盤を頭から流して、シュガー・ベイブの「DOWN TOWN」だけ聞いた。腕立て伏せと腹筋をし、まるで集中できない意識の中で本を1、2ページ読んで、ツイッターの画面に目をやり、引き延ばされた夜の時間を感じた。何かしているのに手ごたえのない時間。それに気づいて、寝ることにした。闇の中で聞くシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」は、流れるように速く、滑っていった。いい音楽だった。とてもおもしろかったので、そのことをきっと日記に書こうと思った。けど、いま思い出すと何が特筆すべき事項だったのかわからない。いい体験だったから、きっと、特筆すべき事項が含まれていると思ったんだろう。ただ、寝る前のことは寝たらすぐ忘れちゃうので、それを取り上げて意識してみるのにはいくらか意味があるかもしれない。 20130427Sat1209 触媒閣下 足りない。ぶっつけ1000字じゃあ書きたいことが書ききれないしじゅうぶんに細部まで入れない。これじゃ哲学者じゃなくて小説家の筆だよ(偏見)。僕は事実じゃなくて事実を可能にしている枠組みを記述したいし、けど、事実から出発するしかない、事実の正確な記述を重ねよう、そう、ある日決心したのだった。ともかく、近頃の日記じゃ書かれずに見逃されてる大事な細部がいろいろあるんだ。今度から、取り上げる事象を選んで解像度上げてみるか。 「僕の世界を丸ごといっぺんに記述する日記を書いて、それで満足してしまいたい。」と、三年半前に書いた。そのモチベーションは今もほぼ変わっていない。しかしまあなにか気づいても、覚えていようと努力しても、それらは指の間からするする流れだしてしまうのである。だからメモを書く。それで思い出したが、今朝、一時限目を放棄した足で図書館に向かっているところ、一緒にベンチにかけているカップルを見た。しかも女性のほうが男性のひざまくらに頭を載せている。二人は笑顔。なんか衝撃で、通り過ぎながら反射的にニヤニヤしてしまった。引きつってるのと区別がつかないニヤニヤ。そして、図書館の席についてから気付く。この届かなさは、女の子の脚に対すると同じだ。外歩いてたり電車乗ってたりすると女の子の脚をたくさん目にすることになるわけですが、そしてそれはとても楽しいものなのですが、目の当たりにしているそれが美しかろうがなんだろうが、僕は「美しいなあ」「いいなあ」という感想を内に響かせ反芻するだけで、僕の世界は温まるのだけども、それが世界になにかをもたらすわけではない。たとえばふつう、その感情は所有へと人を差し向けるのかもしれない。喫茶店のハンバーガーがおいしそうだと思ったら、それを食べるというゴールが浮かび上がる。すてきなコップを見つけたら、買って持ち帰り、使いたいと思う。だが女の子の脚を買って帰ることはできない。他人の身体だから。権利上でもそうだし、その脚を空間的に切り出すことができたとして(それが写真の目指すところでもあるのか)、僕はそれを家に持って帰って鑑賞するのか?(多少したい気もしてきた、あー、そして剥製というのはそういうフェティシズムを反映したものでもあるのか)だが、もう一人の僕に言わせれば、文脈から切り出された脚というのはただの物質であり記号にすぎず、街なかで電車の中で僕が感じたのはそういう欲望ではなくて、いや、そもそもなんらの欲望も感じないまま「いいなあ」「美しいなあ」と思っていたのだ。つまり、何が言いたいかとゆうと、僕が女の子の脚を見ているときに感じている感情には行き場がないのであって、美しいものには使い道がない。使い道がないことは終わりがないことだ。いい景色とか見てても景色が「ハイここまでねー」とけりを付けてくれるわけでもない。だべりあいは誰かが「帰ろう」と強制終了しないかぎり無目的に続いていく。ところが食事は用意した分を食べるかお腹いっぱいになったら終わりだし、部屋の片付けは部屋がきれいになったらそれ以上は片付けられない。生きていく上ですることのほとんどには目的(end)がある。散歩でさえ、自分の家に帰ってくるという区切りをもつ。それなのにこれは感じたら感じっぱなしだよ。この感情をあるべき形式に返すことはできないのだろうか。 というようなことを、前から何回か(少なくとも三回は)書いてきていて、自分の中では長いテーマなのですが、しかし今日降ってきた表現によればそこにあるのは「届かなさ」であるということで、つまり届かないという事実の了解を裏返せば、届く、すなわちそこにreachするということがなんらかの形で了解されているといわねばなりません。この届かなさとは、対象がガラスケースに入れられていて手を伸ばせないというような。要するに「そういう」状況が自分にとって経験がないために、イコールありえないと線引きをしてしまっているんじゃないか。あからさまな形で言えば、潜在的には僕はあんなふうに女の子といちゃいちゃしたいのかもしれないし、脚をさわりたいのかもしれない。ただそこまでの想像力がないから、その先は無だと思ってしまっているのかもしれない。経験が進んで世界の認識が開けて、この感覚があの目的につながっていてーというのがどんどん明らかになっていって、いかなくても、なにかそれらしい行為をして感情が成就された気がして、そういうのが増えていけばハッピーハッピーなのかとも思うが、結局のところサイクルの速い生理的欲求にそれは直結しているから実証的に確かめることなどできないのかもしれないし、ひとつひとつ確かめることもできないし、ただ経験がないから知らないだけかもしれないけど、薄ぼんやりとはつかみかけている。 20130425Thu2119;2315 接地面積のテーマ 〈経過 三日目〉昨晩、酒で治そうと思ってキリンビール飲んであれして寝たら寝坊した。酒で体調が良くなった経験は一度もない、あこがれに発した愚行だった。いやまあ飲んでなくとも体力落ちてて寝坊したのかもしれんが。二度鳴らした目覚ましに気づかず(無意識のうちに止めていて)、親に起こされて気づくともう家を出なければならない時間であった。急いで支度してというべきところだが体調が万全でないから朝食抜くとか大急ぎで食べるとかいう気にはならず、普段の1.2倍くらいのスピードでそれらを行なった。数分遅刻する計算だったが電車の中で気付いたことには時間を1時間間違えていて、遅刻するのは一時間だった。結局授業には出ず、図書館に行って予習した。鼻水ぐずぐずいわせて、今思えば、いや当時も思っていたがちょっと迷惑だったかも。昼になってお弁当を食べたが食べ足りなくて、回復のために栄養つけたほうがいいのかと判断して何か食べることにした。だが栄養つけると言っても具体的に何を意味しているのかわからなかったので、PCルームでちょっと調べてみたら、炭水化物とは糖類と食物繊維の総称であり、糖類は米やパンなどだけでなく果物や砂糖などにも多く含まれているというから、「お好み焼きでごはんを食べる」取り合わせを「炭水化物に炭水化物」という根拠をもって批判するのはその場しのぎ的だよなあやっぱり、と思ったりした。「お好み焼きでごはんを食べる」と「リンゴでごはんを食べる」とを同じカテゴリーに入れることになるから。でもお好み焼きとごはんとパンとが同じカテゴリーに属していること、一方が他方のおかずになったりしない関係であることは了解できて、じゃあどうくくればいいのかしら。「主食」は「それを主食として食べている」という文化的習慣に依拠する(=お好み焼きを日常的におかずにしている人にとっては通用しない)気がするし。ただ、味をつけてない状態のお好み焼きをごはんのおかずにしようという気は僕は起きないので、そこなのかもしれない。ソースやマヨネーズといった装飾物(として構わなければ)を取り除いたプレーンお好み焼きは、味やたたずまい(?)からしてごはんと同種のものであり、その上で考えるとお好み焼きごはんの可食性はソースやマヨネーズといった外的なものに依拠しており、ようはごはんにごはんを載せてソースとマヨネーズとかつおぶしと紅しょうがと青ノリで食べているに等しいのではないか? ないかっていうか。小麦粉を水で溶いて焼いたものがお好み焼きなわけがないから、そんな話ではないと思いますが。野菜とか肉とか入ってないぶん、焼きそばパンのほうがむしろトガっている。われわれはなぜあれを恐れないのだろうか? 20130425Thu17XX 巨峰スティグマ 〈経過 二日目〉鼻水が出る。あーっそうだーっ喉から入って鼻水に展開するんだよ俺の風邪は。で透明な中身のない鼻水が止め処なくしばらく出続けて終わる。だいたいは。熱が出てるかどうかは近頃わからなくなった。なんかだるいってのは自覚できるけど熱って言うほどかー?と思いながら促されて計ってみると38度とかになってて、俺熱出てるーなどと思う。今は出てないと思う。小さい頃は熱が出ると一大事という感じでぐったり寝倒していたけど、最近ではインターネットしてみたり計算してみたり結局やることないので寝たりしている。結局寝る。ただ熱が出てる時と出てない時とで世界がかつてほど隔絶してないというか、いろいろ見間違えをしたり眠かったり私の世界はいくぶんファンシィなものへと変容したのかもしれません。 20130424Wed2132 キャタピラコウノトリ 日記にこもるといいつつ昨日などなにも書かなかったけど、書かないのも含めて日記よね。(危険思想) さて、ノドの調子が悪いです。少量の痰がからまっていてそれを吐き出すために口の中の形を変えて前面に移動させようとすると痛み系の不快感が生じ、ようは風邪の前兆だと思うのですけどこのタイプのノドの不調が本格的な風邪に移行したケースが記憶にないのでその予断は早いとこ改めたほうがいいのではないか。そう判断しつつもなんか風邪引く気がする!と思うのが人情だし「当たる予言をする」のが知恵ならば病は気からタイプの自己成就であれそれもひとつの「当たる予言」、年をとるにつれて自分のことがわかるんじゃなくてしゃべったとおりに動いてしまうだけであり要は硬直化しているダケなのかもしれませんが今はわかりません。ともあれ風邪引くのやだし風邪引いて家で寝込んでるのも魅力的な暮らしぶりではありますが僕には出なければならない授業があるし授業には出ておきたいのでできれば風邪には漸近するにとどめ明日の朝はまた正常な体で登校していたいと思うわけですがこのノドの痛みなど大した痛みではないわけで、大した痛みではないんだけど、すごく気になる。それは一つにはそれが風邪という比較的重大な帰結を伴いうるからだし、いま一つにはそれが単に異常だからだ(たとえばある日おでこに大きなほくろができたら一日じゅう気にするだろう)。こんなちっぽけなものにも心を乱されやすい。んだわ。ではおやすみなさい。 20130423Tue2357 翡翠のパラメーター 昼にもぞもぞ起きて、焼きそば作って食べて片付けたあとは文献検索などしていた。読みたい本とか読むべき本とか、専門に関係ないが考えてることにかかわる論文とか。生来 amazon.co.jp で本とか見て回るのが好きなので、楽しい時間。時間くうので、休日で時間があり余ってる(かのように感じられる)ときしかできないけど、おかげで気分転換になったし自分がこれからどんなふうにやってけばいいかが多少見えてきたようで、よかった。目の前に迫りくる課題どもをひとつひとつブッ飛ばしてゆくのも大事だけど、自分がやってることをこうして俯瞰的に眺めてみる機会をもっておくといいね。さっきから「いい」とか「大事」とか抽象的な判断ばかりしてゐるな! ほんとにだいじょうぶなのか。それから、二日連続で外に出ないのもなーと思ったので自転車で近くの街までブッ飛ばしてきた。片道2, 30分。ショッピングモールの駐輪場についてる空気入れで自転車に空気入れたら動きがかろやかになり、目が覚めるようだった。目が覚めるような自転車に乗って帰路をたどっているときにふと考えが進んで、やっぱ散歩とか大事!と大事ポイントさらに加算された。無目的な移動、移動のための移動、無目的地な移動。移動ではなく散歩だよ。ぶらぶら。 20130422Mon0005 虹色潜望鏡 今日もまた寒かった。とはいえ外には出ず、ほとんど自分の部屋の中で過ごした。昨晩はぐだぐだ4時まで目が覚めていて(起きていてというよりは)、ことが済んで眠って目覚めてまどろんで目覚めて起きたら13時をまわっていた。でも9時間睡眠と考えると健康的なほうかもしれん。睡眠時間だけに限っていえば。外は曇っていて雨もぱらぱら降って、事務作業もなくおとなしく本を読んだりしていた。寒くてものさびしくて、家の中でなんだか気持ちよかった。ツイッターに投稿するのを控えた。暮らしを総括するスパンを「今すぐ」から「一日」に延ばした。ことばにすることは過去にすること。一日くらいは実感を抱え込んでおいてもいい。カレーを寝かすとおいしくなる理屈だ。漫画家や音楽家やいろんな創作者たちは、心の中にいろんな実感が溜め込まれて、それらがあわさって作品を作り上げるのだ。僕も中身豊かな日記を書きたい。質の高い作品をというより、日記を書いているときに「そうそう、俺はこれが言いたかったんだよ!」と気付く体験をしたい。高校生の頃はそうだった……気がする。でももう昔の話だから定かではない。過去は美化されるかトラウマとして格納されるかどちらかで、思い出すたびに削ぎ落とされてどんどん大味になっていく。このサイトには、始めたころからの日記がほとんど漏らさずアーカイヴされていて、高校生の頃に書いたものも読めるから、それを見て判断すればいい。当時のは読むに堪えないとゆうか、今よりも明らかに幼かったそしてひとりよがりだった!。でも大事なのはむしろ、書こうとしてなかったことが書かれることだ。思いがけないことが自分の口から出てくるってことだ。 20130421Sun0042 デミグラスソフトウェア 今日は寒かったなー。 フランシス・ベーコン展に行ってきた。絵画を見るときは能動的にならざるをえない。わからないから。わかろうとするから。藝術を「自分にはわからない」という形で納得しようとする人がいる。宗教を「自分には縁遠いもの」と位置づけようとする人がいる。哲学を「ひねくれ者がするもの」と心得ている人がいる(これは、一面当たっているが)。でも、ピカソは落書きを残したのではないし、デュシャンは「わかんないだろーハッハー」と言うために便器を展覧会に出品したのではないし、芸術品に高い値段がつくのは作品の価値を示しているのではなくて芸術作品を金だして買うのがお金持ちの文化だって話だ。心も体もすべて神に捧げることだけが信仰じゃないし、「宗教じみてる」が貶めの言葉になると思っている人は宗教とカルトとをただちに同一視してるんじゃないですか。哲学に関してはべつにいいけど、ひねくれるというよりむしろ素直にものを考えたいから哲学するんですが。と思ってまあよく知らないものについて語って偏見さらしてるのを見るのは愉快ならぬことですし、藝術は偏見がさらされやすい対象だなって思います。僕だって年に2,3回しか美術館いかないですが、しかし、自分がそれについて無知であるものに対してバカにしたり、悪口をいったりというのはどういう気持なんだろうと思う。無知である上それが重要だとも思っていないから、なのでしょう。そして藝術や宗教や哲学をバカにする人にとっては事実それは重要でないのであろうしこれからも重要でないのだろうから、われわれの対立的平和はこのまま続いていくのだろうと思う。 わからないものを「その他」カテゴリーに割り振って自分から遠ざけることで、かかわりを避けることで「わからない」ことに対処する。しかし、ベーコン展の感想を書こうとしないのはようするにわかんないからで、語る言葉がないからで、ほら、絵画の読み解きといっても「ここがあれのメタファーで」なんつうのもぞっとしないし、全部記号の平面的組み合わせだったら世話ないですが全然おもしろくないよね。とりあえずね、色彩がいいですね。あと最後に展示されてた「三幅対」(1991)がなんかまぬけな感じがあっていい。ベーコン、俺が生まれたときにはまだ生きてたんだ。 20130420Sat0129 ダンプカーサイドカー 新学期でちょっとばたばたしてて、だっけ、なんだっけ、なにかと理由をつけて日記を書かない存在を享受する気はないですし日記を書かない理由を探す理由がないわけで単に夜は家で書類を作ってたり予習が追いつかなかったりしてるので、日記を書くには30分から1時間かかるのでそれを費やすだけのヒマが降ってこないって話だったりしてつまり「忙しい」と告げるのとそれと何が違うのか?という疑念がむしろ降ってきますが手がかゆい。あと大学院だからか先生がやや本気モードで深い学識とかいろいろ見えてやばいです。やばい。疲れる。朝から昼から夕方まで活動しているからかもしれない。あとハゲの先生が知性的でイケてると感じたので僕も将来はかっこいいハゲになりたいです。しかしまあかゆひ。たぶん焦燥です。さいきんは心の状態がもろに手のかゆみに反映されるので、わかりやすい、便利っちゃ便利。 20130417Wed2310 僭称の丘 昨日も寝過ぎたのに今日も午後まで寝てて頭の中に頭痛を飼った。昨日に引き続き、生活を整えるための作業に従事する。具体的には書類を投げ込むためのBOXと小分けに整理するためのクリアファイルを仕入れに近所のホームセンターまで出向いた。近所つっても歩きで40分くらいだったから自転車で行く距離だ。でも強風が吹きまくっていたので自転車する気にはならなかった。帰宅したらすでに部屋はばらばらと散らかっていて、さらに今日片付けるべき書類を広げるとなお足の踏み場がなくなって、まあまあ首尾よく片付けていったんだけど頭痛もあってしだいに絶望的な気分になってきた。やだわ、近頃ネガティブな報告ばかりしているな。まあ時期的なものであって、そのうちよくなりますので。とりあえず、やりたいことをやるってのは大事だし、やりたいことが何かを知っているってのがもっと大事だ。今の僕は自分が何をやりたいのかよくわからーん。与えられたことばかりやってるからか。 20130414Sun2251 源泉かけナガスクジラ 日記を書きはじめでもしないと今日はなにもなかった気がしたまま終えてしまうのだけどもね。まあ就職が決まったでもない、映画を見に行ったでもない、好きな人にふられたでも車にはねられて入院したでもない、およそ生活において事件としてカテゴライズされるような何事をも経験していないので、今日はなにもなかった特筆すべきことがなにもなかったという印象は一面においては正しい、しかし今の俺はお腹がすいた。朝はふとんの中でずんずん突き進んで午後一時前まで寝ていた。一週間の起床時刻が6時半8時6時半6時半9時13時でリズムがめちゃくちゃ。それ以上に時間という資源を空費しているようで心が痛む。遅く起きるのが嫌だからいっそ眠りたくない!と思うのは、でも休日だけだ。しようがねえので起きだしてインスタントラーメンを見つけて、水少なめにしてごはんと一緒に煮るという絶望的な昼食を作成した。なぜそんなこと考えたのかわからん。なにかソバメシ的なものを想像していた、けど、詰めが甘すぎるの気づいていた、けど。食べてからだらだらインターネットしてから外に出て、ここんとこ気分が落ち込み気味なので、日光をすこしでも集めるためにふだんポケットに入れている手を出して歩いた。考えてみれば外歩いててウキウキしてくるなんて体験だってもともとなかったように思うが。俺は何を求めているのか。駅の近くまで来たところで便意をもよおして、トイレを探しまわって入ったらじんわり具合悪くなって、今日は具合悪いのかーと思ったり、ノドがみょうに渇いて気持ち悪っぽく(?)なったり、していたが、いつのまにかなんともなくなっていた。その後は隣の駅まで移動して、商店街を歩いて、初めて見出した小さなカラオケ屋に這入った。ちょっと割高だったけど、個人経営らしい品があったし、なぜかロデオマシンが置いてあったりしてよかった。マイクがコード式で、コードつまんで歌うのが楽しかった。街道を外れたところにある、くたびれた感じのパシオスでようやく靴を買って帰った。買い替えの決心から半月たってる。今日は間食も多かった。仕事はあんましてない。 20130414Sun0142 跳び箱の住人 夜の信号の明滅にも手ごたえを感じる。 20130412Fri2325 耐久スカーフ あいかわらずよくわからない日々だな。楽しいというわけでもなく特別苦痛でもなく、かといってふつうの日々というわけでもない。確実になにかを感じている。感じているけど言葉にはならない。感じていることを言葉にするには努力が必要だ。鼻の左奥あたりにじわっとした広がりのようなものを一日じゅうかかえていた。内的感覚を記述するのは難しい、とくにそれを名指すための言葉が用意されていないときには。痛みでもない、快くはないが不快というわけでもない、頭痛なんかと違ってほっといても支障はないが、しかしそれは確実に「ある」し、異常は異常なので早く解消されないかなーとは思った。だけどその願いがこの感覚そのものの特質に由来しているかどうかには自信がもてない。じわっとしたひろがりを退けるべきだと思うのが、それが悪性のものだからなのか、ただいつもの状態と異なるから排除したくなるのか、定かではない。まあ大したことではない。朝、家族がみな出かけたあとにわたしは跳ね上がって踊り出しました。あーストレスたまってんだなーと思いました。感情は事実はいつも追認ばかり。街に行って、同人誌とか靴とかカバンとかをたくさん見たあと、いくつも電車に乗って、キャッシュカードを家に忘れていて、文房具を探して、ツタヤでDVDのパッケージをたくさん見て、ビールを買おうと思って、家の近くまで来たら、橋の上は言葉のない世界だった。田村隆一の「帰途」を思い出す。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった/言葉のない世界/意味が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかったか」。言葉は、意味は、耳ざわりだ。言葉に絶対的によっかからざるをえない哲学という部門にそう言う自分が従事しているのはおかしな話だけど。だけどできるなら言葉なんて使わずにすむ世界に生まれたかったよ。いや、言葉じゃなくて意味がいやなんだ。意味は目の前にあるもの以上のなにごとかを目の前のものに読み込ませる。意味は迷いだ。それに人は言葉を道具として使役する。自分を他者に向けて「存在証明」するための言葉。意識的無意識的に他人の行動を変えさせようとする言葉。それにしても、自分が履きたい靴なんてないのかもしれない。靴というものそのものが好きでないのかもしれない。いや、そういう話じゃなくて、とりあえず足袋の導入を検討します。 20130412Fri2056;2336 ソビエトのコールスロー ねむい。昨日5時間も眠っていなかったために、とてもねむくって眠くても授業は受けられるんですが図書館で予習をしていたら気づけば30分ほどよだれを垂らして居眠りをしていた、目覚めると肩がかたくなっていた。眠くても授業を受けられるのは一種の進化でありかつての僕にはなかった特質なのですが、朝に寝起きで携帯でツイッター見ててもやっぱりねむくて、ほら、携帯の光が覚醒を促進するという話がありますでしょう、前は僕もそれで目を覚ましていたんですが、慣れというやつで、いまは目を覚ましてツイッターを見ていても見ながらさらに寝落ちします。覚醒と睡眠が相互浸透して、起きてても眠っているかのような、世界に膜が張っているような、ようするに。 いろいろ問題に直面してはいますけど環境が新しくなって自分がどういう問題を抱えてるのかとか、自分をなんとなく悩ませてきたものの正体があきらかになってなんだかめでたいな、と思い直したりもしました。先のことを考えて暗い気分になりもするけど、おわりのはじまり、これは破滅の序章なんだと置き直してみると、今がはじまりだというのは、それが何に向かうものであれ楽しくなってくることに気づきました。これから先の展開があるということだから。そりゃおおげさな話ではあるんだけど、視野が狭くなってるときにはいいな。 20130410Wed2356 カラフル抑止力 帰りの電車で、黒田三郎の<ひとりの女に>を読む(『黒田三郎詩集』思潮社刊に収録)。重いなあ。ネガティブではないが、重量のある重さ。だけど、読み進めるうちに注意が散漫になって、空中を浮遊するぼやけた風景の集まりになってしまった。 対象を自分がどう受け止めているか、を、自分に尋ねても答えが出ないことがある。そのときは、自分が不感症な人間だということではなく、そもそも受け止めるだけのことを対象について知らないのだ。自己の内側を覗きこむだけではなく、人のことを、自分のことを考えるのと同じように考えなければならない。それは、真剣で深刻な顔をしてなされるかもしれないし、ふつうの顔でなされるかもしれない。自分が自分のことを考えるとき、深刻に考えることもあるし、無造作に考えることもあるように。 20130408Mon2348;09Tue0016 吸盤と沐浴 15時過ぎに散歩に出る。昨日はずっと家にいて、なるべくなら一日に一度外に出たいので、意識の合間を縫って買い物がてら散歩へ。日はまだ出ていた。日が長くなった。日が長くなったり短くなったりということに対して敏感であることが季節に対して敏感であることの一部であり貴重なことであると思っていたが日の長さ短さを気付くことは季節の移り変わりに関心のないものでも気付くきわめてベーシックな感覚であると思い直した。日光は熱かった。熱をもっていた。日本には四季があるんじゃなくて夏と冬しか存在しない。春は夏の予兆であり、秋は冬の予兆だ。夏の本質は熱であり、冬の本質は冷気だ。そう思ったが季節は気候にのみ拠るのではなく桜が咲いたり木の葉が紅葉したりするのが季節の意味なんだって思い直した。日光が照り返してアスファルトの地面が白く輝き、あれっこんなに地面って白かったっけと思った。アスファルトの地面は黒いもの深い灰色のものではなかったか。まぶしい。外ってこんなにまぶしかったっけ? しかめ面のまま歩いた。一歩が終わる前に次の一歩を踏み出すような、落ち着かない、浮いたような、すこし早歩きだった。 大型スーパーに至った。サルサソースの材料を探し、買うために。店内は幸せな家族連れで賑わっているわけではなかった。みんなふつうの顔して買い物してた。買い物カートの下の段に乗り込んでいる小さな女の子だけが楽しそうだった。タマネギばかりは安いがトマトは高かった。コリアンダーもそれなりの出費を要した。結局今日は買わなかった。あとで瓶詰めの出来合いのサルサソースを見つけた。値段を見て驚いた。材料を買って作るよりずっと安上がりではないか。これではわざわざ料理する意味が、というより、材料を加工して材料そのものより価値の高いものを作り、それを売ることで付加された価値の差分を利益として得るのが商売なのだから、材料よりも完成品のほうが安くなってるこの事態をどう捉えればいいのだろうか。ま、きっとうまい仕組みになってはいるのだろうけど。トイレに行って、お客様の声を眺めて、眺めていたら子連れの母親が横に腰掛けて同じ物を見始めて、なんかきまりわるくなって内容が頭に入らなくなって丸い顔を見ているのは好きだ。店を出た。 帰り道もなんとなく陰気な感じで、べつに暗い気分というわけでもなかったんだけど日光はセロトニンの分泌を促進し幸福感を高めてくれるとネットの記事で読んだけど幸福でも不幸でもなく、散歩に出ていろいろなことを思ったり気付いたりするのは間違いなく豊かなことでありかつてはそれでハイになってたときもあるんだけど、ああ素晴らしいなーってこともなくもう死にたいってわけでもなく、ただ日光がまぶしくてまぶたを閉ざし気味で綾波レイのイメージだったんだけど自分の写真を撮ってみたら「オレに話しかけるな」とでも言いそうな雰囲気を発していたので背筋を伸ばしました。あと風が強かったなー。コンビニ系スーパー(?)になんとなく入って「紀文 豆乳飲料 健康ラムネ」を買って飲んだ。おいしい。豆乳っぽくない。この紀文の豆乳シリーズは良作をつぎつぎ生み出しているな。 20130408Mon0026 園芸即誤爆 入学と新学期にともない書類類がたくさん降ってきたので、それにこの土曜日は暴風雨になるという噂から引きこもることを前日から決めていたので(こういうとき仮に晴れていても引きこもってしまうのがよくないが)、事務仕事を一気に片付けてしまおうと思った。でも仕事の一つは市役所に出向かないと解決しないものだったので、「今日は引きこもる」の命令とぶつかって最初からつまづいた。バカである。「あんたバカぁ?」って言われたいよ僕も。エヴァンゲリオンは佳境に入って物語は加速する一方ですけど、この話はどういう話でって読み解く習慣がないので、内容よりも細かいセリフ回しとかキャラクターの表情を楽しむので前半のほうが好きなんだよなあ。アスカは「あんたバカぁ?」って言わなくなるしミサトさんも終始苦しそうな表情なので単に重っくるしいのが快適でないってことなのかもしれません。事務仕事は片付きませんでした。4割くらいしかいかなかったし、途中で疲れてきて横道にそれたgoogle検索とか始めたりして僕の物語は求心力を失い部屋は散らかって夕食中みょうな胸騒ぎがしました。おなかがへりました。夕食後はあんなふうに苦しくて満腹でユーツだったのに、おなかはへる。 20130407Sun0138 タコ足巡礼 私をパソコンに向かわせ日記を書かしめるような印象深いネタがあるわけじゃないんですが、書いてみると何かしら出てくるし言葉は行使することで回り始めるんだわーって今更ながら発見しつつある所存なので今日もなにか書いてみようと思います。ねむい。3月中のバイト先(=親の仕事場)は家から10分、9時出勤17時退勤だったのは奇跡的に快適な労働環境であった。今月からは、大学は近くないので(時間割によるけど)家を7時過ぎに出てなんだかんだぐだぐだ18時くらいまで大学にいて帰宅するのが20時とかだから、こう見ると一日のほとんどは大学で過ごしているではないか。もろもろのガイダンスを受けていました。大学院に来るくらいですから僕はどちらかというと勉強できる方なのですがそれは学部での話で、大学院はどちらかというと勉強できる方の人がたくさんいるのでなんか緊張したしなんとなく逃げたい気配を感じました。やだー他人から評価されるのやだー。前で喋ってる女の人がずっと前歯が出っぱなしでなんか好みな感じだったので顔をずっと見てました。一方的な関係ならいいけど双方向的な会話となると相手の顔見るの怖いです。評価されたくない。とかなんとかこれ見よがしにだだこねてみたり社会的にみて望ましくない己の性質を反省ぬきにして呈示してるのは、言葉にしてみないと自分がどう感じているかとかどう思っているかとか気付けないし、気づいてもすぐ忘れてしまうからです。水底にうっすらと浮かぶ影をみとめて糸をたぐっていく作業です。だからコメント求められたとき即座に「あのとき感じたこと」を語れる人は、僕にはない技能をもってるなあと感じます。逆に言えば、「突然そんなこと聞かれても困る」ってのがとても多いな俺は。今わたしは新世紀エヴァンゲリオンのDVDを見るアクティヴィティにコミットしていますけれども、「エヴァってどんな感じ?」と聞かれてもなにも答えられませんぞ。いや、多少、あるけど、もはや自分の感想を他人に伝えるのがそもそも恥ずかしいわ。細かいとこに気が利いてて好きですエヴァンゲリオン。これしかまともにアニメ見たことないけどさ。 ツタヤでDVDの続きを借りて帰り道、手をつないでる若い男女とすれ違いざま、その結ばれた手と手を凝視しました。ああーなんかそれはいいなあーとつぶやく。ちょっと前まではキス願望が支配的だったのだけど、欲望がスケールダウンしたのかとおもった。いやスケールは関係ない。気温と湿度の関係とかかもしれない。 20130406Sat0115 ダブリン融通無碍 帰ってきて、18時くらいだと思ってパソコンつけたら21時だった。だらっと過ごしすぎてるかもしれないなー。大学のサークル新歓の手伝いともいえぬなにかのために時間を費やしてるのですが、メリハリつけないでやってると効果に対して時間を使いすぎるという結果に終わるかもしれない。それに疲れちゃうし。どうしてもしたいことがあるって訳ではないので、なにかを犠牲にしているという感想はもたないけど、帰ってご飯食べて風呂入ってネットしてたらこんな時間になってて、エヴァンゲリオンも見なきゃいけないしフランス語の勉強も進めたいしサルサソースを作ろうと思ってるし、って思うと大学にいるときは自分がしたいことを単に忘却してるんだって思った。ここにも自分の分裂がある。 帰り、iPodで音楽かけても期待される効果を得られなかったので、途中でイヤホンを外した。数年前だったら、こういうとき決断できないでずるずる家まで聴き続けてしまうんだけど、その点成長した。なにごとも慣れだよ慣れ。夜道は静かだった。新幹線が過ぎる音とかボールを打つ音とか下水の流れる音とかアパートの一室から漏れる演歌とかが、わずかに聞こえた。大学はいまにぎやかなので、その静かさがどうもよかった。自分の立てる足音とか、鼻腔を通る空気が立てる音は、静寂を示すそれらの音とは違っていて、これはなんだろうと思った。 自分の日記を読みなおしてみると、言いたいことが伝わるように書けてなくて、いや、このサイトは誰かに何かを伝えるために書かれているのではないと信ずるのですけど、にしたって自分以外の人も読むわけで、そんなときに誤解が生じるのはくやしい。というわけで前回分の第3段落について追記する。ひらたく言って、あれは、「出すぎたマネをした」ってことなんだろう。でもそう思うのはふだん自分があまりにも「出る」ことを避けているからだ。たまに出たマネをすると、自分自身に対してとまどう。自分が安全に暮らすためのルールに則ってないのだよね。だから、今ここにいる自分と同じ自分がしたこととして持ち歩くには、なんかまだ時間が必要だなって感じ。まあ人間にはいろんな面がありますから、どの自分が本当の自分だとか思う気はもとよりない。それに人間は事実しか語れない。 なんか決めぜりふっぽいの吐いたら言葉が続かなくなってしまったので、今日はここまで。 20130404Thu2233 塩化ビニールの有志 昨日も今日も雨。ことに今日は、風がびゅんびゅん吹きまくって雨がばらばら当たってズボンが上までぬれて靴が浸水してひどかった。傘が振り回されるし寒いから屋外に出るのがいやになった。 僕のズボンは上までぬれてバケツに浸したようだったけど、同じ駅に急ぐ人たちの中には、地面にごく近い部分しかぬらしていない人がたくさんいた。僕は不審がった。雨の日にすこしも濡れないで傘をさして歩ける人が、本物の大人なんだって思った。傘が雨を受け止めきれず、サラリーマンの黒い背中に垂れてでろでろと模様を残していた。その光景を効果的に表現することばを探して、見つからず、探そうと思ってメモをポケットに入れて、そのまま二日が経った、そんな過ごし方をしてる。 数日前にしたことについて、思い出しては「なんであんなことしたんだろう」と振り返る。正しい/誤っている、という話ではない。ふさわしさ。自然さ。でも僕が考えるふさわしさ、自然さなんて、僕が都合のいいように整えてその中で住んでいるものでしかない。わかるけど、逃げ出そうとする僕を中枢の僕が押さえつけてさせた行動を、結局その中枢の僕が適切な場所に収められないでいる。中枢の僕とやらも一人じゃなかったということか。 サングラスを買った。ぎらぎらするやつ。外でつける勇気はない。 20130403Wed2148;2205 もろどる |