ジャングル永久培養


意地悪溶鉱炉

日本酒を飲む。家でお酒を飲むけど飲んだからといって特別気持よくなるわけでもないし、僕はふだんおとなしくしているためにアルコール入ると変わるんじゃないかと思われやすいのですが飲んでもやっぱりおとなしくて、自分では多少動きが多くなったりだらっとしてるなーと自覚するのですが人に言わせると変わんない、酔ってないように見えるそうです。まあ酔ってないよね。ようするに人間が苦手なのでどこか警戒して酔えないっちゅう話でエチルアルコールがすべてを支配するわけではない、リラックスしてるときは酒を口にした瞬間饒舌になったなってわかるし、気持よく酔っ払ってふらふらになってる時が年に一度くらいあります。僕が酒飲んで酔っ払わないのはつまり気の許せる場じゃないからって話なのですが家にいて飲んでも酔わないのはべつに誰と飲んでるわけでもないので自分に対して気を許す許さないって範疇でないわけで、ただただ素の自分が酒を飲んでいるにすぎません。だから家で飲んでも本が読めなくなる副作用くらいしか効果がないのでそういう習慣はついに定着せずに終わるのですけど、今は、あ、飲んでるな。まあ何かあるのでしょう。

というわけで昨夜は日本酒をがーっと飲んで水をがーっと飲んでから寝ましたけど、ふつうに目覚め、ふつうにツイッターでタイムラインを遡ってからふつうに出勤しましたが遅刻しました。家を出発する時刻が日に日に遅れている。高校生のときは、最初に登校した時のリズムを三年間キープし続けたのだが。おかげでクラスにはだいたい1番か2番目くらいに到着していたのだが。

退勤後は買い物に出ました。いろいろ仕入れて〆て2万円ほど使うつもりでしたが最終的に手許に渡った商品は『図書館学基礎資料』(2013、新版)\1050一点のみでした。まあよくある。ズボンを買おうとユニクロに来るも気が進まず、あたらしいスニーカーをいいかげん仕入れようと見て回るもこれという出会いがなく、電車で向かいに座ったチャラそうなカップルに前田敦子に似ていると噂され、買おうと思っていた本二冊は品切れで、新学期に向けてフランス語を速習する決心を固めました。午後7時過ぎだったので、早く帰らなければならない強迫観念でおしっこ出そうに落ち着かなかったのですが、ともあれ本屋にいると勉強したい気がわいてきますな。

世界はノイズだらけで、関係ありそうで直接関係ないこと僕は垂れ流すし、心理的抵抗を乗り越えてストレートにものを言おうとしたときもどこかカーブがかかってて、僕だけじゃなく世間はだいたいそんなもので総じて見通しが悪いなーという意識が昔からあって、この視界をすこしでもくっきりとしたものにしたいと思って哲学科に来たという事情も(一説には)あって、そうした意識をばねにして、頭において活動していこうーっと、と帰り道すこし思いました。

20130329Fri2345

まちぼうけ

ねむい。アイソトープのために3000年の迎い酒をショウリョウバッタしていた束の間、映像作品を渉猟して乳腺が凝結する、奇異なる鮫肌の男を余裕のうちにエレベーターが降りて、数人のクイックスが山岳部の飲み会で飽きが来ないビールを飲み続ける。吸引しながら触れる雪は、ビンの王冠をむしって草を植える、新聞が届くなり奪い取って読み始める、一週間ごとに結婚する。ラブ、ラブ、ラブ、ピチカートファイヴが「ひとことラブって」云々と歌っていた愛ではなくラブとはなんなのか愛とはなんなのか愛執以外の愛するの意味をつかみかけている今日この頃とはいえ愛がなんなのかよくわからないこんな時代にカタカナでラブってつぶやくのはいっそ対決を避けて意図の忖度のたわむれにゆだねるかろやかさがあって好ましいとも言えます、京阪とか淡路とか八王子とか八戸とか。JRはいつも元気。財務省が外を走り回っている。おもてだよ?外、フォーエバーヤングカラメルソースのホットケーキ仮病。ふとんの中で外は寒くて霧に濡れていて、空が灰色で光が透けて見えていて、たまに思い出して空とか見るとあーってなりますよね、あーって」ねむくてねむくてひとつねむかったので寝ましたが私はキーボードを叩いている父親のあくびの声が聞こえるメンチカツを冷蔵庫に入れておいたのに気づかなかったって眠いのはなんでもなくて眠りたくって眠っても眠くって生理現象はデフラグのようにはいかないのだなあと思いました、食券をお求めください。でもきっと好きもすきだから何だってわけじゃなくて眠かったら寝るしお腹がすいたらご飯を食べるし3日に一度は抜きますし。感覚が生物学的にいって何かのシグナルなのは了解するにしてもそっから派生して「あああ無性にスピッツが聞きてえ」って思ったことはあまりないですがそんな欲求叶えた所で期待される答えが得られたことは今の今まで一度もなくて、「あああ何か食べてえ」って食べても食べたものによって得られる体験以上のなにものかが得られるわけでもなく欲望は欲望で完結させて心の中でころころ転がして楽しめばいいんじゃないかと思います。はああっ。心の乱れは心の乱れ、ただの現象ですが生物学的なシグナルとしての欲求って面も認めたい気持ちはあって、捨てきれない気持ちがあって、欲求は何かを指し示すだけでなく何かを教えてくれる、すでに見えているものを指差すんじゃなくて見えていなかったものを照らしだす、新しい世界を切り開く。ところでじゃあ心理的抵抗も尊重すべきなのかよ?バイトの申し込みするときの電話が怖い、好きな人に好意を打ち明けるのが怖い、怖いかしらんけど、いくらそれまでの私がAという方向に先鋭化し進んできていたとしても、いざその場に向かうとくるっとUターンしそうになる、したくなる、逃げたくなる、逃げようとする、それは欲求という以前に身体的反応だぞ。それはむしろ何の助けも必要としない、思う前に勝手に実行される。思ってからするのとはわけが違う。してから思うどころかしてからも思わない。ただ、してしまう。逃げてしまう。逃げてから「逃げたのかな」って思う。われに帰る。別の自分を行き来する。はぁ〜あ。目覚めてからふとんを出るまでの自分と出てからの自分もそうだ。ふとんを出てからの自分、電話をかけようとする前の自分、それが活動時間としては長いから、中枢の自分だと思ってるけど、うーん、いちばん冴えてる自分だとも考えてるけど、起きる意味がとくに見出せない自分とか、ひたすら逃げようとする自分とか、夕食後のゆううつな自分とかも、あぁ、まぁ、ほんものの自分なのかもしれない。というか、それらを本来/非本来の枠で区切る意味も今のところない。ただ自分の中に自分が複数いて、それらの行動規範が矛盾するので、あの自分の行動ないし無行動によってこの自分が困らされたりする。だから論理という外部ストレージに頼るんだけど、論理に従うというのもひとつのモードなので、ひたすら逃げようとする自分とかこのまま寝続けようとする自分にはあまり有効でない。

20130328Thu2326

ポイントと価値

ツタヤでCDとかDVD借りると、レシートと一緒にお得なクーポン券がついてくるわけですが、先日いただいた券曰く「関東のスリーエフにて500円以上のお買い物で必ずもらえる Tポイント 30ポイントプレゼント」と。これを目にしたわたくしは、オッじゃあスリーエフで買い物して帰ろうかなと考えました。コンビニで500円も使う用事がなかったのでまっすぐ帰りましたが。しかし冷静になってみると、これって得なんだろうか? Tポイントは1ポイントにつき1円として提携店で用いることができます(※1)が、するとこの券を使えば500円分の消費を行うことで30円相当のキャッシュバックが得られることになります。言いかえれば500円のものを470円で買えたことになり、結局30円の得だ、と考えたくなります。しかしそれは500円の買い物があらかじめ運命づけられていた場合の話で、特に欲しい物もないのにクーポンを使うために買い物をするならば、それはクーポンを手に入れなかった場合と比べて470円の損失に結局なるわけで、そのような者は愚かであると言わざるを得ません。それが奴らの手口だ。損得を考えるときは“どの場合と比べて”損/得なのか、という点をよく考えねばなりません。

もう一つ指摘したいのはTポイントとお金との非相互性で、すなわちTポイントはその提携先でしか用いることができませんがお金いわゆる日本銀行券は日本のあらゆる商業施設で用いることができますし諭吉をチラつかせて人をつったりという使い道もあります。Tポイントより現金のほうが汎用性の高い価値ある通貨であることは明らかです。しかし「スリーエフで500円以上のお買い物で現金30円をプレゼント」と言われてもあまり心浮き立たないのはなぜでしょうか。30ポイントくれるとあらば即座に心はスリーエフの方に向かうのに、30円と言われると「ケチぃなオイ」との感想さえ浮かんできます。まぁ30円では缶ジュースも買えませんからあってないようなものと感じられるのも無理もありません、ですが30ポイントもらったところで缶ジュースはもとより買えないし1050円の端数の支払いにも使えません。等価値なのに、いやむしろ現金より不便なのにポイントのほうがありがたく感じられる不思議。それは、ポイントの相対的な希少性に帰されます。つまりポイントはお金よりもたまりにくい。その比率、じつに100倍の違いがあります。時給900円のバイトを4時間すれば3600円得られますが、これに加えて得た3600円をまるまるTポイント提携店の消費に費やしてようやく36ポイントが手に入るわけです。この点を考慮すればTポイントは現金の100倍以上の価値があると申してかまいますまい。スリーエフで500円の買い物をすれば、30かける100で3000円に対等な価値のポイントを手にすることになるのです、なんと超絶にお得なことでありましょうか!

というわけがなくて、3600円使って36円相当のなにものかを副次的に手に入れたというだけの話です。値段と価値の混同からこの誤りは生じます。それは、数千万円する絵画が、うまい棒数百万本ほどの価値を有するとか、ブックオフ105円コーナーで揃えた文学全集と数万から十数万出して定価で買った文学全集とで価値が違うとか、そんな不条理を招きます。ようはどういうマーケットに流通してるかって話でしかないのです(知ったふうな口ぶり)。われわれの価値判断などかくもいいかげんでアテにならないものなのかもしれません。というか、まあ、価値というものがある系におけるそのものの希少性に応じて決まるものならば、ものの価値を高めるにはそれが希少となるような系を作っちゃえばいいわけですね。いわゆるサークルクラッシャーの原理。まあ系を作るだけでなく、ひとをその系に参入させることも必要になります。そしてそれこそが難しいのであり、またポイントという社会的現象の正体を見極める手がかりにもなるのです……。と、いいとこまで来て満足したのでおわり。

※1: 景品と交換できたり懸賞の応募に使えたりもするみたいですが、そのへんは見ないふりで。

20130326Tue2043

今日の進捗

親以外の人に指示を仰ぐことに成功。いい年してこんなことにつまづいてるのも恥ずかしいのだが、事実は動かしようがない。一歩ずつ進めていくほかない。迅速に改善できたのは評価できるけど、「(仕事を)訊いて進めておけばよかったのに」と親に指摘されたゆえの改善なので、まだ甘い。自分で判断して、その判断にもとづいて行動するってのが目標。

20130325Mon1816

快楽の桶

つまりは覚悟ができていないんだな。大事なものを失いそうになると、急に動揺しはじめる。そこまでくると、「別にかまわない」というジュモンも抜け骸になってしまう。ほらみろ大事なものも失うものも結局あるじゃないか。しかもけっこうわかりやすいぞ。世界がうまく動いているあいだは、世界に対して受動的であっても問題ないけど、世界が思うように動いてくれなくなると、その被害をもろに受けちまう。世界に対して能動的であることは、未来において起こることを自分で引き受けることだよ。それが苦しみを健全なものにしてくれる。いや、苦しみに健全も不健全もないかもしれないけど。やっぱり、「後悔しないように」が唯一の原理のように思えてしまうなあ。

20130324Sun2226

欲望についてneo

関係ある話題が出たので、欲望について考えなおしておこう。「〜したい」とツイッターでつぶやくことを長らく避けていたんだけど、なぜかというと、書いたからといって欲望が叶うわけではないからだ。むしろ欲望は事実とのギャップを前提とする。あたりまえだが、持っていないものしか欲望することができない。現実化しないで、少なくとも今は可能態にとどまっているからこそ、それを欲望することができる。そんな事情があって、欲望を表明すれば、同時に、それが手に入っていないことも強調される。しかし私はドリーマーでありたくはない。夢を口にするより、欲しいものを手に入れることを選ぶ。それに、自らの欲望を語る人たちの中には、欲望を語ることそれ自体に陶酔している人がいるようにも見えた。こんな奇矯な欲望を抱く自分は、他とは一味違った人間なんだよと言いたげに見えた。だけど持たざるものによって自分を特徴付けるなんて、できるわけがない。それに、どんな欲望をもつかがアイデンティティの核心になったら、手に入らないこと、手に入れられないことがむしろ価値をもつようになる。こんなに不満足な自分はなんてかっこいいんだろう状態だ。だがそんなわけがない。僕は満足したい。不満足な豚より満足なソクラテスだ。というか、きっと欲望をファッションとして僕が用い始めたならば、世界に対して受動的であることの正当化にそれがなってしまうと思うのだ。手に入らないことを理想とし、積極的解決を求めないことが美徳となってしまう。

20130324Sun

今日のトゥデイ

連勤で疲れていたのでしょう、一時間ほど寝坊しました。とうぜん遅刻。親の手伝いでよかった。いつものことではあるんだがテンションが低いなっと自覚した。ていうか元気ないかもしれない。人に見られながら仕事するのは苦手やで。しかし尋ねられるのに親以外の人間に尋ねようとしないのは怠慢であろー。ヘタってきてるのはたぶん事実なので楽しいことを積極的にやろうと思いました。

20130324Sun2119

断罪不可能性定理

日記を書こうという気にならないのは、生活に特別の事件がないせいだけじゃなくて、ものを考える時間が減ったからじゃなくて、インプットが少ないからじゃなくて、人に遠慮して逃げてるからでもあるんじゃないか。こんなこと書いてもしょうがないんじゃないかとか、こういうくだらない自分を見せていたら誰も見てくれなくなるんじゃないかとか。書かないことには始まらないね。インプットを増やすサイクルを回す前に材料がつきたなら、自分自身をネタにするしかない。

最近はといえばアルバイトの名で親の仕事の手伝いをしている、あるいは親の仕事の手伝いという名目でアルバイトをしている。とにかく親の仕事のお手伝いをして、お金が入る。七時半に起きて九時に出勤、午後五時に退勤。楽なほうだけどフルタイムの労働者と同じだ。これが三月いっぱいまで続くみたい。ともあれこれで当面はお金に困らなそうでよかった。他方で、新学期が始まる前にラテン語文法をひととおり頭に入れておきたかったけど、これは無理そう。まあアルバイトが決まる前から無理そうだなと思っていたから、これのせいってわけでもない。ただ文化的活動の時間が減った、と言いたいけど仕事がなけりゃただ漫然と過ごすばかりなのでその憂いも気分的なものでしかない。ただ一つ困るのは、睡眠時間の確保のために就寝時刻が早くなったことだな。いやガッコ始まったらもっと早くなる曜日もあるけど。夜のTwitterタイムラインに参加したいのでこれは損失。まあまだ一時過ぎまでは起きてられるから、参加しづらくなるって程度だ。あーそれと、圧倒的に手仕事なので手が荒れる。荒れるっつかわたくしアトピー持ちなので指にひび割れができて痛いです。痛いのは比較的構わんのだけども痛みを恐れて手先を自由に動かせなくなるのが不便だわ。しかしこの「痛いのはべつに構わない」って意識はけっこうこわくて、いわば苦痛に対して鈍感であり過ぎると、熱湯に触れたのに気づかずに火傷してしまったり、車に轢かれるのが怖くなくなってしまったりする、それと原理は同じ。つまり苦痛に鈍感であることは、危険に鈍感であることにつながる。もちろん逆を言えば、苦痛に敏感すぎることは、危険を過度に恐れてなにも行動できない生につながっているかもしれない。しかし、僕の性格はどちらかというと後者の引っ込み思案タイプで、こないだのバイトの応募の電話をしたのもかなりの心理的抵抗を乗り越えてのちだったし、ふだん人と話をしているときもかなり言葉を選ぶ、頭に浮かんだことの9割は発せられずに意識の底に沈殿する、それで外面的には考え深そうに見えるときもあるらしいけど、実際は臆病であるにすぎない。「イギリスの首都ってどこだっけ」「ロンドン」くらいデジタルな受け答えでないと、確実に答えられないのや。こりは、認知療法が示唆するように、「これを発言したら間違いを指摘されて恥をかくんじゃないか」「言いたいことが伝わらないんじゃないか」「バカだと思われるんじゃないか」といったネガティヴな思い做しに圧倒されて言葉の流れをせきとめているのだろうか。単純で一面的な見方だって気もするけど、じっさい真実は単純な姿をしているものかもしれない。僕は、傷つくことを恐れている。だが、その一方で、いくら叩かれても僕は傷つかない。いや、傷ついたことに気づかない。傷ついたことに気づかない、ということに気づいているのは、あるときふいに徴候が現れて「あれ、俺って傷ついてる?」と思ったりするからなのですが……。とはいえ、傷つくことを周到に避けているから、実際傷つくことなんて滅多にはない。鈍感にあることの望ましくない帰結はそれより、怒りとか、好意とか、興味とか、そうした感情がはっきり感じられなくなってくることだ。それらは世界に対して積極的に働きかけていく原動力となる感情だな。それは自分に対する関心ではなく、世界に対する関心だ。私は、「別にいいや」「まあいいか」といったことばで、世界に対する関心を放棄することが多い。怒りや好意・興味によって世界に関与すること、それを通して自分を傷つけてしまうことを僕は恐れる。自分を傷つけないためには、世界へと関与する原動力を絶てばいい、つまり関心を飼い慣らしてしまえばいい。世界への関心を手なずけるきびだんごが「まあいいや」「別にいいか」といったことばだ。世界が不本意な方に動こうと、自分は構わない、そういう顔をすることで、幸福と不幸とを無効化する、そもそも本意などなかったとうそぶいて。

ということを、ここしばらく踏まえてなかったように思う。わからない。たとえ傷ついてもそうと自覚できないのだから、傷つくことを避けているというのは仮説だ。でも対人関係における何事かを過度に恐れて、避けなくてもいいことまで避け倒してるのは、見ればわかる。ぱっと全体を見渡すと、わりと安穏に暮らせてるふうだけど、細部を見ると「あれっ……」という場面がぱらぱらある。自分がどうしたいってのがわからない。欲望を消すよう努めてきたから。だけど仏道は無感覚になることをいうのではない……というか、僕は出家するわけではない。酒も飲むし人も愛したいじゃない。自分はどうしたいのか、どうなるのは我慢ならないのか、何が好きでどんなのが嫌いなのか。「自分の胸に聞いてみろ」という言い回しがあるが、内省しても何も見えてこない。むしろ答えが遠のく気さえする。問うことで答えは宙吊りにされる。「僕はあの人のことが好きなのか?」「……」。前の人のときもそんな調子だったな。好きってのはスタティックな状態ではむしろない。手に入れたらずっとそのままで、いつでも同じ形で確認できるアイテムではない。「私はあの人のことが好きなのだろうか」と心の中で唱えたら、〈好き〉の感覚がぼんやり浮かんでくるとかそんな仕組みはない。でもね、前の人のときもそんな状態が続いたけど、最終的にはいわゆる告白という事態にまで及んだわけで、しかもその結果を受けて深く傷ついたりもした。そう僕は傷つく人間なんだ! それに、僕は結局その人のことが好きだったのだ。自分がその人を好きかどうかわからないというのは、確証がもてないという弱音でしかないかもしれない。もうちょっと解像度高くしてくれという、世界の側が動いてくれたら俺も考えるよという、臆病に由来する傲慢でしかないかもしれない。

しかしまあ自分のこと書きだすとネガティヴな話につい傾くのが宿命的といいますか、あんまいいイメージ与えないのだけど。いやまあ自分はこんなに素敵で素晴らしい!ってことをわざわざ書きたい人も稀だとは思いますけど。ツイッターだったら「そんなことないよ!」というなぐさめを期待した発言ととられてしまいますね。一方通行なこのスペースならその心配はない……なんて思っているわけがありません。もう。好きな人があんまり暗いこと書いてるとやめてくれよって気分になるのは知ってる。あー、それが好きってことの一面なのか……。これを「たいしたことないよ」とか「別段暗い話題というわけじゃない」と称したい誘惑が生じたが、それは自分がここで問題にした気質そのものだ。そうじゃない。これはずばり暗い話なのだ!

20130323Sat2155;24Sun1947

線型独演会

「アイデンティティの哲学」というと目新しい感じ、あるいは人生論の周辺みたいな印象だけど、これはなんのことはない(なくないけど)自己同一性への問いという定番のそれだ。「アイデンティティって何に必要なの?」(※1)と言い放ったのは井上陽水だが、昨日の自分が今日の自分と同一人物である、というような意味に限定的に捉えれば、まあめったなことでは自分のアイデンティティが危機にさらされたりはしないし、そういうsolidな意味でのアイデンティティを失った人というのは歴史上存在しなかったし、これからもしない――だって、昨日と今日とでなぜ同じ自分なのか?は一般的な問いだし、わたしたちはアイデンティティを英語の構文的に「もつ」ってわけでもない。あたりまえだ。しかしそういう意味でない、いわゆるアイデンティティとやらは、そうでないとしたら「キャラを立てる」くらいの意味しかないように思う、そしてそれは特に悩むことではなくて、経済学的に考えて動きさえすればよいという話であると感じる。まァそれがそつなくこなせるんだったら人間関係で悩む人が公称あんなに多いはずがなくて、正しいことを知るのは難しい、正しいことが正しいと知ることは窮極できない、未来永劫不確定なこの世界で自分が「正しい」と思うとおりに行動するのは賭けだ、自分を信じるということは自分の行動に自分で責任を持つということであり責任は重たい、不確定な世界に自分を投げ込みたくない、でも毎日朝は来るしふとんからは出る、機械論的唯物論を信奉する人でさえ面接では緊張するし、不確定なものごとに対する恐怖を取り除くには思惟よりもまず経験だ、経験が大事だそれはいかんルーズソックス玉の輿。

アイデンティティには、自分が思う自分と、他人が思う自分とのふたつの面があって、その両面を一致させようという力がアイデンティティの問題だ。いや、それどころか、自分が思う「そうあってほしい自分」と、自分が思う「現状の自分」とをすり合わせたもの、そして、他人が思う「そうあってほしいあいつ」と、「実際のあいつ」とが渾然一体にミックスされたもの、とがぶつかり合ったりするのがアイデンティティの問題だぁよね。ようするに、なんらかのファクターを通じて自分が自分であり続けているだけでなく、それを自分自身がそして周囲が是としている、ポジティヴな価値を有していると認めていることが必要であって、ようするにアイデンティティを気にする人の第一の興味は、理想の自分に自分を近づけていくことにある。

でもな、「自分にはアイデンティティがない」と嘆く人はむしろ周囲にアッピールできる識別子を身につけることを欲しているのであって、履歴書の「趣味・特技」欄に書けるなにかが欲しいとゆってるのと同等であり、他人から見た自分、というのがまず第一に関心の対象になるように思う。だけど時間がもう遅いので今日はここまで。

※1: BOXセット「NO SELECTION」(1991)付属のブックレットより。1983年の発言。てゆうか、これ、まだ新品で手に入るのか(アマゾン)!

20130319Tue2309

大学は出たけれどV3

昨日・今日と、日雇いのバイトで肉体労働でつかれたーってか筋肉痛やーという感じですが皆さまご機嫌いかがでしょうか。気付いたのは、仕事ができる人に出会うと恋愛感情に似たときめきを感じるということで、絶望的でうしろむきなときめきではあるんですが、男性にほれそうになることはありますよね。敗北感にも似た。たぶん恋愛感情なる感情が特定的に存在するわけじゃなくて、ある種の事態の束が恋いと呼ばれるにはそこにセクシュアルな何事かが介在している必要もあるのでしょう。いや、好きな相手に性欲をもたねばならぬ、という意味じゃなくて、概念の使い方的な話として。それから気付いたのは、肉体労働すると水がおいしいということ。「あー。水うめえ。」 水は際限ない。よほど水分に飢えていたとみえ、満腹なのになおも水を欲望し続ける、欲望する機械やー。振り返ってみると仕事中けっこうムリしてたというか、通常モードで出せる以上の力を用いると、もの運んでる間とか呼吸がしづらくなって、受け答えとかぞんざいなものになるし、あんまり重いものだとそもそも呼吸ができなくなる。っぷはー。でもハアハアあえぐのもなんだかかっこわるかったので、息を殺して苦しんでいた、っていうかこうして書いてみるとけっこう危ないことしてるじゃないか。今後気をつけます。今日は労働時間短かったので一時間カラオケして帰ったけど。あと美術館は白い壁しかないので自分の位置をはなはだ見失いやすいということでした。

20130319Tue2032

猫耳エスペラント

前回までのあらすじ:夏のバイトで得たお金を非計画的に食いつぶしてきた楡.大学院受験に加えて春の合宿や散発的な飲み会でついに所持金は底をつく.お金とバイトと未来のことを考えるあまり,精神的に弱りきった楡は,短期バイトで所持金をブーストし,心の安定を図ることを決心する.なんか「新世紀エヴァンゲリオン」の次回予告風に書こうと思ったんですけど根気がないのでムリでした.創造的な仕事は根気がないとムリ.通帳がふたつあって,どちらにもいくぶんかのお金が残ってるとの様子だったので,まだ大丈夫だろと思っていたら,記帳してみるとどちらも 2000 円くらいしか入ってなくてどっひゃーと思いました.ヘタしたらクレジットカードも止められるところでした.これで,心理的に参ってるだけでなくいずれ物理的に身動きが取れなくなる危険が出てきたので,早急に金銭を獲得する必要に駆られたわけです.で,短期バイトの募集をインタ〜ネットで見つけてお電話したら一瞬で仕事が決まり,あっけなかった.前置きが長い.ともあれ,バイト決まってから=収入が見えてから,心理的に安定したのはどうやら事実だし,余裕がないと哲学はできない.哲学やるために生きてるわけじゃないし哲学やらないと生きられないわけでもないけど,でもしばらくはそれが仕事だものなあ.へんな仕事.

午前中は親の仕事の手伝いをしていた.バイト扱いで,お金もらえるらしい.先述の短期バイト決めたら,このお手伝いの話も入ってきて,一度転がったら転がりだすものだなと思った.昼に帰ってきて牛丼を食べた.インターネットを見る作業をしながら食べたら,味も食感もなくて,腹に入ったという気がしなかった.よくない.それから一時までラテン語の勉強をして,外に出ようその前に Android のたまりにたまったアプリのアップデートを実行してから外に出ようと思ったらたまりにたまっていたので時間がかかってギター弾きながら待っていたら結局一時半くらいに家を出ることになりました.駅までの道は,いやに静かで,音は聞こえるのだけども静かだった. iPod で耳をふさごうという誘惑がわいた,が,あえて裏切る.ここで音楽聞いても特別いいことがないことを経験的に知っていた.イヤホンは現実に対して盲目にさせる.だが,そうした手段に訴えたくなる事情は,耐え切れず目を覆うような現実も,直面すべき現実も,なかったように思うが.鈍いのかなあ.ともかく,ふわっと浮いたような,晴れた昼間の散歩だった.電車に乗って,上野公園に行った.シティライフ.些細な事ですが前々回の詩に出てきた吉祥寺は行ったことないです,銀座はあるけど.喫茶店でソーダフロートを頼んだこともない.ことばってそういうもの(そーゆー…).上野公園にはちょっとした用事があって来たので 10-20 分くらいしか滞在しなかったけど,親子連れ・カップルであふれる土曜日の上野公園を歩いて気付いた.ここ歩いてるやつら,みな他人だ.駅までの道で「静かだ」って思ったのは,きっとこれ.いくら音がやかましく鳴っていようが,何人の人とすれ違おうが,それは僕とは関係ないただの背景だ.情報は飛び交ってもそれを読むことはできない.細かく猥雑に書き込まれた世界から一枚浮いてる自分.ゆらゆら帝国の「発光体」を聴いた.音大(というか,東京藝大の音楽学部か)の学生らしき女の子が通り過ぎ,みょうに興奮した(性的に).お嬢様だーって.なんと俗っぽい意味付けに興奮するようになってしまったものよ.高尚な意味付けよりかは俗っぽい意味付けのほうが好きだけどさ.バイトが決まって心理的に楽になったのに伴ってか,たんに東京のほうまで出てきたからか,性欲がでてきて,電車で隣りに座った女性にキスしたかった.あなたがマスクなんかつけてるからだよ.

20130316Sat2131;2356

pick up 縁起物

近頃の楡は,バイトを探していまして,大学院に入るので学費がどうこう以前に全財産がいま一万円をおそらく切っているのでございまして,こんな状態ではなにもできぬ,ほとんどなにもできぬしお金を使う用事というものは存在するのでむしろ金を稼ぐことを強いられていると言っても構いますまい.それに本も買いたいし,お小遣いも確保してたまには遊びに行きたいし,今年こそ海外旅行を決行したいのでどうにかお金,マネー,ゲルトを得たい,得ねばならぬ,と思っているのであります.でも,(言い訳がましいですが)接客は苦手だし,商品の名前とか覚えられなさそうだし,塾講師はシフトがとれなくてなんだかんだで時給ほど稼げないし,あんまり出勤が多いと勉強の時間削られちゃうし,……とか考えながらアルバイト紹介のサイトをざーっと見続けていたら疲れてきて,心が疲弊してきて,頭がバイトのことでいっぱいになって,未来のことばかり考えていたら家にいるのに緊張していることに気づいて,夕方に散歩へ出た.一時間ほど歩いた.散歩をすればだいたいすべての問題は片付く.しかしあの頭の重さよ.自分の意識の状態を記述することのエセ科学っぽさには敏感でありたいですが,頭ん中がごちゃごちゃしてもやもやしてるなッて感じが,確かにありました.歩いていたら,すこしずつ霧は晴れてきた.でも未来のことを考えるのをやめようとしない.なかなか切羽つまってるなあ.とりあえず,なんかド短期のやつをやって,お金が入れば,すこしは余裕ができるかなあ.物質的外的状況に心は左右される.それは正しい.だけどそのうえで,物質的外的状況に左右されず心を保つのが,修行なんだ.心を保ちつつも,それを左右しようとする物質的外的状況に目を向けるのが,世界への理想的な対峙の仕方だ.

まあ理想はそうなんだけど,こうした状況に置かれてみると,人間としての自分の弱さが白日のもとに出されるというか,じつは常に弱音を吐いていなきゃ生きられないんじゃないのかとか思うわけですが,「死にたーい!」,まあいいんですが,何が,わかんないけど,特に面白い話はなくて,今日も明日も「ここから」始めるしかないんだよなーっと.

20130314Thu2159

ラー油にもらい泣き

<townwork.txt>
砂の中から吹き出る王位継承の争い
抑揚のない雨樋に滑り込んでいる
喧嘩の後の一杯のビールが
銀座の地下を流れ伝って
太平洋に暮らす魚達の餌になる
僕は
頼んだソーダフロートが中々来ないので
席から10cmほど浮かんだ気分だ
テレビには三ツ葉が映っている
かいわれ大根が
何日も何日もかけて 伸び続ける
牛が牧草を食む
やがて冷たい夜がきて
冷たいジントニックが 体を冷やす
蝿が止まって電車が過ぎて
魚が釣れて
吉祥寺が爆発する
焼き上がるスイートポテト
オーブンから取り出す手つきに
殺意めいたものを感じる
しなやかに歌って
唖のように黙って
林檎をひとかじり 道へ投げ捨てて
虫が集まってくる
拾ったものは警察へ
カエサルのものはカエサルへ
ごみはごみ箱へ
さまよえる魂は 佃煮にして
数杯の焼酎とともに
胃の中に溶かしてしまおう
延髄の垂れ流す音楽を聴きながら
君と一緒にフライドポテトをほおばろう
夕陽を撃ち落として 半月切りにしてつまんでやろう
剃髪した坊主が通り過ぎ 視界がはっきりする
一日ぶんの余罪を倦んでいる
一日ぶんの免許皆伝
一日ぶんの聖歌隊
一日ぶんの黒板消し
往生のために申し込みはいらない
遠出をするのにお金がいらないように
屋根裏に住む男に さよならを告げたら
口いっぱいに麦をほおばって
カラメルソースが出来るのを待とう
点描でえがかれた意志を尻目に
小川のせせらぎを切り抜いて
トイレの壁紙にする
円筒状のこの世界に
私たちを転ばせるものはひとつもない
敷かれたレールをとり外し
不眠不休のアイスクリームと
新しい世界の始まりを見届けるだけだ
妙に遅い夕暮れ
エンジ色の測量士を身につけて
振り向いた瞬間に景色は弾ける
川沿いの摩天楼
急発進する研修生
廻り続ける案山子のそばで
売り場の鰺が涙を流す
欲にまみれて在るのは
雲 甍 草木
そしてもろもろの書物だ
目が覚めてようやく気付く
石器時代に認識した真理
丘の上で叫んだ 今日の献立
餅のようにやわらかな地面に崩れおちて
深く深く沈潜する
シマウマの縞を借りてはシャツに当てて
ブラジルとの調和をこころみる
肉が焼ける音
怒鳴り声
アブダクション
テノールの歌手がスクワットする数を数えて
電車が通り過ぎるのを待っている

20130310Sun1708

天ぷらの外延

ペシミスティックな正論は、正論ゆえに否定できないが、それが事実のすべてを表しているわけではない。そして、ペシミスティックな面が事実にあること自体ががまんならない人は、潔癖なのではないだろうか。……という結論にはなにかしら欺瞞があるように見える。

まず、「潔癖だ」というベタな意見のほうから固めていこう。ペシミスティックな正論とは、たとえば「人は完全には分かり合えない」なんてのがそうだ。考えてることが言わなくてもテレパシーみたいに相手に通じるなら最高だ。テレパシーでなくても、言ったことの意図が完全に伝わるならいい。でも事実はそうではない。考えてることは言わなきゃ伝わらないし、言ったとしても誤解されたり曲解されたり、そもそも聞こえなかったりする。いや違う。「人は完全には分かり合えない」というのは事実を超えた、もっと形而上学的な正論なのだ。それは聞くものを一言で射すくめる。補助線を引かなくても、「人は完全には分かり合えないものだ」という言葉に即座に同意してしまう。自分のことを完全にわかってくれる人などいない。人は本来的に孤独を背負っている。わたしたちは静かな絶望の中に生きている。

だが……、適当な根拠をその命題に与えることが難しいことは、それが過剰な一般化という論理的誤謬から生じたものなのではないかと推測させる。いったい、思ってることが「完全に伝わる」とは何を意味しているのか。人と人とが完全に分かり合うとはどういう状況のことを言っているのか。誰かとツーカーの関係になったらそれで満足なのか? めし、ふろ、おまえ、なのか?(何が?) だけど、思ったことを口にして、「あ、ここが伝わってないな」と感じることはあり、しかも少なからずある。だから、「人は完全には分かり合えないものだ」という全称命題が、経験された事実を超えて言明を行なっている(※それは過剰な一般化とは異なる話なんだけど)としても、それに同意したくなるひとの気持ちはわかる。それは確かに、経験に合っている。

だけど事実はいつも両面的だ(これも性急な一般化?)。人にわかってもらえないこともあれば、わかってもらえる時もある。僕なんか言いたいことがふっと伝わったとき、かるく感動してじーんときてしまう。関係ないが。「人は完全には分かり合えない」は、その裏に「人と分かり合えるときもある」をもつ。ようは事実の両面のどちらを重視するかで、ものの感じ方は変わってくるし、そしてものの見方は自由に選択することができる。それに、仮に人は完全には分かり合えないのだとしても、それは悪いことなのだろうか。それは「悲しいことだけど」という枕詞をつけることなしに語れないことなのだろうか。そんなはずがない! 事実に対して価値判断を行うのは、事実について語る人のほうだ。事実そのものが悲しかったり嬉しかったりするわけではない。語るものが、事実について「悲しい」とか「おもしろい」とか「安心する」とかいうラベルをつける。「人は完全には分かり合えない」という事実は、語り手の価値判断によっていかようにも語られうる。(そして、価値判断は、語り手がどのような欲求をもつかに左右される。さらに、人がどのような欲求をもつかが環境という外部要因に依拠しているものだとしたら……、やはり人間が分かり合えないことを「悲しい」と思う人は、そうとしか思えないことになるではないか! ヤッベ!)

「人は完全には分かり合えない」というトートロジーは動かしえない(かもしれない)。だけどそれに肯定的な評価を与えることもできるし、裏には「人と分かり合えるときもある」というポジティブな事実が控えてもいる。あなたがポジティブな信念 (belief) を身につけて暮らすための材料は用意されている。だが……、だとしても、「人は完全には分かり合えない」という事実が動いたわけではない。あなたが毎日楽しく暮らしていても、音楽をノリノリで聞いているときも、おいしい海鮮丼を食べているときも、恋人と甘いひとときを過ごしているときも、「人は完全には分かり合えない」という事実が床下でうぞうぞうごめいている。ぼくにはそれが耐えられないんだ!(突如立ち上がり、頭を抱えて) そいつが消えなきゃ、一点の曇りもない人生を歩んでいくことなんかできやしないんだ、と、そういうわけである。 だが、そうすると、ペシミスティックな事実に悩まされる人は、完璧主義者の気があるんじゃないか? という診断を、やはり、下したくなる。「一点の曇りもない人生」でなければだめなのだろうか? そうでなければ生きるに値しないのだろうか? そうした不合理な考え方を捨てれば楽になれるのに、完璧主義が邪魔をする。「いや、そんな考え方はシステマチックすぎるよ。」そんな気もする。感情にわるい影響を及ぼす考え方は捨てちゃえ、捨てちゃえ。「たとえそれが真実であっても?」 真実じゃなくて、真実の一面さ。「一面だとしても、あるのは確かでしょ?」 だからそれが潔癖だって言うんだよ。一点でも瑕疵があればその人生は真っ暗だとでも言うの?

だが、潔癖というのが医療的語彙である――つまりそれが治療されるべき「病気」として扱われている以上、ある性向が潔癖であるかどうかの基準は人間の有用性に求められる。つまり、ある状態が病気かどうかは、 (1) それが平均――正常なるものから外れたものであり、 (2) そこから脱することでよりよい状態に「戻れる」とされるかどうかの二点で判断される。すなわち、病気とは、治療すべき状態のことを意味する。そして治療すべきかどうかは、時代や状況によって変わる。これに「治療が不可能」という条件が加わると障害と呼ばれる。「背が低い」ことは、それががまんならない人にとっては障害かもしれないが、そうでない人にとってはただのささやかな身体的特徴である。だが、重要なのは、このことは、「潔癖」という判断が形而上学的基礎をもたないことを意味しているということだ。つまり潔癖かどうかもまた、その人がもつ欲求に左右される。つまりあなたがいくらわたしを潔癖呼ばわりしたからといって、私がそれを受け入れる義務はない。私が自分を潔癖認定するのは、自分のこの考え方がほんとうにわるいもの、駆逐しなければならないものだと思えたときだ。そしてそれには、人生に対するそもそもの態度が変化することが必要だ。ちょっと議論したぐらいで変わるものじゃない。

だから、「潔癖だ」というのは、まずは自分の価値観を押し付けているだけだ。「どのような人生がよいものか」についての客観的な合意が得られれば、なにが病気でそうでないか、誰が潔癖でそうでないかを決めることができる。だけどそれは遠い未来の話だ。

20130310Sun0145

無駄足ヨークシャテリア

死にたいとひさしぶりに思っていて、長期休暇だからなんですけど長期休暇になるとなぜ死にたいと思うようになるのかといえばヒマだからなのでして、生活における目標や差し迫った課題が一切なくなってしまった今、あ、そういえばあった……。あったけど話をもとのまま続けると二月は大学院の入試があってその勉強をしていたから心が安定していて外で iPod nano(2GB) で音楽を聞きながら「これ泣けるナー」などと思えていたのですが、でもやることなくて自転車で目的もなくチャリをこぎつつけて神聖かまってちゃんの「23歳の夏休み」ならぬ23歳の春休みじゃないかと思った時分もありましたが、でもそのときは「死にたい」とは思っていなくて、ここにきて死にたいというのはハイデガー的な不安 Angst (※1)を暗示しているわけではなくてお金がなくてバイトしなきゃ……と思っているせいです。お金がない、でも食べたり飲んだりする用事はある、だからお金を作るためにバイトをしなくてはならない、しかし微妙に予定が入っており面接に行けなかったりしそうで今すぐ申し込むには気が進まない、だけど早くしなきゃ貯金が底をついてしまう、かような考えが私の頭の中を支配しておりその懸案が片付かないけど片付けたいけど片付かないというジレンマな視界が巡り巡って「死にたい」がひねった水道から出てきたり、開いた辞書の項目に見つけたり、ツイッターでRTされて流れてきたりします。

※1:知っているかのように書いていますが知っていません。たぶん誤用。

20130305Tue2050

ったく。

大学の勉強は総じて役に立たないものですが、じゃあそう言う人の「役に立つ」ってなんだろう、と考えると意外とよくわからない。たとえば資格の勉強、たとえばトーイックの勉強などは役に立つのでしょう。では資格をとることがなぜ役立つのか? 資格もってると就職に有利だから。でも就職するというたかが人生の一場面においていくらか有利に立つ、それがそんなに「役立つこと」だとは思えない。もちろん勤めている期間というのはふつう人生の大半を占めるわけですから、就職を軽んじるなという意見は理解できる。だけどトーイックの点数が勤め人としての数十年にわたって効き続けるわけじゃなし、エントランスにおいて賭けの勝率をちょこっと高めるだけなのだから、そう考えた上でそれでもそれが「役に立つ」と言い募る理由がちょっと見えないなー、と僕なんかは思う。一ヶ月で就活やめちゃった僕なんかはな。

そう思うと、役に立たないとされる「教養」のほうがよっぽど即効性あっていいなーと感じるのですが。僕が思う教養というのは、それがあると世界についてわかることが増えてちょっと幸せになれるというもので、経済学でも物理学でも心理学でも、ものごとに対する新しい見方を増やしてくれるので、教養を身につけるというのはじっさい即物的な意味で有用だとさえ思える。世の中で「役に立つ」とされるものって、例えば英語とか、三角関数とか、大人は「やっといたほうがいい」って言うけど学んでる時分にはわからないよねえ。頭の良い人、社会についての教養のある人にはわかるのでしょうけど、僕はわからない。誰か教えてくれ。皮肉でなく。

っていうかアカデミズムの末端にひっそり暮らす者として言うなら大学はそもそも「勉強」するとこじゃないって話もある。研究するところですよ大学は。単位とって卒業するのが目的じゃあない。……しかし、そうは思うものの研究しに大学来てる人はあまりいないし俺も大学院に入ろうとしているけど自分が研究に向いてるかっていうとそうでもないよな……俺大学院向いてないよな……と最近よく悩んでます。向いてないのに大学院入ろうとしてるのは、自分なりの打算もあるのだけど、結局「ずるずるきてしまった」って面が大きいのですよね。大きいかどうかはともかく、人間には現状維持をしようとする本能があるので、ある空間の中でいくらかいい思い快適な思いをすると、その空間に固執しようとする。好きなテレビ番組があって、長いこと見続けてきたんだけど、最近つまらなくなってきて、でも、いやそのうち盛り返すだろうと見続ける。たまに面白い回があるんだけど、でもやはり往時の勢いはない、けどたまに面白いから見てもいいかな……こんな具合にぬるま湯に浸かってくんだ。全体で見ると損してるんだけど、自分では適切な選択をしてる――少なくとも間違った選択はしてない――ように感じてしまう。自分が大学院を選んだ(消極的選択かもね)のには、そういう心の癖もかかわっている。もちろん自分なりの打算(具体的には?)もあるから、誤った選択だとは思わないし(あ、その態度が怖いって今言ったばかりなのだけど……)、2年間有意義に過ごすつもりでいるけど、上みたいな事情がからんでることには自覚的であったほうがいいよね。

20130304Mon1812

souvenir

↓みたいなことを書きたいので、まだホームページに潜伏していようと思います。ブログ(はてな)は「表」という感じがする。そんなところで美形と巨乳は等価だとかいう話をする度胸はない。いやまあ何をもって「表」とするのか不明ですが、たとえば検索に引っかかりやすいこととか。他所からリンクを張られやすいとか。なんとか。

20130304Mon1303

顔と性欲

女性の顔が美形であることの機能の第一は、性欲を換気するということだ。おっぱいやお尻と同じだ。窓口だ。顔は、美という崇高な価値を持つ一方で、性欲という「低きもの」に連結してもいる。それは、両者は相互に排除する関係にはないということだが。つまり言いたいのは、顔がきれいとか、スタイルがいい(※1)とかいうのは、「勉強ができる」とか「面白い」とか「手先が器用」とかと同列に並べていいカジュアルな価値(?)なんかではなくて、もっと後ろめたい事態だ。美形であることと巨乳であることとは等価だ。「私の顔がもっときれいだったら」とは「私の胸がもっと大きかったら」と同等だ(※2)。いや、こう並べてみると、自分が言っているのはそれほど驚くべきことではない。な。どちらも日常的に表明されうる欲望だ。ただ、顔についての欲望のほうが、よりカジュアルに(だからカジュアルってなんだ)表明されやすいように思うし、だとしたらそれは勘違いなんじゃないかと思う。顔がいいことも、胸が大きいことも、どっちにしろ「エロい」という意味を伴う。顔がきれいだというのはエロいことなのだ。魅力的というのは第一には性的に魅力的だということを経由する。口紅とか頬紅とか、ああいうのもすべてセックスアピールにならざるをえない。意図してもしなくても。中学生のときあるクラスメイトが口紅をしてきて、それを見て妙に興奮したのを覚えています。

※1:と言いつつ、いわゆる「スタイルがいい」女性に僕自身は欲望を感じないのですが。肉はついていたほうがいい。脚が長いのは「スゲぇ、かっこいい」と思うけど。だから、僕としては、スタイルのいい女性とセックスしたいという欲望は、「かっこいいものを所有したい」という、性欲とはまた別種のものだと思っている。そういえば、顔についても「かっこいい顔」はあるよね。

※2:基本的に「男性から見ると」という話だったので、女性主観の例示はまずかった。修正するとしたら、「付き合うんだったら美人がいい」と「付き合うんだったら巨乳がいい」とは等価。ほら、やっぱり違和感ないぞ。

20130304Mon1259;1308;0305Tue0100

狛犬センシティブ

ベイビィ、たいくつだぜ。日記を書きます。つかれた。今日は Evernote のメモをごっそり整理していました。あー。えヴぁーのーとは検索がきくから、整理するものではないのかもしれん。でもノートブックはなんとかする必要があるし。必要があるっちゅうか見やすいものにしたいので。だったらアナログな媒体でやったほうがいいのかなー。でもアナログなそれはデータを消したり書いたりはできないから、うーんまあでも文献情報の管理はべつのシステムを設けたほうがいいのかもしれん。と、ひととおりやってみてようやく振り返る。あたまわるいので。しかしこうしてシリアスに反省する機会を持てたのでそれはよしとしよう。疲れたので疲れました。こりは時給が発生するタイプのお仕事だなーと思ってツイッターにそう書いたけど、疲れたイコール時給が発生するというのも一種奇妙な話です。たとえば、俺が重石を上げたり下げたりし続けてへとへとになったとしても、それに報酬がともなうとは考えづらいのと同じ。僕はなにも生産しなかったし、なにも人に役立つことはやってない。いや、そこが核心ではない。僕が今日したことは、今日のうちには何も生まないけど、それは未来の僕が何かを生めるようにするのだ。しかしながら、この行為が報酬を受けるべきだとは言えない理由は、結局んとこ、それが報酬を伴うという契約のもとに行われてない、という点に求められる。ようは労働に対価が与えられるのは純粋に規約の問題なのである。いや、そうだろうか。労働はもともと対価が与えられるべきものであった。毎日畑を耕したら作物が育つし、根気よく探しまわったら獲物が見つかることを人々は期待したはずだし、その期待は正当なものだ。だから基体に沿わない結果が出ればがっかりする。現代の仕組みは、たぶん、この報酬を「お金」というものに代替することで、それが労働に対して確実に与えられるようなシステムなんじゃないかな。ただこれは人工的なシステムだから、自分でそいつに参入しないと(つまり雇用されないと)そいつを利用することができない(労働に対して報酬が得られる保証がない)。

うーむ。やっぱ日記書いても退屈かもしれない。

20130303Sun2301