永20久13培02養


つま先キムチ

ツイッターの自己紹介が堅苦しいんで、いくぶんポップなものにしたいなあと Settings 画面を開いてみるんだけど、さて、自分を160字で説明し切るという課題の途方もなさである。そもそも人間を有限な文字列のうちに記述し尽くすことができると思えない。いや、人間だけでなくたいがいのものはそうだけど、とくに自分となると……ほんと立ち尽くしちゃうよ。いやね、その場で包摂的かつ創造的なコメントをまとめて提出するなんて無茶ブリを常日頃要求されてないことは知ってるけど、いざその場に立ってみると、自分をよく見せたいんでしょうね、最適なコメントを考え始めて思考の流れはよどみ、見渡せば心象風景はひたすら続く荒野……。そんな場面に出会ってみると、いかに自分が自意識的か、人の目気にしているかに気づく。自分が自分自身に対してどうあるかは当人が考えればいいから他人の自意識なんて基本的にはかまやしないけど、それがコミュニケーションの座で効力を発揮するとたんに障害でしかない。こまってしまうよ。

いや、自己紹介は適切な入口になりさえすればいいんだ。なにか包括的なものである必要はなくて、ただ自分を知らない人に対して、もっと知ろうという意欲を起こさせるような、かつそれが自分の望むような知られ方であるような、文言を提出しさえすればいい。だけど、あくまでも、自己を紹介するフレーズを考えることは、あなたの生活を、自意識を、美意識を欲望を適切に要約せよという課題に取り組んでいるに等しいんだ。それがなかなかむずかしい(むずかしい……)。要約するのって頭絞りますもん。それに、書いていて気づいたが、俺は要約を作ろうといってもその材料を集めてはいないではないか。材料も集めずに、頭のなかをふよふよ浮遊する無定形なもやもやを不思議な圧力でなんとなく形にしようというのが俺のやろうとしていることだ。それじゃ勝てねえ。それじゃ勝てねえよ。

20130225Mon2316

くびれ感電死

言葉が出ない病に冒されているので、こころみに3000字ほど書いてみようと思います。これを書き出すに至るまでに二度、日記を書きかけてあるいは書き終えて、消したという事実がある。ここで僕は「〜消したという事実があるのですけども、」と書きそうになる。あるのですけども、に続く内容が用意されていないのに、そう言ってしまう。論理的には余計だ。だけど、あるのですけども、云々と続けたくなる。続いたほうがかっこいいと思うからだ。事実からある教訓や洞察が引き出せれば、ほらなんか頭良さそうじゃん。ぼくは頭良く見られたいのだ。僕だけではない! ツイッターのタイムラインを覗けば、流れてくる発言たちからは自分を頭良く見せるための配慮をいくつも見つけることができる。ハッシュタグによる自己ツッコミはその一つだ。ある思いつきに対して、ありそうなツッコミをあらかじめ先回りして述べることは、「自分のした発言に対してありうるツッコミを踏まえた上で、私はあえてこれを言っているんですよ」「ただ無反省に反射的に思ったことを垂れ流してるわけじゃない」というメッセージを含む。いや……こういう分析してるとき、自分がずいぶんと穿った見方をしているんじゃないかと不安になる。そこにないものを勝手に読み込んで見破った気になってる痛い人に自分がなっているんじゃないかとおそれる。だけどみんな、自分が人にどう見られるかを操作しようとして策を尽くしますよ。心理学の本を読んでるかは別として、なにか意見を発して、自分の一部たるその意見が他者の評価にさらされ、それゆえ自分自身が他者の評価にさらされんとするとき、やっぱりその評価が好意的であってほしいと思うのはごく自然なことだ。いや、好意的であるだけでなく、その評価は高い評価であることを求める。つまり、ぼくらは「頭良く見られたい」。ぼくらわぁー。ところで「自分の意見に対する評価が、自分自身の人間的な評価に直結する」「隙だらけの意見をいう人は人間的に劣る」というような考え方は、論理療法/認知療法的には irrational belief 扱いで、いたずらに自己評価を下げて悪い感情を惹き起こすものだとされますけど、だとしても自分のもつ考えをおいて他に何によって人間を評価すればいいのか?という疑問はありますね。いやありません。しかし意見なんてものは多かれ少なかれ他人から借りたものなのだから、というより誰も「自分オリジナルの意見」なるものをもつ人などいなくて、なぜなら言語が公共的なものであるならば言語によって形成される意見もまた公共的であって、かつ言語はじじつ公共的なものであり意見は言語によって形成されるほかないからです(わー!論理的!)。何を言っているかわからない。まあ当たり前のことではありますが誰しもすべての思考を再発明してきたわけがなくて、いや「なくて、」ってまた読点でつながりを持たせてしまいましたが続きを用意してきたわけではありません。話を戻せば、自分で思いついた意見だったとしてもそれを支える土台となってる知見は他の人が考えたものでありうるし、実際はそのほうが多いと思う。僕は縁起説を支持しているので無我、無我ですよ。ついでにですが諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静みたいな考え方を諦観だの無感情だのと申される方は考えが浅いと申し上げねばなりません。いや俺も仏教よく知らないけど図解雑学みたいな概説書読んでそう思ったんですかねえ、ちなみに仏教関係の典籍で私のおすすめは『臨済録』です。エキセントリックでおもろい。とはいえ仏教っていうか禅に多少かぶれるとある部分においては鈍くなるってのは経験としてあるんですが。もちろん半可通の段階での話ですけど。ていうかまあ人生の悩みとかある人は思想に走るより心理学勉強したほうが幸せになれるんじゃねとはよく思います。くだらない本も多そうなジャンルだけど。あと自分で自分を規定する人はそれだけ自分の可能性を自分で狭めているということに自覚的であってほしい。人間集団の中でキャラクターとしてふるまうときは有用な戦略であるかもしれないけど。そして俺は人間関係における有用な戦略についてひどく疎いのでとんでもない思い違いをしている可能性は、あります。いつでもね。せっかく話を出したので概説書の欠点について書きますけど、概説書はきわめて解像度の低い枠組みを提供するタイプの書物です。だから勉強のとっかかりに使うとうまくいったりもするし、きめ細かい理解を問わないような試験もこれで乗り切れたりする。でも、哲学なんかはそうなのですが大雑把な枠組みを手に入れただけでは何をした事にもならないって場面はある。人間がものごとを理解する仕組みは、ようは事象に適切なフレームをあてはめるってことだと思うんですが、問題はフレームが単純な形をしてようが「あてはまった」と思えればそれで「理解した」ことになっちゃうことです。そしていったん「理解した」と思えちゃうと、それ以上その事象について考えようとはしなくなる。何かがわからない状態というのは不安ですから、私たちは「理解したい」という欲求をもちます。そのために、いいかげんな理解でも、とにかく理解したということに満足を覚えて、それ以上を考えようとはしないんですよね。これは人間に深く根づいた癖だと思うので、簡単に変えられるとは思いません。努力によって習慣を抑えつけるというよりも、自分があい対している事象の細部を見ようとすることで、その理解が不十分であることに気づくのだと思います。なんだかビジネス書っぽくなった。難しいのう。ビジネス書っぽさは文体に宿るのか、内容に宿るのか、たいした証拠なしに自己啓発っぽい思想を連ねてるからそうなるのでしょう。いや……しかし、説教欲の根は深い。われわれは説教を控えるべきなのか、説教欲はこれを抑えるべきものなのか、はよくわからんけど、不快な説教というものが世にあふれているのはたぶん確かだ。一方、人が説教をしたくなるのは、やっぱり、相手と非対称的な関係に立てるからじゃないかなあ。つまり教えると学ぶという。そしてその非対称的な関係に擬似的に正しさを保証されたまま、自分が正しいと思うことをしゃべり続けられるから。つまりプラトンの対話篇におけるソクラテスが理想なのかもしれない。自分が正しいと思うことをしゃべって、相手が同調してくれるなら最高だよね。とか書いてる僕の心の中は「そりゃ最高だなあー」という思いに満たされてはいないのですが。対等な他者との対話を求めることは倫理であって、べつにそうしたいという欲求があるわけではない、のか。でも視点変えれば、倫理や義務といったことが、自分の欲求を犠牲にしていやいや遂行するもの、ってのも、偏向した見方だ。自分の欲求ってそんなに絶対に尊重しなきゃいけないものか? さて、ここで歯を磨き終わって部屋の引き戸を閉じてパソコンに向かい合った僕が残り150字で何を書こうかって話なのですが、150字でできることなど高が知れていてレポートの第一段落を書くには足りないしツイッターで1postしてわずかに余る程度だし俳句なら8つ作れますけどこんな無意味な勘定して僕が何をしているのかといえばただ文字数を埋めるためだけにやっているのだということを白状せねばなりますまい。ここまでで3010字を回りましたので終わりにします。ぐっばい。

20130223Sat0013

トビウオの起源

はてなアンテナで巡回してるときに日記を書きたくなるなあ。昨日今日と自転車で近所をぶらぶらしていて、どのくらい近所かというとグーグルマップで調べたら家から半径4〜5kmの範囲を動きまわってることになるようですが、もちろんこれは最短距離なので実際はもっと走ってることになります。時間でいうと昨日が1時間半、今日は2時間半くらい。だからすごいとか言うつもりはもとよりないですけど長期休暇に自転車走らせて過ごしているさまは、こりわまるで神聖かまってちゃん「23才の夏休み」じゃないかって気づきました。いや合致してるの〈長期休暇に〉〈目的なく〉〈自転車走らせてる〉ってとこだけなんですけど。そして平坦な道走ってるのにがんばってテンション上がるほどこがないと進まないのは自分が運動不足なせいだけじゃなくてこの自転車の具合が悪いせいでもあるのではないかと気づきました。買ってから、そっかもう8年近く経つのだし。気づいたら23歳になってました。しかしリスナーのみんなは「君が僕にくれたあのキラカード/その背中に貼りつけてやるよ」という歌詞に共感したのでしょうか。キラカードをやり取りするなんて小学生か中学生の所作ではないですか。多くのリスナーはハイスクールを舞台とした物語に共感するというかノスタルジーを帰属するもので、高校中退である作詞者のノスタルジーをたとえば大学生に簡単に共感されてもそれは困るだろうという気はする。それはともかく、キラカードという物の選択は冴えてるけどそれを「貼りつける」という形で収拾つけようとするのが表現的な行き詰まりを感じさせてよけいせつない。物理的にくっつけてるだけという。

まだ書けることあったはずなんだけど書いてるうちに忘れてしまいました。局所的な議論にこだわって全体を見失うの巻、よくあるよくある。この日記においては、どんな話をするかは重要でないので、局所的な話に終始してもいいんですけどね。

そういえば、2月4日分で「好かれることに慣れてない」とゆうてたんですけど、それは事実なんですけど、同時に僕は「この人は俺のことを好きなのかもしれない」という予断のもと世界を見ているのでダブルスタンダードというか一貫性がないというかたいへんおめでたいことだと思いました(感想)。僕の錯綜した脳内では僕は2,3人の女性に好かれていることになっております。ただ予断があるといっても特になにか行動に影響するわけでもないのであれですよね、あれだわ……。世界に対する傍観者的な態度が止まらないというより、都合のいい形而上学を構築してその中に住んでいる。人と目を合わすのを無意識裏に避けて、世界に関する事実の収集から逃げようとする。僕の関心はただただ自分にとって心地いい環境を作ることにあるらしい、だけど、自分に引きこもる戦略もところどころボロが出ているというか、戦略として挫折する運命にあるというよりは代償がでかすぎて円満な解決法には見えない。「見られずに見る」だけ繰り返しているのはつかれるといいますか、それが自分の落ち着く場所だという気はしない。たまーに人を好きになることがあってそのときは、その人に好意をなんとなく気づかれるようにふるまったり逆に気づかれるのを避けるようにしたりどっちつかずになるんですが、そうして態度が一貫しないのはようするに自分の中でどうしたいのかってのがはっきりしてないってわけで、世界が動いて自分がそれに流されるって構図を理想としてて、具体的には相手側から働きかけてくれることを望んでるんですけど、でも仮に相手が働きかけてきて「あなたは私のことが好きなの?どうなの?」と尋ねられたら自分自身もなにかしらのリアクションを行わなければならないわけじゃないですか。つまりイェスかノーか、あるいは最悪保留か、ともかくもいずれかの態度を打ち出さなきゃならないわけで、世界に動かされて流されるってのはどこまでも受動的なことなんかではなくて、流されて能動的に出るってパターンもあるわけですよねぇ……。ほんとに傍観者に徹するなら逃げ続ければいいわけですけど、それも気が進まない未来だ。

というわけで、やや久しぶりにお決まりの反省を流してみました。そういえば「〜してみた」という言い回しも近年増えた印象がありますけど、これもまた〈引き受けない態度〉のひとつなんだよな。「歌ってみた」にせよ「○○するプログラムを書いてみた」にせよ、その成果が客観的にみてどう評価されるかは私の関知する所ではない、自分の楽しみや便利のためにやったまでであって、狙いすまして打ち出したものではないからそれが万人にウケなくても私は傷つかない、というような意識がかいま見える。穿った見方かもしれんなー。

20130210Sun2303

ゆたかなせいかつ

昼食後、気分が乗ったので昼下がりの散歩へ。特に用事がなければ5時すぎまでひきこもって本読んだり読まなかったりしながら過ごして、外に出るのが夕方のジョギング30分弱だけなので、青空の下をぶらぶら歩いてるというのはじっさいじつに久しぶりだったのかもしれない。とても新鮮だった。部屋の中にいるとなんだか散歩するということに対して、多少は体を動かすかぐらいの意味づけしか見いだせなくて、どうせ目にするのは見慣れた街並みでありなんの興味も引かない住居やコンビニや道路標識や自動車でしかないそんなのは時間の無駄でしかない、とさえ!僕は思い始めていたのは改めて振り返るとだいぶ大事なこと見失いスケルトンだと思われてもくるのだけど、実際に外に出てみたら屋外とよばれる一群の場所たちはどこをとっても豊かで豊かで、あまりに豊かすぎると思うほどだった。目にしたのは見慣れた街並みなどではなくて初めて見るものばかりだった。いや誇張に聞こえるのは僕の中に淡白で陳腐な表現しかストックにないからであって、確かに晴れていたり最近いくらか、ほんのいくらか鬱屈した流れをかかえていたりという事情がそれをニュートラル時よりも鮮やかなものに見せていたにせよ、外を歩いて目にするものごとひとつひとつ、まるで興味が尽きなかった。一歩譲って自分の住処の周囲をかりに見慣れた街並みと称するなら、自分の部屋の中はそれにも遥かに増して住み慣れた環境だったのであり、一度視点を移動するだけですべてを見渡せてしまう。自分の部屋という環境は自分の手足のように自由に使えるとも言いがたく、ただごつごつした障害物ばかりある。一言で言って狭い。外を歩けばいろいろな音が聞こえてくる。言っておくが静かだ。昼下がりの市街地の静けさの中で、しかしどこかで建物の工事をしている音や、金属でできたなんだかわからないものに吊るされている何かが風で揺れてぶつかる音や、カラスの声や、自動車の通り過ぎる音や、小さい子供とそれを連れた母親や、古びた看板や三股に分岐する道路やらなんやら新鮮なことだらけで、歩いているのは知っている道だけど初めて歩く道だった。

興味の赴くまま、近くに来たので動物園に立ち寄った。飼われてる動物は20種類ない(※調べたらもっといた)くらいの小さな動物園。シマウマの子供が遊んで走り回っていた。泳いでいるペンギンを間近で見たら魚みたいな顔をしていた。いつも一本足で黙っているフラミンゴが歩きまわって、頭を地面すれすれに近づけて震わしていた。猿はいつまで見ても飽きない。オウムがおそらく10年以上前に覚えた「オハヨウ」を繰り返していた。風が強かったからかプレーリードッグがしきりに警戒して穴の中に入ったり出たりしていた。シャモやチャボといった日本の鶏が美しいことを再発見した(※シャモはタイ原産)。と思ったらベトナムキジが信じられないほど美しかった。と思ったらニホンキジはもっと美しかった。日本画でこういうの見る気がするけど、それが写実的なものでなくてどこか創作を交えたものだと心のどこかで思っていた。派手な色彩・模様の動物はインドやアフリカにみえるけど、日本にもなかなか鮮やかなのがいるものだ。そしてベトナムキジがしぶすぎる。写真でもなんとなくわかるけど、ぜひ実物を見てほしいです。いつかベトナム語をやろうと思った。

20130208Fri2104;10Sun0140

感性の時代、なのか(続)

引き続きケーススタディ。

多作で荒唐無稽化 抗日ドラマに食傷感 (読売新聞 2013年2月6日 14版 国際面)

「食傷気味」でいい気がする。というか、「食傷感」とは「食傷気味」の今風の言い方と納得すべきかもしれない。食傷感は本格的な食傷の前触れにある。この前触れは、「兆し」とも似ている。私たちはたとえば喉の調子が悪いことによって、風邪の予兆とする。風邪になりかけているということだ。また、Aの予兆はAの一部分でなくてもいい。動物が普通でないそわそわした挙動を見せれば、それは自然災害の予兆かもしれない。でも動物がそわそわ落ち着かないことは、災害そのものではない。話を戻せば、食傷感とは、人々が食傷になりはじめていることを指し示す。あるいは、それは食傷になりはじめていることそのものだ。本格的に食傷になれば、「荒唐無稽化」した抗日ドラマに批判が殺到したりする。その前段階にいまある、ということを「食傷感」は言い表している。食傷になりそうだ、あるいはなりかけている、ということを私たちは「感じ取る」。

しかし、たとえば「満腹感」についてはどうか。満腹感とは満腹の予兆ではなく、いま満腹であることをまさしく指し示している(※)。だから「A感」を「Aの前触れ」の純粋な省略表現だとすることはできない。だとすれば、やはり感覚に言及しているというべきではないか。中国人のドラマ視聴者たちの感覚に。つまり、「〜感」という表現は文字通り読むものの感覚に訴えることを意図している。新聞を読むものに、「食傷感」を喚起させて、表現をより感覚的なものにしようとしている――見りゃわかることだけど。でも感覚に訴える表現にすることで何をしようとしているのかは、即座には言えない。たとえば同じ出来事を新聞記事として書くのと、小説として書くのとでどういう違いが出るか、ということと関係があるかもしれない。

もう一つ。

ふむ感 (https://twitter.com/ohanyoro_chan/status/299097073163309056

これpostしたohanyoro_chanさんは他にも「はー感」とか「まじ感」とか「あ?感」など使っていて最先端という感じがする。(余談だけど、これらのpost探すためにこの人のTwilog検索してだーっと見てたら、意外に同じ発言は繰り返さない人でちょっと見る目変わった) でまあ何が最先端なのかといえば間投詞に「感」をくっつけちゃうある種の強引さ、そしてそれが表現として成り立ってるのがぎりぎりのバランスだなあと思う。「感」の濫用と言わば言えるんだけど、単に自らの感覚に定位して語ることで明示的に誤ることを回避する意図(承前)に回収しきれないものがある、ようにも見える。

ひとつ思いついたんだけど、「感」をつけることで話を一旦完結させる働きがあるんではないだろうか。さっきの「ふむ感」は、twimakerといういわゆる診断モノのウェブサービスを使った結果をpostした直後に言ってるんだけど、それを読んだ後に「ふむ」と言えば、それに続けて何か感想が出てくることが期待されるけど、ohanyoro_chanさんは、それは「ふむ感」なんだと先回りして言うことで期待を封じる。それに関する感想に「ふむ」という以上のものはないのだと。物事に対して「はー」とか「あ?」とか反応すれば、それにコミットすることになり、続きを期待されたり「何だよ」ってからまれたりする可能性が出てくる。……とか考えてくると、やっぱりこの「感」ってのは「※個人の意見です」みたいな、ただ感想を言いたいだけで発展性はないし反応も要らないよってのを予防線張っておくはたらきがあんのかな。無駄なことにかかずらうのを嫌いますからねわれわれの世代は(と言われることが多いような)。

とはいえギリギリではある。「ふむ感」と口にすることはつまり「ふむ」と思ったことをほぼ含意するから、「その『ふむ』ってどういう意味ですか」なんて絡んでくる人はありうる。ありうるけどそういう人は「感」の示唆するメッセージを読めてないってことになる(上の分析が正しいとすれば)。だけどそういう読み違いを誘発しかねないところは、コミュニケーションの機敏がわからない(僕はわかんない。だからこんなことを考える)人だと簡単に踏み外しそうだ。

※補足:「満腹感」の議論は間違ってるかもしれない。ほんとうにもうこれ以上食えないというほど食べたときは、「満腹だー」と言うのであって、「満腹感あるね」とは言わない。「満腹感」に言及するときは、むしろ「実際は満腹ではないが」という含みがあるのではないだろうか。僕がお昼ごはんにカップ焼きそばをかきこめば急激な満腹感に襲われるけど、すこしすればまた腹が減ってくる。ほんとうには満腹になっていないということだ。一般化すれば、「〜感」という表現は、事実と現れとのギャップを通常前提しているようにみえる。歯磨き粉で歯を磨けば清涼感を得られるが、涼しくなったわけではない。しかし、「栄養感」はどうだろう? これは、テレビ番組でドジョウ鍋を前にして京本政樹がつけたコメントだ。「栄養感」と言うことで、「栄養がある」という事実の断定まではしなくとも、そこにコミットしてはいるのではないか。コミットって何でしょうね? ただ、そのコミットという微妙な態度が都合いいんだろう、とは言える。条件を弱めるとしたら、「A感」があると言うことは、事実は「Aではない」か、「Aかどうかわからない」かのいずれかを含意する、ってとこか。もちろん情報量豊かな使い方としては前者だけど、後者も今日においては多用されていて、それは(1)自分はなんでも知ってるわけではない、確かなことだけ述べたいという謙虚な態度のあらわれ か、(2)事実を断定することから生じる立証責任を避ける意図の表れ のいずれかでしょう。あんまり謙虚になりすぎると懐疑論者になって何も言えなくなるのでおすすめできませんが。

20130206Wed;08Fri

感性の時代、なのか

しつこくこのことを話題にするのは、自分の中でまだそれがうまく収まっていないからなのですが。「〜感」の話です。いくつか理由つけてこれを悪しざまに言ったけれど、自分が中心的に懸念しているのはおそらく、このタイプの表現が許容されると一言でいって日本語が貧困になる、ってことなのだろう。そのくらい「〜感」は便利な形式だ。空欄に任意の名詞を投げ込むことで、だいたい狙った通りのことが表現できてしまう。生活感。徒労感。いや名詞だけでなく、形容詞でも動詞でも擬態語でもなんでも、だいたいの語彙は「〜感」として言及することができる。高級感。怒られてる感。ふわふわ感。うーん、でも、そこまで語彙が探せたならわざわざ「感」を付ける必要もない気がする。でもつけたくなる。なぜかといえば、断定を避けたいのだと思う。料理を口にして「これは高級だ」と言ったあとで、それが実はスーパーで買った惣菜だと判明すれば恥をかく。でも「高級感あるよね」と言えば、料理の値打ちに対して判断を行った事にはならず、ただその一側面に対してささやかに言及したにすぎない。「君は怒っているね」と言ったら相手は「怒ってねえよ決めつけんじゃねえよ」とさらに怒るかもしれないが、「怒られてる感がある」と下手に出れば断定を避けつつも「仮に怒ってないとしても、なんか怒ってるように見えますよ、そういうの損じゃないですか」と自省をうながすことができる。ふわふわしたものには「ふわふわしてる」以上のことを言う必要がないように見えるが、「感」つける人はつける。なんにでもマヨネーズかけるのと似たようなものでしょうか。

明示的に間違うということを避けようとして、人々は「〜感」を好む。「気がする」も「思う」もじつはこれと同類なのですよね。そう考えると、「〜感」と書くのは一時的な流行りだって“気もします”。人間すべてに確信もって発言することはできないし、誤ってる可能性が比較的高いことを自信まんまんに断言されても迷惑なのですが、それにしてもつける必要がないところまで「感」があふれてる“ように見える”。結局、こういうクッション的な表現って、あると安心なんだよね。似たような話で僕なんか「まあ」という言葉を多用するんですが、多用しすぎてこれなしで言葉を使うのが困難なほどなんですが、結局これは(「結局」もよく使う)自分からいくらか切り離してものごとを認めるときのクッションで、誰かの意見を自分のものとして認めるまではしたくないけど、まあそういう意見も一理あると認めるよぐらいの距離感でものごとを受け入れるときに置かれる。だから僕が「まあ」と言ってるときは「本心じゃないけど」って意味です、ひとつは。ちょっと話がそれたけど、なんでもかんでも感感いってる人は自分の意見に自信がないんだな、否定されたくないんだなって思って見ます。俺もそうだから他人事じゃないんだが。

ここまで否定的な調子で書いてきたけど「〜感」が切り開く次元というのもある。だいたい名詞を入れたときがそうなるかもしれない。「栄養感」というのを今日テレビで耳にした。確かに栄養があることと栄養感があることとは違う。そして栄養感ということばの喚起力。いや、でも「栄養ありそう」と言えばすむ話ではなかろうか。わかんなくなってきた。それに栄養感はその食べ物に栄養があるという事実に寄りかかって成り立ってるのだから(栄養感ある寒天とか考えられないでしょ?考えられるとしたらそれは実際に栄養がある寒天だ)、「感」に様相をずらしたからといって事実判断から逃げられるわけでもない。でもこういう表現はいろいろあそべる。岩波感。ジャズ感。われわれは「小並感」の意味がわからなくても、それがどんな“感じ”なのか想像できる。春先感。廊下感。でも感性は感性なのでそこで思った通りのことがコミュニケートできてるかはあやしい。そもそも言語によるコミュニケーションにおいて、自分の内にある感覚が言葉に乗って伝達されたりするわけじゃないので(つまり言葉によって喚起される感覚は人によって違う――というか、違うということも確認はできないのだけど)、「○○感」と言って何が伝わるかは、○○という概念に何が含まれているかにかかっている。まあ、文法的に「岩波感」と書くべき構文は確かにあるけど、それが日本語に新しい表現をもたらしてることには、たぶんならないな。

20130206Wed0211

浮かれ八百

なぜかその人に電話をかけていた。階段の踊場で、携帯からコールする、つながっては数秒で切れる、つながっては数秒で切れる。なおもコールする。しだいにつながりさえしなくなる。動かしっぱなしの機械みたいにコールを繰り返す。すると相手からメールが来て、好きだったと告げられる。あなたはわたしが嫌いなのかと。それでも最後に一度告げておきたかったのでメールを送ったということだった。長大かつ写真まで貼ってレイアウトされたhtmlメールだった。それを読みながら目が覚め始めて、意識が布団の中の自分に移行するなかで気づいた、自分を好きになってくれる人がいるといまだに信じているなんておめでたいな。……せっかくだからそのメールは読み通しておきたかったけど。

好かれるということがよくわからない。人を好きになるというのは経験あるからわかる。でも逆はほとんど経験がない。めしを食っても、外を歩いていても、授業受けててもあの人のことが思い浮かんで、って経験が、他の人にもあって、そこまではわかる。だけど、しかもそれが自分に対して向けられてるという事態を想像するとなると、なんだか「当然ありうること」として受け止められない。自分の世界了解のなかでおさまりがつかない。

何か語れる気がして、ふとんの上にノートパソコンを持ち込んで、はじめの一文だけ考えた上でキーボード叩き始めてみたんだけど、何を語ろうと思っていたのか、何が語れると思っていたのか、わからない。恋愛のことなんか口にして、さいきん暖かいせいかしら。春らしさは匂いによって知る。鼻の粘膜で春の訪れをかぎ取る。暖気を吸い込んで思い出されるのはいつも、どうも近頃いつも高校なのだ。しかも晴れている高校の自転車置き場。それはノスタルジーだ。ノスタルジックに高校のことを思い出すときいつもそこは晴れていた。高校の廊下には陽の光が差し込んでいた。廊下で、好きな人を目にした時の反応と、恐れている数学教師(そんな怖い人じゃなかったんだけど当時ずいぶん臆病だったので)に出くわした時の反応とが同じだった。ドキッとする。急激な緊張だ。あの頃は好きな人の前でリラックスしているなど考えもしなかったし「普通に話ができればいい」って本気で思っていた。当時からそんな変わったのかといえばそんな変わってないのだが、……よくわからない。おだやかに話をする自信もないのであなたを見ているだけでいい、と言えればすっきりだけどそういうわけでもなく、セックスをしたいのかといえばそれもあるのだろうけど、なんか、よくわからない。わからないと言って逃げてるだけだけど。ただまあここ数年は、好きになったから、だからどうしたい、というのが希薄になっている。音楽を聞いていいなあと思ってるのに近い。傍観者だ。知が実践に結びつかない。でも結婚ってなんなんだろ付き合うってなんなんだろ?なんでそんなものがあるのだろう?と考えてみるに、本来的にいえば好きだという感情はなんらかの行為にむすびつき発展していくものであって(生物的に考えれば当然っちゃ当然だが)、ただ俺はコミュニケーションを恐れて避けているだけなんだろうなっという結論にいきあたる。一人に引きこもって生きることに慣れて適応してしまったので、それがふつうに見えているのだ。

いや今好きな人がいるってわけではないっていうこともないのですが、上のは特定の誰かを当てはめて書いたわけじゃあありません。なんでこんなこと書くのだろう。春だからか。暇だからだ。

20130204Mon1134;0205Tue1342