2013nen1gatsu


わたしはおもしろがられたい

大学院入試のために哲学史の本を一日50ページずつ読むのを日課にしてて、それにレポートをちょこっとだけ進めて、ってやってるとかんたんに日が暮れてしまう。それで食事だなんだテレビだとやってると、午前中は寝てる僕の一日はかんたんに暮れてしまう。だからほんとうに好きなことをやってる時間は少ない。しかも近頃は引きこもってて人に会わない。家族には会うけど家族以外の人に会わない。外出てたって結局会うのは大学の人だろ、と思うかもしれないが、電車の中で初めて見る人の顔を眺めてる時間だってぼくには必要なのだ。同じ風景ばかり見る生活を続けていたら頭が痛くなった。ひと月ぐらいまえの僕は、いやらしい動画を見まくることでこの歪みをやわらげようとしていた。ルーチンな生活を繰り返していてもべつに死ぬわけじゃない。いや。ルーチンな生活を繰り返していると死ぬ。いや正確には外でていろいろなものを見ないと俺は死ぬな。寝つけないで布団の中でもだえていた。クリエイティヴィティがない。最近の俺には。おもしろいことしてない。ただ勉強して寝ていくだけのストーリー。おもしろいこと思いついてない。別にいいのかもしれない。晴耕雨読。そんな生活もまた理想……だとは思えなかった。面白いことをしてないと俺は死ぬ。死ぬ死ぬって連発してる俺のクリエイティヴィティが死んでるかもしれない。心の余裕、創造の材料。だいたい心の余裕とかいう高度に抽象化されていてプラグマティックな意義をもたないことばを投げつけてるところを見ても、ふぅ、発想が硬直化してることが見て取れましょう。「発想が硬直化」なんてことばもまた否定的な機能しかもたなくて、おれは否定的な人間だと打ち出すためだけに使われるようなことばですな。特定の形の欠損があるということしか今の俺は言えてない。積極的な内容を持つことを言うべきだ。健康なものは健康に言及しない。

ぼくはこうみえてもおもしろいことに何かを賭けてる人間で、いや普段なにをしてるわけでもないんですけど、おもしろがられるってことが僕にとっては大事なんです。でもおもしろいことをするためには、おもしろがってくれる人が必要でもある。僕自身は臆病でものぐさなので自分のやろうとしてることの微妙なノリを感じ取ってくれる人の前でないと自分がおもしろいと思うことをやる気にさえならなかったりします。僕にとって、自分を(意図した文脈において)おもしろがってくれる人が近くにいるかどうかは重要なんです。承認欲求というものが僕にあるとしたらそれです。僕がおもしろがっていることを共有できる人がいるかどうか。ちかごろは勉強ばかりしていて(というと勉強漬けみたいに聞こえるかもしれませんが、全体の活動時間に対する割合として)、おもしろいことをしてないことに危機感を覚えるので、僕の本分は勉強ではないのでしょうね。

20130126Sat1616

人の目気にしてちゃライクアカメレオンゴーゴー

自分の日記を読みに来た人が誰だかわかったら、その人の日記なりツイッターなりを見にいって、ひととおり読んでみたあとに、あらためて自分の日記を見なおしてみる。そうやって、その人にとって僕の日記がどんなふうに映ったかを知ろうとする。日記にはものの見方が表れる。Aという人の日記を読めば、その人のものの見方の少なくとも片鱗を得ることができて、それに続けて自分の日記を読み直せば、Aさんのものの見方と自分のものの見方が意識の中でミックスされる、あるいはぶつかる、あるいは対照される。そう信じている。ツイッターでも同じだ。知ってる人に自分の発言がfavされたら、その発言をあらためてまじまじと眺めて、あの人はなぜこの発言をfavしたのか推測してみる。知らない人に新しくfollowされたら、その人のホームに飛んで頭から数十postほど読んでみて、なんでこの人は俺をfollowしたのかと思いめぐらせてみる。結局、こうして、僕は人にどう見られているかということを気にする。迎合しようってんじゃない。どう気にされてるかわかったらそれに合わせて変わろうという意図のもとに動いているわけではない。ただそれを知りたいと思う。この日記がどういう読まれ方をしているか、ということは、あなたの意識においてこの日記がどう意味解釈され、表象され、どう現象しているかを擬似的にでも体験したいための問いにほかならない。それは人の目を気にすることというより、結局自分のなしたことをできるだけ広く豊かなパースペクティブをもって眺めてみたいという欲求に発している、という面が確かにある。どこまでもナルシスティックな欲望だ。

20130123Wed1424

ラーメンとカレーライス

私には今お金がないんですけど、そんな中 外食をしたくなって困っている。ラーメン屋(推定)に入ってラーメンを食べたという記述をある人の日記に見つけたせいだ。このように他の人が言ったことをきっかけにして私の日記ははじまる。ことが多い。なにか創造的で独特なものにこの日記が見えるとしても、俺は一番目に声を上げるタイプじゃない。私がするのは問題提起ではなくて問題提起が甘いことに対するツッコミであり、解決策ではなくてそれが解決になってないというツッコミです。性格わるーい。でもこの日記に書くのは僕の身の上話です。お金がない。されど外食がしたい。外食がしたいというのは「うまいものを食べたい」という欲求と重なりをもちます。いや、家で出るご飯もおいしいんだ。だけど商業に乗せるために集客に特化した味付けというものがあるではないですか。

書きかけた日記のことを浴槽の中で私は思い出した。動機は十分、基本線をふまえつつも適度に脱線し、文章表現にも気を使いながら入力を進めていた、すばらしい日記になるのは間違いないと思われた。でも途中でふっとインターネットを見始めたら、書く気なくしちゃった。性格には外食したい気がなくなったのだが今またカレーライスでも食べに行きたい気がむんむんと湧いてまいりましたが遠藤賢司のカレーラーイスーは名曲ですよね。それより僕は早く酒を飲みたいんで、今日は酒を飲むことに決めてるんで、酒飲むと思考力が落ちて日記が書けなくなるんで今は飲めないんで、でも飲みたいのでどぎまぎしつつ和田弘とマヒナスターズの替え歌がテレビから流れてきて気づくと僕は教室の中にいた。目の前にはA4の真っ白な紙があった。そこに人生という名の答案を書き込むのだ。一生かけて。限られたA4のスペースに。そして最後のデザートを笑って食べる君のそばでスマホで2chのまとめブログ読んでるのが僕です。嘘です。僕は2chのまとめブログなんざ読みません。僕は潔白ですがツイッターで誰かが紹介してたときは読みますよねー。誰も期待していないのに真実を断り書きせずにいられない現代の子供です私は。それで思い出したんですが「〜感がある」とか「〜気がする」とかのたぐいを私がなぜ嫌いなのかというと情報伝達において不要だと思っていて、これらの表現は「その情報の確かさに絶対の自信があるわけではない」ことを付け加えることがその機能のすべてだと思っているんですけど、はっきりと確かだと言えることなんか未熟なぼくらの宇宙にはほとんどなくて、もちろん学校までの道筋を説明するのに「○○線に乗って、△△駅で□□線に乗り換える気がします」などと言ったらビックリするけど、教科書ないしそれに類する権威が答えを与えてくれているものを除いてはそれは定説ではないわけだから、そのひと個人の意見になるわけだ。だから裏付けを持たない意見に対しては「気がする」とか「感がある」と言ってそのことを断るわけで、それは心の中に言及するための表現じゃないんだな実は。だいいち私たちはただ事実を気にしているのだからあなたの中でどんな感覚が生起してるかなんて基本どうでもいいですし、嘘ついてない限り(いや嘘をついていてさえも)意見を述べるってことはあなたの内側で生じたなにごとか(つまり意見の形成)を報告してるってことなんですから。なんですからって書いたけどその前後に論理的つながりはないかもしれない。けっきょく私が主張したいこととしては、「〜感がある」とか「〜気がする」ってのは「この意見には裏付けがないので間違ってる可能性が比較的高いですョ」という意味合いしかないんだけど、人々がこれを使いすぎることでただの無意味な装飾に成り下がってるんじゃないか、ってことだ。もうちょっと穿った見方をすれば、こうした装飾を付けておくことで、その意見が間違ってたときに「いやもともと間違ってるかもしれないと思ってたし」とそのショックをやわらげる緩衝材、つまりは自分が傷つかないためにつねに予防線張ってんじゃないのー?貧乏くさーいって思いもあります。まあ発言からこうした要素を根こそぎ取り除くのは僕にとっても容易ではないと思いますけど。ものごとをクリアーカットに伝えられるようになりたいものですね。ってこれは俺の願望だ。

20130121Mon2149

洋弓車窓

〈意味のあることを言えてる〉ってことは、それなりに大事なことのように思われるのだけど、なぜだろうか。たとえば本を読んでいるとき、人の会話を聞いているとき、ツイッターをながし読みしてるとき、「これなんも言えてないんじゃね」と思われて、その発言が価値のないように感じるときがある。「価値がない」と思うだけでなく、〈ムカつく〉という感情の揺れが多くはともなう。なにも言えてないのになにか大層なことを言ったかのように言うやつは、ムカつく。その感情を処理するために、風呂入ってるときにぐちゃぐちゃ思いめぐらせて収まりよくなるように整理するし、くだらないことで腹を立てないために論理学的な武器を準備したりする。

でもなんで許せないんだろう。なんでムカつくんだろう。言葉は本来コミュニケーションのために発達した。だとするならば、意味あることが言えてるかどうかはどうでもいいことだ。あなたとわたしの間で言葉が交わされているという事実があれば、その中身がどうであるか、内容があるのかないのか、は問う必要のないことだ。確かに会話もそれなりの論理に従って進む。「ああああああ」「おおおおおお」で会話が済むわけではない。でも動物はこれに近いことをしているのかもしれないな。それはともかく、会話に論理が求められるときというのは、それが情報伝達を目的としているときだ。情報はすべて(基本的には)事実についての情報だ。そして事実はある秩序をなす。あるいは事実を組織する私たちの認識は秩序をなしている。秩序をなすとは論理に従っているということだ。あるいは論理に従うことで私たちの認識がうまくいくと言ってもいい。とにかく、情報伝達が非論理的であっては困る。「あいつ、昨日コンビニでエロ本立ち読みしてたよ」みたいに、一点の事実のみを述べるだけなら論理の出る幕はないが、「え、でもその時は授業があったはずじゃ」とアリバイが出てきたりすると論理に無関係ではいられなくなる。「いや確かにこの目で見たんだよ」と言い張ってもいいが、「サボったんじゃね」と理由付けするとなおよい。それはその発言によって情報が(この場合は、可能な原因のストックが)増えるからだ。「この目で見た」という強調は、目撃したという証言を改めて繰り返しているに過ぎず、新しい情報を提供しない。それよりは情報を増やして、より確からしいところに辿り着こうとするのがコミュニケーションの一つの機能であるわけだ。で、理由を追加するときにそれが非論理的なものであっては困るわけです。「あいつはそのときは授業があった」に対して「俺はワインは苦手だからなあ」と続けられても、それが何を意味するのかわからない。確かに適当な文脈を読みこめば、どんなつじつまがあわない発言に対しても整合的な解釈を作ることができるのかもしれない。そして程度の差はあれ私たちは日常的にそれを行なっている。だけど、新たに読みこまなきゃならない文脈が多く、しかも呼び出すのが難しい文脈を要求するのであれば、それは質の悪い応答といわねばならない。言語経済的に。

だから論理にのっとって会話を進めるのは、相手にとってやさしくあることだし、その意味で美徳である。というより、文脈を読み込む負担を相手に過剰にかける会話は、たいへんつかれるし、人間はコンピューターではないので次第に会話をする気をなくしていく。この意味では論理的であることはつねに求められることだ。しかし会話において論理的であることと、「意味のあることを言う」というのは同一ではない。たぶん関係はあるけど。ところが、困ったことに、「意味のあることを言う」というのがどういうことなのかよくわからない。積極的な規定がでてこない。はじめに述べたように、個別的な事例で「これなにも言えてねえな」っていうのはあるわけだけど。

20130119Sat17XX

Get Cold

風邪ひいた。3日目。風邪ひいた時のまいりかたは昔と比べてそんなひどくないんだけど、風邪は風邪なのでひたすら寝ていた。風邪は寝て治す、ってことに大学生になってからは定番が決まっている。でもあんまり寝てたら頭痛くなりかけたり挙句人間として必要な本能を失いかけたりしたんですけど、ちょっと夜中奇妙なことになってたので聞いてください。

うまくは表現できないんですけど、そもそも自分が何を思っていたのか自分でもよくわからないままよくわからないことになっていたので表現できるはずもないのですが、布団の上で臥せっていた僕はあるとき、ヴァーチャルな体内における右腕と口の中間あたりを指して「ここが始点になるから――」と思い、血液か吸気かなにかが身体をめぐる全過程を計算しようとしていたのですが、身体の構造がすべて頭に入ってるわけでもない僕がそんなことできるはずもなく、そもそもなぜそんな計算をしようとしていたのかといえば布団の上で臥している僕の環境世界が目眩的に歪んでいたのでありそのありようを順を追って把握することで異常を解消しようとしていたのですが、その企てがなぜかような具体的な形をもって現れたのかは知るすべもありませんし、そんな無茶な計算しようとしたものだから頭がこんがらがって具合がなお悪くなって、それでも考えようとするものだから逃れられないウロボロス的な苦しみを追いかけていました。それから横になって布団に接している脇腹あたりを指して「これが「ふ」の体勢だから――」みたいなことも思っていました。ふって何だよ。腑か。そう思った直後に「ふって何だよ意味わかんねえ」と自分で突っ込んでいたのだけどさらに次いで「もっとちゃんと把握しなくちゃ」と思っていたのでなんかノンストップでだめな感じでした。頭が勝手に考えてた。

こう書いてみて思うんですが言語というのはとても反省的なツールで、当初は昨夜の不条理世界を不条理のまま描写しようと思っていたんですが書いてみると「不条理だ」という視点からしか書けない。そして過剰に説明的になる。説明できないところもむりやり説明しようとする。理性の側に属している。上のも、記憶にきちんと合致してるのは段落全体の10パーセントくらいでしょう。ほとんどフィクション。で、たえず書かれたことを総括しようとするね。言語というか書き言葉はそうだ。どうにかして整合的な内容にまとめようとしちゃうんだよ。

20130119Sat1503

雪が降る

雪。雪が降った。もの惜しみなく。この日記は神奈川県東部からお伝えしているのですが、私の暮らす地域においては雪が降るのは年に数日しかないのですねー。しかも、雪が降るだけで珍しいのに、積もるのはもっと珍しくて、雪だるまが作れるくらい積もるとヒャッホーと天に向けて叫びながら家を飛び出したくなります。なりませんでした。目が覚めたら11時半で、窓から外を覗いたら結露でぼける視界の先にどうやら向かいの屋根に雪が積もっている様子がうかがえました。積もってる! とよろこんでご飯を食べて、大学院の入試を受けるために提出すべき書類を書くのにボールペンが要ることに気づき、買いに外に出ることにした。俺はこの歳になってボールペンを持っていないのかといえば、先日部屋を掃除した時に捨ててしまったのであり、なぜ捨てたのかといえばそのボールペンの具合が悪く一筆書くたびにペン先に細かな糸くずがくっついてスムーズな筆記を邪魔するので辛抱たまらんくて捨てました。で、近所のドラッグストアにボールペンをお求めになられに足を運びました。外に出たら家の中から様子をうかがって想定したのとは規模の異なる降雪がすでに飲み会を始めていたのであり、歩くのが大変で尋常じゃねえなと思いました。10cmはくだらない。日本気象協会によれば、神奈川県東部(横浜)は最大13cmまで積もったようです。ついでに東北地方の状況も見てみたら青森70cmとか出てて度肝を抜かれました。尋常じゃない。こうして価値観をまたひとつ相対化したことがこれから書く内容に影響するかどうかはわかりませんが、私たちの地方にとっては尋常じゃねえ量の雪が降ったために、車道と歩道の境目がわからなくなってたり、車の停止線が見えなくなってへんなとこに停止してたり、雪道でスピード出すの危ないのでみんな速度をセーブして結果渋滞みたいになってたり、そうか歩道に点々と立ってる謎のポールは「このへんが歩道だゾ!」と教えるためにあるのかと気づいたり、ひとつ見える世界が広がって自動車免許とった甲斐もあったななんて、へへっ、思ったりもしました。でも身分証明のためだけに免許とるってのはいいかげん詭弁というかそんな不条理な理由はねぇよなーと思います。だって数十万かかるのだぜ。そんなことを考えずに歩道橋をあがり、雪に顔を突っ込み、欄干に積もってる雪を直接喰って高級なかき氷だ!とよろこび、雪が降る街の写真をスマートホンでとろうとしたら寒さのせいか何度タッチしてもシャッターがおりず、歩道橋をすべりそうになりながら降りて近所のドラッグストアに至りました。私はそこでボールペンを買って、サワー飲みたみが高まっていたので梅チューハイ88円も一緒に買って、近くのセブンイレブンの前で飲んでたら中卒みたいな夫婦が出てきて雪遊びを控えめに始めたんだけど発する言葉がどうやらどうみても東北なまり入ってたので気分は雪国だったんだけど上述の通り雪国は10cmじゃ到底すまないので私の妄想は具体的データのもとにもろくも崩れ去りました。フィクションの世界ではこうゆうのをリアリティの欠如とゆうのだ。それから寒くてウォッカも買いたくなったので近所のスーパー?で奮発してスミノフのウォッカを買いました(コンビニでもよく売ってるギルビーのやつより高い。度数も高い)。お金ないから奮発してる場合じゃないのだが。しかしどう考えてもスミノフは Смирнов だからスミルノフと読むべきだよな。最後に帰りに多少の悪事をなすために足あとのないところをずんずん雪に足突っ込みながら歩いて行って靴も靴下もズボンもぬれてクライマックス。

20130115Tue1343

欲望にみちた空間

「ハウスドルフ空間に住みたい」なるネタについて。いや私の自作です。もとい、ツイッターにおいて多くのネタはなぜ「〜したい」という形を取るのかについて。[補足。ネタというほど狙ったものではないかもしれない。ちょっとした冗談、くらいのものですね] どのようにしてこの冗談が生まれたか、その発生のさまをみてみよう。まずこれは、「ハウスドルフ空間に住む」という形で頭に浮かんでくるとおもわれる。いや、順序と言うよりは、ネタを構成する最小要素として取り出せるということだ。語彙として分解すると「ハウスドルフ空間」という名詞と「住む」という動詞になり、これらをくっつけることで面白みが生まれる。面白くないって? あなたの感覚は正しい。ただ少なくとも、「ハウスドルフ空間に住みたい」と口にしたくなる私の気持ちはわかってほしい。そんなときがあなたにも、あるはずだ。

「ハウスドルフ空間に住む」という句がなぜ面白いのかといえば、ハウスドルフ空間とは数学の概念であって、その中に住むということはできない――少なくとも「一軒家に住む」とか「橋の下に住む」というような通常の意味ではできない。ところが「空間」とあるから、その一般的な意味から考えて、空間はその中にものが位置することができるべきものだ。しかも「ハウスドルフ空間」という特定の空間なのだから、内と外のはっきりしたものだということになり、ますます住めるように思えてくる。ハウスドルフという居住空間。おまけに「ハウス」(Haus、ドイツ語で家)という成分が含まれているから、これで住めないんだったらうそだ――だけど住めない。この矛盾に「ハウスドルフ空間に住む」の可笑しさはある。別にユーモアの解剖をしたいわけじゃないよ。そういうの大好きだけどさ。

とにかくポイントは、ネタの最小単位、というかネタがネタであるための条件は「ハウスドルフ空間+に住む」という一次の組み合わせにすべてが尽くされているのであって、そこに「〜たい」という欲求を示す助動詞をくっつけるのは*論理的にいって*余計であるように見える。なのに多くの人はそれをくっつけてしまうのはなぜなのか?ということ。

仮説1。「ハウスドルフ空間に住む」というのが日本語の文としては不自然であるせい。ドイツ語とかラテン語その他おそらく多数の言語にある動詞の不定形みたいに、この語句はそのままでは使えなくてお湯で戻す必要がある。じじつ、会話の中で終止形を裸で遣って話すことはあまりない。「何してるの?」「ヘーゲルを読む」という会話は奇妙だよね。「あなたは買い物に行く。私は下ごしらえをする」と自分の妻が言ってきたら「えっ?」と思うよね。この不自然さをクリアするために、動詞の語尾になんかくっつけて自然な形にする。そしてその機能を持つものとしてまっさきに出てくるのが「〜たい」という欲求項。

なるほど。しかし、だとしても、なぜ「〜たい」が最初に出てくるのかはまだ謎のままだ。「ハウスドルフ空間に住みたい」という欲求でなくとも、「ハウスドルフ空間に住んでる」(事実)とか、「ハウスドルフ空間に住んではならない」(禁止)とか、「ハウスドルフ空間に住むはずがこんなパチモンつかまされた」(?)とか、選択肢は他にもある。そのなかでなぜ欲求項が好まれるのか。でも、「住むはずがこんなパチモン…」は盛りすぎだよなぁ……汎用性ないし、色つけ過ぎだよなぁ。そう考えると「住んではならない」も意図せざる情報が入りすぎててネタの純粋さを損ねるし……じっさい「住みたい」よりも面白いんだけど。かといって「住んでる」だと嘘つくことになるし。そこで「住みたい」だったら嘘つくことにはならない。まあ住みたくないか住みたいかっていえば住みたいかなぁって気にはなるし……住めないのはわかってるけど。――というようなシンキングタイムを経て、最も無難な選択肢として欲求項が選ばれているのだと思います。

ポイントはさしあたり三点あります。第一に、不可能な事態に対しても欲望することはできる、ということ。「宝くじ1等当たる」であれ「自分の脚が10倍の長さに伸びる」であれ「スーパーマリオのごとく無敵状態になって人混みを蹴散らしながら走り抜ける」であれ、望むことはできる。つまり欲望はどんな事態に対してもかぶせることのできる万能の様相なのですね。第二に、欲求したところで事実にはいっさい影響を与えないということ。私がどんな命題的態度をもっていると表明しようが、嘘ついてるかどうかは私の心のみ知るところです(私の心が私のすべてを把握してるわけでもないですが)。ただし実現可能な欲求についてはちょっと注意が必要です。「飲みに行きたい」と言ったら誰かが誘ってくれるかもしれないし、「中医学を勉強したいんだが……」と言ったら誰かがアドバイスをくれるかもしれません。でも不可能な欲求であれば、それが不可能だということが共有されている限り、それを助けようとする人はいません。つまり、実現不可能な欲求を嘯いているかぎりは、それによって誰かに負担をかける心配もないわけです。そして第三に、実現不可能な欲求を嘯くことで「変な奴」という称号を得られることです。「ふだん変なこと考えてる」ということがステータスになる間柄というのはあって(幻想かもしれません)、これが進むと「マジキチ」と称して重宝がられます(歪んだ見方かもしれません)。いやまあそういう特殊なコミュニティで自分の位置を確保する、ちやほやされる、という目的を除外しても、他の人が欲望しないことを欲望して「自分は人と違う」ということを確かめるのはまぁ、誰しもしますよね……(しますよね? 僕なんかはそういう自意識のカタマリです)。

とまあこんな具合になんでも自分の欲求に引きつけて発言することで角も立たないし自意識を飾るアクセサリーにもなるのでいいことずくめですね。それにはそれなりの理由があるってハナシでした。でも僕はやりません。第一に自己欺瞞的だし、自己欺瞞はなるべくないほうがいい。自分が何を考えてるか、ひゃくパー明瞭に見渡すことはもとよりできませんが、言葉遣いに気をつけることで視界を濁らす異物を取り除いていくことはできると信じてます。うーんでもまあ欲望って果たして自分が欲望してるのかどうかアヤシイ感じもするしなあ。もしかしたら論理的推論みたいに客観的なものなのかもしれないしそういえばそんな趣旨のレポート書いたことがあったな。ま、だいぶ定かでない話だし考えだすとまた横道にそれるので別の可能的機会にってことで。

20130108Tue1352;16Wed1352

新興宗教宗教教

某バイトの募集要件の一つに「プログラミング言語、ないしスクリプト言語ができること」ってのがあって、家に帰ってからスクリプト言語って何かなと携帯からWikipediaを見てるうちにプログラミングとか勉強したいなーって気がまたふつふつとわいてきて、そうだ俺はプログラミングとか計算機科学とかUnicodeとか集合論とか数学とか言語とかそういうのが好きで、あこがれがあるんだけど自分の専門がそのへんに全然かかわってこなさそうなので不幸だ。やっぱ専攻選び間違えたかもしれない……とは思いつつも人間好きなことだけやって飯を食っていくことはできないし、自分の専門にしようとしてるものにもそれなりの愛着はあるし、親戚関係としては遠いけどどこかでつながってるし、何をしたいかよりも何をすべきかじゃないっすか皆さん。すべきって義務って意味ではなくて、使命というか適性というか、縁というか、人にはそれぞれ役目ってのがあると思うんですよぅ。自分だけができるような仕方でこの世界に貢献する、それが自己実現ってやつなんじゃないですか。とか思ってるので僕が狭い意味での分析哲学を専門としないことがまちがいだとは思わないし(哲学者の学説研究だってちゃんと意味はあるんですよ……)、数学科に進まなかったのもそれでよかったのだろうと思っている。自己肯定。

ところで僕が専門にしようとしてる対象には言語も数学も関わってきそうにないですが、宗教にはかかわるんですねー。これは個人的には関心あるテーマであるので、これは拾い物だなと思ってるんですけど、聞いてくれよ今日『時間と出来事』って本を読んでいたんですけど、アウグスティヌスの時間論の紹介と批判のとこを読んでいたんですけど、こんな文に出くわしまして:「[…]したがってこうした不合理な物語を擁護するアウグスティヌスの説明が、これまた理論的な説得力を欠くのは無理からぬことかもしれない。だがそれを受容できるのは信の立場であっても、知の立場ではない。」(190ページ)ここで「不合理な物語」とは創世記で神が六日目にこの世界を創った、と同時に時間も創ったのだが、時間ができる前に五日目とか六日目とか数えてるのはおかしくね?っていう意味です。で、それを擁護するアウグスティヌスの言い草が「理論的な説得力を欠く」のはいいんですが、「それを受容できるのは信の立場であっても、知の立場ではない」ってのがなんとも突き放した感じで、信/知というわかりやすいけど雑なレッテル貼りもいやな感じだし、宗教は不合理なことを信じてる不合理な人の集団とでも言わんばかりで(いや、読み込みすぎだけど)、東大の人はやたら「知」って強調したがるようですね?と嫌味を言いたくなる。言いたくなった。ごめんなさいあてつけですね。でもなんか宗教っつうと事実無根な教理があって、それをなぜか受け入れてる、正しいと思い込んでるってぐらいの意味合いでしか信仰を理解してない人が多い印象があって、もしそうだったらやだなあと思います。ぼくも昔キリスト教関係の人に「自分は相対主義者かつ唯物論者だから宗教とか信じられません」みたいなメール送って勧誘を断ったことがありますけど、相対主義でも唯物論でも宗教を信じるにさほど妨げにならないというか、信仰は(あんまり突き詰めなければ)自分の考えてることを180度変えるようなものではないし、「突き詰める」ってのもそんなに簡単にできるもんじゃない。それに今考えたら唯物論のほうが宗教よりよっぽど頑固だよな。てか「宗教」ってくくりがあんまりバクゼンすぎて使い物にならんのですが。困りますね。「音楽は」なんてくくりで何かが語られることはそうそうないのに、宗教に関してはそれが常になってる。「キリスト教は」なんてのは音楽では「ロックは」みたいなレベルに相当するかなって感じですけど、それでもだいぶ思弁的だよな。そういえば似たような話で思い出したので書くけど、菜食主義をみょーに攻撃する人がたまにいますが、あれも何なんだろう意味わからんって思いますね。菜食主義者がわれわれの肉食の習慣を脅かすわけでもなかろうに。われわれがデフォルトで習慣にしているところのものがすなわち正しいことであり、すなわち正義であり、それからはみ出るものは悪であり排除すべきだとでも思っているのでしょうか。ていうかまあ菜食主義を一日でも実践したことがないくせに「肉食の方がいい」とか言うのは正直相手にする価値ないよなー。たんに変化を恐れるという人間の一般的な癖を出してるだけだから。自分と違う基準で生きてる人がいるのが怖いから攻撃して、攻撃を正当化するために自分が正常だ、健全だとかいう価値を持ち出すんだろうと思って見てます。で、すいませんさっきの本への批判というか文句に戻るんですが、『時間と出来事』の渡辺さんは次のようにも言っていて:「もっとも、アウグスティヌスが神の創造物を蔑ろにしているかどうかは、異教徒というよりは「いい加減な無神論者」である私には話の辻褄が合わないという以外には、どうでもよいことである。」(197ページ)ってんですがアウグスティヌスが言ってることと聖書の内容が噛み合わないのが時間論と関係ないのはいいんですが、「いい加減な無神論者」なんて若干気の利いた自称を気取って使ってる渡辺さんが許せない。自分がいい加減だってことをこう誇らしげに使うなよ。どうでもいいならどうでもいいということだけ言っておけばよいのであって、無神論者アピールなどいらねーよ。なんか自分が信仰を持たないことが知的に優れていることになると思ってるかどうかはわかりませんけど(それはだいぶ読み込みすぎのきらいがありますけど)、どうにも「信仰=不条理」という等式でしか宗教を捉えてない匂いがしてたいへん不満であります。いや時間論の本に宗教への深い理解を求めるのもお門違いかもしれんけど、こういう見方はいい大学行ってるいわゆる頭のいい人にも見られるんだなっていうか、知的ヒエラルキー?において上層の人がむしろもちやすい考えなのかもしれんな。といって僕自身が宗教への深い理解があるのかっていうとまだまだないんですが、知らないことについてあたかも知ってるかのごとくふるまうのはやめてもらいたい!あなたの持ってるのは乱暴な図式にすぎない。

とか書いてる僕の語調にむしろ宗教臭い熱を感じるゾ!ってオチでしょうか。やだなー。でも偏見があるならそれをそのままにしとくのは損だと思うんですよねー。住み分けができてるのはいいことなのかもしれないけど。

20130111Fri2221

音楽について語ることの難しさとか

について語ろうと思う。話題はなんでもいいなにか書きたいんだ。ちゅうわけで。音楽について語ることがなぜ難しいのかというと、「トモフスキーの「脳」ですねーわたし調子悪いときにこれ聞いて泣きましたー」と語ることが読み手にとって「そっすか」以上の反応を通常換気しえないことにその根っこがあるんです。特定の反応を引き起こすことが「いい音楽」の必要十分条件だということはない――たとえばそれがいかにいい音楽だとしても電気グルーヴの曲を聞いて涙することはふつうない。電気グルーヴのいい曲を聞いて引き起こされる反応はたとえば体が自然に動くということが挙げられるかもしれない。ならば、きいてて自然に涙がでるか、さもなくば体が自然に動くような音楽がすなわちいい音楽なんじゃないのか? いやいや、ぼくはムーンライダーズの「夏の日のオーガズム」が好きなのだがそれを聞いてて泣いたことはないし体が動くわけでもない、さあこれをどう説明する! ――という具合に、「よい音楽」とされるものを列挙して、それが引き起こす反応を取り出してそれらをすべて選言でつないだものが「いい音楽」の必要十分条件になるかっていえば、マァなるはなるかもしれないけど終わらない作業だしそもそも考えたいのはそういうことじゃなくて、じゃあトモフスキーの「脳」がよい音楽の類型に当てはまると述語づけることで何が理解されたことになるのかって話で、「あの映画いいよー泣けたよー」ってのは一定の賞賛にはなるんだけどそれが示しているのはせいぜいそれが「泣けるタイプのいい映画」だってことであってそれ以上のことを言わない、トモフスキーの「脳」が泣けるタイプのいい音楽だということが伝わったとしてもじゃあ別にこの曲でなくても泣けるいい音楽は世の中にたくさんあるじゃん?って話になっていや俺はトモフスキーの「脳」のよさを語りたかったはずなのに代わりはいくらでもいるなんて言われてそういう有用性のフレームにおいてものを考えることがすべての堕落のはじまりですよ。

すなわち俺がしたいのは「なにか泣けるいい音楽なぁい?」と訊ねられた折に提案するためのストックを貯めこみたいのではなくて、まあ結局泣ける音楽なんてのは世の中にゴマンとあるわけで僕はピチカート・ファイヴを聞いても筋肉少女帯を聞いてもトライセラトップスを聞いても泣きますのでほら、その上でトモフスキーの「脳」は泣けた!すばらしかったと聞かされても「そうかぁこの人はトモフスキー聞いて泣くんだなぁ」くらいの感想しか浮かばないっしょ。泣けるってのは雑なラベリングの一つでしかないんですョ。

ならばいま一つの道があって、それはすなわち音楽評論をやるってことなのですが、だいいち僕はその能力がない。余裕もない時間もない音楽の教養もなくて能力がないってのはわかったけど、たとえばそれはその音楽が歴史的にどう位置づけられて、いやそんな大げさな話ではなくてここ十年間の日本のポップスのどういう流れにおいて出てきたかとかいう話をして、あるいはその音楽のどういう部分がどう新しいのかを指摘し論証するようなあれであって、つまりその音楽の独自性を誰にでもわかるように伝えるって趣旨での評論なのですが、それは難しいよねぇ。というより難しいという以上にそれも自分の求めてることと若干のずれがあるように見えてて、見えてたんだけど結局自分には難しいつって避けてただけかもしれない。それができるならそうしてたんだ。だけど難しい。第一にそれには時間がいる。知識を蓄える時間も書きたいことをまとめる時間も実際に書いてみる時間も、それはツイート一本分にかける時間ではとうてい無理だ。芸術を語るのは誰にでもできることじゃないんだ……、僕らはピカソのキュビズムの絵を「わけわかんない絵」と称し、自分には無縁のものとして遠ざける一方で、ポピュラーミュージックに対しては親しんだ上でこれが良いとかまずいとか評するわけですが、どうせいいとかわるいとかそういうレベルでしか評しえてないじゃないか。結局そこにあるのは「その芸術のよさを判断できる」という思い込みがあるかないかの違いでしかないのじゃあないだろうか?

いや、でも、ポピュラーミュージックに対して僕が「その芸術のよさを判断できる」と思ってるのが思い込みに過ぎないなんてのはやっぱり卑屈になりすぎだ。僕は音楽をそれなりの時間をかけて(もちろん上には上がいるし僕は「上には上がいる」と言うレベルにさえきていないけど)、それなりに選んで聞いてきたし、自分の好みに従って聞くことでよい音楽を手にする確率も高くなってきた。このさい「楡が判断できているのは「よい音楽」ではなく「自分の好みにあった音楽」にすぎないのではないか?」というツッコミはナシね。少なくとも「自分にとってよい音楽」は判断できているのだから、あとはそれがどこまで他人と共有できるかどうかだ。で、僕が音楽のよしあしを判断できているというなら、どこがよいか、わるいかを語れるまでにはあと一歩だと思うのよ。一歩といってもだいぶむりしないと踏み出せない幅の広い一歩かもしれないけど。

ひとつ懸念しているのは、音楽の鑑賞には、世の中にあるたいがいの問題と同様に主体と客体の両面がつきまとっていて、スピーカーの中で鳴ってる音楽と、それを聞いてる自分の中で展開されているなにかとは分けて考えられるしそうせざるを得ない。するとミスチルの音楽はメロディや歌やアレンジや演奏がいいというのは音楽そのものの側に属するvirtueなんだけど、僕にできるのはせいぜい「この曲は演奏が良い!」せいぜい「ベースがかっこいい」と断言する程度にとどまるわけで、そのレベルを踏み越えるには僕は評論家にならなくてはならない。むしろ僕がしたいのは、音楽を聞いている主体のうちで展開される何かを記述したいんだけど、そのためには僕は詩人にならなくてはならない。評論家になるのも詩人になるのも寝て起きて食べて寝る僕のままではできない。結局、ポピュラー音楽といえど芸術の一種であって、俗人が手軽にうんぬんできるものじゃあないんだよ、ってのが納得かなあ。

20130107Mon1509

みなさん、あけおめ〜

明けました。初日は半日テレビばかり見ていました。ふだん「テレビ見ないんで」と吹聴してるわりには正月は面白い番組がいっぱいやってるなぁ〜君はTVっ子、僕はTVっ子。ちょっとだけ勉強してから自転車で川崎まで行きました。ふだんバス使ってて自転車で行くの初めてだったけど、意外といけた。でも久しぶりに自転車とばしたら左腿が痛くなった。ここにも体の歪みが見てとれますね。うふッ。ちかごろ体の歪みを矯正すべく右ですることを左でしてみたり、左でしてることを右でするよう意識してるんですけど、にもかかわらず左脚をふだん使っていないことが浮き彫りになりました。いや、むしろ左脚を使いすぎて痛くなってる可能性もあるぞ。本屋ではいろいろ見たんですが本屋は欲しい物を探すのにいい施設ですよね。図書館でもいいけど。自分が考えたいことはなんなのか、自分はなにに関心があるのかを、ほんの背表紙が言い当ててくれる、こともある。昨日もブックオフに行っていたんですが言語学の仕切りの中に目をさらしていたら『媒介言語論を学ぶ人のために』というのが見つかって、ラテン語とかエスペラントとか現代なら英語とか、ああいうのにぼんやり興味があったんですがそっか媒介言語というのかー。でも媒介言語を取り扱ってる資料は書籍レベルだとあれくらいしか見当たらないです。まぁなんでも出会いってことで(何が?)。でまあ上記のような意識でもって気になるコトバが指標されている棚をざくざく見ていったらなぜかロシア語の教材が充実してることを発見して、おおーと思いながら見たりしました。アマゾンじゃ見つからない本がたくさん出てくるから本屋はいいなあ。中身見放題だし。それで帰って夕飯たべてテレビ見てたらなんとなく気持ちよかったのでこたつで寝た。かように僕はほっとくと本なんか一ページも読まずに一日を終えてしまうのでなんで今大学院受験の準備なんかしてんのかなあと思うしいろんな人の一年の振り返り見ると今年は本があんま読めなかったファックとか書いてあるんだけどそんじゃあそんじゃあ今年は本が読めなかったなあとさえ思わなかった僕はいったいハウマッチファックなのだろうと思ったりもしました。

以下、今年の目標。マンガを描けるようになる。俳句をつくる。詩を読む。哲学書をいろいろ読む。アラビア語の勉強する。どっか海外行く。バイトする。人と仲良くなる。なにか踊りをひとつ覚える。自分の意見をどんどん言うようにする。洋書をいっこ読み通す。英語の発音を正しくできるようにする。

20130101Tue2229