おまたせ、2012年12月のログだよ


連続・棚卸しチャンピオン

あんまり書くネタが無ぇんで一年の振り返りでもやろうかと思います。いや書くことがなければ「書くことがない」というネタで書くまでだし一年という恣意的な区切りでなんかやろうというのも非本質的で美しくないし振り返ってなにかいいことがあるようにも見えないのですが、やります。ちなみに昨年のやつはこれ。はてなからタグ打ち手作りホームページに戻ったのもようやく今年の 5 月の話なのね。考えてみると一年前なんか遥か無限遠にあるような気がいたします。半年ぐらいの周期で振り返ったほうが時機としては適当なんじゃないかという気がするが、これは4,5年前にも考えていたな。

【1〜3月】恋愛感情と現実がもつれてわりと大変なことになってた時期。大学が休みになって人と会う機会が減ってなおさら精神的にあれなことになってた時期。のろのろと就活というものをはじめ、必然的に自分の働くことへの適性について意識したり、実際に会社説明会とやらに足を運んでみたりしてあんまし楽しい時期ではなかった。就活は学校が始まるとともにやめてしまった。というわけで悩みが重くてこの頃の日記は面白いと思います。好きだった人に事実上フられて発狂してからの展開がお気に入り。最近は「死にたい」も無気力もなく、この頃から考えるとそうとう落ち着いてるが、そのかわり「しなければならぬ」という強迫観念じみたものもなくしたな。いま切実に思ってることとしては、性行為がしたいっていうか性行為に縁のある人間になりたいけど、目下望みなさすぎるので諦念モードです。

【4〜6月】大学に新入生が入ってきて環境が変わる。影響ある上級生が卒業して環境が変わる。ぼくは酒を飲んでゲロを吐いていた。でも当時よりも自己管理ゆるくなってるよ今は。周りの目気にしなくなった=自分を出せるようになった、と言っちゃポジティヴだけど、それにしちゃ半端。二月あたりに(事実上)フられたショックをまだ引きずっていて、博愛にシフトしようとしたり幸福をバラ撒こうとしたりしていた。大学の司書課程をとって、月〜金まですべて 1 限から授業がある時間割を組むというディシプリンを設けてた。これは悪くない方策だったと思う。規則的な生活、毎日午前中に起きる生活ってのはいいし、寝る時間も午前 1 時より前にとどめられていた。このころ正式にフられる。毎度思うが俺は恋愛についてだらだらやりすぎるのだろう。告白までに一年以上かかってるし。

【7〜9月】短期バイトにひたすら従事していた印象がやっぱ強いな。夏休み中はデフォルト週 6 出勤という鬼シフトのもとにあったし(とはいえ 4.5h/day 程度ですが)。飲食系の仕事がそもそも初めてだったので修行のつもりでやってた。バイト先の人たちにはとてもよくしてもらったので、今は「いい思い出」として格納されてるけど。月並みだが、大変だったけど楽しかった、というのが感想かもしれない。その合い間を縫って(合間を縫うようなスケジュールにするつもりはなかったが)、人を誘って出掛けたりした。あと、ある人から意外なことを言われて意外に思ったりした(表現ぼかしてる)。まあ、なんか、ストレートにものを言えないような羽目には陥りたくないですわな。どんなときでもね。このころタバコをちょっとずつ吸いはじめる。とくべつ理由はなくて、タバコをくわえてみたかったので一箱買ったのがきっかけ。あと八月末に坊主刈りにした。これもとくべつ理由はない(周囲にはいろいろ推測させてしまったが、ほんとにない)。髪はそっから伸ばしっぱなしだけど、まだまだ短い。

【10〜12月】3月に登録して以来まことにしまりなく通っていた自動車学校の期限が迫り、焦る。俺車の運転向いてねーと乗るたび実感するので行きたくなかった、できるなら通うのやめたかったけどお金返してもらえるわけじゃないんで仕方なくけなげに通い続けた。結局期限半月前くらいに卒業、免許取得。公安委員会にはもうお世話になりたくねぇよぅ。奴らは応対の仕方が特殊だ。それからバイトに押されて取りかかれなかった卒論にようやく取り掛かる。一度の徹夜もなく、死ぬ思いをすることもなく、それなりにがんばってやや危なげに期限当日の朝に提出したけど、出したからなにか感慨ってこともなし。でも 2 万字いくら書いてみると、ふつうのレポートならちょちょいのちょいで書ける気がしてくるのでもうちょい早い段階、 2 年生くらいで論文の課題を出したらどうかなとか思います。いや過剰な自信なのかもしれんよそれは。あとは、ストレートにものを言えないような羽目に陥ったあげく、気にかけてた人が何人か離れていってしまうなど。だからってんではないが俺はコミュニケーションの方法を身につけたほうがいいな。そう、つい先日も思った。でなんかいろいろあったりなかったりしたあげく年末あたりの私はやたらアマゾンで面白い本を探したりインターネットでいやらしい動画を探したりしてる時間が長かった気がします。しますね。

ここまで、ぱらぱらと自分の過去の日記など眺めつつ書いてきたんだけど、いつの日記も面白いんじゃんね?という気がした。ただまあ悩みが重い時期以外のものは、誰かの発言に触発されていろいろ考えてみたって主旨のものが多くて、自分の生活がどうって話がないので、いわば文学的な面白さはないかもね。面白さってまあ書いてる本人にとって面白いってだけですが。

まあそんな感じかなあ。来年の抱負は来年になってから考えてもいいですが、もうちょっとこう楽しい感じになりたいっちゅうかなろうと思います。

20121230Sun0255

とんこつヤンキー

レッツゴー楡。いや、この日記を書く準備を整えたら無意識とこのフレーズが浮かんできたもので、レッツゴー楡です。よろしくお願いします。かるく掻いただけなのに左足の親指の付け根あたりから血がにじむ昨今、いかがお過ごしでしょうか。私もバイトやりたいです。バイトやりたい、やらなくちゃと思いつつ「バイト探しは○○」の○○に当てはまるようなたぐいのウェブサービスにアクセスするということを一切していません。アクセスしようかなと思うことは何度かしています。道を歩いていてバイト募集の貼り紙を二度見するくらいが関の山です。クリスマスなので関の山に登っておのおの思うところを叫びましょう。俺は聖書でも読んでますわ。思うのだけど、彼女彼氏いない人たちがクリスマスという単語に過剰反応するのはまさしく過剰反応というか、身をよせあう相手がいないことにクリスマスの到来によってはじめて気がついたとしたらその人はとんでもない盆暗であって、私たちの大半はそんなイベントがなくても年中、電車に乗ってるときとか朝起きたときとか授業受けてるときとかいろんなタイミングであるべきものの不在を意識してるわけで、なんか最近高校の同級生のあの子のことが思い出されるのはまったく関係ありませんが今思うと彼女は小さくてかわいかった。でまあ何が言いたいかといえばクリスマスだからと言ってクリスマスだ地獄の到来だィヤッホー!と騒ぐのはつまり何かにかこつけて騒ぎたいって意識が先に来てるんであってみんなで話題と感情を共有して仲間をクラスタを作ろうというオルグ精神に満ちた制度的欺瞞、ようは方便だと思うのでコスモポリタンを標榜する私としてはわき目もふらずひたすら聖書でも読んでようかと思います。あと論理学の勉強を進める。

ところで近頃ツイッター開いても何も思い浮かばず、おれのクリエイティヴィティは死んでしまったのかと慨嘆する毎日でありますがそれもそのはず、最近の楡は家に引きこもっていかがわしい動画を収集する隠居的時間の潰し方に従事しておりまして、そうでなければ勉強してるかツイッター見てるかツイッター見ててもなにも浮かばねえ……死……と思う回数が増えるわけですが奇想がないのですよね。休日に朝起きて食事してるときなんかに意味不明なフレーズが浮かんだりするんですが、そういう刹那が少なくなった。もっと意味わかんないこと書きたい。もっと意味わかんないこと思いたい。よのなかには頭のおかしい人でありたい人たちというのがいて、気が狂ってることに価値があるというかカリスマ的な魅力を見出しているのかもしれませんが僕はあれだ、面白がられたいんだよ。面白がってくれる人がいないと思ったら変なこと口にしたり変なことしたりしないもの。

なんで面白いこと思い浮かばないのかわからんけど最近はというか近年漸進的に自分が傷つかない精神的環境を構築しつつあるのが関係あんのかなという気がする。追い詰められてないってゆー。無意味に心に負担をかける必要はないけど、まだまだ傷つく余地はある。私はギャグマンガ家ではないので面白いこと浮かばなくてさしあたり困ることはないから、しばらく様子見だけど、もうちょっと窮地に立ってみてもよいかと。

20121224Mon0047

あぶりはちまき

言いたいことがあるのかないのか、ないのかあるのか、人より少ないのかなーと思いつつ萎縮してるだけかなーと思いつつ、発言数が異様に少ない私ですが日記を書きます。「○○な私」という言い回しは読み手をいらいらさせると本多勝一が書いていましたが特にこの言い回しを使うことがイケてると僕が思ってるわけじゃないので反省しません。まあ上等な表現でないとは思うけどね。

女の子に興味があるとかナメたことTwitterのプロフィールに書いたんですが、なんつか汝が興味あるのは女の子ではない、かわいい女の子だ、いやかわいい女の子ですらない、単に“かわいいもの”なのだ……って感じだし私自身もかわいいものを身につけたいものだしあわよくば「私はかわいい人といわれたい」ってくらいですが、私にとって「かわいい」は真実を覆い隠すのですよ。僕にとって多くのものがかわいいし、目に映る大半のものがそうだとまで言うつもりはないけど、しかし一日生きているうえであまりに多くのかわいいものを目にしている。いや、主に外を歩いているときか電車の中か大学の中で好みの容姿の女の子を目にしては「かわいいなあ」とコメントをつける条件反射を繰り返してるって域を出てないのです。俺はパブロフの犬さ。問題はそこであって、「かわいい」判定があまりに自動化してるんですよね。「こういうのがかわいい」という類型を自分の中にもってて、それにあてはまる対象を検知すると「かわいい」と出力する関数なのさ、ぼくは。なんかね、やたらめったら「かわいい」と思いたがってるのよ。もちろんそれは気持ちのいいことだから、そのかぎりでは歓迎すべきことでさえある。でも欲求のフィルターを通してものを見れば像はゆがむ。僕にとって「かわいい」とは相手を都合のいい類型に封じ込めて、手のひらに収まる(かの)ように感じさせる方略なのですよ。つまり風景には僕があらかじめ見てきたものが投影されてるだけで、追いかけても追いかけても認識からはみ出ていく他者みたいなのは影もない。こうして「かわいい」に包まれてる僕は実相をみていない。外界を記号的に処理し、体内で輝く快楽を生み出す機械なのさぼくは。視覚だけで外界と一方通行的に干渉し、取り入れたものをつごうのいい栄養に変えて消費し続ける閉じた生態系なのさ、ぼくはー。女の子の顔も、脚の太さも、服装も前歯もぜんぶ記号であって、その情報はアルゴリズムにのり、すべて「かわいい」にすべりおちる。そういうザルな機構が僕の中に巣食っているので、ものごとを冷静にありのままに公平に見ることなどできるわけがありません。かわいいと思いたがってるんだよ。でもかわいいと思ってるうちは結局そいつに人ではなくモノに対する態度をとってるに他なりません。お人形さんかよくて動物くらいの地位しか与えてないですね。余談ですけどある種のかわいい女の子は動物みたいな顔つきをしていますね。だから言ってやるがいい、「動物みたいでかわいい」って。結局かわいいの本質はそういう暴力性にあるんじゃねーかなーと思っています。「自分でも支配できそう」と思わせるのはひとつの戦略ですね。それはまあおいとくとして、まあ言うなれば誰かをかわいいと思っているうちはほんとの意味でのコミュニケーションなんてできそうにないんだけど、他者としてきちんと向き合ったうえでその人がほんとにかわいいなあと思える場面があるとしたら人間としてひとつステップ上がったなって気がするのでしょうね。

20121222Sat0100

モンゴリアンダストシュート

Macbook を導入したはいいんですが何かと旧パソコンのほうが便利で(主にカーソル操作が……トラックポイント偉大……ついでに言うと Lenovo より IBM 社の作った ThinkPad を使ってみたかったな……いや単にブランドイメージから言ってるんだけど……)、また引き継ぎきれてない作業もある(特に仕事とか関係ないたぐいの)ので、そうそうそれからなによりこの MacBook 、イヤホンつなぐとバカみたいな音量で鳴らしてくるので、いやこれサウンドぎりぎりまで絞ってるんですよ……システム上で音絞ったうえに、プレイヤーの設定でもなお絞りに絞ってるのに「ちょっとでかいな」と感じるくらいまでしか小さくならぬ。意味分かんないけどとにかくこれが解決しないうちはおちおちいかがわしい動画どころかユーチューブで愉快な映像を見ることすら安心してできませんので平面+時間+音声の 4 次元コンテンツを楽しむ 21 世紀型ネットユーザーの端くれたる私としては最早マックブゥック様は観賞用運ぶ用愛でる用のインテリアと堕しております。そういや昔某通信添削の答案で「堕する」とゆう表現を使ったところ「堕落する」に修正されてたんですが、あれは採点者が無知だったのか何かもっともな理由があるのか採点者が眠かったのか、今でも折にふれて気になるところではあります。でまあ頑張って環境を構築してばっちりマックに移行しようと思ってたんですが技術的なことは未だに難しくて、パソコンはそうとうユーザー☆フレンドリーになったはずだし僕はパソコン歴 10 年以上ありますし(単純に期間を述べるなら)、インターネットにはかつてとは比べ物にならない情報が蓄積されてきている筈なんですが、思い浮かんだ言葉をグーグルにぶち込めばあなたが困ってる問題を自動的に解決するガイドラインが検索結果一ページ目以内に出てくるみたいな未来にぼくらはまだ来てないらしくてまぁそうかんたんにはいきませんね。なんかうまくいかないので血迷って現実逃避兼ねて Linux 入れようとして、しばし格闘してみるもパーティション? BIOS? とかよくわからなくなってそういや論理学も現実逃避で勉強してたんですが俺はそうした情報科学系が好きなのかっていうかあこがれがあるんでしょうね。論理学、数学、言語学。哲学科は哲学が好きだから入ったんじゃなくて哲学を学べば「人生の意味」とか「価値観は人それぞれ」みたいな無益な問いを一掃できるんじゃないかと思いました。だから日常言語学派にシンパシーを覚えたのはもっともなことだったし『論理哲学論考』をブックオフで開いてビビっときたのは正しかったしあれも論理学・数学・言語学じみてるよね。なんつうか。そんなこんなで未だに浪人中に手に入れた ThinkPad R61e (って“ここ”に型番載ってたのか……今気づいた)を使い続けてるわけですが、うちのこの永久培養なるゴミはハードディスクのローカルにファイルを置いて FTP を通じて(このへんよくわかってない)サーバにアップロードされてますので、つまりあなたが見ているページの元のやつは僕のパソコンのデスクトップからアクセスできるのですけども、これを先にマックブーックに移行してアップロード環境も用意したのでこの旧パソから更新することはできないによって最も手軽なテキストの共有手段として Gmail の下書きにこのテキストを書きつけてあとでマクブク側でコピペして更新しようった非常に暗澹たるというか貧しい現状が、そこにはあるわけですけども。いやべつに貧しくはないんで、近年急速にわたしの情報環境もクラウド化したっていうかEvernoteにDropboxでメールもGmailだから、ローカルにものを保存しておくってことがとても少なくなった感はありますねー。少なくなった感ある。げほっ。Twitterで流行ってる言い回しがだめだめだなーと思うのはそれが結局のところ虚飾の域を出ないってことで、 2ch のスラングにはそれが生まれる日本語内的必然性があったというか言い表しづらい機敏を一語でぴったり表現してくれる言葉が多かったと思うんですよね。2ch発のスラングは大げさに言えば新しい語彙の発明で、いずれ辞書に載せてもいいものなのよ。ところが Twitter ってなぁ結局ミニブログでなく SNS としてこれが括られてるのは正確な判断なんでしょうね、そこで流行ってるのは純然たる流行り言葉というか、コミュニケーションを行うことそのもののために新しい語尾や構文を発明するってのがほとんどですね。あ、俺の世間が狭いのか……(フォロー数 100 未満)。まあでも同じ言語を遣うことで仲間意識を高めようってのはよくある、かつ効果的な戦略だし、ツイッターは SNS なので「クラスタ」なる小集団でそれが共有されてたりしますか、しませんか。このへん「クラスタ」が孤立的に存在してるわけじゃなくて互いに重なり合ってたり、あと実社会における集団とかぶってたり、RTの仕組みによってより大きなよりゆるいつながりが設けられたりしてるので、そう単純化できる話じゃもとよりないですが。しかし「クラスタ」ってのは「クラスター」と表記しないあたり技術者系の空気が名残ってるなあと思うんですが、これも最近「勢」というなんか野蛮な響きのする言葉に置き換えられつつある様ですね。別に悪いことではないけど、野蛮だなあって。まあそれでよいのでしょう。私たちが日常話してる言葉とはつまり野蛮な言葉なのだから。それだけネットで発信することが普通のことになったってこったっしょう。いや、うん、例によって実例を見ないで印象だけで書いてるのでいろいろ間違ってるな。少なくとも雑だな。そういや 2ch スラングの辞典はいくつか存在しますが、 Twitter のそれはないんすかね。そういうのあると実例収集しなくて済むんだけど。流行り廃りが激しいから情報を統合・蓄積するまでもないってのは一つありましょうが、流行り廃ってゆくということは残るほどの汎用性がない、内実に乏しいことばなんじゃないかとも思うな。「〜感ある」の語義?解説を書くとして、いったいなにが書けるとゆうのか。「説明しづらいけど微妙なニュアンスの違いがあるんだよ」とゆう人は、説明できないのに違いがある、その根拠がどこに求められるか考えてみるがいい。その表現をどういうときに使うかという、使い分けは最低限ないといけませんね。でも「〜感ある」を使うべき場面/使うべきでない場面の区別はおそらくないので、これは反証可能性のないエセ科学みたいに、不適格になる文脈が存在しないエセ言語とするべきでしょう。

なんか途中からは特に悪意とかない穏やかな心で分析してましたけど、にしても「最近のネット」に対する僕の姿勢はいつも、ほんといつもトゲトゲしいな。これはもう日記サイト始めた頃からそうで、「最近の若者は……」ってつぶやく若者の役をずっとやってるのでしょ。客観的に見れば、半分くらいは「あいつら集まって盛り上がっててうぜえ」という潜在的意識が私を駆り立ててるのでしょーが。しかし最後のようにゆっちゃうと僕自身も困るのだよな……、「説明しづらいけど違う」と言いたくなるような表現ばっか使ってるから。「ベイビー」と「ベイビィ」の違いとか、全角カナと半角カナの違いとか、ま、いろいろ。「まあ」と「まぁ」とか。いや実際気分で選んでるのがほとんどですがね。一回こういう微妙な使い分けについてテッテー的に議論してみると面白いかもね。

20121215Sat2217

謁見えくぼ

ある種の人たちは、社会に流通している価値と自分の抱える価値観とを混同しているように見える。価値の内面化だ。いや、社会に流通している価値を実現することで本人が必ずしも幸せになっているわけではないから、ほんとうには内面化できていないと言うべきかもしれない。社会に流通している価値とは、ひとつには社会的正義であり、倫理学において探求されるところの善だ――というよりはむしろ、美徳とされること、と言ったほうが近いかもしれない。人を殺してはいけないとか、ものを盗んではいけないなんてのはベーシックであって、頼まれごとは確実に遂行する、達成できなそうな頼みごとはきちんと断る、セクシュアルマイノリティに差別意識を持たない、金銭の交換価値を金銭それ自身の価値と取り違えない、云々云々。これらに共通する要素があるかどうかは重要ではない。ただ少なくともこれらを美徳とする人たちが少なからずいるということは、――いや美徳というオプション的なものではなく、それが常識となるべきだと考える人たちも含めて――事実としてよいだろう。でもそれは僕自身のあなた自身の価値観なのだろうか。社会的美徳と自分の価値観との関係は微妙だ。社会の成員は、自分の価値観を社会的美徳に一致させるように努力すべきかもしれない。女性差別的な自分を見つけたら、それを矯正しようとする、というふうに。まぁ差別って言葉の使いかたもたいがいだし、はたして男性が女性を下に見てるとか女性上位時代とか言ってみたところでそれが何を意味しているのかは文脈と事実を見てみるしかないってのはどんな話にも言えることではありますが――つまりまわりくどい仕方で「俺は女性蔑視者ではない」と言おうとしてるわけですが、まぁいいや、別になにがあったというわけでもないので。差別主義的であるとは思いますよ(繰り返し)(誰にともなく)。さて、自分の価値観を社会的美徳にすり合わせるということが可能なら、少なくとも両者は別々のものとして認識されていることにはなるだろう。とかいう地道な論理的作業は措いても、いったい私たちの価値観はけっきょくいろんな他者の価値観をまぜこぜに内面化してできてるわけで、言ってみりゃ自分オリジナルの価値観などどこにもないか、よくても小さじ一杯ほどがかろうじて残る程度だと思うのですけども、それにしたって社会的美徳と自分の価値観とは分けて考えられると思うんだわ。つまり社会的美徳とは「そうすべき」を規定するものであり、自分の価値観は「そうすると気持ちいい」を規定するものだ。さしあたり。僕がチョコレートを食べてていい気持ちになるのは別に目指すべき人間像とは関係がない。相手を必要以上に傷つけないコミュニケーションのためにはどうすればいいかは確かに頭を悩ます問題ではあるが、べつにそうしたいというポジティヴな気持ちからそれを求めるわけではない。自分が幸福であるために第一次的に求めるべきものは、価値観のほうだ。社会的美徳ではない。社会的美徳は、それをみんなが実現することが善であるもんだから、個人の価値観に寄生してそこに内面化されようとする。でもそれを内面化し切っている人などまれだから、そいつの命令どおりふるまっても満足が得られない、どこか空振りな感じがするのだよ。いや、人間として成長することにはチョコレートを食ったのでは得られない満足感が伴うので、それを否定するわけではないが、それだって成長の満足感であって、社会的美徳と個人の価値観がイコールでつながれてるわけじゃあない。つまり言いたいのは、自分が何をしたいか?ってのを見極めるのはけっこう難しいってことで、視界には「したいこと」の他に「すべきこと」とか「したいことになってほしいこと」とか「するとかっこいいこと」とかがうようよ浮かんでるのだ。

20121210Mon2133

ぢゃっくをらんたん

最近は自動車の普通免許を手に入れたり、酒を飲んでゲロを吐いたりしていました。……。免許の試験場は都市部からやや離れたところにあって、そうした地域において女子高校生の容姿はかわいいものであると信じます。にふぉんごがおかしい。ぶっちゃけ田舎臭いほうが好きですね、眺めるぶんにおいては。ふはは。まあバイアスなのでしょう。私の先入観が作用して、女子高校生の脚が、鍛えられた魅力あるものに映るのでしょう。冬は運動しようと思いました。体を鍛えようと思いました。ギリシア的価値観、古代ギリシアはなんだかんだで面白いものに満ちていると、生きてて何度か思うのですが、それがどこまで本物の面白さなのかわかりませんが、古代ギリシア哲学の研究者には曲者が多いことを見るとまぁ何かあるのだろうと思います。プラトン自身は何も語らない。読み手がプラトンに語らしめるのだ……。まぁ、大なり小なりものを読むというのはそうした態度を要求するものではあります。すべてはテクストだと言い放ったおじさんのことを僕はほとんど知りませんが、きっと生きるとは人を理解することで、人を理解するというのはその人というテキストを読み解くことなんだと思います。それはきっときっと整合的解釈をするだけでは不十分で、その人の思想がどう位置づけられるかとか、その射程はどうかとか、そうゆう態度が必要なのでしょう。ありていにいえばその人の個性を発見するとゆう。何の変哲もないテキストの一筋のほころびから全体を裏返す。卒論はまぁなんとなーくなんとかなりそうな感じです。とりあえず提出できずに来年度を迎えることはなさそうです。やっぱ構成考えるの大事。具体的には目次を作る。この日記みたいな散乱的散文がそのまま論文になるなら苦労はないですが、残念ながらそうはなりません。テキストをあるていど読み込んでおれば、書くことがなくて手が止まるってことはないのだけど、論文の展開としてこの先どう書いてゆけばよいのかわからんで手が止まることが多かったですね。そこでの時間のロスを防ぐために、詳細な目次を作っておくことは重要です。です。ここで書いても仕方ないか。酒のことについては改めて振り返るとそんなに書くべきことなかったというか、人間に合理性が備わってるという信仰ははやく捨て去るべきだというか、誰しも先を見通しつつ行動できるのなら「大人」という形容詞がわざわざ使われることもないだろうし意思決定理論が探求されることもなかったであろうにと思います。僕なんか場当たり的に生きてるほうだからそう思うのかもしれないけど、うにゃうにゃにゃ。

20121209Sun1319