2012年11月だよんよんよ


シェフのあざけり風

教習所の休憩場所で高校生カップルが仲睦まじくしてるのを見かけて、たいへんうらやましいなと思いました。できることなら僕はその場に同化してしまいたかった。今高校生の彼女を作ったって遅いんだよ(作れるかどうかはこのさい度外視して!)。高校生同士じゃないとだめなんだ。しかも彼らは同じ高校の生徒ときた。同じデザインの制服を着て、同じ色のセーターを身につけていたから。高校生カップルというのはわれわれの(わたしの)自尊心をいたく刺激するところがありまして、いや、自尊心なのか? べつに彼らを目にしてとてつもない敗北感に苛まれたわけではない。マヒしてるのかしら。僕が高校時代彼女というものをもたなかったことが、この感情的動揺にどうやら寄与しているだろうことは容易に想像ができることであっても、うーんどうなんだろうねぇ。結局ぼくは、彼らに対して、あの場面に対してどういう態度をとっているのか、肯定か、否定か。なくなってほしいと感じなかったから否定ではない。かといって、ああした場面がもっともっと増えてほしいとは思っただろうか? そこまでは思わんよなぁ。世界中がーいちゃいちゃしてるカップルで満ちたらすばらしいんじゃないでしょうか。これはまぁわかる。でもそれは考えてみれば同意できるって話であって、問題は彼らを見たその刹那に感情がどう動いたかなんだが。よくわかんね。あたたかい波の中に飲まれたいよね。

* * *

人間はその本性上、自己を欺くということができなくて……とまずは思うけど、日々わたしたちが自分をだましだまし生きてることは否めないし、なんならうまく生きる秘訣は自分をいかにうまく騙すかにある、といってもいいくらいかもしれない。というのは、われわれの理性は見通しが甘いんですよね。甘いっていうか狭いっていうか。「死にたい」ってのは「いやだ」の強調表現で、いやだ→逃げたい→(逃避の窮極の形態として)死にたい、という推移が成り立つと僕は見ているのですが、こうして目の前のものごとに対する拒否がagentの生全体に対する拒否へと誇大妄想的に押し広げられてしまうことを見ても、私たち(私)の視野は目の前10メートルくらいしか見えてないんだなあと思いますね。余談ですが駅のホームとかで携帯見ながら歩いてるのは論外ですが前しか見ないで歩いてる人が多いのには辟易します。前しか見ないってのはつまり自分の向かおうとしてる先しか見てないってわけで人にぶつかろうが道をふさごうが気にしないってか気づかない人がどうも多いんですがほんとに良識ある大人としてどうかと思うので毎度絶望的な気持ちになります。前しか見てないやつが多すぎる。人とすれ違うときは目を合わせると互いに距離が測れてスムーズに進めるんですよ。そういえばこれもついでに書いておくんですが歩きタバコをする大人はいまだ絶えなくて、法的に取り締まってない(はずだ)からまかり通るんでしょうがタバコに嫌悪感示す人が増えてるのに人のこと考えてんの? いや喫煙者が減ってるというのはじつは幻想なのかもしれず前のバイト先ではほとんどの人が喫煙者だったし、嫌煙者が増えてるというのもある種のマスコミによるスリコミの成果なのかなぁなんて思ったりする夕べもありますが、それはともあれ事実それを不快に思う人がいると容易に想像がつくはずなのにそれを踏まえて行為しないのはたんに自己中な子供だなあと思います。そう、最近「大人」ということがテーマなのですよ。

それで、私たちの理性は見通しが甘いって話でしたが、説得術なんかでもそうで、抵抗ないところからはじめてなしくずしに遠いところまで引っ張っていくのがセオリーなんですねー(何の)。「結婚を前提にお付き合いしてください」って言われるとそれはちょっと…ってなるのでお友達からはじめて結婚まですこしずつ進んでいくという経過が一般的に(たぶん)とられるように、最初っから誰が結婚相手になるかなんて見通せてないわけです。7時に起きようと思って目覚ましかけて目が覚めたけど「あと10分…」って延ばし延ばしにしてるうちに午後になってて、なんて経験は誰しもあるかもしれないしないかもしれませんが、ようは自己把握なんてこうも脆弱なもんでして、そういうアテにならない判断をうまい具合無視するのが自分というシステムをうまく乗りこなすコツなんだろうなと思います。私たちの中には思い込みがあって、「今日は学校に行きたくない(行かないほうが良い)」とか、「どうもてりやきマックバーガーを食べるべきという気がする」とかいう思いがどんどんよぎっていくわけですが、そして悪いことには最初に浮かんだ考えを固持しようとする力があって(これは一般的でない話かもしれません)、「やっぱ牛丼のほうがいいんじゃないか、昨日脂っこいもの食べたし今からてりやきはキツイぞ」とどこかで思っても、やはりてりやきマックバーガーを貫かねばならない気がしてしまうのですよね。ちょっとこれ、俺が不合理な気質を持った人間だってことを言ってるだけになってる虞があるんだけど! なんなのねえ!

とにかく、僕は目先10メートル先の、しかも前方しか見えてないうえに、最初に浮かんだアイデアに不合理な固執をもつので、この僕が僕らしく生きる規則にのっとって暮らすとたいへん不自由することになりますし不幸にもなります。学校に行きたくない気がしてるときは、学校で出会う面白いことや楽しいことについての想像力は閉ざされてるので、あ、しかも学校で出会ういやなことについての想像力も同様に閉ざされていて、つまり想像力をいっさい働かせないまま「行ってもいいことなんかない」とか思ってるので擁護のしようがありません。カップ焼きそばを食べた後はたいがい後悔するのに、その教訓を生かさずに今日もカップ焼きそばを食べたく思っている自分は、やっぱり愚かなのです。そういう、行間が広くて改行が多い薄っぺらい本にも書いてありそうな、地に足のついた話です。で、そういうあほな性質を抱えてるかぎりは、ああいう不合理な信念(beliefね)が生じたときにそいつをシカトするスキルが必要なのですよ。自分の心の声を、「ありのままの自分」とやらを捨て置く大胆さが。7時に起きれない自分も、やはりかけがえのない自分なのだ――それもいいでしょう。それは肯定する意義があります。ていうかたぶん万人に必要なのは自己肯定ですよねー。でもね、それが「本来の自分」だとするのは危険です、だいいち不幸を招くからね。なんか人間、わるいほうを「本来の姿」に据えようとする癖があるみたいですが、それはゴシップ趣味にとどめておいたほうがいいんじゃないでしょうか。それだったら、本当の自分でいたいなら午後まで寝過ごしてどこも恥じることなどないじゃないですか。「本来の姿」であることが至上の価値だっていうんならな!

すいません、これ書いてるのが午前一時まえで、いわゆる深夜テンションで煽りっぽい文面になっているはずです。まぁ人為の加わってない初期状態を「本来の姿」だとするなら、それはつまり動物に近い姿ってわけで、みな同じような姿を見せるので個性なんてものはむしろ失せるはずなのですよね。書いててごちゃごちゃしているが言いたいのは次のこと、私たち(私)はくだらん信念を押し通そうとするものだということ、そのくだらん信念を押し通すことがなにか重要なことだと勘違いしていること。そういう勘違いしてる自我にうまく目隠しして、望ましい方向に誘導していくのが生活の課題であり、そこに一種の自己欺瞞が伴う。ほんとの自分なんてそんな身近にいないっすよ。<だからなんでそういう話になってるの

20121130Fri0110

日記域

カラオケである。もうカラオケやめよう。一人カラオケ。先週行ってなかったし行っとくかって、日課じゃないんだからって、「日課だし行っとくか」って、特に意味はないのに、カラオケ館に向かう途上の頭の中がずんと暗くなって、明日の遠足が寝る前に急にいやになって雨降んねぇかなとぼんやり願う心境になり、でも結局行ってみると面白かったりするのだから、今日は楽しく歌えるに違いない、と自分を納得させて通る自動ドア、受付を済まして最近ようやく積極的に学割を行使できるようになりめでたく、特に期待するわけでもなく「あー」と思いながら指定された部屋に入って(カラオケですよ)、昼だったのですぐにドリンクがきて、歌ってたんだけどあんまり調子良くないのね。午前中に体育の授業受けてて疲れてたのかもしれないけど、なんか最近体が弱いぞ。マフラーをフル活用して体を保護しているからなのか、去年はマフラー使い始めるまでだいぶ粘ったし、腰を立てていれば体が暖かくなるから大丈夫!と信じ込んで防寒をいいかげんにしていたというわりには部屋では靴下を履いたりストーブをつけたりしていたはずですが? まあ屋外での対処についていえば今年は守りに入っているのだろう。だからかなんなのか体が弱いゆえなのか歌の調子がよくないしだいたい一時間過ぎたあたりから発声が安定して高音も自由に出るようになる、ものなのですが今日はそれほどでもなく、いやなんかそもそも一人カラオケはじめた当初から比べると歌い方自体だいぶ異なっていて比べられないし近頃では最初っから高音は出るのですが喉が解放された感じがなくていつまでも奥にボールでも挟まってるかのような感じが残るのでして歌い続けてると近頃はクラシック系の太めの歌声になってきますね。ものの本によるとああいう発声のほうが喉にやさしいんで、安全モードに切り替わったというところでしょうか。『勝訴ストリップ』の頃の椎名林檎なんかあきらか喉に悪そうな声出しますよね。まねしたい。でクラシック系の太めの歌声になったので布施明でも歌ったらハマるんじゃないかとか一人で思って一人で曲入れて一人で歌ったんですが聞き込んでるわけでもなく外郭しか捉えてなかったので頼りない布施明になってしまいました。それはいいんだけど無理する系の歌をたまにぶち込むんですが、Xの「紅」とか、クリスタルキングの「愛をとりもどせ!」とか入れるんですが、それががんばってもあまり無理できない容態となっておりまして別に音程が外れようが声が裏返ろうがかまやしないといえば嘘になりますが別にそれはよくて、比喩的に言えば声が裏返る前に息切れするのがなんかちょっとがっかりポイントでした。それはまあいいんだが、いやそれこそが直接のトリガーになってるに違いないんだがいい機会だと思うので一人でカラオケ行くのはとうぶんやめようと思いました。とりあえず一ヶ月。第一にそんな楽しくないし、第二に楽しくないのに行く理由もほとんどないし、第三にただ歌ってるだけじゃ上手くならなくて目標を設定しないといけないんだけどそこまでの気もないし、第四に店を出たとき「あーなにやってんだろ」と思うのがもはや通例となっていて明らかにこれ別のアクティヴィティを探すべきだろとも何度も思ってるし思ってきたのだし、アクティヴィティを無理やり探さざるを得ない状況にするという意味でも一人カラオケを断つ価値はあるなって、思考がねじれてますがしっくりとそう思ったので、とりあえず一人カラオケはとうぶん断ちますわ。まずは一ヶ月。お金も浮くし経済的だネッ!っていうか私はレシートを整理するときにカラオケでひとまとめにしてるんですが積み重なったレシートの厚みを見ていると今年の分だけでも一万二万いってそうでいまさらながら怖いです。夏のバイトで稼いだお金がもうほとんどなくなっていて俺そんなに金使ってるっけ??(゜゜)と思わんでもなかったのですがああ、こういうとこにちょっとずつ消えてるんだな。がおー。

20121128Wed0018

青春のひげ

あなたの自己紹介なぞ誰も読みたくない。のだと思うけどね。というか最近思うのであった。Twitterにて自己紹介を繰り返している人を見受けますが(あなたではない)(あ、もしかして僕のこと?)、いったい誰がどういう人だなんてどうでもいいとゆうか、そりゃたとえば自分の親が昔エジプトで仕事してたことある(フィクション)とか友人が最近ビリヤードにはまってる(フィクション)みたいな、自分の身内とか知り合いとかすでに知ってる人に関して情報が付加されるのはたぶん意味あるしそれなりの興味を持って聞けるんだけど、ツイッターって知らない人だしオフ会でじっさい会わない限り未来永劫知らない人で通るといいますか、ツイッターの発言はどこまでいってもその人に関する記述でしかないので、その本体はそこからはいつまでも現れ出ることはないのです。そう言っている自分にとっては、つまりその人の本体ってのはその人の身体であるし、周縁的な要素として声とかふるまいとか体臭とかファッションとかが入ってくるのだろう。でもどうだろ、だとしたらツイッターにおいてはアイコンがその人の本体と考えることはできまいか、できはしないかと思いましたがそもそもの発想がどうも間違ってる気がするので間違ってることにして先には進みません。発言主の本体が欠如しているツイッターにおいては、記述はそれが帰属される対象を失い、あらゆる発言は「〜という人がいる」という存在言明にしかならない、つまり、某という人が「いまカキフライ食べてる」と書いたとして、それはその某さんについて何かを言うものではなく単に「いまカキフライを食べてる人がどこかにいる」という情報しか持たないし別の某さんがエヴァQをdisったとしても「エヴァQをdisる人がいる」ということしかそれは示さない。とか書こうとしてたんだけどそもそもの発想が間違っていますね。でも誰がエヴァQをdisっていようと私は興味ないし、結局求めているのはエヴァの適切な読み方ないし評価なのであって誰々がどういう感想を持っているかには関心がない。とか書いてみると僕はほんとうに他者に興味がないんだろうかと思えてがっかりするのですが、人に興味があるっていったいどういうことなんですかね。他人がどういう朝ご飯を食べたかに興味を持つことなんてできるんですかね。たとえそれが自分の好きな人であったとしても私はそういう興味を持つことができないな。その人の健康を心配するという目的のもとであれば、それが気になることはあるとしても。好きな人が甘党だろうが辛党だろうが、イタリアンが好きだろうが和食が好きだろうがどっちでもいいではありませんか。あ、つまり「どっちでもいいか否か」という話なのか。読書傾向なんかではそうはいかなくて好きな人がライトノベルを主に読むか自己啓発書ばかり読んでるか専門書しか読まないか辞書をつねに持ち歩いて読んでるかは興味あるところだし、それどころか電車で同じ車両になった他人がどんな本読んでるかも僕は気にしますね。トーイックの対策本とか読んでた日にゃ「そんなくだらないもの見てないで……」とか内心思いますね。性格わるーい。で、結局どういうことなんだろう。たとえその人が好きな人だったとしても、その人の生活のすみずみにまで興味を向けるということはない。逆に、ある種の事柄(この場合は読んでる本)については、それが誰であるか関係なく、同じように関心を向ける。でも私とて興味のある人くらいいますよ。それが「好きな人」と必ずしも一致しないってだけで。「この人○○聞くんだー」と面白がったりすることはありますからね。あ、というか、自分にとって興味ある人と興味ない人とを自分の中ではっきり意識して区別してないのかもしれない。だからこうして改めていろいろ考えてみてはじめて「自分は人に興味を持つことがある」という事実に思い当たっているのだ。たぶんそれは「人を区別してとらえるのは興味の幅を狭めることにもなるから望ましくない」という一種の倫理性に則ったものでもあっただろう。でも興味ある/ないの別は、どう逃げてもやっぱり“ある”し、もともと僕は偏向した人間でもあるだろうから、無理しないで今後はもっと積極的に差別していこうかなーと今思っている。冷淡な態度を取るということをおぼえねばならない。

20121125Sun2333

鈍行に乗って

永久培養には下ネタが降り続きます。うおお。せっくすしたい。セックスがいったい何かの答えだとはいまさら思わないけどすべては過程の中さ。答えはそこに安住するためにあるんじゃなくて乗り越えるために到達するのさ。欲望の運動は欠如と満足の繰り返し。パズルは永遠に完成することはなくてそれは空しいのかもしれないけどいったいどこが虚しいんだ? 土の山を100m先の場所に運んで、それをまた元の場所に運ぶ作業はほんらい楽しいものではないのだろうか? 遊びの余裕だ。無意味なことこそが精神の高貴さをうにゃむにゃ。人生に究極の目的などないから生はひっきょう無意味なのだとはよく言われますが、やっぱそれって目的という概念がうさんくさいから勘違いだと思いますよ。人生は有意味でも無意味でもない、はっ、いかんいかん最近いっさいの言論は無意味な気がしていて仏教的な二重否定の論理でいろいろ片付けたくなっているのですが、まあ事実で語ることは大事よね。もう口づけと抱擁だけですべての情報伝達を済ませたいです。めんどくさいし。ぼくはセックスという事実を重ねたい!っつって話がもとに戻りましたが、そんな身も蓋もないこと叫んでるのはひとえに性欲が高まってるゆえに違いなかったりするわけで承認欲求とかいうなよなよしたものには関わりがない!(挑発!)ンですが僕が僕こそが誰よりもお前よりも、他者による承認を必要としているのではないかと思います。自分のことは自分がいちばん知らないのでよう分かりませんが。あー。そんなこと書きながらもふつうに暮らしてますし心のコンディションはむしろ安定しているくらいですが毎日人と交わすコミュニケーションの薄さよ!ようはものぐさなのだと思いますね。それに尽きる。すべて。めんどくさいことにはかかわりたくないしめんどくさいことを引き起こしたくない。それは僕の心の癖さ。学習された無関心とゆうか。それは気質であって自分でそう選択してるわけでもないし、だいたい自分の性格が自分で選択できるなんてテレビゲームの中だけだぜ。別に自分がこうものぐさなのがいいことだと思ってるわけでもないし、望ましいと思ってるわけでもないし、たまらなく嫌だというわけでもないし、でも変えたいとまで思ってるわけではない。ほんとうは臆病なのさー(びろろーん)。いやー、いいことがない。音楽はけっこう聞いてたりして、文化生活面は好調なんですがー、それで別に強烈な欠如感を寝る間際に覚えたりするわけでもないんですがー、こー、もうちょっと次のステージにあがりたいとゆーか。あがるべきだというか。ああ。手始めにナンパでもしようか。

20121124Sat2253

ゴールデン浸食カニバーサリー

ようやくMacから更新しようとしているわけですが。Macを導入致しました。買うてもらいました。いま気づいたんだけどMac OSに入ってる変換システムであるところのことえり先生は「買うて」をデフォルトで変換してくださるのですね。感心です。しょうじき、システムフォントが米粒なみに小さかったり(しかも変更できない……ウェブブラウザとか、個別のアプリケーション内で対応することはできるけど)、トラックパッドが使いづらかったりして(ノートパソコンの宿命ではありますが……これの前に使っていたThinkpadのトラックボールがいかに優れているかわかる)(クリックの動作がトラックパッドを直接《触れるのでなく》押すってのはどうなの)、むしろ不満の方が大きかったのですが、この点にかんしては好感持てますね。あまりに融通きかないので激怒してLinuxでも入れようかなと思いましたけど、それはもうすこしあとで。でもローマ字入力で子音字"l"が「ら行」に対応してるのはちょっと許せません。使いづらいぞ。すべてにおいて美意識重視なOSだなーと思います。んにゃー。あとはMS Office for Macを買わずにどこまで仕事を済ませられるかだな。それが勝負どころだな。すべてはそれからだッッ。

近頃は食欲、食欲、性欲、性欲、食欲、食欲、睡眠欲みたいな感じです。三大栄養素ですね。性欲睡眠欲はじっさい欲望自身はあるのかどうか、四六時中ひたすら眠かったりアレだったりするわけじゃないのですが、それを満たすための動作によって得られる快楽はたいそう享受している気がします。享楽的です。ただ食欲ばかりは欲がしょっちゅう顔を出して、今飯を食ったもう腹が減ったという具合にたいへん腹を空かしています。もちろん今も。一日五食くらいいただきたくございます。あとこのパソコンは小さいので背が低い!!もともとパソコンをのせてる机が低いので正座するとすでに見下ろす形になってたいへん不便です。文句だらけだ。「もんく」と打ち込んだ時点でことえり先生が「文句なし」をサジェストしてきたけど文句だらけです。まぁそのうち慣れるっしょ。さて話が戻りますがお腹をすかしている僕は外食先を探しては己のお財布事情を顧みて諦めますが、女の子は見るだけタダなので毎朝毎晩がんがん目に入れています。目に入れてもイタクナ〜イ。女の子を見て発情しているのですが女の子を見たり女の子の映像を見たりして発情し慣れすぎたために先日ブックオフでボーイズラヴなマンガをすこし眺めていたら条件反射で発情しかけました。ぼくは意味で興奮するタイプではないですからね、もので興奮するタイプなのですよ! 女の子は見るだけでよいし見ることで得られるなにかは肉体的に交わることにともなう与件とは異なるし、私たちは美を所有することが永遠にできないのだ、たとえその脚を所有している本人でさえもな! とか最近こんなことばかり書いている気がするしわりとそんな生活でもある気がします。食う、抜く、寝る。卒論にかこつけてゼミの予習もさぼり気味だったりするので、音楽を仕入れてみたりエヴァンゲリオンをDVDで見たりたばこ吸ったり長い間気になってた本をようやく読んでみたりまずまず文化的でかなり享楽的な生活だって気がします。卒論もだいぶゆるく進めてるし、けど、とうとう提出まで一ヶ月きったのでそろそろ危機的局面が見えているのではないでしょうか。どうでしょうか。さいきん部室滞在時間が往時とくらべてだいぶ短くなっていて、一人でいる時間が長いのだけど本来ぼくはこのくらいがちょうどよいのよねーといわんばかり。ふむ、結局なにが言いたかったんだろう。彼女欲しいという欲望はまぁ、あるんだけど、いまそれ考えても混乱したまま進んじゃう気がする。だって欲望はいつでも現実を裏切るものだもの。

いつになく、いつもどおりに、読む人のこと考えてない雑な日記でした。ほんとは、理想的には、ぜんぶ理解した上で読んでもらうのが最上なのだけど、そこまでの労力と余裕を割けないっちゅうかドンガラガッシャーンビヨーンウニャウニャウニャウニャリョリョリョミヨヨヨーンとしたなにかを心の赴くままに書き起こすというほうが楽しいので、ああ、やっぱり理解されるってのは二の次なのかなあ。でもだとしたらなんでインターネットに公開してんのかなあ。つまり日記に足りないのは対話的精神で、対話に足りないのは日記的精神で、会話に足りないのは対話的精神で心はいつもコスモポリタン!

20121020Tue2009

ゴールドラッシュ・サービスエリア

日本酒おいしい。家で酒を喫するなら日本酒にかぎりますね。さて、長らく避けていたアマチュア心理学を再開しようかと思います。アマチュア心理学といいますのは、人の発言をときには文字通り受け取らずに、「ほんとうはこう思ってるんじゃないか?」という診断を下すということです。ぼくが近しく触れてきた哲学(とりあえず広い意味での分析哲学ととっていただければ)の傾向からいうと、「ほんとうは」という表現には要注意で、○○はほんとうは××なんだよっつって立てられる存在者はべつに立てる必要のない存在者であって哲学者の妄想に過ぎないみたいな考え方に導かれてたので、そもそも事物の深層なんて覗けるわけないんだから精神分析とかも勉強したことはないですがハナから怪しいものと決め込んで勉強しようと思ったこともありませんでした。深層心理とか無意識とか。だって現れているものしか私たちには与えられていないんだぜ。透視の能力があるってんなら別だけどさ。けれど表出しているものから事物の深層をさぐるのが科学なので、精神分析にもそれなりの/じゅうぶんな根拠はあるのでしょう。おそらく。ひとつだけ言い添えておけば、おおくの場合、「ほんとうは」という表現を使う論理的根拠が乏しいと思うのだよね。あなたが好きなあのアイドルはほんとは私生活がだらしなくて……という時に、ステージの上でキラキラしている彼女も、ゴミだらけの部屋で寝そべってお菓子をむさぼっている彼女も、ひとしくその人の一側面というべきではないだろうか。どっちかが本当の姿で、どっちかが嘘の姿だというのは、恣意的なものでしかないのではないかな。私たちの意識はほんとうは脳が映し出してる像にすぎなくて……みたいなこけおどしに関しても同様。まあ「ほんとは」と言いたくなることにはかならず理由がありますから、その理由を点検したうえで「ほんとは」がつく描写のほうになにかしら優位性があると論じることは可能だし、それはしておくべきことだよ。ただまぁ大した根拠もなしに「ほんとは」なんて口にするのはゴシップ誌的な好奇心のなせるわざであってそこには実質的な含意はぜんぜんないと思いますけどね。

それで話がそれたがアマチュア心理学。アマチュア心理学とはわたしの心理学、オレ心理学です。つまり学と称していますが学問じゃありません。私なりの人間の心理の観察にもとづいて他人をひそかに判断しますが、観察材料はおもに私自身の心理なので偏りが出るのは仕方ないですし、自己認定というものはおうおうにして間違うものですし、ゆがんだ体系でもってものごとを判断する時節がときおり顔を見せるのも仕方ないですね。仕方ないというか、そのくらいのリスクは背負ってもいいかな、と最近思うのですよね。ものごとをありのままに見るのは疲れる。いや、ありのままというか表層しか見ていないんで、表出した現実をくそ真面目に無解釈に受け取る日々なんで、そういうメガネでもって街(ぶっちゃけツイッター……)を見渡せば間違った奴だらけさー。間違いは修正したいのですがひとは修正されるのを嫌うのであんまり教育的な態度とると人間関係壊れますよ。なるほど自分の意見が否定されることは自分自身が否定されることとは違うし、また自分の意見に反対する意見が出たり自分の意見にツッコミが入ったりすることと自分の意見が論駁されることとは違う。だから自分に対して反論がきたからといって自分に人間的価値がないとかいうことには断じてなりはしない。だけど私たちはそれとこれとを混同しがちだし、そんなときは胸が痛んで鼓動が速まるのでもう早く帰りたい気持ちでいっぱいです。だからー。

やっぱり話がそれるわけですがアマチュア心理学をぼくは再開します。間違った奴があふれるこの世界は、でもみんなほんとはちっぽけなプライドがつぶやくことばを曇らせて、人にどう読まれるかを計算できる生半可明晰な頭脳が表現を屈折させて、それが私のもとにみんなのもとに届くわけですから、あふれてるのは素直なみんなのゆがんだ像さ。「自分がどうあるか」と「自分をどう見せたいか」が二重写しになったピントの合わないフィルムなのさー。もちろん、本来からして歪んでいる御方もいらっしゃるとは思いますが、基本的に読んでて健康に悪いなあと思われるのは素直な心をおもちなのに自意識の存在するために言語行為的に先鋭化したことばを操る諸君でありますので、なぁほんと自意識絶滅しろッッ!って思うのですけど、こればっかりは日々の鍛錬によって一歩ずつ脱していくしかないと確信しております。何処へ? 涅槃へ! んー、まあ。非言語的メッセージってやつですよね。いっぱんに、明示的に語られてない部分にこそ本人の言いたいことが出ているらしいです。んにゃ、「ほんとはうれしいくせに〜!」と言いながらほんとに迷惑なことを続けるのは困りものですが、そうならないためにも非言語メッセージを読み解く技能はぜひとも欲しいものですね。すべては俺に都合のいい世界のために。都合のいい解釈をして心を落ち着けます。

20121113Tue0027

やわらかビオトープ

自動車学校の教習で高速道路乗ってきて、そのあとなぜか右肩の先端が痛い。まあそれはいいんだが、疲れたので&これだけで帰るのもなんなので、喫茶店かなんかに行って時間つぶしてから帰ろう、と思ったわけです。それで近所のカフエーを二件ほど外から覗いたんですが手ごろな食べ物が置いてない(お腹減ってたので)だの外にメニューが出てないから不安だの人が全然入ってないから一人で気まずくなったら嫌だの団体用のテーブルしかないように見えるだので結局やめてしまって(不安要素見つけるの得意)、スーパーで缶のギネスビール買って帰宅しましたとさ。日曜日は親がマック買って帰ってくるのが通例なので食べ物は確保されてるかなと思って買わずに帰ってきたんだけれどこういう時に限って買ってなくて、昨日のカレーの残りがあると思えばごはんが足りなくて、結局残ってたおかきとおせんべいでビールを飲んでるわけですが、言ってしまえばそういう道具立てはべつに構わないのですが、問題はここが家であるということで。家にいると気分がダンと沈んでくるというか、生きるやる気が奪われてくるというか、なんかいろいろとやりづらいので、家でリフレッシュなどできる筈もないと幾度も学んだはずなのに、「道具立てさえ揃っていれば十分だ」という本質主義にそそのかされ、まぁ事実は新しい場所に入る勇気を出すのが厭わしかったってこともあるのでしょうが、とかく俺は場所というものをいまだ軽視しすぎている。言いかえれば環境。環境がすべてだなんて、自宅浪人の一年間を終えた頃に肝に銘じたはずなのに、いまだに定着していない。すべてだっていうのはさすがに言い過ぎだけど、確かに環境とはそれを支配しているなにかだ(?)。そしてやっぱり缶ビールよりコップに注がれたビールのほうがいいよう。

20121111Sun1611

僕の怠惰マーク2

今日は教習所に行って一日お勉強してるはずが、12時過ぎまで寝てて、起きてごはん食べてからはやる気が起きず、仕方ないのでエロ動画をダウンロードしたりして時間をつぶしていた。それでまだ今日は一歩も外に出ていない(現在19:41)。なんか、俺はやりたいことしかやらないんだなっと思った。いや、というより、例えば授業が入ってるなどの強制力がなければ、自分で自分を律するほどの殊勝さはないし、守るべきものがないから切迫さも深刻さもない。外に出ればなにかしらまじめに動いたりはするけど、家にいれば生産的といってもせいぜいギター弾くくらいだし、調子が良ければ語学をやるくらいだし、気分が乗っていればちょっと読書くらいするかもしれないけど、期日が迫っていなければ勉強なんてしない。本は溜めこむけど最後まで読み切った本って持ってる本・借りた本の一割に満たないんじゃないかなあ、正味。『本を読む本』(原題 How to Read a Book 、ちなみに講談社学術文庫で出てるやつは抄訳なので要注意だゾ☆)に影響されて、本を読み通すことの美徳を一度は捨て去った私であったが、まぁよくわかんないまま最後まで読んでも「読了」のハンコを押す楽しみが得られるだけで、「読んだよ」ってとりあえず迷いなく言える権利を手にするだけであって、「そもそも読むことができない者に多読と言ったところで、それは多くを読んでいるのではなく多くを誤解しているにすぎない」(伊藤和夫、『英文解釈教室』はしがき)のだから方針としては正しいと今でも思うのだけど、他方ですこしでもつまずくと「わかんなーい」といって本を投げちゃう癖がついたという面もなくはない。で、なんだったっけ。僕の怠惰であった。そんな高校〜浪人時代みたいな暇のつぶし方をして、ごはん食べてようやくロシア語の宿題でもすっかーと落ち着いてきた折に振り返ってみると、僕はつまり〈時間を消費するのが怖い〉のだろうと思った。勉強するのには時間が必要だ。それは当たり前だ。そして勉強するときは集中している。勉強している対象に意識がそそがれ、他のことは考えないようになる。それは勉強のためにはよいことだ。そして勉強は未来につながるから、未来のためにはよいことだ。だけど未来の到来はいつでも保証されていない。僕の時間はいついますぐ途切れるとも知れない。そんな不確かな未来のために、今を犠牲にしていいのだろうか? いや、そんな話ではない。僕は現在を未来の奴隷にしてはいない。勉強は楽しい。ふつう勉強も読書も楽しいものだ。エピクロスも推奨する穏やかな快楽がそこにはある。読んだことないのに人名を引き合いに出すあたり私も俗物知識人じみてきましたね。そんなところに実質はないのに。それはともかく、勉強は楽しいのに勉強しようとしないのは、ひとつは勉強で得られる快楽がたとえばこの場合ではエロ動画を見て得られる快楽と質的に異なるものであり、しかもなんらかの事情から後者の快楽のほうが家にいるときはなんらかの事情から選好されやすい、という事情によるのかもしれないが、その「なんらかの事情」を説明しない限りは結局わかったことにはならないわけで、まぁそういう事情もあるのかもしれませんが、はじめの発想にこだわれば、勉強が「時間の消費」に感じられてしまうって事情がもひとつある。時間を使うってことだ。勉強しているあいだは時間が消えてしまう。いわば、勉強しているあいだは無時間的な真理の世界にふれているわけで、つまり28たす36が64であることは恐竜がいた時代から今まで、今から宇宙が熱的死を迎えるまで変わらないわけで、それは関係ないのかもしれないけどつまり勉強してると「時間を忘れる」んですよ。そしてかつ、いったん時間を忘れないと勉強はできない。そのくらいの集中は注がないと内容は頭に入ってこない。読書も然り。端的にいってぼくはそれが怖い。それを避けたい。時間を忘れたくない。時間とともに歩みたい。だから散歩が好きなのだと僕はかつて述べた。2009年。言いたいことの核心はじつはもうこのときに言ってしまっている。だけど繰り返そう。「なんか始める」ということが、直感的にいやなのだ。なにか目的をもった、目的と達成が定められた世界に踏み込むのが。それは人間として生きるのがいやだということなのかもしれない。まさかァ。言いすぎた。やはり話を余計に哲学的にしてしまう癖が僕にはあるようだ。「人間」とか「生きる」とかいう言葉を使うのが哲学的だって言ってるんじゃないですよ。話を抽象的にして妙な結論にジャンプするのが哲学的だって言うわけですが哲学はそんなことする分野ではありません。少なくとも「妙な結論にジャンプする」という点においては。エロ動画を落とすだけではなく、僕は月曜日に借りてきたキリンジ『3』のCDを聞く用意があったし、それははっきりと対象に没入する行為であるから、これもまた時間を忘れるアクティヴィティの一種なのではないだろうか、と思ったが、音楽を聴くことは時間とともにあり、というのもまた強力にあって、時間の中におかれなければそもそも音楽は鳴らない。音楽を聴くことは時間とともに過ごすことだとさえ言える。そうだ。動画を見るのもそうだ。だけど、形而上学的に言って、勉強することと音楽を聴くこととはそこまで違うのだろうか? 読書するのだって、文章を書くのだって、ベルクソン的な(またスノッブな……いやベルクソンは一度『時間と自由』を読んだことがあるのですが)持続のなかになければ成り立たないのであって、そこにはどうがんばっても時間というなにものかが関わってくるのではないか? と思う、が、やっぱり納得できない。納得できないけどこの先どう反論したらいいのかもわからない。しょうがないのでなおも繰り返せば、僕は「時間を忘れる」ということが怖いのですよ。時間を忘れて読書したり勉強したりするということは、世界が、いや「世界」という言葉なしに、自分と、いや「自分」という言葉さえもしかしたらなしに、その本だけになってしまうことであり、ロシア語の宿題だけになってしまうことであり、いわば世界と自分の世界とが剥離しているかのような事態になる。客観的世界とのコミュニケーションが断たれるんだ。なにかに没入している(それはそんなに特殊なことではない)ときは、まさに「自分一人」になってしまう。いや自分さえいないのか? わかんないけど。会話に没入してるときは、世界が「わたしとあなただけ」になったりして大変いい感じなのかもわかりませんが。いまいちわかりません。ともあれだから僕は読書したり勉強したり、自動車の技能教習を受けたり、なにか集中を要することをするのを「潜る」ことになぞらえて理解してたりする。いったん世界から離れて特定の事象に潜ってくるのだ。それはけっこう骨の折れることなんです。

20121109Fri2023

僕の怠惰

もう一時間ほどツイッターでだらだらしている。不毛。論理で語れないことがある、というようなことを言ってる発言を見かけて、それがなんか妙にゆるせなくて色々つぶやきを投げていた。けど、結局「論理」って言葉がきちんと定義されてないままふわふわしたこと言ってるだけだと思いなおして、いいかげんな話にいいかげんな怒りをむけた自分を反省した。でも、僕がそんなに怒ったのは「論理で語れないことがあるか否か」に関してだったのだろうかね。もっと情動的な、悪い意味で心を動かす、煽る、逆鱗に触れる、見たくないものを見せるような発言だったから、怒りがわいた――ムキになったのではなかったかな。つまり「論理的」っていうのを煽りの言葉として使うと、「理屈っぽい」とか「細かいことにこだわってチマチマしてる」とかそういう意味になる。僕は「論理的」にまつわる命題を擁護しようとしたのではなく、その発言が、自分が理屈っぽいとか、チマチマしてると言われてるように聞こえて――むしろもっと明快に「人間らしくない」と言われた気がして、それで痛いところを突かれてムキになったのではないか。ぼくは冷たい人間だ、それは認める――けど、やっぱり、それがいいことだとは思わないしできることなら(切実に)思いやりのある人になりたい。そこを突かれてトチって、勢い余って哲学的?な命題を的外れにも擁護し始めてしまったんだな。(少なくとも僕にとっては)哲学的議論を装った人格攻撃だったのに、それに思い至るのが遅かった。自分が何に怒ったのかよく反省せずに処理をはじめてしまった。ほんとは最初の違和感が大事なんだ。その違和感をとり逃がしてしまうと、本筋と関係ない話ばかりして解決まで遠のいてしまう。なにが問題だったのか見失って「解決しない」という思いだけが取り残される。

今夜はタイムラインも遅い。不毛。遅いタイムラインを見つめてなにかを待っていた。自分の発言に対する反応。来ないだろうことは知っている。完全に自覚していないにしても。でも期待できないことを心の隅で期待しつづけて、遅いタイムラインを見つめて反応をうかがっていた。沈黙。フォロワーが減った。期待できないと知りながらも、心の隅で期待しつづけてしまうそれが僕の怠惰だ。ちょっとひさしぶりに発症した。弟の部屋の入口に居座り小さな音でギターを弾いていた。テレビ番組を最後まで見た。聞くはずの CD は聞いてない。この日記も進まない。飽きてきた。でも第一段落と同じくらいの分量書かないと見栄えが悪い。いや悪いってほどじゃないけどさ。はー、寝るか。

20121109Fri0137

旅立ち用語

カラオケで初めて AiM 「いつも いつでも」他 2 曲を入れた。アニメ『デジモンアドベンチャー02』のエンディング曲であって、僕は小学生高学年ごろデジモンに高い関心を向けていたのですよ。当時は、存在するデジモン( 2~300 ほどいたのかな)のすべての名前と技名を把握していて、マニアックな力を発揮するにおいて人生のピークだったとも思うんだけど、それほど意欲を傾けていたデジモンの映像を、これはじつに久々に目にしたにもかかわらず、拍子抜けするほどなにも感じなかった。すっげえ懐かしい映像が出てきて、当時ビデオにとって大事にしてたやつで、ほんとに 10 年越しで見たんだけど、「ああこういうのあったわ」としか思わなかった。細かく言えば僕の関心の中心はデジモンでも特にカードゲームにあって、アニメはむしろ人間とかごちゃごちゃしたストーリーとか不純なものが含まれた、いわば傍流のものとして位置付けていたんだけど(これは当時見てたウェブサイトの影響が大きい)、でも毎週見てた、記憶のトリガーとなっていたはずの映像が、特に何かを喚起するものではなくなっていたことには、なにか感慨深いものがあった。

人の影響はあったにせよ、僕がデジモンのアニメを軽視していたことは、今の自分が小説やアニメや映画にほとんど触れていないことに繋がっているなあと感じる。今も昔も、ストーリーを追うことに興味がない。キャラクターを把握することに興味がない。そうそう、さっきのカラオケで流れてた映像、『デジモンアドベンチャー02』のダイジェスト版だったんだけど、浮かんできた感想が第一に「こんな顔のやついたなー」であり、第二に「こんなシーンあったっけ」だった。キャラクターの中身に、つまり「それがどんな奴か」に関心が向かなかったんだよね。今でも、はっきり言ってしまえば、他人に興味がなくて、ひとがどういう考え方をするか、知りたいと思うことがあまりない。どこかに表面化した考え方について、それを面白がるということは少なからずあるけれど、表れていないかぎりは、相手の顔の背後になにがあるのか、興味を引かれることはない。いや「怒ってるのかな」とかそういうのは気にするけど、それは「その人が自分に対してどういう感じを抱いているか」という角度からの関心、つまり自意識の裏返しでしかないし。

そんな流れのなかで恐縮なのだが、小説を書こうと思う。まあ今すぐ書きはじめるわけではない。たとえば卒論が終わったら、大学 4 年間の清算として書いてみるのもいいかもしれない。(そういう態度は的外れだと思うのだが。)小説は、その人の自意識を残酷なまでに反映するものだという気がする。たぶん詩とか短歌・俳句や、また随筆・評論などは形式ないし様式、あるいは特定のテーマがあって、それがそれらを普遍的なことばたらしめている(詩が普遍的なことばであるというのは奇異に響くが)のだが、小説にはいっさいの縛りがなく――というのは、「小説には語るべき対象がない」というような意味で――どんな意味だよ――、そのぶん書く人の「地」がフィルターを通さないまま、なまのままで出てくるんじゃないかと思う。思ってみた。思いつきです。でも、どんなキャラクターを造形するか、どんなストーリーを敷くか、キャラクターにどんな行動をとらせ、なにを語らせるのか、どんな言葉遣いをするか、それらすべてに作者の自意識がにじむ余地があって、まあなんかたいへん危険だと思う。主人公の口を通して作者の思想を語ればイタいし、主人公がたどるストーリーに作者の願望がそのまま実現されてると見られれば恥ずかしい。でも、こうして一般的なことばかり一般的なことばでぐるぐる暫定的な答えばかり出しながら書き続けるよりは、小説を書いて自らの自意識に対面するほうが教育的ではないかとは思う。

20121105Mon2105

ゆめみているよ

救いがほしい。なにか一つでも。僕の生活がどんなにみじめでも、ひとすじの救いがあれば生きていける。

救いはどこにあるのか? まっさきに思いつくのは恋人の存在だ。恋人が存在すれば僕は救われる。いや、そんな単純な話ではない。僕のありようを無条件で受け入れてくれる誰かでなければ、そしてその無条件で受け入れてくれているということを実感できなければ、救われることはない。だがそれは生活上のほかのさまざまな達成、十全な理想的なコミュニケーションを他の人と行なうことと同じくらい、難しいことだ。無条件で受け入れてくれることを誰かに求めることさえ、僕はできない。ただ口を開けて待っているだけ、しかもちょっとエサを入れてみようと思ったら口を閉めてしまうので、誰にもどうにもできない。願いは叶わない。自分がまっさきに、いちばんの願いとしてそれを願うかぎり、それは叶わないしくみになっている。理想はいつまでも理想のままで、頭のかたすみにこびりついている。

救いはどこにでもある。川辺を散歩してるときでもいいし、外国語の勉強をしている時でもいいし、寝る前に神が降りてきてもいいし、誰かと交わしたちょっとした言葉が救いになることもある。それを見つけるのは自分自身だ。救いは僕の世界にたくさんちらばっていて、それを見つけるのは、救いとして認識するのは、自分自身だ。救いは救いとして認識することで、はじめて救いとして現れてくる。

あいかわらずあらゆる種類の失敗を恐れて、ひとと会話することができない。自分のいいかげんさが露呈することは、自分がいいかげんな人間だとして認識されることがこわい。拒否されることはこわい。拒否されることに直結するから、失敗はこわい。誰かと誰かが仲よさげに話していたら、自分が疎外されていると感じる。疎外されていると感じて、その輪から遠ざかる。自分からはたらきかければ、その輪に入れてもらえたかもしれないのに。

20121105Mon1041