2012年10月のログなんだよ


ぼくは永久培養

なーんか疲れてきたのでまた一月くらい Twitter みるの控えようかなーと。不用意なこと言ってる人がいたり攻撃的な人がいたりと無用に神経をすり減らすきっかけが多くて、そのたび僕は波風立てない出方を探ったあげく時間差で婉曲な文句を垂れたりしてるのでまあ疲れますよね。ムカついたら名指しで喧嘩ふっかければいいんだろうけど、そんな性格でもないので。いや性格は変わらないから解決策を行使しないことが正当化されるとか言いたいんじゃなくて、まぁでも半分はそう言いたいのかなあ。ただまあ今はそんな気にもなれないし喧嘩ふっかけてたら嫌われそう、って懸念がたぶん強いんだけど喧嘩もしなけりゃ分かりあえないさ。殴り合いがしたい。でも僕らは殴りあってもすぐに我に返ってしまうのさ。殴りあってまで分かりあおうとはしない無関心の時代ですか。あと関係ないですが女の子に体当たりされたいです。ここには僕の欲望のありかたが要約されている。

なにがバカバカしいって、私のいう Twitter もあなたのいう Twitter も、 Twitter そのものではなく私のタイムラインでありあなたのタイムラインでしかないってことよね。タイムラインは自分が築くものであり、その人はそのタイムラインの主であり創造主だってわけですが、まるで神様みたいだねまるで神様みたいだよ、勝手に世界作ってお好みの人住ませてた、自分勝手な神様( TOMOVSKY 「カンチガイの海」)てな具合に、自分の作った世界に悩まされてるってどうにもバカバカしいですよねって話。自分の書いた小説の登場人物が作者たる自分を dis ってくるんだぜ。もし神がいたらこんなひどい世界にゃなってねえよって言い方がありますが、神様もあんがい「こんなつもりじゃなかったんだけどナァー」って自分の作った世界に頭抱えてたりするんじゃないでしょうか。ぼくはペシミストではないですが。あと有神論者でもないですが。仏教かぶれだし。でも仏教ってペシミスティックだよね。しょせん Twitter は人間の作った空間であって、浄土ではなかった。

自分の作った世界には自分も住まうわけで、住んでいる以上はその世界に影響されるのは当然といわねばなりません。つまり私たちは世界を外側から眺める神様にはなりきれない。部室とか職場とか教室とかと類比的に考えられるように、タイムラインにはそのタイムラインの空気・雰囲気があって、それは濃い薄いの違いはあるけれども、いずれにせよ自分はその空気のなかで発言しなければならないし、その雰囲気の中でものを考えることになる。誰の前でもまったく同じ話をする人がいないように、音楽の話をする人が多いなかでは自分も好きな音楽を語りたくなるし、死にたいという人が多いなかではそれほど死にたくなくても自分もつられて「死にたい」と言いたくなるかもしれないし、逆にポジティブなことを言いたくなるかもしれない。自分がそこでものを考え、発言するところの“場”を、自分好みにかなり自由に設定することができるのが Twitter の特徴で、でも自分が住まう場所が自分の自由になってしまうのは一面ではこわい。自分で自分好みの世界を作って、そこに住まうというのは、なにか危なっかしい。僕なんてまだ 22 だから、ずいぶん不完全な世界を築いてるはずだし、管理もうまくできない。自分の自意識が強く反映された、仮想的な「現実」に何度も帰ってきて、浸かるのは、いずれよくない影響をからだに蓄積していくだろうという気がする。鏡に映った自分が自分の悪口を言い始めるのなんてやだよ。自分の悪口を言うのは、やっぱり他人でいてほしいし、そのときは名指しで dis ってほしい。

だからみんな日記を書いてほしいんだよね。 140 字ならいずれ定型化された記号的なことばしか飛び交わないよ。そこには他者はいない。ちょっと気の利いた「いい話」ばっかりリツイートされる世界なんてごめんだ。

(陳述者は、これを書きあげた 8 分後に早くも Janetter を起動した)(なんか書いてすっきりしちゃった)(これからもてきとうにかしこく付き合っていく所存)(おれには世界に介入してこれを利用しようという根性が欠けているな)

20121030Tue2210;1101Thu0040

馴れ合い予報

(不快感を与えそうな話なので、注意)

性欲処理というけども、自慰(と、打ち出してみて思ったがこの行為を指すニュートラルな名詞が見つからない/「抜く」を名詞化したやつが欲しい)をするときにべつになんらかの欲求を処理してるって感じは伴ってないなあと。テレビを見るようにあるいは聞く音楽を選ぶように、食事をするようにあるいは駅まで歩いて行くみたいに、それを楽しみとして抱える部分はどうしてもあるし、まあ「溜まる」し溜まったら出さないと寝てる間に出たりするので一種義務的にやってるのではあるけど、とにかくそれでべつに欲望が収まったりするわけでもないし、それでむしろ欲望が呼びさまされて翌日はアンテナが敏感になりさえするのである。やっぱりひどい話。

ぼくが女の子をなんらかの形で消費してるかっていうとこれはもう断然「している」のであり、トゲトゲのついたグローブをはめて無数の風船の群れに突入する勢いで消費していると言わざるを得ない。電車の中では女の子を見てばかりいるし、そうでなければ本を読んでいるか窓の外を見ながらぼけっと考え事をしてるかしてないか、寝てるかである。眼に映る対象が男性か女性か(かつ、若いかどうか)で相当程度ラベルで分類したうえで風景を切り分けてる。自分でいうのもなんだが、わたし、実は強固な差別主義者だと思う。男性と女性が明らかに違う、埋めがたいギャップがある、というのを出発点においてる点で。さて、ここまで「消費する」ということばを裸のままで使ってきたが、「消費する」って具体的にはどういうことだ? 逆に、消費しない接し方はあるのか。いや違う。直接接しないからこそ「消費する」という関係のありかたが成立するのだ。一方的な関係、関係ならぬ関係、半直線になぞらえて半関係。見られずに見るという関係、一方が主体で他方が客体の固定された役回り。だからつまり、僕が言ってる消費するというのは、一方的に見てる、ってことなのであり、一方的に見ることに満足を見出してそれ以上を求めない、ということなのである。もちろん実際に話したりなんらかの干渉をもつのであれば話は別です。

「誰でもいいのか」ってのはデリケートな問題であり、また僕が考えるより女性にとってはさらにさらにデリケートかつ深刻な問題なのであろうと想像するが、まあまず好みの偏向みたいなものはやっぱりあるわけで、誰でもよくないのかなと思う、と同時に、その好みの射程に入ってればいいわけだから、その限定のもとではやはり「誰でもいい」ことに結局はなる。もちろん「つかみ」の段階に限った話だけど。誰でもいいってのはつまり量化子のスコープみたいな話で、誰に対してもAという好ましい性質(たとえば「女性である」)を見出すことができるから誰でもいいのか、どんな人に対してもなにかしら好ましい性質Xを見出す(つまり、「その人のいいところを探す」)ことができるから誰でもいいのかって違いはある。しかし率直にいって僕にとっては「誰でもいい」かどうかはどうでもいい。すべては関係性によって生じているのでどうせ人間に固有性などないのです。わたしもあなたも無数の人間のうちの一個体にすぎない。好きになったら好きになったってその一点だけで特別さを主張するに十分だし、その点以外に特別さを主張する根拠はないし、そもそもべつに特別さを主張する理由もない。

しかし所謂オカズを探していると当たり前だがひとが性行為をしている映像をたくさん目にすることになるわけですけども、自分はそんなものに縁がないのに一方ではそれをほとんど日常的と呼んでいいくらいにしている人もいて、と考えると胸が詰まりそうになることもあります、とか書いてる自分にいま頭がくらくらしている。べつに嫉妬とか絶望とかでなくて、この現実にただただめまいがする。高層ビルの屋上から見下ろしたみたいにね。でもセックスはいいからとりあえず僕はキスがしたい。僕は電車で女性が隣に座ったらほとんどいつもキスしたいなと思っているので気持ち悪がられても嫌われても仕方ないと思います。

20121030Tue0010;1801

幸福について、および目的と手段についての予備的論考

まえのバイト先の同僚に縁があって昨日は演劇を見に行ったんだけど、その中で目的と手段を取り違えた男が出てきて、その人はけっこうかわいそうな運命をたどっていくんだけど、思いつめるというのはこわいですね。思いつめることは視野が狭くなることであるし、思いつめないように生きていたいなーと思うんだけども一方で思いつめないと出てこないパフォーマンスもあるかなとも思うので、でもそれは「思いつめる」こと自身から出てくるんだろうか、情念の噴出は、しかし、抑圧の契機なしにはそれは現出しなくて、水鉄砲の構造ですよね。思いつめることは視野が狭まることであり、それゆえ明らかに不適切な解決策を選ぶ(破滅とか、自暴自棄とか)ということをその帰結としてもつことができるのだが、明らかに不適切な解決策を選ぶということが適切な突破口として成り立つ場合があるのだろうか。

幸福が人間の究極の目的であるならば、それが単一なものか複数あるものかが気になる。ある幸福なるひとまとまりの容態があって、その共通の幸福をわたしたちは求めるよう設計されているのか。それとも私たちひとりひとりにそれぞれ別べつの幸福があるのか? その場合もそれら「幸福」にはなんらかの次元で共通するものがあるには違いないが。タイプとトークン。幸福が私たちの究極的に求めるところのものであって、究極的に私たちの求めるところのものを幸福と呼んでいるのなら、つまり幸福というものは中身のない名前なのか? ただ「求める」というはたらきのみが存在して、そこに「幸福を」という空虚な目的語が付属するだけなのか? しかし求めるというはたらきは必ずなにかしら目的をもつものではないか? 「俺たちは求めているんだ」「何を?」「何かを」。これは何を求めているかわからないけれども、何かを求めている人のセリフだ。この「何を?」という問いが有効なものであること。つまり「求める」は動かしがたく他動詞なのだ。「走る」とかとは違う。「俺たちは走っているんだ」「何を?」「は?」こうした受け答えが通る。代わりに、「走る」には「どこへ」という問いが可能であり、走る者はそれに応答する義務が、ふつうはある。「授業に遅れそうだから教室まで走っているんだ」。だけど目的地のない走りもある。「どこへ走っているの?」「いやどこというわけではないけど」。ジョギングがそれにあたる。目的地ならぬ目的のない走りだってある。「なんのために走るの?」「いや、なんとなく」。ひとは意味もなく走りたくなる。そのとき「走りたい」という欲求語のみがその動機を説明しうる。さて、元に戻って、目的なき「求める」はたらきは存在するのだろうか。「何を求めているの?」「いや、何も求めていないけど、求めているんだ」これは矛盾である。目的なき求めは世界に居場所を用意されないだろう。しかしこの構造をふくむのは「求める」だけではない。「気付く」とか「面白がる」とか「目を向ける」とか、「読む」とか、「さわる」とか、つまり目的語をもたずにはいられない動詞はいくらでもある。

話がずれてきたが、つまり「求める」には必ず「何を」という目的があるはずではないか? そして私たちが究極的に求めるところのものを「幸福」と呼ぶのであれば、その「幸福」はなんらか固有の意味を伴っていなければならないはずだ。「幸福」という項を消去してよいのだとしたら、「幸福を求める」は「__を求める」という、目的語を欠いた表現と同一視され、それゆえ無意味、ナンセンスであることになってしまう。だが私たちは「幸福を求める」ことを、ナンセンスではなく何らかの事態として了解する。だから「幸福」を、ただ「私たちが究極的に求めるもの」の同義語として、理論的に規約によって定義されたことばとして理解するこころみは破綻する。というか、そういう同一視が可能だとしても、「私たちが究極的に求めるところのもの」はなにごとか内容を伴っていなければならない。幸福を「求める」概念だけで還元することはできない。

ストレートにいえば、「幸福感」なるものは存在する。それは甘いものを食ってるときであったり、音楽に聞き入ってるときであったり、一人で散歩してるときであったり、そういうときに訪れる。もちろん必ず訪れるのではない。幸福感が生じる条件を特定することは不可能ではないと思われるが、その理論はかなり複雑なものになるだろう。ともかく、幸福感にはいわば色があり、「ざらざらしてる」とか「センスがある」とか「痛い」とかと同じように、それ特有の内容をもつ。幸福は単なる透明な理論語ではない。だが幸福感と幸福と「幸せ」とは少しずつ使われる場面が異なるように思う。つまり、一時的にせよ幸福感と幸福と幸せとを峻別する必要があるのではないか。「幸せになろうね」というのを結婚という特定の事態に引き合わせて使うこともあるし、「あいつは悩みがなくて幸せそうだな」というのは必ずしも言及先の人に幸福感が生じていることを含意するわけではない。いわば幸福感は対象だが、幸せは事態へ向けられる表現だ。

……ところで、ここまで書いてきた「求める」概念の分析は、的外れなのだった。「私たちが究極的に求めるところのもの」は、じつは「○○を求める」の空欄を埋める形で与えられるのではなく、「○○のために××を求める」という形式において与えられる。つまり、私たちは、幸福を求めているのではなく、幸福のために何かを求めているのである。そしてその何かは食事であったりスポーツであったり恋愛であったり文章を書くことであったり机に頭を打ち付けることであったり、する。かりに、すべての「求める」はたらきが「○○のために」という目的項と「××を」という手段項をつねにもつものとしてみよう。知識を得るために本を読むのであり、知識を使うために知識を得る。知識を使うのはなんのためだろう? よりよい生活を実現するためか。しかし「よりよい生活を実現するのはなんのため?」という問いはナンセンスである。よりよい生活は手段ではなく、どこまでいっても目的である。よりよい生活、すなわち幸福は、どこまでも目的たることをやめない。幸福は手段となることができない。それが実現するとしても、なんらかの手段によって間接的に実現するしかない。ふしぎだね。と、軌道修正したところで今日はここまで。目的と手段についてはいろいろ押さえるべき点があるはずなので、まあゆっくり進めていきましょ。

*今後読みたい文献*
アリストテレス『ニコマコス倫理学』、岩波文庫、1971改版。西洋古典叢書のやつもあるけど……文庫で持ち歩きたいよね。
Peterson, Christopher. A Primer in Positive Psychology. Oxford UP. 2006. 訳書は『ポジティブ心理学入門』宇野カオリ訳、春秋社、2012。訳本にはレファレンスが一切ついてなくてブチ切れたので原書でもってます。あと抄訳らしい。

20121028Sun1419;1801

三度の飯よりキミが好き。

水水水水うめえ。さて、気を取り直して、風呂浴びながら反省するに、確かなのは、帰ってごはん食べて自室に転がり込んでギターさわりながらパソコンつけるというこの流れがどこまでも悪いものだということで。ギターはなにか曲を再現するでもなく、押さえ慣れたコードと存在しないコードを無秩序にがさつに鳴らし、眼はディスプレイのカラフルな平面に固定し、余計なメールチェックと更新チェックを繰り返す。ツイッターのタイムラインを上下する。ジャンプトゥザスカァァァァァァァァァァイ。風呂浴びれば考えが進むことは経験上知っているのに、からだが動かない、本と書類が積み重なったこの机のまわりに釘づけにされてしまっている。眠くなってきた。午前中は教習所に行っていたからな。教習所が果たして期間内に終わるのか不安が高まってきて、階段を上ってるときも授業を受けてるときも本を読んでるときもiPodききながら家まで歩くときも教習所の懸念が脳裏で繰り返されてそれはまるで恋人のように。むー(教習所の説明冊子をにらみながら)。←こういうのってマンガ的な表現法だと思うのですけど、ぼくはマンガをあまり読まないので自信はないですがね。現代ではマンガ・アニメ文脈というものがけっこう幅を利かせていて、その文脈を読めないといろんなものが読めなくなったりするのですけど、そのことに対して僕がどういう態度をとるかといえば、そりゃ読めたに越したことはないのですけどそれより優先的に読みたいものがあるし、マンガもそんなに読みはしないので(自慢かよ)それは今後も変わることはないのだろうと思いました。そんなだから人と話するのに困るのだよ。生き方間違えてる。生き方間違えてるっつってへらへらできるのはこのほーむぺーじの中だけだし。いやー水うめぇよ。なんちゅうかこういう、「これこれの理由があるし、俺は今後も変わることはないだろう」みたいな書き方は自らを正当化しているものと読むしか事実上なくて、間違ったことを正当化しようとしてる、カッコわるい、そういう印象を受けるはずなのですがそれは外在的レトリックのせいであって私の意図するところではありません。負のレトリック。マンガを読んだ方がいいのに読まないしこれからも読む気がないので最悪です。このままでいいとか微塵も思わないです。ぼくわ。さいきん乾燥しますね。アトピィで指がところどころひび割れて不便です。

20121025Thu2332

ふー。

なんか落ち着いているべきときに限っていろいろ起こるものだ。今月頭にも似たようなことあったぜ。「最近あった悲しいこと」と尋ねられて特に何も浮かばず、そういや悲しいなんて感情は忘れてしまったのかなあと思っていたのだが、なんか近頃悲しいことが起こる。悲しいのは当事者じゃないからだ。悲しみは非当事者のふるまい。僕はなんの当事者にもなれない。無力。加害者でも被害者でもない、傍観者にもなりきれない。自分には感情がない、感想がない、関心がない、そう思い続けてきているが、またしても、自己保身のために、自分が傷つくのを極端に恐れるために、自分がつまらない人間だということが露呈するのを恐れるために、自分で自分から隠しているだけなのかもしれない。自分から逃げ続けているだけなのかもしれない。それをあまりに長い時間続けたので、元の場所を見失ってしまったのかもしれない。な。

……こんなふうに、なんでも「自分の弱さ」に引きつけて消化しちゃうのも考え物だよねぇ。なんか。自己開発だけが人生じゃないし。自分と他者とをがっつり分け隔てて考えてしまうことの一種の寂しさというか、んー、自分の人生をよくしていくのは自分だ、自分の人生の主体は自分だ、というのはひとつの態度だし、つらぬけばりっぱなことであるんだけど、いわば戦争が起こるのは自分が弱いせいだけじゃない。というか。

20121022Mon2110;2302

翡翠の労力

午前中は教習所。やうやく仮免許を手にして、路上に出ておるのですが、走行中車体が左に寄ってしまって、たぶん 10 回以上注意されてるのに直らないので絶望的です。「直らない」って言いかたに考えの甘さが透けて見えるのかもしれません。直るのではなく直すのだよ……。ほんと不注意で周りが見えてなくて困ります。困りますってまとめ方はまずい。てか 60 分で 10 回注意されてるとしたら 6 分に一回やろ、改めて考えてみると迂闊すぎる……。どうしたものかな。

それから一旦帰宅して、お弁当を食べて、電車で銀座まで向かう。こっからローカルな話になります(私はインターネットではユニバーサルな話しかしない主義です)。銀座ってとこは新宿より渋谷より「都会!」って感じがするし、ザギンでシースーとは都市伝説なのではないかと疑った矢先に寿司屋を見つけた。あと人が多いね。で何しに来たかというとオリエント工業の展示会「人造乙女博覧会III」に行って来たのですけども、やってるの明日までなので紹介のタイミングとしてはかなり悪いですが、展覧会そのものはなかなかよかったです。実物のラブドール触れたしね。なんか「シリコン!」って感じでした。よって人間の肌とは触り心地は違うのだけども、人間の肌よりも真正の透明感がありました。造形なんかもとても完成度高いよ(特に顔)。触らせてもらうときに腕とか顔とか胸とかをふつうに「つまむ」感じでやってしまったので後で反省しました。それは人でなくて「モノ」を扱う態度だろーって。

あと適当に本屋など見て、駅まで向かった。途中、托鉢僧がいて、托鉢僧といえば僕としては渋谷駅でよく見るやつが思い出される(鈴をやたら鳴らしてうるさい!)んですがあいつはどっか偽物っぽいな!と思っているんですが、銀座のやつはどうも本物のようだと思われました。笠も丈夫そうだし、けっこう年いってるっぽいし、「○○県うんぬん××徒弟」とか書いてある札をつけてたし、なんか口元でぶつぶつ唱えてたし(たぶんお経のたぐい)。でも「うわ本物だ」と思って通り過ぎたあと、お金入れとけばよかったって後悔しました。喜捨のチャンスだったじゃん。最近喜捨がしてみたいんですよ。銀座の街並みに托鉢僧って鮮やかな対比だなーと思いました。

それから代々木まで行って惰性でカラオケ。惰性っちゅうか日課ちゅうか、歌いたい曲があるわけでもなく、いやだからこそ歌うことに集中できるとか理屈つけて惰性。 1 時間。風邪気味が残ってるわりにはけっこう楽しめた。鼻声だったけど。でももっとあたらしいあそびをみつけなきゃだめだ。

最後にようやく大学まで来て、切れかけてた定期を買って、図書館でロシア語の宿題やって時間をつぶして(電車で座りたかったので)から帰った。卒論は結局やらず。

20121019Fri2317

ダイイングミートソース

現象学を独我論的だと言う人がいたら、その人は主観性というものを無批判に受け入れてしまっている人だと思う。

主観性というものが僕は気に入らなくて気に入らなくて、自我なんて消え去ってしまえばいい、サブジェクトなきオブジェクトだけの世界になればいいと日夜願っているほどですが、まぁ嘘なんですが、しかし自我は消え去ってしまうに越したことはないですねえ。さて、それはともかく、僕が主観性をわりと目の敵にしてるのは、哲学っぽいのが好きな人にありがちな傾向として「すべては主観的にしか知られない」と思ってるってのがあると思うんです。まぁ哲学のイントロダクションでたとえば目の前に鉛筆が見えてるからってそれが存在するとなんで言えるのか?確かなのは鉛筆が見えてるってだけじゃね?エッセエストペルキピィじゃね?みたいな話があり、かりに鉛筆の存在を客観的なもの、鉛筆の見えを主観的なものと呼ぶ(※これ雑な話ですよ)ならば、客観的世界ほど不確かなものがあろうか、そして唯一確かなものが主観的世界であり不確かな客観的世界は抹消してしまうべきだ、むしろすべてを「私」を基点として展開する世界と考えたほうがリーズナブルだ!というふうに考えを進めてみるのは誰しも経験があることと思います。でもそれってスタートラインであってゴールにしちゃいけないと思いますし、哲学をやるならなおさらそうですし、客観的世界の確かさを疑いつつも主観的世界の確かさには安住しちゃうなんてそんな不平等な話があるかっ!て話です。つまり客観性を批判するなら同じようにその刃物を主観性にも向けていただきたいなっと。

ところで前段落の冒頭で僕自身が犯してしまっている論点先取なんですけど、話のはじめに「主観/客観」「自己/他者」のふたつの概念対を区別しておくことは重要です。主観と自己は互いに似ているし、関わりあっているけど、これ混同するとたぶんいいことないです。僕は「自我」なんて言葉も出してしまっていますが、まあとうめん「主観」という言葉だけで我慢しておくべきでしょう。さて。

現象学について僕は不勉強なのでちょっと一般的な例に逃げます。先生が講義で認識論の話をするために、チョークを取り上げて「私には、ここになにか小さい白い広がりがあるのが見える」 (P) とか言うとする。ここで「私」という語が出てきます。つまりこの命題 P はひとまず先生だけにとって妥当する、主観的な知見です。 P にはその発話者たる「私」つまり先生より他の人がそのチョークを見ている事実は含まれていないから。さて、先生はこう続けます。「この広がりがチョークであることを私は知っている」 (Q) と。なんか非常に馬鹿げた話なんですが、この話を聞いたあなたが「お前がチョークを認識するかどうかなんて知らねえよ」という感想を抱かなかったとしたら、そこが重要な点です。つまり先生は先生の主観的な話をしているのに、聞いている私たちはそれを理解する。つまり、命題 P や Q は、それが通じたとたん、客観的なものになる、とは言えないでしょうか。現象学についても事情はきっと同じで、主観的な体験から出発しているはずの現象学の知見が、他の人に理解される(そして可能的には誰にでも理解できる)としたら、もはやその知見は客観的と呼ぶべきなんですよ。

もうけっこう長くなってますが、はじめに挙げた「すべては主観的にしか知られない」というテーゼその周辺についても触れておきます。端的に言って、あなたが言ってるその「主観」ってどっから取り出してきたものですか?ってのが気になる。ここで、ものを見る際に光が目に入って神経を電気信号が通って脳に到達して「意識」に像が映る……みたいな話は、神経科学とかちゃんと勉強した人しか扱っちゃだめだと思います、まずは。そうでないと不思議な物語をただ受け入れちゃってるだけになるから。話を戻すと、たとえばふたつ上の段落で挙げたみたいに「目の前に鉛筆が見えてるけどそこから鉛筆が存在するとは結論できない」と考えたとき、そこから「鉛筆が見えてる(あるいは、鉛筆に見えるなにかが見えてる)ことは確かだ」と述べることにはさしあたり問題ないでしょう。しかし、それが「私の」「主観的な」体験だということはどのようにして引き出されるのか? 「見えてる」とか「聞こえてる」とかいうのは主観的な体験に決まっておろう、というのはドグマだと思います。「私」(自己というとすわりが悪いので言い換えます)とは「他者」と対の概念で、他者ならぬ者を私、私ならぬものを他者と呼びます。つまりある意味では他者なしに私(という概念)は成立しない。私という言葉を使うときには、(少なくとも概念としての)他者の存在が――つまり客観的世界の存在が前提されています。うーん。ちょっと踏み外したかも。まぁとにかく、外部の刺激が私というフィルターを通って解釈されるとかいうんならその「私というフィルター」の存在ってどこで知りましたか?って聞きたいし、私というフィルターを通される前の「外部の刺激」に言及した時点で客観的ななにかの存在にコミットしてやいませんか、と言いたい。

あと、すべてが主観的だと言うのなら、客観的だと言えるものがどこにもない以上、あるものを主観的だとことさら強調する必要もなくなるはずなので、つまり「主観/客観」の対立が解消するので、「すべては主観的だ」というのはトートロジー、何も述べていないトリビアルな命題ということになりますね。

さて、ここまで参考文献ナシで書いてきたんだけど(いや参考文献つきで日記を書いたことはほとんどないし、参照するにしてもせいぜいちらっと眺めるくらいだが)、というのはパッと思い浮かぶ文献がないんですよね。現代形而上学とか好きそうな話題なんじゃないかと思ったけど、見渡した感じ出てこないし、哲学的にあまり興味深いテーマではないってオチですかね。あ、ネーゲルの『どこでもないところからの眺め』が近い話を扱ってるかも。というか、帯に「主観と客観の相克」ってあるじゃない。ネーゲルはおすすめですよん。かれの議論は要約しづらいので使いにくいですが。

なんか、毎年このくらいの時期になると論争的になってますね。去年の今頃も主観性の話を書いてたし。

20121018Thu2138

飛び級操作

窓開けたまま寝たら喉を悪くしました。みなさま風邪など引かれぬよう。てめえらの人生になど興味ないので告げるべき言葉が i love you くらいしかない。もしあの日あの時に戻れたらとか自分が別の人のもとで生まれていたらとか自分が女性だったらとか考えるのはコウモリであるとはどのようなことか考えたことのない人の所業だと思いました、まる。発言するときにはその発言をすることでどんな自分を演出したいかって思惑がつきまとってるよね。ばかめ。でもごはんはおいしいですよ。喉は痛いけどお昼のお弁当がもりもりおいしかったし、食事は食されるものと食するものの両契機がそろって初めて成り立つのはライブでプレイヤーとオーディエンスが一体となって盛り上がりをつくるのと同じ事情です、たぶん。おれはいつになったらライブというものに足を運ぶのだろう。とりあえずごはんをおいしく思える段階で食いとめときたいなあと思うわけで、めしがうまくないレベルまで風邪を深めるのはやだなあとめずらしくはっきりと覚るわけです。苦痛は苦痛であることそれ自体で必ず避けるべきものであるというテーゼを僕は信じていなくて、アキレス腱伸ばすのとかストレッチがけっこう好きだったりするし、精神的苦痛を感じてる人はその苦痛が刺激になって一種気持ちよくもあるんだろーそれが事態を複雑にしてるんだろーとか考えたりもしますが、病気になると病気を治そう治したいという思いに心の底から染まっていくので不思議です。まァ病気にはならないに越したことはないですね。まあ人には持病というものがあり僕なんか軽いアトピーを抱えてるので年中病気といえば病気なのですが。あと自分で病気だとか言う奴は信用ならなくて、病気じゃないと主張するけど明らかに病気な奴がリアル病人です。すなわち自分が狂ってると思ってる哲学科生は狂人として二流だしできれば仏文か独文になりたかった……! われわれは正気だってことに気付かねばならない。

20121016Tue2133

年増算数

音楽そのものを楽しむこと、そこで流れている音をそれ自身として受け取ること、それが理想的な鑑賞のありかただ、そういう見方があります。余計な意識が入り込まないように、音楽の技法に関する知識だとか、作曲者作詞者演奏者の人となりに関する知識はむしろ排除したほうがいい、そういう見方があります。でもそれってどこかに、自分の知識に自信がないことを正当化しようとする心が背景にあるんじゃないかって気がします。まぁ言いたいことはわかる。でも音そのものを楽しむって正確にはどういう意味なんだ? そんなこと可能なのか? ギターの音をギターの音として認識してしまった時点で、純粋な鑑賞とやらは崩れ落ちてしまうのではないか? 歌詞のイメージは楽曲全体に色を与えるが、それは楽器の響きとか、メロディーをゆがめてしまうことになりはしないか? 音楽を演奏する者はその舞台裏を知っているから、鑑賞者としてはむしろハンデを背負っていることになるのか? 音楽(に限った話ではないが)には複数の要素が含まれ、それらは相互に作用しあって全体の映り方を変える。そして、たとえば作詞者の人となりを知ることで歌詞の読み方が変わったりするのもまた、これと同列なのではないだろうか。そうした要素だけをバイアスとして扱う理由はあるのだろうか。

でもまあ、確かに、「余計なこと知ってしまったな」というのはあって、 Cornelius やってる小山田圭吾さんが雑誌上で過去に自分がしたいじめを愉快そうに語ってるという一件を(はじめて見たのもう 5, 6 年くらい前なんだけど)ネットで知ってから、彼の作品を敬遠し続けていて、フリッパーズギターは聞いたけどコーネリアスは結局まだ聞いたことがないのよね。まあこれ「聞いてない」という話だからすこし違うけれど、自分が聞いてる音楽を作ってる人が性格悪いとかいう噂は2ちゃんねるの邦楽板にいれば(今はどうか知らないけど)ちょくちょく目にすることにはなるわけで、すると音楽聞いてるときに「ああこの人性格が悪いのかぁ……」とかいう意識が重なってきたりして気持ちが沈んでくるというようなことはありました。こういうケースは、うーん、でも、端的に言って、いまは作者の人格と作品とは切り離せると思ってるんだよなあ。それとこれとは遠すぎるっていうか。作者が邪悪だからって作品が邪悪になるわけじゃないっていうか。あんまし根拠はないんだけど、悪人が住んでいるからといってその家が悪い家だってことにはならないのと同じような気分で。作品は作者からまさしく「リリース」されたら、完全に切り離されてしまうんだって気がする。とはいえ作者が作品について語ることばは、その他の人が語ることばと異なる意味を帯びるってのも事実だとは思いますが。ただしそれは、作者の言葉がいつも正しいってことを意味してはいないんですが。作者と作品は別べつの存在者だが、特別な関係性をもつ。くらいの感じ。

でも歌詞には影響あると思います。その作詞者が性格悪いとか、家族思いだとか、印象派に興味があるとか、中卒だとかいう情報は、確かに歌詞の読解にかかわってくる。あと音楽の作り方にも影響あるかもね。でも演奏者の性格が楽器の演奏に現れてくるかっていうと……このへんはバンドやってる人には分かるのかもしれません。ただ、こういう、情報が鑑賞に与える作用は、ふつう「鑑賞の深さを増す」と評価されるわけで、それがなぜむしろ「純粋でない鑑賞」として斥けられうるのかは、やっぱり説明を要しますよ。

邦楽板の話でいうと、もうひとつ、あそこでは「○○は××のパクリ」という話もよく流布していて、そういうのを意図的でないにせよ目にしていると、たとえばミスチルを聞くときに「これってあれのパクリなんだよな、オリジナルじゃないんだよな」と思うことで、聞いてる音楽が色あせたような感じがしたこともあります。もうほとんど忘れたので今はそういうのはないしミスチルはかなりオリジナルな音楽だと思ってますけどね、げほっげほ。余計なこと言った。それはともかく、その音楽がオリジナルなものかどうかはひとまず芸術史の問題であるわけですが、うーん、これも音楽の鑑賞それ自体には無関係であるべきかなあ。歴史的に価値があるかどうかもまた音楽を評価する一側面ですが、それは音楽として優れてるかどうかとか感動を与えるかどうかとはひとまず独立だと考えましょう。もちろん「この作品で音楽の歴史が一歩進んだな」なんて考えて感動する感動の仕方もあるとは思いますが、それは音楽を聴くことでもたらされる感動(って、さっきから感動感動言ってますがべつにもっぱら感動するために音楽を聴いてるってわけでもないのですが)とは別物、ですね。パクリ疑惑を知ってミスチルが色あせたように感じられたのは、歴史的意義が音楽の価値にとって本質的だと勘違いしたせいだ、ということになります。

じゃ、「音楽の価値にとって本質的」な要素ってどういうのだ、ってことになりますが。どういう要素が音楽の鑑賞そのものにかかわるべきで、どういうのがそうでないか、それを峻別することが必要だってことになってきます。しかも恣意的でない仕方で。でもそれが難しいので困るのよねぇ。ただ、本質的にせよそうでないにせよ、音楽を聞くにあたって「音」でない部分、いわゆる文脈がかかわってくるのは事実上避けられないと思います。だから必要な文脈とにせの文脈を区別しよう、ってんですが……。見通しは暗い。

さて、最初の疑問に戻って。

鑑賞は、純粋であればあるほどよいものなのか。純粋でない鑑賞はわるいものなのか。純粋な鑑賞こそが「ほんとうの」鑑賞なのか。そんなん倫理的潔癖に似たドグマじゃないか?って気もする。いやまあ、「ほんとうの」○○があるとして、それこそがなんというか優先的に求められるべきである、みたいな見方はぜひとも検討の価値があるとは思うんですが、有効な根拠を見つけるのが難しいのよね。妥当な鑑賞の仕方というものはあるはずだし、そうした鑑賞に基づいて話をすべきだとも感じるんだけど、「純粋だろうが不純だろうが聞いてて気持ちよけりゃいいじゃないか!」みたいな身も蓋もない快楽主義のほうが今のところ説得力ある。あー、分析美学のいい入門書が早く出てほしいですね。

まとめると、「音のみを聞く」という鑑賞のありかたを僕は本来的な・あるべきあり方だとは思いません。でも別に音楽を聴くのに作者の人となりとかアーティストの歴史における位置付けとかを知らなければ「ほんとうに聞いたことにはならない」とも思いません。でもそういう知識を踏まえて聞くことで見えてくるものはあると考えます。そしてそれは光を当てると机の上のほこりが見えるようになるように、もともと音楽に内在していたものだと考えます。そういう色んなものが見えてきた後の鑑賞のほうが豊かだと思いますが、ただし、それが唯一可能な音楽の鑑賞の方向性だとは思いません。また音楽鑑賞において豊かであることのみが重視されるわけでもありません。つたない音楽を聞いて感動するのだって鑑賞の一側面です。雑だな……。もっとちゃんと考えたい。

関係ありそうな文献とか(これから読みたい):
2012.05.19の日記
丹治信春『クワイン』、平凡社ライブラリー、2009年(観察の理論負荷性の話とか。)
西村清和『プラスチックの木でなぜ悪いのか』、勁草書房、2011年
ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』菅野盾樹訳、ちくま学芸文庫、2008年

20121014Sun1332;2043

ジャン・ジャック・溶鉱炉

政治的ではありたくないものです。人を自分の思うように動かそうとする意図のもとで行動はしたくない。政治するとは言いたくないことを言い、言いたいことを言わないということです。ぼくは言いたいことを言いたい。しかし言いたいことが見つからないこともしばしばあります。小指のささくれ気味のとこを噛みちぎったら血が出てきました。血の味がします。血が流れ出して爪と肉の間を満たして固まるとみっともないのでこまめに吸い出します。言葉の流す血はどんな味がする。そういえば『さようなら、ギャングたち』読み終わりました。あれが巷で言われているようにすごい小説かどうかは結局ぴんと来なかったけど、そこで描かれてる世界観はグロテスクだけどどこか心地よいものではありました。話を戻すとぼくは言いたいことを言いたいし、言いたいときに言いたい。でも会話には文脈というものがありましてぼくは文脈に沿った話しかできる気がしませんし文脈に沿おうとするとほとんど発言できませんしつまらないことしか言えないし文脈に沿わなかったら沿わなかったでつまらないに違いないのだ。(後ろむき)

政治的であるにはぼくらはあまりに不完全だけど、政治性を拒否するには世界もあまりに不完全だったりする。私たちは政治性のなかで生きていくしかないのか。わたしたちの間に相互作用がある限り、政治的であることは避けられないのか? 自分が自分であろうとすることが政治性を呼び込むのではなかろうか。自分であることを捨てれば、政治的である必要もなくなるのではないか? 自分を中心に据えたパースペクティヴをもつことが自然な生をさまたげている。自分を利しようとすることが自分を苦しめる。

不満のあるこの世界をしかし変えたいとは思わない。誰かの利益を犠牲にして世界を自分好みに変えるのは苦しい。真理は万人を救う、はずだったけど最近自信がない。真理を伝えるのは難しい。真理は一時的にせよ人を傷つける。すべてがリカバリーするまで付き合うのは難しい。だから願いながら状況が好転するのを待つしかない。誰も傷つかずに自分の望みが実現されるのをただ期待する。

「潔癖ですね。」

20121010Wed2306

よかった、scotlandだ、scotlaaaaaandだぜ

いよいよ無気力がわたしくも深まってきたとゆうか、図書館で勉強しようとかいう気にはならないのであった。おもしろいことに対して感度が鈍いのは、おもしろそうなことがあってもごはんの時間になったらごはんを食べるのが私の愚かな生活のあり方ですが、おもしろいものに行動を規定されないのよね。残念なことに。だから一生川辺でたたずんでればいい存在者だと思います。学校来ても授業出る以外は所在ないので休み時間は部室にしばらくいて、いてばかりでも埒明かんしとりあえず外出てみて、図書館でも行ってみようかいややめようかと遠回りぎみにキャンパス内を歩いて、結局図書館入ってみて OPAC で上野健爾『代数入門』を特定して現物見てみたら 1996 年刊のヴァージョンでは二分冊になってて、書店で見た 2004 年刊のものは一冊でこれは先のものを合体したものなのか、あの厚さそして内容の歩みの長さも納得だなと納得したところで図書館を出てやっぱり帰る、みたいな過ごしぶりでした。帰りにブックオフをチェックしに街に降りて、ちょっと裏通りを歩いて多少の気持よさを楽しみもしましたがその街には全長わずか 3 メートルくらいの短い横断歩道があって、そこには歩行者用信号もついているのですがあまりに短いので赤信号の前でいちおうは立ち止まった歩行者たちも「これ渡ってもよくね?」という空気に感染してぱらぱらと渡りはじめてしまいます。車は交通整理いわゆる信号に従って通行するので赤信号の横断歩道は遠慮なく横切っていくわけで、じつは危険なんですけどね。ただこの空気に感染してゆくさまを観察するのがひとつ面白くはありました。交通ルールと自己判断のせめぎあい、というか「空気」がルールに優先する瞬間というか。しかし街にあって利用可能なものといえばほとんどは店という形式をとっていて、つまりお金を取るわけでして、お金を使わずに利用できるものといえば指定喫煙所くらいしかないのでして、まあウィンドウショッピングはできるけどね。いやー、寒くなってきた。

最寄り駅からは音楽をかけずに歩いてきて、最後に一週間ぶりにたばこを一本吸って、吸い終わって歩きだしたら The Yellow Monkey の「楽園」が頭のなかで流れ出した。べつに最近聞いたとかではなくて、特に思い入れのある曲ってわけでもなくて、今の気分に合ってるってこともなくて、こういうのを無意識っていうのか。

20121009Tue1904

原価ギャンブル

10 時起床。 1 限からあったけど 2 限にすら間に合わない時刻……。土曜も寝坊したし、なんか起きられんくなってないか。いや前日眠くなんないからって延々 2 時半くらいまで起きてたらまぁそうなるかもしれないけどさぁ。というわけで、ちょっとした発表を任されてた気がしないでもないけど授業に出るのは一切あきらめ、遅い朝食として残りのカレーをいただく。余りを全部消化しちゃおうとしたら大盛りになった。でふつうに登校。

着いたら昼で、でも腹は減らないので紙パックのヨーグルメットだけ部室 A で飲みながら本読んでた。それから学科の書庫に卒論用のテキストを取りに行ったあと、部室 B に行ってさらに読書。なんかどちらの部室も静かであった。それから授業に出て、 16 時過ぎに遅い昼食としてカレーパンとスーパーカップバニラ味を食した。アイスうめえ。あとは用事もないので帰った。

帰りに『サンスクリット文法』『色の名前 507 』を探しにブックオフに寄るが見つからず。現物だけ確認しとくかーってんで新刊書店に行ってみると、『サンスクリット文法』は自習書としては果てしなく使えないなこりゃ。例文・練習問題なし。語彙集なし。あと定番らしいゴンダ『サンスクリット語初等文法』も見とく。なんか仕様書みたいなデザインやねえ。古典ギリシア語ラテン語に比べると教材の充実度は劣るよね。なぜ俺は今になってサンスクリットを勉強しようとしてるのか。

あと高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』を読み始めるなど。読んでて「泣きそうになりそうになる」くらいまではしょっちゅうあるのだが。季節柄か。寒く暗くなってきて夜は心細いデスね。

20121008Mon2239

いわれなきservice area

哲学を「勉強」すると、自分でものを考えることをしなくなる、自分オリジナルの思考が失われる、そう考える向きがありますが、それで失われてしまう程度の思考ならまずはオリジナルと呼ぶには値しないわけで。アカデミックな世界で哲学する以上は、(ハードルは高いけれども)今までだれも考えなかったことを打ち出さないといけない。それが学術的であることのひとつの意味だ。すでに知られている定理を改めて証明して発表しても意味がないわけで。生物学において「自分オリジナルの生物学」を打ち立てるのが難しいように、ほんとうに客観的な意味でオリジナルな哲学を打ち立てようとするなら、すでにある考え方をすべて踏まえた上でさて自分はどう出るか考えるしかないわけですよ。まぁとはいえ哲学書を読んでいるときは(当たり前なのだが)その哲学者の思考をなぞることを強いられて、自由な思考を抑え込まれているし、あと歴史的な哲学書というものは総じて大なり小なりの混乱を含むので(そうでなければ研究の対象にはならない)、読んでてなんかもうわかんねーよ!こんな遠回りしてなんの意味があるんだよ!という気になるのは事実です。よね。まあでも事実は自分で考えるのって近道でもなんでもなくて、行けるとこまで行って満足したところで、自分の限界を世界の限界と取り違えてるだけって気もします。もちろん自分で考えるのって絶対必要なことだけどね。

午後一時前に起床。就寝がまあ午前二時前だから、睡眠が十一時間くらいですか。へへ。寝過ぎて首が痛んでいた。もそもそ起きて、肉まんを食べて、残りのカレーを食べて、沈鬱なかんじの音楽を取り入れたくなったので Mr.Children 『深海』をひさしぶりに聞く。外は晴れていて、日光が差し込む部屋と『深海』の暗さの組み合わせ(対比ではない!)がとてもよくて、高校〜浪人あたりによく感じていたあの気がした。「シーラカンス」の歌詞の正しさ、結局わたしたちはこの音源がリリースされた 1996 年から進歩していない。

それから『現象学事典』からコピーしてきた数項目に目を通して、んーまぁなんかわからんでもないかなーって感じがしてきた、現象学。現象学とはたんなる主観的な記述であって「分かる人には分かる」という域を出ない――それゆえ議論の対象にならない、それゆえ哲学ではないと思ってたんだけど、どうやら系統立ってるシステマチックなものではあるみたいだ。フッサールに後続する人たち――ハイデガーとかメルロポンティとか――が、かれに正しい意味で反対し、批判的に乗り越えようとしてたのも、おぼろげにわかる。あるテーマについて観察できることがらを分類して分類して把握しようとするのは原初的な意味で典型的に学問だし、そのへんベルクソンなんかと対比すると面白いですよね。一年生んときに買って放置してた『デカルト的省察』、ちょっと見てみようかという気になってきた。

20121007Sun1836;2358

猟奇的そうめん

ついったー上で人と人とがなかよくしててむかつきます。ツイッターなぞポジションを演じるゲームにすぎないのです。ソーシャルってめんどい。すべてひがみです。からまれたい。そのくせ自分からからもうという気はめったに起きないのでぼくのこの世界における位置付けは必然的なものです。ネットでは障壁が可能な限り取り去られた理想空間が実現されていますのでなおさら人はその人のおかれるべき状況下におかれます。

20121006Sat2341

おかゆ観覧車

たいくつな世界を打破したいですね。カラオケに行きました。一人で三時間。気付いたこと。二時間経つくらいで安定期に入りますね。声がよく出るようになる。裏返すと本調子になるまで一時間以上歌い続ける必要があるというやや恐ろしい事実も見えてきますが。だがカラオケは分かり切った楽しみなので楽しいし多少ためになるけどそこに救いを求めることはできませんね。救われたいという話ではなかったけどね。大事なものを見抜きたいですね。通俗的に言うと人生の真理をつかまえたいですよね。でもすべてがわかってしまえばこの生を生きる価値がなくなるというかしおしおと漬物のような生活を送ることになりそうだ、というのもまた通俗的な反応としてありますね。かといって「答えが見つからないから味があるんや!」なる notion に身をあずければそれもまた一つの答えではあるわけで、まあ人生は不毛だし人生が不毛でありうる、裏返せば人生が価値あるものでありうるという立場そのものがそもそも外的に規定された生を生きているようで息苦しいです。ね。

人生なんつうあやしげな観念について無造作に語るような人間にはなりたくないものですね。

いまかりに人生について語ることばがすべて無意味だとしてみよう。それはありえる可能性だ。人生の意味とか、絶対的価値とか、そういうものは理念的に考えられるだけでどこにも実在しないと考えてみよう。そうしたとき、人生は何を目的とすればよいのだろうか……いやっ、「目的」という考えかた自身がそもそも愚かで、今それを否定したばかりなのにこいつはもう目を覚ましてしまった。かように目的という観念は強固にわたしたちの思考につきまとってくる。欲求と充足そして新しい欲求の芽生え。目的と達成そしてまた別の目的がたちあがる。このサイクルはある一か所に向けて収斂しつつあると思えるだろうか。そうは思えません。すべてその場しのぎです。いわば達成し散らかしてるだけです。雨が降ったから雨宿りして、晴れてきたら外に出て、また雨が降ってくるその繰り返しです。ニーチェを読んだ方がいいね。ラララララーラーララララ。

われわれの生のありかたについてある定まった見解が出ること自体に違和感を覚えます。かといってすでに述べたように「人生に答えはない」という答えを出してしまうのもまたアウトだし、困っちゃいますね。とかこうして一つのおさまりのいい結論を求めてもぞもぞしてるこの態度はわたしが違和感覚えてる態度そのものですよね。パースの探求の原理ですね。問題を見つけるとそれを解消しようとして動く。たとえそれが解けない問題とか問題として成立してない問題もどきだとしても。人間の宿命ですね。あまりエクセレンスでない答えでも最低限答えであるなら喜んで受け取っちゃうとこありますよね。答えを手に入れて安心したい、安心したうえでピクニックに出かけたい。まあ答えらしきものを手にしたらまた新しく問いが生まれてくるだけですよ。そわそわした探求の日々は続く。仏教だったら「問うのをやめよ」って答えを差し出すと思いますけど、そうやって答えを出しちゃう仏教になおも居心地良さを感じるのは、まあその答えの心地よさというのもありますが、修行という契機が用意されてるからだと思います。単にインテレクチュアルな契機だけで生の問題が解決するのじゃなくて、修行という実践を通してその命題を体得することができるとゆー。

20121005Fri2054

めざせ!錯視de音頭取り

JINROを飲んでおります。なんか最近頭が痛い。二・三日前くらいから。下駄履いたり車運転したりなんだりしたせいか(どんなせいだ)、頭が痛い頭痛が引き続くのでおれはJINROを飲んでやった。JINROとは酒です。人との接し方はわかりませぬ。相手が傷つかないよう最良の選択肢を探っているあいだに沈黙によって傷つけますね。でもそんな反省と頭痛とは関係ないしJINROとも関係ないと思います。JINROいいたいだけです。川辺でたばこを吸いましたがそれが世界にぴったりとした自分だとは思えなくてたばこいらないなーと思いました。健康な人のためのものだな。たばこ。川辺。散歩は最良の薬でありそこで僕は反省するのですが哲学するのも散歩するのと同じようなものですね。つまり散歩とはただ反省のためにするのではない。そこには目的がないし「それ自身が目的」というまでの引きの強さもない、でもぼくは呼吸するように哲学をしますしだからそれはべつに特別なものじゃない。それは着替えしてするものじゃないし助走してするものでもないし朝起きるより簡単であたりまえのことなのですが人の数だけ哲学観があるようですね。酒はいいですね。酒を飲んでデイリーポータルZを読んで笑っていました。最近好きなんですよデイリーポータルZ。わざわざ俺が見るまでもないかなって敬遠してたのですが、あれこそが生きる支えってゆうかあれがああいう規模で存続してるってことが俺も生きてていいんだと思います。日本語がおかしい。ああもう23時半ですか。レポートを少しでも進めようと思ったんだけどねそろそろ寝る時間が迫っていますね。歯も磨いてないし。でも0時に寝ようと2時に寝ようと起きる時刻は変わらない気がするし「眠いけど起きる」という態度は自動車を運転するに必要な判断力だと思います。判断力。おれは優柔不断だし目の前に広がる無限定な世界のあらわれを気にしすぎていた。ひとつのシークエンスに足を踏み入れることをためらっていたし、教習所にだいぶじらされていて早く免許取りたい!自由に車を運転したい!と当初の思いに反して思わされてしまっている部分もあります。どの部分ですか。「そういう面もある」って、あなたの心は立方体ですか?。みたいな。ははっ。

20121002Tue2325