2tハンマー遊泳所 私がつらいのはわりとどーでもよくて、それは私がつらいだけなのである。ご飯を食べるときに元気がないねと言われるわけである。んにゃー。しかしまあどうしていいかわからなかったのでエレカシを聞いて、どうしていいかわからなかったなんてのは半分嘘なんだよね。ほとんど見えていたけど「いや、そうじゃないんじゃないか?」と遮る自分もいて、悪魔のささやきに従うというよりはどちらかを積極的に支持しなければ結果的に悪魔の側に与することになる。天使と悪魔よりどっちかというと仏菩薩で考えたいんですけど、仏菩薩に対立する存在って衆生なんですよね。衆生は悪事を働く存在というわけではないわけで。いやまあそれはそれとしても、結局こうした折の対応のしかたが変わってないのは半年やそこらで自分が変わるわけがないと言わば言え、とにかく、行動の指標が変わるというよりはひとつひとつの行動が変わった結果として指標が少しずつずらされてゆくのだから、とかなんとか考えてみても考えて満足する愚を犯すよりは私は明確な答えが出るのを待たずに行動しなければならないのだ。でエレカシの『good morning』のシングル曲だけ聞いてたんですけど、「ガストロンジャー」とか「コール アンド レスポンス」などたぶん一年以上ぶりに聞いてみるとこのアルバムのなかで宮本さんが「問う」ということを身をもって示しているななどと感じられたのでした。自分は長らくこの「問う」ということを忘れていたかもしれないななどと思って、就活やめちゃったのもなんとなくだし、大学院進学決めたのもなんとなくだし、まあ「なんとなく」でなきゃ哲学科来なかった気もするし結果論をいったら別にそれは悪いことではないのかもしれないけど、「自分はこれでいいのか?」「世界はこれでいいのか?」と問う宮本さんの姿をみて、現状に疑問をつきつけ、場合によっちゃ真正面から否定する覚悟をもつ、というのは確かに意味あることだし、重要なことだし、自分に欠けてることなんじゃないか? などと思いました。なるほど「嫌なら見るな」というのは処世術としては有効なことなのかもしれんけど、である。「気に食わないなら逃げればいい」のは重要な視点だし、そうしなければならない場面もある。だけど、世界に対して改善論的な態度(今考えた言葉)で向き合うこと、よりよい未来のために今に負担をかける用意があること、それを自明視する気はないけど、それを差し引いても、世界に働きかけるということを僕はあまりにしなすぎた。な。と。自分の居場所を発見したのは幸いだったけど落ちてるものを拾うだけが人間の能じゃないし、外では風が吹いている。自然を拷問にかけてその本性を吐かせるという態度を是とするわけではないけど、エアコンがついていないと暑くて汗がにじんでくるね、窓閉めてるし。なんかすげーどうでもいい流れになってきたので次の話をしましょう。人格として消えたいという話を夏あたりはよく書いていた気がしますが、最近はとくべつそうは思わなくて、まあ季節柄だな。人格として消えたいというのは、つまるところ誰にも認知されない“眼”になりたい、見られずに見たい、テレビを見るみたいに世界で起こってることをただ受容したい、人に否定されたり拒否されるのはつらい、だから怖くて動けない、いやーそれは誰しもそうだとは思いますがー。がーー。誰かに拒否られるのは怖いし自分がけっこうそういう被害妄想に取りつかれてることを最近また自覚しつつもあるんですが、それはそれとしても人格として消えたいとかは最近あまり考えないのですよね。自分の中で考えてることにも流行り廃りがあるってことかねぇ。でも俺は菩薩なので(菩薩ではありません)慈悲ですね。慈悲というのは「かわいそうね」と同情することじゃなくて、他人の痛みを痛むことらしいです。他人の苦しみがまさに自分の苦しみとして感じられるから、自然とそれをどうにかしよう、救おうという気持ちが生まれるのだそうです。難しいですね。でも自分のあり方について「本当にこれでいいのだろうか」と問うことが同時に世界のあり方について問うことにもなっている、という構図は、なんかこの慈悲のありかたと似てると感じます。「自分は自分、他人は他人」と線引いて澄ましてるのもひとつの生き方だし、それはそれで貫ければりっぱだし自分としてはこっちのほうが向いてんのかなとさえ思うこともありますが、だとしても、なんつうか、なんかねぇ。ぼくが机に向かってノートパソコンのキーボードを叩いている右側には本棚があって、その本棚には読んでる本読んでない本いずれにせよ僕が所有する本どもが百冊とか二百冊とかあるのですが、これがぜんぶ僕だけのために消費されるとか考えると、これをぜんぶ僕が吸収して、情報でぶよぶよ膨れ上がった身体になって死んでいくだけか、などと想像すると、なんかそれも違うな、という気にはなるのであって、ほんとイメージで考えてるだけだから実質なんかないといえばないんだけど、早い話ほかの人にフィードバックをあげるべきだしあげるのが筋だろうと思う。それが自然なあり方なんだろーと思う。ソクラテスはやせてるからソクラテスなのであって、太ってるソクラテスよりもやせてるソクラテスのほうがやっぱりいいのだ。自分のからだに外界を見る眼がついてる以上、自己完結した閉じた世界は早晩破綻する。破綻前夜だ。 20120930Sun1952 |
グルーピングサイエンス 最近どこからともなくつらい。卒論の中間発表が近くて、同時にレポートも書かなきゃいけなくて静かに切羽詰まってるからかもしれないけど。それがひとつ私の気分を落ち込ませやすくする要因なのかもしれないけど。しかし「どこからともなく」と言いつつ原因は明らかなので、そしてその原因を取り除くことがほぼ不可能に見えるので、とてもつらい。嘘。解決が不可能だとはっきり分かっているなら、諦めがついてつらくなくなるはずなのだ。だから僕の状況は以下の二通りのいずれかだ。一、じつは原因がわかっていない。二、じつは解決可能だとどこかで思っている。 ていうか解決可能にせよ、理想的な形で解決可能であるには見えないからあれなのだな。理想を描けばそのぶん現実との差がみえる。そのギャップを埋めていこうとするのも一つのあり方なのだろうけど、理想は現実に照らし合わせて修正されつつ進んでいくと考えたほうが、ああああ、なんだこれ。まあなんにせよ事実を拾い集めることは続けるべきだな。 つらさなんて自分の心が作るんだよばーか。悩みは現実から目をそむけて自閉する態度だよ。でも俺は世界でいちばんつらいし、なぜならこの世界には俺しかいないのだからただ俺だけがつらい。この世界に俺しかいないことがつらいね。つらいつらいうるせえ。男がつらい、酒がつらい、CDがつらい、哲学書がつらい、テレビがつらい、電柱がつらい、川がつらい、教習所がつらい、呼吸がつらい、空気がつらい、下敷きがつらい、ポケットティッシュがつらい、電子辞書がつらい、耳かきがつらい、コップに残った牛乳がつらい。そして世界は均一化する。心が落ち込んでると無意味すれすれのとこに逃げ込みたくなりますね。逃げ込むというか、そこから世界を構築し直すというか。 20120930Sun1042 |
日記だよ 日記です。やっぱさーツイッターで感情だけ結果だけ吐き出してるのだけじゃわからないよね。事実が原因なら感情は結果。感情が原因になって事実を生ぜしめることもあるけど、その事実ってツイッターへのpostだったり大半はするのかもね。かくしてすべての事実はツイッターへと流れ込み、身元不明の匿名な感情として、よどむ。言いてぇのは僕がツイッターでなにを書いていようがそれを額面どおり受け取ることは推奨できないし、僕自身望んでもいませんってことで、大げさに言うならそこに書かれていることはすべて虚構ですよ。だから自己紹介んとこに「他意はありません」と断ってるわけで、ぼくのpostには意味の戯れしか含まれてないっ。適切な文脈を与えることである人のあるふるまいが理解できることもあるけど、その解釈が整合的なものであるからといって、それが本人の心の中と一致してる保証はどこにもなくて、だから根元的に秘匿的な心の中ってのはどこまでも存在するんですよねー。テキスト読む場合は書かれたものしか拠って立つものがないからそこからすべてを読みとるしかないけど、てかまあ生身の人間を相手にする場合でも諸類のテキストしか存在しないといえばしない、つまり本人の考えること感じることを直接に知るすべなど依然としてないわけで、書き言葉を含め具体的な行動とか発言とか表情とかを踏まえて解釈するしかないのですが、それにしてもより視野の広い解釈を心がけてもらいたいものです……(ひとまかせ)。 すべてブーメランですね。以下、ふつうの日記〜。 授業がないので(「ほんとうは」あるのだが)第一次起床の 6:40 は寝過ごす。しかし寝過ごし不安が強かったためか、二度寝中の夢うつつの状態で 10 時に起きたり 15 時に起きたりする体験をした。ようやく目が覚めたときに「もう一日終わりだァ」と思って携帯を見たら 9:00 だった。結局のそのそ起きて支度して学校へ。最寄駅付近で帽子を買おうとするも、どれもしっくりこないので諦める。しっくりこないというか帽子をかぶっている自分に抵抗があるというか。なんかいいのないですかね。電車の中は空いていて、ふだん一限に間に合わせようとするとどうしてもラッシュ時の座れないどころか本も満足に読めないような電車に乗ることになるので、今日はとても快適な心持で登校できた。快適な通勤通学環境の確保は国民の幸福にとってクリティカルだと思うのですけども! それから部室 B でご飯を食べながら次の時間の予習をして、三限の演習へ。自分の発表分(とはいってもテキストの訳をつけるだけだが)だった。これまでは英文なら英文をみながらその場で訳していくやり方をとっていたが、それだと途中で詰まった場合に進退窮まってしまうので、今回はあらかじめ訳文を用意してきた。発表はまあまあつつがなくいけたけど、仕込みの段階で途中から酒を飲みながら訳出してたので、だんだん訳文と字がいいかげんになってきてるのが読んでてわかった……。授業が終わってからは部室 A で一息ついてから教習所へ。ドライビングのテストを受けているのだが前回に引き続き落第。今までてきとーにやってきたので仕方ないが。早く先に進めるようにしたいな。疲れたので川辺でタバコ吸うなど。たばこの意味ってつまり時間を寸断することだと思いますな。立ち止まるための時間を立ち止まるための時間として設けること。うわッ、なんか気持ち悪い。で帰ってきてごはん食べてここまで。うーむ、感情の揺れはけっこうあったものの、演習でけっこう口を動かしたからか調子はいい気がする。やっぱり普段しゃべらなすぎだ。 20120926Wed1952 |
カフェでランチでデカダンス カップ焼きそばはこの世で最も美しくない食べ物だと思うのですけど、ぼくはこのカップ焼きそばというやつが好きで、昼に買い食いするときとかつい選んでしまうんですよね。美しくないと感じるポイントは二点あって、ひとつは妙にお腹がふくれることですね。原料のせいだと思うんですけど、食べててすぐ苦しくなる。でも苦痛を覚えながらも、味付けが巧みなのでなんかあれどんどん口に運びたくなるような味と匂いをしてるんですよね。たぶん人がおいしく感じる領域みたいのがあって、そこを理詰めで割り出せてると思うんですね、いやまあうん。結局、ああ苦しいなと思いながらああうまいなと食べ続けるので、苦痛と快楽の和え物というか、こうしているうちに苦痛こそが快楽に供してるなどと学習しはじめるんだろうと思います。お腹いっぱいの苦しささえもカップ焼きそばを口にする楽しみの一部なのだと。アホですね。小池龍之介の刺激一元論でいうと苦痛も一種の刺激なので人間はそれを求めるのだそうです。それに苦痛ってとってもわかりやすい刺激ですものねぇ。でも苦痛は体に悪いし、インスタント食品は体に悪いので、毎日酒を飲んだくれるよりカップ焼きそばを一杯食べるほうが体に悪いんじゃないかという気さえします。ましてやたばこなんて高くなったとはいえ 500 円以内で一ヶ月くらい使えるんだから安いもんではないか(また買った)(使用量には個人差があります)。ともかくとして、カップ焼きそばが美しくない第二点は食べた後ですね。食べたあとに容器とフタとソースの袋とが残されてこれは形もなんかかさばるし、洗って再利用というわけにもいかないし、なんゆうか俺が一回食事するためにこれだけのゴミが出てしまうのが最悪ですねえ。すごい罪を背負ったような、悪業を積み重ねてるような感じがする。 でもその罪がどこか気持ちいいので繰り返しちゃう……みたいな面はきっと部屋をくまなく探せば押入れの隅でうずくまってるのが発見されることでしょうが、そうした心理を M だなんだのとラベル付けするのはたいへん馬鹿馬鹿しいことだと思います。だってさあ。誰だってそのくらいの心理は持ち合わせてるでしょう。それが通るなら街ゆく誰もがマゾヒストさ。自分だけが異常ぶるのは許されませんよ。ところで私も自分が広義の M だと認めるに吝かではありませんが、 S かどうかというと言葉に詰まるところで、つまり自分が S だと言うためには他者になんらかの危害を加えるということをうにゃうにゃ。つまり S でないというのは性癖どうこう以前に他人に攻撃的に接するということに抵抗があるから説。僕は高校の剣道の授業で相手に一撃を与えることに対して強いためらいを覚えていた男ですからね。攻撃がすべて危害に直結するという考え方がそもそも歪んでるのですが。コミュニケーションに支障のある人間に S はいない。サディストのコミュ障がいたら怖いですね(他人事)。翻って M は外界に対してこちらから働きかける必要がなく、最低限、反応だけ返せばよい。いや本物のマゾヒストが聞いたら怒る話かもしれないけど。結局、このカジュアルな意味での S と M というのは能動と受動に必要十分的に対応するんですよね。かく仮定するに、この世に自称 M が増えているとしたらそれは受動的コミュ障が増えていることを意味しますね。はー。 20120923Sun1551 |
自白謄本 「言い訳」ということばについて考えた。改めて思い巡らしてみると、これ、最大級に嫌いな言葉かもしれん。とはいっても今日は自分で使ってしまったのだけども。「これは言い訳なんですが〜」って。この概念があるために僕の人生にはつらいことが増えてる気がするよ。 言い訳と理由とはどのように違うのだろうか。自分がしたことについて説明を行なったとき、「理由を説明した」と納得されるときと、「言い訳をした」という感想を抱かれるときとでは、どういう条件の差があるのだろうか。例を出して考えよう。たとえば、高校生が学校に遅刻した理由を聞かれて、「母が急病になって病院まで送っていた」といえば理由として受け入れられる。だが、「目覚まし時計が壊れていた」といえば「それは言い訳だ」として斥けられる。いま「受け入れられる」とか「斥けられる」という言い方をした。ここからも汲み取れるように、この例からは、行為の理由には正当なものと正当でないものがある、という考察が引き出せよう。かつ、正当な理由を挙げられた場合はその行為は「許される」が、正当でない理由を上げた場合は「許されない」。しかも、人には正当な理由とそうでない理由を峻別する能力(たぶん道徳の一部)があると一般に仮定されているから、正当でない理由を挙げる者はそれが正当でない理由であることを知っていながら敢えてそれを挙げたとみなされ(……つまり正当でない理由をあたかも正当なものに見せかけて、自らの責任から逃れようとしているとみなされ)、より罪が重いことになる。 行為の理由とは、その行為をしたことが正当であった・必然的であった・やむをえなかった、ということを主張するためにある(……ようだ。僕はいままではっきり認識していなかったのだが)。そして、正当なる理由は、その過失の責任を帳消しにするトリガーとなる(過失とか責任とかいう言葉を使っていて思うのだが俺は簡単な法学をかじったほうがいいな)。なるほど母が急病になり、しかも彼女を病院まで送ることのできる人が自分しかいなかったのであれば、自分が送るのが当然だしそうすべきだ、と考えられ、それで遅刻を咎められることはない。目覚まし時計が壊れていたら学校に遅刻するのは無理もないが、だとしても自分の目覚まし時計のメンテナンスくらい自分でしておくべきではないだろうか、すなわち、この件に関しては彼の遅刻は彼自身の責任、ということになり、廊下に立たされたりするわけだ。この場合は、遅刻を避けることが常識的な人間の能力の範囲で十分可能だったにもかかわらずそうしなかった、という点から、彼に咎が帰される(自信ない。違うかも)。基本的に「悪い結果になると予期できることをするのを控える」とか「悪い結果になることをうまく避けておく」というようなことは、誰でもそれを「できる」ものとして社会は進行している。言いかえれば、社会は理想的人間像をスタンダードとして置いている。それはある種の方便なのかもしれないけど、僕はついまともに受け取ってしまってつらくなる。 「説明」が「言い訳」に転化するのは、「分かっているけどしなかった」場合だけではない。自分の力の及ばないところで自分が被害を受けたとしても、その率直な描写がなお「言い訳」と受け取られることがある。たとえば、遅刻の説明として「親が起こしてくれなかった」と述べた場合がこれにあたる。これは「分かっていなかったし、できなかった」場合だな。毎日親に起こしてもらっている人にとって、親に起こされなければ起きられないのは必定といえる。しかしながら、彼が今朝起きられなかったことはやはり彼の責任なのだ。なぜか。わからない。(ひとつには、これを言い訳と判定する背景には、「親が起こしてくれないからといって絶対に朝起きられないということはないだろう」という見做しがあるかもしれない。つまり、この事例は依然として「分かっているけどしなかった」ケースに含まれると考えるのである。) ……いろいろ条件があって結果が分岐するというより、おおざっぱに、その説明されたありようが「人間として立派」かどうかで判定されてるフシがないでもない。徳あるふるまいは咎められないけど、徳なきふるまいは教育の余地アリとして戒めの対象となる。つまり、「言い訳」という表現にはじつは論理など内属してないんじゃないか?という疑いはある。 「言い訳」の文法的考察はこのへんまでにしておく。それより僕が困ったなあと思っているのは、「言い訳」がつねに過失を許してもらうために述べられるものだという共通了解についてだ。僕は人間として欠落があり、「普通に考えたらこういうことはしておくべきでしょ」というようなことを、せずに済まそうとしてしまうことが多い。抽象的で申し訳ないが具体的に書くのが苦痛なので……、ああ、こういうのも、だから、子供なんだよな。早い話でたらめに場当たり的に生きているので、生活における目的-手段の構造が身についていないので、たびたび「なんでこんなミスするの?」ということになりがちなのだ、そして常識ある大人たちにとっては僕のするミスは意味不明なものだから、とうぜんミスの原因をありのままに説明したとしてもそれは「言い訳」になる。べつに俺が欠落ある人間なのは認めるに吝かじゃあない。俺は言い訳をしたいんじゃなくてただ自分のしたことを説明しようと試みているだけなのに、事柄を明らかにしたいだけなのに、それが「言い訳」と受け取られて、自分が利害にとらわれてなんとかその場を逃れようとしてるみたいに見られてる気がしてそれが苦痛だ。こうしたダメな自分を理解してもらって、過失を大目に見てもらえるようにしようという気がないのかといえば心の奥にはあるのかもしれないが、でも理解するってそういうことじゃん? 相手のことを理解することで自分の行動が変わるんでしょ。早い話が俺が理性的人間であることを期待しないでっていうか、なんで単に説明しようとしてるだけなのに言い逃れするみたいに見るの?俺そこまで利害に目が眩んでないんですけど?みたいな憤りです。愚痴です。僕は自分のことを説明して「じゃあしょうがないね」と許されたいんじゃなく、ただ「そうなんだね」と納得されればよくて、その後に「でもクズだね」なんかが続いても別にいいんすよ……言われたことないから理念的な話だけどさ……。 だいたい僕が泣きそうになるときは三通りあって、音楽なんかの情緒に感じ入ったときと、自分のことが絶望的に理解されてないと感じたとき、それから自分の言いたいことがスッと通じたと感じたときなんですよね。おれは理解を求めているのか。ならば、理解を得るための努力はすべきよね。 20120922Sat2017;23Sun0159 |
関白エディター ここしばらく、世界を見る目が曇ってるな、意識が混濁してものごとの見通しが悪いな、視界が狭いな、そんな調子だった。卒論もレポートも進まず、予習もろくにせず、学校に早く来ても部室でだらだらして時間はつぶれる。ややっ、夏休み前もこんな調子だったと記憶しているぞ。つまりは人間の性質なんてそうすぐには変わらないってとこでしょうか。 でも意識が混濁してるのはたまらんし、ぼくはものごとを明晰に考えられるようになるために哲学科に入った(と一説では言われている)ので、 transparent な視界を手に入れるために「何か普段と違うことをしよう」と思い立ったのだった。提案を思いついたそばから却下しちゃうその根性をなんとかせいだ。ぼくの発想は硬直しきっていた。負の慣性がたまっていて、こんなときは少しずつ少しずつカーブをかけていくに限る。というわけで行くカラオケの店舗を変えてみた。 ところでいま夕飯を食べてきたのですけどもごはんの後はヤバいですね。ごはんの後はなにもする気がなくなるしこのまま消えてなくなりたい。そしてその気分を眠りにつくまで引きずるのです。んー。あー。まぁそろそろやるしかないね。 20120921Fri1956 |
モイスチャー登山 (1860字省略) 風呂入ったら気分変わったのである。具体的には、課題やってもいいかーってな気に。これだから困る。人間の感情なんて見かけほど強固なものじゃないさ。まあ人間に大事なものって感情のほかにないけどね。だが健康になりつつある頭でウィスキーを飲むのである。バカだから。あー、無気力な自分のほうが本来的支持すべきものとか思ってるんだろうか。手近な快楽を享受してればいまはハッピーってそんな話にすぎないんじゃないだろうか。自分の頭で設けた計画を、計画というほど大規模じゃなくても一度思い描いたことを取り消せずに無理くり実行しちゃうこの癖ってどういう意味があるんだろう。詩を読みたいねえ。読みたいし書きたいし。あと揚げ物を食べたいです。唐揚げとか。誰かくれ。腹減ったよ。そしてなおも課題はやりたくないです。ああ、課題をやってる自分になることがいやだ。なにかに没頭するのがいやだ。なにかに時間を使うのがいやだ。否定に重ねる否定の先にどんな未来があるんだ。我を忘れたくない。自分はいつも自分のそばにいてほしい。それって自分が気付かずに失言してしまうことを恐れてるのかもね。ああ。ルマンドを食べている。ばかみたいに文字を重ねている。この日記それ自身よりほかにこの日記を評することばなんてないさ。あー。せんべいを食っている。くだらねえ。おおおお。ウィスキー舐めながらインターネットの隅っこをつぶしてたら日付が変わりつつある。ああああ。ツイッター見る。酒がまわってる、俺の腕まで。ああああああああ。日付が変わる。俺はインターネットを見ている。部屋は散らかっている。ない性欲を処理する。買ったイヤホンは短い。あー。日記ってネガチブなことを書く場になりがちよね。あー時間止まんねーかな。一週間くらい。それがベストなんだが。うおお鬱になってきた深まってきた。さっきから感嘆語が多すぎる。意識が混濁して視界の見通しが大変悪い。ごちゃごちゃしてるってことはそれだけいろいろなものが見えてるってことなのか、それともまやかしばかり見ているのか。そういや最近哲学してないね。 20120920Thu midnight |
終わらない眼鏡選び イヤホンが死んだ記念日。というか昨日から今日にかけて壊れていた。片方が聞こえない。耐用期間二年弱。 20120920Thu0006 |
キューバリブレと教育 08:45 大学キャンパス内のベンチに座って歯を磨く。やはり周りから浮くな。キャンパス内でタバコを吸ってよいなら歯を磨いてもよいはずだし、木陰でギターを弾いてもよいはずなのだ。だけど場所にはその場所に適したふるまいの様式というものが(暗黙裡に)あって、知らず、私たちの行為行動を限定してる。そーゆうのはブチ壊したいですよね、特に縛りをもうける合理的理由とかないと思うし、じゃまできゅうくつなだけです。そんなことを思いつつ歯を磨いた。つまりこれは常識を解体するための草の根運動でもあるのですが(言っちゃった……)。 09:00 一限。昨夜はバイト先(先日満了)の人たちに連れられ夜遅くまでボウリングなどやっていて、それであんまし寝てなかったのだが、時間に対して凝縮された睡眠がとれたということか、それとも睡眠がとれてないから体が耐久モードに入ったのか定かでないが不思議に眠くならなかった。 10:30 学内のコンビニでフライドチキンでも買って食おうかと思ったが、すこし反省してみると空腹でないことに気付いたのでやめる。そのあと図書館で予習。英文の中に出てきたラテン語の解剖学?の用語に翻弄される。てろてろ調べていった挙句、筆者の軽い記憶違いないし書き損じだと結論。あとテキストを途中までしかコピーしてないことに気付いて学科まで取りに行くなど。 12:20 部室でごはん食べてだらだらするなど。 14:30 四限。一限とはウッテカ・ワッテ眠かった……。話は面白いのに眠くなるというパラドクス。いや、だから、まあ、「生徒を眠らせないくらい面白い授業をやれ」という言い草は的外れだと思うんですよねー。眠らせないのが目的なら生徒をどんどん当ててしゃべらせるような授業をやればいい話で。授業が面白ければ眠くならないというわけではないし、眠くならないことが授業が面白いことの証拠だというわけでもない。 16:10 帰る。なおもフライドチキンを買おうとしたが、見ると 165 円だかで高ぇと思って買うのやめた。電車の中で、向かい側に座った女の子たちを見ながらいろいろ考える。「えづく」というのは、世界を開く突破口なり人間として生きる上での避難所になると思う!(何が?) 17:10 最寄駅より一駅先まできて、服とか見て回るが結局ひとつも買わず。まあもともとものは選んで買うほうだし、そしてそれ以上に服屋に親しんでないので勝手が分からない。 17:40 バスで帰る。おれはバスがとても好きなのだと改めて思ったというか、「好き」というのは傾向性とかましてや属性なんかじゃなくって、バスに乗ってるときに「バスが好きだ」と思うその好きだけがリアルなのだと思った。またか。でも人に向けて「俺はバスが好きだから」云々と話すときは、傾向性に近いものを前提しているんだよね。自分はしばしばバスに乗り、そしてそのたびそれを楽しむ、ということを信じてよい、と請け合うこと。 そういえば電車の中でライカンの言語哲学を読んでる人を見かけたのですが、誰だったのだろう。<人だよ 20120917Mon1900 |
のりたまを止めないで 書くことないしライフログでもつけようかなと。記録をつけるのは嫌いじゃないねー、理性的生活への第一歩だし。理性とはつまり反省作用、振り返るということをその本質とするのです。てゆうか昨日の夜うちの無線 LAN が突如死んでしまって不便な思いをしてるのですけど、有線で直接つなげばつながるので僕はなんとか生きてます。回線が家族(というか弟)と共用だから俺ばっかつないでるとゆうわけにもいかないけど。 書くことがないってのは生きてて事件がないとか感情の揺れ動きがないとかいうことを必ずしも含意するわけではなくて、でも確かに what to do は確定していてただ粛々と処理すべきタスクが目の前に控えてるって感じであってこのピンチをどう一発逆転するか的なカ・ン・ジではないので破壊と再生のはざまで卵を焼く作業よりもいかにミスらずに教習所の予約を取るかみたいなチマチマしたゲームをいまやってます。えー。現象学ほんとわかりません。探せばいい文献もあるのかもしれんけど、今読んでるのはうー、つらい。現象学には論証がないんだよ。ぜんぶ記述なんだよ。そこに哲学はあるのか。(愚痴) 結局ライフログになりませんでした。 20120916Sun1722 |
煉獄ダストシュート Twitter における post は部分をもたない。ユークリッド幾何学でいうと「点」であり、つまり零次元だ。これに対して、文章は一次元であって、線である。いや。たわごとです。点とか線とかは役にも立たないイメージなので忘れていただくとして、 post に対して日記の文章は部分をもつ。部分をもつということは一つの全体をなすということでもあり、部分が全体に対して寄与するということ、部分が変わると全体に影響を及ぼすということだ。創作の基本ですね(えらそーな……)。いや創作とかほとんどしたことありませんが、たとえば漫画で人の顔を描いていて、目の部分を別のものに差し替えただけで全体の表情ががらっと変わってしまうことを想起されたい。これと同じことが文章でも成り立つわけです。 まあ部分と全体、という概念を出して言いたいのは推敲についてなんですけど、この推敲ってやつが Twitter にはない面白いところだと思う。日記を書くときは、まず思いつくままにざーーっと書いて、それをしばらくおいてから読み直して足したり削ったりしたのち上げる、というのが最近のやり方なんですけど。この後ろの部分を推敲と呼んでるわけですね。で面白いのは、まあ先の部分で考えながらぐじゃぐじゃーって書いてるときもそうなんですけど、文章が自分のもともと書こうとしてたことをどんどん超え出ていくさまですね。特にこの日記なんか一個下のやつが典型的ですが「書きたいことがない」「でも書きたい」から始まってたりするので、初期状態でいうと「言いたいこと」など微塵もなかったりするのですけど、いやーでも会話とかでもそうだよね。それが他者が出てくる役割なんだろうとも思うし。それを踏まえてない楡は人生損してるよ。まあそれはそれとして、まず思うままに書き連ねて大きな枠組みを作っている段階で起こることと言えば、文章が論理にドライヴされる、という現象ですね。自分の言いたいこと・言おうとしてることはあるんだけど、それ以上に、こう書いてきたらこう展開するのが妥当だろうとか、この素材が出てきたらむしろこの話をすべきだろうとか、そうゆうことが見えてきてもともと用意してた結論からは離れてくるって現象。これはもう日記を書いていて九分九厘起こるといっていいと思います。いや、俺の考えが練られてないからこういうことになるんだけど。 また遠回りしてしまったけど、部分と全体 in 推敲、という話だった。これはつまり(早く寝たいのでこれから急ぐんですが)、推敲のときは一旦すでに出来上がってる全体に対して何を足そうか削ろうか、考えるわけです。どのくらいの全体が視野に入ってるかには個人差があるにしてもね。多くの場合は「この文を足したほうがスムーズに流れるだろう」とか「こういう喩えを使ったほうがわかりやすいだろう」くらいのレベルなのですけど)。抽象的な話になりますが、全体を眺めてると、「このピースを足したほうがいいのでは」という思いつきが降ってくることがあって、それは多くには先に述べたような、目的があってそれをよりよく達成するための手段となる書き足しだったりするんですけど、場合によってはぜんぜん取り上げてなかった意識に上りもしなかった新しい論点がぽろっと出てきたりすることもあって、そういうのがエキサイティングだと思う次第です(時間が過ぎるので焦っています)。こうした時分は、パズルのピースは自分の頭から取り出されるんじゃなくてパズル自身をじっと睨むことでどういうピースを入れればいいか見えてくるようなもんで、そこでは私の頭は、自分の言いたいことを実現するためというよりも文章というひとまとまりの他者の完成に仕えている。頭の中でというより文章の中、ことばの中で考えてると言うべき事態だ。ことばは数えきれない人たちが使いながら形成されてきたものだから、それは、一種、無数の人たちの頭を借りて考えてることにもなるんだろうなあとか。寝ます。おやすみなさい。 20120914Fri2340 |
デラックス・モードゥス・ポネンス あああ書きたいことがない。でもなにか書きたい書かないとしんでしまう。うそすべて嘘です。書きたいことがないも、書かないと死んでしまうのも嘘、でもその刹那の俺にとって書きたいこと書くことはなかったし書かないと死んでしまっていた。真実は反省のあとにやってくる、ならその真実にいかほどの価値があろうか? いや、むしろ、「今」「ここで」「私が」感じていることそれのみが真実で、それのみに価値が宿るってゆうかそれ以外は等しく無意味だとする思想があるとすればそれは大きな間違いだと声を張って俺が主張すべきだと思うのでもありまして、そんな簡単なとこに安住してていいわけがない。自分のことを自分でわかってる人なんていない。自分について感じられることは確かなんだろうか? それは感じられるという形態ゆえにその正当化に媒介を要さないというだけであって、確かさにおいて特権を持つわけではないのではないだろうか? いったい自分の本心とは、この自分に感じられたものが、そしてそれだけが本心なのか? 眠いということだけがリアルなのか? 階段でこけてぶつけたすねの痛みだけが信じるに足るのか? ことばはいつも裏切るのかことばは感じられたものを不完全に写しとるだけなのか。その「不完全」という言いようがすでに“感じられたもの”の優位を前提している。 だけどこうも思う。僕たちは言いたいことがあって、それをうまく表現する言葉を探す。それらは時間的継起関係にある。それはほとんど確かなようにも思える。つまり言葉よりも「言いたいこと」が先に来るんだ。なるほど、言葉を探して、適切な表現を見つけることによって、自分の言いたいことが明確になってくる、というプロセスはある。だが、いちばんはじめの思考の開闢は、私たちのうちに生じるある感覚だという気はする。だけどそれだけだ。思考がひとたびはじまれば、感覚と言葉とは依存しあいながら互いを完成させていく。だから、感覚が言葉に全面的に優位に立つというのは勘違いであり不当なひいきなのだと言わざるを得ない。 肉体と精神、となるとさらに話は複雑になる。まず「精神」が何を意味しているのか定かでない。これまでの対立でいうと、精神とは感ずるはたらきのことを言うのか、それとも言語を使うプロセスも含めるのか。心身二元論をとるなら、おそらく後者になるのだろうけど、でもどうしたって言語は外在的なものではないだろうか? だが、少なくともこうは言える。肉体と精神、というよりむしろ外的プロセスと内的プロセスとの齟齬はつねに生じる。それは思考(内)と表現(外)の対立と言いかえてもいい。言いたいことをうまく口にできないこと。感じていることをうまく表現できないこと。そんなとき、自分の中からなにかが出ようとしている感じがする。どこか苦しい感じ。言いたいことを適切な形で言えるようになること、言い換えれば外的プロセスと内的プロセスのすり合わせができるようになれば、もっと快適に生きられるんだろうけどなあ。 20120914Fri1525;2344 |
ツイッターから離れてもツイッターのことを考え続けるなんて、よっぽど未練があるのね、またはツイッターはそれだけ興味深い対象であるということなのかなん? ツイッターやめて出来なくなったことというと、タイムライン眺めて安心のようななにかぬるま湯的な効用を得る(いや、むしろ、ツイッターがあることで「ツイッターがない」ことの不安が創造され、それをツイッター自身で埋めてるだけなのだからなんというか生活にひとつのアスレチック的遊具を設けているにすぎず、生活をなにか一段階上げるようなものでは直ちにはないのだが)のもそうだが、一発ネタを発する、ということも同時に大きな損失として挙げられる。僕にとってツイッターとは言ってみれば一発ネタを書くための場所で、頭に浮かんだことを浮かんだまま書く、書ける場であった。ネタが(それをネタと呼んでよろしければ)すでに完成した状態で、 twitter.com に post された形で頭に浮かんでくるんですヨ。『俳句いきなり入門』(千野帽子、NHK出版、2012)は「俳句は短いのではない、速いのだ」と訴えているが、これはツイッターでの post も同様で、むしろツイッターで俺は一種の俳句をやってたんだろう、季語も切れもない広義の広義のアブストラクトな俳句を。 ツイッターの話ししたついでに自分の Twilog を見返してみてるんだけど、そうそうツイッターやってると自分が頭いいと錯覚するんだよね。頭の中で完成したことしか言わなくていいから(他人とやり取りするときは別だけど、それでも 140 字の制限があると実際かなりまとまったことが言える)。 140 字のスケールで考えてるとすべてを見渡して一挙に把握したうえでゴーサインを出せるんですよね。理想化された会話といってもいい。言いたいことをほぼ言いたいタイミングで、しかも適切な表現を与えた上で言える。「相手に通じなかった」というコミュニケーションの失敗が可視化されない、つまり事実上ない(人とやりとりするときはやはり別だけど、 mention を除外したうえで可能な反応は fav と RT くらいだから、好意的な反応、自分が理解されたことを示す反応ばかりが抽出されることになる)。えへへ、でもその「理解」がクセ者なんですけどね。 まあまだやめて三日経つか経たないかってところだし、早急に理屈づけることはしないでしばらくこの生活に沈潜してみようかってのが穏当な戦略でしょうが。すでに、増えてるはずのない fav を見にいったり、増えてるはずのない followers を覗いてみたりして外堀埋めかけてるので要注意ですね。禁煙で言ったら火はつけないけどくわえタバコしてる段階でしょうか。 20120913Thu1051 |
立ち枯れ 焼き鳥 <ゼミ合宿の懇親会にて> なにも言うことはない、というひとつの素直な感想。あるいは、 A とも言えるし ¬A とも言えるという、これも素直な思い。だが、 A か ¬A かどちらかを選ばねばならない、しかもそれに理由や根拠をつけ加えなければならないという要請も、会話の場にはある。そこでは自分の見解を打ち出さねばならない。その要請を前にして、自分はなにも言えなくなる。「なにも言うことはない」ということも、「 A とも言えるし ¬A とも言える」ということも。僕の葛藤とは、簡単に言えばこうだ。まず自分に現れる「意見」は、上記二種類のいずれか、つまり「意見」ならぬ「意見」だ。だが、それらを述べるということは、自分が会話の場において主体として登場しないということを意味する。特定の直接的な意見をもたないからだ。それは会話における倫理を逸している、と考える。かといってストレートな純粋な意見として A だの B だのと述べることは自分の、こう言ってしまえば本心に反する。自分にとって「本心」を捨てることはいまだにむずかしい。しかし、その本心を打ち出して話の腰を折ることも耐えがたい。 そうは言っているが、そもそも、僕は、世界に主体として現れたくないのではなかったか。透明な者として場を見ていたいのではなかったのか。わからない。主体性を拒否することがすぐれた選択肢だとは思わない、だが、かといって、劣った選択肢であるとも思わない。ならば、少なくとも主体として現れ“なくてもいい”のではないだろうか。「何も言うことはない」とか、「 A とも言えるし A でないとも言える」と言っても、構わないのではないか。……いや、ここで生じている葛藤は、沈黙・傍観するということが、一般的な生活における倫理においては通用するが、他方で会話の倫理においては通用しないという非一貫性の問題なのだ。つまり、普段は僕は傍観者を決め込んでおいてかまわない。しかし、いったん会話において話を振られたとき、僕は何らかのリアクションを返さなければならない。そしてそのリアクションは、会話においては、いわば無媒介なものでなければならない――大げさにいえば、自分が自分の実存をかけて発する一個の意見でなければならない。しかし自分には多くの場合それがない。 沈黙を決め込む(むしろ決め込めれば楽なのだが、僕の場合は葛藤しつつ沈黙に落ち込む)ことは会話の場において、そもそも指示することのできない非存在的な個体として存続することを意味する。だが、非存在は形而上学的困惑を呼び込む。いったい、誰かが僕という非存在を誤って指示しようとした、という非道徳的な状況に場をしてしまうことに僕は耐えられない。より地に足つけて言えば、意見を聞こうと思って話を振った相手が黙りこんでしまうのではやりきれない、そのくらいは僕だって理解できる。だから主体であろうとする。しかしそれを「本心」がそれを邪魔するのだ。……だが、そもそも、会話において主体とならねばならないという思い込みは修正されるべきなのではないだろうか。すなわち、会話において登場する個体の種類は、自分の意見を開陳する「主体」だけではない、と思われる。その第二の選択肢が「媒介」である。媒介とは、主張はしないけれど、議論を整理したり論点を提出してその推進となる役割だ。主体にならなくても、媒介となることはできるのではないか。 あっあっ、でも「話を振られた」という場面において媒介的でいることが難しいのが問題なのか。そこでは「意見を言う」ということがほとんど要求されている。そしてそうした場面くらいでしか自分は発言しないということがさらに問題なのかっ……。でもまあ、話を振られた場面で媒介的なふるまいをすることは最適ではないけど、ルールからの逸脱とまではいかないよな。ぎりぎりセーフ。 dare to be a medium だ。だけど、媒介的ふるまいは、ともすればすでに誰もが共有してる「当たり前のこと」をもったいぶって指摘するだけになる虞があって、やはりリスクある立場だという気がする。言ってみりゃ哲学だって「当たり前のこと」を指摘するのが仕事だって面はあるけど。でもつまんねぇ奴だと思われるのは俺だって厭だよ。まぁ一発二発で諦めんなってこったなあ。ぼちぼちやっていくしかない。 20120912Wed1904;2344 |
ふとんの上で 欠如感はよりくっきり感じられますわな。咳をしても一人的な。 Wish You Were Here 的な。孤独であること、それを不服に感ずること。 solitude ではなく loneliness 。実家暮らしだから家族には毎日会うんだけどね。ただ一緒に暮らしてるだけという面が今は強いし。はー、ルームシェアしたい。 この欠如が埋められるまでは何もしてやるものか、という気になる。誰に対しての報復となるわけでもないのに。 20120912Wed1154 |
マイアミさん。 (20120911Tue2) 抵抗感ね。習慣を変えようとするときの抵抗感。これは私が生きているときに感じる理性的感覚においてはかなり確かな部類に入る。自分が欲しているその欲望に自信がないし、特別避けたい事態もなければなりたい自分があるわけでもない。好ましいものはあるがそれ以上にどうでもいいことのほうが多い。いや、いっときの感覚など頼りにすべきでないのだろう。すべては習慣が決める。義務教育的な角度において大事にされる「個性」とやらもけっきょくは習慣、その人がなにを習慣とするかでしかない。自分がどういう人であるかは、自分がどういったことを繰り返ししているかによる。その「していること」が本意なものであろうと不本意なものであろうと。ツイッターはなんとか見ずにいられるけど夜のお仕事はやめられない。やめられないっちゅうかさ。しなくても苦しくなったり寂しくなったり健康を害したりするわけじゃないし、なんなら時間をばっさり使っちゃうので読書なりなんなりに使えた時間をそのぶん失うことにもなるわけで、利益の面からみればむしろマイナスなのだが、それを上回るなにか魅力がそこにあるってほどでもなくて、結局ひとえにこれが習慣であること自身がそれを続けようとする意志そのものだ。時間的なロスがあるとはいえそれで痛い目ひどい目に遭ったわけでもないし、その場では多少の益に浴したうえでそれを終えるわけだから、その習慣に疑問を叩きつけることもせずに習慣はすこしずつより高貴な生活を削り取っていく。 習慣は変えにくいこと、自分ではどうにもしがたいことをその本性とする。個性がイコール習慣であるのもそれゆえだ。自分の意のままになる性質など、個性ではない。いつも明るい人は、暗くもできるけど明るくしてるのじゃなくて、ほとんど「明るくあらざるをえない」のだ、いや事実そうだというより、私たちは規範としてそのように見ている。ある人がアイドルオタクであるなら、その人がアイドルオタクになった必然性、まあ少なくともなんらかの理由を備えているべきなのだ。理由の不在に対して私たちは居心地悪さを感じる。 だけどご存知の通り、私たちは習慣を変えることができる。いや、変えようと思ったら変えようと思っただけ変えられるわけではなくて、実際にはさまざまの“きっかけ”に助けられて習慣を脱するのだけど。ともあれ、決定論的にであれなんであれ、習慣が変化したときに世界が進展する(もう飽きてきた)。そしてプログレスイズオールですよ(ごめんなさい、でもツイッターなき今、吐く先がここしかないので……)。 じつは自由意志の話は、日常生活のレベルでは習慣とそれを変えることの対立として理解すべきなのかもね(愚かな思いつき)。「われわれは自由ではない」というのは、まずは習慣に縛られているという意味で了解される。もちろん私たちの「自由でなさ」には、他にも角度がある。対人関係における遠慮とか。ッていうか物理的要因以外での自由を阻む要因をすべて意志の問題にしちゃうのが雑なんじゃないか。 |
しっとりレイシストのトレイシー (20120911Tue1) 禁煙より禁ツイのほうがきついと思いますねー。いやまあまあ僕の Twitter に対する依存度といいますかどれほど習慣化されてるかの度合いが明らかにタバコよりも高いのでこれは一般的な話ではないんですけどォ。タバコは先日、生涯ふた箱目(キャスター)を一ヶ月くらいかけて消費し切りました。そんでそれから買ってないし吸ってない。今んとこ吸いたくもならないし吸いたくなっても買いに行くのがめんどいし喫煙所を探すのがまためんどいので当分たばこは手にしないのでしょう。たぶん。 Twitter は、こないだ合宿に行ってたのですけども合宿中とか他人と一緒にいるときはツイッターを見ない主義なのでボクは、みようかな見ようかなと思った刹那に繰り返し出会いつつもタイムラインとの対面を回避し続けていたのですが、合宿終わるときに「じゃあ、この調子でしばらくやめてみっか」と思ったわけです。習慣を変えること。われわれの生活って大半習慣でできていて、習慣を変えるってことは生活を変えるってことよね。生活を変えるってことは自分が変化するということでもあります、なぜならこの自分とゆうやつはひっきょう自分の生活ということでしかないからです、ずいぶんずいぶん雑に言うならば。 べつに変えたい自分があるわけじゃないと言えばぼくは大嘘をついたことになりますがさほどの目的意識があったわけじゃなくって習慣は変える機会があったときに変えておくべきだしそれは特別の事情がない限りそうすべきだ、とそう思っているのです。断言するなら、変化は無条件でよいことだ。バカな。でも、変化と並んで「保つこと」というのもたいそうダンディといいますか生きてゆくうえで身につけておくべき構えだと思います。保つのと惰性で行くのとは違うから。まあ保つという能動的所作がやがて習慣をつくって惰性に移行するのでは、一面あるのですけども。でもヘーゲルを読みたい自分としては変化、これですね。世界の発展的遷移。真理は最後に現れて酒を飲んで帰ってく。まあいいんですけどツイッター見ないのはなかなかにキツイというか、われわれが(私が)ふだんタイムラインを眺めることで何度となく安堵を得ている事実を鑑みるにもう喫煙者を蔑むことなどできないのだなあと感じ入るわけです。いや感じ入りはしませんけど、でもこれはごまかせない立派な依存だなと思いました。おもいました。得ているものが安堵だろが何だろーが、勉強していてアーッッ疲れたーつって手にするのがスマートホンなのかたばことライターなのかどうかっちゅう違いですね。つまり違わないんですよね本質的に。でもビジネス書的な視点から評価するとすれば、息抜きとしてはたばこのほうが優れてると思いますよ。たばこはあらかじめ「燃え尽きるまで」という時間制限が設けられてますからね。もちろん二本三本と続けて吸うこともできるし実際は多くはそうするんだけど、ともあれ息抜きの時間を細切れに寸断することで「ここまで」という区切りがつけやすい。対してツイッターのタイムラインは整数的に連続しているので、むしろ区切りが小さすぎて見えない。「この post 読んだら終わりにしよう」とはあんま思わない。それにツイッターはどこでもいつでも見れる!(飽きてきた) まとめると、ツイッターという息抜きはだらしない息抜きです。いや、ともすればそうなってしまいがち、ってね。 すっげー Twitter を dis って何したいのかなと思いますがひとえに私がいま Twitter を使ってないがゆえですわな。経験から察するに。一度離れたものに対する執着。自分側にないものを批判したくなるのは人の常ですが、すると自己批判ってのはどう位置づけられるんだろう。マイスター、教えてください。ツイッター見ないようにするといいのは時間がブロックで使えることで、休憩休憩に挟まれるツイッターを切り落とすことで一日の生活時間がデフラグされてくる。昨日は昨日で卒論進められなかったしひどい一日だったという印象はあるが、すこし反省してみれば演習の予習は進められたし、本もまとめて 50 ページくらい読み進められた(私のなかでは大幅な進捗)し、ギターのコード進行も覚えたしで成果は出てるよね。あー、成功者の言葉なんて信じちゃだめですよ。偶然手に入れた成功をあたかも必然的なことであるかのように正当化しますからね。 ひとつ困るのは他者とのコミュニケーションが大げさに言って断たれることで、いやタイムラインを眺めたり自分で書いたりすることがいかなる意味でコミュニケーションなのかって言えばそれは場に参加するということであるんだけど、でも、んー、とりあえず依存ということでまとめておけばいいかな。今はツイッター見ることがそっこまで面白いことでもためになることでもねぇし。ある種のぬるま湯を提供してるにすぎない。ぬるま湯も大切なものなのかもしれんけどね。でも最近、自分がぬるま湯というか人との接し方において甘えてるなと再確認してるのでそれはとても変えたいところですね。どの場面で甘えてる、というのではなくあいさつする場面でも道路を横切って渡る場面でもなんでも。自分からひとの領域に(一時的にでも)侵入すること、また自分の領域に他人がうにゃうにゃうにゃうにゃ。 |
電池が切れるまで (20120910Mon) ダイレクトに吸収された鬼、勾配へ向かい扇風機の泡にとばされて宮中に居直る。困り果てた沖合でとび職の求人はタバコに火をつける。銃弾に斃れた9歳のスローフードが母親に怒られ、頭痛の種を庭に蒔いている。横線を引いても引いても終わらない。溶鉱炉を介護しつつ、メンタルヘルスの様子をうかがってインスタントラーメンをゆでる。右を向けば右、左を向けば左で、上には夜の休まるラジオが鳴り響いている。灯篭に手を突っ込んだあの日の法律、裁判所の屋上でやわらかい重圧とたわむれていた音頭取りの亡霊が、指先から感じられてくる。ウェストミンスター憲章、とひとこと口にして、自転車をこぎ出した。靴と地面が擦れ合う音。シャンプーに浸されて気付く水平線。厳密な足踏みを習慣とする人魚の荒廃が、誰かの三段跳びを邪魔する。回転しながらゆっくり落ちていくイメージ。痛痒と無関心のはざまで、この世のすべての敵という敵に霧を吹きかける。いうなれば酩酊、いうなれば信号を守らない親子。ポスティングスタッフになりたかった。行間に銃弾をしこたま打ち込んで読めないようにする。擦りむいた皮膚の裂け目からのぞく満天の星空。あくび一つすればこの世は終わる。薄荷味のソーダを一口、音速の無生物、対応に困る郵便配達夫。レッカー車に吊られて世界を旅したいな。解放だって、狼藉だって、愛嬌だって、はじめはただの上下運動。もしもお餅が焼けたなら、最後の一切れは残してほしい、残した一切れを、エアコンのファンにからませて壊すのだ。塩酸硝酸亜硫酸。お金を払う練習。山びことの対話。懸隔だ。レッツゴー懸隔。Tシャツの裏の裏まで到着すれば、沈む陽を赤い赤いとはやし立てることだってできるはずさ。第三の予備校。秋が弱まる。当分はサイフォンの中で頭をぶつけて暮らすだろう。鼻から出たメッセージを脚で受け取って、まつ毛を抜いて投げて返す。欲動のバリエーションから 2, 3 個選んで炒める、そして食う。平坦な道を転がって扇形にかたどる。録画のあとの淋しさ、駅から歩いて15分の中華料理屋の下で内職を営む妖精は、球技をするときだけ地上に出てきて、世の空腹を食べる。惑星の運行に沿ってスプーンを運ぶ、紙の上で片足で踊る。耳の中から聞こえてくる歌、口からしたたってくる味、鼻から垂れている匂い。目から剥がれおちる風景。皮膚から発散する感触。決闘は三時、夕食は五時。夜食はいつもの宝くじ売り場で。赤ん坊に嫉妬するエネルギーを私に。麦チョコ銀河。排出のたびに賛成がわきあがる、揚子江に塔が立つ。遠慮しててもしなくても、ねぎを刻まなきゃはじまらない。12:00のチャイムが遠くで聞こえる。 |
享年ほうじ茶 (20120906Thu) 精液の雨が降る。そんな空想を楽しんだ。夜、近所のローソンでコピー機を使おうと外に出た。小雨が降っていて傘をさして。草履をはいて、空気は冷えていて湿った風が心地よくて、こないだまでとは違う虫の声がしていて。でも、そんな要素を並べ立てても「わかるわかる」を引き出すためのトリガーにしかなりえない。機械的な共感を成立せしめる試みにとどまる。いったい、しかし、かりに共感が機械的なものであるとしたら、機械的でない共有などありえないのではないか? 違うんよ。きっと、もっと細部に入って理解し理解された上で共有すること。機械的な共有とそうでない共有があるのではなく、雑な共有ときめ細かい共有がある、ということ。いや別にそれはいいんだ。いま自分が問題にしたいのは他者との共有においてではない、自分自身が自分のこの体験をどう受け止めるべきか、いや体験一般に対して、どういった受け止め方をしたらきちんと受け止めたことになるのか、ということだ。 夜の散歩は美しい。たとえばそんなまとめ方は、ポケットに入れて持ち歩ける、いつでも使える文庫本のような科学的知見だ。だけど、それは出会う場面場面でお湯でもどす必要のある、それ自身ははっきりした形を持たない目印で、僕のこの体験の個別性を保持しているわけではない。そのためには文学的な言葉遣いをするしかないのかな。文学と哲学とは違うのかな。それは言葉遣いの面から区別できるのかな。しかし、個別性、個別性といっても個別性をどうしたいのか、どうすべきなのかはわからない。べつにこの気持ちよい散歩の記憶を持ち歩いて好きな時に取り出したいわけではない。それに言葉は読むたびに違う顔を見せる。いくら詳細に詳細に記述したからといって、ふたたび、「読む」というお湯でもどすプロセスが介在する限り、記憶を持ち歩くことは厳密な意味においてできない。それに俺はそんなことをしたいわけではない。と思う。ただ、体験のこの個別性をとらえる言葉がないということだ。そうか、そりゃそうだ、ことばは本来客観的なものだ。ことばは人と人との間にしか存在しない。私的言語は、記号と実在とを結び付けてものごとを思い出す助けとはなるが、それはすでに言語のはたらきではない。いや、そんなら、言語に頼らなくったっていい。ぼくのあの体験の個別性をぼくはどう処理し受け止めるべきなのか。俺は処理したいのか? 処理して自分の内に取り入れて、見慣れたものにしてしまいたいのだろうか? その試みは失敗する。処理するということ、理解するということは言語によらざるをえない。そして理解するということは構造を抜き出すことだ。しかし僕の個別的な体験そのものには構造などない。構造は、体験を言語によって他者とやり取りするときにはじめて要請されるものだ。自らの体験の個別性を「理解」しようとする試みは、原理的に破綻している。個別的なものは言語的理解を拒否する、このありさまを「他者」と呼ぶのかもね。つまり風景は他者だ。 精液の雨が降る、という空想を、僕は心地よいものとして楽しむ。それはすこし狂っているかもしれない。この物体に自分が慣れ親しんでいるせいか、精液とは汚いものというよりも、石ころみたいにニュートラルなもの、むしろなにか内容豊かなものだという気さえする。よりはっきりいえば、精液に対して「汚い」という意識がほとんどない。それは繰り返せば、この物体に自分が慣れ親しんでいるせいだ。上の議論を踏まえて言えば、ぼくは精液を、ある程度までは自分のものとして取り込んでいる。翻って、汚いとは他なるものに対しての捉え方だ。たとえば、(この二者がどこまで対比的かどうかはあやしいが)愛液については僕はパッと見、不潔な感じがする。ちなみにここでは「汚い」と「不潔」とは限りなく近い意味で使っている。汚いの対義語はきれい、不潔の対義語は清潔。 dirty と clean の対立。強いて言えば、汚い/きれいのセットには美的判断の匂いがするが、汚いの対義語は美しいでは、やはり、ないと思う。「美しい」に対立するのは「醜い」だろう。汚れた靴を洗ったら美しくなるわけじゃなくて、まずはきれいになるだけだ。結局、言ってみれば、他者とは本質的に汚いものなのだろう。大人になる過程で自分が「汚れた」と感じるとしたら、それは自分がかつての他者へと移行しつつあるからだ。そして、大人をみずからの内にすっかり取り入れてしまうと、そのことに何とも感じなくなる。それにしても、私が精液を内に取り入れて抵抗を感じなくなっているのに、それでもそいつが無内容な見慣れたものに堕ちずに、「内容豊かな」ものとして現れてくるとしたら、それはとてもいい距離感なのかもしれない。例としては不適切だけどねー。 |
ニューヨーク屈伸講座 (20120904Tue) 夏のバイトの全日程が終わりましたが特に思うこととかないですわな。二ヶ月間を振り返ってどうかというと、あーまああまり遊びに行けなかったってのはありますわな。昼ごろもぞもぞ起き出して、ごはん食べてだらだらしてちょっと勉強してたらバイトの時間になって、バイト終わったらもう寝る準備に入って……なる生活が続いてたから。バイト終わって、したら遊びまくれるのかといえば今度はほっぽっていた卒論と運転免許がありますのでやることはいつでもあるんだけれどさ、あと院試の勉強!。でもがっこ始まったら午前中から活動してますので(授業)、勉強に充てれる時間は増えるはず……!。はあ。なんか「勉強」というタスクが最っ初に出てくるのが人生に対するいいかげんさというか、勉強だけしてればいい、勉強だけしてれば平穏な生活が途切れることなく無限に続いていくと暗黙裡に考えているかのような調子ですね。ふふふ。ディスコミュニケーション!(コーラス) だからぼくらの雨宿りには幸福も不幸もないんです。とくにいみはない。とくにいみはない。ことばは空から降ってくる、地から湧いてくる、窓から差し込んでくる。空気に溶け込んでいる。裏なんて読まないでください。そいつは人間の臓器を取り出して「これが人間の本質だ」と言ってるのと似てるよ。本心なんてどこにあるんでしょーね? すべては嘘だ。すべては嘘だよ。さいきん嘘ばかりついてるしな。自分の本心をどう打ち出すかより、なにが主張として可能なのかとか、ことばでできることの範囲とかに興味があるよ。 それにしても、起こってないことで悩みすぎじゃないか。もちろん、起こってないことが「起こってない」と確定されてはいないから悩むのだが。ひとを悩ませるのは事実よりも可能性だ。いや、しかし、ねえ。一足とびに答えを出すのも馬鹿馬鹿しいけど答えが出ないっつって考え続けるのも馬鹿馬鹿しくて、必要な答えはすでに手の中にあるしそれ以上の答えは手に入らないのだからこれ以上連ねるべきこともないよね。考えることより大事なのは事実を拾い集めることだし、拾い集めるより事実を吐かせることだ。 うー、やっぱなんか言いよどんでる書きぶりだわな。考えてみれば、今にかぎらず日記を書くときはたいがい特定の読者を意識してきたものなのだけどね。リアルの知り合いかどうかにかかわりなく、また、ときには読んでいないだろう(だけど、もしかすると、読んでないとも限らない)相手を想定して。もともと読者の少ないサイトですからね。誰かに(ある種の意味で)向けて書くとき、それってつまり対面での会話のときとおそらく同じ原理が働いていて、純粋に自分のためだけに書くのとは違って大なり小なり遠慮が入り込んでくるんだな。ていうか誰にとか関係なく「読まれてる」「聞かれてる」と意識するだけでこの装置は作動するのですけどね。音声レコーダーを前にするとギターが下手になったりとか。あと完全プライベートの日記帳に書いてるときとかも心のコンディションによってけッこう自意識的な文章ができますね。あー。自意識死に絶えろ。ディオニュソス的な〜?(照れ隠し) てか、一度二度くらい、文章表現に隠れてる自意識を逐一暴き出したうえで提示するような日記を書いといても効果的かもしれんですね。 世界はわたしたちが望んでるほど冷たくはない。(※くりかえし) |
どたま交錯 (20120901Sat) つまりはこの憶病なんだな。 このフォーマット、どこかで手にしたものだなと思いめぐらせていたら、梶井基次郎の「檸檬」だね。原文は、「――つまりは此の重さなんだな。――」(1954年第1刷、1977年第15刷の岩波文庫版)。かじもとじろー好きです。ひさびさに読みたいな。さて。ぼくの憶病に関する話です。きっかけは、例によって朝、というよりギリ午前中に目覚めてふとんの上でうだうだしてた時分のこと。だいたいこんな頃に考えることなんて決まりきっていて、決まりきっているのでわざわざ詳述はしない。つまり決まりきったことを考えていて、ということは考えているというより意識に貼りつけたままそれを眺めては分からながっているのだった。結局んとこ俺はさびしいのに過ぎないのだと思う。欠如感。欠如感はひとを探求 (search) に仕向ける。だけど動かないでふとんの上での探求。寝返りをうったり腕を伸ばしたり深呼吸してみたり。そうして何十度目か何百度目かの結論にまたしても気付く。自分はさびしいのだと。哲学的問題などハナからなくて心理的状態だけがある。解決すべき疑問ではなくて充足すべき欲求なのだ、それは。 欲求。もちろん欲求について「充足すべき」というとき、その意味を限定しておく必要がある。欲望は私の意識において直接には、「充足すべきもの」として現れる。むしろ欲望がそのように定義されるといってよい。だが、実利的関心からいえば、つねに欲望を充足するよう動くのはむしろ愚かなことだと言える。たとえば食べすぎが苦痛へ至ることを思えばそれは納得できるだろう――いや、食べ過ぎるのは、自分の満腹感を軽視して、欲望が解消されてもまだ充足しようとするせいであって、それはむしろ自分の欲望に対して誠実でないことから起因する――つまり、欲望に対する認識の甘さからくるものなのではないか、だから、つねに適切に自らの欲望を認識できていれば、「つねに欲望を充足するよう動く」という戦略は最大限合理的なものと考えられるのではないだろうか。なんの話やったっけ。あんま関係ない話でしたね。欲求における「充足すべき」という表現に関する注意。つまりここで言われているのは、欲求が欲求であるかぎりにおいて付随する、充足への志向性みたいなものだ。 結局、ふとんの上でうめいてる私を適切に記述するとすれば、それは「おれはさみしい」ということであり、まあ「さみしい」ということに尽きる。自分がさみしいことに気づかないとは自己欺瞞もいいとこだ。ま、それはともかく、さみしいとわかったからにはそれを解消し解決しようとするのが筋だし、ふつうそれは(特別な事情がなければ)解消すべき事情なのだが、なんか妙に奥歯にもの挟まりまくりな書き方だな。つまりとても微妙な領域に入り込んでしまうのだが、欲求は充足すべきものであるとしても、欲求を充足することが自分にとってよいことなのかどうかははっきり言えないのではないか、という疑いがある。「自分にとってよい」という表現の一種の奇妙さ(善は根源的に公共的なものではないだろうか?)もあって、微妙すぎるのでこの場でこれをまともに取り扱うことはしないけど。だけど、欲求の実現に対するそうした無関心は、そもそも「よい」という語が機能するフレーム、いわば世界に関する進歩主義を離れたところに存する、 nothing matters な気分において吐けるセリフなんだろうなとは思う。そして俺はわりと nothing matters な気分を身につけているので、まあそれが自己欺瞞というか自分の思いに気付かない性向につながってもいるんだけど。 あー、また余計なこと書いたが、つまり俺はおれのさみしさを解決しようとしないのだった。それはそれが合理的だからなどではない。ただの習慣だ。つまり憶病だ。憶病という習慣を身につけているために、解決に向けて動き出すということをしない。あー、もちろん人に向けて説明するときこれは「言い訳」になるのだが、言い訳とはすべきことをしなかったという事実に対してなされる。つまり「言い訳」と口にするには“なにをすべきか”が前提として確立され共有されてなければならないのだ。だがあのさみしさを解消すべきかどうかがそもそも疑問に付されてるんだから、勝手に通俗的倫理性を借りてきて「欲望は解消すべき」を所与のものにするのはお門違いだ。安易に「言い訳」だなんて言って価値観を押し付けないでほしい(さらっと書いてみただけで、そこまで本気で思っちゃいないですが)。まあ仮に解決しようとすれば、その方法としては Twitter で「さみしい誰でもいいからメールくれ」とか書いたり、ということを考えるわけだが、そのやり口の下手くそさは措いても、俺のポリシーとしては Twitter には「そういうこと」は書かないのである。でもそのポリシーとやらがどんな基盤を持つのかといえばよくわからんくって、単に気恥ずかしいという話だったりする。その気恥ずかしさに負けてしまうのが俺の習慣であり、誰かにこちらからメールを送ったりするのに気後れするのが俺の習慣なのだ。習慣はいとおしい。それはアイデンティティに他ならない。悪癖といえどもそれは癖なのだ。自分にしみついた「自分らしさ」に他ならないのだ。よく身の回りを反省してもみずに進歩主義の健全さに乗って「自分らしさ」をわらうのは愚かだ(論理に乗っかって書いてみただけでそれほど本心ではありません。あと疲れてきた)。でもまあ正味な話、変化を恐れる心は、一部、自分が自分じゃなくなることを恐れる心なんだな。着なれた自分を捨てることへの不安。単なる心理的反応だといえばそれまでだけど。だけど心理的反応を抜きにして、人間に大事なものがどこにあるのかなとも。 |
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