遠浅カニクリーム (20120829Wed) 漫画を読んでいる。真造圭伍『台風の日』。とっても面白い。続きが読みたくなる感じ。面白いものを読むってそういうことなんだろう。なんだろうか? もちろんそうだろう。面白いものに限らず、摂取していて気持ちのいいものは、同じものをさらにさらにと求める。だから喉が渇いたら水をがぶがぶ飲むし、二度寝でも三度寝でもする。「むさぼり」の話ですね。むさぼれるかどうかは、それを単一な快楽として捉えることができるかによる、かもしれない。たとえば「すべり台をすべる」行為は、階段をのぼることと坂をすべることの二つの契機が少なくともある。ただ、その二要素の区別をいったん忘却して、ひとまとめに「すべり台をすべる快楽」に捕らえられたとき、そこにむさぼりが生じる。あるいは坂をすべることで頭がいっぱいで、階段をのぼる契機を意識において無視できる場合。つまり、むさぼりとは単一なものの繰り返しなのだと言いたいのだろう。これ、心理学の「フロー」概念と関係ありそう。そういや禅的なさとりとむさぼりの状態は実はかなり似ている気がいたしますが(もごもご)、むさぼりは結局どこかで壁にぶち当たるから(水はいつかなくなる)、仏教的には否定されるのでしょうかね。 小説や哲学書なんかも同様に面白いものだとは思うんだけど、なんとなくこーゆう漫画みたいに手が伸びないのはなんでなんですかね。ひとつは「なかなか読み終わらない」点にあるのだと思う。特にこの『台風の日』なんか短編集だから、読み終わったという達成感ないし充実感を容易に味わうことができる。いや、でも、それだけだと俺が詩や俳句をむさぼり読んでないことが説明できないし、小説の短編集もほとんど読んでないよね。だからやはりこのむさぼりの要因は、漫画の形式つまり絵がメインであるという点に求めたいと思う。簡単にいえば詰まらずスムーズに読めるという点だ。ただし単に絵というと俺が画集を見ない理由を説明できないので、絵のありようにも注意を向ける必要があるんだろう。つまり記号的であること、しかも一意的に読めること。しかし絵がいいよなあこの漫画。ポップカルチャーの強みってつまり分かりやすさ、その作品ないし作家の「よさ」を理解することの比較的な容易さにあるんかなやっぱり。まあだとすればハイカルチャー、クラシック音楽だの美術だのといったものが「わかりにくい」として、その要因はどこに求められるのかって話になりますけど。 ……しかし、おもしれぇなあこの漫画。 |
蹴倒そう未来 (20120828Tue) 写真見てたらなごんでしまった。アホだわ。俺は死にたかったのに。死にたかったのに? 死にたいことに価値などない。まやかしの価値だ。見せかけの価値だ。世の中に語るべきことなどひとつもない。ことばが担う意味は見せかけの意味にすぎない。うそだ。ことばは心情を伝える。ならば。僕はひとの心情を気にしている。べつに。誘われごと頼まれごとをあまり断らないのはひとつはそのせいだ。はあ。結局のところ、僕は他人に拒否られるのがいやでこうしてなにも語らないのだろう。自分から伝えようということをしないのだろう。ひとりよがりに見えるアクションをして、誰かがそれに気づくのを待つ。 だから、語りたいことがないというのは嘘だ。勘違いだ。でも他人を前にしたときに語る言葉が出てくるか、語りたいものを見つけられるか、そして実際に語ろうと思えるか。それは別だ。 |
かいわれ問答 (20120825Sat) バイト上がりのバドワイザーはうまいわ。バドワイザーなるビールを始めて飲んだのですけどもこれはうまいですね。キレというやつなのか、勤務中忙しくって飲み物を口にできず喉をひたすら乾かしていたということはもちろん影響しているけど。そして最近、ごく最近はバイト上がりに近くのセブンイレブンでタバコ吸いながらビール飲む(飲みながら同じバイトの学生とおしゃべりする)のが通例となっていて、なんなんだこれって思いますよね。ひとつ気付いたこと。たばこにはビールが合う。 勤務中は疲れて死にたくなっていたのである。めずらしく七時半には起き出して何やかや活動したりしなかったりとりあえず目は覚ましていたせいか、日暮れ近くからだとはいえ勤務が 11 日も連続してしまって疲労がたまっていたのか、忙しいわせまいわうるさいわで疲れる要素は、まぁ確かに満載だわな。それでも精神的にくるタイプの険しさではないので<まだ言うか<いや後に残らないという意味でね…… 、辛い目にあった感じはそんなにしてないのが助かってるけど。てか、あのときから〈辛い〉と感じる水準が一段階上がってしまったかもしれないな。人はこうしてひとのことをわからなくなってゆくよ。 死にたいときは死にたい自分を肯定するのか、死にたいけど元気なふりする自分が経営者的には望むところなのは了解するけど、とりあえず自分の自分に対する態度に限ったときにどうするのか。とりあえず肯定否定以前に、肯定だったらそれはどんな形態を取るのか。たとえば「死にたい」と口に出すこと、いや、むしろ肯定も否定もすべきではない、死にたい自分はただ死にたい自分であって、そこに追認も阻止もはいってはならない。それが直接性において生きるということだった。「これでいいんだ」と思って進むことも間違ってるし、「これじゃだめだ」と方向転換するのもまた違う。かといって「これでいいのだろうか」と迷いながら進むべしと言うのでもない。じゃあなんなんだよ!(キレ |
夢も希望も、チョコレートもねぇ! (20120824Fri) バイト上がりのリポビタンDはうまいわ。今日は疲れた。仕事は最低限度できるようになったが体が業務に適応しすぎてて柔軟な反応がむしろできない。いや疲れてたからか。バイトの前にカラオケなんか行くものじゃないね。買い物行って、カラオケして、帰ってすこし勉強して、一五分だけ寝てバイトに行った。ゆうても起きたの一一時ですからねえ。まあいいや。ともかくイレギュラーなあいさつを返すことすらできなくて自己嫌悪に落ちた。「今すっごく死にたい」。死にたい死にたい、はぁ、死にたい、だけど死にたい自分に落ち着きを覚えている、居易さを感じている自分がいて、どうもあかんなという気がした。だけど「死にたいことに安住してはいかん」という言い聞かせにもまた通りきらないものを感じて、こりゃ何なんだろう。 |
雨乞い道場 (20120823Thu) ここしばらく、わりと大きなことが 1, 2 あったけど、それで自分の人格が変わったとは思えないなー。いうても漸進的な系列の上にあるという気がする。使えるスロットが数個開いたってだけでさ。「大きなこと」と、自分史の観点からは記述できるけど、精神的な揺れ動きが激しかったわけでもない。日常はいつまでも日常の顔をして続いていく。 だから、新しいことが生じても、今までどおりの対処をするしかないし、そうすればよいのだし、そうしなければならない。「対処するかどうか」が勝負の分かれ目になることは変わらない。 しかし最近一人が加速してて困る。おっぱいおっぱい。それってつまり世界を傍観してるってことさ。なににも関与せずにテレビ見るみたいに楽しいことや美しいものを鑑賞していたいんだねきっと。だけどそんな自分が誰より言語行為(※勉強不足)的なことばの運用をしちゃってるからなお困る。「これなに?」って言って片付けさせるみたいに、直接に要求を述べずに人を動かそうとするってゆう。傍観者はただ世界を記述するのがお似合いではないかい。記述だけしとけばいいのに、なぜわざわざ言語を介して世界に働きかけるのか。だが、それは何かってゆうと、自分に関する事柄を素直に述べることをためらう態度のせいなのだと思う。自己を表明することは、この世界に一個の主体として表れてしまうことなのだ。だから自己主張はしたくない。その考えが、婉曲な表現を生み、結果として言語行為になってしまっている。 いや……、ほんとは、拒否られるのが怖くて自己主張しないだけなんじゃん、という心理学的説明のほうに真実があるんじゃない?という視点は確保しておくべきだよね。最近、どういう場面でだったかは忘れたけど、自分はいらない子だというなんか刷り込みが強いのかな、と思った瞬間があって、まあ別にこれまで生きてきてひどい目に遭ったわけでもひどいことを言われたこともほぼないんだけど、なんらかの形で積極的に必要とされたことは確かになくって、つまりそれって義務教育の過程を通じて一定数存在するタイプの人とは思うんだけど自分がそれにあたっていて、学校でなんかリーダー的なことをやったこともほとんどないし、まあ組織に属することがあまりなかったし属しててもかなりゆるいものだった、ってのがあるかな。いや全く仕事を負わされなかったかといえばそんなことはなくて中一のある時期の掃除当番は俺がいなけりゃ誰もやらなかった!いやそんな例ばかりではないけど、でもあのころ雑巾がけをしていた俺は校内の衛生状況に確実に貢献していたと今は言えるけれど、そのことを当時の俺が自覚していたかっていえばしちゃいなくて、ただの掃除マンとしてその場を生きていた。まあ基本的には学校のすみっこに居場所を確保してたような育ちなので、世界は俺が回す!というよりは世界に住まわせていただいている、というような意識のほうがぴったり来てたとは言える。家でもパソコンでインターネットばっか見てるような生活だったしなあ。そのくせ掲示板とかチャットとかに参加はあまりしなくて。みたいな来歴を思って、ああ俺って必要とされたことがあまりないんだなあ、人生の早い段階での暮らしぶりはのちのちまで影を落とすんだなあと認識を開くことは有害ではないけれどそれは今は関係なくて、そっか、だから人になんか働きかけるときも「迷惑なんじゃないだろうか」とかよく考えるんだ、ってことをバイト先の人と話してて思った。うー。頭の中ごちゃごちゃしてきた。だから人を遊びに誘ったりとかほとんどしないです。だからそう、一人で充足する体になって、目だけで歩きまわる。はぁ、しかし、社会的に影響力が大きいことと、その人と一緒にいて楽しいなどということとは、かなり独立のことだよなあ。俺の見方歪んでるな。 |
存在の別腹 (20120822Wed) 向こう五年くらいは読まなそうな本が届いた。 Abebooks という洋書の古本通販を時たま使うことがあって、そのメルマガ?で「クーポンあるけど使う?」みたいなこと言われたので言われるがままに使った次第です。まだオースティンとかグライスの論文集のほうが読みそうな感じだけどねえ。こういう「買い物のための買い物」みたいなことになると、さしあたって必要のないもの、「要るもの」ではなく「欲しいもの」を買いいれちゃうことは傾向としてある。読むべきというよりは読みたい、読みたいというよりは所持したい。二週間くらいで届くって言ってたけど一カ月近くかかったね。とうぶん読む見込みないからいいけどね。 最初数ページだけ書き込みがあった。 最近は給料が入ったので本を買い込んでいて、でも気になるやつドンドン買っていったらわりと簡単にお金がなくなってしまったので、あと一回くらいで控えるつもりですが。 最後に、こないだ買い込んだ本どもを。 あーっ。すっげー後ろめたい。 |
バカには見えないレスポール (20120821Tue) ルーチンな暮らしが続くと性欲が高まるね。性欲ゆうか。夜のお仕事の頻度が増えるし、女の子かわいいと思う感性が高まる。ルーチンいうほどルーチンなのか?という疑問はなくはない。11時くらいに起きて、メールチェックしたりギター弾いたりでぐだぐだして、お昼食べて、またギター弾いたり音楽聞いたりして時間つぶして、いいかげんやらんとなあとゼミ合宿の予習をちょろっと進めていると時間がきてバイトに行って、終わって同僚と酒飲んで帰ってくると23時くらいになってて、風呂入ってふたたびメールチェックなどしてツイッターでくだまいてると1時とか2時になってて寝る。まあルーチンですわな。ともかくやってることといえば暇つぶしとゼミ合宿の予習とバイトとツイッターという具合で、出かけるといえば本の買い物か一人カラオケに相場が決まっているので、俺の宇宙はとてもシンプルにできている。それで本でも読めばいいのだけどその他の余計なことばかりしてますよね。 することがルーチンである他に、会う人がルーチンであるという点もある。いやそれは授業あるときも同じなのだけど。そもそもループですらなくて A のあとに A が続くシークエンスがまずいのかな。んー。曜日によってやること変えよっかなん。 |
心はいつでも露出狂 (20120819Sun) 朝にシャワー浴びるのには独特の気持ち悪さがある。この乾燥した体に、洗い流すべきものなどないのに。実際はあるけど。そしてその違和感は浴びるうちにすぐ解消されるけど。さて最近は。 バイトが入りまくっててやヴぁいです。一週間半を走り抜ける持久戦、というか授業だって生活だってそういうものですが。バイト先の人たちにはよくしてもらってるし働くのも苦ではないのですけど、朝起きれん私には、ただでさえ少ない使える時間がさらに縮められて身を削る思いです。合宿の予習も卒論もやらんと。そして刻々と近づく自動車学校のタイムリミット。でも「バイトだから」という強力な口実を使って予定を断ったり予定を入れなかったりという権限が行使できてしまうのがキツいです。いや、べつにバイトを口実にして予定をサボったりしてるわけじゃないのですけど、でも予定をキャンセルするにあたり「バイトだからしょうがないよね……」と自分を正当化してる部分がなくもないのかなあ。ともかくバイトだろーがなんだろーが、予定をキャンセルすることが責任取れてない感じで申し訳ないし、そしてそれが「バイトだから」の魔法の言葉によって、かりにも正当なものとしてまかり通ってしまうことが辛い。今回は俺が下手をして休みがとれなかった点があるので、なおさら。ここで申し訳ない申し訳ないとつぶやいたり反省してるのが最善の対応ではないのはわかっていますが。 ちょっと薬塗ってくるね。 ふたたび空腹から深遠な意味を読みとろうとしている。空腹と、眠気とかゆみ。かゆみは違うのか。いや、俺はかゆみに対してニュートラルな接し方ができないから、かゆみが常態化しすぎているから(アトピーなので)、かゆみについて考えることが難しい、かゆみについて驚くことが難しい。眠気は興味深いですよね。(興味深がっている) 睡眠については思想的哲学的に語るべきことがある、気がするのですが。そういうことは「語るべきこと」をきちんと特定してから言えよ。少し違う話だけど、俺は問題をはっきりと立てずに「わからない」とつぶやいている時節が多くて、はぁ、答えるべき問題が見えてないのに答えられないと途方に暮れることがいかにしてできようか。もしそれが、つまり問いが見えてないのにそれに答える可能性について云々することができるのだとしたら、そして普段の俺はそういうことを実際にしてるのだとしたら――その可能性はとっておくべきですが。でも穏当に考えれば、俺の「わからない」は答えがわからないのではなくて、自分がどういう問いを問うているのか、いないのか、わからない、という段階なのだろうね。 自分がなにをしたいのか、どうありたいのかわかってなくて、すべてを否定しつくした先に残る幽霊みたいのが僕なんだと思いますが、そんなわけがない。だとしたら問いかけが足りてないというだけの話なのだろうか。こつこつ質問を見つけて問いつづければ、自分の気持が浮き彫りにされてくるのだろうか。だけど「質問を見つける」のがまた難しいんだ。人に聞きたいことなどない。ないのか? まあ、ないです。他人に興味がないということなのだろうか。たとえば、「聞く」という仕方を通してでなければ知りたいことがあったりするのではないか。そうでなければ俺がツイッターとか見てることと矛盾するし(だって、ツイッターを見る動機って人の考えてることを知りたい以上のものはないのではないか?そうでもないか?)、人の話を聞くのはべつに嫌いではない。「嫌いではない」という受け身さ加減がすべての災厄のもとか。うー。単に慣れてないって話なのかな。わりかし一人で生きてきたって面はあるから。それは一人でサバイブしてきたという意味ではなく、身の回りにあるもので間に合わせてきたって話なんだけど。 なんか指先が勝手に段落を閉じてしまった。まとめると、語りたいことがないのではなく、語りたいことを見つけられていないだけだ。聞きたいことがないのではなく、うまく聞くすべを身につけられていないだけだ。とは思うのですが。(すげー遠い話だな……) でもね、他人に興味があるってどういう状態なのかいまいち分からないのよ。それって普遍的な法則を確立するためにデータを集めるのと本質的に違うのかとか。つまり、《人間はこのように行動する》という有用な情報を得るために帰納法のためのデータ集めとして人から話を聞き出す、という態度ではない、のだろうと思うのだけど。でもそうした有用性を離れて他人に関心をもつ、というのがどういうことなのかうまく理解できない。詩にあこがれるのはそういう角度からもあるのかしらねー。詩はどこまでも個別性を目指すいとなみと理解してますから。そういや、身の回りの人が詩を書いていたら、それは読みたいかも。 |
泥まみれのネオン街 (20120817Fri) 「○○感」という言い回しが増えている気がする。「つらい」という記述を「つらみ」に実体化する。発言主の感覚に信頼をおき、あるいはそれだけを確かなものとする見方が広がっている、ように見える。この「気がする」とか「ように見える」とか、ここではまだ使っていないけど「と思う」の多様もまた、この傾向を傍証する。これらは自分の述べていることが“主観的な意見”に過ぎないことを強調する。しかし同時に、主観的な意見こそが、それだけがわれらにとって確かなものでもあるのだ。わたしに感じられ経験されうる世界は、ただひとつわたしの世界だけだ。(やっぱりそれは窮屈だね。) だけど、いささかトートロジーじみてはいないか。わたしがあなたの世界を経験する、というとき、その理解のされ方は比喩的なものにすぎない。言いかえれば、その言明は文字どおりには理解できないということだ。わたしがわたしならぬ誰かの世界を経験するということは、文法的に許されていない。はぁ。だけどそう語れてしまうんだな。トートロジーではあるけど、だから語る価値のない命題のはずだけど(だけど、非の打ちどころなく語る価値のない命題などほんとにあるのだろうか……)。 私の世界は私の所有する世界ではない。私は私の世界を捨てることができない。私と私の世界とは、はがせないようにべったりとくっついている。むりやりはがすと両方とも死んじゃうのだ。これは私と私の身体との関係に似ているかもしれないね。はたして身体ぬきに私というものを考えられるのか? 「魂」というやつですね。よくわからない。身体から遊離して世界を眺めてる僕は、しかしまた透明の「身体」に帰属して存在しているのではないだろうか。つまり、幽霊には幽霊の身体が、魂には魂の身体がある。視覚的イメージにつられすぎなのでしょうか。しかし、身体から切り離された「私」が、なんらかの形で世界を見ているとすれば、その「なんらかの形」とはどんな形なのか。視覚という機能だけがある世界? そのとき私は「私」を捨てることができるのかもしれない。 べつに、さしあたり捨てたい「私」などないのだけど。具体的な意味でも、抽象的な意味でも。しかし「私に感じられ経験されうる世界は、ただひとつ私の世界だけだ」と言ったときのこの窮屈さは何だ。所与の世界が窮屈などということがありうるのか。排中律が気に入らないとか、そういえば自同律が不快だといった作家がいたそうですが。世界が四次元で記述できるとして、それが許せない!というときの不可解さ。重力加速度がなんでぴったり10m/s^2じゃないんだ!と美学的見地から不満をもつ人があっても、あ、でもそういうことなのか。にんげんは、変えようもないことに対しても不満を抱くんだな。不満は、変えられることを変えようとする原動力なのかと思っていたけど。この不合理な不満は、世界のありようを十分に認識しないことからくるのか、それともいくら認識したって人間の欲望は止まらないということなのか。べつに人間を卑小なものと見たいわけでも、そもそもなんらかのセンチメンタルな人間像を提唱したいわけでもないのですが。 なんとなくいい感じの字数になったのでここで終わりにします。 |
ボーイミーツとろろ昆布 (20120813Mon) 酒飲んでも酒飲んだ上ですべきことなどなく、なしくずしにシャツを着て B'z のベストを流し、ああっこの LOVE PHANTOM の BPM が早い気がする、エチルアルコールが精神にもたらす作用ですね。なんかバイト終えると腹減るんですよね、これまではそんなことなかったのに。寝過ぎて体力落ちたかな、授業あるときは七時前に起きて〇時過ぎに寝てましたから、活動時間が長い、それにバイト中は足が疲れたナァと感ずるようになりました。買ってきたおはぎを開けましょう。おはぎで酒を飲むなんて洒落てませんか! そしてなおも酒を追加する。とくにいみはない。とくにいみはない。ヴォトカをトニックウォーターで割ってみる。 特に意味はないんですよ。最高に楽しいではないけど飲んでるとまずまず気持ちいいので飲んでる、みたいな。みたいな、というかストレートにそれなんだろうな。俺の人生すべてそれで回ってるよ。「その先」を目指さない。日記を書くのもまあまあそれですし、余談ですが「日記を掻く」という誤変換はなかなかいいですよね、ネ?! こうしてぼくは静かにくだを巻く。ああ自己充足的。もう最近さびしいのかさびしくないのかよくわからんすね。バイト先で多少のコミュニケーションをとってるしツイッターなりフェイスブックを見れば幾人かの知り合いの様子を窺うことができるし、まあなんかわからん。四年間でいちばん精神的には安定してる夏休みかもしれん。世界をひっくり返さんとする熱情とかないのでしょうね、どっちかというと端っこをごりごり削ってる方が性に合うのかもしれない。ひとは性に合うことをすべきなのかどうなのかは知りませんがね。 ぼくらは、てゆうかぼくはことばで世界を捉えようとする、で失敗し続ける。たいした努力もしてないけど。近頃思うのだ、十全に問いを立てられないうちはそれに満足に答えられるはずもない。だいたい自分が問おうとしているのがどういう種類の問いなのかわかってなけりゃ、ねえ。自分がなにに困惑してるのかもわかってないんじゃ、そもそもあなたは困惑してるんですか? 困惑したいから困惑してるふりをしてるんじゃないですか? そんな問いが浮き上がってきても嫌な顔はできない。そういえば今日は吉野家に行ってネギなんとかを食べましたが吉野家はおいしいですね。吉野家はおいしい。吉野家すきです。はー、お酒おいしい。この、お酒に対して述定する「おいしい」は食べ物に対してのおいしいとニュアンスを異にすると思うのですがそれについて考究するつもりは今はない。だが時代は美学なのですよ。倫理学の次は美学だよね。っって僕は数人に触れて回ってるのですがあんましそれをうまく説明できない。善悪について満足のいく社会が……いや善悪について多くの人が目をつぶっていられる社会が実現したなら、次に気にされるのは美醜なのだよ。まあでも善悪に関心がないのは井の中に蛙がいるだけなのでしょーけどね。新聞も読まないし。究極的には善悪より美醜が優先する、むしろ美醜判断が善悪判断を包括する、というよおな気がするのですがうーん、世間知らずの産物という気もしますね。酔ってて音楽が遠いわ。洗濯物干してくる。 |
何の変哲もない日記。 (20120811Sat) こ!い! いやだわ予想外にスイートすぎた! ブックオフから買ってきたピチカートファイヴの『singles』をかけているのです。一曲目の sweet soul revue のこ!い!のとこがスイートすぎる。買ってよかったなあ。まったく。 11時頃起床。あー今日もこんな時間かあ。例によって目覚ましを止めた記憶もない。かといっていくぶん意識的になるよう、目覚ましを高いところにおいて一度立ち上がってから止めるようにしてみても寝起きのだるさでふたたび東京は夜の詩知事! 東京は夜の七時。寝起きのだるさでふたたびふとんに吸い寄せられて崩れ落ちてしまうのです。トーキョーはヨルのシチージ。でも 1 時に寝ても 5 時に寝てもだいたい 11 時過ぎに目が覚めるのでいっそ昼夜逆転しちゃった方が時間を使えるのかなあと思わんでもないですがひととおりのことしたらもう寝ようかな……という気になるし抜いたら眠くなるのでなんだろね、おれは体力がない! はやくあなたにあいたい! はやくあなたにあいたい! ピチカートってあんまり聞き継がれてない気がするのですが。杞憂でしょうか。 昼までギター弾いてお茶濁したり。そのあと弟がゆでたパスタを食べたりなおもギターを弾いたりして無表情に暮らしていたが、一念発起して借金しようとバスで駅前まで向かう。歩いていける距離だしじっさい最寄駅なので学校ある時は毎日通ってるんだけどその前提のもとで敢えてバスを使うわけで、つまりおれにはバスを使う積極的な理由があったというに十分な証拠があるのだが、つまりバスが好きなんだ。欲望が行為の理由として適格であるのはいろいろ示唆的ですよね。だいたいのときはね。欲望がでも不適格になる場合があって、それが倫理性がはたらくときなんだ。「なんであいつを殴ったんだ」「いやちょっと殴ってみたくなったもんで」では不満なわけです。不満であるかないしは「殴ってみたくなった」という欲求に適切な背景を読み込もうとする。ていうか人が「なぜ」と問うのはどういうときかってことよね。以下省略。バスは電車ほど意識高くなくて、徒歩ほど求道的でない。てきとーです。 駅前の ATM で借金しようと思ったがなんかうまくいかず、その後もなんどか下手くそに試みるがことごとく失敗する。そのあいだにマックスコーヒーを買ったり、もてあまして 100 円ショップでダサいペットボトルホルダーを買ったり、ユニクロでバイトで着る用の T シャツを買ったり、なんかいろいろ買ってるな。はやく給料はいれ。それからトイレ入ったりしてたらいい時間になって、バイトも近いし帰ることにした。 バイト先に来て、すこし準備してたら中止とのお達しが。けっきょく微量の仕事をしてごはんを食べただけで終わった。時間が空いたってんで近所のブックオフに自転車で滑りゆく。いやほんとは卒論とかやるべきなんだけどねえ。ぜんぜん進んでないし。やっぱり……朝起きるしかないか……。自動車免許も時間余ってるわけじゃないのだし。ブックオフにはムーンライダーズはあまり置いてないのであった。いやむしろ置いてる方なのかもしれないが。私の欲しいアルバムはなし。結局二軒回って奥田民生『E』、B'z『B'z The Best Pleasure』、pizzicato five『singles』を手にする。 いやだから CD のバックジャケット見ると「悲しい歌」が "triste" と表記されてて、ああフランス語やらなきゃと思うんだよね。これをどう発音するかさえわからないのは悔しい。ベイビ〜。しかし Google 検索にかけてみると英単語としてあるらしくて、大した根拠もなくフランス語だと断じた己の性急さを恥じるのであった。だが手許の LONGMAN ADVANCED Dictionary of Contemporary English には載っておらず、ああ研究社新英和大辞典を買わなきゃと思うのであった。電子辞書に入ってるジーニアスにも載ってねえ。やっぱピチカート聞いといた方がいいよ。「メッセージ・ソング」とか。そういえば文字コード?の関係でこのほーむぺーじにフランス語を書くのが著しくめんどうなのはまずくないですか。ロシア語とかギリシア語はそのままで表示できるのにね。 Я люблю тебя. Я хочу спать. MS Pゴシックだとかっこわるいからフォントいじる必要あるけどね。 |
前立腺サンバ 第二ラウンド 自分が person を示す名詞や代名詞を使うことを嫌っていると気づいた。二人称の君・あなたが一番敬遠感強くて、次にじつは一人称。自分が「俺」とか「僕」とか「私」とか口にするたびに、どこかで「俺」や「僕」や「私」と自分自身との距離を感じる。代名詞は、飽くまでも普通名詞ですからぁ。でもそれは別の話。基本的には人の名前を呼ぶのも慣れていない。○○くんやら○○さんという固有名詞は、固有名詞ゆえに排除したいものなのだろうか。自分は、普通名詞のみで構築されたまっさらな世界に住みたいのだろうか。そもそも、それがどんな世界であれ、「自分」が世界に住みたいのか? 差異に基づくのでない、文法的に定められた、自己充足した個別性、それへの嫌悪。袋に入れられた無数の玉のなかのひとつとしての自分、そういう「自分」でありたい。人称のない世界、みんなが ID のない名無しさんの世界。それを求めるのは形而上学的傾向によるものだろうか。人間のいとなみがしみわたっていない、どこまでもひろがる空間と時間。ああ、確かに、世界全体に向けられる途方もない潔癖さがあったし、今もあるのだろう。だけどそこからは逃げられないじゃないか。問いと理由とを消去したまっさらな箱庭を研究することは最終的にはできない、そうも考えている。四角い入れ物は、理性の形式にすぎない。むしろ、人格と意志とにまぶされた世界こそが私たちに本源的に与えられている初期値ではないのか? でもまあ哲学的エッセイに流れ込む前に、たんに人の名前を呼ぶのに慣れていないという事実を受け止めよう。ぼくは「彼」や「君」と関係し、それとの距離が設定された「私」として世界に現れることが厭なんじゃない、怖いんだ。怖いからめんどくさいんだ。賭けるのが。その先が見えてないからね。世界は誰かの視点で語られるのではなく、ただ叙述される。無数に代替可能な表現で。誰が解いても同じ答えが出る方程式みたいな世界をぼくは望むのか。ちがう、重要なのは僕が誰であるかじゃない、僕がそもそも何者かでありうることが問題なのだ。自分しか見えない景色があることは別にかまわない、だけどその特定の「自分」でこの自分がありうることは不本意だ。この景色は、他の誰かに見えててもよかったはずの景色なのだ、そうあってほしい。 とかなんとか。第一に、おれは永井均を読んだ方がいいですね。ちなみに、この「おれ」は、「おれは○○したほうがいい」という定型句の一部なので人称感薄いのです。でも永井均は「私がなぜこの私なのか」と不思議がりはしても、「私がなんらかの〈この私〉である」ことに不満を抱いたりはしてなさそうですね。何なんだこの不満。哲学的命題、つまり変えようもない事実を受け入れようとしないのって度し難く不合理な態度だよね。ありえないことに夢を見ているというか。治療が必要なのか。 |
前立腺サンバ (20120809Thu) 自分がどうしたいのか、どうありたいのか、わからないので、自分のTwilogから「たい」で抽出して読んでいた。読んでみたら意外と自分の欲求について吐いてる発言は多くて、却ってわかりすぎてまずいくらいかもしれん……。自分が自分の欲求を把握してないんじゃなくて、把握したそばから忘れていくってことなのか。毎度ながら迂闊すぎる。さいきん忘れ物とか多いんですよ。車なんか運転したらなんかしでかしそうな匂いに満ちているので教習所やめたいです。さて、わたしの欲求にはふたつの柱があって、ひとつは(以下省略)。 婉曲なことばでしか語りたくない。それは、婉曲なことばで語りたい、という積極的欲望を含まない。つまりそれは、直截なことばで語りたくない、ということの言い換えだ。あー、だが、その欲求は、わたしの根本的二大欲求(今定義した)のひとつに激しく抵触するのだった。つまりワンノブザ二大欲求に従うためには、婉曲さを好む性向は障害になる。そうそう、欲求は実現するものでなくて従うものなのかもしれないね。運動のみが意味をもつ。欠如-充足モデルにも運動は存在するけど、そこでは諸欲望の明滅のすがたを運動と呼んでいる、いやむしろ生じては消える欲望たちを渡り歩く主体において運動が観察される。だが欲望フォローモデル(今定義しました)においては、ひとつの欲望に従いゆくことそれ自身が運動となる。つまり欲望は、持続する、行動を律するルールとして理解することができるんだわ。まあどっちにしろ欲望でなくて欲望する主体が運動するには違いないんだけど。でもフォローモデルでいくと、欲望の充足の契機とかまる無視になってるわな。むしろ欠如-充足モデルがマクロ視点、フォローモデルがマクロ視点で二重写しになってると考えるべきではないか。自分にしか通じない話してごめんなさい。 |
20120808Wed 奥歯と毛皮 ここ数日はツイッターに書き込むのを控えている。自分は発言せずに他の人の発言を眺めてることに適合感があるのは、業なのだろう。 いろいろ考えたあげく、またも主観性の問題にいきつく。自分は、社会に通用した価値を内面化しているのだろうか。その内面化された価値と、自分がいわば肌で感じている価値とがぶつかっているから――ひらたく言えば、主観的価値と内面化された客観的価値とが並立していて、たがいに矛盾するから、「わからない」のだろうか。そしてだとしたら主観的価値と客観的価値とのどちらを優先すべきなのか。そもそもなぜ社会的価値を内面化するのか、といえば、それが社会の中で生きていくのに便利だからだ。(このさい社会的価値がいかにして発生したかは別途論じることができるし主観性に関する類例でもあるのだが、まあとりあえず社会的価値というのがすでに与えられているとして)とすれば、つまり、社会的価値の受け入れは主観的価値の実現に従属するということだ。いや待て、ここで「主観的価値」の意味が変化していることを見逃してはならない。この「主観的価値」は、「(少なくとも)私個人にとってよい」ということを意味するにすぎない。だがもとの主観的価値は具体的な内容を伴うものだ。歯を磨くのが気持ちいいとかさ。でもそのへんはがちゃがちゃ同類項を足したり引いたりすればクリアできるっぽい。結局、客観的価値の存在は、主観的価値を社会の中でうまく実現するための緩衝材なのではなかろうか。 (細かいこと言うと、主観的価値と感じられるものにも、「実際に自分が価値を感じるもの」と「自分が価値を感じたいもの」との二種類、つまり地のレイヤーと欲望のレイヤーがあることをも考慮しておくべきだろう。今日はめんどくさいから考えないけど。) これはものすごく粗っぽいけども、でもある程度納得いく説明となってると思う。しかしそれが不満なのだ。こんな説明が通っちゃうことがね。間違ってるようには見えないけど。あんまりきれいに説明できすぎちゃってるというかさ。いやむしろきれいじゃないというかさ。まあ還元主義というか遡及適用可能な原理っていつもあやしいよね、という論理学的な動機もあり。あとは、うーん世界が表象されたものにすぎないってのはどっかもうすわりのわるさがあるんだよ。世界はレンズを通してしか見られないというが、そのレンズの存在をどうやって知ったのか。客観が主観からの構築物だというけど、でも主観ってそんなに確かなものなんでしょうか? みたいなことを考えたい。おれは自分のことが自分でわからない。 ずいぶんお茶を濁してる感じがする。いや、だから、書きたいことがない気がするのが問題なんだよ。 |
20120806Mon 視線の戦争 昨夜はバイト先の人たちと焼き肉を食べに行く、いな、食わされる。たらふく食わされて限界突破。戻しはしなかったが、腹が物理的に膨れてるのがあきらかに認められた。帰り道に歩いた河原で、空を見たら空がでかくて、しばらく見上げ続ける。家に着いたらすでに 1 時近く、風呂浴びてツイッターで 3 時くらいまでだらだらして、それからパソコンと電気を落としてふとんの上でぐだぐだ、明るくなるまでごろごろした。明るくなってから眠って、 11 時過ぎ起床。 昼は炒めたピーマンとチューブのにんにくと卵を混ぜて加熱し直したまことに散漫なカレーを食べる。こんなんでも食えちゃうから困りますね。それから雨が降ってたので駅まで歩く気をなくして、バスで川崎に行って、カラオケ 2 時間した。なんか長期休暇になると筋トレの如くカラオケに行くのがよくわかんない。それしかすることないんかい。それからブックオフで CD を探したがなくて、タワーレコードで探してもなくて(そりゃ品切廃盤してるからね)、もうすぐ閉館するらしい県立川崎図書館を見に行った。そんな気配なかったぞ……と思っていたら、俺の見に行ったのは《市立》川崎図書館のほうだった。 あの時した会話の答えが不意にみつかる。最適な反応ってこと。その場で気付けなかった、相変わらず鈍い自分にあきれる。想像力。明示的に語られてることだけを読みとろうとする癖があって、そんなんじゃ半分も読めてないよなあ。 夜。川崎のお店で買ったトムヤムクン麺をいただく。辛すぎて食べるのが辛い。舌が過敏になり、しびれ、ほおっておいてもよだれがあふれ出る。腹の中が暗黒にうずまく。タイに行きたい、旅行するならタイだ、そう思ってきたけど、もう怖くて行けないわ。しかしタイ文字から受けるまがまがしさが増し、より魅力的に見えるようになったのは……まあ、ウソですが。 |
20120805Sun 逃げ袋 自分の腹筋の存在を感じてる場合じゃないッッ。この夜はこんな夜。駐車場のはしっこで寝そべって月を見ました空を見ました。夜には夜の青空があって、それはほとんど黒いのだけれど青空の夜の顔だ。夏の日中は色彩が濃い。青いし緑。太陽が照って地面が照り返して視界全体がぼんやりと輝いている。視線の先にある月は聞くところによると惑星らしくて、つまり惑星とは地面の集まりだ。地面の集まりがずうっとずうっと向こうに浮かんでるとか。浮かんでるのか。宇宙空間において「浮かんでる」という表現は適切なのか。方向のない世界をわたしは想像することができない。方向とは人類がこのローカルな世界を理解し把握し利用するためにあつらえた概念ではないのか。そんな一文を打ち込んでる間にさえ 2, 3 の想念が去来して、 TeraPad の画面にふと戻った意識は タバコを吸いながら日記を書きたいと思う。それは何だ。まだニコチン依存症ではないらしい。それにあれ以来は口にしていない。トモフスキーの「イキツギ」が聞こえる。息抜きじゃなくてイキツギなんだ。キーボードを打つ小指の中側が割れてて伸ばすたびに痛い。夜中、節約モードの理性で掻いたりこすったりした手の甲に細かい傷がついて、手を洗うたびにじくじくと刺激が走る。そのたびに呼吸を意識する。荒い。そして痛いものは痛い。禅とはつまり平気な顔でいるための練習なのかなあ。平気な顔をするのをやめて、未開の言葉を発しながらシャワーを浴びたら、むしろ解放的ではあった。そしてそれは自然な反応でもあるのだ。結局どこまでも自然主義に、どこまでも直接性において生きるべき、生きるなんじゃないかと思う。仏教は根本的に顛倒したしかたでもって生の問題を解決しようとしているという気もする、というか生の問題を解決しようとするのが根本的に顛倒した態度なんだって言ってるわけだから、だとしたらそもそも人間の文化って大半だめじゃん? ここで文学の出番でしょうか。解決を求めずただ記述する。まあでも言語は現実を描写しうるものではないから、いや、実例を見ないでイメージだけで語るのはやめにしましょうね。 |
20120804Sat 媚び倒産 日記書く速度が現実に追いついてません。 キスしたいとふとんの中でひさびさに思って、ところでキスとは何かと考えるときに生物学的な機能とか(細菌の交換)、ましてや存在論的ないし幾何学的な様相(つまり物理的接合)でもってそれを意味づけようとするのはかなわんなーと思ってたところ。でもこちらになにかいい案があるわけでもない。というか意味づけようという動機もない。 なーい!!! というか書くことがないです。若干件あるけど書くのはずかしいわ。なんでも書いてるふうでいて話題選ぶときは選んでますよ。選んでるっつうか書きづらいから書いてないだけだけど。つまりおれは政治的発言はしないってこったっすよ!!怖いから。うーん、ネットでもなんでも利用することにはしたん、まあいいや。 |
20120803Fri 先日の言語分析について補足・訂正。「衆愚政治に導く気がするから民主主義はよくない」から「民主主義は衆愚政治を導く」 (A) と「民主主義はよくない」 (B) という言明を析出して、そっから当該の言明を「 A だから B 、ところで A かどうかには絶対の自信はない」とかなんとか書き換えて論理的に通るようにする、ってのが当初の試みで、これを全面的に撤回するつもりはない。ただ、ここで A は理由、 B は帰結とよばれる一対の項であることに注意しなければならない。この分析を疑わしくする例として出した「 10m の高さから重さ 1kg の鉄球を落とした気がするから地表へは x 秒後に着く」は、理由と帰結ではなく、原因と結果の関係となっている。ということは? 表層的にはひとしく「だから」で結ばれるから同じように見えるけど、このふたつの対は別種のものとして扱うべき、ということだ。じつに先に出した例の A 「民主主義は衆愚政治を導く」では、そこから原因〈民主主義〉と結果〈衆愚政治〉を取り出すことができる。そして A を「民主主義を採用する気がするから衆愚政治になる」という言明を作るとこれは確かに奇妙である。このタイプの文型はただ理由-帰結タイプの対のみが当てはまるのであり、原因-結果タイプには適用できない。さて、ということは、理由に関しては「気がする」のでもその効力を失わない、つまりざっくりと言って理由とは心的なものなのだ、と考えられる。対して原因は実在世界に属する概念だから、ある事実の原因についてあなたの心がどんな気がしていようが関係ない。いわゆる、理由は主観的でいいが、原因は客観的でなければならない。しかしこの主観と客観に加えて may と must の対立もなんなんだろう。「理由は主観的でなければならないが、原因は客観的でなければならない」じゃだめなんだろうか。いいのか? |
20120802Thu ほんとうの更新世はこれからだ 書くことがない!です。でも下の詩もどき、 15 分くらいで書いた詩もどきをいつまでも一番上に載せとくのは不吉なのでなにか書くのです。と思ったらひと月経過したのでログ行きだよねー。近頃は自分と周囲の人との距離感が修正されまくる日々です。自分がマイノリティっていうか排除される側というか保護される側というか社会的弱者に近い何かであることをさとったし。自分の文章表現が自家中毒でガラパゴスでたびたび通じてないし。関係ないけど声が小さいのはほんとうにいかんともしがたい、じゃなかったどうにかせねばならぬですね。自信ないことでも大声で言わなければ間違うことさえできない。正しいことでも大声で言わなければ認めたくても認められない。そぉいぅわけですわ。あと相変わらず手がひび割れまくってるし夜中うつろで掻いたりするので細かい傷になって寝起きとか辛いです。自転車で走る生温かい風が俺の表皮とミスマッチして世界の位相が反転してる。リュックを背負ってりゃ自転車だろうがかまわず暑いです。だって背中に 6 枚くらい着込んでる形になるのだものね。でもかばんの中身が重くなってくると肩掛けは使いたくないですよね。だいいち体重が偏るし。身体がゆがむ気がするし。そういえば「 A という気がするから B 」の形は、論理的には「 A だから B 、ところで A という気がする」と読むべきなのですが、読むべきなのですね。でもときには人によっては「 A という気がする」ことが直で B の理由ないし原因になったりするのだろうか。事実として「身体がゆがむ」ことよりも、「身体がゆがむ気がする」という心の状態をなによりも避けるべきという考え方。これを推し進めて「衆愚政治に導く気がするから民主主義はよくない」なんて言明においても同様の分析を施すと、とても唯心論的な世界が見えてきますね。衆愚政治の実現そのものよりも、俺が衆愚政治の実現を恐れるその気持ちのほうが大事なんだってゆう。でも 10m の高さから重さ 1kg の鉄球を落とした気がするから地表へは何秒後に着くなんていうのは馬鹿げた話で、やっぱりこの唯心論的分析は持ちこたえられないだろうと思いますヨ。いや、そんな発言そもそもしないだろ。じゃあそうした発言をふつうしないということはたとえば科学的言明にはなにか「気がする」ことが許されない特殊な事情があったりするのかどうか、最近もう暑いですよね。今年からクーラー苦手になった!と思ってたのだけども外から帰ってくるとやっぱりクーラーつけたくなる。 |
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