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4×4
園芸に呑まれてたたずむ私たちの背には
あおく さわやかな液体が垂れ
それが地面に映り込んで
あるはずのない明日を照らしている

アムステルダムから離れて三千キロ
ぼくらはささやかな火のもとにあつまり
誰とも通じない言葉をくちぐちに
夜とデパートと文明について考える

遠い白昼 廊下で見たお化けは
僕の闇の中でぬけがらのように居残り
くりかえし 現実と妄想との区別を
運命に横切られた画用紙にする

通り一遍に酔わされて
置けなくなった駒の置き場は
二重否定の先にある目覚めの天井だ
やかんの音を聞きながらそぞろ歩く


20120730Mon ドラスティック前髪、エビデンス大根

言葉にしづらいことを切り崩しに言葉にしていく努力がないなあ。何事もこじ開けなければ開かない。というより、ふつうの開ける動作をしてるのに自分ではこじ開けるくらい力を入れてると思ってるのだろうか。ここでも結局は「失敗するのを厭うている」卑小さ、なんだろう。

自分はまともな人間になれると思っていたし、なんなら誰よりも常識の効いた男になるつもりでいた。でもある頃からその意識を一旦休めて、むしろ逸脱にいつも向かうようになった。「常識を知らなければ非常識なことはできない」の逆で、非常識の領域を尽くすことで常識が補集合として照らされる、そんなような魂胆、でもあった。いちいち間違わなければ学べない。まあ近頃は手段としてというよりはそんな逸脱的なふるまいが気に入ってもいるし、しっくりきてたりもするのだけど。

自分がある意味で異常であることをつい最近自覚した。近年ではどうも異常というと犯罪に手を染めそうとか逸脱した欲望をもっている(この逸脱というのも特定の逸脱のしかたを指すにすぎないのだが)とかいう響きがありますが、ようは挙動不審だったり身振りがおかしかったりという意味です。いやーそのへんなんとなく自覚はしていたけど、その異常さを明示的に指摘してくれる環境がなかったためにあんまり深刻に考えてなかったのかもしれないね。いや深刻に考えるというても悩み苦しむとか病院に行くとかいうわけではなくて、ただただものごとが明確になって自分の積み重ねてきた業の厚みを確認したというつもりなのですが。


20120729Sun エンジ色の水面で戯れる虫どもを

そんなでもないか。散歩がてら、ドラッグストアに這入りながら考えた。肉体以前に、好きになったきっかけは書かれたものに対してだし、もっといえば書かれたものと書かれてないものとの露骨にいえばギャップに対してだった しかも書かれたものを本来的なものとして優位に立たせる形でのギャップの理解であったのだ、そしてその次に彼女の生きざまについていくつかの意味でポジティヴにもネガティヴにも悩んだのであり、その期間がたぶん一番長かったのであり、肉体うんぬんは俺のいわゆる形骸化した好意やら条件反射やらの時期に入ってからの基点だったのではないだろうか、いや、しかし、たとえばふとんの中で想像することといえばたぶんそうしたことばかりで、それは初期のころからほとんど一貫してそうで、だからやはりこのあの思いは不純なものとか誤魔化されたものであるという疑いが拭えない。拭えないしむりやりぬぐおうという気もない。それに基点は基点であって起点でもあるし基体なしにはもろもろのことは生じなかったであろうしそしてこの不連続ななにごとかの束を連結的につなぎとめることもなかったのではないか。ふむ。

胸が苦しいのはやっぱりコーヒーのせいなのだ。

とかなんとか考えてくるとほんとに卑小だな……という感じが固定されてくる。でもこれって還元主義の誤謬だと思いたい。たとえ性欲が恋愛の基点となっていようとも、それによっていわば性欲が恋愛のすみずみまでしみわたってそのすべてが嘘になるとは思わないし、そもそも性欲がくだらないものだと誰が決めたのか。どうせ死ぬから人生はくだらないものだ、とは思わないし、でもそれなら死という限界があるからこそ人生が輝くとも考えるべきではないな。考えてみれば、卑小でない、なにか高尚な動機というものがこの世にはありうるものだろうか。それこそ勘違いではないのか。言っただろ、意味づけには価値らしい価値しかないし、 elaboration のみが生きる道だ。


20120727Fri 入浴騒動

電車の中、前に立ってる女性のうなじを見ながら、好きだった人についていま一度考えてみる。結局は、この、肉体だったんだろうか。いろいろこねくり回してきたあげく集約される先がそれだとしたら、確かに拍子抜けする結論、知りたくなかった真実、である。人間学が生物学に還元される恐怖。恐れるべきことなのかきちんと吟味せずに恐れている。きれいに整理しようとすればするほど、こういう夢と希望のない結論に導かれる。ぜんぶ心身二元論が悪いんだよ!!!(やつあたり) でもこの清算の仕方もどうかと思います。清算する段階になってこれだよ。俺の過去はくだらないものだよとでも言いたげじゃないか。後知恵で何言っても星の数ほどある解釈のひとつにすぎないよ。僕が当事者であるうちにはっきり言ってやるべきだった、自分に。

ぼくは声が小さい。バイト先でよく言われるんすよ。けっこう張ってるつもりなのだが響いてるのは自分の頭の中でだけらしい。なぜ声が小さいかというと、自信がないからだ。自分に自信がないとかいう抽象的なものじゃなくて、失敗を恐れているの。自分のやってることが正しいかどうか、そしてそれにのみ注意を向けているの。それでなんで声が小さくなるのでしょうね。自分のやってることの正しさに確信が持てないのですよー。正しいというスケールでもって問うことがすでにfallacyfallacyしてますけどー。俺の一挙一動に「これでいいの?」という誰にともない問いかけが含まれてると見るがよいのです。ほんとは、日常を生きる上ではたらく確信とは、疑問に疑問を重ねた先にかろうじて残るものではなくて、ただ端的にのっそりと存在してるものなのですけどね。そこらへん勘違いしてますよね。

ぼくは意味づけに価値を求めないんだー elaborationの中にアートは宿るんだ。楽しみそのものの中には快は含まれないんだ。冷水がおいしい。


20120726Thu 起きあがりこぼし 西へ

すべては防衛機能から。

くそみたいな一日だった。ロシア語の試験を解いてるときだけが能動的で、ギターの弦を買ったことだけが成果だ。あとはきわめて低品質の勉強をするか何かを待ってるかだけだったので、もう、ぜんぶ、だめだ〜〜とまで言う気はないけれど、ちらっと振り返ったとき「くそみたいな一日だった」という感想が浮かぶ。かすみたいな一日。だがこうして俺の一日に評価を下そうとするのは誰なのか。俺自身でない誰かではないか? 評価を下すのは俺だとしても、その評価の基準は誰かの基準を内面化したもので、その評価はその誰かのために行なうのではないのか? あの人からみて俺の今日はだめだったと嘆息するとき、俺はその「あの人」に評価を委嘱するというようなことを行なっている。ではなぜ委嘱するのか?

それにしても、なんにせよ評価を下すことは、内面化された誰かの基準を借りて下すほかないという気がする。言いかえれば自分で自分の基準をもって評価を下すことはありえないということだ。いや、厳格にこの主張を受け止めると明らかに矛盾するので、オリジナルな根源的な基準というものはぽつりぽつりと存在するはずなのだけど、それはやはり簡単に手にできるものではない。言いなおせば、われわれは多分に他の人の価値観を内面化してジャッジ、ジャッジメントしてるよね!!てな話か。それにしても最近は気が抜けててあかんですな。気合入った生活がよい生活なのだと思うわけではないし、そもそもよい生活ってなんなのかあるのかないのかまやかしの観念ではないのか、やっぱプレーンな世界に人間が意味付けするのだ的な陳腐なビジョンに落ち着いたりもするのですが、じゃあ俺の中の誰かがどんな評価を下そうが平然としていていいんだろうか? バイト先で怒られようが試験に失敗しようが知り合いに愛想を尽かされようが、俺の世界はびくともしないと開き直れるのだろうか? そこでびくっとしなければうそなんじゃないか? それが自然というものなのではないか。自然であるべきなのか? 自然はそもそも主題化されてはいけなかったのだが。だが主題化されてしまった手前、自然というものに対する付き合い方を決めなければならない。肯定か、否定か、無関心か。

評価を下すとき、その基準が多くは自分以外の人に源泉をもつとしたら、じつは世界がどうあるかへの関心よりも、自分とあの人この人との関係が先行するってことだな。じつは評価は無関心的に行われる(たとえば「このトマトは熟れている」が端的な事実を描写するように)のではなくて、それじしん他者と関係するための道具となっているのかもしれない。よね。


20120725Wed 劣等カフス

06:20目覚まし、06:50起床。あやうい。試験なのにいつもどおりぎりぎりに起きる。そりゃまあ卒業がかかってたりするわけじゃないから深刻さがないのはわかるけど、もうちょい余裕をもって先を見通して行動できないんだろうか。目の前のことしか見えていない。楽して生きてるからこうなる。

08:52ころ教室につく。すでに試験の説明が始まってた。復習とかする暇もなく解答用紙ついで問題用紙が配られ、よういどん。司書課程の科目でさほどの意欲をもたなかったし実際勉強もほとんどしてないし、お弁当箱に詰めた程度の知識を吐き出してから論述問題の答案をまことに‘それっぽく’書き連ねる。これが中身の薄いぺらっぺらの答案だってことは先生はきちっと見抜いてくれるだろうから、むしろ気兼ねなく書ける。それって自己中じゃん……。だんだん体が冷えてお腹が痛くなってきたのもあり、ひととおり書けるとこだけ書いたらさっさと退散した。

10時過ぎ、図書館でレポートの印刷をする。

11時半ころから部室Bで時間をつぶす。着いてからレポートを提出してなかったことに気づく。なんでこうも詰めが甘いのだろ。そういや試験勉強もそうだわ、ざっくりと覚えたとこで満足しちゃう。刺激が多いところだけ食べて捨てちゃうって、これもまたセルフコントロールの問題か。部室ではロシア語の勉強するつもりだったんだけど、暑かったりとか暑かったり汗をひどくかいていたりしたので暑い!!と思いながらお昼食べたりギター弾いたりしてた。人が来ねえ。友人曰くテスト期間だからなのだそうだがお昼ごはん部室で食べるのとテスト勉強するのとは独立ではないか? 食事時間を使って勉強してるってことだろうか。あるいは部室にいるとだらだらするからとか。だとしたらえらい。大人だ。そのあと部室Aに軽く滞在してから退散。

明日改めて参ろうというのはうきうきするプランではなかったので、歩いてレポート出しに行くことにする(司書課程は別キャンパスです)。ただ歩くのだと反復になってしまうのでタバコくわえてみる。もちろん火はつけず。視界に白い棒がつねに映ってるだけでも、世界の見方はすこし違ってくる……ような気がする。気がした。

飽きたのでここまで。だからねーこういうのがねーセルフコントロールなんだよねー

そういえば、レポートもまた学問的水準にはほど遠い、愚にもつかぬエッセイ的なものだったのだけども(そこまで言うとかえって授業に失礼だ)、こうして一旦書きあげてみたりテスト受けたりして簡単に総括したあとで冷静になって振り返ってみてはじめて、‘ほんとはどうすればよかったか’ってのが浮き上がってくるものだよね。いや先に気付いておくべきなんだけどね。

くそー!!(バリバリ(サラダせんべいを食べながら(今日お昼が早かったのでお腹すいてるんですよ今はそれほどでもないけど……そういえば駅から家までは小沢健二『犬は吠えるがキャラバンは進む』を聞いていました。今日はカラオケに1時間行っていて、あの音量のせいでその日は音楽への感受性が鈍るんだけど、なんか耳に入れときたいという誤った観念に取り入られたので、なるべく刺激にならないやつをってことで。衒いのない音楽だよね。でそんな中とても空腹だった、ぼくは空腹から深遠な意味を取り出そうとしたけど、あまりに深遠だったので取り出せませんでした。空腹を他者と共有できないとしたら、そして事実できないのだが、それは私が他者と切り離された存在であることの証拠なのだろうか、とは考えませんでした。この「共有できない」というのは直観であって、やっぱ他者がなんらか根本的な面で通じ合えないというのは他者という語の文法に含まれているのかもしれない! とかいう調子でなんかしばらくだらだら書けそうな気がしますがやめます。明日もバイト休みだぞ! やっほいほい!(真顔) ギターの弦買うぞ!

そういえば某所で「時間割」という語がひねり出せなくて死にました。普段からおしゃべりをしなさすぎる。無口なやつはしゃべりだすとすごいのではなくたどたどしいだけです。普段おとなしいやつは酒を飲んでもおとなしいです。わかったか!!(誰に?


20120724STue 差し込み免除

子供と大人の通約不可能性。または比較不可能性。それは倫理学によって取り扱われるべき問題ではなくて、それは倫理学によって解決されうる問題ではなくて、そもそも問題は解決されないうちに消滅する。子供は子供を克服しないうちに、知らず、大人になる。それをひとは解決と取り違えて、へいきで大人の正しさを所与のものとする。新しく出てきた意見が正しいという印象をひとはもちがちで、だから大人は子供を乗り越えた(ように錯覚しているだけなのだが)大人が正しいと思うし、子供は自分の目下最新のスタイルである子どもの状態を是とする。じじつは大人が正しいわけじゃないし、かといって子供が正しいってわけでもない。どちらが正しいかはいまだ確立されてないし、そもそも両者は比較できないからどちらが正しいかという問いがじつは意味をなさない。

知らないうちに大人になっている、というこの事実が曲者なのだと思う。繰り返せば、子供は、子供の哲学の欠陥を見出し、これを克服する形で大人の哲学へと移行するわけではない。いや、たとえば倫理学的に見てどちらが優位だ、という話はできる(でも倫理学自体が大人のものだって思いませんか?)。しかし、そもそも大人になるということは、子供の哲学と大人の哲学を見比べて選択する、ということではない。子供は不可抗力的に、だいたい時間軸に沿って、大人に「なってしまう」ものだと思う。

いや、じつは、大人になるということは、むしろ、体系の選択を行なうことに他ならないのかもしれない。体系とは法であって、条件的命令の体系と理解してもよい。そして体系の選択は、あまり好きじゃない考えだけれど利益計算に基づいてなされる。バイトの雇い主が用意するルールと、ある一人の客が要求するルールがぶつかったとき、僕は雇い主側のルールに従う。一人の客が用意するルールはその人に対してしか使えないが、雇う側のルールは僕が雇われてる限り通用するし、そのルールに従うことは僕に対して益する。つまり長期的に見て、職場のルールに従う方が自分にとって利益が大きいから、それに従うことを選択するのだ、と言える。これと同じだ。大人の世界には大人のルールが存在し、子供の世界には子供のルールがなんとなく通用している。そして子供が大人の世界に参入する際、大人のルールを内面化することによって、そこに適応する。つまり、大人であることとは大人のルールを受け入れることそのものなんだな。(より正確には、ルールというより生き方の様式みたいな気分で言ってるんだけど)

つまりどういうことなのか。子供が子供でいるためには、大人であることのデメリットを述べたて、子供の優位を主張することだけでは十分ではない。議論一般に言えることだけど、ある説が根本的に矛盾していることが示されるまではその説の息の根を止めたことにはならない(議論においてそれを目指さねばならないと言うつもりはないが)。子供は子供であることが universal に優位だから子供でいるわけではないし、大人は大人であることがいつでもどこでもより正しい生き方だからそうするわけではない。大人になることはけっきょく体系の選択なんだと言ったけど、でも、よくよく思慮したあげく自分で選びとるのではなくて、大人のルールはいつのまにか身につけてるものなのだ。それに抗うことがいかにしてできるのか、抗う方法論が存在するのか、それに抗うことがつまりなにを意味するのか、意味があるのか、ないのか、まだよくわからない(し僕は半ば大人になっちゃってると自分では思っているのでこの先も真の意味ではわからない気がする)。でも、大人と子供のコミュニケーションがとれる世の中になればいいとは思う。大人になると、子供の考え方などすぐ忘れちゃうものだ。


20120722Sun 牛肉との連帯

はろー。楡です。バイトが想定外に忙しいです。夏休みはお勉強とかしよう! と思ってたけど存外です。午前中起きれないと僕の人生破滅しますね。わっほいほい。思うところあって先月の日記なんか見返してみたら後半は哲学的考察ばっか書いてやんの。まあ基本的に余裕があるとそういうことしだしますよね。いつまでたっても哲学は俺にとって趣味でしかないんだろうか? 大学院行こうとする人の口にするセリフじゃねーぞ。いや研究者になろうという気は今はないんだけどね。いやじゃあなんで大学院行くというのかって話なんですが、あーあーあー聞こえない……就活失敗したからって話ではないです。正直自分でも自分の考えてることがよくわかってない。いやいっぺん真面目に考えてみるべきだろ……もう手遅れだとしてもさ。次の出方は無理でも、次の次の出方は考えなきゃいけない。

すこし前にあるはずみでタバコをひと箱購入して、余したのでたまに吸ってみたりするんですけど、喫煙の習慣は今んとこつきそうにないですね。 10 本程度じゃ、ってのもあると思うけど、タバコ吸うために場所を選ばなきゃいけないってのがめんどくさい。しかもタバコ吸うために立ち止まらなきゃいけないってのが敷居高い。かといって歩きタバコしてる奴は俺の敵なので俺自身が歩きタバコをするという矛盾を演じるわけにもいかない。そしてそうしたもろもろの障害をくぐり抜けてまで常習したいものでもない。おいしいなと思えるようにはなりましたし、今吸ったら気持ちいいだろうなあとか思う時間はあるんやけどね。タバコの本質は習慣性にあるとおもうので(つまり刺激が強かったりためになったりというものではない)、まあ自分から買うことはないかなって感じです。とかなんかすげえ強がりというか自分で踏み込んだけど飲み込まれなかったよアピールみたいになってしまってて見苦しいですね。なんだろうねこれ。まあ別の時代に生まれてたら iPod つけて散歩する如く歩きタバコしてた気もしますが。


20120719Thu

バイトが中止になった喜びを噛みしめています。喜びを噛みしめる、なんてことが自分の人生にありえたのも意外だしそれがバイトの中止という否定的事態において生じたのも意外っちゃ意外。ぼくは性格が悪いので(「いい人」であっても「いいやつ」ではない)後者に関してはむべなるかなッて気もしますがね。ただ言い訳をしておくと、いやなものがなくなった喜びというよりは余暇時間が生じた喜びですよ。いやなものなんて、いっとき逃れたとしても次つぎ出てくるんだから、そんなで一喜一憂していたら苦からは逃れられませんよ〜。俺も逃れられてないけど〜。

しかし余暇時間はいい。うきうきるんるんして冷蔵庫に入ってたロールケーキ食べながらコーヒーミルクを飲みました。いまだったら言語哲学大全の IV 巻も読める気がするしなにやらプログラミングの勉強がしたい。やっぱ勉強って時間のある人がすることですよねえ。 school の語源ですよね。だいがくせい。でも忙しくても呼吸をするように勉強する身体でないと大学院生とか研究者はなおさらつとまらないよなあと思います。道外れてる感がヤバい。べつにヤバくないですが俺の人生はやばいと思います。にゃはは〜。

でもまあ実際うちに資産が潤沢にあるわけでもなし、親の勤めが安定してるわけでもなし自分に並はずれた能力や世渡りの才があるわけでもなしなのでどこかで真剣な危機に直面するんだろうという見通しはぼんやりとあります、が、どこかアナザーワールドにおける事態という位置付けが拭えなくて、そういえば論理哲学論考読み直したいですよね。論理空間。夏はレヴィナスを読みたいですよね。レヴィナスを読みたいし卒論をやんなきゃだめですね。余暇時間が見えるとうきうきして「やりたいこと」の長大なリストを作成していくつも実現できずに休みが終わるのがつまり大学生の長期休暇ってやつの基調ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか? 私は元気です。帰りぎわ、授業で見たかわいい子に声をかけようと思ったけどできなかった私です。やっぱあらかじめ簡単に手順を考えとかないとどうしたらいいかわかんね。謎の道義的ためらいです。さっき、小さい子供がだだをこねて仰向けになってじたばたして、地面は雨が降ったあとで濡れてるのにかまわずじたばたしてたのが面白くて写真撮りたくなったのですが、その子供の親もいたのでそれはよしたのですが、これと同種のためらいがある。僕が行動を起こすことで誰かに確実になんらかの影響を与える。僕が行為することは、なにかしら世界に介入することだ。何もしなければそのままであったはずの未来を改変することを避けがたくともなってしまう。僕は無関与な傍視者でいたい――とかなんとか述べてみるのだけども結局は「何この人きもい」みたいな反応をされて心が傷つくのを恐れてるだけなのかなあ、とも疑っている。ていうか道義的ためらいだから、むしろ、「ナンパは悪」みたいな規則が腹の底に沈殿してるのと違いますかね。

でも女の子をかわいいなあ、かわいいなあと思えるのはとてもなんかいい傾向のように思える。ただの「顔」のように見えることもあるし(このバイトを始めてから数日はそうだった)、その前は脚とか唇とか、性的な興味寄りで見ていた。女子高校生の素朴な顔つきが素朴だなあと楽しむ通俗的な意味付与とも区別したいし、ようは表層的な美的鑑賞から一歩踏み出しつつあるかな、という気がする。しかし前にも書いたが日常生きてて「美しい」と思うのが自然か女の子かの二択というのはどこかさびしいものがありますね。あと家の中が四角いものだらけなのも考えてみれば窮屈ですね。フィギュアとか欲しいよ。でも人の形というのもそうとうに類型的な形状ではあって、ああそうか、身の回りのものにあるのは道具だから、人間の手が用いるようにできていて地球の引力に従う道具だから、いちおうの形状的傾向性を有することは不自然なことではないのか、といちおう納得してみたりはしますが。常識ぶち壊したいですよね。ぶち壊すとはいわずとも、ぬるぬる溶かしていきたい。


20120717Tue

なんか書かずにゃいられない。嘘。でもバイト終えて帰ってきて風呂入ってツイッター見ながら歯磨いて何するかっつうたら電気も消えてるし日記でも書くか、となるわけです。夏と冬はいたずらに日記を続けてみたくなるー。今週はまさかの週 6 日出勤が控えておりウワァオですね。テスト前? レポート? あるけどなんとかなるのか、ならないのか、ならなくてもそれはそれでいーやと思ってる自分がここに、余裕? いいや、冒険です。低水準が苦にならない劣等種です。

ぼくは少しずつ少しずつ失恋をしていくのです。

ここ数日は若い女性に対して特別の価値を感じなくて。

あまりにバイトすぎて大学院の説明会とか行けなくなりそうですがぼくは元気です。元気じゃなくなるのは時間の問題なんだろーか。今日の朝は長めに鬱でしたがバイト来たらわりと平気になりました。しかしなんか呼吸が苦しかったな。今日は。鬱のときは自分がなにか深いものに触れてる気分になるけどその要因はじっさい「バイト行きたくない」という卑近なものだったり単に季節柄だったりするので世界にやたらの意味を見出さない心理学がおれは大好きです! 心理学勉強したい。俺のやりたいことにも確実に役立つしぃ。


20120716Mon

彼女が欲しいといつも思うわけではないが女の子はみなかわいいが特になんでもない「顔」にしか見えない日もあるが女の子の唇をみてキスしたいと思うがセックスをおれはしたいのだろうかと問えばよくわからない、それは日によって時によって答えの変わる問いで改めて問うときはいつも否定的な答えおよび当惑が返されるのだがスカートは穿きたいよね。スカートを穿きたいことは女の子になりたいことを必ずしも意味するわけではなくかわいいものを身につけたい願望がおれにはある! そんなことを知り合いが見てることを確信しながらも書き連ねている昨今です。世界はこじ開けねばならぬ。そういや一度丸坊主にしたいとも思ってるので丸坊主がスカート穿いてる異様過ぎる光景を実現するまえに別べつに一度実現しておきたいですよね。ベイベー。べつに女の子になりたいとは思わないのですよね。それは過去に戻りたいと思わないのとたぶん同等で、第一にそれは不可能である。だけど不可能である前に、おそらく、その可能性に魅力を感じないのですよね。僕が女性になったら、女性になった自分を女性として生きるだけで、想像される快楽はやはり想像の中にしかない。男の意識で女性を生きる、という二重写しが不可能だから、ということかな。過去に戻ることについては、今あのときに戻ったとして、当時よりはうまくやってやる自信はあるけど……そこですかっとする自分を演じて見せたところでなんかsignificanceがあるかしら?という気がする。いや、単にさほどうまくやってのける自信がいまでもない、ってことかもしれない。

……ネット上でリアルの埋め合わせをやることは、俺のポリシーの何代目かのヴァージョンに抵触するのですけど、実際それに近いかなり近いことをやっていて、今後とも基本的な姿勢は崩さないつもりですけど、やっちまってることは否めないですよね。これから何が起こるか起こらないのか、ひとまず見届けてやるしかない。大人になることを拒む青年の反感はかれが大人になると透明な思い出として格納されて、二者の間にはコミュニケーションが成立しないのだろうか。より一般的に言えば、改訂にともなって捨てられた旧い基準は決して顧みられない。「こんな大人にならないぞ」と思ってた大人に自分がなろうとしているとき、あの頃の自分の顔が浮かんで消える、さようなら、きっと大半そんなものだろうけどその声に耳を傾ける努力はしたい。時間の押し流す流れは止められないけど。無意味にセンチメンタル。この日記はフィクションであって今日あったこととは関係ありません。他意なし。


20120715Sun

知人のブログを見つけたぞ。自分のことが書いてあったぞ。そういえばスマートホンの Opera Mini からこのサイト見ると広告がべったり張り付いてて大変うざいので移転しようか、したらいっそ有料でサーバ借りて、 http://moutanf.com/ とかどうだろう?! とかわくわくする日々です。うそですおおげさです。そんなことしてる場合じゃないけどそんなことしてる場合ではない。だけどバイトに明け暮れ気味の日々は試験勉強をおろそかにし、進学準備をおろそかにし、友人との時間をおろそかにする危険があるからみんな職場選びには気をつけようね!! まぁ最近部室にばっかいるんですけども。お勉強したーい。俺なんか研究者に向いちゃいないよなと近頃はよく思うわけです。お勉強は好きだけれど呼吸をするようには食事をするようにはしなくて、さぁ勉強するぞってよそいきの服で勉強を始めます。読書も同様です。僕はほっといたら縁側でお茶を飲み続けて一生を終えたいよね。

タバコでも酒でもなくコーラを飲む僕の夜はなんかもう手がひび割れまくってて大変痛々しい状況なのですが図書館にレポートの取材させてくれって乗り込んだらアポなしじゃダメですよ馬鹿って追い返されたのでしゅんとしました。まあそうよね商売ではないにせよひとつの利害が絡んだ組織ですものね、とひとつ納得勉強したものの恥じる気持ちが後まで残りました、より正直になればむしろ「あの野郎!」(相手は女性でしたが)という気持ちが。しかしそうした屈辱が人を成長させるのだと思います、言い換えればあのどこか見下したような言いようは心の安静を乱すけれども教育的効果に富むやり方だったのだとは思います。つまり教育ってのはプログレスを是とする人にだけ意味のあるものなんだよ! はたして相手の心を害しないのがいいのか、それとも今は害するけれど相手の成長のためにきつく言ってやるのがいいのか。教育的態度は未来に向けられている。つまり時間軸を考慮に入れた上で相手の幸福を最大化するってこと? 未来へと行為をコミットするのだ〜。確かにそれは面白いかも。

しかし嫌なことって残りますよねー、バイト先のあの人のどなってる声が聞こえる。教習所から帰ってパソコンやってると急発進する感覚がよみがえる。人間の心っていやなものを収集するようにできてるよねーきっと。気持ちのいいものはどんどんザルみたいに消えてく。道ですれ違う女子高校生をおれはつぎつぎ消費するのです。幸福です。しかしこんなにバイトするつもりじゃなかったぜー俺は。そっちでの経験はじつにじつにためになってるのだけども、まさかこの時期にやることじゃなかったし、どうもミスター周回遅れです! まあしょうがないのである。ここまで借金を積み重ねてきてしまったので、いちいち返していくしかない。 20 代の 1, 2 年くらいどうにでもなると開き直ってやるしかない、と言い聞かせなければならないほどおれはシリアスな人間じゃないのでバイト先で年下になめられています。まあぼちぼちやる。


20120711Wed

落ち物パズルみたいに目の前に積み上がってくる近い未来や将来のこと、その調整のための決めごといろいろ、気付いて眺めたら処理しきれない気がして、もうだめだ、鬱になってきた。鬱になって日記を書きはじめた。

あの人は自分の人生にとって異質なんだ。そう思った。彼女を見かけると動揺するけど、かといってどうしたいってのがない。僕が声をかけて、君がにこやかにあいさつを返してくれればそれでいいのかもしれない。でもそしたら日常に戻るだけだ。

電車の網棚にした忘れ物を3駅先に取りに行って、帰るときの上り電車の空き具合。窓から見える見慣れない夜景。不思議な気分だった。

自分が口数少ないのって、結局、他者を前にして緊張してるんだと思った。あまりに常態化しててそれと気づかれないけど。


20120709Mon

私でございます。前回の日記でごちゃごちゃごちゃごちゃ考えてまいりましたが俺の思ってたのは俺の経験からすれば俺の抱いてるのは愛というより執着なのだってことだったねと思いなおしました。きみへの思いは愛だったのか執着だったのか? ところで執着ってフェティシズムでもないかぎり実在の対象ではなくて観念に向けられるものだと思います。観念を経由して実在に至りつくけど、そこにはすでに夢のかけらはない! ついでにいえば仏教的な「愛」の扱いを念頭に置いています。つまり愛することというのはこだわることなんだね。視野狭くあること。

さて。なんとなく一週間ほど前回から期間が開いていますがそれにはそれなりの理由がないわけではないのです。つまりヒマなわけではなかった。忙しい――というにはまだ遠慮があるけど。授業のためにちょいちょい準備するものなどありましたし、加えて教習所やら最近バイトなども始めてしまったのでそんな時間あり余ってるわけじゃないです。でも部室で家でだらだらする時間は必ず確保されているので俺が忙しいなどとひゃくパーの自信をもって言える日など未来永劫訪れないのではないかという気もいたします、というより自信をもって言う必要もないし自分が忙しいかどうかで現状になんらかの価値判断を下す段階はもう過ぎているはずなのでなんかまあ引きずりすぎじゃねーって感じです。

ともかくいまはノー・ダメージです。それは文章に表れてるでしょ。ぼくは恋をしない男に逆戻りしたのです。はー、ばかばかしい。もーなんていうか「○○しない」という否定的な仕方で自らをアイデンティファイすんのは子供のすることなのでしたくないですよね。「○○する」に寄生する形でしか存続しえない影としての存在、つまり肯定は否定に先行するのか? まあ事実はいつも手探り闇の中混沌の中なのでございます。混沌の中から真実くさいものをなんとか理解できそうな形に拾い上げるんよ〜。センチメンタルは薄れたけど(「死にたい」もないんですよ最近)、電車の中でカップルとか見るとどうにかなっちゃうというかどうにか何らかの微弱な影響を受けていることは否定しがたいし無根拠に勝ち誇った妄想とか、女の子がみなかわいいのはそれでほっとけるんですけど、あとそうだキスがしたい!!! キスするときに相手の口がタバコ臭かったらどうなんだろうとかよく考えます、常用してるわけじゃないけど。あと朝の馬鹿電車はどうにかならないものですかね。どこが先進国やねん。クーラーはついてるけどね。


20120701Sun

愛とはなにか、愛とは執着のことである。そう言った。それは真理値を変えない置き換え可能性を意味するのかどうか。また、愛するという述語についてはどうか。愛するというのは動作なのか、それとも「愛している」という状態ないし関係なのか。関係ならば、愛はそれを受け入れる人がいなければ成り立たないのか、つまり片想いとはどこまでいっても個人の心の状態でしかないのか。

僕が「私には愛している人がいる」と口にすると、違和感がある。第一ぼくはその人と結婚もしていなければ付き合ってもいない。んじゃ、はて、愛してるってのは、結婚とか付き合ってるとかいった、社会的に定義された関係に両者(「愛する」という述語によって関係づけられる二つの項)があることがその必要条件になっているってことだろうか。それが全て、と言うつもりはないが、確かにそうした「愛する」の使用はある。だけどさしあたり僕には無縁なタイプの「愛」だね。

愛情というともっととっつきやすい。僕には愛情を抱いてる人がいる。いた。どっちでもいい。つまり愛とは情の一種なのだ。それは誰しも拒まないだろう。情とは感情でありつまり感じだ。感じというほどぼんやりしていないがしかしそれが私において生じるものであることは間違いない。

愛情は必ずしも恋する人にだけ備わるものではないかもしれない。わかりやすいのは親から子への愛情とか。教師から生徒への愛情とか。あとなんだろー。先輩から後輩へとか。上から下へということか? しかもここでも、社会に組み込まれた関係、社会を成り立たしめている関係において成立するものなのか。つまりそれは庇護であったり保護であったり、教育的配慮であったりかっこつけたい気持ちだったり、個人と個人の関係でありながらその背後にはなんらかの社会的集団という枠組みあって生じるものであったりする。社会が構造をもつものであるかぎり、そして構造がその成員の遠近関係を含むものであるかぎり、愛情関係に自己を中心としたパースペクティヴが作用することは避けられない。つまり近いものは大きく、遠いものは小さく見える。

パースペクティヴ、それがひとつのカギではある。社会的に身近な存在、家族とか同級生とか同じ部活の人とか、を大事にするということは、そうでない人を比較的大事にしない、ということとどうしても裏腹だ。それは避けがたく不平等な態度――なのか? 確かに、一個人だけを勘定に入れればそうだ。僕がその幸福を増大させようとするのは(言うほど大したことはしてないんだけども)、ぼくの周囲にいる人だけで、どっか知らないとこで暮らしてる知らない人のことは文字通り知る由もないのだからその人の幸福を増大させるとか考えることさえできない。でも必ずしも俺がすべての人の幸福を増大させようとする必要はないよね。別のもっとふさわしい誰かがそうしてくれればいいわけで。「どんな人にもその人を愛する人が存在する」のなら、「すべての人を愛する人がいる」のでなくていい、わけだ。

おっと、これは公共的な話。では、私において愛とはなんなのか。そこで執着である。ここまで「愛情」ということばを使って考えてきたが、こんどは「愛着」ということばで考えるとわかりやすい。愛するとは、一面では、その人に愛着をもつことだ。ここで、愛着ないし執着とはどういうことかをすこし記述しておこう。

僕が誰かを愛しているというとき、それは同時にその人に愛着をもっていることを意味する。そこでは、僕とその人を引き離そうとする力が働いたとき、僕はそれに抵抗する、ということだ。また、僕自身がその人から離れていこうとしたとき、その離れることをためらう気持ちがある、ということでもある。その人を見失ったらきょろきょろ見回して探すということだ。仮にその人がピアノを弾けるとしたら、楽器屋にきた僕はふらりとピアノを見に行くだろうし、書店に寄ったらその人が読んでたマンガをちょっと覗いてみたりする、ということだ。その人が喜ぶであろうことを自分がしてみたいと思うこと、でもある。

もうひとつ語れていない気がする。執着はもっと困った、やっかいなものだ。つまり……愛という概念から飾り物を取り去っていったとき、執着以外のなにが残るのか、ということなのだと思う。ではその飾り物とは何なのか、それは飾り物といって切り捨てられるものなのか。(考えてるとどこでも聞ける凡庸な話にどんどん傾いていって望ましくない。曰く、愛には嫉妬がつきものとか。もちろん、その凡庸な話を自分の言葉で語り直すことに日記の意義があることには同意する、けど、だから、凡庸な話を使い古された言葉でもって語ってしまうことにはまったく意味がない)

ぼくは嫉妬をする。なぜぼくにかまってくれないのか。なぜあの人とは話して、僕には話しかけないのか? 疑問としては取るに足らない、答えは明白で、その対比が非対称的であることからその疑問としてのポンコツさがわかる。「話す」ことと「話しかける」こととはレベルの異なる事態である。つまり「あの人と話している」ことは「あの人に話しかけた」ことを含意しない。つまり僕に話しかけてくれないのは不思議なことでもなんでもなくて、ああ、僕と話してくれないのはひとえに僕から話しかけないからに他ならない。結局、これは疑問なのではなくて、現状に対する不合理な不満の現れでしかない。(恋という意味において)愛する人に関して僕は過剰な期待をする。「 A を期待する」ことが「 A は実現されて当然だ」にスライドし、 A が実現されない(されるはずもない)ことに対して不合理に不当さを感じることになる。

……

愛情というほどポジティヴな感情でないことが問題なのだろう。ここしばらく、ぼくは利他的であろうとしてきた。そして確かに、人のために何かをすることは気持ちがいい。モチベーションにもなる。健全だとさえいえる。純粋に自分のために何かをすることよりもなにか別の質をもった生き方であると思える。でも、これは直観的にそうだとしかいまは言えないのだが、本源のところにある動機はどこまでも利己的なものであらざるを得ない、そうも感じる。よくある話で恐縮だが、利他的であることは“自分にとって”利益をもたらすことでもあるのだ。他者の利益を自己の利益に還元することができる限り、この構造を逃れることはできない。

だがその根本的利己性はハッタリなのではないだろうか。その利他的行為が自分にとって利益をもたらさないとしても、自分はそれを遂行する用意があるのではないか。それでも言われるかもしれない。その行為が利他的であることそのものによって、遂行者は利益を受けているのだと。しかし、ならばそれでいいのだ。利他的であることそれ自身によって受ける利益のために行為しているならば、それは通常の意味での利己性を超え出ている。 affective な快を自己利益とは呼ばない。

たとえば、お小遣いをもらうために親の手伝いをするなら、それは利己的な行為だ(お小遣いをもらえないなら手伝いをしないということだから)。だが、親を手伝いたいから手伝うのだといえば、それを利己的というには無理がある。《余談だが、こうして自己目的な行為を理由・動機の項をともなって記述せざるを得ないとき、そこに現れるのは欲求の形式なのだなあ》 これを根本的利己性を用いて書き換えるとこうなる。「親を手伝うことによって得られる快楽のために手伝いをする」と。しかしここで快楽という不明瞭なタームが出てきてしまった。この「快楽」を、利他性に依存せずに記述できない限り、その利己性は見かけほど利己的なものでないと考える。

置き換え可能性の線をちょっと試してみよう。無償の愛ということばがある。これ自身なにを言おうとしているのかわかりづらいが、一面をとらえれば、完全に利他的な愛、となるだろう。辞書引いて気づいたが、「無償の愛」にかんして償いが問題になるのは愛される側なんだな。つまり対価を求めない愛、見返りを求めない愛だ。これは主観主義者にとっては軽々しく達成される愛に見える。愛を執着で置き換えれば、無償の執着。こちらが執着してるだけなのだから、対価を求めるもなにもない。満足はこちら側だけで完結している。ぼくはきみを遠くから眺めてるだけでじゅうぶんなんだ。

だが、遠くから眺めてるだけでは済まされない、と思ってしまったとき、この半関係はバランスを崩しはじめる。そう思ってしまう原因はさまざまあると思うけど、とかく私たちは現状を超え出る運動を繰り返して暮らすものらしい。遠くから眺めてる状態をいつまでも続けられれば生涯安泰なのだけど現実そうもいかないし。ま、とにかく、好意はまずは自分の内側で生じるもので、すなわち、好意は好意それ自身で自然に実在世界にアクセスするわけじゃない。その一方で、ここでは好意が実現・成就されることが要請されている。ならば、その実現・成就のありかたが問題となってくる。典型的には告白という形で〔いったんは〕決着がつけられるのだけど。

ある時期、博愛とか慈悲とかいったことについてよく考えていて、たびたび気にしながら生活していた。とはいっても文字通りの強い意味じゃなく、誰に対してもやさしくしようみたいな話なんだけど。そうした博愛は方向性としては間違ってない、一人の幸福よりも二人の幸福のほうがいいのは誰も否定しまい、あとは実装の仕方だけが問題になる、そういうテーマではあった。

博愛は手段だ。そういう方向で努力すればよりよい世界に近づくだろう、そういう目標設定だ。だけどあくまで手段であって、僕の中から自然に出てきた欲望ではない。僕が目的として欲望するのは、君という個人だけであって、しかもその欲望のあり方はたんなる執着、はっきりした落としどころさえもたない執着だった。君のことは好きだけど、だからどうしたいという、その先がなかった。その、無目的な執着たる「愛」にうまく砂糖をまぶして現実世界に調和するように料理し直した結果が、利他的な愛なのだと思う。「きみが好きだ」という意識が先にあって、それをうまく世界に組み込むために利他性に訴えているのだ。


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