201206

20120624Sun

ばれる可能性がないのならだまされたまま生きていたい。それは当たり前だ。しかし当たり前なのか? 現象と実在を分けるなら、実在――つまり、ほんとうのこと――がどうあるかは重視されるべきなのではないか。むしろ、現象がどうあれ、実在がいかにあるかのみが考慮されるべき事柄なのではあるまいか。

「ばれる可能性がない」ことはなにを意味するか。私たちは実在に未来永劫アクセスすることができないということだ。それどころか、実在がいかなるものであるかについての手掛かりすら得られない。私たちに与えられているものは現象だけだ。スクリーンの向こうに誰がいるのか何をしているのかはわからず、ただ映し出されたものを見ている。

そんな実在は実在といえようか。それは実在と呼ぶに値するものなのか。だってそーだろ。実在には手掛かりがなければならない。俺の目の前に広がってる自分の部屋という世界は、俺にそう見え感じられているだけで、じつは俺は沼地に腰を下ろしてキーボードを叩いていた、なんてことがあってたまるか。いやあってたまるかというか、そういう可能性は論理的には考えられるけれども、きわめてばかばかしい想定であって、まじめに受け入れる理由がない。そうした状況がかりにあるとして、実在たる沼地の自分と、現象たる自室でパソコンいじってる自分とは、まったく関係がないといっていい。この二場面を貫いてる自分が自己同一的に一貫した自分であること、つまり、自分の部屋にいる自分と、沼地に腰をおろしてる自分とが同一人物であることのみが、ふたつの場面をつなぎとめる。いやそうではない。「部屋にいる自分」は、沼地に腰を下ろす自分に表象されたもの、つまり実在の自分のなかに生じたイメージでしかありえない。とすればなんなのか。こうした想定は際限なく続けていくことができる。沼地にいる自分は、じつは、救急車で運ばれてる自分が生み出した妄想で、つまり、夢の中で夢を見てる入れ子構造だ。

そんな、いかようにも想像できる「実在」には用はない。実在は現象につなぎとめられていなければならないし、われわれがそれを受け入れる十分な理由がなければならない。最初に話を戻すと、「ばれる可能性がない」ことは、現象と完全に切り離された放縦な実在を認めることに等しい。しかしそれは実在たる資格をもたない。つまり、「だまされたまま生きている」ことは、実はだまされてなどいなくて、だまされていることそれ自体が錯覚なのだ。哲学的に結論すれば、ばれる可能性のないところでは、ひとはだまされえない。そこでは徹頭徹尾リアルな世界、嘘のない世界を生きるしかない。現実的にいえば、「ばれる可能性」がないなんてことはありえない。だまされるひとは、ばれる危険性に静かに脅かされながら生きるしかない。


20120622Fri

みんなばかだ。いやみんな期待してるよりは頭がよくない。みんな頭がいいなら俺はとっくに救済されてるはずだし、その前に俺が俺を救済してるし俺がみんなを救済してるはずだ。でも実際は誰も救済されてない。

「したことはすべて、本人がそれをしたかったからしたのだ」という考え方が嫌いだ。第一そんなわけがない。人にうまく話しかけられないでいる俺は「話しかけない方がいい」と思ってるからそうしたのか? そのまえに、「 A したい」と「 A することが自分にとってよい」とを混同してはならない。前者だったらそれは日本語の使い方のレベルで間違えている。毎朝顔を洗うのは、洗いたいからではない。べつに洗いたくなくても顔は洗う。特別食べたいわけじゃなくてもご飯は食べる。そんな話ではなく、顔を洗うとき、まず、それが自分にとってよいことだと思っていて、そして、そのことが「顔を洗う」行為の理由となっている。

第一にそれは直接の理由ではないことが指摘されねばならない。「なぜ朝起きたら顔を洗うの」と聞かれて「それが自分にとっていいことだと思うからだ」と答えるのはふつうでない。可能な答えであるにしてもだ。顔を洗う理由は身体を清潔に保つ理由に帰着する。身体を清潔に保つのはなぜか? たとえば嫌われたらいやだから、という消極的な理由(ここでは好悪という根源的価値が用いられている)。あるいは身体を洗うことが気持ちいいからという理由(これも好悪による判断にかなり近い)。それから「習慣だから」という理由(習慣を社会的規範に、社会的規範をこれまた好悪に還元するアイデアは一般的なものだろう)。

行為の理由を遡及的に好悪に還元する説明には破綻がないように見える。じゃあ初めに掲げた見做しはどこがおかしいのか。第一に不自然である。行為の説明としておおざっぱ過ぎる。「なぜこの大学に入ったのか」「入りたかったからだ」では身も蓋もない。そこには「突き詰めれば」という断りが必要である。じゃあこう言えばいいのか。「したことはすべて、突き詰めれば、本人がそれをしたかったからしたのだ」と。まだ違う。先輩に脅されて薬局にコンドームを買いに行かされた A 君は、コンドームを買いたくて薬局に来てるわけじゃない。コンドームが欲しいという欲のもとに薬局まで足を運んだわけではない。おっと、「したい」ではなくて「することが自分にとってよい」ということだった。ならば、 A 君は、薬局に行って恥を忍んでコンドームを買うことが自分にとって結局最善の手だと思っていた、ということか。

それも許容しがたい。そもそも「最善の手」を見つけるために、ありうる全ての手を視野に入れ、それらを比較検討するなんてことが可能なはずない。それが可能なら世界はもっと理想的に回ってるはずだろ。誰かがぼくのさびしい心情を読みとってやさしいことばをかけてくれるはずだろ。つまり A 君含むわれわれはエスパーではありえない。はいはい。じゃあ条件を足して、“視野に入っている限りの”全ての手を比較検討して A 君は最善の手を選んだ、とすればどうか。いやそれでも合理的過ぎる。それが日常的にできてるんなら数学の場合分けとか間違うはずがない。却下。むしろわれわれは、そのときたまたま視野に入った 2, 3 の選択肢をてきとーに考慮して、なんとなくよさそうなのを直観的にチョイスしてる、そのくらいのほうがしっくりくる。というかチョイスは直観的であるしかない。任意のふたつの選択肢を客観的に比較考量する尺度があるわけでもないし、あったとしてわれわれに認識できるものでないし、自分の欲求のあり方だって厳格に一貫してるわけじゃないし、自分の欲求を自分で間違いなく寸分の狂いなく認識できてるわけでもない。

つまり……自分で決めたことだからといって、それが自分にとってよい結果をもたらすことを保証するものはなにもない。よい結果をもたらすことを“期待して”行なったことではあってもである。「したことはすべて、本人がそれをしたかったからしたのだ」という言い方には、ここらへんの事情に対する鈍感さがある。僕はこの言い方の背後に、「自分で決めたのだから自分で全面的に責任を負え、人のせいにするな」という態度を読みとる。だが人のせいは人のせいじゃないか!(ここで中断。どうも違和感のありかを見誤ってたようだ。問題は、主観に閉じられた世界観、そしてそこから発生する倫理、にあるとみえる。そのことについて書けるようになるのはまだ先のようだけど。)


20120619Tue

こんな tweet を見た。

君を幸せにしたい、って、エゴイズムだよなぁ。でも恋それ自体がエゴかも。

こういう遡及的適用がまずいのか、まずいとすればどうまずいのか、指摘するのはけっこう難しい。頭が悪くてごめんなさい。似たような例としては、「主観」というコトバがある。これもエゴイズムと同じくらいやっかいである。目の前に練乳あずきアイスの空き容器がある。これは事実だ。いや、それはあなたが主観的にそう思ってるだけで、じつはアイスの空き容器は幻覚なんじゃないか? ……これはデカルトの懐疑。そいつはおいといて、主観的だから事実としては不安定だというのなら、それを客観的なレベルまで高めればいいだろう。リビングでテレビを見てる家族を呼び出して、俺が指さしているこれはアイスの空き容器でしょと確かめてみればいい。質問内容の異常さを差し引いて考えれば、みな一様にこの主張に同意してくれるだろう。これで少なくとも五人はこいつがアイスの空き容器であることを認めている。より客観的な事実になった。これを繰り返していけばもっともっと客観的な事実にたどり着けるはず……。

だけど主観論者はにやりと笑みを浮かべてこう指摘する、「『これがアイスの空き容器である』とみんなが同意した、という事実もまた、ただあなたが主観的にそう思ってるだけなのではないか?」と。考えてみるとここでの「主観的」というコトバの運用は不適格ですね。「客観的な思い」が成り立つところでのみ「主観的な思い」もまた語りうる。ですが客観的な思いってなんやねん。みんなが同じ幻想を見ていることか? 同じ幻想であることをどうやって保証するのか? 単なる思いの偶然の一致にすぎないのか? まあいい。デカルトの懐疑をふたたび流用すれば、「『これがアイスの空き容器である』とみんなが同意した、という幻覚をあなたは見てるだけなのではないか?」そう主観論者は反論する、っていうかそれ主観論者とかじゃなくてデカルトやんけ。主観論者はどこへ消えてしまったのか。

結局、主観論者の武器は認識論的不完全性である。つまり、わたしたちは事実をありのままに認識することができない。これが主観的であるということの意味だ。だが、なぜそう言えるのか。わたしたちの認識は間違えうる。女性だと思ってた人がよく見ると男性だったとか。だけどその認識が間違えたと言えるためには、正しい認識がどのようなものだったか知っていなければならない。前の認識が間違っていたと知ったときには、すでに正しい認識を手に入れてしまっている。ならば、認識の可謬性にもとづいて認識の原理的不完全性を示すことはできない。

あるいは、色眼鏡の比喩で主観論者は説くだろう。私たちはさまざまな(あらゆる?)ものを、「〜として見る」という態度を通して見ている。僕が書籍として見てるものを別の人はちり紙として見るかもしれない。えっそれってなんか違わないか? 例を変えよう。われわれは虹は七色だと思ってるけど四色に見える人たちもいるらしいよ。……ここには、すでに、“同じものを”別様に認識している、という考え方がある。だが別様に見えるそれらが同じものであるとどうやって知ったのか? その「同じ」が通じる以上、客観的な何かは確保されていなければならないのではないか。あーそこで確保された「客観」は、しかし、われわれは認識することができないよ、ってことでしょうか。でもどうやって客観が確保されるのでしょうね。つまり……「すべては主観だ」の裏側にある「客観などない」の「客観」は、どういう意味で言っているのか。

まあようは、安易に「主観」って言葉振り回してると俺怒るよ、ってことです。気をつけられたし。でもリアルで話したらうまく説明できないんだろうなあ〜〜。あと、冒頭の遡及的適用の話はできなかったので今度したいと思います。


20120618Mon

素の自分など存在しない、あるいは遠い昔に置いてきた、と長いこと思っていたんだけど、今日ふと考えてみて気付いた。一人でいるときの自分がそれにあたるんじゃないかと。それならどういう感じかわかる。そして、それは、たとえばサークルの部室にいるときの自分とそれほど(少なくとも、自分が思っていたほどには)変わりはしないんじゃないか、とも思った。まあ人前で歌いだしたりはしないけどね。

月曜に遅くまで大学に残ってることに心理的な抵抗があって、それは理由なきことではあるんだけど七時過ぎなんかに用事終えて大学の門まで歩いてるときはつらい。語彙が貧困なのがもどかしいけど精神的にいくぶん追い詰められた状態になった。人に比べりゃかわいいもんではあるけど。事実、追い詰められたは追い詰められたけれども、そいつの正体ははっきりしていたし、またそれは見慣れた要因でもあった。だからつらいけどつらいというだけ、どこか苦しんでる自分をモニターから眺めてるようなところがあって、見てる本人はノーダメージだった。電車の中では苦しさはセンチメンタルへと変化した。でも、ここしばらく、センチメンタルであることが殊更もの珍しいことではなくなったという意識があり、そのセンチメンタルを直接べったりで感じつつももう一つの頭では支障なく『〈子ども〉のための哲学』を読んでいた。

大学入ってからしばらく、恋愛というものに興味がなくなった時期があって、そのころはそのころで自分なりに充実していて楽しかったのだけども、でも恋いをするあの感覚、苦しさも含めて、を懐かしく思い、そうしたものに一種あこがれる気分もあった。でも実際好きな人ができればそんなことは忘れる。それはあたりまえなのだ。欲求が実現される瞬間は、死の瞬間と同じく、あってないようなものだ。欲求は、それが実現されたとたん、効力を失う――その実現を求めるはたらきも、その実現がはらんでいるであろう快楽も。つまり、欲求の実現にともなう快楽は、欲求の内側にしかない。欲求の求める目的のうちにはないのだ。だから、わたしたちは快楽のために欲望するのではない。欲望の本性は、きっと、つぎつぎに生成する欲望をたえず乗り越え続ける運動そのものにある。

電車の中で変な気分になっていた。なったことのない気分だという気もするし、以前に感じたことのあるものかもしれなかった。大事なことは忘れていく。それは大事だけど、生活する上で忘れても支障ないものでもある。というか、忘れないと混乱してうまく次に進めなくなるのだろうと思う。学ぶことは忘れること、「生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、六・五二一)だって。自分がいまよりもっと初心者だったころの気分を、もうおぼろげにしか覚えていない。それはさみしいことでもある。単になにか永遠に失われてしまうものがあるからでもあるし、自分が過ぎていった段階にいる人にうまく接することができなくなってしまうからでもある。人にものを教えるのが難しい理由の一つはここにある。何年も前のことは覚えておれなくとも、少し前のことくらいは心にとどめておきたい。


20120617Sun

無力、なんてツイッターに書き込むことは間違ってるんだなあ。なぜなら僕はなにもしていない。なにもしていないということはなにもしていないということであってまだなにもしていないということだ。無力というのはなにかしたけど何も世界に影響を与えられなかった望んだ影響をみじんも与えることができなかったときにはじめて発されるのであってそこには失敗という契機が必要なのであって trial & error の trial の段階すら成立していないのならそれは無力という以前のより低い段階における無力さだ。無力を感じるまでにさえ至らないという意味での無力。だからおれは動きさえすれば有力かもしれないんだ。もしかしたら。つまり無力はいつでも有力に転じるチャンスをはらんでいる。むしろ無力やら有力やら一切の判断レッテル貼りというものはそのような性格のものであって、判断はいつでも未来の新しい経験によって改訂されうる。

有力かもしれない自分が無力にとどまっている理由は何か。いや、とどまっていることを積極的に選択するわけではない。だが。ねじれている。環境がねじれている。自分の生きてきた無数の選択によってこの環境はすこしずつねじれてしまった。ここまできてしまった。でもねじれたまま環境は環境として残っている。いつでも脳裏を去来する。このねじれまくった関係は、ねじれまくっていても確かに実在してて、しかも悪いことにはかなり濃く実在してて、昨日も今日も朝も夜も脳裏を去来する。マウスを操作したりキーボードを叩く指先にそれは宿る。見た夢を解釈する際にそれは背景化する。実在しているうえにそれは解決を要求する。それをそのままにすべきでない、と言う。誰もがそう思うだろう。自分もそう思う。だけどねじれてもいる。

ねじれたまま爆破する。跡形もなく爆破して新しいステージを歩もう。そうも考える。しかしそれが最善の策なのか。結局、これがうまく転んでくれるという甘い期待も依然としてまつわりついている。しかし現実的に予想すればそんなはずがない。証拠は一つではない。だがうまく転ぼうが、転ぶまいが、結局はこのねじれた環境に自ら足を踏み入れなければ起こるものも起こらないではないか。起こるべきものも、起こるべきでないことも、ひとしく起こらないではないか。確実に勝てる環境に地ならしされることを待っているのかもしれない。でも誰が地ならしするのか、誰もそうする見通しはないし、自分ではもはやどうすることもできない。と思う、正味な話。というよりはもう地道にやろうという状況ではない。そんなことしてたら二年三年平気で経つ、自分のペースからしたら。

これが自分だけの問題でないことも行動をためらう理由だ。しかもそれは関与する誰にとっても悪い結果を招く危険性がある。だからためらう。勝てない。勝てない戦をするのか?

時間が経ち過ぎた。


20120615Fri

帰宅するともう生きるやる気がなくなって、なんもする気がなくなって、この先いいことなんて何もない確信がわいてきて、長いこと抱えてる悩みをぶっとばし解消する一発逆転を今日も果たせぬままというかむしろ一発逆転を待たぬ姿勢で実は待っているのに誰もそれに気づかずいやうすうす気づいているのかもしれないがぼくらは言葉で自分にはっきりと向けられた言葉でもって確定されないと動こうにも動く理由に欠けるよね、といった面がありまして僕は他者にはっきりと働きかけるということが恥ずかしくてできないのでなにも起こりません。そんな夜を重ねてもやはり待ちわびた天変地異は起こる気配もないしむしろ遠のいてるくらいで、よく耐えたねと言っておまんじゅうが貰えるわけでもありません。

なんだけど家にいてもうだめだーという気分になるのは帰宅したときではなくてパソコンでツイッターを開いたときなのではないかと思いました。なぜなら今日のぼくがそうだったからだ。ツイッターでは後ろ向きなことつぶやいてる人がぎょうさんいます。それは僕が読みたい人を選んでいった結果そうなったんだけど。ともかくぼくのツイッターはいつでもいつも後ろ向きな発言に満ちていて、それは場を支配する空気ってやつだ。インターネットは自由な発言が認められている。それはいい。そして間違ってもいない。僕だって後ろ向きなつぶやきがあふれる中で「どら焼きおいしい!」とか言ったりする。それがどれほどのポジティヴネスを有するのかを考えると説得力イマイチだよなあと思うにしてもだ。ともかく自分としては、周囲の発言がどうあるかで自分の言いたいことを引っこめたりしなければならない圧力を感じたりということはない。だけども、タイムラインも人間の集まりであるかぎりは、それに参加するものの心理に影響するというのは規範というよりも科学的な事実で、やっぱ暗いやつばっかりいる中にいたら自分も暗い気分になるのである。(どこかに嘘がある気がする) より確からしいのは、ツイッターはここしばらく自分の悩みを小出しに出していく、上澄みの部分をさらすような真似を長らくしてきて、だからツイッターには他の人の後ろ向き発言というよりは自分がそこでやってきた発言の業が積み重なっているのだ、ということ。だからむしろ自分がツイッターでは後ろ向き発言ばかりしてきたものだからツイッターを開くと後ろ向き発言モードに切り替わっちゃうのだ、とおもわれるるる。

そういえば最近ぼくは次のことをも見出しました。すなわち、「死にたい」のではなく「もうおわりだ」なのだと。ぼくは生活の中で、しばしば、死にたいと言葉にして思ってきました。帰ってきてだるいので死にたい、時間がなくて課題が十分にこなせそうにないので死にたい、知り合いにうまくあいさつできなかったので死にたい。でも「死にたい」について反省したことのある人なら誰しもお気づきでしょうが、このシンプルな一文は文字通りのことを意味しません。つまり、首を吊りたいわけでもなければ電車に飛び込みたいわけでもない。睡眠薬を大量に服用したいわけでもないし、高層ビルの屋上から飛び降りたいわけでもない。それらの選択肢に特別の魅力を感じないのです。いや、それはそれぞれの例が苦痛を伴うものだから避けたく思うのであって、苦しまずに死ねるのなら喜んでその選択肢を選びとるはずだ、依然として楡は死そのものに対して魅力を感じてはいるはずだ、そう思われるかもしれません。ですがそうとも言えないように感じます。

てゆうかおかしいと思います。「死にたい」は欲求を示す文の形をしていながら、その感情からはなんらポジティヴな香りを嗅ぎとれません。ポジティヴな、本来的な欲求ならば、死にたい人は死ぬことへの夢見る期待を抱いているはずです。死ぬことをわくわくして待ちわびているべきではないでしょうか。「吉野家の牛丼を食べたい」と人が思うとき、その人は吉野家の牛丼に期待している、吉野家の牛丼にみずから手を伸ばす準備があります。不当に吉牛を阻止する人がいれば、それを斥けようとするでしょう。「死にたい」における欲望には、吉牛への欲望に見られるようなポジティヴで力強い調子が見られないのです。(ちょっと無理のある議論だと思います;表現が不正確なせいだと思います)

ちかごろ、僕は従来「死にたい」と漏らすような場面で「もうだめだぁ」とか「もうおわりだァ」とこぼすことが数度ありました。死にたいの正体はこれだと思うのです。後者から前者を導き出すことで後者の本来性を証明しましょう:「もうおわりだ」は、文字通り世界の終わりです。実際は世界は終わったりしないのですが、ある失敗によって、ぼくのまあまあいい感じで進んでいた(と少なくとも本人は思っている)生活は終わります。必ずしも直近の失敗がトリガーになるわけではなく、ふと「もうだめだァ」と悟ったりすることもあるのですが、まあとにかく「もう未来はない」というような閉ざされた気分に陥ることが重要です。そこから「死にたい」へは一足とびです。ここで「期待と欲求を取り違える」という実践的推論におけるよくある錯誤が登場します(俺哲学です)。じつを言えばこれは両者の項を逆転した形で多くは現れます、すなわち、欲求を期待と取り違えると。たとえば、道に一万円落ちてないかなーと思うとします。これは荒唐無稽な欲望です。しかし、妄想の中であなたはひろった一万円で何をしようか、ストーリーを進めていってしまいます。これが。めんどくさくなってきた。話を戻せばですね、期待というのは事実に対する期待で、未来において何が起こるかに関する現実的予測です。「もうおわりだ」というのは、つまり近い未来において世界が終ってしまうだろうという、(相当程度視野狭窄な)期待です。それが欲望にスライドするというのです。より詳しく言えば、期待を実現させる方向にわれわれは欲望します。右へ行く予定だったら右に曲がろうとするように、課題を明日提出することになってたら早く手をつけたくなるように。こう書いてみるとぜんぜん錯誤じゃないですね。どちらかというと逆パターンが錯誤なのだな。「早く課題をやってしまいたい気がするから提出期限は明日なのだな」なんて思ったらそれは馬鹿のやることですね。でも似たようなことは私たちもやってると思いますよ……「あの人からメールが欲しい」と思ってただけなのがいつのまにか「あの人はメールをくれるだろう」と心のどこかで期待し始めてたり。でまあ寄り道寄りまくりですが話を戻すと「もう終わりだァ」という信念が、それを実現する「死にたい」(=「世界を終わらせたい」)という欲求にさりげなくすり替わってしまうのだろう、と思いました。で、「もう終わりだぁあ」は視野狭窄で間違っているので、そこから導かれた「死にたい」というのもねじれた非本性的な欲求でしかないってのがぼくの死んだんです、おっと、診断です。


20120613Wed

否定表現と疑問表現を使わずに書けるものだけを書いてみる。細かいこと言えば「だけ」という表現もまた、言語空間を限界づけるものであって、だから否定ぶくみなんだけど。今日も近頃のいつもどおり七時四十分にむっくり起きた。その数十分前に目が覚めて、外が冬のように寒かった。書いてる途中で気づいたけど否定と疑問はむしろこうした日記的記述よりもツイッターでの発言においてよりよく現れる。否定と疑問は凝縮された表現を可能にするレトリックだといえるかもしれない。外が寒かったので、うすい掛け布団しか用意しなかった就寝前の自分を心の中で低く評価した。でもふとんを追加することはせず、身体の体温とふとんの保温性とのあやうい均衡によってその場をしのぐ、ものぐさな自分だった。


20120610Sun

センチメンタル・バス『草原と鉄屑』を聞きながら。パソコンをつけて巡回をする。巡回は数分で終わってしまう、さみしい。今 19:21 。こうしてこれからはあっという間に一日が終わってしまう。紙を燃やすとき、燃えはじめはためらいがちなくせに、半分過ぎたあたりから急に勢いづくように。その流れにあわせられずに僕は、なにかさみしさをまぎらわすなにかを待ちながら暮れはじめの世界のまま取り残される。さみしいって。ほんとうなのか。さみしさを強く感じるわけではない。だけど待っていることは疑いない。何を待っている。君からの連絡か。それもひとつだ。だけどもっと広い何か。たとえばこれを読んでいるあなたからの連絡でもいいのだ。でもそれが起こることが期待できないこともわかる。それは自分が画面の向こうの誰かに話しかけようとはなかなか思わないことから納得できる。ある程度の知り合いでも僕は躊躇する。特別の用事もないのに彼彼女に話しかけることを。僕が自分を価値ない人間とみなしているからだろうか。僕ごときがあなたの生活に入り込むことがおこがましいと感じているのだろうか。そんな基調はきっと確かにある。深く深く入り込みすぎてめったに主題化されないけど。人に迷惑をかけるのはつらいし、人をよろこばせようとして却って迷惑をかけてしまうくらいならはじめからなにもしない。そう考えているのかもしれない。だから、きっとだからこそ、自己本位的な動機からしか他者に干渉するということもできない。「こうするほかなかった」という強い理由を携えて僕は君に殴りかかる。必要に駆られたという正当化がどうしても必要なのだ。でも本来的には、ね、必要もないのに話しかけるのが、それが他愛ないふれあいなんだろうと思うし。


20120605Tue

何も事件が起きてないだけで、なにもかもうまくいっていないのかもしれない。自分があまりに勉強してないことに気づかされた。卒論で扱う内容についてすこしだけしゃべる機会をもった。ほとんどうまくしゃべれなかった。そもそもしゃべれない。しゃべるのが絶望的に下手だ。言葉が出てこない。なにか間違った仕方でしゃべろうとしてるんだと思う。ではどう間違っていて、どう直したらいいのか? あとで考えてみよう。ともかくこうもしゃべれないのでは研究者にはなれない。いや研究者にはなれても、研究者のふつうのお金の作り方である大学講師などできない。いやレジュメをきちんと作っていかなかったことがまずは問題なのだ。レジュメの中にすこしでもごまかしがあると詰む。しゃべりながら詰む。それは内容の理解がごまかされたまま舞台に立つということだ。理解が及んでいないからしゃべることはなおさらままならない。そんなこと、どこかで学んできたはずなのに、結局学びっぱなしにして忘れる。自分で発表する機会をもってこなかったために、たまに学んでは忘れ、忘れたころにまた学んでは忘れてきた。学部で三年間ほぼ野放しにされていきなり論文を書けと言われる、それは一種不条理だとも思う。発表する機会の多い場所に行けば、確かに力はつくだろうと思う。だけどまあそれは別の話。

研究者、研究者と書いてはみたけど実際自分は研究者向いてないんじゃないかと最近は思っている。なるべくものを考えずに生きる、ということに近頃はむしろ力点が置かれてるとこがあるし。哲学への興味も薄れつつ……というか、もとから哲学否定的な哲学(言語分析による問題の解消、みたいな)に魅力を感じてたのもあるし。勉強すること自体は昔から好きじゃなかったし、いまも選べるならずっと散歩でもしてたいし。昔もいまもものを知らない子どもだ。それがなぜ大学院に行くなんて言ってるんだろー。まあただ、いいかげんな言説にツッコミたくなるのは相変わらずで、でもそういうツッコミ活動ってともすればみんなが共有してる前提を共有してないだけの無知者になっちゃいそうで怖くて自粛してるんだけど自粛してる場合ではないと思う。遅かろうがなんだろうが周りとの距離を測り続けなければならない。


20120604Mon

僕が大学のベンチに寝そべっていて、君が通りかかって唾を引っかける。そんな妄想がふと浮かんだ。べつに変態的な欲望があるわけではない。好きな人に貶められることを望んでるわけじゃない。ただ、そんな奇矯な形でしか彼女とのふれあいを考えられていないのかもしれない。

浮かんだり沈んだりを泳いでいる。気持ちの浮き沈み。君かと思ったけど確認し切れなくて、そのまま階段を下りて図書館を出た。思考は思考が好むときにだけはたらく。考えることは手を上げるようには自由にいかない。本を読めない通学時間。電車の中で視線を自由に泳がせる練習をする。向かい側に座った人の顔を10秒見つめてみる。帰りに大きめの音量で音楽を聞く。遠回りする。すれ違う自転車の女の子にほほ笑みかける。(卑小だ。)


20120603Sun

昨日親が飲み会に行って、もらってきた揚げ物、サラダ、刺身。それらを朝に食した。刺身はしょうゆをつけて食うとおいしいことを見出した。はじめは、というか最後のエビ一切れだけを残して、付属のレモンだけをかけて食べていた。用意されただけのものをいただく味。でもしょうゆをかけたほうがおいしい。この味、覚えがある。しょうゆをかけた刺身の味だ。揚げ物は揚げ物であるがゆえに朝に食するにふさわしい食用品ではなかった。重かった。もう食べなくていいと感じた。何度も。サラダもとろりとしたドレッシングがかけられており、もっぱらそれはビールなんかと一緒に、親しい知人たちと話を交わしながら口に運び胃に運ぶべきものであると感じた。そうだ。ビール。冷蔵庫にのどごし生の缶が長らく残っていた。ビールと一緒に食べればおいしく消化もよく食べられるのではないか。消化よく食べられるかどうかは保証の限りではなかった。だが酒と一緒に消費すべきものとしてこの世に生を受けた人間的被造物たるこれらお酒のおつまみをビールとともに食することはきっと適切な処置に違いなかった。より質の高い食事を獲得できると感じた。ビールの効用、それはお酒のおつまみを美味しくすることなのだ。ビール単体で飲むもんじゃないのだ。それが日本酒や焼酎と違う(ぼくは日本酒や焼酎が好きです)。

ところがこうしてキーボードを叩いてる自分は疲れている。ギターを弾いて疲れている。横にはコップにまだ数ミリ残っているビール。なぜこのタイミングで麦酒と変換するわが IME よ。つまりビールと一緒に食おうが重いものは重いのであった。朝のなにも入れていない胃にいきなり入れるものでないのであった。というかおつまみ如何というより朝のなにも入れていない胃にむしろ入れるべきでなかったのはビールそれ自身ではなかったか。アルコール飲料。のどごし生ってジュースみたいだよね。ところで今から俺は勉強をしなければならぬ。今日は勉強をしなければならない。明日の演習の予習としてドイツ語のテキストを読む(読まないと授業で何言ってるかわからない)。卒論の準備段階として水曜に提出すべき数枚の論文、というよりまあ卒論の材料となるようなふすまから覗くようなきゅうりのようなトマトのような梅のような宇宙に帰れない紅葉もみじの下をくぐって追いかけた真夏の遊覧船親戚にもらったお菓子をつまみながら見たアニメ映画特集がいま無性に見たくって足を運んだツタヤはすでに取り壊されていて世界は戦争だった戦争反対と声を挙げるツイッターの愚民どもそんなものいない、そんなものいない、そんなものいないとつぶやいて僕が郁文堂独和辞典の任意のページを開くと不意に携帯が鳴ってあの人から電話がかかってくる、電話番号知らないのに? メンソールとはつまり薄荷のことであってメンソールのタバコとは実になんというか意味のわからない代物なのであった。あの頃の僕にはそれがただ余計な飾りとしか思えなくてあのメタリックなグリーンでかたどったデザインも子供だましにしか見えなかったのである、きみに僕は顔を殴られたいのか、頭をなでられたいのか、特に思ってもないこと否定してもないことを口に出す癖がきっと誰にでもあって、それがすこしずつわたしたちを不幸なすれ違いへといざなう。よめない漢字を変換するのはやめましょう読めないから。通じないから。調べる意欲ないから。だから郁文堂の独和辞典なんかを使って明日の予習するのがひとつ、それから卒論で使う文献の一部を読んで必要な議論を抽出してまとめようってのが今日中には終わらないだろうが今日明日最悪明後日までに終わらせるべき仕事のひとつ、あとそうかもう一つあってだから先週あたりから今週来週は忙しいんだよとやさしく触れて回ってたのだが基本的に話してる人数が三人くらいにならないと僕は触れて回らないのでそんなに触れて回ってはないと思います。そんなわけでラテン語がぜんぜん進んでませんしだから微分積分学なんてやっぱ在学中には触れられないかなあと思ってます。それより大事なことが。ぼくには。あるのか。今のどごし生の最後の一口を飲みほした、頭がすこし熱をもって重いような気がする、鏡に映る洗濯物はべつに何を語ってるわけでもなくて、世界から遊離した意識が世界から遊離したことを考えてるわけでもなくて、かといって現実にしっかり根を張ってるわけでもなくて、現状不満だらけというわけでもなければ満ち足りていて欠けるところ一つないというわけもない。慢性的な欠如を感ずるわけでもないが高校生のかっぷるが公園の階段を並んで歩いてる男の子が女の子の腰に手を当ててるところ見てああああと声をもらしましたとさ。でもそんなことで俺はこの日記を終わらせたくはないのだった。大事なことは陳腐なことと裏腹だ。


20120602Sat

自分は意味に興奮するタイプではない、と書いた。確かにそうである。起こっている目の前のものごとに隠されている意味を意識したり、あるいは自分で意味を付与することで、自分の情緒に影響を来たすようなことはあまりない。とはいえほんとうにそうなのか。駅で見た女子高校生(かりに高校生としておこう)の脚、つやがあって、厚みがあって、しっかり身体を支えている、健康な脚――に見とれるとき、わたしは健康という意味付けに興奮しているのではないか。その脚を見るとき、彼女が部活で走って、脚という機能を行使している様子を思い浮かべ(人間に備わった機能を十分に行使することは美しい)、いわばその想像された事実をも含めて見ているのではあるまいか。また、(いちいち例がきわどくて申し訳ないが)女性と交わるとき、わたしは女性の肉体そのものに興奮しているのだろうか。そうではない。女性の肉体は男性のそれとは確かに質的差異があるとはいえ、しかし人間の肉体であることにおいて大して変りはない。質感を楽しむだけだったら人間より犬や猫を抱いた方が気持ちいいのではないか。やはりここでも意味づけが作用していて、そこでは相手の女性の気持ちなんかを読みとって興奮を高めているわけである(ネーゲルが「性的倒錯」で言ってたみたいな話)。いや、知らんけど。これはむしろ相手がいないとき、つまり一人でする時のほうがよく納得できるかもしれない。わたしは画面に映る事実をいいように解釈して興奮しているのである。また、性的嗜好がかくも多様なものになった――そしてそれらの多くをわれわれは内面化しないまでも理解はする――ことも、意味づけということが日常化、というよりは常態化していることの証左といえるだろう。

かように人は意味に取り囲まれて生きている。だが、意味づけには妥当な意味づけとそうでない意味づけがやはりあるのではないか(パースの穏健なプラグマティズムみたいに)。ある人が自分と話すときにだけ目を合わせてくれないとしたら、その人は自分を嫌いかないし特別な事情を抱えていると考えるのは妥当だろう。だけど、筒井康隆著の新潮文庫の背表紙が赤いからと言って彼が共産党員であると断定して攻撃したり共感したりするのは不合理な態度だろう。鉛筆×消しゴムの組み合わせを男女のそれに見立てて、ないしその男女の組み合わせと同種なものとして理解して、それで性的に興奮できる/できないという話はあるが、これは科学的検証のレベルにおいてはまったく確立しえないものだろう。それでも、当然それをわかった上で、彼女(彼)らは鉛筆と消しゴムとのあいだに「存在しない」関係を有効なものとして読み込むことができる。のだろう(どこまで本気なのか個人的にはちょっと疑ってるんだけど)。ようは、妥当でない意味づけをどれほど受け入れる準備があるか、という話なのだと思う。血液型占いを信じるかどうかもそうだが。その意味づけが客観的に見て妥当でなかったり弱かったりしても、それを自分の感情に影響する限りで利用する、そうした態度を自らに許すか。そう考えると、「受け入れる」といってもそれを他者に強制するいきおいで信ずる、全面的な受け入れでないことになる。翻れば、妥当でない意味づけを全面的に拒否する態度は、真理に対する倫理的潔癖にすぎない、ということか。


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