ろぐ!

2010.11.30 他者把握は結局のところ概念でしかないのか?(2010.11.21〜)

 ここ数箇月くらい、ときおり周りの音に耳をすます、ということを習慣にしている。それは『脳が冴える15の習慣』(築山節、生活人新書、2006)でそれが脳の健康にいいと言われていたのを参考にしたのもあるし、また『参禅入門』(大森曹玄、講談社学術文庫、1986)での示唆にもよる。坐禅中、「無になる」というが、それは感覚を全くシャットアウトしてしまうという意味ではない。それよりも、聞こえるものは聞こえるままに受け入れて、ただそれにこだわらないことが大事だ、というようなことが書かれている(……のだと思う)。あと『正法眼蔵』のごく一部を読んで考えたことや(「身心脱落」とは何か?)、それについて聞いたことからの影響も強い。というか時系列で言えばこれが一番先だ。

 耳をすまし、感覚を研ぎ澄ますことは、世界をより豊かに捉える助けになるかもしれない。鳥の声、車の過ぎる音、その位置の推移、外気の音、他人の足音、などは、ふだん気に留めずに暮らしているものだ。社会的生活の効率のために、無意識に消去されている要素が、事実がある。聴覚ではないが、手に触れる風は、この星が空気に満たされていることを教えてくれる。僕は耳をすまし、聞きうるすべての音に意識を向けることで、ルーチンな日常生活の枠組みに取りこぼされた世界の断片、そのてがかりを集めようとする。そうして、世界についてより多くのことを知ろうとする。いや、むしろ、それによって世界を端的に把握しようと試みる。

 しかし、ある目的に向けて特定の方法を駆使することで、その限界も見えてくる。耳をすますことで聞こえてくるものもあるが、それよりも、聞くことのできない音のほうが圧倒的に多い。あっけらかんと記述してしまえば、聞くことのできる音は、 (1) 近くで起こっていて (2) あるていど大きな音、に限る。その条件にあわない音は、ことごとく観測から外れてしまう。障害物や周波数の関係とかもあるがそこまで考えなくとも私たちが聞くことのできる音の数はかなり限定されている。せいぜい半径数十メートル離れた世界さえ、ここにいて明確に知ることは難しい。

 僕は、すれ違う人の息をしていることを聞こうとしてみる。他者を知る、ということへの少しの疑念と、期待を込めながら。かれの呼吸の音は耳には入ってこない。すこし遠くをジョギングしている女性の息遣いを想像してみる。眼で見えているから、それによって〈どんな感じがするか〉想像はできても、それを実際に感ずるということはできない。近くに寄らなければ、それも肌が触れ合いそうなくらい近くでなければ。

 小さな音は聞くことができない。大きな音でも、それが遠くで起こっていれば僕にはないのと同じだ。感覚することは存在を教えてくれる。存在者は、音を起こすことでその存在を教える。今もどこかで暮らしているはずのあの人の存在を僕はどうやって感じることができるだろう。無理なことではないか。彼女の存在を僕は知ることができない。これは、すごく由々しき問題だと思う。ほんと、バカらしいと思うかもしれないし、自分自身このような記述をみると「ポーズだろ」と思ってしまう。それは当たり前のことを当たり前に言っているだけであり、そこに個人的感慨や文学性ないしポピュラー音楽的要素を織り交ぜたところで事実認識にはなんの貢献もない。でも改めて認識しなければならない。他者の存在を感ずる、あるいは端的に他者の存在を知る、ということは……。

 とにかく何らかの情報がなければならない。今、急に弱気になった。他者を知るということは、言語的な情報の次元ではない、とか言おうと思った。確かに、「○○は存在する」という言明を読んでその人の存在を知る、というのはひどく、何ていうか低レベルな話で、そんなことで存在が保証されるものではない。それが信頼できる情報筋からの伝達であったとしても、存在の証、とするには心許ないと思う。とにかく、その人から発せられた情報でないといけない。裏を言えば、その人から発せられたとわかる情報、その人に密着した、その人性を湛えている情報ならなんでもいい。メールの文面とかでも。で、今、そんな情報さえ途絶えて数年が経っている今、僕の中で彼女の存在はずいぶん希薄化してしまった。もはや彼女は概念というまで薄められてしまったかもしれない。それは、リアルな他者とはまったく質を異にするもので、ときどき寄っ掛かったり考えの取っ掛かりにする道具、でしかなくなってしまったのかもしれない。


2010.11.24 植物だって生きてるんだ

 昨日、駅まで歩いていて思ったのだが、花ってやつはなかなかグロテスクだ。まずは形状がグロテスクで、それは花がアレの隠喩としてしばしば使われることを思い起こせばさほど驚くべきこととは思われないんだけども、輪郭がなんか奇怪に曲がりくねっていて、触手的にいくつもの花びらが出ていて、といったところが視覚的にグロテスク。形態的にもそうで、花は生殖の道具であるわけで、もはやその意図自体がグロテスク感を喚起する。生殖はグロい。必ずしも嫌悪感をもよおすわけではないけれども、しかしそこにドロドロとした根源的な生きんとする意志みたいのを感じられて(ショーペンハウアー読みたいな)、ああ、植物もまた生物なんだなあ、と知識としては当たり前すぎることを実感する。そう思ってみると花でなくとも植物一般はおしなべて生きようとしているわけで、そこに意志を感じようとしてみると、つまり植物は“生きてる”んだ、と意識してみると、かれらを単に鑑賞物として扱うわけにはいかなくなってくる。

 そういうのが「美しいもの」としてしばしば被写体にされるとき、そいつは花の何をみているのか。観測上での静かさか。色彩か。幾何学性か。植物の形態が数学的な構造をもっているというのは聞いたことがある。とはいえ彼らは「生きている」というのが決定的に大きい。すると、幾何学性そのものである、イデア的な、意志のない、純粋な鑑賞対象としての数学は、すると、やはり美的観照には最も適当な題材なんではないか、とも言えるんじゃないか。(いや、数学には数学者のドロドロとした意志が働いてる、という人もいるかもしれないけど)


2010.11.17 「本当の自分」

 夜、白いライトの効果で空が黒くなった頃。川原で犬を散歩しているおばさんが、石段に腰かけて今を過ごしあっている女子中学生(高校生か?)二人組に話しかける。犬を見て、すぐさま「かわいいー」口走るとともに興味を表明する一人。彼女がほんとうに犬に心惹かれているのかは知らない。犬に興味がなくても、自然にコミュニケーションの一様式として、ほとんど無意識にこのようにふるまっているのだと思う。僕にはそういうことはできない。より詳しく言い直せば、僕は自然にそういうことをする身体をもっていない。とっさに思いつきはするが、「そういうガラじゃないだろう」とかいう思いが頭をよぎって、無媒介的な行動をせき止める。「判断」をしてしまう。

 「そういうガラじゃない」という表現は、それが本来の自分じゃないとか、本当の自分じゃないという思いに基づいている。かつ、本当の自分でないようなふるまいを僕はしたくない、すべきでないと考えている。ここでは、今後、僕がより迷いなくふるまえるために、次の 2 点を考察しておきたい。 (1) 「本当の自分」は存在するか。 (2) 「本当の自分」はどのような倫理的意義をもつか。

 「本当の○○」一般に言えることだが、その存在はいつも疑わしい。相対主義的・唯名論的な態度がおそらく支配的な現代において、「本当の上着」とか「本当の天気予報」とか「本当の駅」とかいった存在者をふつうの人は認めない。一方で、「本当の愛」とか「本当の私」というのはある気もする。でもまさか(!)「本当の愛」なる実体がどこかに存在するとは思わないだろう。むしろそれは実体というより概念なんであって、イデアはイデアでも私たちがその実現に向けて努力していくべき理想 (idea) だというのが穏当だ。穏当だから正しいわけじゃないけどね。ともかく同様に、本当の私、とやらも――ほんとベーシックな話からはじめちゃったなあと思うんだけど――“理想”であると考える。つまり「本当の私」は概念である、とする。

 じゃあ、「本当の私」は、 (1a) なぜ、 (1b) どのようなものとして あるのか。さしあたってその形成過程を想像してみれば一応の納得は得られるだろう。とはいえ本当の私なる概念がなぜできたのか、僕はいい心当たりがない。人権思想とかアイデンティティとかそのへんの西洋から来たつまり個人主義の影響なんだろうか――どっかで読んだ気がするけどそのレベルであって自分の考えに組み込めるほどではない。んー、でも、アイデンティティはそうかもしれない。アイデンティティがないというとき、そのつどそのつど違った自分を演じる、ということが起こる。演じるといっても帰るべきモトがないんだから、つぎつぎと変態を繰り返す、といったものだ。それは「本当の自分」という仮象を脱ぎ捨てて軽やかに生きることだ。本当の自分、という表現は、自分のアイデンティティ、ということを含む。むしろこの二つをイコールで結んでしまってもいいかもしれない(当面はそうすることにする)。自分のアイデンティティは、まずは他者が自分を同定するときに参照する?ものである。「さっきの行動は○○らしくない」などと言われるとき、発話者は先の行動内容と行動者のアイデンティティを突き合わせてこの判断を下した、と説明できる。話はそれるが、そのとき、たぶん、発話者は言及先の人にいつも「その人らしくある」ことを要求してもいるんだろう。ものの考え方行動基準がころころ変わる人はめんどくさいから。

 他者が自分を同定するときに参照するアイデンティティは、他者のもっている自分の概念、観測された言動行動の抽象だといえる(もちろんここには恣意的解釈も含まれている)。自分がだいたいどういうふるまいをするのかを捉えたおおまかなパターンだといえる。アイデンティティは、まずは他者の持ち物だ。では自分のなかの自分のアイデンティティはどうか。むしろアイデンティティというとき、それはまず自分が自分をどう思ってるかという方向に思いは向かうのではないか。だが、おそらく自分のアイデンティティをことさら気にするとき、それは他者との関係においてなのではないかと思う。たとえばマイナーめの邦楽を好むことを自らのアイデンティティとする高校生を考えてみる。かれは何ゆえにそんなことをしなければならないのか。おおざっぱな言い方になるが、他者に対して、他者ときっちり区別された自己を確立するためだと思う。んー、まあ、もちろん自分のことなんですが。いや、もちろんマイナーめの邦楽それ自体が面白いというのも、ある。あるけれど、やはり自分はそういうものに固着し、視野をむしろ狭めようとしていたところが確かにあった。

 なんで自己を確立したくなるのかはよくわからない。高校の倫理の時間でなにかを聞いたような気もするけど、その程度の薄い知識しかない。だけどもとにかく、高校生くらいの時分の僕は或る意味での自分の「キャラ」を立てることに、自分なりに心を砕いていた気がする(その成果を表明する機会はほとんどなかったけれど)。そして、そんな経験は誰にでもあることと思う――と、あまりに乱暴な一般化をほどこして、とりあえずここの部分は済んだことにする。ともかく、アイデンティティってのはもっぱら他者との関係のなか・特定の狭さをもった社会のなかで生じ、鍛えられてきたものであって、純粋に自分に内属するものではない、ということを言いたい。さて、アイデンティティすなわち(完全にイコールかは分からないが)「本当の自分」が、自分だけが所有して眺めることのできる代物ではない、むしろ自分にかかわる人たちの評価にさらされ、つねに変容しつづけるものであるならば。

 ……ならば、「他人に迷惑をかけない限り何をしてもいい」という倫理学におけるおそらく最も基本的なテーゼに従う形になるだろう――というアカデミック好きの戯言は気まぐれで書いてみただけ(知識もないし)なので読み流していただいて、つまり「本当の自分」というのは自分の属している世間のなかでかりそめに成立している既成事実であるからして、その世間で成立している私のアイデンティティを大幅に書き換えないかぎりでの「逸脱行為」は許されるだろう、と思われる。より詳しく言えば、共通に成立している「らしさ」を大きく逸脱しないならば誰も困らないし、大きく逸脱するにせよそれが一時的なものであったり、納得できる理由がつけられたりすれば問題ないし、その「世間」の外にあるならばそもそも自分らしさなど気にする必然性もない。ということ。アイデンティティがころころ変わると困るのは、繰り返せば、その人を把握するのに面倒だから、ってとこだと思う。パターンに当てはまらない人に対応するのは神経使うしね。さて言い換えれば、自分のアイデンティティが変わることで起こる「被害」は、それでもせいぜいこんなものなのだから、この面から考えるかぎり、あまり「変わる」ことを恐れる必要はないように思う。とはいえ言うほど簡単ではない、ってのは分かっていて、うーんなんだろう、やっぱり心理的障壁なのか。あと惰性。


2010.11.9 一方通行的な環境をそのままにするのも何なのでというか反応があるなら僕はそれが欲しいので、メールフォームを設置しました。ページの下のとこから行けます。質問感想要望ヒマだ等ありましたら極力気軽にどうぞ。


2010.11.7 ドッペルゲンゲル藍の染布

 おやらっす。更新をせずに暮らしていたら二箇月分のログを整理していない状態でその、時が過ぎてしまいました。特に反省するとかではないですが更新してなかったなあ、と、思うわけであります。すいません、少しふざけてます。いや昔の自分はもおっともっとふざけていたけれど、誠実であることがなんの役に立つのか、とか先ず考えてしまうような気質を僕は手に入れました。倫理はわれわれの暫定的な相互了解でしかない。と言いきるほど僕は考え抜いたわけではない。……というふうに言うくらいには、でも、まだ「誠実」に価値を認めているのかもしれない。深く適切に考え抜くこと、それは僕のなかで美徳であったりするのだと思う。自分がそういう生活に身を置いているから、自分が「考える」という営みの当事者であるから……かな。翻って文章のなかで誠実であること、この文章のうえのほうで言った「誠実」は、つまり「ふざけてる」の補集合として想定されてるのであって、考えることその営みには関係しない。ふざけるっていうのは戯れで、書き手受け手のもつ情緒にかかわってくる。内容の適切さには、ひとまず関係ないといっていいと思う。で。

 蛇足に似た前置きと題されたまったく関係のない文章のあと、今年の十月二十日に書いた文章にコメントを加える作業をしたい。それは自分で書いたことがきちんと煮詰められていないと感じるからだし、そのことが――わりと――我慢ならないことでもある、んー、まあ、ちいと好ましくないかなあと思われるから、だ。真理への情熱みたいなもんはない。ただ、ものごとを途中で投げ出すのはなんとなく居心地がわるい。さて、以下。

 書かれたものは、それがひとつ確定されてしまうのがやっかいだ。それは断言調であれば、確定の度合は強まる。しかも、断言調で書かれた内容はひとつの真理を示してしまう。「テキストサイトは一つのパーソナリティだ」というとき、そして論証や自己懐疑ぬきにそれが提示されるとき、「まあ、それもそうだよね」という反応を引き起こしてしまう。少なくとも僕のような者は、そういう受け入れ方をする。文系の学問とか評論って多かれ少なかれそういう性格をもっていると思うけれども、しかし結論だけが受け入れられたからといって、われわれはなにを共有したのか、と反省したくなる。一般に自分の言いたいことってのは結論じゃないはずだ。というか、僕は、なにか特定のことが言いたくて文章を書きはじめることがほとんどないので。

 「でも気づいたのは、つまらん人のほうが圧倒的に多い。ぶっちゃけた話だが。自意識の内容だけで勝負できる人などめったにいない。もっとあけすけな言い方をすれば、どこにでもいそうな人の自意識とドストエフスキーの小説だったら、自分はドストエフスキーのほうを選ぶ。そういうシンプルな話だ。」以上引用。まあひどい一節だと思う。粗すぎる。そーいうテンションだったと言えば言えるのだが、ともかくそのままにはしておきたくない。まず。「つまらん人」と言ったが、もちろんその人がつまらんのではない。ただ、 Twitter に投稿される 140 字のうちに自らの個性――というか、それは自分の性格とかではなくて、自分だけが書けるような言語表現――を忍び込ませられる人などそうそういない、そこには特別に強い人間性と、表現技能がいるだろう、ということ。だから日記を書こうと言っているのです。ぼくは日記の capacity を信じているのです。という話。そんなわけで、 Twitter に流れるほとんどの発言に僕は価値を感じてはいない。価値どうこうの話じゃない、というかもしれないが、ものを読むか読まないかは、それに価値を感じるか感じないか、に沿うんじゃないか?(無価値だから価値がある、というようなやつも含めて) その意味で、まあ Twitter 眺めてるヒマあったらドストエフスキーでも読んでるよ、といいました。ドストエフスキー読んだことないけど。なお、インターネットの「今」性について僕はげんざい鈍くなってるので、そこは考慮に入れません。

 「そういうシンプルな話だ。」というのは、ほんとにいかんかったなと思う。シンプルな話じゃないし。シンプルなことを指摘して飯が食えるほど、つまり、誰も気づかなかったことに一人気づくほど、僕は俊鋭じゃないし。いや、シンプルなんですけどね。「 Twitter おもしろくねーよ」っていう(まあでもパソコンつければ Twitter 覗くんですけども……)。そこまでスローガン化すればシンプルな話なんですが、そこだけ共有しても仕方ない、っていうのが僕のいまの立場なので。「この世界には自分だけしかいない」と言うだけなら誰でもできるって話で。単純化によってできるのは議論の入口を拡げることぐらいではないか。それで、そんな文句を段落の〆にもってきたのもなんか最悪だ。サイアクだ。ステレオタイプだから失敗だ。もちろんステレオタイプは使いようだが、このばあい、個人日記の肝である(と自分がいま思っている)差別化とか個別性を獲得できていない。どこにでもある文章になっちまった。いや自分がそんな誰にも書けない文章が書けると思っているのかといえば、いやそんな大それた、と返事してしまいかねないくらいには自信をもっていないのですけれども、でもほんと何処見ても十中八九はこういう文章見かけるぜというレベルは脱したい。脱したいし、しかも、誰でも、完全に(圧倒的に、とは言わずとも)オリジナルな文章を書くことができると信じている。今のところ信念のレベルでしかないですが。

 あとは特別にコメントしておきたい部分は見当たらない。だいたい今の自分の意見や現状把握とみて差支えないです。しかしまあ、個別性とかオリジナルとかかざしてるわりには僕の文章は「……」ですね。急速に一般論が増えてるし。そういうブログって、つまらないじゃんか。一般的な話が聞きたいなら、図書館や書店に足を運んだほうがずっと詳細で深いものが手に入る。本を読めばより深い知識や認識を獲得できるところ、わざわざレベルを落としたものを読みたいとは思わない。特殊性、個別性がなけりゃ公開する意味がないぜ。それにしても、ああ言ってきたが、じゃあ自分しか書けないことってどうすれば書けるんだろう、と、問うてみると、それに適切に答える準備はいまできていないことに気づく。ちょっとヤバいな。


2010.10.27 「付き合う」

 帰りの電車の中、ジュンク堂の袋を抱えた、好みの容姿の女性を見た。いやジュンク堂の袋って、本買ってるってだけで評価上がるのかよとか、去りぎわにちらっと見たら靴があまり好きではなかったとか、あるのだが、そんなことは当然ここで言いたいことには関わらない。

 特定の女性に深く入れ込むこと、すなわち私たちが「恋」とか呼んでるであろうことを、僕は長らく(まあ一、二年間くらいは)していない。生活スタイルや心構え、自分用語で謂う「抗体」のせいもある。機会がないというのもある。さて、この「機会」について、確認しておかねばならない。

 われわれには機会がない。生活を捧げ大事な時間を犠牲にするに値する異性を見つける機会がない。そのような異性と、偶然、空間や時間を共有し、彼女/彼についての情報を得、それをひたすらふくらますに至る、そういうなりゆきは、まあそうそう降ってくるものではない。いわゆる「理想が高い」と形容される人ほどその観測状況は強いだろう。当然のことながら、完全に ideal な人間など、定義からして、いない。少なくともそんな人に出会う確率は、限りなくゼロに近い。

 なにが言いたいかっつうと、自分で能動的に動いていかないと彼女なんてそうそうできるもんじゃねえな、ということを確認したい。あなたが街で見かけて羨ましがったり疎ましがったり微笑ましがったりしてる二人組たちは、かなーり運よくくっついたんじゃないだろうか、と、考えてみよう。顔が整ってるとか面白いことを言うとか要素ナシに、純粋に確率だけで彼らはうまい具合に出会い、好意を抱き、「付き合う」というナゾの契約関係に飛躍したのだ、と想定してみよう。というか、大半のばあい実際そんな具合なんじゃないかと疑っている。

 えっ。嘘だ。いいか。「「付き合う」というナゾの契約関係に飛躍」するっちゅうのはだな、文字通り飛躍なんであって、物理法則に従わない意味不明な現象なのだ。まず、付き合うってのは何か。それには実態がないように見える。こころみに、「付き合う」という言葉あるいは関係の定義、線引きを考えてみよ。何が付き合っていて誰が付き合っていないのか、画定するのは難しい。バクゼンとした把握ならできるが、あまりにもバクゼンとし過ぎていやしないか。相手の家を訪ねたことがなくても、メールアドレスを知らせあっていなくても、付き合ってると言うことはできる。たとえ肉体関係をもっていても、二人きりで街に遊びにいっていても、付き合っていないと言うことができる。

 言いたいのは、「付き合う」というのはかなりの程度“規約”であるだろう、ってことだ。まあ婚姻もそうなのだが。固有名詞と指示対象の結びつきのように(このへんきちんと読んでおきたいな。クリプキとか)。ようするに二人が「付き合ってる」と言うことが付き合ってることなのであり、「付き合ってる」と言わなければ付き合ってることにはならない。で。だから何だ。「付き合う」という語の考察はいい。問題は「付き合う」ということでわれわれが一般に想起する諸事態――デートをする、とか(ああそのくらいしか思いつかねえっ)――がどのように生じるのか、ということだった。つまり、……?

 つまり、本筋からは外れるのだが、僕は付き合うとか結婚するとかそういうことの意義がうまく飲み込めていないのだった。そいつを先に整理しておかないと前に進まない。結婚するというのは、社会的な制度だ。その制度が社会の均衡に貢献する。それは、検証抜きだが、まあ感覚的に納得してもいい、納得しうる。付き合うというのはその準備段階といえる。試用期間と考えられる。もちろんそれだけではないが、由来としてはそんな感じに納得できる。結婚は社会の政治的意図による制度。付き合うのはこれを円滑に実施するために発明された非公式の制度。

 さて、こうして付き合うということが人為的な業であって、必然性にしたがって(物理法則的なやりかたで)導かれるものでない以上、ほっといて誰かと付き合うことになろうと期待するのは激しく的外れといえる。「好き」と「付き合う」とのあいだには断絶がある(つまり、好きならそれでデートとかするのに充分なのであって、ことさら「付き合う」という空虚な付帯状況を織り込む必要はない)。区役所に出向いて手続きをするように、自分から契約を結びにいかなければ、「付き合う」という事態は生まれない。恋が恋愛に発展する(自分用語――つまり、片想いが「付き合う」へと発展する)というのは、イメージされるほど神秘的でロマンティックな「自然現象」ではない。

 すると、では、さきほど言った「カップルどもは偶然に確率的に結びついているのではないか」というのは嘘になるだろう。だが一定の条件のもとではこれもまた言える。彼らは格別の努力なしに、自然に「付き合う」という要素を感覚的に理解し、あるいは疑いなく受け入れ、適切にふるまっている。いや、この解釈は先の発言のもともとのニュアンスとは違うけれど、もとの想定がどうみてもおかしいので結論としてはOK。さてゆるやかにまとめに入ると、その一方で、僕のような者は、「付き合う」ということの正しい(と、今のとこ思われる)理解を体得するのに失敗した。結果、恋と恋愛にかんするロマンティックな見方をとってしまい、そこで口を開けて待ち続けていたというわけだ。いや、別に、それは今気づいたことではないけれど、もう一度確認しておきたくなったのだ。


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