2010年10月のログだよ

2010.10.24 世界観のはなし

 「軽薄なやつばかりだ!」と言っている当の自分がどのていど「軽薄」から免れているのか、反省することはあまり多くない。……というとき、僕は読者――つまり、単に、これを読んでいる人――におもねっていることになるのだろうか。僕もでもその社会の一員ですよ、このように言ってみたからって急に態度変えて僕を“世界の外”に追いやらないでくださいね仲良くしてくださいね、と、後ろ盾つきの、居場所を確保しつつの、戦闘的でない発言を僕はしていることになるのだろうか。なる。僕は、「軽薄なやつばかりだ!」と言い放つことで僕の“一応”味方でいてくれるあなたたちに嫌われたくはない。ストレートにものを言うよりも、「仲間」を確保することのほうが大事だ。また、自分がそれを言うに能うかどうか、というためらいもある。それは倫理的なためらいだ。しかし、資格なんてものはなんの意味があるんだ? 僕はさいきん、自分のブログのコメント欄で、倫理はアプリオリでないとか倫理的な資格はまやかしだとか言った。つまり、倫理とか道徳とかいったものは、人間社会ができてから考えられた構成物だ、っていう常識的な主張だ。常識的だと思う。倫理は論理的なトートロジーではない。まあ、そんなことだ。そういうことだ。と、言って、どのくらいの人が納得してくれるかは心許ない。さっき、自分の書いた、それもけっこう時間かけて、何度も推敲して、書き上げた文章を読んだ。今見ると、きちんと納得いくまで表現を練り上げた――いや、語彙が足らんので大げさな言い方になってしまうのだが――と思っていたのが、やはり最も中心の「こころ」を伝えそこねているな、と気づいて悔やんだ。「効果的に伝える技術」のような本を、いよいよ読まなきゃな、という感が戻ってきた。「読まなきゃ」ということについてはいろいろ語れるが、まあ面白くないだろうからやめる。

 続きは今度考えるか。ほんとか。


2010.10.20 ウェブ活動がアートだったころ

 短期バイトからの帰り道、往年のテキストサイト「スヰス」のことを思い出していた(サイトはもうないので、アドレスはここには貼りません)。僕はリアルタイムで見ていたわけではないが、スヰスは、多くの人にとってとりわけ印象深いサイトだったと思う。どこが、というのはここでは追究しない。ともかく佇まいからして違っていた。今日は、この「佇まい」ということについて書こうと思う。

 僕は折にふれて「テキストサイトに戻るべきだ」とか「日記書こうぜ」とか言ってきた。より端的に言えばこうだ。 Twitter の 140 字では表現し切れないものがある。しかもそれは(僕の直感でいえば)大事なものだ。それは或る程度の長さをもった文章のなかにしか表出しない。ブログでも役者不足かもしれない。できるだけ自由な形式(というと矛盾しかけているが)に泳ぐことで見えてくる形がある。それを具体的に実現している(いた)のは、「古き良き」(と、鉤付きで言うわけで、警戒しつつ読んでいただきたいと思います)テキストサイトだ――と。すいません今見直したら括弧が多すぎますね。すいません。

 Twitter において見えてこないのは、その書き手の「佇まい」なのではないかと思う。……いや、より正確に言葉にすれば、テキストサイト(ないし日記サイト)に固有のものは、その“サイトの”佇まいだった。サイトがそれを作る人をどれほど精確に描写しているのか、それには心許ないものがある。しかし、少なくともこうは言える。サイトは、それ自身がひとつのパーソナリティであるかのように(あるいは、パーソナリティそのものとして)機能していたのだ、と。

 日記が載るトップページのほか、アバウト、ログ、リンクがあるのがテキストサイトの一般的な形式だった。つまりこう言いたいと思う。日記・アバウト・ログ・リンク、これらが一体となってそのサイトの佇まいを形成していた。それは有機体のイメージをもたせる。また、こうも言いたい(さっきから変な語りかたですいません、しばらく文章書いてない&ドイツ語の訳読を日常的にしているせいだろう)。日記とて、表現の一形式ではないのだと。日記にすべてが詰まっている、日記のうちにすべては表現される、そう思ってはならない。アバウトでなければ書けないことがある。ログのうちにしか知られないことがある。リンクの中でだけ告白される秘密がある。さすがに気取りすぎだ。でもだいたいそんなことだ。

 翻って、 Twitter 。――それにしても僕は Twitter のことを悪く言ってばかりだ。自分でも典型的なドグマティックな懐古主義者みたいで、大丈夫かって思う。……いや、ホント、大丈夫かって思う。もちろん Twitter にいいところもある。それは些細なものではない。とはいえ、僕にはそのマイナス面がよりよく見えてしまうんだな。なじめてないだけ、って面は、確実にあると思う。―― Twitter では、作者(といっていいかどうかさえあやしい)の自意識が垂れ流されるだけだ。基本的にそうだ。再三言うが、僕は自意識が覗きたいのではない。……というとき、抵抗を覚える。僕は自意識が好きだったはずだ。自分語りを推奨していたはずだ。でも気づいたのは、つまらん人のほうが圧倒的に多い。ぶっちゃけた話だが。自意識の内容だけで勝負できる人などめったにいない。もっとあけすけな言い方をすれば、どこにでもいそうな人の自意識とドストエフスキーの小説だったら、自分はドストエフスキーのほうを選ぶ。そういうシンプルな話だ。

 他人のプライベートに興味がなくなったのかもしれない。というか、「もういいや」という気分が強い。だいたいみんな同じようなこと考えてるのは分かった。相も変わらず似たような生活しているのがわかった。新しい情報にしか興味がもてなくなったのかもしれない。しかも本質的に――いや、もちろん自分で書いてて恥ずかしいのだが――新しい情報。日常は繰り返すなんて、自分の生活で充分わかっている。「おもしろい」ということに関して感受性が鈍っている。退屈な日常の繰り返しに耐えられない。それこそが生活だとは考えていない。どれもこれも再生産で無価値に見える。これは価値の話じゃない、という声がする。いや、でも、僕はもうネットに流れているものを情報としか捉えていないのかもしれない。情報をはかるものさしは価値だ。新しさだ。ネットの向こうにいるであろう、リアルではなかなか会えないだろう人に思いを馳せるのは、もうしないのか?

 下のふたつの段落(と、これ)は、その前の部分と書いた日がずれている。そんな事情でなんか趣旨が変わってしまった。強引にまとめると、テキストサイトは自らをパーソナリティとしてふるまうことで、ひとつの広義のアートとしてあった、と思う。だが Twitter はその形式により情報を発信する側面しかもたない。アートとしては低級だ。そんなことだ。哲学科に入っておかしくなっちゃったのかと思われそうな断言迷言ぶりだが、率直な直感を書かせてもらえばそんなところ。ぜんぜん説明足りてないし間違ってるところもあるはずなので、折をみて言葉を重ねていきたいと思う。そのためにはあとで読み返さねば。転機としては、やっぱりリアルの対人コミュニケーションがなんとか少しずつでもできるようになってきた、ってのがあるか。つまりリアルのコミュニケーションのほうが豊かじゃん、みたいな。脱童貞みたいなものなのか。


2010.10.11 お酒と理性。/あるあるネタ。

 土曜、部活関係で飲み。二十三時台、帰り、電車の中、駅に停まるか停まらないかという頃、視野の左下端でおもむろに「っぷ」という音とともに口をおさえ、その実つまり嘔吐を我慢しながら――少しだけ漏らしながら、電車を降りていった三十歳くらいのおねえさんを見た。他の乗客 A, B, ..., F くらいまでと一緒に降りたあと、ホームでぜんぶ吐いていた。のを見た。電車が出るときに隣の乗客も見ていた。電車の床に点々とわずかな吐瀉の跡。無表情でメールを打ちながら目線だけをちらりちらりと動かしていた自分。なんでゲロって少し赤いんでしょうねえ、という疑問も話題にしたいところだが、僕が(みんなの)注意を促したいのは、こう小奇麗な装いをして、おそらく社会ではそれなりに洗練されたふるまいをしているであろう人であっても酒飲みすぎて駅でゲロ吐いたりしてるんだから、人間の理性ってそんなに信頼できるもんでもないだろう、ってことだ。人間(んー)、けっこうかんたんに気持悪くなるまで飲んじゃうもので、自制心ってそこまで万能なものじゃないだろう、われわれの理性は遠くまでクリアに見通せてはいないだろう、ということだ。まあ理性をにぶらせ自制心をマヒさせてしまう酒が怖いといえばそれも有意義な教訓なんだろうけど、理性に頼りすぎてる人、理性に期待しすぎてる人もけっこう見えるように思う。まあ僕が特別に聡くない人間だってのもあるんですがー。

 †

 最近、「あるある」というものに関心を覚えている。ツイッター(俺の世間はツイッターしかないのか?)でつぶやかれてりうネタも、「あるある」に分けられるものは多い。笑いを誘う言葉は、乱暴には「あるある」か「ねーよ」のどちらかの反応を引き起こす、と分けられるかな? と思う。「ねーよ」を引き起こす言葉は、現実から、あるいはわれわれの常識から外れた不条理な事柄の表現だ。それがなぜ笑いを誘うのかはよくわからないが、しかし不条理なことが「おかしい」のはよく納得できる。理解できないことには笑うしかない、ってとこだろーか。翻って「あるある」の言葉が笑いを誘うのはそれ自体不条理なことにも見える。だって、それは「ある」のだから、ちっともおかしいことなどないのだ。ちょっと考えてみよう。

 「あるある」で笑いを意図するとき、多くは発話者もそれを笑いながら言う。あるいは親しげに、語りかけるように。「あるある」は共感を誘う。聞き手による理解を要請する。二人は共感する。それが「あるある」が「あるある」として成り立つ前提といえる。あるあるにはコミュニケーション、意思疎通、共感、共有、といったものが含まれているだろう。他方で「ねーよ」にあるのは他者との断絶だ……とまで言うと概念で不用意に広げすぎになるんだけど。話を戻せば、あるあるには笑いだけでなく?、他者とわかりあうこと、というそれ自体別の価値が含まれている。わけのわからないあるあるネタ、というのを適切に想像できるだろうか。

 でも、あるあるで何が面白くて笑ってるのかは分からない。そもそも僕はなぜ人が笑うのか知らない。まあでもちょっと書いておくよ。共感があるにもかかわらず笑いが生じない表現もある。短歌とか俳句は、一つには、ある特定の感覚を運んで伝える手段であると思う。短歌とか俳句を読んで「わかる」というのは、作者が何を見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりしてどのように感じたのか、そしてそれをどう意図していま眼前にされているように表現したのか、を正しく理解したと自覚することだと思う(この分野に関しては素人以前なので、的外れなことを言っているかもしれない)。でも、多くの場合そこには笑いは生じない。すると、「ある」こと自体が面白いのではないはずだ。共感が必ず笑いを呼ぶわけではない。一方が短歌を詠んで、それをもう一方がうんうんと理解して、二人でニヤニヤする……そういうのは標準的ではない。だが、全くないわけでもない。そういう場面はありうる。もしかすると、けっこうある、ようにも思える。

 たとえば、電車の中でイヤホンから音楽が漏れてる人がいるよね、という話を自分がする。聞き手は、ああそうだね、と相槌を打つ。場合によっては、あれ迷惑だよね、とか、 iPod に付属してるイヤホンが悪いんだよね、とか付けたすかもしれない。あるいは、笑いながら相槌を打って理解とともに賛同を示すかもしれない。……あるあるの笑いは、この最後の例に当て嵌まるのかもしれない。それは可笑しみから生じる(たとえば)処理不能のサインというより、話している二人が分かりあっていることを強調する微笑みであって、あるあるの笑いはコミュニケーションの一形式と言えるかもしれない。しかし、すると、私たちはテレビの向こうの芸人とコミュニケートしていることになるのだろうか。転移、といちおう説明することはできるけれども。……いや、あれは事例自体が「可笑しい」のか。


戻るじょい