2010年9月のログです

2010.9.26 京野休日

 10 時頃起床、朝食、ぐだぐだ。昼食前にドイツ語の予習をするが身が入らず。「人間、作業をやり始めるとそれが終わるまで中断したくなくなる」ということをちらっと読んだんだが、そんな気配がない。これは作業の種類にもよるか。『「朝がつらい」がなくなる本』を第 2 章までばらーっと読む。ところどころ飛ばしながら。これこれこういう習慣を続ければ状況が改善されますよ、ということが書いてあるのだが、そのだいたいが生活に組み込もうという気にならない。無理なことが書いてあるのではないが、睡眠のためだけに何かをするってのはあんまり。もっと原理的なところの知識が欲しいのかもしれない(この本でも「生活のリズム」というのは唱えられてるけど)。昼食後、ぐだぐだ途中に思いついて近所のブックオフ( 2 つある)へ。ひさしぶりに自転車。でも思い描いたほど爽快ではなく、淡々と車体を進めた。半分はむしろ自転車に乗るために外出したので、本や CD はピンポイントに見て帰った。講談社学術文庫があまりに少ないのに面食らった(ああいうのは大学図書館にはいっぱい置いてあるので)。 CD は 2, 3 望ましいものが見つかったがなんか CD 買いたい感じではなかったのでやめ。お金の余裕もあまりないし、中身の保証もないし。ツタヤで借りるのが定着しつつあるな。途中、地味な場所にある東急ストアに入り、飲み物を軽く物色。不二家のチョコレートドリンク(これか:http://www.fujiya-peko.co.jp/sweets/item/20854.html)を見出すが、「帰りに買おう」という愚断を下してしまい、ついに忘れたまま帰宅する結果に。また、ミニストップ(優良店)で紙パックのチェルシーバタースカッチ(明治製菓,サイトざっと探してみたがページ見つからん)を買って飲む。良好。おかしをドリンクにするのは工法としては簡単なんだろうか。もう一つのブックオフもてきとーに散策。哲学の仕切り内を見てげんなりする。人生論と混同されてるぅ。あと何故か論理学と現象学が一緒くたにされている。こういうのは仕方ないっちゃーないんだが。前回見た『形式論理学―その展望と限界』がなくなってたので、まさか売れたのか、あるいは隠されたのか。階段の手すりに触れたら静電気が走って「まさか」と思った。今年から静電気は年中警戒してるのだが。まさか本当に走るとは。静電気について僕が言いたいのは、みなが静電気を避けようとするあまりどんどん溜まっていくのですよ。電気が。だから電気を通しそうなものはみんなで積極的に触れてほしいと思います……。電気を定期的に逃がしていくことが必要なのですよ……。帰りに、近所では充実してるほうの新刊書店に寄る。やっぱブックオフの空気(雰囲気もまあそうなんだけど、匂いとかが)って苦手だなと思う。『位相のこころ』(および森毅という著者)、『夜露死苦現代詩』、『とりあえず分かる!世界の紛争地図』(以上、ちくま学芸文庫)、『世界の心理学50の名著』をチェック。以下帰宅、パソコンつけてこの文章書きました。あとはドイツ語を終わらせるのと部活に出す文章の草稿を書くよてい。あと本を読みたい。


2010.9.25 置いとかなあかんと思ってリンク集を急ごしらえで作って置きました。なにかしら追加していきたい。ここしばらく私のウェブ活動は縮小気味ですが、まったくつながらないってのもね、と。今、コップに入れてしばらく経っていた水を口に入れたらひんやりと冷たかったのでもう冬ですね。


2010.9.23 解析された当サイトへのアクセスにおける一つの不審について

 秋分の日、学校があると思って起床後に携帯で確認したら授業なかったので思いがけず充実した休日を過ごすことができた私です、楡です。朝があるとないとでは違う、やっぱり違う。さて何があって本日は筆をとったかといえば、単刀直入に言いますればここのはてなブックマークページ http://b.hatena.ne.jp/entry/that.bufsiz.jp/ からここを訪れている人が数日数回にわたって確認されたのですがこれ一体何でしょうか? という姿の見えない相手とのコミュニケーションの試みです。ってか上掲ページの本文プレビュー欄が浪人生時代のまま動いていないんですが。みっともないんですがなんとかならんのでしょうか。改めて調べてみようとしないていどには気にしてないんですが。

 この話をするにあたって触れずにはおれない点があって、つまりあなたのブラウザ本欄右上に表示されてるアレ、いわゆるアクセス解析の障子に目のことなのですけども、これ取り付けたとき読者諸氏に断ってなかったのでいま追い断りということになりますが、すいません。これ、邪魔だと思います。アクセスするたびじぶんの足跡が顔も知らぬ相手の手許に保存されていくのは快適ならぬことだと推測します。自分が、わりと、そうなので。でも自分のサイトにどんなところからどんな人が(ホスト名とかブラウザとかだけだとしても)訪れているのか知りたいし、邪魔といっても苦痛でページを直視しておれんほどじゃなかろうし、僕は見られる側じゃなくて見る側だから他者の痛みを感じられないと言い聞かせ、どうやら右上の手裏剣バナーは生きながらえております。

 で、上記のことをまだ言ってなかったことをも忘れつつあった折、件の複数アクセス目撃を重ねていたわけです。でまあ本田い(何度打っても「本題」と変換されない!!)なのですが、結局これはどういうことなのでしょうか。ブックマーク数、増えたようには見えないし。あるいは何らかの異状を訴えているのか。異状も見当たりませんし(もしほんとに何かあったら Twitter かはてな経由で教えてください)、単なるアクセス経由でメッセージを伝えようとするロマンチックな行いなど21世紀にあるのかしら……。そうこう書いていたら「単になんらかの理由でここが入口になってるだけではないのか」という常識的な答えの可能性が濃厚となってきたわけですが、でもわざわざブックマークページが入口になるってのは状況として考えづらいので、よければ、これ、どういうことなのか教えてください。すいません。こんなことで数百字も費やしてしまって(もしかして 1,000 字超えてる?)。以上です。


2010.9.19 日記とその人の生活

 日記を書きたい。日記で生きるしかない。こう思う。自分はもちろん、「誰もが」日記で生きるべきだと思うし、テキストサイトの時代に戻るべきだとも思うが、そこまで言うと単なる懐古趣味と区別がつかなくなってしまうので断言は控える。テキストサイトに戻るのは、まあ、それはそれで息苦しいのかもしれないし。しかし僕は、私は日記で生きる。私というのもアレだな、しっくりこないな。恥ずかしい言いかたをしてしまえば世界で一人しかいない、というより周囲の「人間」とは絶対的に異なる自分、というのを表すのに一般名詞を用いるのには欺瞞を感じる。永井均に倣って〈私〉と表記すればいいのか(Wikipedia参照)? でもこれも一般名詞だ(しかも理論語!)。つまり概念だ。この、私は概念じゃないのですよ。というわけで暫定的に自分、自我、〈私〉、つまりこの日記を書いてる楡と名乗る男を、自分では「朴」と呼ぶことにする。このアイデアは一年以上前に思いついたもの。というかそれなら自分の名前をそのまま名乗ってもいいのか。でも文体を意識して、「朴」。

 で日記が書きたい話に戻るのですが。日記は思念というより情念、情念というより情緒、情緒というより思考を写しとるような形式だ。いや自分でも何言ってるのかわからない、というかいいかげんに書きました。すいません。あらため、日記は自意識を書きつける紙であったり、事実を彫りこむ板であったり、その実いや自分でも何を言っているのかわからない、というか要するに僕は日記がなんであるかはその究極においてわかっていないという話なのですが。尚この「僕」は他者との関係においてふるまう自分であったりするのですが、いえ、細かい話ですね。つまり日記には自意識と事実と内省と他者との関係性とが密接に同居している濃密な芸術いわゆる広い意味でのアートであったりすると僕は思っているんですが、まあよくわかんないっすね。 Twitter には達人が少ないからみんな記号的な言葉でしゃべってるんじゃないでしょうか。

 しかし日記を書くためには、そこに今度は狭い意味での生活がなくてはならなくて、今の自分には「生活」があるだろうかと反省してみるとなかなかすんなりとうなずける問いかけではなくて、だいたい学校行って勉強して帰ってきてという軸の中に強烈な自意識とか、深い内省とか、相変わらず繰り返される動揺とか想うばかりで届かない願いとかがなくて、僕のいわゆる実存的な深みがないなぁーと、こう振り返ってみると、思う。それは悪い状況ではない。或る程度は快適だと言える過ごしかたができている。でも、きっと、それは最良の現状ではないのではないか。「あのころ」に戻りたいわけではない。あれはあれで自分なりに辛かったし、単にセンチメンタルを感じたりしたいわけではないのだ。今の水準を維持(ないし向上)したうえで、僕が実存的と言っているなにかを奪回する道があるように思う。しかし、その「なにか」がいまひとつ見えない。何が欠けているのだろうか。

 日記を書くために「最良の現状」を獲得したいわけではない。それはそれ自身で求めるべきものだ。しかし、その人がどういう日記を書いているかは、その人がどういう生活をしているかをよく映しているのではないか。


2010.9.13 リアルの知り合いをネットの私に案内すること (2010.8.3)

 ネットで先に知り合った人とリアルで会うことにはあまり抵抗を感じないのに、逆にリアルでの知人にネットでの活動を見られる(具体的には日記のアドレスや Twitter のアカウントを教える)のは抵抗あるのはなぜか。

 僕にとって(そしておそらく大多数の人にとって)ネットのほうが“本人格”だ。遠慮なく本心を出せるのがネットだ。リアルでは自らの言動が直接に他者とかかわってくるので、気を使って発言しなければならない。ネットでは、言葉を発する場面が基本的に「ひとりごと」だから、他者への影響も「読みたきゃ読めば」という態度で片付けてしまえる。リアルではそうはいかなくて、たいがい特定の他者に向けて、自らの属するそれぞれの社会にあわせて、言葉を発する必要がある。誰に向けたでもない「ひとりごと」がひとりでに誰かに伝わる、というのがネットのスタンスだが、リアルで何かを話すことは、でっかい「世間」を相手にしてものを言っている気にもなる。そうすると言えることは限られてくる。自意識の強い人ほどそうだ。ネットには(建前上は・あるいはリアルと比較して)世間などない。「ひとりごと」であることの間接性によって、誰かや何かを傷つける心配が軽減されている。同時に誰かに傷つけられる心配も軽減されているともいえる。誰かのひとりごとに対して、いちいち文句を言ったり手厳しい評を飛ばしたりする人はあまりいない。だから、思ったことをそのまま言いやすい。リアルで発言に委縮しているということは、周囲のありうる反応に対して委縮しているということだ。リアルだと付き合う相手を随意には選べないから、自分のことを分かってくれなそうな人にも対応しなきゃいけない。顔を合わせてものを言うというのはそれだけで負担だったりする。すると発言はいきおい、あたりさわりないものになる。僕は無理解者に弱いのかもしれない。

 ともかく、ネットでは自分の思ったことをそのまま出しやすい。だからネットでの人格が本人格だと自覚する人が多いと思う。

 さて、ネット→リアルの流れは、本人格を知ってから表層を知ってもらう、という流れに一致する。この構図の楽なのは、表層にいくらか支障があっても、それはあくまで表層だ、というエクスキューズがとれるからだ。表層がどうであれ、この人の中身はこうである、という了解があらかじめとれているから、表層の抱える問題は大きな意味をもたない。リアルでのその人のふるまいは、あくまで側面として処理される。

 リアル→ネットの流れは、すると、表層のあとに(しかも、たいていはかなりあとに)本人格を知ってもらう、という流れにあたる。これは勇気のいることである。なぜだろう。一般に、あとになってから「本当のことを言う」というのにはためらいがつきまとう。カミングアウトの悩みだ。ひとは(あるいは日本人は)訂正したくない生き物なのだろうか。一度出したものを引っ込めることに何か後ろめたさを感じているふしがある。共同体のなかで言い直せば、一度形成された了解をぶち壊すのはなかなかに勇気のいるわざである。つまり。カミングアウトとは、共同体の中にある一つの了解をぶち壊すことである。

 それは大げさに言って社会の秩序を乱すことだ。この世界に住まわせてもらってる小さな自分という存在が、世界のバランスを揺るがそうとする、そんな恐ろしいイメージ。大げさにいえば、そうだ。でもこの「大げさに言って」という断り書きがポイントで、実際は社会の秩序はそう簡単に乱されるわけではない。せいぜい、池に小石を投げいれたときの波紋くらいに考えたらいいだろう。だから、その恐怖はたいがい杞憂に終わるものだと思う。というか、むしろ、杞憂によって行動できないでいる、という例が多いはずだ、と言いたい。

 カミングアウト後の周囲の反応の変化が怖い、というのもある。大げさに言えば新しい世界へ自ら踏み出すのは、端的にめんどうなことだからだ。めんどうだし、知らないし。今よりまずいことになったら厭だし。今よりよくなる保証がないし……。でも、この周囲の反応の問題にしても、実際のとこはそんなに心配することはない気がする。自分を明かす相手がかなりものわかりの悪い人でなければ。波紋が起きても数秒ののち水面は平静をとり戻すように、世界の自然治癒力、みたいなものも意識すべきだろう。あまり自分ですべてどうこうしようとしてはいけない。


2010.9.8 何かを嫌いだと主張すること

 なにかを否定する発言、腐す発言、悪いもの不快なものとする発言、そういったことをすると直ぐ後悔するのはなぜか。どんな要素がはたらいているか。

 嫌いなものがあるのはいい。僕はそれを人間らしいことだと思っている。人間らしいからいい、というのは飛躍がある。まあ、いい。好きなものと同様、嫌いなものもあったほうが、こう宙に浮いた表現になってしまうが、精神としては“豊かだ”という気がする。まあ、まあ、それは、いい。今は放免とする。

 しかし嫌いなものを嫌いだと表現するにはどこか足を踏み止めなければならない気がする。ちょっとした罪悪感がうまれて、ちくちく刺激を受けて、後悔する発言を 2, 3 続ける。 Twitter での話です。日記なら、同じ文章内で他者否定の直後に自己否定が継ぐ流れになる。

 公共の場でそれを言うこと。誰かを不快にすること。独り善がりの危険性。生産的な発言と較べて。誰かを敵に回すこと。同意同感共感の生産性とは。でも言いたいということ。――といったことが、掘り下げるべき点だと思う。

 何かが嫌いだと主張することがどれほどの生産性をもつのか、ということが中心になるだろう。ウェブでものを言うことは、みんなに見られている自覚があるため、自意識に負担をかける仕事だ。自意識になるべく負担をかけないためには、その発言が公共的な価値、生産性をもつと認められることが肝要だ。

 何かが嫌いだと主張することは、何かが「悪い」と主張すること、とは異なる。何かが悪いと示すことは、それだけで生産性をもつ。悪いというのは(ほぼ)万人にかかわる不利益だから、誰に対しても価値をもつ。ナチスが悪いといえばそれは教訓になる。しかしナチスが嫌いとツイッターで言ってる人がいたら? それは「ああそうか」と読み流されるのが一般的な反応だろう。

 そこに何らかのインサイトが含まれているかが勝負どころなのかもしれない。「ナチスが嫌い」という主張を通して、ナチスや全体主義や歴史や何やらについて、なんらか新しい知見が得られたとしたら、その発言は意味あるものとして受け入れられる。しかし、「ナチスが嫌い」という主張そのものは? それ自身は愚につかぬ内容であって、飾り付けで一定の水準までもっていくしかない、ということだろうか。

 ……「ナチス」は嫌われて当前、といったところがあるので、例を変える。「岩波書店が嫌い」という主張を考えよう。よくわからんが、へんにアカデミックぶってるとこが嫌い、とか。まずこの発言は、その発言主についての情報を提供するはたらきをもつ。僕がツイッターで「岩波書店が嫌い」云々と発言したならば、それを読んだ人はまずは< @elmman は岩波書店を嫌っている>のような内容を受けるだろう。このかぎりでは、この発言の価値は、その発言主のパーソナリティに興味のある人にとってのみ有効だ。

 発言主についての情報のほかに、「岩波書店が嫌い」が喚起する内容は、<岩波書店を嫌いな人がいる>だろう。あるいは<岩波書店は嫌われる余地をもつ>といったことだ。こうみると発言主だけでなく、言及対象についても情報を与えていることがわかる。むろん好きとか嫌いとかいったことは主観的なもので、そういった感情にもとづく内容が「情報」というに能うかは疑問とされうる。でも、言っちゃえば認識論的には絶対に客観的な判断などないし(いや、勉強してないんで深くは突っ込まないでほしいんですが)、それに好き/嫌いは主観的とはいえ客観性もそれなりに備えているんじゃないかと思う。大半の判断は、主観的といってもそれに同意する人は少なからずいるだろう、という意味で。

 <岩波書店は嫌われる余地をもつ>という内容は、岩波書店の或る側面を照らし出す。特定の観点に立った評価も付けて。この点、なんとなく受け入れられてしまいやすい「好き」という主張よりも、理由などを示して、読み手を或るていど納得させなければならないぶん(あるいは、読み手の納得欲を掻き立てやすいぶん)、情報の多い「嫌い」の主張のほうがもしかすると生産的かもしれない。<○○を好きな人がいる>といわれるよりは、<○○を嫌いな人がいる>と知ったときのほうが、○○を自分の中で掘り下げる機会はより強く与えられているのではないかと思うが、どうだろうか。

 「嫌い」言明につきまとう、もうひとつの大きな視点は、「誰かを不快にさせる」ということだろう。誰かを不快にさせるのは定義からして悪いことであって、なるべく避けるべきであるのは言うまでもない。でも少しも人に不快を与えて生きてはならない、というのも無理な注文である。だから問題は、それが人に与える不快と、それがもたらす新しい情報の質との兼ね合いにある。もちろん両者を直接較べることなどできないので、「不快はそんなに与えないけど情報としてはわりあい有意義」とか「不快は与えるけれどもこれは言わねばならないことだ」あたりで納得することになる。ま要するにただ嫌いだ嫌いだと言ってるだけでは弱くて、そこに生じる付加価値を意識すべきだ、となる。

補遺:「嫌い」と言うことのまた別の効果として、同意や共感による一種の relief がある。「俺と同じことを思ってる人がいたんだ」という気づきは嬉しさを与えてくれるし、そのかぎりで悪いものではないと思う。ただ、それを推し進めて「○○嫌い同盟」を作っちゃうのはおすすめできない。僕はそういうので盛り上がってるの見ると「醜いなー」と思っちゃうほうなので。


2010.9.1 現状否定日記

 ざらっと日記を書き始めたら9月になってることに気づかされて、思い知らされて、目の前にででーんと主張なされて、僕は。僕は、気を引き締められるでもない、絶望するでもない、希望を持つでもない、なにか「これは!!」という気分にさせられてしまった。さて本題。

 うっひょー人生が停滞している! これだから読書とか勉強とか嫌いなんだ!

 これはツイッターに流そうとしてやめた発言。日記を書けると思ったから。日記を書くことを僕はなにか大切なことのように思っているし、それは仮構されたアイデンティティをかばうケチ臭い態度でもあるし、でもやっぱりツイッターではできないことがある。のでここに書いてるわけだ。タグ打ちサイトのシステムからして自動的なつながりが少ない分、あまり誰かに迷惑か何かかける心配もなく、見たきゃ見ればって態度を容易につらぬくことができ、気負うことなく自由に書ける、ってのが、ツイッターにもブログにもない“よさ”だと思う。さて。

 人生が停滞しているってのは僕の今の生活現状だ。この夏休みの半分くらいの日は、或るドイツ語のテキストを読み進める、という作業に費やされている。それは自発的に選択したとはいえ、夏休みの宿題に近いもので、これがなけりゃ僕はまた別のことをしていただろう。読書とか。バイトとか? バイトは何度か申し込んだがなんかうまくいかなかった。おかげで「やんなきゃなあ」という意識が「やりたい!」というレベルにまで切迫しています。それで外出もあまりせず家でひたすらドイツ語、いや、だらだらドイツ語、という日が多くって、一時はそれでも引きこもり生活が板についてきたかなって時期もあったんだけど、それも調子の良し悪しであって、たいがいは怠惰な自分を横目で見つつ課題を処理する望ましからざる状況に落ち込んでいるわけである。これは現状を悪く評価しての話。こんな現状はこんな現状で評価すべきことはある。なにはともあれ課題を終わらせようとしているとかな。だが僕がいま必要としているのはそんなことだったか、どうか。

 人生が停滞しているといったが、では人生を動かすものは何だろうか。即答する。外出だ。知らないものを、具体的な現実を見ることの積み重ねだ。新しい出会いだ。新しい別れもだ。そういったものが人生を動かす。では人生が動くとは何か。これは即答できない。たとえば大学を卒業して就職する。これは人生が動く例だ。これはけっこう必死こいてやんなきゃならん事らしいが口開けて待っててもその時期が否応なくおとずれる点からいえばむしろ自動詞で人生が“動く”ほうに入る。しかし人生人生連呼しててとても人生をナメてる感じである。でも他に適当な表現がみつからんのだよ。「生活」とは違うのだよ。さて戻って人生が動くとは何事かっていう話なんですが、それつまり「新しいものに触れる」ってことではなかろうか。いや定義が循環してるけどさ。新しいものに触れたい、触れねばという意識でもって「人生が停滞している!」という叫びが出てくる。そこでなぜ外出を重視するかってと、簡単なことであって家の外には新しいことがあふれているからだ。河原の草の生え方からして果てしなくランダムで、しかもそのなかにもゆるやかな、しかし確固とした秩序があって、そういうのは好きだ。みたいな。歩いてる人の表情とか。顔つきとか。散歩してるとよくもの思うしね。

 しかし現状否定してばかりの日記ばかりを書くのもどうかと思う。幸福の土台は現状肯定だとも言う。しなければならないことはならないとして、ならば動かしがたい現状を最大限肯定してやるのが快適に生きる道だ。とりあえず大学出るまでがひとつの勝負だよ。


モドール