2010年8月のログだよ

2010.8.27 サーブ巧者・亡者

Wirklich愛のない鳥が空の向こうから地面を這って。
至らないことで嘆いて、錠剤の意志。
絡まった糸、やぶれかぶれの犬塊、紙片、押印。
逃亡の果てに欠けた茶碗を愛撫して、溶鉱炉で生きた。

二度の途切れ。乖離と肌で続けてきたものが、置きっ放しになっている。
そこ袋に対者を詰めた。
窓の外で聞こえない声が始終鳴り続けている気がする。
為替の気分で乗った。春の風が毎年吹いた。命が絶えたら花になるのだと。
砂場を開いて遠出したような気分で電車に乗りつめる。
対応するのに疲れた、と話す。

替え歌の消えていった先には戻らない。戻るべきでもない。
ここにないものを取り寄せるでもなく、待ちくたびれるでもなく、摘み取る。その積み重ねだ。

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 以上なんとなく気持ちが落ち着かなかったので、整理するような・むしろ単純に鎮静剤として書きとばした「詩」。まえに書いたのが受験生の頃で、もう 2 年近く前のことになる。こいつだな。なお、「散文詩」と言って言えないこともない……いややっぱ言えないものとしては、一年近く前にこんなものが。こういったものを書くのは純粋に楽しいゆうか面白いというか気持ちよかったりする。出来は問わん。いや、今読み返したら前作のほうがいいな。んー。作品意識を持ってたからかな。今回推敲ナシだし。まあ出来は問わんよ。このサイトは純粋にパーソナルなものを志向してますので、少なくとも個々の記事でもっては何かを世に問おうとは思ってません。

 今回書いたもの・書いた体験についてちょっとだけノート。まず詩を書くという行為は……と一般化するのは危険なので言い直して、今回書いた体験だと、これは自分固有の言葉を探す作業だったのかな、と思う。思いついたばかりなので考えとしては洗練できてない。われわれ、いつでも自分のことを自分しかできないやりかたで語りだしてるような自覚をもっていますが、それでもその語りかたは社会的合意にのっとったもの、すなわち正しい・規範的な記述の仕方でもってものを表現している。そのかぎりで自分について語られた言葉は一般論でしかない。ところで詩のことばは……いやいや不用意に一般化すると怖い人に指摘されそうだしなるべく控えるのだが、今回したことっていうのは、記述ではあるけれど表現法が固有で……じゃあオリジナルなのは表面だけで中身は一般論のままなのかというと……うん、やっぱ、自分なりに意見をもてるようになってからこのへんは書きます。僕は分をわきまえたい存在です。で他に何を書こうとしたのか忘れる、と。


2010.8.25 もうどうでもいいでござる

 「ござる」という語尾が無言の独り言つまり脳内のつぶやきの内側に限って流行している。「もうどうでもいい」という心境には、実のところ、無縁です。今の私は、「もうどうでもいい」という気分にはない。「どうにかしなきゃ」とも思ってない、実のところ、とてもしあわせな境地にあるのかもしれない。でも、実のところ、それは毎日をそれなりにうまく転がしていけてることの順調感からくる、なんだろう、安閑といったものだ。大きな問題に眼前にぶち当たることもなく、日々ドイツ語と論理学あと少しの読書とシンセサイザー遊びだけをしていれば、なんとなくこの毎日が「充実した」ものだという実感が形成されていく。いや、もちろんそれは「真の」、いわば人生的な、あるいは文学的な充実とはレベルの違ったものではある。しかしかつての自分は、好きなことを好きなだけやる、ということさえ随意にできなかったのであって、そのことを思いやるとやはり今の生活は、目標に定めただけ勉強ができて、休憩には本を読んで、つまりはやんなくていいことを惰性でやって後悔するところの少ないこの生活は、「充実した」ものだと自信を持って言っていいように思う。それは自分が少しずつ見出してきた how to と、「願い」の蓄積のちっぽけな成果だ。

 「もっとみんなラブレター書けばいいのに。」という Twitter での発言を見かけた。僕はかつて、といってもせいぜい 1, 2 箇月くらい前、誰かにラブレターを書きたい、と数度にかけて思っていた。好意の告白という一回性のものでなくても、文通でもいい。まああんなロマンチックで素敵なこと、現代にはあまりないんじゃないかなあ、と思う。当時、僕はどこかロマンチックを求めていたし、異性との親密さを欲していた。ところが今はそういうことはあまり感じない。全く感じないわけではないが、しかし、「言われてみればそうだ」ってなレベルのものなのだ。自分用語で言えば、今の自分は、実存的な深みに欠けている、ってな感じでしょうか。心が落ち着かなくて、「人に会わなきゃ」と自覚することもない。けっこうな程度、“ひとり”で充足してしまっている。――

 まあ、だからどうこうってことはなく、ましてや悪いとか良いとか言いたいんでもなく、なのですが。いいのかなあ、とはちょっと思う。いや、というかむしろ、順当で均質な生活が続いてくると、今度はそのいわゆる実存的な深みという隣の芝生が青く見えてくってるだけ、か? 俺も女の子と文通してえわ。哲学をわかってくれる女の子と文通したいね。でもやっぱり今はそれよりも本棚に顔を見せる how to ものの洋書(こないだ買った)に早く手を伸ばしたく思っちゃうのです。いや、強がりかな。あるいは逃げ、かな。んー。まあちょっと楽になりつつある、というのは否めないかな。それも良し悪しじゃないけどね。


2010.8.24 完成図の放棄された一ピース、だけど、置いておきます。個人が社会に奉仕する存在だとしても、その一人一人が単独で意味をもたないわけじゃあない。

【 Twitter という仕組みについて、批判しようと書きはじめた文章。その動機部分に不純の匂いを嗅ぎとり、書いてみた。確かに大喜利状態になってるのは自意識発露の形態として不健康だとは思うんだけどね】

 なんででしょう。この文章の目的はもちろん Twitter の悪評を流して、同時に Twitter の内側でのうのうと自意識を流してる人に対しても一撃を食らわせることにあるんだけども、こう書くとどうみても悪趣味だ。というか自覚してるところ、この動機は悪趣味意外の何物でもない。

 ちょっと自分の手になじんでない道具を使って理由づけすると、 Twitter を否定することで、 Twitter の外……とまではいわずとも Twitter 中心でない生活に生きている自分のアイデンティティを優位に立たせて心の安静を得る、とか、そんなより深い動機が見えてくる。要するに、自己防衛の手段としての他者批判、あるいは「指摘」だ。

 だが他人を攻撃して自分を守る、というのは、基本的にはあまり好ましくない。もちろん便利な生活のためには、区別っていうのはかなり強力なツールだ。「割り切る」と言ってもいい。豚肉を炒めつつ豚を飼って愛でたいと考えてみたり、快適な「われわれの」社会のために一定の労働力を確保したり。似たようにして僕は自分の心の安定のために他者を「たかが他者」と割り切ってるわけだ。でもそれは本当に、ぜひともとらなければならない道だろうか、と考えたとき、必要なく他者を攻撃するのは感心しないよね、と思いなおすことになる。


2010.8.19

 日記を書こうと思うのは、いつも他の人の日記を読んでいるときだ。さて。

 「動けない人」から「動ける人」になるにはどうすればいいか。端的に言ってそんな課題を、僕は持ちつづけてきた。高校生くらいからだ。いや、中学生のころから、うすうす考えていたようだ。そして、それががだいぶ好転しつつあるというのが現状だ。はてなダイアリーのほうで「大人」という目印を掲げて語った一連の記事は、これをふまえている。「動けない人」から「動ける人」へ、言いかえれば――いや、実のところ、これとそれとがきれいに対応するかは確信できないが――「子供」から「大人」へ、という移行のためには、合理的な認識と日々のトレーニング、あと周囲の人間と金銭が必要だ。そんなところが回答だった。いま改めて書いてみたらこれは回答でもなんでもない。僕は科学的な how to を残したい。個人の体験をつらつら実証性も普遍性も考えずに書き垂れ流した暇つぶしの読み物は書きたくはない。いや、そういう傾向を固持すべきなのかは、すこし疑っているけど。読み物が研究論文を超えるときだってあるんじゃないか、ってことだ。まあいい。それはそれとして、僕は僕が過ごしてきた生活、そこでしたことを材料にして、いかにして「動ける人」になれるかを記した文書を残したい、と考えてきた。ていうかまあまだまだ発展途上なんだけどもね。

 で問題は、だんだん「動ける」ようになってくるとあまり考えようとしなくなってくるってことなんですね。いや考えないというと少し違っていて、考えはするけどその考えをここでアウトプットしなくなってくる。インターネットの外に楽しいことやすべきことを見つけて、パソコンをつけない日がでてくる。

 つまり……自分のしてきたこと、しなかったこと、これを公共化し、一般化して誰もが使えるようにしたいんだけど、ところが「動ける」ようになってくるとそういうのは二の次になっちゃう、という問題だ。振り返るよりも目の前すべきことを優先しちゃう、ということ。そして「今すべきことを優先的にやる」ことは大人たる僕の行動規範であったりする。足場を固めて石橋を叩きつつ行くよりも、今はあれこれ取り入れて視認範囲を肥大しておこう、という意識でもって動いている。そのほうが楽しいってのもあるけど。ただそれだといつまでも振り返る段階に至らないんじゃないかな、っていう不安がある。このように、過去や今を振り返りまとめていく作業は常にあとまわしにされる。結果、日記を書く日が月に 2, 3 回くらいになったりする。まあそれはしょうがないとしても。僕は……なんだろう、このマイ how to 編纂作業を使命だとか、ライフワークだとか、ともかくどこか「すべきこと」のように頭の隅に置いていて、だから……

 だから実際にそれをすべきだ、という推論はできないな。「私は○○をすべきだと意識している」から「私は○○をすべきである」は帰結しない。考えるべきは、なぜ私は○○をすべきだと意識しているか、だ。ただそれはひたすら自分の自己認識から発している。自分がこれこれこういった境遇にあり、こんな興味関心や能力を持ち、云々といった自己認識から、僕はこのことをすべきだ、するとよい、することができる、と考えている。ようするに自分がそれに適任だってことだ。そして、適任だからする、というのは、社会……まあ他者の集合たる社会、になんらか貢献したいという意識が働いている、ということだ。べつにそれ自体は間違ってるとは思わない。確固たる根拠はないけれど、今は、やっぱ人間って他者との関係のなかで生きていくものかなあ、と思っている。


2010.8.7 他者との遠さ

 たとえば Twitter のちょっとした発言にしても、その背景にはいろんな事実や感情や思考といったものがあって、しかも出来事は無数にあってそこから「書くべきもの」を取捨選択し・のっぺりした出来事の平面から特定の内容を切りだす必要があって、その作業も完璧にできているわけではないしそもそも「何を書くべきか」だってはっきりは分かっていないわけで、そうしたプロセスを経て“よくわからんまま”出てきたものとして他人のツイート(発言)を読むとき、まあそれは文字通り言ってるままにとるわけにはいかないよなあ、とさっき思った。その発言主には彼/彼女をとりまく不定形の状況があって、不定形といってまずければ把握し切れないほどに複雑な(過去の想起・未来の予期をふくめた)現状があって、つまり一つの発言の背景には無数の隠れた条件が存在していて、それらを考慮しなけりゃ、少なくとも書いた本人のようにはその発言を理解できないということがある。それなのに私たちは(私は)概念的な「よくあるパターン」に落し込むか、さもなくば自分の乏しい経験に当てはめてしか誰かの言葉を了解できない。……そういう、“他者の理解可能性”というわりと古典的な問題だとは思いますが、そんなことが自分のわりと切実な問題として浮かび上がってきた。余談だが哲学紹介者の手腕は、一つの問題について、それが真に問題であるということを読者・聴衆に納得させる技術において問われるのかもな。


2010.8.5 そんな次第です

 夏休みの楡ですよ、せっかく戻ったので幾何と名乗ろうと思ったら新しいほうの名前の楡が出てきたんでもうぼかぁそれでいいです。ここでいま書いてることについて。昨日、ふらりと自分のはてなアンテナを見ていてこのサイトを訪れたんですわ。ですわッていうか。それで http://that.bufsiz.jp/ を数ヶ月ぶりに覗いてみたら左上に醜い広告が出てて、なんか三箇月放置したらこうなりますとか書いてあんの。もうね、アホかと。バカかと。三箇月だよ、三箇月、ということでして、自分の古巣を汚された怒りというよりこの倉庫、片付けなきゃなあという持ち主精神を発揮させてこれは十数ヶ月ぶりではないだろうか、サーバーを提供してもらっている忍者ツールズにアクセスしたのでした。日記を書いてるときってたいがい、こうしてどうでもいいことを長々と描写して非生産性で心に影がさすというのがお決まりのパターンなんでありますが、読むとそれほど長いってわけでもないし専門用語がちりばめられていて分かりづらい!(今「分かりずらい」とナチュラルに打ち込んでしまってうろたえた! 人の文章読みながら高頻度で添削するポイントなのに!)ということもないと思うので好きなだけ書こうと思いますそのくらいには他者との関係性を適切に理解するようになったと思うのですがどうでしょう?!

 で(段落変えましたが内容は連続しているとお考えください)、自分のサイトの黴ことデカイ広告を取り除くために、そうそう、まず FFFTP を起動してふつうにファイルを更新しようと思ったのだが、どういうわけかパスワードの再入力を求められた、という事情があった。もう昔のことなのでパスワードなんて忘れてて、困ったので忍者ツールズにパスワード再発行して貰いに行った&自分のメールアドレスを送ったが受け付けてくれなかった&古いメールアドレスを入力しなければならないことに気づきうろたえたが数秒数分ののち天才的なひらめきにより求めていた文字列が FLASH し私はそれを指の動くまま入力した&しかしそのアドレスはすでにアカウント削除したものであり再発行されたパスワードが記載されているはずのメールを見ることは叶わなかった&もう一度同じアドレスで登録しようと思ったが受け付けてもらえなかった&ここで再び奇跡的なひらめきにより形骸だけの古いアドレスで忍者ツールズにログイン(つまり忍び込む!!)することに成功し、登録内容をアップトゥデイトなものにアップデイトしそのあとパソコンが固まったりしつつも当妄誕F that.bufsiz.jp の数ヶ月ぶりの更新に至ったのであります。いや、退屈な次第なのでどっか端折るべきだとは思ったんだけど。

 でー、更新ファイル差分作成のさいの文章のスムーズな出加減、はばかることのなさに若干のノスタルジーを含む快適を覚えたこと、過去ログをいくつか読み返して「なんか、面白い……? !」と思っちゃったこと(酒飲んでいたので……)、 html タグ打ちサイトの所有物性の快さだったり余計な機能や装飾のないコンパクトさだったり云々思い合わせた結果、またここで書いてみようかな、そうだ書いてみようという調子にさせられたのでありました。ありましたと言っているがこんなことを言いたいがためにどんな時間リソース情報リソースを消費し消費させていると思う?! って話でありましてこの話にはもう早いところ決着つけさせたほうがいいんじゃないかと思う。この神経質っぽい後ろめたさの話。いや、書いてるとやたら長く感じるんだよ。内容も厚く感じるしね。そこで読んでみると大したものではないのでそんな気負うことないんじゃないかね。そろそろ。


2010.8.4

 すいません使うとかいいっ放しでぜんぜん使ってませんでした。俺は僕は思ったより歩みが遅かったでした。すいません。なぜか html だとフザケタ文章が流れ出てくる不思議。不思議だ。それはまあともかくなのですが、つまるところこのスペースは今後とうぶんは使うことがないと思われるのでそう宣言しておきます。私がいまネット活動の拠点にしてるのははてなダイアリーです。http://d.hatena.ne.jp/squareroot/。いや僕の俺の経営理念つうか美意識とか民族意識とかアマノジャク気質からいって html サイトのほうが 好 き なのはわかってるんですよ。なにしろ今こうして書いてて気持ちいしなんならまた html 日記に戻ろうかしらンと思案しはじめているんだから。でもまあそこをこらえてというか、とりあえず戻り道は確保しつつも当初の流れを守って言っておけば、うーん結局はブログのほうに戻っていくのだと思います。理由は「便利だから」。なによりコミュニケーションがとりやすい。いやー硬派な日記書きにコミュニケーションなぞ二の次だッてのは頑固ですたいりっしゅな理念だとは思いますが、僕は日記書きである前に人間としてのアイデンティティを守らなきゃならんので。すいません。たぶん今の僕はどこか偉そうな奴です。すいません。すいませんって言ってりゃいいってものではない。というかなんか実を言えばこの日記、じゃなかったこのお知らせ文をどうやって終わらせたらいいものかウオーサオーと困っているのが現状の素直な吐露でございます。まあ言うべきことは言った。ブログのほうがメインになりますと。以上です。


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