2009年10月(一時利用) | |
それでは、またブログに戻ります。http://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/ 2009.10.20 世界の広さなど なにもしてないのに劣等感に苛まれるナァ……と思っていたら、なにもしてないゆえに劣等感に苛まれているんだった。よし。まだ俺は正気だ。 でも、じゃあ俺はなにがしたいんだと問うと、よくわからん。探すか。 ■ソフトドリンク感想メモを公開しました。自分用傾向が強いのでひっそり更新していきます。下のメニューからどうぞ。 2009.10.18 田畑、桔梗に霞む サークルのひとたちとカラオケ、食事。翌日の朝、目覚めがたに虚無感。たまにある。休日、目覚めると妙な感じに包まれているのだ。それは一言でいい表すと「むなしさ」です。ときにこれを、「せつなさ」と迷うときがあるが、ええと、アレとコレとは実際どこが違うのか? 自分がまえに書いた論考を見返してみる。これ。こいつによれば、せつなさとは不在のものを想うことで生ずるものだ。続いて、辞書の引用を見てみると、胸が苦しい、というのが大方の感じらしいが、さてこれは僕が今朝感じたものとは違うようだ。……つまり、せつなさは遠きにありて思うもの、それに届かずに(ごく単純に言えば)苦しく思うものである。他方で、むなしさは「遠きにありて思うもの」自体が不在で、根本的な行為の動機みたいなもんを欠いて途方に暮れている感じであると言える。これは一つの段階で相対的なもので、たとえば片思いの恋人を想ってせつなく思うこともあれば、彼女に対してどうすることもできない自分に対してむなしく思うこともあるだろう。さいきん、恋い、とか、ないんですけどね。でも一人暮らしし始めたらそういうのないと辛いだろうと思う。ともかく、当事者(「恋」のなー。)でないから、こう客観的というか淡々と書けるということはある。しかし真にエキサイティングなのは当事者の書いたものだよな、とは当然思うわけですし、当事者でなけりゃやっぱり面白くないてゆうか何かもっと新しいことを書こうとしていたハズなのだがその内容を忘れてしまいました。ところでいいことを思いついた。むなしさは空しさであり empty なのであるから、そこには沢山のものを詰め込む余地があるということだ。それではまた。 2009.10.16 タブレット・オン・ザ・デスク 今日は大学が休みで(とか書くとまた学校バレそうだが)、昼から起きてCDを聞いてました。ご飯食べながらCD、食べ終わりながらCD、ジャワティーを飲みながらCD。 GRAPEVINE『From a smalltown』 TRICERATOPS『TRICERATOPS』 あぶらだこ『あぶらだこ』 2009.10.14 天丼のろし 11日の日記、なんかタイミングが悪いし(こっちの話です)話題としてもオールタイムに悪いのだがそこまで断ったうえで上げときます。あまり関係ないが、嫌いなテレビ番組を見て毎回律儀にイライラしてんのはどうにかしたいぜ。 前回の日記の内容について、あらためて読み返して気づいたことを書いてみる。まあとりあえず、感情(まあ、不満ね)に任せて書くと大したものができんなと(笑)。思考が熟しきらないままそれを理論化しようとすると、やっぱりどうしても皮相なものになる。世の中にゃ勢いが必要なことも多いけれど、勢いに任せて突っ切る一瞬のためには長い準備が必要なんだなあと(笑)。さて、さっきから「(笑)」を用いておりますが、この表現って読み手によるニュアンス読み取り負担が大きいんだなと今すこし思いました。筆者はいったい単純に楽しくて笑っているのか、なにかを嘲笑っている皮肉な「(笑)」なのか、ともかく笑いというのはかなり色んな場面で起きるので、その笑いが生じた文脈の推測の幅が広いよなあ、と思ったのでした。ちなみに、先に用いた「(笑)」は自分の失敗を戯画化して自虐的に嗤う意味合いで、後に出たものは俺なんかクサいセリフ吐いてるなあという自覚込みでのこれまた自虐的な嗤いです。なるほどね。自虐的なのは未だに治ってないようですねえー、んーーー、あまりゆるりと文章の続きを考える時間もないのでここまで。ではまた今度。 2009.10.11 ヨットそっくりシフト 未だにはてなブックマークはつまらないと思っていて、それはまあ非参加者側から見た感想なのですが、つまりたいがいの人の一言コメントはおもしろくない。みんなあんがい自意識の発露、オレがオレが、という感じを出していて、しかしそれは押しなべて平凡なことを言っているので、結局のところ俺が俺がという意識だけが残る。これはブックマーク先のページのジャンルにもよります。みなで意見をあわせたり、対立意見を読んだり、ということは確かに有意義なことです。でも、なんにでもなんに対しても自己を押し出したい人というのはいるもので、というか多くの人はそうだと思うし僕だってそうなのですが、でも、全方向に対応して自己主張することなどどだい無理なのだ。はてなブックマークは気軽すぎるのではないか。いかなる話題に対しても、ブラウザの隅にあるボタンをちょろっと押して、タグをぱちぱちっと打って、適当に気を利かせたコメントを打ちこんで灰色のボタンを押したらもう世界中にオレの意見を知らしめることができる。発信ってもっとめんどくさくてもいい気がするんです。そんな簡単に(一行コメント書いただけで)満足しちゃだめだと思うし、眼に映る限りのあらゆるジャンルを相手にする必要もない。そうしてひとつひとつの情報が希薄なまま世界が肥大していくのではないか……どうにも話が大きくなりすぎた。希薄な世界が肥大する、というのはインターネットの弊害だと思ってるんだけど(被害者)、たとえば Wikipedia がその先端を担っている。ほんの数分でものごとの概要をつかめた気になってしまう Wikipedia は、たぶん知ったかぶりの人間をずいぶん増やしたのではないか。浅く広く、というのも一つのスタンスだとは思うけど、すこし浅すぎないかなーと思うんだよな。新書をひとつ読むくらいの深さは欲しい。 Wikipedia って要約のそのまた要約であって、それこそ辞典として確認のために使うべきなんだけど、 Wikipedia の記事で満足してしまう、そこでとどまってしまう人は少なくないんじゃないかなーと思っている。 はてなブックマークに加えて、 twitter に対しても僕は同じ不満というかいけ好かない感じを抱いている。そんなのまあ勝手に抱けばという感じだが、まあでも思いつくかぎり書いてみる。 twitter もやっぱり一行コメントを投稿するシステムなのに変わりはなくて、だから同様に、みんな同じよーなこと考えてるんだな、ということが分かるのみ。「同じよーなこと」というのは内容じゃなくて、意識のことで、つまり、人と違うことを言おうとか、一言で世界を掌握したいというささやかな野望とか、そういうもの。結局、顔も知らない人がどこで何していようが俺には関係ないね、というこれは僕自身の態度から発する「いけ好かない感じ」に過ぎないんですが、その態度からすれば twitter なんてみんな同じような奴が同じようなこと言ってる空間にしかならなくて、だからなんなの、というのが最近感じていること。(うわあ……。愚痴なんてやめたほうがいいのは自分で知っているはずなんだがなあ……)。そこで日記についてひとつ言っとかなきゃなあと思います。ブックマークコメントと twitter とどこが違うのか。日記も自意識の発露という意味ではそれらと同じです。むしろ日記なんて延々と自意識自意識が続いている誰か知らん人の自意識空間に違いない。それにだいたいみんな同じことを言っている。そう考えてくると日記のほうが遥かにたちが悪いように思える。しかるに僕が日記のほうを支持したいのは? 単に愛着だけではないと感じている。それは何か、と思いを巡らせてみると、“言葉の多さ”に帰着するんじゃないかなあと思う。もうだいぶ急ぎ足ですけど、ブックマークやら twitter における「いきなり結論が出る」という形式に馴染めないんだな。結論にはそれに至る過程があるわけですけど、これらの形式だと結論だけ書いてしまわざるを得ない。でも過程なき結論は皮相だ。もちろんそのコメントを書くために頭のなかでいろいろ考えるんだろうけど、その過程がことごとく省略されたものには違和感を覚えるし、面白いのは(そして、個性が出るのは)むしろ過程であるはずじゃないか? ……と、たぶんそんなところで僕は、たまにブックマークページを見ては、ちっ、と心で舌うちしている。とまあ言いつつしょっちゅう見るんですけどね。はてなブックマーク。 以上、だいぶ勝手なこと書いてきましたが、これほとんど僕自身の体験から出ているもので、したがって非難は自分にも向けられているわけです。とか書いていると逃げっぽくなるかなあ。 2009.10.10 瓶亀 ちょっと待って、これって、思いついたことを思いついたままぐだぐだと書きつづくるこのHTML日記への回帰は、twitterへの回帰にも変形しうる意識の産物なのではなかったか? ようするに、思いついたことを思いついたままぐだぐだと書きつづくるスペースが欲しかったのではないか、と。だとすればどうなるというわけでもないけど、そうすると僕は妄誕Fを更新する代わりにtwitterを再開していてもよかったことになる。さて、そこに何か問題があるか? 僕は、ある気がしている。しかしどうか、twitterを再開することは悪いことか? そうではないな。悪いことではないし、さりとて善いことでもないだろう。大事なのは客観的な評価ではなく、自分にとってそれがどういう意味をもつのかということで、twitterにまつわる自分の思いというのは、おおげさになるけれど、愛憎入り混じった、といったところだ。まあtwitterは、そしてそれを含むインターネットは、人間というものを非常に全面的に反映していると思うので、その愛憎はほとんどそのまま人間への思いにもつながっている。で、なにが愛でなにが憎なのかといえば、随意に自分をとりあえず発信・受信できるツールという意味ではすばらしい発明をしたなあというところであり、しかしその便利さゆえ人びとは日記を書かなくなった……というのがたとえば、やってくれたなあというところである。僕は日記という形式に愛着がある。結局のところ。そこに帰結する。わかってたはずだけど、しかしある意味で何度も何度も幾通りもの道のりで辿り着くことでしか重要さは自覚できないのかもしれない。 2009.10.08 トレモロ講師 ちうわけで楡男から古巣にふらり戻ってきました、幾何です。幾何です。幾何ですって。ブログのほうの「楡」という自称を引き継ぐかは数分間迷いましたが、まあ久々に幾何ですと名乗ってみるのも楽しかろうというわけで気分を変えてみましたですこんにちは、こんにちは、幾何、幾何、幾何です。一文が長い。幾何幾何うるさい。もちろん実生活で俺俺いうのは満場一致でうざったい為し事であるわけで、それをそのままウェブ空間に放り投げたところで同様にうざったいのは承知なのですが、そこでは「嫌なら見るな」という無敵の文句が available であり、これを無意識のうちに振り回しつつむかつく文章を連ねていきたいと思います!などと書くとまた厭な感じが増すのは自覚してるんですよ。妄誕Fでは、ああ、俺はかつてこんなにも面倒で自虐的で非生産な文章を毎夕毎夜繰り広げていたのだなあと感慨もひとしお、なぜ環境がかわると書く文章もこれほど変わるかってえのは研究対象として興味深いことですがあんまり研究する気もない、ちゅうか本当にどうでもいいなあこれえ……。驚くぐらいなんにも言っていない、なんにも与えない、不快感しか与えないような、アレじゃないか。いやいや卑下しすぎた。どうせ何らかの意義をもつからここでこうして書いているわけです。いや、確かにそれはそうなんだけど、いいんだろうか、こんなんで……と思ってしまうのも事実だ。恐ろしい。以上、自己嫌悪と惰性のはざまからお送りしましたが、たまに HTML に戻って日記を書いてみるのもいいだろうと思い、しばらく、また一月ほどはこちらで更新していくつもりでいます。アンテナ・ RSS 等、ご迷惑かけます。まああんまり更新しないと思うので一月経ったらまとめて読む、あるいは非常ニ下らない文章ばかり書きそうなのでまったく読まない、というのも充分アリでしょう。中身のないことのほうが書ける、ということに気づきました。 | |