2008年03月

2008.03.29 ちびっこアイロニー

 やあ。諸君。俺もうたまんねーよ。取り乱した。って、ね。早々「取り乱した」なんて言葉呼び出してることからも分かるように、やる気ないねー。俺。なにに対してって、日記を書くことに対してね。いつからか、僕は、日記を書くことへの情熱を失っていった。んでさ、一々「僕は」なんてくっつけるのも鬱陶しいというか、元々日本語には一人称がなかったって言うし。いや、どっかで読んだんですよ。古文を読んでみると確かにそんな印象もある。われわれの普段の会話でもそんなに頻繁には出さないでしょう、一人称。しかるに「僕は」とか言っているのは如何なる理由か。まあ、英文和訳を繰り返す結果こうなったんだろうね。だと思うね。 I like tomato. 私はトマトが好きだ。どうも直訳にすると「私は」って、枕詞みたいに繰り返し繰り返し無造作に一人称を置くことになってしまってね。 I like tomato. But I don't like spaghetti. 私はトマトが好きだ。しかし私はスパゲッティが好きではない。英文におかしなところがあるのは気にしないとして。自然な日本語っぽくすれば、俺トマト好きだけど、パスタは嫌いなんだ。といった具合でしょう。でもこの文にも一人称入ってますね。別にいいけど。真面目に考えてないし。なんとも近頃マジメに考えると文章が書けなくなっちゃってね。500文字くらい連ねた挙句ふっとメモ帳を閉じっちゃうのね。そういうわけで些か自己制御的に無節操に書いてるんだけど、それじゃお前そんなに日記書きたいんか、っていう話でもあってね。な。んーで話が戻るけど「僕は」なんて得意気になって書いてるのは結構はずかしいなあ、なんて思う今現在なんだけど、ともすれば自分だって危険に晒されていたわけです。なんか適当にアイロニーとか言って苦笑交じりに言っちゃうならいざ知らず、本気で小説でも書いてみる際にフツーに登場しかねない。マジメな顔して言っちゃいかねない。まあ別に大したこたないよ。もちろん言いたいことっていうのはこんなことではないんだから。どうしても僕という奴はどうでもいいことばかり書きたがる人間らしいんだな。んで、今から本来の日記執筆の動機、すなわち本題、を書こうとするけど、こうして仕方ないくらいに膨れ上がった前座を前にしてすごすごと逃げ出したい気分なんじゃないかね。この本題は。それに筆者だって上の書いてて大体満足しちゃうから。筆者を執筆に駆り立ててるのは、長いことそうなんだけど、「なんか書きたい」という衝動だから。んじゃ、本題。最近もう行き場がなくなりそうなんです。嘘嘘。そんな深刻なもんじゃない。だがこれ以上適切な表現が思いつかないので渋々ああ言ってるのだ。近頃は、まあ詳しい説明はしないけどモラトリアムで、いやまあそのモラトリアムとやらも眼前に終焉を見ているんだけども、とにかくそんな状況下にあって僕は本を読んだり、読んだり、というかほとんどそればっかりしてる。それはそれで一つの理想ではあったんだけど、どんな人間にもその人なりの悩みつうものが同じ重さで存在して、と言うと色んな人に怒られそうだけど、とにかく僕がそう思っているからそれ以外の主張をする気はない。まあ結局どこ行ったって人生そのものの苦悩からは逃げられないっつーか、まあまあいいんだけど続きを書くと、本読むはいいんだけど本以外のものに大して魅力を感じないのな。こうして字面に書き出すとホント、くだらないように見えるんだけど僕が覚える感覚というのはそういうものではないのです。ちょっと前まではパソコンから離れることになんか離別の悲しみ的な?つまり離れがたかった訳ですけど、今となればなんの感慨もないのな。それが正常と言ってしまえばそれまでだけど、俺はそう言わないね。ヘンなもので何処行っても不満を見つけ出してしまうものらしい。なんというかパソコンから簡単に離れられること自体に何らかの不快感を覚えているわけじゃなくて、自分の心理のありかたに全ての根源があるんだろうと思う。ただ、それをさらに遡るとそれは或る外界の状況に、俺の手の届きがたいところの状況に発端があるように思えてしまう。で、それならそれで俺も黙って引き下がっているのは苦しいから、何らかの解決策を講じなければならなくなってくるわけだが……。


2008.03.24 VOLVE

 書いては消し、の日々が続いております。メモ程度に書き留めておけばよいものを、いちいち“テキスト”として仕上げる……というよりは、ある程度の長さを持つ“文章”として提示する。このことに拘泥するから、うまくいかないのだ。その話題と、その話題に対する自分の関心度との距離を、測りながら文章を書き進めなければならない。イヤ。嘘。今、テキソーなこと書いた。測らなければならないのは距離ではなく、関心度そのもの。執筆する当の主体が対象に就いて、どれだけの思考・知識・つまるところ書きたいことを溜め込んでいるかが問題だ。けっきょく、さほど書きたいわけでもないのに筆を動かすのは、至るところに偏在する凡人の皆様、そう、そこの今日もブログに投稿してる奴、そう、そこの今日も mixi にアクセスしてる奴、そう、そこの今日も 2ch に sage で書き込んでる奴、そう、この文章読んでる奴、そう、この文章書いてる奴。筆者の凡人観が露呈してしまったが、言いたいことはそうじゃない。大して書きたいこともないのにシャープペンの芯を入れて、カチカチやって、カチカチカチカチやって芯出して、レポート用紙乃至ルーズリーフに押し付け、いざ、心のままに動かしてみればいい。そこに現出するのはデタラメな線、さもなくば単純な幾何学図形、せいぜいドラえもん止まりではないのか? そこに美しい風景画や気の利いたマンガを書き付けることが出来るのは、それなりの訓練を経た人間だけなのだ。だ。だ。だ。だ。だ。言いたいことはっつーと、そーんなに書きたいことがないときにムリヤリ量書こうとすると物書きでもない限りつまんないものが出で来て後悔することになるからやめとけヨといういつもの忠告やあね。無論自分へのね。

 追伸。筆者はレポート用紙乃至ルーズリーフに気の利いたマンガを書き付けることのできる人間を尊敬しています。もっと言うと、焦がれてます。


2008.03.21 期待してるよ SOMEBODY

 「クマのプーさん Mugcup Collection」でタレント柳原可奈子さんの話題が出ていて読んでいて気付いたのだが、その、つまり、「可奈子」って一体なんじゃい、という話なのだ。そもそもこれに目を付けたのは近頃僕は熟語を漢文的に理解することに新鮮な驚きを覚えていたからで、例えば「君には可能性があるんだから」とか言ってるときの「可能性」は「可」が「能」にかかって、それが「性」によって締めくくられる、みたいな感じで「それが能であることが可な性」すなわち「できることが認められていること」というふうに解釈して非常に興奮していたものですが、それを踏まえた上で「可奈子」の文字列を見たとき、「可××」というナラビを見たとき、僕の中で「可能性」とオーヴァーラップ(なんてことだ、今まで overwrap だとばかり思っていた)したというわけです。そして僕は「可奈子」の意味を考える。無論、漢文的解釈で。とりあえず「可能性」と overlap した縁によりさっきと同じように再構築してみると、「それが奈であることが可な子」となる。では「奈」とは一体なにか。辞書によれば意味の一つは「かりん」のことであるらしい。あの、砂糖漬けにして食べるやつだ。食べたことないけど。となると可奈子の意味は「かりんでありうる子」なのか。「かりんのようになってもいいんじゃね?」との思いを込めた名、……なのか。完全に否定はできないが今ひとつ説得力に欠けることも否めない。しかし、辞書に掲載される残りの「奈」の定義を見てほしい。「いかん。いかんせん。」「いかんぞ。」「いかんとも。」。これを無理して訳してみると可奈子とは「どんなふうに子であるのか、ができる」といったところだ。これはどういう意味なのかと言うと……言うと。いや。これは無い。たとえば「どうして」を反語と取って、「こいつぁ子じゃねえだろ、どう見たって」という意味だと考えても――否――子であることを否定されたらこれは大変なことです。市役所とかが許可しないでしょう。これは無いです。「ありえない!」です。これで終わり!です。でも考えてみれば柳原さんだけに留まらず、世間には不可思議な名前が溢れていますね。ホンにね、 DQN な名前(アニメのキャラクターから取った、とか)なんか探してる場合じゃねえっすよ。あちらはまだ込められた意味は判然としてる訳で。ほんとうの不良は隠れているものなのですよ。

 一体 note.html の記事内容区分としての意義が薄れつつある昨今、みなさま如何お過ごしでせうか。わたくしは元気であります。


2008.03.17 BARON U.S.

 なんやらはてなダイアリーの方で取り上げてた話題が忙しくて精一杯だったもんだから勉強も思うように進まない、読書は尚進まない、あの人のことが気になって眠れない、読書は尚進まない、てな具合でまあとにかく目の前の疑問を片付けるのにコミットしていたゆえに我あり、えーじゃなくて結構真剣に取り組んでいたので日記の更新なんて悠長なことほざいてる場合でなかったのですが、さっきそいつにほぼ決着がついたのでアノ合間に行ってたことを報告し、Web拍手設置してみました、と言うのです。なんやら文章が不親切ですが直す気力がありません。例えばはてなダイアリーを導入したときと同じく確固たる動機はなく、まあ強いて言えば「おもしろそう」ということ。あ、メールアドレスを幾何に教えてまで言いたいことなどない、とか、メールを送るという行動になんか壁を感じる、とか、そういう人向けのメッセージ投函先ともなっておりますので、てきとうに何か送ってみてください。客観的に見て、実際に送る人がいるのかどうかは甚だ疑問ではありますので、メッセージの返信法については特別に考えておりませんが、まあ送られてきたら返すつもりでいますので「送ってやる」なんて思い立った日にはそのへんお忘れなきよう。

 あ。拍手ボタンはページのいちばん下です。


2008.03.13 すいすい

 済まねえ。暫く治まっていたが、またも所謂「日記書きたい病」というか、いや、もっと繊細な? 繊細? というか。全てにおいてハッキリした表現が見当たらないので保留するが、もっと○○なものなのだ。「日記書きたい病」の字面から想起されるコミカルで軽薄なノリ。且つ、実際にその模様を想像してみればどうだ。「うう……!! 日記が……日記が書きたい……! そうだ、パソコンを! パソコン!」「駄目! 絶対にパソコンは渡さないわ! あなたのためなのだから!」云々。健全な人間ならばその不気味な光景に思わず口を覆い、眉を顰め、「彼は早晩犯罪を起こすだろう」と家族に話すだろう。……そんなお茶の間受けするような状況ではないのだ。いいですか。冷静になって読んで欲しい。僕も出来る限り冷静に考えよう。そうだな……まず、状況のおおまかな規定として、これは、僕は半ば意思のきかない中で日記を書くことを余儀なくされている、に近いものである、と言える。しかし、さっさとそれを所謂「日記書きたい病」の枠に押し込めてしまうのは早計であると感じてもいる。その理由の一つとして、前述のように、ある種コミカルな動きはそこに生じない、ということがある。日記を書かなければおかしくなってしまう、殺してでも うばいとる、という禁断症状のような積極性もない。そう。即ち僕はむしろ消極的に日記を書き始めたのだ。どういう消極的さなのかと言えば、言えば、だな……。んん……。
 これまでのいきさつを一度整理してみよう。僕はいつものようにリンク集にあるサイトを巡回し終えたところだった。……。いつものことであるが、一抹の寂しさに襲われる。まだインターネットに浸かっていたい、との思い、これでほぼ間違いない。長いことインターネットと共に過ごしてきた僕は、住めば都をしてしまったのだ。しかし……何をする? 尚インターネットと関わるために、何をすればいいのか。そもそも僕は巡回先をまわって、それで「すべきこと」は全てなのだ。これ以上、何をするというのだ。……まあ、はてなアンテナをぶらり、うろついてみる。多少の寂しさは紛れる。しかしそれも暫くして「もういいか」と思い直す。ブラウザを閉じ、デスクトップが現れる。同時に再び降りかかってくる寂しさ。
――おいおいおい随分だな。楽なもんですね。まったく。そうして自嘲するのは尚更醜かったりもするのだ。ぬけぬけと暇人だなんて自称するような奴が嫌いだ。そしてそれはある程度、同類嫌悪でもある。
 ……続き。そうして「どうしようもない」所在なさから僕は日記を書いている。つまり、なんのことはない、激しく自己嫌悪する危険もなく、間接的にインターネットにも関わっていられる。丁度いい逃げ道だ。あのとき、正気に戻りかけたとき、思い立って机に向かってみていれば良かったのだが、生憎そんな気力もないのだった。気力というかねえ、「書きたいことがないのに日記かよ」という気持ちと、「たまには日記もいいだろうよ」という気持ちが両在していて、不意に現れた所在なさが後者を押したものだから、ふらりと傾いて、あとは慣性だ。気付いて今、こういう有様を呈していると意識してみる。 A と B の選択肢があったなら自分はその中間にいて、すこし風が吹けばどちらかに倒れる、そういう在りかたをしている。要するに、身の置き方をはっきり決めていないのだ。何事にもそれなりの正しさがあるのは確かだと思うけど、それを認めるのと自分の存在の仕方をそれに準拠させるのとは別物なのではないかな。


2008.03.10 嚥下

本日の更新
>アバウトをひとまず完成
>おまけに「100の質問」に答えてみる
> 404 もたぶん完成
>リンクは一応公開できるレベルまで

 存外に毎日の TASK とでも言うものは多くあるんですけど、その中でちょこちょこ進めてた作業がこれだったのでして、 妄誕F が装備すべきものはこれで一通り揃ったかなあ、って思います。以下、こまごまとした言い訳や感慨など。
 去年の秋くらいからずるずる作っては消し作っては消していたアバウトは結局散文によって不変のものを表現するのが非常に困難だのなんだのといったような結論を見たのであんな体裁にしています。「100の質問」は元々これのために用意したのではなく、ちょっとヒマだったので答えてたのですがアバウトのちょっとしたアクセントに良いじゃん、と思い始めてしまったのでいろいろ手直しした上でここに公表しています。ところで質問の公式サイトは多量のスパム投稿により重すぎで僕の脆弱なコンピュータ+ IE では表示さえ許されぬ状況で、つまり手付かずになっているのですがそんな中スイスイとあの質問を利用してしまっていて良いのでしょうか……と思うのですがすでに答えてしまったのも事実であり、すなわち僕の中ではとっくにゴー・サインが出ていることにもなる。でもなんか気まずい感じもする。でも「ご自由にお使い下さい。」とあるのでそれを最優先してる。あとはうーん 404 については別にどうでもいいやなとお思いの方も多いかもしれませんし僕もそれほどの比重を置いてはいないので特に語ることもないので、気になったら見てみてください、という程度。あ、あの写真は前サーバの移転告知のやつの再利用ですね。そんで、リンク。まあこれは 2006.12.29 の日記以来の悩みの種であるのはこのサイトを熟読のみなさまには常識でありますが、ひとまずこれで決着がつけられたかな……と思う。アバウトの話と同じように不変のコンテンツとしては散文で挑むのはかなりの離れ業であることが一つ、可変コンテンツつまり時機を見てコメントを新しく書くとしても断然として「書けない」サイトが存在しててイヤになる即ちどうしても俺は日記以外のコンテンツの確定性にこだわってしまう、または他人のサイトに迂闊なこと言えない、という遠慮が根底にあり、なかなか納得のいくリンク集を作れずにいたのですが今回はサイトを「区分」することによって「サイトを見ている僕の意図の提示」と「コンテンツとしての確定性」と「遠慮するような後ろめたさの解消」がほぼ満足いく形で実現されたのでここに発表と漕ぎ付けたのでした。まあ数日後にはまた訂正したくなっている可能性もあるけど、そのときはそのときで。


2008.03.08 平積みエチケット

 やーーべーー。汗はダラダラ、いやいや汗にとどまらず涙、ヨダレ、鼻汁、胃液、果ては血液などなどと言った僕という人間から分泌し得る液体の森羅万象が止め処なく溢れ零れ。あ。いやー。言わずとも知っているとは思いますが以上の描写は誇張です。誇張、いや、誇張どころか、虚構です。虚構。そこの君。韻踏んだ、なんて嬉々として指摘しないでください。僕の話を邪魔しないで。いないいない、ばァ。ええつまり冒頭の描写は単なる虚構だったのです。そもそも、汗さえ出していない。外はだんだん暖かくなってきているがまだ運動しない限りは汗なんて出ないものだ。ふっふっふ。んんで、何の話だったかと言うとこういうことだ。あの描写は虚構だったものの、僕は今、確かに「やべえ」と思っている。何故か。物語をしよう。

 僕はパソコンをつけるなり、いつものように忍者ツールズのアクセス解析を見ていた。ふむふむ。更新はしたが客の入りは芳しくないな、と、そういうところだ。一つの文字列が目に入った。被アクセス先のアドレスである。即ちこうだ。 http://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/ と。何のことだか分かるだろうか。これは僕が運営していたはてなダイアリー「skill substitute」のアドレスである。そこから、ここへ来たというのだ。何故だ。僕は頭を抱える。 20 日以上前にあのダイアリーは停止したはずだ。しかるに今になってあのダイアリーから来ている人がいるのは一体何故か。何故なのだ。何故だ。何故だ。何故だ。抱えた頭を机の上に載ったキーボードにそのまま打ちつける。ガン。ガン。ガン。モニターに「5bん6んhjb6ty776」という文字列が表示された。心の声、だろうか。……あのダイアリーから来ている人がいるということは、言い換えればあのダイアリーへのアクセスがあったということだ。しかし好き好んであんなところへ、それもプライベート表示になっていて肝心の日記が読めないあんなところへ、行く人があるだろうか。僕には、僕には理解できない。どうしてだ。何故だ。何故だ。四度目の頭を打ちつけようとしたそのとき、ある考えが先に僕の頭を打った。「アンテナが上がっていたのではないだろうか」。瞬間、僕は覚醒した。とするならば――。

 さて……。これでは何が何だか分からない。僕はあるはてなアンテナに行き、あのダイアリーが実際に上がっていたことを確認した。それではなぜアンテナが上がっていたのか。これからその謎解きに入る。まず、アンテナが上がっていたということは、対象サイトが更新されていたことを意味するはずである。このような推論が成り立つ。そうだ。あなたは正しい。つまり……俺はあのダイアリーを更新していたんだよ!! な。なんだって。……余りにもあっさり答えが出てしまったのでミステリーの神様に顔向けできませんが、そういうことです。ふいと思い立ってプライベートのまま更新して一人で楽しもうという魂胆だったのですが……ですが……残念なことに……まことに残念なことに……まことに、まことにまことにまことにまことに残念に残念を重ねて残念すぎ過ぎる程に口惜しく口惜しい悔恨の念をもって残念なことに……まったく……残念なことに、プライベート更新にも拘らずはてなアンテナの野郎はあのダイアリーを捕捉して、こそこそ楽しんでる奴を晒し age していったのさ。ずるずるずるずる。僕はこれから。はっきりどうすればいいのかは分かりませんが、あのさ、じゃあとりあえず公開すればいいのか? 仲良くしようよ。


2008.03.03 裁縫への情熱

 現在数学を勉強中なのですが、思い起こせば数学の教科書というのは何とつまらないものだったろう、と思う。まあ言ってる僕自身は教科書に載ってた定理の証明なんかを鼻息荒くして見てたカンジなんですけど、それは数学に興味がある人間ならではの話で、多数いるであろう「数学に興味がない人達」――数式を見るだけで寒気が頭痛がする――だって数学やったって何の役にも立たないし――数学の所為で勉強が嫌いになりました――にとっては、少なくとも現行の数学の教科書というものは「敵」に他ならなかっただろうな、と思う。というのは思慮深い読者の皆様なら僕がここで改めて改まって書かずともとうに察しがついているとは思いますが。

 ――思いますが、自分の中で問題意識が芽生えたのでちょっと書いておこうと思います。さっきから思います思いますと繰り返ししつこいですねえ。自分のことながらね。そう思いますね。ええー、ゴホン、で、数学の教科書の何がいけないかと言えばアナタ端的にかいつまんで言えばそれは「わけのわからないまま勉強させられる」ということに尽きますわよアタシ、ってことですね。ですよね。僕は書いてるうちに考えが変わったりして元の考えを忘れてしまったりして驚嘆するやら絶望するやらってな人間なので最初に忘れぬうちに解を示しておいた訳なのですが、えーと(早く本題入れよ)

 つまり。その使い道も分からぬまま規則だけバーン! どうだ! とでも言わんばかりに突きつけられサア勉強せよ! と宣言されてもこちとらエエー困りますゥ、ってな話よ。例えばベクトルね。ベクトルは「方向をもつ量」みたいなアレで定義されますが、そう教えられたところで「でも、だから何?」って思いますよね普通。実際は、量が方向をもつことで何が起こるのか? ということじゃなく、ある問題を解決する為に量に方向をもたせることが必要になり、ベクトルを発明した。これが正しい筈なのですが、どうやら教科書は前者のように考えさせる(あるいは何も考えさせない)仕組みになっているようです。それじゃー数学の意味もわかんないから、本当は教科書にベクトルの使い道を示すべきなのですが、が、が、ナントその使い道というのは数学の領域外にあるのです。「ナント」とか言っちゃってイイんですか、キミ、このくらいじゃ別に驚きゃしませんヨ、てなまあ言われますけど、そんな言葉尻なんて無視していただきたい(じゃあ書くなよ)。ナントだかカントだか知らねえけどそんなことは置いといて、数学の領域であるベクトルの使い道がその領域の外――例えば物理学――にある、これが一つの問題だと思います。つうのは数学と物理学がほとんど別々に扱われているからです。フレキシボーでない日本の教育は(知った風な顔)、数学の教科書で物理を扱うことを頑なに拒否するでしょう。ってか、してます。してる筈です。なんか教科書と教科書の間がヘンな壁によって隔たってます。学問は須くリンクし合っているべきなのに……!(知った風な!) すると以下のようなことが起こります。 A) 数学をやったが、物理学をやらない人。そんなに少なくないケースだと思うんですけど、これはベクトルその他の使い道がわからずいけません。漫然と学んでたら数学が机上の思考遊戯になってしまうこと必至です。まあそれはそれで楽しいんだけどさぁ、「思考遊戯なんてまわりくでぇ! そんなのまっぴらだぜぇ! まっぴらロック!」という多数いるであろう方々に救いようがない。やっぱり国民の大半が通る道である限りはある程度公平な価値が云々……。ちなみに B) 物理学をやって数学をやらない人。ンーこれは現行のカリキュラム上困難なのではないかと推測しますが、しかしこの履修の仕方を実行したところで直ぐに壁にぶつかるのは目に見えています。すなわち、物理学をやっていると自然と数学が必要になってくる。数学は物理をやるための道具だから。ね。まあなんか虹の起こり方を物理的に解釈するとかだけやってれば数学なんて要らないのかもですが、今は教科履修の話をしているので物理を選んだら不可避的に数学もやる破目になる筈です。望む望まざるに関わらずな。

(この辺で力尽きたので未完のまま成立とします)


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