2007年12月

2007.12.29 膝エイジング

 ギャーこんにちは、作者です。さほど気も乗らないまま今年の総括ー。今年の総括と銘じておきながらも、実態は「今年(の後期に iPod で聴いたカウント数が多かった曲)の総括(というよりは振り返り)」です明らかに○△□×(註:プレイステーションのボタンの事ではない)です。

01. Groove Walk / TRICERATOPS --- 16 times

 まあいきなり 16 回かよ、という見方もあるやもしれませんが、あのーなんで「今年最も聴いた曲!」って言うのをためらうかと言いますと、まず明快な一つとして、必ずしも iPod のみで音楽を聴いていたわけではない、が当たります。

02. Love Communication / THE YELLOW MONKEY --- 15 times

 それから僕限りの特殊な性質かも知んないですけども、「最も良い曲=最も聴く曲」ではない。あまりな名曲に行き当たると、おいそれと耳に流せるものではないな……と、ついつい敬遠する、ということがしばしばある。よって言うなれば今回報告されている曲たちはどちらかと言えば「生活の中によく馴染んだ曲」ではあります。

03. ロケットに乗って / TRICERATOPS --- 13 times

 更に「 iPod で聴く」ということが如何なるものか、ちょっと今日はあーこー論ずる心的余裕はありませんが、つまり CD で音楽を聴くことと iPod で音楽を聴くことの間には本質的な違いがあると思ってる。まったく僕の 2007 年後期の音楽体験の総括とするには余りにも余りにもまったく余りにも乱暴な一覧であることを強調しておきましょう。

04. いけすかない / GRAPEVINE --- 11 times
04. Gamble Rumble / move --- 11 times
04. GOING TO THE MOON / TRICERATOPS --- 11 times

 まあなんというかアレですね、自分でなくとも言えそうなことを言ってお茶を濁すなら、うーん、なんかねえ(笑)。

07. if / TRICERATOPS --- 10 times

 トライセラ強いですね。今回は十位付近までしか掲載していませんが、ミュージシャン別再生回数を統計しても彼らは頂点に立つはずです。えーっと

08. Pallaschtom / Ruins --- 9 times
08. Fever / TRICERATOPS --- 9 times
08. SHOCK HEARTS / THE YELLOW MONKEY --- 9 times
08. さっき死ぬとこだったよ / カステラ --- 9 times

 とまあそんなそれでした。作品に対する言葉が出て来ない人なので何してんだろな、って書き終えてから思う。


2007.12.21#2 GUITAR CLEANER KAZU

 前回の日記について、以下、ナンノコッチャワカランカッタかたがた、分かろうとしなかった人々、および理解できた+理解を深めたいという物数奇オーディエンスの皆様向けの補遺。
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(まず、原文を)
 文章は洋式には左から右、上から下に読まれます。言い換えれば、新しい情報は下へ下へと進むうちに現れてきます。ところが日記サイトでは、通例新しい日記は最上段に追加されます。つまり、日記サイトに於いては新しい情報は常に一番上にあるべきなのではないでしょうか。そうだとしましょう。とすれば文章の「下に新情報がある」スタイルと日記サイトのそれ「上に新情報がある」とは矛盾します。どちらかを是正しなければなりません(もちろん、対立する概念があってこそ世界が成立する、という云々)。僕は「上に新情報がある」という日記サイトの流儀に倣うことにしました。えー。ともかく、以上(以下か……)のような意図に基づき、今日は下から文章を書きました。読みづらさは例えば全てカタカナで書かれた文章などの比ではないかと思います。まあでも昔は右から左に読む式だったのだよなあ。ちなみにこの文章は一度ふつうに打ち込んでからソレを逆様に手動でトランスレートしております。んなもん、ソフトで一発じゃ! と仰る方も大勢ありそうではありますが、そのソフトを探すのが面倒なので、という理由に基づき却って更なる面倒を為しています。

 これで昨日の日記の意図が判明したかと思います。たぶん……。ええと、上に新情報があるのが日記サイトの定めならば、そして同時に文章において末尾へ行くほど新情報であるとすれば、文章は上へ上へと向かって綴られなければならないのではないか、というハナシです。僕はもうこれ以上分かり易く説明することができません勘弁。一人でなにしてんのか。で、その試み第一号が以下:

(試作一号)
。いなれしもかのいし正がのるすし流逆てし解分に語単はれこがたっ思ててしトーレスンラト今。すまいてし為を倒面るな更てっ却きづ基に由理ういと、でのな倒面がのす探をトフソのそ、がすまりあはでうそりあ勢大も方る仰と !ゃじ発一でトフソ、んもなん。すまりおてしトーレスンラトで動手に様逆をレソらかでん込ち打にうつふ度一は章文のこにみなち。あなよだのたっだ式む読に左らか右は昔もであま。すまい思とかいなはで比のどな章文たれか書でナカタカて全ばえ例はさらづみ読。たしまき書を章文らか下は日今、きづ基に図意なうよの(……か下以)上以、くかもと。ーえ。たしましにとこう倣に儀流のトイサ記日ういと「るあが報情新に上」は僕(々云ういと、るす立成が界世そこてっあが念概るす立対、んろちも)んせまりなばれけなし正是をからちど。すまし盾矛はと「るあが報情新に上」れそのトイサ記日とルイタス「るあが報情新に下」*1の章文ばれすと。うょしましとだうそ。かうょしでいなはでのなきべるあに上番一に常は報情いし新はてい於にトイサ記日、りまつ。すまれさ加追に段上最は記日いし新例通、はでトイサ記日がろこと。すまきてれ現にちうむ進とへ下へ下は報情いし新、ばれえ換い言。すまれま読に下らか上、右らか左はに式洋は章文

 異常な読みづらさであります。確かにこれで当初の目的は達成されたと言ってもよいと思うのですが、とかく読みづらい。それはそれでいいのだが、まあ読みづらい。これじゃあ日記サイト的文章の新しいスタンダードになり得る筈もなく(何を企んでいる)、もう少しとにかく読んでて視点を失わないような方法はないものか、と考える前に思いついたのがアレ(前回の)なんであります。すなわち英文みたいに単語単語で切って、さかさまに並べるという手法。これなら意味の繋がりが捉えやすいのでわないか!と!いう訳です。古典でやった品詞分解が役に立った瞬間です。ああ、いや、品詞分解はかなり役立つスキルだと思ってますけどね、日常的にもね。まあ単語の切り方は不適切なところがあるかと思いますがこの際それは重要でないので見逃すこと。けっこうザックリ切っておりますね「例え+ば」は「例えば」でまとめてたりして。あまりみじん切りにすると単なる自己満足だし試作のやつと大して変わんないので。

 *1:括弧、鍵括弧の扱いについて。まず括弧(「()」)(←一番外側が「括弧」の補足しますという宣言、その中の鍵括弧が「こん中が内容だぜ!」という強調、でその内側が内容、と理解してください。つまりは括弧とはこの→()ことです、と言いたい。長々すみません。非道い。)を「右から左」式で書く場合、始点が「)」、終点が「(」というふうにしました。僕は括弧はその内を“包む”ような記号であると考えていますし、その文章の要求する読み方を考慮すればこれで正しいはずです。次に鍵括弧ですが、これは曲者でした。左から右に読んでいく場合、始点が「「」、終点が「」」(分かりづらい表記ですいません)となりますが、右から左式ではどうすればよいでしょう。先程の括弧のことを踏まえると、まず鍵括弧の形がその内容を囲むようになっていなければなりません。僕ははじめ、始点が「」」、終点が「「」、つまり:
 るいてっ飼を犬ういと「ウロタ」は私
 というように設定することを考えました。ところがなにやら鍵括弧の部分だけ左から右へと読みたくなるではありませんか(少なくとも僕は)。「ウロタ」……! ならば右から左へと読みたくなるよう小細工をすればいいのではないか。すなわち「 」という視覚的像を y 軸を対称にして反転させればよい:
 るいてっ飼を犬ういとLウロタ7は私
 うーん! 多少違和感がありますが僕は満足です。さて。あのー……ところがここまで書いてて気付きました。そもそも鍵括弧の始点終点というものは、その文章の読み方に倣っているのではないか、と。つまり、通例の方式、左から右、上から下、と読むから鍵括弧も左上から右下へといくのが自然なのだ、と。だとすれば一大事です(いや別に……)。問題の文章では右から左、下から上へと読む方式でしたから鍵括弧は右下から左上、つまり:
 るいてっ飼を犬ういと「ウロタ」は私
 結局これで正しかったのです。いい加減にしろ。


。ます い て 為し を 面倒 更なる 却って 基づき に 理由 いう と 、ので な面倒 が の 探す を ソフト その 、が ます あり は で そう あり 大勢 も 方 仰る と ! じゃ 一発 で ソフト 、もん んな 。ます おり て し トランスレート で 手動 に 逆様 を ソレ から で 打ち込ん ふつうに 一度 は 文章 この ちなみに 。なあ だよ の た だっ 式 読む に 左 から 右 は 昔 でも まあ 。ます 思い と か ない では 比 の など 文章 た れ 書か で カタカナ 全て 例えば は 読みづらさ 。ました 書き から 下 は 今日 、基づき に 意図 ような の (…… か 以下) 以上 、ともかく 。えー 。た まし し に こと 倣う に 流儀 の 日記サイト いう と 「ある が 情報 新 に 上」 は 僕 。(云々 いう と 、成立する が 世界 こそ て あっ が 概念 対立する 、もちろん) ん ませ なり ば なけれ 是正し を どちらか 。ます 矛盾し は と 「ある が 情報 新 に 上」 それ の 日記サイト と スタイル 「ある が 情報 新 に 下」 の 文章 ば すれ と 。ましょう し と だ そう 。か でしょう ない は で なの べき ある に 上 一番 常に は 情報 新しい は 於いて に 日記サイト 、つまり 。ます れ 追加さ に 段 最上 は 日記 新しい 通例 、では 日記サイト ところが 。ます き て 現れ に うち 進む と へ 下 へ 下 は 情報 新しい 、ば 言い換えれ 。ます れ 読ま に 下 から 上 、右 から 左 は に 洋式 は 文章

弦楽普遍 2007.12.21


2007.12.19 テグスネファンタジイ

 とか言って(称して; entitle して)日記つれつら書きたいなァと思うんだすけど、流石にさすがに時間というか時の間、が、ありませんで、いや、あ、充分ありま、えとーまあ、他のアレに比重を重いてるんでここでゲームセット今日はです。まともな(ていうか、云々)更新を期待した読者サマには申し訳ないない。嫌だ、全く誠意の汲み取りようのない謝りだ。うへえ。じゃーまた暫く。


2007.12.11 いたのさ 2007

 メモでやりたい話ですが編集都合上こっちに。なんかミョーに長くなったな。これ。

過去ログ読むのが好きな読者さんは、まだいますか?(クマのプーさん Mugcup Collection)

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 迂闊だった。危なかったー。度々啓発……っていうと大げさなので、なんつうか、うつらうつらしてるとこを肩を叩いて気付かせてもらっている「クマのプーさん Mugcup Collection」の記事にリンク。余談ですが僕のような読者にとってブログの便利さは記事に直接リンクを張れることにあります。それを鑑みるときのみ「俺もブログにしようかな……」との思いが頭をかすめはしますが、次の瞬間には「でもリンク張られるような記事書かないじゃん」という追っ手が……ついつい横道に逸れて逸れてソレソレやってるうちに滑り台のてっぺんまで上り詰めて泣き出す僕の日記なのでここまでで余談控えて閑話休題しますと。

 Caution。本「ウイグル診断書」は外部へ訴えかけないタイプの日記でありますから、なんつか気の利いた言及とかできませんので小学生的感想を提出するにとどまりますことをご容赦。えーいいかげん本題に入ります。

 確かにアンテナ使い出してから、過去ログを漁る、ということが少なくなったなぁーと思う。僕がアンテナを使っている一つには「あんまりインターネットに時間掛けてらんないから、アンテナで最小限の情報(なんだと)だけ容れておきたい」というのがありますが、そいつは欺瞞です。欺瞞。自分に対する言い訳であって、なんとなれば俺は今こうしてインターネットに時間掛けて関わってしまっている。あうう。いや。僕がアンテナを使っている理由はどうあれ、日記サイトの更新をチェックするにあたり、“アンテナを使用する場合”と“手動で巡回する場合”との違いっつうのは確実にありますし、それは過去に何度かここでも述べました。どこで書いたか探すの面倒なのでリンク張りませんけど、もうなんかもうアンテナの巡回っつうのはひとえに「味気ない」っていう感想があった、あの頃。今はさほど違和感ないんですよね。それは「慣れ」?。……まあいいや。上にリンクした記事の論点はたぶんそこじゃなかった筈で、そう、だから、僕が言いたいのは、いや今日その記事を読んで気付いたことが、アンテナと手動との具体的な違い(僕にとっての大きな進歩!)、すなわち「手動で更新チェックすることによって過去ログを読む機会が増える」ことなのです。なのですっ! 無表情で空元気を空回してみましたが、つまりはこうです、手動で更新チェック、具体的には僕は自分のサイトの link.html をオフラインで開いて日々巡回を繰り返していました。とりあえずクリックしてみるまでは更新の中身はおろか、更新されてるかされてないか、それすら分かりません、だから当然一度の巡回ですべてのお気に入りサイトを回ることになるわけですが、ここでアレが生じます。アレっていうのは何だかよく分からないので説明放棄しますが、つまりリンクをクリックすると昨日と何も変わらぬ風景が現れることがある。すなわち更新されてマセン、っていうのが日常茶飯事烏龍茶なのでありますが、さてその場合かつての僕は「せっかく訪れたんだ、ちょっと過去ログでも見ていくか」となっていたのです。ホラお気に入りサイトを巡回してるって事は、その人の文章が読みたいってことであって。そいで期待した更新がなかったとき僕に残された道は、「まだ読んでない過去ログ」もしくは「あのとき面白かった日記」を読みに行くことであって。――結論を先延ばしにするのは書いてて疲れるからやめたいんですけどねえ。ええと、繰り返すと「手動巡回中、更新されてないサイトを訪れたとき、せっかくだから過去ログを見る」と。更新が少ないサイトの場合これは顕著で、塵の山にも三年とかなんとやらで、ことによると過去ログ読破なんてことにもなりかねません。ところがアンテナだと「更新されてないサイトを踏む」なんてことは十に一つあるかないか、いや、ない。(反語!?)ってなもんで、だから僕の設定した原理に基づき「それだと過去ログ見ないじゃんよ?」っていう風に納得した。つまり言いたかったことは言ったのですがどこで話を切ったものか分かりません。けっこう新・発・見! と思って書いてきましたが、「なもん当たり前だろ!バーカ!」という僕の中の客観から声が聞こえてきました。奴に苛まれて全文削除するまえに終えておきます。ばー。あーそうそう、これだけアンテナの(ある種の日記サイト人間にとっての)不利点が見えまくっているのに捨てられていない理由は、アンテナが便利である以外に(つっかソレは実は大したことじゃないように思うんだ)、リンクを作成するのが難しいことにあります。個人的にはかなりの関門なんだよなあ。生活に余裕が出来たら取り組んで作りたいなあ。リンク。

 あ、追伸、上の記事には「『今年の自分10大エントリ』をやろう!」という誘いもあるわけですが、自分は近頃自選ログつうのを(似て非なるものって感じ?)作ってしもうた故にちょっと控えさせてもらいます。あん中から更に10つ選ぶのはどうよ? とも考えるが……やってもいい、ってんならしますよ? 一度コメントつけたモノに再び(しかもあまり間をおかずに!)コメントつける、っての、大好きですし。うーん。 / 参照サイトを受けて、を意識しつつ書いたので文章にまで影響が多少出ている、のは僕だけが分かることなのか。


2007.12.08 形而上学的惣菜

 僕の携帯電話に機能付けられているカメラの性能の弱さ(暗いところでは何も撮れない、ズームすると解像度が怪しくなる、など)を嘆くとともに、人間の目ってなんて高機能なんだろうと思う。無段階全自動調節。そもそも脳に密接にコネクションしている点で外部拡張的機能であるカメラなんかに負ける筈がない。高機能、且つ無駄がない構造。人間がカメラ作るとどうしても別個に機能など付加付加しがちですが人間の目は少ない道具を驚くべき効率で働かせている。こういう、人間には模倣しがたい完全さを目の当たりにするにつけ形而上学的(意味合ってる?)な問題を考えずにはいられない――生物はどのように形成されたか、進化はどうしてこうもうまく起こるか、神的な存在はあるのか、つか、なんで世界ってあるの?――のですが、いつもこの問題は「形而上学的存在は形而上学的であるゆえに人間には知られないのだ」、人間がどうしても知ることのできないことだってあっていいじゃん? 理性があればなんでも知れるなんて自惚れるなよ、いう結論に達してる。あ。いや。嘘。僕の実感としては結局この世界の外(あるいは内? それとも……)にはなんもないんじゃないかと。じゃあどうして世界があるかっつうと、「あるからある」、いや、ただ「ある」、っていうか。つまり理由なんてない。そういうのが僕の実感に近い。ビッグバンなんて馬鹿なこた認めません。突拍子なさすぎませんか。科学は SF よりも奇なんだってばさ。あなた、この世界は“ひも”で出来ている、とか信じられますか? まあなんというか、ある一点を「始まり」と定める、というのは受け入れられない。どうしても「ビッグバンの前には何があったん? 何をもってビッグバンが起こったん?」と訝ってしまう。神についても同じことが言えます。こういう「なさそう」なものを「ある」と仮定してしまうやりかたよりは、むしろ永劫回帰輪廻転生みたいなハジマリモオワリモナイぐるぐる世界観のほうが僕の感覚に合ってますね。わあなんかスゲエまとまりのあるテキストが書けたような気がする。気が。


2007.12.04 耳、板、魚。大盤振舞。

 本日の更新
・メモと柱日記のログを作成
・アバウトを更新
・前サーバを片付け

 ……である。そろそろ「受験生なんだから……」とか言わないですあ。そろそろもう。あまり僕にはかまけTIMEが残されていませんから、そいつを部屋に取り残す。お前は寿司やイタリアンを食べにゆけばよいし、気取った店が苦手ならば回転寿司やファミレスにでも行くがいい。腹が減っていないなら本屋にでも行って時間を潰す。その間、家ではひとりでに、誰がいてもいなくとも、たとい火事が起こって隣人が気づき、消防隊を呼んで消火するもむなしく家屋が一片の残骸もなく燃え尽きてしまったとしても、もと置いてあった場所で繰り返す自己呵責、「貴様は怠惰だ」「貴様は怠惰だ」。そういうのを僕はようやく見捨てる気分になっているので、全焼した家には帰らない。ええとつまり無理に日記と題された駄文群(ダブングン)を流し垂れる必要も断じてナシと感じるようになってきている番ですってそれだけです。ゆえにあんまり長々とは書こうとはしませんとは言いませんとは言いませんとは言いつつも何してるんでしょうかネ? は、ははははははははははははは、は、その流れで言いたいのは××という論題であったのですがそいつは既に俺の脳内で解決している!ファー!サラバ!

 そういえば「さらば」とは「然らば」っていうアレなんですかね。「それでは」とおんなじでしょかね。


2007.12.02 シャンパン孔子

 電車乗ってたり何でもいいですが外歩いたりベンチに座ってコンビニで買ったパンをくわえていたりするとしばしば見かけるのが、子を叱る親、です。いやね、親が子を叱る、それ自体は問題ない、むしろ教育上どうしても必要なんだと思うよ。ただなんかその叱り方が、そのー僕は経験ないので想像でモノ言っていますけど、なんだか見てて、そいつは親と子の関係というよりは、上司が部下を叱るそれなんではないか? そういう疑念が浮かんでくる親を見たんですヨー。……なんか分かんねえけど、盗み聞きから得た情報から察するに、どうやら

case:1)
father「おーし! 今日は日曜日だし、東京ディズニーランド、略してT.D.L.でも行くかぁ!」
son「ワァオ、父ちゃん、ファンタスティック!ファンタ棒(stick)!ファンタ棒当たったらもう一本!ファンタ棒おまけ一本日本チャチャチャ!ちょうだいオバチャン!ヒャホー!」
father「はしゃぎ過ぎやっちうねん!(笑) じゃあ、ちぃとOYATSUでも買って来っからそれまでに準備しとけヨー!ウー!ハー!」
son「ウー!ハー!(『了解』の意)」
―― ten minutes later
father「ただいもー!パパ調子乗ってイチマンエン分買っちゃったよ、おやつ」
son「ブフォッ!! あ、あん、あんたって奴は……。」
father「ウソでーす!どんだけー!それはそうと準備したかーい!」
son「え」
father「……」
――凍りつくリヴィング・ルーム。

 でですね、その子供は準備をしていなかったという話なのですな。「部屋散らかったまんまだったよね?靴下も履いてなかったよね?云々」という責めの言葉が続く。子供はなんか決まりわるそうにうつむき加減。僕はそれを聴く。横目で見る。父曰く。「俺が××(失念した)してる間、準備できたよね?どうしてしなかったの?しなかった理由ないでしょ?」などなどなにやら論理的に子供を責める。とにかく俺には責めてるようにしか思えない。僕の中には上司と部下の関係のイメージしかない。あのね、子供にくどくど文句並べたって仕方ないと思うんだよねえ。コレあのー、たぶんですけど、効果ないんじゃないかな。後味悪いだけで。いや聴いてる僕の気分がよくないのが大きいわけですけど。もう兎に角「チャントシナキャダメー!」って教え込むほうが合理的なんじゃないか、っていう気がですね……まあ僕は教育者でもなければ親でもなければ人間でもありませんからたんとお食べなカンジなんですが。最後ふざけましたけど。人の行動を変えるということはかくも困難なことだな、と。自分の行動を変えるのだって難しいじゃない? そうでもない?


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