Log__2007.04

2007.04.28_怠惰と溶接

ラーメンの汁は全部飲むよな?

あ、どうも。一週間ぶりになります幾何です。上の文句、いきなり提出されて戸惑ったかもしれませんが、これ、今日の主題です。もう前々から疑問に感じていることなんですが、どうなんでしょうこれ皆さん。ラーメンの汁って飲みますか。無論僕は飲むわけですけど、周囲には飲まない人もけっこういるんですよねー。なんなんでしょうねーあいつら(読者が作者側にいることを前提)。彼らの言い分はこうです。「汁を飲むと塩分過多になる」と。塩分過多……健康第一、と言い換えてもいいですね。だから残した汁がその後どうなるかは気にしない。俺の健康のほうが大事だ。汁がどうなるかなんて知るか!(駄洒落!?)ということじゃありませんか。それって無関心なんじゃないですか。環境に。なあ。え。いや…かく言う僕も捨てたあとの汁がどうなっていくのかよく分からないんですけど。なんか処理場でキレイになって出てくるんでしょ。つか例えば「この量の油をきれいにするのに風呂何杯分の水が必要」とか、どういうことですか。薄めるんですか。油を。浄化したあとの水は巡り巡って戻ってくるから問題ないんじゃないんですか。無駄に出した水とかも戻ってくるのではないんですか。ようわかりません。今、かなり無知を晒したらしい。…………。あ。うん。でもラーメンの汁は飲むべきっすよ、うん……。自信ねえー。……ええと。もう負けそう。はあ。ですけどもう少しがんばる。

あのー。汁、飲まないということは、「残す」ということですよね。ご飯を残す。すっと目が潰れたりなんかするわけでしょ。違ったっけ。でも彼らの目が潰れていないのは、「残した」という意識がないからなのでしょう。つまり彼らは、汁は飲むものではない、と、ハナから決めてかかってるわけです。あんなのラーメンの一部じゃねえ、と。でも事実は違う。ラーメンを作る人は汁だって大事な要素だと考えているはずだ。汁はラーメンの“核”だ(うわ物スゴく偉そうなこと言ってるよこいつ…)。でなければ汁、いやスープ作り(創り?)にあたり鳥を延々煮込んだりマグロを投入してみたりせっせと灰汁を取り除いたりなど、あんなに情熱を注ぐ意味が解せない。そうしてcookの汗(と、たまに涙と血)の結晶である汁、いやスープをいとも簡単に、そう、いとも簡単に!“捨てる”という選択をしてしまう人々。お金を払ったからどうしたって自分の勝手じゃないか、だって?あなたは確かにお金を払ったが、本当にラーメンの汁を捨てる権利を得たと言えるだろうか。そんなことを言う自分に、たかが銀貨数枚で我が子のようにかわいいスープを葬られてしまう職人に、空しさを感じないだろうか。踏みにじられる…そんな言葉が自然と浮かんでくる。悲しそうに残った汁を捨てる職人の表情を、君は見たことがあるだろうか(僕はない)。なんだ感情論か。説得力ねぇー。……いや、あのー。でもラーメンの汁を飲まないのは、良くないと、思います……。うう苦しい。今日も飲んだ(汁を)。汁飲まない奴はラーメン頼むなって話だ。そのくらい思うんだけどほんとに説得力ないなあもう。本当は彼らのほうが正しいのかもなあ。


2007.04.21_欲張りユーラシア

あ、あ、あーサスペンス。右へ左へジャンピング。というのはわざわざ書き留めるまでもないことで。ん、と。何が、と言いますと、アー、マイクテスト、ということを書きたくなかったから、あんな、様、を見せる次第の蟻の巣、的な、ワルツを踊り、ながら、えー――っと。まあ、そういうことっす。帰って来ました!突然帰って来ました宣言!ナニ?何処から帰ってきたかって?ね。……なんかその話はどうでもいいです。別に聞きたくないだろうから。はー。最近、ここんとこ、不調。ザッ!あ!正義の味方が現れて僕をさらって行ったよ?酒を呑んでは戦はできぬ。ヤスリをせしめて三千年。渡り鳥の運送会社は今年は好景気。株を買ったらサイバークロック当たります、旧石器。そんな、えー、時代。わけですが。わけで。わけ。ピーナッツ。流石の、つかもうういいっですか。実にくだらん。“くだらん”から面白いんじゃないか!とか言わないでほしい。これ以上ボクヲ甘やかさないで!皿が、割れそう!ほんとほんとに問題ないです。不調なのも嘘です。朝からジョギングだし。全部嘘ったら嘘だし嘘と言わなければ嘘にならないことを証明すれば私の言ったことは全て嘘ということになるわけではないと思う。鳥。鳥。鳥。烏。来た!烏を捕まえろ!白く塗れ、とか、冗談でも口にしたら今すぐあなたの家に飛び入り参加しますから。なに、家が。屋根が。ない、と?おっしゃる。そうですか、そうでしょうか。本当に。なに。本当。そうでしたか。申し訳ない。や、申し訳ない。とりあえず。いそいそと立ち上がって服を着て。朝食はパンかなー?ご飯かなー?そこで朝食でパンを食べるかご飯を食べるかで世界の動きがまったく違ったものになるなんてこともありうるんではないか。大きなものを動かすには、直接的には大きな力が要るが、間接的には微少な力で足りるのではないか。サンマと魚の関係を。推測。アスファルトこう、アスファルト、ラーメン。もういいか。


2007.04.17_ピーナツだらけの荒野

なんかここがアンテナに登録されててビックリであります。つか眠いー。うっすら眠い。この体力のなさよ。学校のプリントは読めないがテキストサイトはバリバリ読めてしまうワタクシの脳の構造よ。これはモニターが光を発していることにヒントがある、と思いたい。あと前も書いた(が消した)通り受験が、今年度は受験がありますので、そういう風潮だからあんまし時間がとれない、というね、あんー、本来はこういうのはアッチで書くわけですが、なんか眠いのでコッチでやっとるわけです。うう。眠い。ほんと体力ねえなあ。頭も働かない。うげーうげー。このまま行ってみようか。こう、このよく分からんテンションのまま、発車往来。出発侵攻。ふー。かつてない頻度で間投詞を投入し挿入して闖入してきたピーナッツに電子をぶつけて破壊したその欠片を顕微鏡で見るとこれはどんな事典にも載ってない生物がうごめいているではないか。F博士はそれを“吸引可能な勾配”と名付けた。ってそんなことばかり書いていいのかなあとは思うけど。なんだかわからん。また後で後悔すんだろうなあ。一日三時間勉強しろ、って先生言ってたなあ。今日はなんでしょうねえ。えっ、へっ、へ。あーん。まあそういうこと、え、なにが。いつのまにかアッチで書くべきものをコッチで書いているうちにやっぱりアッチ向けにしようということになっています、が、その抽象さもたいがいにしろよ、っつうか、このフォーマット?だとちまちま保存して書けないからスリルスリルだなあと、あと何言ってるか分かんなくてすいませんね。ええ。そろそろ退散しますかね。今日は早く寝よう。とりあえずわりに自由であってよかった。じゃまた。あとアンテナ使用者が増えたから(と思いたい)か、訪問者がぐっと減った気がしますねー。

※blog用に書いてたのをそのままコピーしてきたので辻褄が合わない箇所があります


2007.04.11_ドローイング改名権

どうもどうも。ああ、どうも。読者の皆様、「なんかさいきん更新すくないなー」といった漠然とした感想をもたれていることでしょう。え。そうでもない。まあでも、更新減ったでしょ?減った?ね。ねえ。……つーわけでですね、ブログにウツツをヌカしてた昨日までの僕ではありましたけども、《日記が、日記が…書きたい無性に…!!》との念に基づき、改めて妄誕を連ねてみようと試みる次第なのであります。んと、口調、ヘンですか?、というかね、今さ、テンションが上がってないだけですんで。問題ない。ALTHOUGH。はいはいはい。さあ本題だ。改行もせずに話題を転換する。段落なんて既成のルールにとらわれたことはしない。そんな冗談はさておき、歴史の教科書の未来について思うことを言ってみよー、というわけです。歴史の教科書、といえば、なんか説明が足りん、内容が薄いよう、主にそんな理由で評価されていないブックでありますが、さてこれは歴史の教科書を責めるべきではなく、“歴史の長さ”が悪さをしている、と考えるべきだと思う。考えてもみろ、イエス誕生から2000年ちょっと、文明が起こってから…えと、ん、まあ5000年は経ってますよね。そんな途方もない、人類が歩んできた果てしない道を200ページとかそこらにまとめるんだから、そりゃ、薄くなって当然だ。しかも近頃の教科書は字がデカいですからね。小学生でもテレビゲームのやりすぎで老眼ですか、という感じですけども、ともかく字がでかい。つまりページ毎の情報量が少ない。で、ますます歴史の長さに見合ったページ数を確保できない。教科書厚くしようったって、辞書みたいな教科書なんか配った日にゃ、たいがいの生徒の心は折れるだけです。LET'S GO ON STRIKE!!です。こういうことで、教科書の内容が薄くなるのは仕方ないのかな、という気がします。それでですね、それに関連して心配事があります。つまりさ、「この先、また何千年も経ったあとの歴史の教科書はどーなっとるのか?」と。いや教科書どころか授業だって心配だ。えーとこの鍵カッコの中身、何が言いたいのかというと、年月がどんどん経つにつれて歴史だって――かつてほどの勢いはないかもしんないけど――積み重なっていくではないですか。すると教科書に書くべきことも増えるではないですか。したら何千年も後の時代の教科書は、どれだけ厚いのか?それとも教科書が電子端末化してコンパクトになったとしても、情報量がかなり多くなるだろうことは変わりないから、先の先の未来の人達は私たちの何倍も歴史を勉強しなければいけないじゃないか!後で学ぶ人の気持ちにもなってみろ!そうだ、これ以上歴史で勉強する内容が増えないために、今すぐ歴史をストップさせよう!ということになりかねない事態ではないですか。どうですか。そうでなけりゃ人間の頭に直接、勉強の内容を流し込むナニカだとか、個々の事例をひとつひとつ見ていかずして歴史の考え方を学べるシステムだとかが構築される必要が出てきませんか!どうですか!オイうらやましいなあそれ。というより結局「未来がなんとかしてくれるさ!」の思考に陥ってるのが残念ですねえ。


2007.04.03_安らかに正座

ある朝。TV をぼんやり眺めていて「あ、この人はそれほど顔がよくないのになんで役者やってるんだろう」なんてことを、つい、ふと、ぼんやりした頭で、ぼんやりした頭で!(強調)、思ってしまったのですよ。ぼんやりした頭でね!(再度強調)、と、頭がぼんやりしているということは酒に酔っていると同じくネジがゆるんでいる状態…つまり自律がシッカリしていず、普段抑えていることがポロとこぼれてしまいがちな様子だから、「ぼんやりしている」状態で考えたことは己のリアル内面により近いわけで、だから冤罪のためにボンヤリBOYを強調するのは逆効果なのである……や。そんなことはいい。まずは思ってしまったことはしょうがない。ここで落した信頼をどう回復すればいい!?。あ、念のため言っときますけど、冒頭のようなことをフト思った直後に「こういう言い方は悪いけど…」という註釈はバッチリ付しときましたよ。一応。はいはい。……で、だ。とにかく、僕は例のようなサイテーな事柄をつい、思ってしまったわけだ。それは反省する。ただ、簡単に正当化だってできるのだ。即ち、「人を顔で判断するのはサイテーである」これは広く一般に知れ渡っている“常識”だ。しかし、こういう言葉もある。「結局人は見かけで判断されてしまう」と。そういえばそんなふうな本がちょっと前に出てましたねぇ。やはりイケナイと分かっていても、多くの人は“顔”を重視してしまうらしい。そうでなければ TV ドラマの主役だって、CM の出演者だって、あんなに(一般的に)かっこよかったりかわいかったり、そういう人ばかり選ばれはしないのだ。顔のかっこいい人の CD ばかり売れないのだ。あん僕さっきからアタリマエのこと言ってますか、それとも見当違いのこと言ってますか、さっきから反応がよろしくないけども。……もう。いいです。続けます。ええと。まあつまり「人は見かけで判断しちゃいけないけど、でも分かっちゃいながら顔が重視されてる側面もあるじゃん?」という話でした。でもやっぱ冒頭のようなことを思ったのは申し訳ないし、自分にも嫌気が差した。やっぱ見かけに左右されずに中身で判断したいなって感じるわけです。ようやく本題に入った。そこで僕が言いたいこと!ってのは、表面的価値判断ってつくづく邪魔だな、ってことです。え、僕いま、ん…で、表面的価値判断は邪魔だ。人の“表面”、つまり外見を通して内面を覗こうとする場合、表面にいろいろな価値判断材料が塗られています。この場合、顔の造りがそれです。その価値判断材料がプリズムの役目を果たし、その人の内側からの光を屈折させたり、全反射させたりして受け手の眼に映る像を歪ませるのです。…えーつまり外見について価値の概念が存在している限りは、内面を観る際にそれが邪魔をする、これは面倒なこった、それだけの話なんですけどね。そんでもって仮に僕の願いが叶って、外見に価値が存在しない世界になったとしても、外面を武器とする人々、例えばモデルなんかはどうなるんだ責任とってくれんのかという話になるので、これもなんとも。結局、僕の言っていることは「もっと内面を知りやすければ便利な世の中になるのに!」という鑑賞者のエゴでしかないのかもしれません。


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